沖縄戦のなかのハンセン病患者たち

「Let's」No.31、2001年6月

林 博史


日本の戦争責任資料センターのボランティア編集部が出している雑誌に書いたものです。 2001.7.19upload


はじめに

  長年、沖縄に通っていながら、沖縄がハンセン病の多い土地だったということに気がついたのはほんの数年前のことだった。日本軍の資料のなかに「癩(らい)」患者を強制退去させたというものがあったがそれ以上は深く考えていなかった。沖縄とハンセン病とを結びつけて考えはじめたのは、大城貞俊さんの小説『椎の川』(朝日新聞社、一九九三年、のち一九九六年に朝日学芸文庫)を読んでからだった。沖縄のさまざまな小説を読んでいく中で出会ったこの本は、小説としても感動的であるだけでなく、ハンセン病についても考えさせられた出会いだった。

沖縄戦について調べていく中で、障害者やハンセン病患者などさまざまなハンディを負った人々がどのようになったのか、そうしたことがきちんと書かれるべきだと思い、それに関わる資料や文献にも注意を払うようになった。沖縄戦については多くの本が書かれているが、ハンセン病患者の体験をきちんと書いているものはほとんどない。そこでこれまで集めた資料から少し紹介してみたい。

 1 沖縄のハンセン病

日本のハンセン病に対する政策は一九〇七年に制定された法律「癩予防に関する件」以来、患者を隔離するというものだった。それが一九三一年に全面的に改正されて「癩予防法」となり、全患者の隔離が打ち出された。ハンセン病は治療法のない恐ろしい伝染病であるから患者を隔離するという考え方で、療養所では患者に対する断種までおこなわれた。

ハンセン病は慢性の伝染病であるが伝染力はきわめて弱く、通常の接触では感染せず、感染してもほとんど発病しない病気であり、患者の完全隔離は必要ないし、患者の人権の観点からも問題があることは当時のヨーロッパではすでに認識されていたが、日本はそれに逆行して完全隔離政策を採用した。

ハンセン病患者についての最初の全国調査がおこなわれたのは一九〇〇年であるが、この時の調査では患者数は三万三五九人(沖縄は五四七人)と報告されている。その後、患者数は減りつづけるが、沖縄は逆に増加し、一九四〇年には全国で一万五七六三人と半減したのに沖縄では一四五三人になっている。この時点で有病率(人口比)は沖縄は本土の一八・五倍という高い比率を示していた(犀川二〇二、二六五頁)。ハンセン病は生活水準の向上によって急速に減少していくものであり(伝染しても発病しない)、沖縄の生活水準の劣悪さが本土との格差を生み出していたと言ってよいかもしれない。

一九三六年から内務省は「患者一万人収容計画」の実施を取り組みはじめ、各地の療養所を国立に移管して定員も大幅に拡大し、隔離政策を進めた。各県でも「無らい運動」、すなわち全患者を療養所に隔離する取り組みが実施された。この結果、一九四一年には入所患者数が初めて一万人を超えた(在宅患者数は四二年時点で四五八三人)。

沖縄では取り組みが遅れ、一九三一年宮古島に県立宮古保養院(のち宮古南静園に)が、三八年本部半島のすぐ側の屋我地島に臨時国立国頭愛楽園(五二年に沖縄愛楽園に)が設けられた。四一年七月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。四三年一月末時点で県下のらい病患者は二つの療養所に収容されている者が七一八名、未収容者六二四名、計一三四二名となっている(『沖縄県史料 近代1』四一六〜四二〇頁)。

 

2 ハンセン病患者の強制収容と沖縄戦

  こうした中で沖縄戦を迎えることになった。第三二軍が一九四四年三月に創設されてまもなくの六月一一日、渡辺正夫軍司令官が愛楽園を訪問し講話をおこなった。その四日後には広池文吉軍医らが訪問している。それに前後して五月には読谷から、七月には伊江島から患者が送られてきた。読谷と伊江島では飛行場建設が始まっており、飛行場建設にあたって村内にいた患者を退去させたと見られる。ハンセン病患者の問題を日本軍は当初から注目していたことは間違いない。

その後、四四年八月初めに牛島満軍司令官が着任してから事態が動いた。日戸軍医がハンセン病対策の担当となり本島内を調査し、九月に大規模な強制収容をおこなった。各地から乱暴なやり方で連行し収容したようで、野良仕事をしているときに有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されなかった者も少なくなかったという。九月末には愛楽園の収容者は定員四五〇人の倍を超える九一三人に膨れ上がった。当時の早田皓・愛楽園園長も軍に在宅患者の収容を求めていたようであり、従来からの内務省厚生省の完全隔離政策を、多数の日本軍が進駐してきたのを機会に一気に実現しようとしたとも見られる。また軍の立場から言えば兵士が感染して戦力が低下することを防ぐために隔離しようとしたのだろう(『命ひたすら』にくわしい)。宮古南静園でも同様に強制収容がおこなわれ、定員三〇〇人(四一年時点での実員は二三一人)のところに四百人余りが収容された(みやこ・あんなの会、一九〇頁)。

日本軍の記録では一九四五年二月一〇日に南部の玉城村にいた独立混成第一五連隊が「地区内癩患者退去命令を発」して村内の四人を退去させている(沖縄150)。この四人の名前まで記されているが、三〇歳、三一歳、四四歳、五三歳の男である。彼らは愛楽園に収容されたのだろうか、わからない。この四人は前年の強制収容の際には免れていた者たちだろう。

沖縄においては、住民を根こそぎ動員する戦時体制の強化が、同時にハンセン病患者の隔離政策の徹底化を意味することとなった。

二つの療養所に収容された患者たちは自活を余儀なくされた。愛楽園の早田皓園長が四五年三月に遠縁にあたる第六二師団長本郷義夫中将を訪問した際に、入園者に手榴弾を支給してもよいと師団長から申し出を受けたが、「非戦闘員である患者は当然無抵抗で対処すべきだと固辞」したという。しかし四月に米軍の砲爆撃によって六五棟のうち六二棟を失いほとんど灰燼に帰した。四月二一日米軍が上陸してきたが、ここがらい療養所であることを説明すると米軍は誤爆を陳謝した。その後、米軍が食糧や建設資材を提供して沖縄戦終結前には復興し始めたという(『命ひたすら』一一八〜一一九頁)。

防空壕などに避難していたために米軍の砲爆撃による死者は幸い一人だけですんだが、一九四五年一年間の入園者の死者が二五二人、入園者の二七%に達している。それまでの年では死亡率は数パーセント(四二年二・三%、四三年三・三%、四四年六・二%)にすぎなかったが、長い壕生活や栄養失調、マラリアやアメーバ赤痢などによって多くの犠牲者を出した(犀川九七〜九八頁)。

宮古南静園でも、米軍の上陸は無かったが空襲によって施設は壊滅的に破壊され、職員は職場を放棄して避難したために患者たちは海岸付近の壕などに隠れたが四百人あまりの患者のうち一一〇人が飢えやマラリアなどによって死亡した(みやこ・あんなの会、一七四〜一七七頁)。

 直接戦火の犠牲になったのではなかったが、社会から隔離されたなかで多大の犠牲を出したのである。

 

3 ハンセン病患者への差別

  ハンセン病患者に対する差別の問題に触れておきたい。米海兵隊員として北部に行ったHL・ピーターセンさんの証言によると、北部でハンセン病患者が小屋に閉じ込められていた。住民から「誰にも感染させたくないので、小屋を焼き払いたい、しかし患者を閉じこめたままでは焼きたくないので、患者は外に出して米軍の手で殺して欲しい」と希望された。住民は小屋に火を放ち、髪が垂れ下がった患者を縄で縛って連れてきた。軍医の許可を得て、米兵が射殺したという(吉田健正一四八〜九頁)。

 ところで愛楽園が開設されたのは一九三八年であるが、それまで沖縄本島にはらい療養所がなかった。いくつかの候補地は地元の反対で挫折するが、特に大きな社会問題となったのは一九三一年から三二年にかけての嵐山事件だった。これは北部の羽地村嵐山(現名護市)に県が密かに療養所を建設しようとしたことに始まった。村ぐるみの反対運動は周辺の町村をも巻き込んで拡大したが、三二年六月には県下の警察官が大動員されて弾圧がおこなわれ、百人以上が検挙されるまでいたった。結局、県は療養所の建設を断念した(犀川一九四〜一九五頁)。

 この反対運動には社会主義者たちが積極的に関わり、大衆運動として展開された。そういう意味で沖縄の社会主義運動につながる運動としても位置付けられている。県の強引な手法自体にも問題があるし、ハンセン病患者の隔離策にも問題があるにしても、社会主義者を含めて民衆のなかのハンセン病患者に対する偏見と差別抜きにはこの運動は説明できないだろう。

 こうした差別と偏見がハンセン病患者の犠牲を一層大きくしたと言えるのではないだろうか。行政や軍からのみならず民衆からも差別された患者たちの被害と苦しみは、あらためて考えなければならない課題であろう。

 

おわりに

身体的にハンディを負い、さらに軍や行政から公的に差別され、かつ一般の民衆からも社会的に差別された人々は、戦場のなかでとりわけひどい犠牲になったということをあらためて指摘しなければならない。
 ハンセン病は戦後まもなく治療薬が開発され、「直る病気」になったが、一九五三年に絶対隔離政策を継続する「らい予防法」が強い反対運動を抑えて制定された。ハンセン病患者の隔離政策が、日本において否定されるのは一九九六年三月を待たなければならなかった。患者の人権を無視した、戦時体制の下で強化された隔離政策を九〇年代まで放置してきた責任は―政府だけでなく私たち市民の責任も含めて―重い。

 

[参考文献]

・『沖縄県史』第一〇巻、一九七五年

・『沖縄県史料 近代1』一九七八年

・犀川一夫『ハンセン病政策の変遷 付 沖縄のハンセン病政策』沖縄ハンセン病予防協会、一九九九年

・上原信雄『沖縄救癩史』沖縄らい予防協会、一九六四年

・国立療養所沖縄愛楽園入園者自治会『命ひたすら 療養五〇年史』一九八九年

・みやこ・あんなの会『戦争を乗り越えて―宮古南静園からの証言』二〇〇〇年

・吉田健正『沖縄戦 米兵は何を見たか』彩流社、一九九六年

・ハンセン病と日本の歴史については、藤野豊氏の『日本ファシズムと医療』(岩波書店、一九九三年)、『歴史のなかの「癩者」』(ゆみる出版、一九九六年)など氏の仕事から多くを学んだ。