「集団自決」の再検討
― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像

        歴史科学協議会編『歴史評論』1992年2月号

林 博史


 「集団自決」が各地で起きたことは、沖縄戦の重要な一つの特徴としてよく知られており、多くの人によって議論されている。私はそれらの議論から多くのことを学んだ。しかし同時に問題を感じていたし、いまも感じている。「集団自決」がおきた渡嘉敷島のような離島に米軍が上陸してきた場合、あるいはチビチリガマのようにガマ(壕)に隠れているところに米軍がやってきた場合など、類似の状況において人々はどのように行動したのか、それらを比較しながら「集団自決」をもう一度考え直そうとしたのが、この論文である。なお注は末尾にまとめている。                                     1999.4.30


はじめに
一 沖縄戦における「集団自決」
二 太平洋諸島での「集団自決」
三 沖縄本島周辺の離島における住民の行動
四 本島中部における住民の行動
おわりに

 

はじめに

 教科書裁判第三次訴訟での一つの論点が沖縄戦における「集団自決」についてであった。その取組みのなかで、「集団自決」とは「住民の自由意思によるものではなく、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導に基づく集団殺しあい」であり、「言葉の本来の意味において集団自決はなかった」ことが明らかにされた1 
 「集団自決」については、これまでも多くの論者によって強調点の差はあれくりかえし論じられてきた。天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育、軍による「共生共死の一体化」、捕虜を恥辱とする観念、「鬼畜米英」への恐怖、軍の沖縄住民への差別・スパイ視(住民虐殺と表裏一体)、自決手段の供与など自決への強制・誘導、逃げ場のない追い詰められた地理的状況、島(村)共同体の規制力などの諸要因が指摘されてきた。このなかでも日本軍の存在が大きな要因になっていることが確認されてきている3 
 こうした研究成果をふまえて、ここで考えたいことは、第一に「集団自決」について沖縄のいくつかの事例と沖縄以外の太平洋地域での事例を比較検討することにより、太平洋戦争のなかでその事件を位置づけることである。第二に類似した条件の下でも「集団自決」がなかったところがたくさんある。それらとの比較によって「集団自決」の持つ意味とその要因が一層明確にすることができるし、そのことは沖縄戦における住民像について再検討することにつながるであろう。        
 本稿で取り上げた地域は、慶良間諸島と沖縄本島周辺の島々、読谷とそれに類似した地域として中部の村々、サイパンなどの太平洋諸島である4 。比較の視点としては、日本軍の住民に対する関わり方と住民集団のリーダーの性格にしぼって検討する。


一 沖縄戦における「集団自決」

 今日知られている「集団自決」の事例を順に見ていこう。  

a 読谷チビチリガマ5 

 米軍上陸海岸からわずか一キロほどにあるチビチリガマには四月一日米兵がやってきた。ガマのなかにいた一三歳以上の青年や大人は竹槍を持って「やっつけろ」とガマを出たところ機関銃でかんたんにやられ、二人が重傷を負った。米軍の通訳が「殺しはしないから、ここを出なさい」と呼びかけたが、米軍に捕まると「残虐な仕方で殺される」と信じこんでいた人々は、ガマの奥へ奥へと逃げ込んでいった。
 翌二日「自決」がおこなわれた。ガマの途中のくびれたところに布団を重ね火をつけて「自決」を主導したのは、中国従軍の経験がある元兵士だった。彼は「兵隊は捕虜にひどいことをするよ。だから自分で死んだほうがいいよ」と中国での日本軍の残虐行為を持ち出して自決を促した。次いで、元従軍看護婦が「軍人はほんとうに残虐な殺し方をするよ。うちは中国でさんざん見ているから、よく知っている」と言って、毒薬を親戚に注射して「自決」を始めた。
 チビチリガマには米軍上陸直前まで日本軍がいたが、このときにはすでに後退していなかった。元中国従軍兵士と元中国従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割を果たし、「自決」を主導した。ただ彼らが現役の武装した軍人ではなかったこともあって、「自決」のときに「出たい人は出なさい」と言って、外に出ることを許したことが不幸中の幸いだった。ガマに避難していた一三九人のうち「集団自決」で死んだ人は八二人、射殺されたりした人四人、残る五三人は出て助かった。助かった人には小さなこどもを連れた母親が多かった。
 チビチリガマの犠牲者の年令別構成は表1のようになっている。犠牲者八二人のうち一五歳以下が四六人、国民学校生以下の一二歳以下としても四〇人を占めている。このこどもたちには自分の意思で「自決」を判断することはできないと見なければならない。また大人たちにしてもガマのくびれたところで火をつけられたため逃げようとしても逃げられず煙に巻かれてしまった人たちがかなりいると見られる。「みんながみんな、死ぬ気じゃないから、もう、めちゃくちゃ。泣きわめくなど、せまいガマの中は大変でした」という証言にその様子がうかがわれる。
 このようにチビチリガマでの事態は、日本軍の意思を代弁した元軍関係者らの独走によって、多くのこども老人女性がまきこまれて死んでいった事件であり、集団で「自決」したというようなものではなかった。「ウソを教えなければ、ほんとうのことを教えていてくれたなら、誰も死なずにすんだ
のに」という生存者の言葉に騙されていたという痛恨の念がにじんでいる。
 なお読谷のなかで、防空壕に避難していた人たちが手榴弾で「自決」し、二五人中一七人が死んだ例があるが、くわしくはわからない。

表1 読谷チビチリガマの犠牲者の年齢別構成   

年齢    男    女    計   
0-5 7 7 14
6-10 9 11 20
11-15 3 9 12
16-19 - 4 4
20-29 - 4 4
30-39 - 4 4
40-49 1 9 10
50-59 2 3 5
60- 3 5 8
不明 - 1 1
合計 25 57 82

(注)9歳以下の女の子で年齢不明の1人は 6〜10歳に含めた。11〜15歳のうち11〜12歳6人、13〜15歳6人となっている。男女の区分は名前でおこなったが、判断しにくい人もあり、男女の数は一応の目安にしていただきたい。成年男子の最低年齢は47歳であり、16〜46歳がいない。
なおその後の調査により0歳児がもう一人いたことが判明したので、合計は82人ではなく83人である。
(出典)下嶋哲朗『南風の吹く日』

 


b 渡嘉敷島6 

 渡嘉敷島には海上挺進第三戦隊とそれへの配属部隊として勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊の一部などがいた。駐留していた日本兵から島民に対し米兵の残虐さがくりかえし宣伝され、いざとなれば死ぬしかないと思わされていた。この点は日本軍がいたところではすべて共通している。
 三月二〇日村の兵事主任を通して非常呼集がかけられて役場の職員と一七歳以下の青年あわせて二〇数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を二個ずつ配り、いざというときにはこれで「自決」するように指示した。二三日米軍の攻撃が始まり、二七日朝米軍の上陸が始まった。軍は兵事主任を通じて島民を日本軍陣地の北側の谷間に集合するよう命令した。島民はそこで一晩をすごした後、翌日軍から自決命令が出たという情報が島民に伝えられた。また防衛隊員が島民に合流し、手榴弾を持ちこんだ。配られた手榴弾により「自決」が始まった。不発弾が多く、生き残った人たちは男が家族を棒で殴り殺したり、鎌や剃刀で殺していった。残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い返され、その近くで「集団自決」をおこなった。犠牲者は三二九人と言われている。
 その後、日本軍による住民虐殺がいくつか起きている。米兵の投降の呼びかけに対して、「投降したら殺す。投降するのはスパイだから」と島民を脅す日本兵がいた。投降することもできず(もとより投降しようという考えを持たないように徹底して教育されていた)、日本軍の保護も受けられず、島の端に追い詰められた島民にとって残された道は死しかなかったといえよう。
 軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え「自決」を命じていたこと、島民を一か所に集めその犠牲を大きくしたこと7 、防衛隊(防衛召集された正規の日本兵)が手榴弾の使い方を教え「自決」を主導したこと、島民が「自決」を決意したきっかけが「軍命令」だったこと8 、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる。

c 座間味島

 座間味島には、海上挺進第一戦隊と勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊などが駐留していた。日本軍は民家に雑居し、中国戦線での体験を島民にくりかえし話していた。 米軍の本格的な艦砲と空襲が始まった三月二五日夜、村の助役らは戦隊長のところへ行き、忠魂碑の前で玉砕するので弾薬をくださいと頼んだが部隊長は断った。その夜、役場の職員らによって島民に対して、忠魂碑前に集まるよう連絡が回っていった。「玉砕命令が下った」と聞いた人もいるし、そうでなくても人々はそれが「玉砕」を意味していると受けとめていた。人々は忠魂碑めざして行ったが、砲撃もあってバラバラになり、あちこちの防空壕へもどっていった。
 翌二六日朝米軍が上陸してきた。この間、産業組合の壕では村の職員とその家族ら約六〇人が「自決」した。それを伝え聞いた内川の壕では校長や教師らが「自決」した。そのほかいくつかの壕でも「自決」があり、「集団自決」の犠牲者は一七七人と言われている。
 軍からの明示の自決命令は確認できないが、二五日いく人かの島民に日本兵から「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」などといって手榴弾が配られている。「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。村のなかの有力者であり、軍に協力して軍と一体化していた層である。島民にとっては「当時の役場の職員といったら、とても怖い存在でしたので、絶対服従」の存在であり、それは村が軍と一体となっていたことによって増幅されていたと見られる。かりに軍の命令ではなかったとしても村の指示を日本軍の命令と受けとめる素地が戦争のなかで作られていたことが問われなければならない。
 また座間味島では投降しようとした島民が日本兵に背後から射殺され、米軍に捕まり島民に投降を呼びかけた人も日本兵に殺害されている。こうした状況は渡嘉敷と共通している。         
 なお村役場から離れた阿佐の集落では「自決」をしようとする動きもあるが「阿真(西方の集落 筆者注)で捕虜になれば、腹一杯の食事が食べられる」という情報が伝わってきて住民はそちらに向かい、「自決」はおこなわれなかった。このことは米軍が生命を助けてくれるとわかったときにはけっして自決を選ばないことを示している例であろう。

d 慶留間島             

 座間味村の一部でもあるこの島には、海上挺進第二戦隊の第一中隊が配備されていた。沖縄戦の始まる前の二月八日の大詔奉戴日に戦隊長が阿嘉島から来島し、島民の前で訓示をおこなった。戦隊長は「玉砕」のことをくりかえし話し、聞いていたほとんどの島民は「いざとなったら自分たちもいさぎよく玉砕しろという意味だな」と受けとめた。また島に駐屯していた第一中隊からは「死ぬ場合には前もって一中隊に連絡しなさい。一緒に死ぬから」と言われていた。こういうなかに三月二六日米軍が上陸してきた。第一中隊の陣地が米軍の攻撃で破壊され近づけない状況になり、サーバルの壕で「自決」がおこなわれた。            
 あとからその壕に来た人たちもあとを追って「自決」した。「集団自決」の犠牲者は五三人と言われている。ここでは戦隊長の訓示と第一中隊の「共死」の論理が重要な役割をはたしている。

e 伊江島10

 四月一六日の米軍上陸から六日間の激しい戦闘により日本軍は全滅した。女性も竹槍や手榴弾を持って斬込みに参加するなど徹底して住民が動員され、住民約三千人のうち半数以上が犠牲になった。 伊江島のなかでは、アハシャガマ、タバクガマとその付近のガマなどで「自決」があったという証言がある。それらはいずれも戦闘のなかで軍民が混在してガマに隠れているときであり、米軍がガマを攻撃したりして逃げ場を失った状態であった。そして「自決」は防衛隊員が爆雷やダイナマイトを爆発させておこなわれた。だから日本兵の「自決」にまきこまれたと見た方がよいかもしれない。いずれにせよここでも日本軍と混在するなかで、その道具も日本軍によって持ち込まれたものである。

f 南部海岸付近

 沖縄戦の末期に米軍に追い詰められた南部でも「集団自決」の証言がいくつかある。aからeの例が住んでいた村(島)でのことで共同体の規制力がはたらいていることもあって比較的規模も大きいのに比べ、南部では逃げてきた人たちによるもので家族やグループごとに「自決」したものが多い。軍民雑居のなかで日本兵(防衛隊)の手榴弾で「自決」しているケースが多い。民間人だけの「自決」の場合でも手榴弾を使っていることが多く、なんらかの形で軍から手榴弾を渡されたとしか考えられない。
 たとえば規模の大きな例として、米須のカミントゥガマでは、ガマに防衛隊が逃げこんできて、そのあと米軍が手榴弾を投げ入れてきた。それを機に防衛隊の持っていた手榴弾で「自決」がおこなわれた。ここには約二〇家族がいたようだが、犠牲者数はわからない11。「自決」というよりも敗走する日本兵に巻き込まれて犠牲になったケースといえよう。
 南部での事例ははっきりしない場合が多いが、いずれにせよ軍民雑居のなかでおこっている12

 以上、沖縄戦のなかでの「集団自決」について見てきたが、日本軍の存在が決定的な役割を果たしているといっていいであろう。と同時に軍に協力し住民を戦争に動員していった村幹部や教員の役割も大きい。軍官一体の戦争体制が人々を「集団自決」に追いやったと言える。

 ここで「集団自決」をおこなった地域集団の構成について考えてみたい。慶良間諸島のように閉ざされた空間では典型的に出てくるので、渡嘉敷島の場合で考えてみよう。その集団は次のようなグループに分けられる。

@村長、組合長、巡査、学校長など村の指導者層
A元軍人、防衛隊員13など軍隊経験者や現役軍人
B警防団などに組織された少年たち
C一般の大人たち(ほとんどは女性)
D老人たち               
Eこども 

 原則として一七歳から四五歳の男子は軍に召集されているのでこういう構成になることはチビチリガマの犠牲者の構成を見てもわかるとおりである。「集団自決」を主導したのが@Aであり、その実行者にはBも含まれる。特に@が軍と一体となって地域の戦争体制を支えていた層であろう。チビチリガマでは@が欠けるがAが代わりをしている。CDは軍や指導者の意思決定に逆らえない人々であり、Eは自分で意思決定できない人々である。「集団自決」の際の意識のあり方を見ると、@は自己を軍と一体化させた指導者として、捕虜になることは恥辱であり、天皇のために死ぬことを美徳と考えていた。「天皇陛下万歳」を三唱して「自決」をおこなった座間味の校長はその典型的な例であろう。
 Aは@と共通する心情を持つ者もあろうが、それ以上に日本軍が中国戦線でおこなってきた残虐行為を知っており、それから類推して死ぬしかないと判断した者が多いように見受けられる。
 Bは一七歳未満の少年たちで戦争中に教育を受け、皇民化教育の影響を一番受けている部分である。渡嘉敷島の「集団自決」の実行者となった当時一六歳の金城重明氏が、皇民化教育をその「元凶」と指摘していることは、その世代に最も当てはまることであろう14。 
 CDは同じグループにしてよいのだが、渡嘉敷の集落阿波連の場合、山中の集合地までとても歩いていけないと行くことを断念して家にとどまった老人たちが米軍に保護されて助かっている。集団からなかば見捨てられたことが、結果的に生存につながったのである。Cの意識としては、米兵に辱められて殺されるという宣伝を信じこまされていたことが大きい。だから米兵は命を助けてくれるという情報が入ると「自決」を選ばない。また@の意思には逆らえないが、そうした規制がない場合はチビチリガマのように「自決」を拒否している場合が見られる。この層は軍や指導者たちによって「自決」に追いやられ、巻き込まれたと見てもよかろう。
 Eはいうまでもなく巻き添えにされた層である。

 このように見ていくと、「集団自決」の要因といってもその階層によって、かなり異なっていることがわかる。これまでの研究ではこの階層の差が十分に考慮されていない。
 この構造はまさに戦争を支えた地域の構造である。沖縄戦研究については、戦争中の研究に比べて、沖縄戦にいたる過程とその構造についての研究が遅れている。沖縄戦にいたる地域の戦争体制の構造を動態的に分析することによって、「集団自決」の構造もより明確になるであろう。

 

二 太平洋諸島での「集団自決」

a サイパン15

 一九四四年六月から七月にかけてのサイパン戦以降、多くの民間の日本人を巻きこんだ戦闘が太平洋各地でおこなわれていく。そうした地域での先住住民に対する日本軍の対応自体、様々な問題があるが、ここでは民間の日本人に対するものに限定してみていきたい。以下、住民という場合は日本人を指すことにする。
 サイパンには約2万人の日本人がいたがその約半数が犠牲になったと見られる。このサイパン戦のなかで、住民虐殺、住民スパイ視、投降阻止、自決強要、壕追い出し、食糧の強奪など沖縄戦でおこったことのほとんどすべてがすでにおこっていた16。そうしたなかで住民の「自決」が頻発した。
 北端のマッピ岬周辺に追い詰められ、軍民が雑居しているなかで、「捕虜になるな、捕虜になるくらいなら自決せよ」という軍命令が住民に伝えられた。日本軍は「自決しろ」と手榴弾を渡したり、青酸カリを配った。また海岸付近では軍から「みんな自決しろ」と言われ、多くの人が海岸の断崖から身を投げた。投降しようとした親子が背後から日本軍に射殺されたり米軍に保護された住民が日本兵に狙撃されて殺されたりした。島の端に追い詰められながらも投降することを許されず、軍からは「自決」せよと命ぜられ、「集団自決」を余儀なくされたのである。

b テニアン・ロタ17

 米軍はサイパン占領後、隣のテニアンを攻撃、一週間で占領した。ここでも日本軍によってサイパンと同様のことがおこっている。「米軍に捕まりそうになったら、これで死ぬように」と日本軍から手榴弾を渡された人もいた。比嘉一門の約八〇人が「集団自決」したのも「友軍の兵隊のいうことを真にうけて」のことだったという。追い詰められた島の南端のカロリナス岬では断崖から海に身投げする人もいた。
 ロタでは、いよいよ米軍が上陸してくるというので、「男たちは海岸での決戦を覚悟し、女・子供は明け方には自決するように言われ」た。そこで貯金通帳を焼き、子供たちに新しい着物(死装束)を着せて夜明けを待ったという。ただロタは幸いなことに敗戦まで米軍が上陸せず、自決をせずにすんだ。米軍が上陸すればここでも「集団自決」がおこなわれていたことはまちがいない。

c パナイ18
                                   
 一九四五年三月一八日約二千の日本軍と約三百の住民は米軍の上陸とともにイロイロの町を脱出、逃避行をはかった。だが、こどもなどのいる住民の列は日本軍から引き離されていった。小学校の校長や日本人会長らが相談し、付いていけない者は「自決」することに決めたと見られる。校長は人々を集め自決することを話し、残ろうと思う人は残りなさいと言った。数十人とも百人ぐらいともみられる人たちが残った。二人の傷病兵が残り、人々を窪地に集めてまず手榴弾を投げ込み、さらに生き残っている人々を順に銃剣で止めをさしていった。その兵隊も最後に自決をした。三月二三日のことといわれている。沖縄戦が始まった日である。 二人の兵隊がそのような形で残ったことをみると、校長や日本人会長と日本軍との間でなんらかの話があったと考えられる。その方法を見ると足手まといとなる者を日本軍が処分したという性格が強いのではなかろうか。
 証言をみると、住民は日本軍がフィリピン人に対しておこなっていた残虐な行為を見聞していた。そうした実体験から米軍やゲリラも残虐なことをすると信じていた。日本軍がフィリピン人におこなったことが、日本人にはねかえってきた事件である19

d 旧「満州」

 旧「満州」でも「集団自決」と呼ばれている事件はたくさん起こっているが沖縄などと条件がかなり違うのでくわしい検討は別の機会に譲り、沖縄などとの関連で一点だけ指摘しておきたい。
 たとえば麻山事件では、逃避行をしていた先頭集団が「集団自決」をするが、団長は「沖縄の人達も最期を飾って自決した」と沖縄の例をもちだして「自決」の断を下した。団員のなかからは「沖縄の例にならえ」という声も聞かれた。「自決」はしなかったが、後方集団のなかでは「サイパンにならえ、沖縄に続くんだ」という声が出されたという20。 
 サイパンや沖縄で住民が軍と一緒に「玉砕」したということが伝えられており、サイパンや沖縄にならえという意識が植えつけられていたと見られる。開拓団は単なる民間人ではなく武装した準軍事組織であり、団幹部が軍の論理の体現者であったことも見ておきたい。              

 こうした各地での「集団自決」を見ていくと、サイパン・テニアン−フィリピン−沖縄−「満州」と繋がっていることがわかる。それらは日本軍が敗北していくなかで、日本住民が一緒にいた地域で共通に起こっているのである。日本軍がアジアの民衆におこなった残虐行為が日本人の「集団自決」を引き起こす大きな要因となっているのであり、「集団自決」は日本の侵略戦争が生み出した一つの帰結である。またいずれも日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たしており、日本軍による日本人住民虐殺や様々な迫害も同時に起こっている。このことを見てもこうしたことが一部の例外の日本軍がおこなったことではなく、日本軍の体質にかかわる問題であることを示している。21。 


三 沖縄本島周辺の離島における住民の行動


 ここでは米軍が上陸したにもかかわらず「集団自決」がおこらなかった沖縄本島周辺の島々について見てみたい。

a 阿嘉島22

 慶良間諸島の一部、座間味村に含まれる阿嘉島には、海上挺進第二戦隊とその配属部隊が駐留していた。三月二六日朝米軍が上陸し、住民は山中に避難する。そして翌二七日住民は「自決」を覚悟し、機関銃の前で時を待った。ところが米軍が撤退したという情報が入り、「自決」は未遂に終わった。米軍は二七日に島中央の山頂にまで到達したがすぐに海岸に引き返し、二九日には島から撤退していった。その後は昼間少数の米兵が上陸する程度であり、これが住民に幸いした。    
 また日本軍のなかに、普段から「兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命を大切にしなければいけないがね。……だから私は絶対に死なない。敵が上陸したらすぐに逃げるんだ」と口ぐせのように住民に語っていた整備中隊の少尉がいた。その少尉は米軍が上陸してくると朝鮮人軍夫二〇人ほどを引き連れ、白旗を掲げて投降していった。戦隊長と不仲だった中尉も白昼堂々と投降していった。将校のなかにこういう人物がいたことが住民の意識になんらかの影響を与えていたのではないかと推測される。ただ阿嘉島ではほかの慶良間の島々と同じように住民がスパイだとして虐殺されたり、朝鮮人軍夫が処刑されている。 

b 前島23

 慶良間諸島の一部である前島(渡嘉敷村)には日本軍はいなかった。一度渡嘉敷の部隊が来たが、「兵隊がいなければ相手方の兵隊は危害を加えないものだという信念を持っていた。だから日本兵が前島に出入りするのが一番こわかった」という分校長が軍の駐留に反対した。その分校長は元上等兵で上海事変に従軍し、その後警察官を勤めてから教師になった人物である。やがて米軍が上陸してきたとき分校長を先頭に投降して島民は無事だった。

c 屋嘉比島24

 座間味島の西方のこの島には銅を採掘していたラサ工業慶良鉱業所があり、従業員とその家族が住んでいた。日本軍はいなかった。米軍の艦砲が始まった三月二五日夕刻所長以下全員で最後の杯を交わし、二つに別れて坑内に避難した。翌日米軍が上陸すると、所長らの組は米軍に投降、もう一つの組は一度は「自決」を決めるがとりやめた。ただ一家五人が単独で「自決」し、別に爆風で四人が犠牲になった。

d 久米島25
 
 本島西方の久米島には海軍通信隊約三〇人が駐留していた。米軍が上陸したのは六月二六日だった。それまでに米軍の情報が島に入ってきていた。慶良間から来た人の話で、米兵は「住民に危害を加えていない」「抵抗する者以外は全部健在である」こと、屋嘉比島でも米兵は「親切だった」ことなどが伝わっていた。農業会長は村の幹部に無抵抗を主張し、軍に対しても、わずかの軍が玉砕しても何の意義もないしかえって「島民に危害」が加わるおそれがあると主張していた。そうした村の幹部と軍との対立もあったようで、後に農業会長らは軍に命を狙われることになる。そうしたなかで米軍が上陸したが、米軍と一緒に島出身者がやってきて、島民に安心して山を降りるように説いてまわった。彼は本島で捕虜になり、島は無防備だからと艦砲射撃をやめさせ、島の人々の命と財産を守った(後に彼は日本軍に殺された)。
 米軍は住民を保護するという情報が入っていたこと、軍と村幹部との間に対立があったことなどが「集団自決」のなかった理由としてあげられる。ただし米軍への投降を呼びかけたり、投降した者は日本軍によって狙われ、合わせて一九人が日本軍の手によって殺害された。

e 伊計島・宮城島・平安座島・浜比嘉島26

 勝連半島の先に連なる四島には、伊計島に島出身兵十数人が通信隊としていた。しかし米軍がくると軍服を脱いで住民に紛れこんだ。米軍は四月三日前後に上陸してくるが、いずれの島でも投降して保護されている。浜比嘉島では移民帰りの老人たちが米兵と話をして危害を加えないということを聞き、島民に呼びかけて投降した。平安座島では警防団長がハワイ帰りで英語ができたので米兵と話をして、島民に投降を呼びかけた。宮城島では日本軍が以前に来て、偽装大砲を作っていったが、これがあると爆撃されるだけだと取り壊してしまっていた。ここには平安座の人が米軍の通訳で来たので投降した。この島では南米帰りの人が多く、スペイン語ができたので米兵を話ができた。
 伊計島でははっきりとはわからないが、ほかの三島と同じような状況だったと思われる。この四島は移民が多い地域だが、その移民帰りが英語やスペイン語を話せるので、米兵と話をつけて島民を無事投降させることができた。彼らは移民先での経験で米兵がいわれるような鬼畜ではないことをわかっていたからであろう。

f 粟国島27

 慶良間の北方のこの島には日本軍はいなかった。村長ら村の幹部は米軍が上陸してきたらどうするのか協議したが,そのとき校長は「もうサイパンみたいに玉砕だ」と言い、幹部はそういう考え方だった。ただある島民は「米軍は抵抗しなければ殺しはしないと信じて」いたので、白旗を上げて全員降伏しようと主張した。六月九日に米軍が上陸するが、多くの島民は無抵抗で保護された。
 日本軍がいなかったので、堂々と投降を主張することができ、実際に投降できたと考えられる。

g 伊平屋島・伊是名島28

 沖縄本島の北方の両島には日本軍はいなかった。ただ陸軍中野学校出身の特務機関員が教員として一人ずつ配置されており、また途中から敗残兵が本島から逃げてきていた。
 伊平屋島には米軍は六月三日に上陸してきた。このとき国民学校長を先頭に住民は「降参するしかない」と白旗を上げて投降した。
 伊是名島には伊平屋の米軍が検分をしにやってきただけだった。島出身の青年が伊平屋に行き、島には軍事施設はないから攻撃しないでくれと頼んだので米軍は攻撃しなかったという。この青年は移民帰りだった。一方、島の幹部たちは米軍が上陸してきたときのことを事前に話し合い、米軍が来たら「白旗をかかげて降参すること」を決めていた。
 両島の幹部が白旗を掲げて投降することにしていた背景には、特務機関員の指導があったようだ。特務機関員は占領された後の後方攪乱を任務としており、自分を含めて日本兵がいることを知られては困るし、住民が自決してしまっても困るからであろう。また敗残兵たちも自分たちが助かることを考えても「玉砕」するつもりはなかった。
 しかし特務機関員らによって住民虐殺がおこなわれ、漂流してきた米兵の処刑もおこなわれている。「集団自決」を強要しなかったものの、住民をスパイ容疑で処刑することはおこなわれていた。そこに特務機関員の特徴がある。

 沖縄本島周辺の島々を見ると、日本軍がいない島では「集団自決」はおこっていないし、ほとんどのところではそういう意思すらもなかったことがわかる。軍がいない島では島幹部の判断で投降して犠牲を最小限にとどめている場合が多い。そしてその投降しようという判断をする場合、移民帰りが重要な役割を果たしているケースが多い。


四 本島中部における住民の行動

 次に本島中部の村々における住民の行動を見てみたい。

a 読谷山村(現読谷村)29

 読谷の人々の多くは北部の国頭に避難したが、村にとどまっていた人も多かった。米軍上陸の時点では日本軍は平地の集落付近にはほとんどいなかった。波平のシムク(下区)ガマには約千人が避難していた。四月一日に米兵がやってきて「カマワン、デテキナサイ」と呼びかけた。警防団の少年らが竹槍を持って突撃しようとしたが、ハワイ帰りの老人が「竹槍を捨てろ」とやめさせ、もう一人のハワイ帰りの人が外に出て米兵と交渉し、殺さないことを確認してから、ガマの人たちに投降するように呼びかけた。約千人の人たちは投降して助かった。四〇〜五〇人だけは「自決」すると言って奥に入ったが四日後に投降してきた。シムクガマでは艦砲で犠牲になった四人以外はみんな助かった。
 読谷村の戦没者数は、住民一三一五人、軍人軍属一六一六人、計二九三一人であり、一九四〇年の人口一五八八三人に対して一八.四パーセントとなっている30

b 北谷村(現北谷町)31

 北谷村では、米軍上陸前に北部の羽地村に疎開し、残った人々は丘の上のあちこちの壕に避難していた。現在『町史』が編集中でまだくわしい状況がわからないが、今のところ「集団自決」の記録はない。北谷村も米軍上陸地点にあたり、独立歩兵第一二大隊第四中隊などがいたが、米軍の前にたちまち撃破され後退した。各壕に避難していた人々は米兵が来ると投降している。上勢頭のある壕では四月二日ハワイ帰りの人が壕を出て米兵と交渉し、全員投降して助かっている。  

c 中城村(現在、北中城村と中城村)32

 北中城村の地域は独立歩兵第一二大隊が配備されていたが四月二日頃には後退して、住民だけが取り残された。村では北部疎開を決めたが島袋出身の村会議員だけが疎開に反対した。彼は北部に行っても食糧がない、それに兵隊と兵隊の戦であって人民は殺さないと反対し、島袋の人たち約千五百人は疎開せず村にとどまった。四月三日米兵が壕にやってきた。人々が泣き叫び、うろたえたとき彼が立ち上がり、「お前たちを殺すことはない。アメリカは紳士の国だ。もし万一のことがあったら、わたしが真先に立って犠牲になろう」と話し、壕の外に出ていった。米軍の通訳として壕の外にいたのが、ハワイに移民で渡った、彼の教師時代の教え子だった。人々はみな投降し助かった。その村会議員はかねてからクリスチャンだった。
 瑞慶覧の壕では四月二日沖縄出身の二世が米軍の通訳としてやってきて「早く出なさい。食い物も沢山あります」というので殺されないだろうと思い、壕内にいた約六〇〇人が投降して助かっている。石平の裏の壕では四月二日ハワイ帰りのおばあさんが出ていって米軍と話をして、壕内の人たちを壕から出して投降した。荻道では四月五日警防団長が「壕の中で死ぬのもそとで殺されるのもおなじだと思って」外に出て助かった。
 だが瑞慶覧付近の名幸壕では、四月二日米兵の投降勧告に応じなかったために火をつけられ、壕内の七七人中七三人が死亡している。
 「北中城村では、大体のことだが、米軍の進撃が早くて日本軍の後退が早かったために、自分等の壕で、米軍上陸二、三日の戦争始まったばかりの時に米軍に捕虜にされている人びとが多い」33という。日本軍がすぐに撤退していなくなったことが集団投降を可能にした。
 現在の中城村では、南にあった分だけ米軍の進行が遅く、その間に南部に避難していった。その結果、南部の戦闘に巻き込まれて多くの犠牲者を出したとい。また北部に疎開した人たちも飢餓やマラリヤで犠牲者を出し、村にとどまって集団投降した島袋の人たちがもっとも犠牲が少なかったという。
 両村は戦争前は人口約一万八〜九千人だったが、戦後は約一万二千人に減少しており、戦争の犠牲者は6〜7千人、約三分の一前後と見られている。

d 宜野湾村(現宜野湾市)34

 図1(省略)のように宜野湾の南部に日本軍の主陣地が構築されていた。上陸以来南下してきた米軍は四月八日以来このラインで日本軍の頑強な抵抗をうけ約二週間にわたって激戦が続いた。特に嘉数の北側にある嘉数高地は沖縄戦最大の激戦地の一つであった。従って宜野湾は、早くから米軍支配下に入った中北部と激戦の続いた南部に区分できる。
 米軍が進出してきた時点では多くの住民が村に残っていた。住民が集団投降したのは日本軍がおらず、またはすぐに後退して米軍の支配下に入った中部と北部にかぎられている。
 新城ではアラグスクガー(新城川)という壕に集落の人全員約三百人が避難していた。壕内では警防団が人々の統率にあたっていたが、英語のできる移民帰りの二人を中心に「全員どんなことがあっても死ぬことを考えないこと、そのため見つかったら抵抗しないでアメリカ兵のいう通りに行動する」ことを確認していた。米兵に見つかったら皆殺しにされると聞かされ、不安に思っていた人たちに対して、その二人は「アメリカ兵は鬼畜ではない、優しい人も多い」と安心させていた。四月五日米軍が壕にやってくると彼らが米兵と交渉し「殺しはしない」という約束をして全員投降した。
 喜友名のフトゥキーアブでは四月四日約五百人が米軍に投降した。ただ数人の十七、八歳の女性が防衛隊員から「米軍に捕まったら、何をされるかわからない」と言われたことを信じて出ていかず、手榴弾を投げ込まれて犠牲になった。
 宜野湾のクブタマイ小ヌ前ガマでは約百人が投降している。その班長はミンダナオ帰りで「殺しはしないだろう」「捕虜になったら弾運びや何かをさせられるかも知れないが、そんなことをしてでも生きていた方がいいんじゃないか」と主張し、米兵の呼びかけに応じて投降した。

 一方、主陣地のあった地域を見ると、佐真下のジルーヒジャグワーガマには日本軍が入ってきて、少尉が日本刀を振りかざし、「米軍の捕虜は絶対に許さない。捕虜となる者はこの刀で切り殺す」と住民を脅した。四月一七日に米軍が来て投降を呼びかけたが誰も応じず、米兵が壕に入ってくると住民は別の穴から脱出して南部に逃げた。しかし南部で一家全滅など多くの犠牲を出した。アサトゥガマグワーでは約五〇人が四月六日に投降して助かっている。こちらには日本軍がいなかったようだ。
 主陣地があり激戦が続いた真栄原のアガリイサ(東伊佐)ガマには約二千人の住民や日本兵が避難していた。だが一週間ほどで日本兵は出ていき、住民も四、五〇人を残して南に逃げた。その後、付近は昼は米軍、夜は日本軍という激戦になった。壕にいた元兵士は、入ってきた日本軍に「こっちから弾を撃たなければ、アメリカ兵はどうもせんから」と言って、壕から出ていくように頼み、日本軍も出ていった。また知人の日本兵からいざというとき自決するようにと手榴弾六個を渡されるが、自決するつもりはなかった。その後、避難民が増えて、米軍に投降したときは約四百人になっていた。

 嘉数や佐間下など日本軍の主陣地があり、壕内に軍民雑居していた地域では、住民は投降を許されず、砲火の中を南部に逃げている。そして南部で犠牲になっている人が多い。南部に逃げず、壕内にとどまって日本軍が後退した後に投降して助かった人もいるが数は少ない。
 宜野湾村の戦没者は援護資料によると一九四四年一〇月の人口の二六.九%である。犠牲者率が高いのは、嘉数四八%、佐間下四七%、我如古四九%など主陣地のあった地域である。逆に日本軍がおらず早期に米軍支配下にはいった新城一二%、喜友名一三%などは低率となっている(図2)35

e 浦添村(現浦添市)36

 宜野湾と首里の軍司令部との間に位置する浦添は四月末から五月末までの約一か月間、村の全域が激戦地になった。村民の一部はすでに北部に疎開していたが、多くは村内におり、米軍が迫ってくると弾雨の中を南部に逃げていった。
 浦添市の戦災実態調査によると、村民の犠牲者率は四四.六%にのぼっている。援護関係資料で死亡した地域を見ると、浦添内での死者が三三.六%に対し、南部での死者が四六.三%にものぼっている。また時期を見ると軍司令部の南部撤退まで(五月二七日)が四五.三%なのに対して、それ以降が五四.三%と過半数を占めている。つまり軍司令部の南部撤退が住民に多大の犠牲を生み出したことを示している37
 日本軍と雑居していた屋富祖のある壕では米軍にダイナマイトを投げ込まれた。日本軍は出口を掘って出ていき住民四、五〇人が残された。そこへ米兵が入ってきたので、ハワイ生まれで英語を話せる役場の職員が話をして投降している。 
 伊祖のマーヒヌガマでは一九人が避難していた。付近の日本兵から敵が来たら自決するようにと手榴弾二個を渡されたが、おじいさんが「ご先祖様にすがって命を守って頂くようにするんであって、こんな物はすぐに遠くへ捨てて来なさい」と叱った。その後米兵が「出てこい」と呼びかけてきた時、老人三人が先頭に立って投降した。
 日本軍と一緒にいたために米軍に壕を攻撃され、犠牲になった例も多いと見られる。激戦のなかを壕の中で生きのびた少数の人たちが日本軍が後退してから、米兵の呼びかけに応じて投降し助かっている。その際、移民帰りや老人が投降の先頭に立っている例が多い。浦添では宜野湾などのように大規模な集団投降の事例は紹介されていない。

f 西原村(現西原町)38

 浦添の東、首里の右正面にあたる西原も浦添と同様に約一か月にわたって激戦がおこなわれた。西原の海岸沿いの集落は避難する壕が少ないので、早くから北部疎開が進められた。北部でも食糧難やマラリヤで多くの犠牲を出しているが、南部に逃げた人たちに比べると犠牲者の率は少ない。
 ほかの住民はほとんどが四月中旬まで村内の壕に隠れていた。西原には第六二師団が配置されていたが米軍の攻撃の前に戦線崩壊の危機に瀕したため、南部にいた第二四師団が投入されることになり、西側の浦添に第六二師団が移動し、西原には第二四師団が四月二四日未明までに進出してきた。
 この第二四師団は、住民を壕から追い出し、村に残っている者をスパイ視した。「お前たちは戦闘のじゃまになるから、その壕から出て南部へ行け。出ていかないなら、手榴弾をなげこむぞ」と脅して壕から追い出した。米軍が迫り、砲弾が飛び交う中を問答無用で放り出されたのだ。また壕に隠れて「地元に長く踏み止まっていると友軍からスパイ呼ばわりされた」。「沖縄県民はみなスパイだ」と怒鳴りつけていた日本兵もいた。伊保の浜の避難壕にかくれていた老人七人が日本兵に斬り殺され、村役場の前でも一人の老女が斬り殺されている。ある男性は日本兵に縛り上げられたが、幸い沖縄出身兵に「ここにいると日本兵に殺されるから早く島尻に逃げなさい」と助けられた。
 砲火のなかを南部にまで逃げのびても、南部では「西原から来た者の中にはスパイがいる」とスパイよばわりされ、壕に入れてもらえなかったり、スパイとして殺されかかったという証言も多い39
 西原でも住民が集団で投降した事例は紹介されていない。南部への逃げ道があったこともあって、「集団自決」はないようだが、スパイ視され、砲火のなかを追い出され、しかも南部の戦闘に巻き込まれて多くの犠牲を出した。戦災者調査の数字によると犠牲者は村民の四六.九%にものぼっている。   

 本島中部の状況を見ると、日本軍がいなかったり、すぐにいなくなった地域では、米軍にすみやかに占領され、住民は集団で投降して助かり犠牲者が少なかったケースが多い。その際に移民帰りが投降を指導した場合がいくつか見られる。一方、日本軍陣地があり、軍民が混在していた地域では、集団で投降することは許されなかった。そのため米軍が接近し砲火のなかを南部に逃げ、そのなかで多くの犠牲者を出した。壕に残っていると、日本軍と一緒ならば米軍の攻撃を受けて犠牲になり、あるいはスパイ視されて日本軍に殺された。ただ南部という逃げ場が残されていたので「集団自決」にはいたらなかったと見られる。


おわりに


 最後にいくつかのことに触れておきたい。

 第一に「集団自決」は文字通りの「自決」ではなく日本軍による強制と誘導によるものであることは、「集団自決」が起きなかったところと比較したとき、一層明確になる。そしてその要因の解明には地域の戦争体制、支配構造の分析が不可避であり、これは今後の沖縄戦研究の大きな課題である。             
 第二に「集団自決」は太平洋戦争のなかで日本軍の敗北の過程で起きている事象であり、日本による侵略戦争のひとつの帰結であった。

 第三に沖縄戦での住民の行動を見ると、「集団自決」をおこなわなかった人々の方が圧倒的に多い。日本軍がいないところでは、住民は自らの判断で投降し助かっている。そこでは移民の経験者やクリスチャンのように「鬼畜英米」などという軍の宣伝を批判的に見る、「皇民」とは異質な資質を身につけた人々が、住民を生還に導くうえで大きな役割を果たした。移民を出している率が全国トップだった沖縄にはそうした人々が多かった40

 天皇のため、国家のために命を捧げよ、という皇民化教育にからめとられなかった人々が実はかなり存在したことを物語っている。そうしたことを見るとき、従来の沖縄戦研究のなかの住民像の一面性も見えてくる。つまり、軍のために献身することを信じこまされていた「ひめゆり」に代表される学徒隊のようなイメージ、あるいは軍の宣伝を信じこんで「集団自決」に追いやられた人たちというイメージは、沖縄戦のなかの住民の行動の、重要ではあるが一面でしかない。日本軍の住民虐殺は沖縄戦の最も重要な特徴だが、そこでの住民像はあくまで受け身の存在にとどまっている。それに対し、米軍と交渉し話をつけて投降する人々の姿は住民の主体的な意識と行動を示している。

 筆者は別稿で、死を拒否し戦線を次々に離脱していった防衛隊員のことを紹介した41。本稿の三、四で紹介した事例もそれに共通する性格のものである。こうした住民の意識と行動を明らかにすることによって、もうひとつの沖縄戦像が出てくるであろうし、沖縄戦がより豊かなイメージでとらえられるであろう。本稿はそのための一つの基礎作業である。

(注)

1 安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』(晩聲社、一九八九年)一六六頁、八頁。なお「集団自決」という言葉はその出来事を示す言葉としてふさわしくないが、それにかわる適当な言葉がまだないので、ここでは括弧をつけて使用する。
2 沖縄タイムス社『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社、一九五〇年)以来、沖縄戦についての文献の多くが「集団自決」について触れている。
3 嶋津与志『沖縄戦を考える』(ひるぎ社、一九八三年)は「友軍部隊が存在したかどうか」が「集団自決」が起きたかどうかの違いを生んだ条件と断定している(二二八頁)。             
4 県史や市町村史により状況がくわしく判明した地域を中心に検討した。だが現在編集中のところもあり、本稿は今後の議論のたたき台と考えている。
5 下嶋哲朗『南風の吹く日 沖縄読谷村集団自決』(童心社、一九八四年)、同『白地も赤く百円ライター』(社会評論社、一九八九年)より。
6 『沖縄県史』10(一九七五年)、『渡嘉敷村史 資料編』(一九八七年)、安仁屋前掲書より。以下、戦闘経過や日本軍の配置については、防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、一九六八年)を参照した。
7 「こういう非常時に」住民を一か所に集めるのは「危険だ」と判断して集合せず助かった人もいる(『宜野座村史』第二巻、一九八七年、五六八頁)。
8 赤松隊長から今自決せよという形の自決命令は出されていないとも考えられる(大江志乃夫『花綵の海辺から』朝日新聞社、一九九〇年、二七頁、参照)。なお曽野綾子『ある神話の背景』(中央公論社、一九七三年)も自決命令を否定しているが、同書は問題点が多い(安仁屋前掲書参照)。
9 『沖縄県史』10、『座間味村史』上下(一九八九年)、大城将保「座間味島集団自決事件に関する隊長手記」(『沖縄史料編集所紀要』11号、一九八六年)より。なお慶留間島も同じ文献による。
10 『沖縄県史』10より。
11 石原昌家監修『大学生の沖縄戦記録』(ひるぎ社、一九八五年)二〇二頁〜五頁。
12 四月四日那覇から北部に疎開の途中、美里村(現在沖縄市)で三三人が六畳一間の小屋に入り、火を付けて「自決」した例がある(『沖縄タイムス』一九八七年一〇月二五日)。四月三日具志川城址の壕で竹槍と手榴弾を持って待機していた警防団長以下の青年男女が米軍に包囲され、壕内で手榴弾を破裂させて「自決」し、犠牲者一四人、負傷者一二人を出した(『具志川市誌』一九七〇年、八九〇頁)。ただこれは軍人に準じた集団の性格を持っている。
13 防衛隊員は正規の軍人であり、住民に含めるのは必ずしも適切ではないが、地元の住民であり、「集団自決」の際に一緒に加わっているのでここに含めておく。
14 安仁屋前掲書、三五八頁。
15 サイパン会編集委員会『サイパン会誌 想い出のサイパン』(一九八六年)、『沖縄県史』10、沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体験』(一九八六年)、『西原町史』第三巻(一九八七年)、野村進『海の果ての祖国』(時事通信社、一九八七年)、田中徳祐『我ら降伏せず』(立風書房、一九八
三年)などより。
16 拙稿「アジア太平洋戦争のなかの日本軍と民衆」(関東学院大学経済学会『経済系』一五三集、一九八七年)参照。  
17 『西原町史』第三巻、『宜野座村史』第二巻、『浦添市史』第五巻(一九八四年)、『宜野湾市史』第三巻(一九八二年)、より。
18 『那覇市史 資料編第三巻八』(一九八一年)、読売新聞社大阪社会部『フィリピン 悲島』(読売新聞社、一九八三年)、などより。
19 パナイでの日本軍の残虐行為については、石田甚太郎『ワラン・ラヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』(現代書館、一九九〇年)参照。
20 中村雪子『麻山事件』(草思社、一九八三年)一七八〜九頁、二一三頁。
21 拙稿「アジア太平洋戦争のなかの日本軍と民衆」、拙稿「沖縄戦記録・研究の現状と課題」( 関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第八号、一九八七年)参照。
22 『沖縄県史』10、『座間味村史』上下、より。
23 榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』(新潮社、一九八三年)一四二〜一五〇頁。
24 『座間味村史』下、より。
25 『沖縄県史』10、『久米島具志川村史』一九七六年、より。
26 『沖縄県史』10、『与那城村史』一九八〇年、より。
27 『沖縄県史』10、より。
28 『沖縄県史』10、『伊平屋村史』一九八一年、石原昌家『虐殺の島』( 晩聲社、一九七八年)、より。
29 下嶋哲朗前掲書、読谷村『平和の炎』一〜三、一九八八〜九〇年、より。
30 援護関係資料より。読谷村史編集室の上原恵子氏に御教示いただいた。この資料は援護業務のためのものであり、抜け落ちている人が多い。全戸調査をした浦添の数字を見ると戦没者数は援護関係資料よりも五%程度多い。
31 『沖縄県史』9、北谷町史編集事務局『北谷町民の戦時体験記録集』第一集、一九八五年、より。
32 『沖縄県史』9、より。
33  同前二九一頁。
34 『沖縄県史』9、『宜野湾市史』第三巻、より。
35 主陣地外では長田・志真志の犠牲率が高い。これは字内に自然壕がほとんどないので南部に避難したためとみられる。
36 『沖縄県史』9、『浦添市史』第五巻、同第一巻(一九八九年)、石原昌家監修『大学生の沖縄戦記録』(ひるぎ社、一九八五年)より。
37 もちろん南部では南部撤退後に犠牲者が集中している。米須では死亡時期が判明している人の八八%が五月二八日以降のものである(『大学生の沖縄戦記録』二二〇頁)。
38 『沖縄県史』9、『西原町史』第三巻、より。
39 第二四師団がまだ南部にいた四月一五日第八九連隊第二大隊で「対諜報強化に関する件」を指示している。ここで「敵の偵察手段は逐次積極化」しているとして「避難民を装ひたるものは中頭より退避し来れるを告げて洞窟の所在及部隊位置を聞く」と警戒している(防衛研究所図書館蔵「歩兵第八九連隊第五中隊陣中日誌」)。この大隊は西原には来ていないが、こうした指示はこの大隊だけのものではなかろう。中部の住民がスパイになっていると軍が組織的に宣伝しているのであり、そうした意識をたたきこまれた日本軍が西原に進出してきたとき、その住民をスパイ視したのである。
40 一九四〇年現在の海外在留者数は、沖縄県が五万七二八三人で現住人口の約一〇%を占め、第二位の熊本県の四.八パーセントを大きく引き離している。しかも太平洋戦争のなかでかなり多くの人々が沖縄に引き揚げてきている(『沖縄県史 第七巻 移民』一九七四年)。
41 「沖縄戦における軍隊と民衆 防衛隊にみる沖縄戦」(藤原彰編著『天皇制と沖縄戦』立風書房、一九八七年)