地域から平和を創る 沖縄・読谷村   

           関東学院大学経済学部一般教育論集

                       『自然・人間・社会』第13号、1992年4月  

                                   林 博史


 この論文は、私の所属する経済学部で出している研究誌に掲載したものです。一般にはまず目に触れる機会がない雑誌なので、全文をここに掲載します。読谷に関心を持つようになったきっかけは、この中にも書いてあるように、村民や教師生徒の反対を押し切って卒業式で日の丸を強制したことに対して生徒が引きずりおろした事件や、国体のソフトボール会場になった読谷野球場で、日の丸を引きずり下ろして燃やした知花昌一さんの事件が起きたということもあるのですが、それ以上に、村役場の小橋川さんに初めて会ったときに、彼から読谷村の平和行政の話を聞かせてもらい、そのときに、彼が1372年から説き起こしたことに強烈な印象を受けたことです。それ以来、読谷には何度も通って、たくさんの方に会って話しを聞き、読谷の平和への取組みが深い歴史意識に支えられていることがわかりました。それらを私なりに整理してみたのがこの論文です。
 最近、読谷が村づくりの点でも、平和行政の点でも注目を浴びるようになり、岩波ブックレットでも紹介されるようになっていますが、ここで書いた内容は基本的に間違っていないと考えています。
 なお(注)は、各章末にまとめました。図が3点ありますが、印刷が薄くてうまくスキャナで読みこめなかったので掲載していません。   1999.4.1


目次

はじめに
T 読谷の歴史 村づくりの歴史的基盤
U 米軍基地とのたたかい  
V 歴史と地域に根ざした平和のための村づくり@ 返還軍用地の跡地利用
W 歴史と地域に根ざした平和のための村づくりA 読谷飛行場の返還にむけて
まとめにかえて
 

はじめに
                                        
   きこゑよんたむさ         聞ゑ読谷山          
   おしやけ みあくて        押し上げ 見あぐで      
   たりす はりす ちやれ      だりす 走りす ちやれ   
 又 とよむよんたむさ       又 鳴響む読谷山
 又 かみのふね もゝおうね    又 上の船 百御船
 又 下のふね やそおふね     又 下の船 八十御船 1)

 これは『おもろそうし』に歌われた読谷山(ゆんたんざ、1946年に読谷よみたんと改称)の港の情景である。「評判の高い読谷山よ、押し上げ丸を見たくて見たくて、だからこそ走って走ってきたのだ、名高い読谷山よ、北方からの船や南方からの船がたくさん集まっていることよ」というような意味の歌である。この港は読谷の長浜港と見られている。南北各地からたくさんの船が琉球との交易を求めて読谷の港に集まっていたことがこの歌からもわかるだろう。
 読谷が歴史に登場するのが、1372年である。中国の『明史 琉球伝』に「(洪武)五年正月(1372年2 月)行人楊載に命じて、即位建元の詔を以て、其の国(琉球)に告げしむ。其の中山王察度、弟泰期等を遣わして、載に随いて入朝し、方物を貢する」とある。18世紀中ごろに編纂された琉球の正史といわれている史書『球陽』には、この1372年のことを次のように記している。
「太祖、行人、楊載を遣はし、詔を齎して国に至り、国王を招撫す。王、其の詔を受け、即ち弟泰期を遣はし、表を奉じ臣と称して方物を貢す。太祖,王に大統暦及び金織文綺・紗・羅各五疋を賜ひ、泰期に衣幣を賜ひて差有り。是れに由りて琉球始めて中国に通じ、以て人文維新の基を開く。」2)

 当時、中山王であった察度が明に入貢し、これ以後、琉球と中国との間に朝貢貿易がおこなわれるようになった。ここで王の遣いとして派遣された泰期は読谷の人物であった。『おもろそうし』の中にも泰期をほめたたえた歌が4首ある。たとえば

   おさのたちよもいや        宇座の泰期思いや            
   たうあきない はゑらちへ     唐商い 流行らちへ           
   あんしに おもわれゝ       按司に 思われゝ     
 又 いちへきたちよもいや     又 意地気泰期思いや          

 「読谷の宇座の泰期殿よ、中国との商売を盛んにさせて、按司(領主)に愛されよ、心意気のすぐれた泰期殿よ」というような意味の歌である。泰期はおそらく読谷に住む貿易家(商人)だったと見られている3)。泰期はその後、1374、1376、1377、1382年の4 回にわたって中山王の遣いとして明に入貢している。
 琉球は明との貿易ばかりでなく、日本を含めた東アジアから東南アジアの諸地域との交易を通じてその繁栄を築いた。当然のことだが、琉球は日本ではなかった。日本とは別に独自に国家を形成し、アジア諸地域との繋がりの中でその文化を築いていった。

 現在、この読谷は村おこしのユニークな例として、各地で村おこし町おこしに努める人々から注目をうけている4)。と同時にセンセーショナルな報道の仕方によってではあるが、日の丸掲揚の強制に反対して高校生が卒業式会場の日の丸を引きずりおろした読谷高校の出来事や国体のソフトボール会場に村民の多くの意思を無視して掲揚された日の丸を下ろし燃やした出来事(いずれも1987年)によって読谷の名は全国に報道された。またこの数年来、チビチリガマでの「集団自決」(事実は日本軍の論理によって死を強いられた事件)は沖縄戦の性格を物語る典型的な事件として広く知られるようになってきた。

 本稿では、読谷の村づくりについて、地域から平和を創る取り組みとしてとらえ、その視点から検討してみたい。
 読谷村は沖縄本島中部の西海岸にあり、世帯数8249戸、人口3 万1711人(1991 年1 月1 日現在) 、面積35.17 〓の村である。村の47%が米軍基地で占められている。
 
 ここで議論の理論的枠組みについてふれておきたい。
 この間、地域という問題が一つのキータームとなってきている。経済学においても地域経済学5)が主張されているし、政治学でも平和学でも地域が注目されている。ここで地域という場合、国民国家を分析枠組の前提としてきたあり方への反省のうえに立っている6)
。そして国民国家の枠をこえた広い地域をさす概念としても使われるし、同時に国民国家内部(あるいは国境をこえる場合もありうる)のより狭い地域をさす概念としても使われる。両者の使い方はともに国家を相対化する重要な概念であるが、ここでは後者の狭い地域の意味で使うこととする。                           
 沖縄を視野に入れて地域主義を提唱した玉野井芳郎氏は「内発的地域主義」の定義として「地球に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」としている。そしてこの定義への補足説明として次のように述べている7)

「まず経済的自立というのは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。アウトプットよりもインプットの面で、とりわけ土地と水と労働について地域単位での共同性と自立性をなるべく確保し、そのかぎりでの市場の制御を企図しようとしている。次に政治と行政については「自律」という表現を用いているように、地域住民の自治が強調されている。そこでは政治と行政との連結が示すとおり、政治といっても国レベルの政党政治と混同されてはならない。最後に、地域に生きる人々がその地域 自然、風土、歴史をふまえたトータルな人間活動の場 と「一体感」をもつという重要な思想が語られていることに注意してほしい。アイデンティティの発見、またはアイデンティフィケーションの確率というのは、いうまでもなく社会認識の根源的契機にかかわる問題意識である。人間がみずからの生の現在の関心を、そこに生きる地域、すなわち人間活動のトータルな場にかけるというのは、この定義が含む最大の思想性をあらわすものといえる。地域主義の思想に、人間と自然とのエコロジカルな基礎が横たわっているのも、この点に関連するものといわなければならない。」

 この地域主義の主張とも重なってくるが、内発的発展論が提起されている。内発的発展論はすでに19世紀のヨーロッパで生まれ、20世紀に入ると第 3世界の中からも提示されてきた系譜をもっているが、1970年代以降、一つの世界的な流れとなってきている8)
 日本で、内発的発展について提唱してきた宮本憲一氏は「地域の企業・組合などの団体や個人が自発的な学習により計画をたて, 自主的な技術開発をもとにして、地域の環境を保全しつつ資源を合理的に利用し、その文化に根ざした経済発展をしながら、地方自治体の手で住民福祉を向上させていくような地域開発」を「内発的発展」と呼ぶと定義し、それを外来型開発と対置している9)
 地域の経済的自立とは、どういう状態を指すのか、など理論的に整理すべき点や実践上の問題点はいろいろあろうが、エコロジカルな基礎の上に、歴史的諸条件に根ざした、政治経済文化など総体を含めたものとして地域の内発的発展が提起されているといえよう。
そしてそうした地域のあり方が平和を創ることにつながっていくことも主張されている10) 
 以上のような地域主義と内発的発展論の議論をふまえて、読谷の村づくりの取り組みについて検討していこう。

〔注〕
1) 『おもろそうし』巻13の68(読谷村史編集委員会編『読谷村史 第3巻資料編2 文献にみる読谷山』1988年、P53 、以下『村史』と略記)。解釈も同書による。なお曽根信一「『おもろに謡われた読谷山』抜き書き」『読谷村立歴史民俗資料館紀要』第 6号、1982年、参照。
2) 『村史』P73 、P148
3) 『村史』P74-75、P110-112
4) たとえば、1989年12月には「読谷村は、沖縄の伝統工芸焼き物『ヤチムン』を核とした陶芸村『ヤチムンの里』づくりで水準の高い伝統文化を創造している」として、第 5回宮崎賞の地域経営活動賞( 神戸都市問題研究所) を受賞している( 『沖縄タイムス』1989年12月3 日) 。
5) たとえば、宮本憲一・横田茂・中村剛治郎編『地域経済学』有斐閣、1990年、など。
6) 政治学では、たとえば清水昭典ほか『地域からの政治学』窓社、1991年。平和学では、たとえば三鷹市・ICU社会科学研究所編『市民・自治体は平和のために何ができるか―ヨハン・ガルトゥング平和を語る』国際書院、1991年、など参照。
7) 『玉野井芳郎著作集第 3巻 地域主義からの出発』学陽書房、1990年、P88-89(初出 玉野井芳郎『地域主義の思想』農山漁村文化協会、1979年)
8) 鶴見和子・川田侃編『内発的発展論』東京大学出版会、1989年、参照。
9) 宮本憲一『環境経済学』岩波書店、1989年、P294。         
10) 『市民・自治体は平和のために何ができるか』P165-167。日本での内発的発展論の整理とその実践上の課題については、守友裕一『内発的発展の道』農山漁村文化協会、1991年、参照。沖縄については、日本平和学会編『沖縄 平和と自立の展望』早稲田大学出版部、1980年、池田孝之編著『地域からの発想 文化・社会・自然・生活環境から沖縄を読む』ひるぎ社、1989年、来間泰男『沖縄経済論批判』日本経済評論社、1990年、『新沖縄文学』第56号「特集・自立経済を考える」1983年6 月、など参照。文化・政治面からの「自立」論、独自性論は数多いのでここでは省略する。

T 読谷の歴史 村づくりの歴史的基盤

 すでに述べたように1372年は琉球の歴史にとって画期をなすものだった。このときの出来事は「琉球史にとって信頼のおける最古の記録」であり、「歴史的実在の明らかな最初の人物として『中山王察度』とその弟泰期の名が出てくる」。また初めて「琉球」の表記が使われ、琉球が明の朝貢体制に入ったことを示している記録でもある1)

 読谷の泰期を明に派遣したのは中山王だったが、当時、中山は浦添城に拠点があったと見られている。浦添城と読谷との位置関係について、柳田國男は次のように述べている2)
「城( 浦添城 筆者注) の石垣の上に立つと、干瀬の美しい東西の海が一度に見える。島歴史の八百年が見える。嘉津宇嶽の向うの麓が運天の港で、あそこには百按司の骨が朽ちて残っている。身長が六尺何寸、弓は三十人力という青年将軍が、大和から漕寄せてそこに上陸し、渚伝いにのっしのっしとやって来て、やがてこの下の牧港を出て還ってしまった。残波岬(読谷の北端、長浜港の近く 筆者注)の波はその時分から、今に至るまでこの島の恩納たちが、眺めては泣くべき波であった。恩納岳は東へ靡いて山の姿がしおらしい。あの麓では女詩人の恩納なべが、恋を歌いまた大王の徳を頌した。残波を見下して
座喜味の城山(読谷の中央部の山 筆者注)が聳えている。昔山北の鎮めにこの城を築いた時は、鬼界大島からも人夫が来て石を運んだ。読谷山にいた間は護佐丸も安泰であったが、いかに堅固の要害でも、中城はあまりに勝連の城に迫っていた。それゆえについに奸雄阿麻和利と、両立することができなかったのである。しかも今はそれがもう物語となった。」
 長浜港を眼下に見下ろす位置にあるのが、座喜味城である。中山王の下で、読谷山按司であった護佐丸が1422年頃から1440年までここにおり、朝貢貿易が始まった初期に築かれた城である。なお柳田國男の文で少し触れているが、護佐丸は1440年に中城按司となって座喜味から移るが、1458年に謀叛の疑いをかけられて殺された3)
 座喜味についても次のようなおもろが残されている。

 一 大にしに とよむ        一 大にしに 鳴響む           
   きこへなよくら           聞へなよくら             
   あん まふて            吾 守て               
   このと わたしとわれ        此の渡 渡しよわれ          
 又 さきよたに とよむ       又 崎枝に 鳴響む

 このうたの意味は、読谷山にいる評判の高く有名な神女“なよくら”よ、私を守ってこの海を渡してください、というもので、読谷山の港を出航した船の上で、残波岬を見ながら、航海の無事を祈願してうたわれたおもろである4)
 中山の朝貢以後、北山・南山もそれぞれ明に朝貢した。まもなく1416年北山、1429年南山が滅び、中山王尚巴志による統一王朝が成立した( 第一尚氏王朝) 。この王朝は1470年には尚円による第二尚氏王朝によって取って代わられた。こうした変化はあったものの琉球が明との朝貢体制に入っていたことに変化はなかった。この下で琉球は、中国だけではなく、日本、朝鮮半島、シャム・パレンバン・ジャワ・マラッカ・スマトラ・パタニ・安南・スンダなど東南アジア各地との交易を発展させ、その黄金時代を築いた5)。東アジア〜東南アジアへの広がりの中で琉球王国の繁栄を築いたという歴史認識は、今日の新しい沖縄のアイデンティティを求めようとする人々にとっての原点となっていることは後に触れることにしよう。

 琉球時代の文化との関わりで読谷は重要な位置を占めている。
 たとえば、現在沖縄で最も有名な焼物の窯場は那覇の壺屋であるが、ここが作られたのは1682年のことである。それ以前の読谷では15世紀頃から喜名焼と呼ばれる焼物が作られていた。読谷山花織(ゆんたんざはなうい)という紋織の一種で浮織とも呼ばれる織物がある。紺または白地の上に赤、黄、緑などの糸を使って、幾何学模様の花柄や絣、縞、格子などを浮かせていくものである。この花織は15世紀頃に南方から伝わったと言われており、「読谷村の長浜部落に五百年ほど前にエーヌ( 南風) シマという踊りと花織りが、ビルマ方面から伝わったという伝承」が残っている6)。東南アジアとの交易によって伝わってきた織物が読谷に根づいたものであるといえる。

 読谷出身と伝えられている「赤犬子( あかいんこ) 」がいる。彼は尚真王時代(1477-1526) の歌唱の名人あるいは吟遊詩人と言われる人物である。あかいんこについては、「ポタポタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り、馬の尾を弦にして、三味線を考え出した。その後、赤犬子は三味線を弾きながら、歌を歌って村々を旅するのであった」という伝承が残っており、三味線を作った人物と伝えられている。「歌と三味の むかしはじま里や 犬子称阿がれ乃 かみの美作」という琉歌も残っている。あかいんこについては各地に様々な伝承が残っており、三味線の発明者というのは疑問がもたれているが、読谷の人々がアイデンティティを求める一つの伝承となっている7)
 こうした読谷の文化が交易時代の琉球にその原点があることを指摘しておきたい8)

 さてこうした琉球時代は1609年の薩摩の侵略により終わる。ここまでを古琉球時代と時期区分され、薩摩侵略以降は近世琉球の時代に入る。                
 高良倉吉氏はこの古琉球の歴史的意義について、第一に「古琉球が、今日においてなお発揮されつづけている沖縄の地域的独自性を決定づけた最も主要な歴史的要因である」こと、第二に「今日われわれが琉球・沖縄と称している地域概念をはじめて成立せしめた時代」であること、第三に「琉球内部において展開した王国形成の動向が、外交・貿易の形をとりつつ東アジア史・東南アジア史・世界史に連動して営まれたものであり、『郷土史』の狭いワクではとらえられない広がりをもっている」こと、を指摘している9)。この歴史的意義は読谷の村づくりの中に生きていることは後に見ることにしよう。

 1609年薩摩の軍勢はまず北部の今帰仁城を攻略したあと、海路、読谷の大湾に上陸しそこから陸と海にわかれて首里に攻め入った。この大湾は読谷の入口である比謝川沿いの地であり、336 年後、米軍が沖縄本島に上陸したのもこの海岸線だった。沖縄を支配した日本とアメリカがいずれも読谷海岸から侵入していったことは興味深い。
 近世琉球は幕潘体制に組み込まれたが、王国として中国との朝貢体制は継続していた。この時代、特に17〜18世紀にかけての向象賢( 羽地朝秀) から蔡温の時期に、中国・福建省から伝わってきた沖縄の墓である亀甲墓、男系制度の親族組織である「門中」、琉歌、三味線音楽、琉球古典舞踊など沖縄文化を代表するものの多くが、生まれている10) 
 その後、1872年明治政府によって琉球王国が廃されて琉球潘とされ、1879年には廃潘置県により琉球藩が廃止され、沖縄県となった。いわゆる琉球処分である。ここに琉球王国は最終的に消滅した。ここから始まる近代の沖縄の終着点が1945年の沖縄戦であった。 
 近代の日本は戦争につぐ戦争の時代だった。このことは沖縄にとって、琉球時代が平和的な交易によって繁栄した時代だったのに対して、日本時代は戦争につぐ戦争の時代だったことを意味する。

 読谷に戦争の影が押し寄せたのは、1943年夏のことだった。陸軍は南西諸島に飛行場を持っていなかったので、南方作戦のために陸軍航空本部が徳之島、伊江島、沖縄北飛行場( 読谷) の建設に着手した11)。畑に突然、旗が立てられ「飛行場用地に使用する」と否応なく買収され、キビ、イモ、大豆など農作物の収穫もできないまま用地として敷きならされていった。飛行場建設には国場組があたり、村民も工事にかり出されていった。初めての空襲であった1944年の10.10 空襲では座喜味集落にも爆弾が落ちて、14名の犠牲者がでた。         
 1945年2 月県知事から非戦闘員の疎開命令が出され、村は国頭村に臨時役所を設けて疎開者の受入れに当たった。しかし多くの村民は村に残っていた。3 月25日軍より北部へ退避するよう指示が出されたが、すでに米軍の艦砲射撃が始まっていた12) 

 4 月 1日米軍は読谷海岸に上陸してきた。この直後の4 月2 日におこったのが波平集落の人々が避難していたチビチリガマでの「集団自決」だった。            
 チビチリガマでは「集団自決」により82人が死亡した。ここでは、中国に兵士として従軍し、日本軍が中国の人々に対しておこなった残虐行為を見聞してきた元兵士と同じく中国に行っていた元従軍看護婦が、「自決」を主導した。彼らが日本軍の意思を住民に押しつける役割を果たした。チビチリガマでの犠牲者の年齢別の構成は、82人のうち15歳以下が46人、国民学校生以下の12歳以下としても40人を占めている。このこどもたちには自分の意思で「自決」を判断することはできないと見なければならない。また大人たちにしてもガマのくびれたところで火をつけられたため逃げようとしても逃げられず煙に巻かれてしまった人たちがかなりいると見られる。
 このようにチビチリガマでの事態は、日本軍の意思を代弁した元軍関係者らの独走によって、多くの老人女性こどもがまきこまれて死んでいった事件であり、集団で「自決」したというようなものではなかった。「ウソを教えなければ、ほんとうのことを教えていてくれたなら、誰も死なずにすんだのに」という生存者の言葉に、自分たちはだまされていたという痛恨の念がにじんでいる。アジアへの侵略戦争の経験と捕虜になることを許さず死を強いた皇民化教育が人々を死においやったと言える13) 

 一方、チビチリガマの近くのシムクガマには波平の人々約1000人が避難していた。米兵がやってきて「カマワン、デテキナサイ」と呼びかけた。警防団の少年らが竹槍を持って突撃しようとしたが、ハワイ帰りの老人が「竹槍を捨てろ」とやめさせ、もう一人のハワイ帰りの人が外に出て米兵と交渉し、住民を殺さないことを確認してから、ガマの人たちに投降するように呼びかけた。こうして約1000人の人たちは投降して助かった。40〜50人だけは「自決」すると言って奥に入ったが4日後に投降してきた。シムクガマでは艦砲で犠牲になった4人以外はみんな助かった(このシムクガマは全長2570メートルの大きなガマであり、現在わかっているきころでは沖縄本島で玉泉洞についで長いガマである) 。

 ハワイに移民で行っていた人は、そこで当然アメリカ人というものを知っており、日本軍が宣伝するような残酷な「赤鬼」ではないことを体験で知っていた。だから住民しかいないことを米兵に話せば、命を助けてくれると考えたのだ(兵士が住民に対して、残虐な行為をおこなうか、あるいは保護しようとするのか、その違いが生まれる理由として、侵略戦争かどうか、兵士が戦争の目的をどう考えているのか、など戦争の性格が大きいことは言うまでもない)。当時、多くの沖縄の人々が日本軍の宣伝を信じこんでいたことは証言でも明らかである。米軍に捕らえられたら、女は辱められてから殺されるし、男は戦車で轢き殺される、ということを本当に信じていた。さらに住民であっても米軍に捕まることは恥辱であり、いざとなれば死ぬべきだという教育=皇民化教育が徹底的におこなわれていた。しかし、移民帰りの人の多くは、そうした教育を十分には受けていなかったし、しかも日本軍の宣伝のうそを見抜いていた。もちろん彼らは、日本軍が一緒にいた時には主導権をとることができなかった。なぜなら投降しようと住民に呼びかけることはスパイ行為とされて、日本軍に殺害されてしまうからだ。だから日本軍がいないことが必須条件だった14)

 チビチリガマの出来事は、天皇の民=日本人になろうとして( なることを強いられて) 戦争になげこまれていった帰結だった。山内徳信読谷村長が「沖縄の歴史は、かの大交易時代に象徴されるように逞しく栄えた時代があった。ところが、近世、近代の沖縄の歴史は、まさに苦難と抑圧・差別の歴史であった。そのはての姿が悲惨な沖縄戦のいまわしい体験であった」15)と述べている通り、近代沖縄の行き着いた先が沖縄戦( チビチリガマの悲劇) であった。沖縄の独自性を抹殺し、ひたすらヤマトとの一体化をめざした結果がそれだった。しかも沖縄は本土防衛・国体( 天皇制) 護持のための捨て石とされ、戦後は1947年の昭和天皇の米軍へのメッセージに見られるように、支配層の利益のために米軍支配下に差し出された。日本人になろうとしても結局、日本はあくまで沖縄を差別し、最後には切り捨てていったのであった。

 沖縄戦の教訓として山内村長は次のようにも述べている。「それは沖縄戦という悲惨な体験が、戦争というものの実体がいかなるものであるのか、その実相を暴露してみせただけでなく、軍隊というものが人々の安全を守り、平和と自由を保証してくれるどころか、結果的には破滅をもたらす以外の何者でもないことを証明してみせたのです。すなわち、軍隊は国民の生命、財産を守りうるものではなく、実際には個々の国民一人びとりにあらゆる意味での犠牲を強いる強権として存在したということであります。」16) 

 アジアの諸地域との繋がりの中で平和と繁栄を享受した古琉球の時代と、日本への強制的な一体化と戦争の時代であり、悲劇に帰結した、日本下の近代沖縄の時代という歴史の把握の仕方が読谷の村づくりの基礎にある。そうした歴史認識は、戦後の27年にわたる米軍支配と第 3の琉球処分とも言われている日本への復帰とその後の経験の中で、研ぎ澄まされてきた。日本復帰後も在日米軍基地は沖縄に集中し、アメリカのアジア中東戦略の要となっており、近代を含めて日本時代は常に戦争の時代であるといっても言い過ぎではない。次に戦後の読谷の歩みを見ていこう。

(注)
1) 高良倉吉『新版 琉球の時代』ひるぎ社、1989年、P49
2) 柳田國男『海南小記』1925年(『新編 柳田國男集』第2巻、筑摩書房、1978年、P223)。柳田のこの記述については、高澤秀次『旗焼く島の物語 沖縄・読谷村のフォークロアー』社会評論社、1988年、P17 〜参照。
3) 読谷に関する歴史記述は、前掲『村史』、読谷村役所『読谷村誌』1969年、などによる。
4) 『村史』P60-61。
5) こうした交易の詳細なデータについては、赤嶺誠紀『大航海時代の琉球』沖縄タイムス社、1988年、参照。
6) 『読谷村誌』P209。読谷山花織事業協同組合のリーフレット『読谷山花織』参照。
7) 比嘉豊光・村山友江編( 字楚辺誌資料No.20)『アカノコ』字楚辺誌編集室、1990年、所収の「アカヌク伝説」、「赤犬子シンポジウム」などより。『読谷村誌』P197-201、『村史』P90-98、参照。。なお「あかいんこ」は、「あかのこ」「あかぬく」とも呼ばれる。
8) 護佐丸による座喜味城の建設にあたっては、与論島や沖永良部島など各地の島民を集め使役した。それらの島々では、「護佐丸のことを鬼や乱暴者のようにいみきらい、今でも、大男の乱暴者には『護佐丸ヌグトーン』というそう」である(『読谷村誌』P195) 。繁栄した琉球の時代を見る時、民衆の視点から見ることが必要であろう。
9) 『新版 琉球の時代』P256-259。
10) 高良倉吉「近世琉球への誘い」( 琉球新報社編『新琉球史 近世編( 上) 』琉球新報社、1989年)P26-27 。
11) 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年、P38-41
12) 沖縄戦にいたる読谷の状況については、『読谷村誌』、読谷村役場総務部企画課編『平和の炎 Vol.1 第 1回読谷村平和創造展』1988年、同『平和の炎 Vol.3 第 3回読谷村平和創造展〔読谷村民の戦時体験記録1〕』1990年、参照。
13)  チビチリガマについては、下嶋哲朗『南風の吹く日 沖縄読谷村集団自決』童心社、1984年、同『白地も赤く百円ライター』社会評論社、1989年、参照。
14) 「集団自決」がおきたところとおきなかったところの比較については、拙稿「『集団自決』の再検討 沖縄戦の中のもうひとつの住民像」『歴史評論』1992年2 月、参照。なおこの論文の脱稿後、刊行されたものとしては、下嶋哲朗『生き残る 沖縄・チビチリガマの戦争』晶文社、1991年。
15)  読谷村『人間性豊かな環境・文化村 読谷村第 2次総合計画基本構想』1989年、所収の「序」。
16)  『平和の炎 Vol.1』所収、「序にかえて」。

U 米軍基地とのたたかい  

 読谷は米軍の上陸地点となったため、村内に残っていた住民はすべて中北部の収容所に移された。米軍は日本軍が作った北(読谷)飛行場を使っただけでなく、あらたにボーローポイント飛行場を建設した。その他、沖縄戦や本土上陸作戦にそなえての軍事物資の陸揚げ場所ともなり、村全域が米軍によって使用された。

 1946年4 月戦後初代村長に知花英康が任命され、村の仮役場は胡差( コザ) におかれた。村は読谷への復帰を要請し、ようやく46年8 月6 日に波平と高志保の2 地区の一部に住民がもどることが許された。12日村は村の再建のために読谷村建設隊を組織した。約600 人が参加し、住居の建築、農耕などの仕事にあたった。ところが 8月31日になって米軍は突然、住民移動を中止すると命令、建設隊は村を退去した。しかし、9 月11日移動中止命令が解かれ、再び建設隊が村に入った。建設作業がおこなわれるなか、10月30日に前村会議員を中心にして第 1回村政委員会がひらかれ、第 1次の村民の移動を11月20日から開始することとともに「読谷山( ゆんたんざ) 」という村名を「読谷( よみたん) 」と改めることを決定した。この村名変更は沖縄知事に申請され、12月16日認可がおりた。
 まもなく11月15日楚辺、大木地区の居住も許可され、11月20日から住民の村への移動が開始された。12月12日までの第 1次移動で約5000人が村に帰ってきたが、波平と高志保の2 地区の一部にしか住めなかったため窮屈な生活をよぎなくされた。その後、少しずつ居住許可地域が広がり、47年2 月〜3 月第 2次移動、5 月〜6 月第 3次移動、8 月第 4次移動と続いた。11月の第 5次移動で一応、村民の復帰は完了し、48年4 月に移動完了祝賀会が開かれた。しかし、米軍はこの途中でも、一度は居住を許可した地域を再度、接収するなど、住民は混乱を余儀なくされた。
 米軍に接収された土地は、第 1次移動が始まった46年11月20日時点で、村の約95%、52年4 月28日時点( 平和条約によって沖縄が日本から切り離された日) で約80%を占めていた。だから、元の地区にもどれない人々も多数あったことはいうまでもない1)

 1952年琉球民政府は、八重山( 石垣島と西表島) とボリビアへの移民計画をたて、沖縄本島からの移民を奨励した。そのため読谷からも八重山への開拓移民として移っていった人々がいた。たとえば、楚辺地区は1947年にいったんは元の地区にもどったが、1952年5 月にふたたび土地を接収され( トリイ通信施設) 、現在の所に移動した。そのため1952〜55年にかけて石垣島へ移民がおこなわれた。荒れた土地の開墾に苦しめられ、マラリヤにより多くの犠牲者を出した。この移民は、米軍に土地を奪われた人々の棄民政策であったといってよい2)
 1972年5 月15日の日本復帰までの米軍統治下では、読谷補助飛行場の一部などわずかな部分が返還されただけで、復帰時点の米軍基地は村の約73%を占めていた。
 主な米軍基地は、村中央部の読谷補助飛行場、東側を占める嘉手納と多幸山弾薬庫地区、残波岬から海岸沿いのボーローポイント飛行場・射撃場、南部のトリイステーションなどであり、そうした米軍基地の合間をぬって集落があることがわかる( 図1 参照) 。ボーローポイントには中国にむけられていた核ミサイル・メースBが配備されていた。

 80パーセントもの土地が接収されたことだけにとどまらず、米軍は様々な被害を住民に与えた。特に読谷補助飛行場は米軍のパラシュート降下訓練場として使用されたため、いろいろな落下物が住民に危害をあたえた。1950年8 月補助燃料タンクが落下、3 才の女の子が死亡した事件、1965年パラシュートでトレーラーが庭先に落下し、小学校5 年生の棚原隆子ちゃんが下敷きになって死亡した事件をはじめ、ジープや武器・弾薬箱、コンクリートの固まり、角材、石油の入ったドラム缶などがパラシュートで投下され、補助飛行場をはずれて、住宅や庭先、道路、畑などに落下し、多くの被害を与えた。隆子ちゃん事件は特に村民に衝撃をあたえ、村民が激しい抗議をおこなった結果、米軍は第313 空軍師団司令官アルバート・クラーク少将の名前で、「読谷飛行場基地におけるすべての重量装備の降下訓練は永久に取り止めます。なぜならば、貴村に安全性の完全な保証を与えることについて、確証を持つことができないからです」と7 月1 日付で回答した。ところが翌66年11月に風速測定用角材( 重さ8.5 s) が民家を直撃、屋根瓦をぶち抜いて床まで達した。読谷は村ぐるみで抗議を重ね、さすがに米軍はこれ以降、重装備の物資投下は中止するようになった。しかし、パラシュート降下訓練はひきつづきおこなわれ、どこに何が落ちてくるかわからず、村民に不安と恐怖を与えつづけている3)

 さて日本復帰の時点で約73%だった米軍基地は、1988年時点では約48%に減少している。沖縄が72年に日本復帰することは、69年11月の日米首脳会談で決まるが、すべての米軍基地の撤去を求める県民の意思は無視された。しかし同時に日本復帰は基地撤去の運動に有利な条件をもたらせたことも事実であり、そうした中で復帰前後から、基地反対闘争は新しい局面をむかえ、その運動によって米軍基地を減らしてきた。復帰後の基地反対運動についてみてみよう4)

 読谷において復帰後の基地反対運動が展開していく基点となったとされているのが、1974〜5 年にかけて村ぐるみでくりひろげられたアスファルト工場建設反対運動であった。 1973年秋、日本道路株式会社は美里村( 現沖縄市) にアスファルト工場を建設しようとしたが、拒否されたため、読谷村都屋地区に建設しようとした。沖縄海洋博に関連する建設事業のためにアスファルトの需要がみこまれたので、そのために工場を建設しようとしたとみられる。村当局はそれを認め、県も74年2 月に建設を認可した。それに対して、読谷村職員労働組合( 読職労) が反対の声をあげた。粉塵、悪臭と亜硫酸ガス、騒音などの被害のおそれやダンプが増えることによる学童や地区住民への危険の増加などの理由で反対の声が広がっていった。読職労にくわえ、沖教組読谷連合分会、都屋区民やそれに隣接する区民、青年会などが共闘し、地域ぐるみの運動になっていった。その結果、3 月読谷村議会は工場建設反対の請願と陳情を採択した。しかし5 月にはいると工場建設が開始された。反対派は「アスファルト工場建設反対協議会」を結成して、工場建設現場入り口でのすわりこみや工事の実力阻止などの反対運動を展開した。村は村民の反対の声におされ、工場側に建設の中止を訴えたが平行線に終わった。その中で当初、工場の建設を進めた古堅村長が責任をとって辞職し、結局、工場側は建設を断念した。読職労は、この運動を総括して、「この『アスファルト工場建設反対』での闘いが、その後の読谷村での『村ぐるみ住民運動』の基点( 起爆剤) になり、その後の革新基盤といわれる読谷村の進む方向を決定づけていったことも否定できない」と評価している5)。この直後の7 月の村長選には山内徳信氏が無投票で村長に選ばれた(1990 年5 選された) 。山内氏は読谷高校の社会科の教師であったが青年たちの支持をうけて、「人間性豊かな環境・文化村づくり」をかかげて村長になった。山内村長の登場という点でもアスファルト工場反対運動は大きな転換点となった6)

 村ぐるみの運動によって米軍基地の返還をかちとった闘いが、米軍不発弾処理場撤去の闘いだった。この不発弾処理場は、戦後まもなく沖縄各地に残された不発弾を処理する施設として作られ、不発弾を爆発させて処理していた。しかし、集落や道路から近かったので、爆発した破片が集落にも落下し、きわめて危険であった。破片の落下だけでなく、爆発による騒音・振動により家屋に亀裂がはいり、雨もりになやませられるなどの被害も与えていた。

 1970年5 月黙認耕作地で作業をしていた農夫の足元に破片が落下する事件がおこった。このことを重視した村議会は12月「即時中止」を米軍に要請した。このときには「他の場所に処理場を移すことは、当該地の市町村に迷惑をかける」との理由で「撤去要請」はおこなわず「中止」要請にとどまった。ところが翌1971年1 月26日重さ400 グラムの砲弾の破片が座喜味の民家を直撃、屋根瓦3 枚をぶち抜いて、柱に突き刺さるという事件がおきた。幸い住人には被害はなかったが、少しずれれば大惨事になるところだった。これが村民にあたえた衝撃は大きく、村議会はただちに「処理場の即時撤去要請」決議を全会一致で採択し、米軍に抗議した。米軍は不発弾の処理の際に2 〜4 フィートの粘土でおおって破片の飛散を防止すること、50ポンド以下の爆発物を扱うこと( これまで100 ポンド以下) などの改善策をとり、さしあたり大きな事故はなくなった。 

 ところが1973年1 月毒ガス事故が発生した。その4 年前の1969年7 月沖縄米軍基地に致死性ガス兵器が配備されていること、毒ガス事故により25人が入院中であることが明らかになった。アメリカ国防総省はすぐに毒ガス撤去を表明し、日本復帰前の1971年中に毒ガスは沖縄から撤去されたことになっていた7)。しかし完全撤去されたはずの毒ガス事故が復帰後に起こったのである。1973年 1月11日不発弾処理場で催涙ガスの中和処理をおこなった際、あやまってガスがもれ、北からの風にのって一気に南に広がった。南方約3 kmにあった読谷高校では校舎内やグランドにいた教職員や生徒が突然、のどや目に痛みを感じ、鼻水が出、くしゃみや咳が出た。処理場から出たガスが座喜味地区、読谷飛行場を抜けて、高校まで流れていったのである。村民は「毒ガス事件に対する抗議村民大会」を開くなど抗議を重ね、あらためて処理場自体の撤去を求める声が強まってきた。この頃から米軍は「戦後処理」という名目で、不発弾の処理作業を土日を除いてほぼ連日のようにおこなっていた。さらに73年4 月日米合同委員会で読谷の処理場を自衛隊が米軍と共同使用することが合意されたことが判明した。処理場の撤去どころか、自衛隊が入ってきて基地が強化されることに村は反発した。    

 そうした中で1974年7 月30日砲弾の破片が処理場から1 q周辺に飛び散り、住宅建設現場の作業小屋やゴルフセンターなどに落下した。周辺の道路にも破片が散乱していた。この少し前にもゴルフコースに落下したり、陶芸家金城次郎氏( 現在、人間国宝) の焼き窯のトタン屋根をぶちぬいたりしていた。
 こうした事故のため不発弾の処理は当分中止されることになった。その間、県は不発弾の処理について読谷村に協力を求めてきたが、村は、度重なる事故に対して改善がなされず「村民の生命、財産が極度に脅かされ、村民としてこれ以上我慢することができない」として県の要請を拒否した。

 1975年7 月11日米軍は読谷村に処理場使用再開を通告してきた。村当局、読職労などは実力で阻止することを決め、翌12日朝から村民約200 名が処理場入口に座り込んだ。不発弾を積んだ米軍のトラックは処理場に入れず、断念して帰っていった。このことにより、米軍は処理場の使用をあきらめた。その後、県などが読谷村の説得にあたるが平行線をたどり、1975年9 月30日米軍はついに処理場と集積場の閉鎖を決定、1978年3 月31日処理場1.19〓が返還された。返還された土地は北側にダムが建設されて水源地となり、南側はヤチムン( 焼物) の里が建設されるが、その点については後に述べることとする。
 この不発弾処理場撤去の闘いは、「その後の読谷村の反基地・軍用地返還闘争の方向性を決定付けたと言える」と村当局によって評価されており、それは次の3 点とされている8)

「・役場執行部、職員が村民と一体となって行動する。
 ・常に冷静沈着に整然と行動し、非暴力の闘争をする。
 ・軍用地とはいえ、村民の土地であり、行政のきちんとした計画の下に文化的・平和的跡地利用をはかる。」

 第一の点については「役場の職員も現地にいって住民とともにたたかう」ことが言われており、役場とは「村民の役にたつ場」でなけれはならないという姿勢がある。
 第二の点については、山内村長の思想的バックボーンには魯迅やガンジーの思想があることを指摘しておきたい9)
 第三の点については、次章以下でくわしく見たい。
 処理場撤去運動は山内村長の下での最初の大きな運動であり、読谷の運動にとっても一つのステップとなったものであった。

 続いて闘われたのが、読谷飛行場内のアンテナ基地建設反対運動であった。
 ことの発端は1976年 7月12日だった。ある農民が飛行場内の黙認耕作地で農作業をしていたところ、民間作業員が重機を乗り入れて、真っ直ぐの溝を掘っていた。そこで何をしているのか問い詰めたところ米軍の通信用地下ケーブルのための溝だということがわかり、その農民はただちに村役場に知らせた。村は米軍に確認したところ、海軍の対潜哨戒機P3C からの受信用アンテナの建設工事であることがわかった。 読谷飛行場はすでに述べたように戦争中の1943年に日本陸軍によって建設が始まった。このとき土地を強制的に接収された地主の証言では「戦争に勝つための飛行場設定であるから、戦争が終れば土地は地主に返す」とはっきりと約束され、土地買収はおこなわれなかったという10)。つまり所有権の国への移転はおこなわれなかった。たとえば飛行場内の一角の土地についての1944年 9月20日付の「家督相続による土地所有権移転登記済証書」が残っており、そのことを裏付けている。ところが戦後、米軍は飛行場内の「地主による土地の所有権申請」を拒否し、土地調査もおこなわないまま所有権証明書が作成された。日本復帰に際して日本政府は一方的にそれらの土地を国有地として登録してしまった。
 1970年6 月座喜味の青年4 人が調査をおこない、読谷飛行場は国有地ではないと結論づけ、1974年6 月読谷飛行場獲得期成会が結成された。この運動は全村的に広がり、1976年2 月読谷飛行場用地所有権回復地主会( 以下、地主会) が結成され、本格的に返還運動に乗り出したところだった。地図でもわかるように読谷飛行場は村の中心部を占めており、村の発展にとって障害となっている。アンテナの設置は軍事基地としての機能の強化につながり、返還をますますおくらせることになることは明らかだった。

 1976年8 月村議会は工事の中止・撤回を求める決議を採択し、米軍や防衛施設庁、外務省、沖縄県などに要請した。10月6 日には地主会177 名が座り込み闘争に入った。これまでに基礎コンクリートの流し込みとケーブル配線の穴堀り工事は終了していた段階だった。この日工事のためにきた作業員とこぜりあいがあったが、結局工事はできず作業員は引き上げた。翌日からも常時50〜60人が座り込みを続行した。10月16日米軍は工事を再開しようとしたが、これも実力で阻止した。10月18日読谷飛行場用地所有権回復支援共闘会議が結成された。これには読谷村、地主会、読職労、村議会、区長会、青年団、婦人会、教職員組合、社会大衆党、社会党、共産党、公明党など16団体が参加、議長には山内村長がなり、事務局は読職労が担当した。23日には豪雨の中で村民約800 人が集まって、共闘会議主催の読谷飛行場内米軍アンテナ設置反対村民大会が開催された。大会は、「アンテナ設置は、反戦平和を求める村民世論に逆行し、軍事基地の強化、固定化につながるものであり、また地主会が進めている飛行場用地の所有権回復運動を踏みにじるものでもある。さらに読谷村の地域開発の阻害要因にもなるものでもあり、断じて認めることはできない」とアンテナ設置計画の撤回と飛行場の所有権の回復を宣言する大会宣言を出した。
 米軍は11月10日工事を一か月間中止することを工事担当業者に通告したので、座り込みは11月13日で解除した。10月6 日から38日間のべ2507人が座り込みに参加( 地主会38日2324人、読職労29日183 人、婦人会、青年会などの数字は不明) 、1 日平均66人が参加したことになる。

 その後、那覇防衛施設局が機動隊の導入を県警に要請しているという情報もはいり、緊迫した状況が続いた。米軍と日本政府があくまで強行しようとするのならば「非常手段を行使する」しかないと判断した村長は、1977年2 月7 日カーター米大統領に直接手紙を出して、工事中止を訴えた11)
 この手紙の中でアンテナ基地に反対している理由として次の3 点をあげている。 

「@アンテナ基地になると地主への土地の返還がさらにおくれる。
 Aアンテナ基地になると村の基本構想に基づく土地利用が出来なくなる。
 B村の55%が米軍基地であり、これ以上基地の拡大を認めることは出来ない。」

 この反対理由に続けて、村の庁舎、教育文化、社会福祉活動のセンター、運動公園などの飛行場跡地の利用計画を紹介している。手紙の最後には「アメリカ合衆国の独立宣言の中に『すべての人は生まれながらにして平等で生命、自由、および幸福の追求をする権利があり…』とうたわれております。私達村民にも自分達の夢を実現させ幸福になる権利もあります。大統領の就任演説で『われわれの人権を守るという約束は絶対でなければならず…強者が弱者を迫害してはならず、また人間の尊厳は高揚されなければならない』と述べられたお気持ちで、読谷村民が要請しております読谷飛行場内の米軍アンテナ工事を即時中止して下さいますようお願い申し上げます」と独立宣言の精神に訴えている。

 この手紙はマスコミにも大きく取り上げられ、2 月18日防衛施設庁はアンテナ建設を他の地域への変更することを検討していると発表、米軍からも「白紙撤回する」との回答が村長になされ、アンテナ工事を阻むことに成功した。このアンテナ予定地には、後に運動公園が建設されることになる。 このように村ぐるみの運動が、不発弾処理場の返還、アンテナ基地建設の阻止という成果を生んだ。そうした運動の中で、村内の米軍基地を48%にまで減少させてきた。と同時にこうした運動が狭い意味での反基地・反戦運動にはとどまらない、村づくりの取組みの一環をなすものであったことが重要である。

(注)
1) 以上、『読谷村誌』、『平和の炎 Vol.1』より。
2) 下嶋哲朗『南風の吹く日 沖縄読谷村集団自決』P22-28、参照。八重山開拓移民の実態については、比嘉豊光・村山友江編『八重山のすびんちゅ』読谷村楚辺誌編集室、1990年、に詳しい。なおチビチリガマの「集団自決」の掘り起こしのきっかけになったのが、この時に読谷の波平から石垣島へ移民した人からの証言であったことは歴史の奇遇といえようか( 下嶋前掲書P28-29) 。
3) 『平和の炎 Vol.1』、読谷村役場『読谷補助飛行場の早期返還を求めて』1991年、沖縄県読谷村職員労働組合『ドキュメント 復帰後の読谷村民の闘い』1983年、参照。
4) 注3)の文献以外に、平和のための読谷村実行委員会『続編 心の楔 とりもどす平和読谷村』1987年、読谷村職員労働組合『30年記念誌 揃てぃ行かな』1991年、参照。5) 前掲書『ドキュメント』P22
6) 山内徳信「文化村づくりへの情熱」『青い海』1977年秋期号、に山内村政の基本方向が簡潔に述べられている。             
7) 沖縄から撤去された毒ガスはジョンストン島に移された。そのジョンストン島で毒ガスが問題をおこしている(『パシフィカ』1990年2 月号、をはじめ同誌が継続的にレポートしている)。
8) 『平和の炎 Vol.1』P51 。読谷村総務部企画課小橋川清弘氏の話で一部、補った。
9) 金城実『沖縄を彫る』現代書館、1987年、P172-176、参照。
10) 『ドキュメント』P75 。
11) 『平和の炎 Vol.1』P59-61に全文収録されている。


V 歴史と地域に根ざした平和のための村づくり
                  @ 返還軍用地の跡地利用
                                       

 現在の読谷村の村づくりの基本になっているのが、1978年に策定された「読谷村総合計画基本構想」、その後、1989年に新たに策定された「読谷村第 2次総合計画基本構想」である。第 2次総合計画基本構想( 以下「構想」と略記) は1988年度を基準年度とし1997年度を目標年度としている。二つの計画はともにその将来像=あるべき姿として「人間性豊かな環境・文化村」を掲げている1)
                                   
 「第 2次総合計画基本構想の特色は、表記法に日本の共通語と地方語である沖縄口( うちなーぐち) を併記採用したことにある」とされている2)。「テーマと目標」が1〜8の8項目と「21世紀に向けたむらづくりの新展開」の計9項目からなっているが、それぞれの表記は
「1.豊かな自然に育まれたむらづくり 自然(しじん)や腰当(くさてぃ) 」
「2.足元から築く平和むらづくり 創造てぃ行かな平和ぬ世」
「5.伝統工芸を生かすむらづくり 織い美らさ花織・作い美らさやちむん」
というように共通語と沖縄口の両方が使われている。さらに「構想」は見開き方式で書かれているが、ページの上段3 分の1ぐらいのスペースに共通語で「テーマと目標」「施策の大綱」とその説明文が書かれている。残りの下段には、岬君とその家族の会話形式で上段の記述を説明している。それが沖縄口( うちなーぐち) で書かれている。たとえば「5.伝統工芸を生かすむらづくり」のところでは、

 〔おばぁー〕思(うぬ)い込(く)みてぃ花織(はなうい)織(う)いぬ時(とぅち)ねー心(くくる)ん落(う)ち着(ち)ちゅんやー。
 〔ねーねー〕花織(はなうい)や南(ふぇー)ぬ島から来(ちょー)しやいびーんでぃやー。
 〔おばぁー〕一時(ちゅてぇー)や無(ねー)んなとーたしが、布織(ぬぬうー)いるおばぁ達(たー)が頑張(ちば)てぃ再興(うく)ち、今(なま)や若(わか)さる織子(ぬぬう)いん多(うふ)くなとーんどー。

というような形でふりがな付きで書かれている。 
 こうした表記の仕方を採用した理由について山内村長は「この試みは、言葉は文化であり、同時に文化の第一歩は言葉である、との認識に立ち、人と人を結びつける絆こそ『言葉』である。そして、沖縄の最大の文化が『沖縄口』であるという誇りを、後世に伝えて
いく責任があるという考えからである。沖縄の言葉に『生れ島(うまりじま)の言葉(くとうば)忘(わし)りーねー国(くに)ん滅(ふる)ぶんどー』というのがある」と述べている。
 こうした認識の背景にはもちろん戦争への反省がある。1930年代から40年代にかけて戦争動員体制が作られていくなかで、沖縄口は否定され( もちろんそれ以前からそうした動きはあったが) 、ヤマトへの強制的同質化が推進されていった。沖縄に配備された第32軍司令部が「爾今軍人軍属を問はず標準語以外の使用を禁ず 沖縄語を以て談話しある者は間諜として処分す」と指示したことはよく知られている。これは言葉だけの問題ではなく、沖縄の独自性が抹殺されていった、その行き着いた先が沖縄戦だったのである。したがって沖縄の独自の言葉・文化をどのようにとらえるのか、ということ自体が戦争体験の総括のあり方と密接に結びついている。

 Uで米軍基地反対運動について見てきたが、読谷村の特徴は返還後の跡地利用計画と基地返還運動を結び付けて展開してきたことである。村の大部分を基地に取られていた読谷にとって、取り戻した跡地をどのように利用するのか、が村の将来にとってきわめて重要な課題だったことはいうまでもない。その跡地利用の際に読谷と沖縄の歴史についての主体的なとらえ方が反映していることはこれから見ることにしよう。
 まずこれまで返還を実現した土地の跡地利用の状況について見ておきたい3)( 図1参照) 。

@ ボーローポイント射撃場・飛行場跡

 村の北西部にあたるこの地域には、米軍が上陸とともにB29 用の飛行場を建設した。しかし、戦後は他の飛行場が整備されたので、戦車の射撃等の演習場になり、飛行場の北側の残波岬一体は戦闘機の対地射撃訓練や陸軍の射撃訓練、野外訓練、後にはホーク・ミサイル( 対空ミサイル) の実射訓練などに使用された。また1961年から62年にかけて対中国向けの核ミサイル・メースB の基地が飛行場横に作られ、読谷は核ミサイルの発射基地となった。核ミサイル・メースB は1969年末までに撤去され、ボーローポイント地域も日本復帰後の1974年から76年にかけて順次、返還された。
 米軍に土地を接収されたため、基地外に居をかまえていた宇座と儀間の2 つの集落が復元され、そのための集落基盤整備がおこなわれた。それ以外の飛行場一帯は多くが農業基盤整備により農地にもどった。ただ海岸線の一帯は農地に適さなかったのでそのままにされ、現在リゾート開発が進んでいる。

 残波岬一帯は1974年11月に返還され、1980年に村民のためのレクリエーション環境の形成をはかるという基本方針が打ち出された。1983年2 月に45haが残波岬公園に指定され、1983年11月勤労者野外活動施設「残波岬いこいの広場」として諸施設が完成した。ここには村営レストランの入ったセンターハウスをはじめ様々なスポーツレジャー施設がある。この広場の一角に金城実氏が約1300人の村民と共同で作り上げた彫刻「残波大獅子」が1986年に完成した。すでに述べたように残波岬は、かつて交易で栄えた長浜港に出入りする船を見送る場所にある。
 そこに海の方( 中国大陸) を睨んだ高さ7 メートル、長さ6 メートルもある大きな獅子の像が据えられた。金城氏がこの像を作ったきっかけは、残波岬のバーベキューハウスで読谷で飼育している牛のバーベキューを泡盛「残波」を飲みながら食べている時、安田慶造助役が「ともかくも、でっかい獅子を作ってもらいたいんですが」と話を持ちかけたことにあるという4)。大獅子の後ろには「夢を語れ! ロマンを抱け! / 人々のしあわせ 平和のために!!」という村長の言葉が刻まれている。琉球時代を通して見た未来へのロマンの産物だろう。この大獅子の完成とほぼ同じ頃、1986年2 月残波大獅子太鼓が新垣武常氏を中心に結成された。  

 残波大獅子の制作に先立って、実物の約3 分の1大の進貢船の模型が作られている( 長さ16メートル、幅4 メートル) 。1985年からはこの進貢船を使って泰期を主役とする歴史活劇・創作「進貢船」がおこなわれるようになり、毎年秋の読谷祭りのフィナーレを飾るスペクタクルとなっている。さらに実物大の進貢船を復元しようとする動きについて、残波大獅子太鼓の新垣氏が「中国と交易とあった時代を復元したいのではなく、沖縄が誰に対しても対等にものが言えた時代を復活させてみたいのです。進貢船はそのための新しい交通手段であって、人と物の交流、とくにアジア各国との新しい交流をめざしているのです」5)と語っている。
 このように残波岬の公園はたんなるレクリエーション施設にととまらず、読谷の人々の歴史と文化の原点ともかかわるものとなっている。
 この残波岬に1988年沖縄県内で最大級のリゾートホテル・残波ロイヤルホテル( 大和ハウス工業 )が開業した。村は「共存共栄という新しい理念にたち、むらづくりの一翼をになうべく」6)とリゾートホテルの誘致を進めた。このことは後で触れたい。

Aボーローポイント射撃場Aサイト(座喜味城跡)

 高さ127mの山を利用して作られた座喜味城の跡は、戦争中に日本軍が高射砲陣地を築いていたため米軍の猛攻をうけて破壊されてしまった。戦後は米軍のレーダー基地として利用された。このレーダーは地対空ミサイルであるナイキミサイルを捕捉・識別・誘導するためのものであった。
 1971年5 月に出された読谷村経済開発基本構想において、城跡周辺の環境整備事業が計画され、1972年5 月日本復帰にともない座喜味城跡は国の史跡に指定された。1974年10月基地が全面返還され座喜味城跡総合公園として整備が進められた。城壁や建物遺構が復元され、麓には読谷村立歴史民俗資料館(1975 年開館、89年新館開館) と村立美術館(1990 年開館) が建てられている。  

 座喜味城はさきにも述べたように琉球時代の対外交易ときりはなせない城であり、そこに作られた文化施設は読谷のアイデンティティのあり方と不可分の内容となっていることはいうまでもない。資料館や美術館の展示内容にそれが表れているだけでなく、村内の各集落ごとの民話を調査し、集落ごとに民話集として刊行する活動などにも表れている7)
 資料館には、約7000年前の縄文時代早期の遺跡である読谷の渡具知東原遺跡の出土品をはじめとする考古遺跡の展示、読谷山花織に関する展示など読谷の歴史に関わる展示が充実している。また美術館は定期的に展示が入れ替わるが、やはり最も充実しているのがヤチムン( 焼物) の展示である。これは後でも述べるように読谷は今、焼物の沖縄の拠点でもあるからだ。

 座喜味城跡で1991年9 月に興味深いイベントがおこなわれた。演劇空間「大地」主催( 読谷村教育委員会など共催) の「城( ぐすく) 劇」「シェイクスピアin座喜味 真夏の夜の夢」が城跡を利用して2 日間演じられた。この城壁を利用した初めての劇である。物語はシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を脚色して、原作の公爵にあたる役に座喜味城を作った護佐丸がなり、時代や国をこえた登場人物が出てきて、沖縄口、ヤマト口( 日本語共通語) 、英語の3 つの言葉が飛び交うというものであった。読谷村の民俗芸能である座喜味棒も登場し、読谷高校生も参加した。演劇としての評価は議論があるとしても、沖縄・読谷の歴史を生かしながら、日本とアメリカ( イギリス) という沖縄の社会文化に深く浸透している2 つの大国の文化を組入れながら、何かを創りだそうとする意欲が見られる企画であった。山内村長は「城は文化財として保存も大切だが、文化村創造の一環として積極的にたずさわった。公演は大成功だ」と述べている8)。自分たちの歴史と文化財に対する姿勢が表れている公演であったといえる。

B嘉手納弾薬庫地区( 元不発弾処理場)

 嘉手納弾薬庫地区にあった不発弾処理場についての反対運動はすでに紹介したとおりであり、1978年3 月に完全返還が実現した。この跡地には一つは農業用水を確保するために長浜川ダムが建設された。また国道58号線沿いの場所には沖縄ハム総合食品( 株) の読谷工場が建設され(1981 年) 、さらに隣接して( 株) 沖縄黒糖の工場、メルツァーレストランが開業した(1987 年) 。この黒糖工場は沖縄本島にある唯一の黒糖工場である9)。沖縄ハム工場での被雇用者は約110 名であり、雇用効果は大きいと指摘されている10) 
。沖縄ハムではハム・ソーセージなどとともにソーキ、テビチ、ラフテー( いずれも豚を使う) や山羊汁などのレトルト食品を製造している。黒糖にしてもこれらのレトルト食品にしても沖縄の伝統的な食品である。

 この地区の跡地利用で最も興味深いのが、ヤチムンの里の建設である。すでに紹介したように読谷には古く、喜名焼があった。1682年に琉球王朝の政策で、現在の那覇の壺屋に窯元が集中させられ、以後、壺屋が沖縄の焼物の中心となった。しかし那覇市の人口増と市街地の拡大によって壺屋は住宅地に変わってしまい、登り窯を使用することがむつかしくなってきた。現在では登り窯はほとんど使用されず、もっぱらガスで焼かれている。そのため本来のヤチムンを焼こうとする陶工は別の場所を探し始めた。当時、県の無形文化財の技能保持者であった金城次郎氏(1985 年重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定) が1972年に壺屋を離れ、読谷に移ってきた。これがきっかけとなって1975年ごろには陶芸村を作るという構想が固まってきた。この陶芸村は「ヤチムンの里」と名付けられ、不発弾処理場の返還運動を進めながら、一方で大嶺実清氏をはじめ4 名の陶工とともに構想を練っていった。ヤチムンの里には、9 連房の登り窯と陶工の工房兼住宅4 軒が松林の中に作られ、1980年7 月に窯開きが行われた。この登り窯は金城氏の工房のすぐ近くである。

 登り窯や工房の屋根には赤瓦が葺かれており、沖縄らしい里となっている。登り窯の横には村営の共同販売センターがあり、ここで焼かれた焼物を購入することができる。現在、村の資料によると読谷の窯元はヤチムンの里を中心に読谷各地に22人がいる。読谷は沖縄の焼物の中心地の一つとなっている11) 。かつての喜名焼の窯跡はこのヤチムンの里の
近くにある。300 年の時を隔てて、伝統に依拠しながらも新しい文化の地となりつつあるといえる。

C波平陸軍補助施設など

 読谷補助飛行場を除く、その他の返還地の跡地利用を見ておきたい。
 まず波平陸軍補助施設( 都屋地区) は高射砲部隊や兵舎として使われていたが1974年10月に返還された。当時、読谷村は無医村だったので医療センターにする計画が立てられた。返還地の約8 割を村が買上げ、1978年5 月読谷村診療所が完成した。そのそばには県立よみたん救護園、県立都屋の里( 身障者療養施設) 、農村婦人の家が建てられ、「医療福祉のメッカ」となっている。

 トリイ通信施設の南側の一部( 渡具知地区) が1973年9 月に返還された。米軍の上陸地点にあたるこの地区は1951年に一旦は住民に戻されたが、1953年に米軍が再度、土地を強制接収したところである。そこには遠距離用アンテナなどストラトカム受信施設が設けられたが、ベトナム戦争後、この機能がトリイ通信施設に統合されたため、返還された。跡地には渡具知集落が復帰するための公共施設の整備と土地改良総合整備事業がおこなわれ、78年9 月より住民の移住がおこなわれた。
 渡具知地区の隣の旧古堅地区にあたる地域は米空軍の嘉手納住宅地区となっていた。ここは1977年11月に返還され、土地区画整理事業がおこなわれて、住宅を中心に整備がおこなわれた。


D読谷補助飛行場( 一部)

 読谷飛行場の北側の一部が1970年7 月に返還された。そのうちの一部の地域は座喜味地区の農村基盤総合整備事業の一部として、土地改良や農道整備がおこなわれた(1976 年から1982年まで) 。また一部の地域は喜名地区のための集落整備事業がおこなわれている。

 この返還地の跡地利用で注目されるのは、飛行場全体の跡地利用計画をも視野に入れて、跡地利用が進んでいることである。
 現在の基地の北側に隣接する地域には、読谷村総合福祉センター、読谷村伝統工芸センター、勤労者体育センターなどが建設されている。総合福祉センターは、戦前の読谷国民学校跡に建てられており、戦争中は日本軍の兵舎として利用された。この福祉センターは、村民が一緒になって赤土をこね、ヤチムンの里の登り窯でレンガを焼いて、その手作りのレンガを使うという運動を展開しながら建設されたもので、1980年に完成した。建物自体、現在の米軍基地との境界線のぎりぎりに建てられている。
 伝統工芸センターは福祉センターと道路をはさんで向かい側の、これも基地とぎりぎりのところに建てられている。ここでは読谷の伝統工芸である読谷山花織を継承発展させるために後継者の養成や技術指導、製品の研究開発などをおこなっている。当然のことながら、赤瓦の屋根である。

 15世紀以来の伝統がある読谷山花織は日本に併合されてから衰退し、途絶えてしまっていたが、1964年当時の池原昌徳村長らが呼びかけて、90年ぶりに復活させた。1976年には通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されるようになった。伝統工芸センターで技術を習得した読谷の女性は、機などを借りて、自宅で仕事をするか、波平・楚辺などにある花織工房で仕事をしているとのことで、現在、約245 名が登録されているという12)
 福祉センターの側には勤労者体育センターがたてられている(1981 年) 。これは現在の基地内にある施設と関係があるので、あとで触れたい。
 このようにヤチムンや花織などの歴史に根ざした産業を復興させているが、こうた読谷の産品は、国道58号線沿いにある村営の共同販売センターに置かれている。レストランも併設したこのセンターでは、焼物や花織をはじめ沖縄ハムのレトルト食品など読谷の産品のショールームとなっている。もちろん焼物の展示がもっとも大きなウェイトを占めている。
 1978年4 月に読谷飛行場の滑走路の東側部分が返還された。多くは農地になっているが、ここは飛行場全体の転用計画の中で、跡地利用が計画されている。

 以上、米軍基地反対運動を村ぐるみでおこないながら、その跡地利用も着実におこなっている状況を見てきた。このように歴史に基礎をおいた地場産業の育成、歴史的総括のうえに立ったアイデンティティを探究する文化施設、レクリーション施設の建設をはじめ住宅や農地、道路の整備などを進めてきているのである。

(注)
1) 読谷村『人間性豊かな環境・文化村 読谷村第 2次総合計画基本構想』1989年
2) 同前、「序」
3) 以下の記述は、『人間性豊かな環境・文化村 読谷村第 2次総合計画基本構想』、『平和の炎 Vol.1』、平和のための読谷村実行委員会『続編 心の楔 とりもどす平和 読谷村』など参照。斉藤むつみ「二一世紀の批判に耐える村を」( 辻清明監修『事例・地方自治 第 4巻 地域振興』ほるぷ出版、1983年) が読谷の村づくりについてまとまったレポートをしている。返還地の跡地利用についての沖縄全体の状況については、仲地博「軍事基地跡地利用の歴史・現状・課題」(東江平之ほか編『大田昌秀教授退官記念論文集 沖縄を考える』大田昌秀先生退官記念事業会、1990年) を参照。
4) 金城実『沖縄を彫る』現代書館、1987年、P32-35。
5) 高澤秀次『旗焼く島の物語』P47-48。残波大獅子太鼓については同書に詳しい。
6) 『平和の炎 Vol.1』P80 。
7) 『読谷村立歴史民俗資料館 年報』第14号、1989年、参照。
8) 『沖縄タイムス』1991年9 月26日。公演の数日前に読谷を訪ねたが、あちこちにこのポスターが貼ってあった。残念ながら見ることはできなかったが。
9) 黒糖工場は離島に7か所ある。また原料糖(分蜜糖)工場は沖縄本島に5、離島に9、計14か所にある( 沖縄黒糖発行のパンフレット参照) 。なおサトウキビは8 世紀ごろ中国南部から沖縄に伝えられたといわれており、現在、サトウキビは沖縄の品目別耕地面積でも農産物粗生産額でも第 1位を占めている。
10) 『平和の炎 Vol.1』P96
11) 読谷焼は、人間国宝の金城次郎氏の作品にしても、本土の焼物に比べてかなり安価である。金城氏は次のように語っている。「いまは、生活の必需品をつくって、多くの人に楽しんでもらうことばかり考えているさ。一生焼きつづけても、みんなにゆき渡らんからね。だから、僕は陶芸家じゃないよ、陶工なんだ。職人気質を大切にする職人なんだ。」( 『青い海』60号、1977年2 月、P83)。
12) 伝統工芸センターでの説明(1991 年3 月) 。

 

W 歴史と地域に根ざした平和のための村づくり
               A 読谷飛行場の返還にむけて
 

 

現在、残されている読谷村内の米軍基地は次の通りである。

 嘉手納弾薬庫施設      1145ha( 村外を含めた総面積2892ha)
 トリイ通信施設        198ha
 読谷補助飛行場        191ha
 楚辺通信施設         54ha  
 瀬名波通信施設        61ha        計1649ha( 村面積の48%)

 嘉手納弾薬庫地区は、自然の地形をそのまま利用したもので、嘉手納基地とつながっている。読谷村内で最大の面積を占めているが、概して山地である。ただ戦前は5 つの集落があったが、いずれも締め出され、村内の別の場所に移動を余儀なくされている。 トリイ通信施設は米陸軍が管理しているが、米軍の重要な情報処理センターとして、米4 軍が使用している。1984年以来グリーンベレーが配備されており、基地機能の強化が見られる。
 楚辺通信施設は通称「象のおり」と呼ばれている。直径約200m、高さ約28m の巨大なケージ型アンテナと100 本余りの棒状アンテナ群からなる通信所である。アンテナ部以外は黙認耕作地となっている。シムクガマはこの真下にある。 瀬名波通信施設は空軍が管理し、海外放送情報サービスF.B.I.S が使用している。 読谷補助飛行場は海兵隊が管理し、パラシュート降下訓練などに使用されている。
 今、読谷村にとって最大の課題となっているのが、村の中央部をしめている読谷補助飛行場の返還とその転用事業である。 1977年にアンテナ建設を中止に追い込んだことはすでに述べた通りである。その後、村は読谷飛行場の転用計画を検討し、1984年には読谷飛行場転用計画審議会を発足させ、85年11月に読谷飛行場転用計画答申がなされた。一方、日米合同委員会は、1980年10月パラシュート演習場の移設を合意したが、「移設」であるため代替地を用意しなければならず、今日にいたるまで「移設」の目処はたっていない( もちろん撤去についても同様である) 。しかし、1987年には「読谷飛行場転用基本計画」について読谷村、沖縄県、日本政府の間に共通の理解が得られた。

 こうした飛行場の全面返還にむけた取り組みを進めるとともに1987年に開催される沖縄国体にむけて、ひとつの試みがおこなわれた。それは米軍基地の共同使用という形態だった。転用計画では、飛行場の北側は村民センター地区と位置づけられ、その中に野球場が計画されている。この地域は先に述べた福祉センターや勤労者体育センターに隣接する地域である。国体にあたって、ソフトボール会場を読谷に誘致する方針で、そのために差し当たり返還が実現しない状況のもとで、基地の日米共同使用という形で野球場を基地内に作ることが考えられた。その日米共同使用を実現するため、1984年12月に読谷村は那覇防衛施設局との交渉の際に念書を取り交わした。この念書は翌年6 月に公にされて議論を呼んだ。念書の内容は、@パラシュート降下訓練場を既定方針通り早期に移設してもらいたい A移設が実現する間、米軍の降下訓練については反対行動をせず、村の担当職員で安全確認のため見守ります B日米共同使用地域では、共同使用にそぐわない集会はしないの3 点である1)
 この結果、読谷飛行場内の6 万1000uがソフトボール会場( 平和の森球場) 、多目的広場、駐車場などとして共同利用されることになった。運動広場と併せて、合計9 万5000uが共同使用となった。そして1987年5 月球場が完成した。  
 この念書について、読職労は「高い次元からの理念に基づく政策の展開」としてとらえて村長の措置を支持した2)。平和のための読谷村実行委員会のパンフレットは次のように評価している。
 「山内村長の提出した念書の真意には、米軍にとっては現状ですら降下訓練場は狭いとされている上に新たに会場部分を削減されてしまえば、いよいよ読谷飛行場での訓練は断念せざるを得ない状況に追い込まれる結果を見越しての軍用地内誘致と思われるが、会場を誘致することで、飛行場の全面返還の時期を早めることの出来る好条件と受けとめ念書提出の決意もそのステップ的戦術ではないかという理解のもとで取組まれている。たとえ国体とはいえ、現に米軍が使用している訓練場の中を会場に設定出来たということは、読谷村ならではの飛行場全面奪還に向けた創意的戦術ではないでしょうか。」3)

 この念書問題の評価は別として、基地の中に共同使用という形で施設を作り、実質的に村民が利用していくという方法は興味深い。たとえば、読谷飛行場( 米軍基地) に隣接して建っている伝統工芸センターのすぐそばには「US MARINE CORPS FACILITY 米国海兵隊施設」という立て看板があり、そこには「無断で立ち入ることはできません。違反者は日本国の法律に依って罰せられる」と書かれてある。この立て看板の横を通り過ぎて平和の森球場に入っていくし、この立て看板の向こう側に駐車場もある。確かにこの看板のあるところからは米軍基地なのだが、実際にはこの立て看板は意味を失っている( もちろんいざという時には効力が生じるのだろうが) 。基地の中にこうして施設を作り、日常的に人々が中に入り利用していくことによって、実質的に基地の機能を奪い、全面返還への有利な条件を獲得していくという展望のもとにこうした方法がとられていることは確認できよう。

 読谷飛行場は米軍基地といっても米兵は常駐しておらず、パラシュート降下訓練や滑走路損壊査定訓練などの際にやってきて訓練をおこなうという基地なので、訓練がおこなわれないときは自由に入ることができる。金網のフェンスもない。嘉手納基地のようなところでは不可能な方法だろうが、転んでもただでは起きないような、したたかさを感じさせる方法である。

 ここでこの平和の森球場とも関係のある日の丸・君が代問題と読谷の問題にふれておこう。
 この問題の全国や沖縄全体での動向は書かれているものがあるので省略するが4)、簡単に触れておくと、全国の公立小中高校が1985年の春の卒業式と入学式に日の丸を掲揚し、君が代を斉唱したかどうかを文部省が調査し、その調査結果を9 月に公表した。同時に各教育委員会に対して、「国旗と国歌の適切な取り扱いの徹底」を求める初等中等局長名の通知を出した。このような調査自体が異常なものだが、その数字によると、卒業式の際の日の丸の掲揚率が、沖縄の小学校6.9 %( 全国平均92.5%) 、中学校6.8 %(91.2 パーセント) 、高校 0%(81.6 %) 、君が代斉唱率が、0 %(72.8 %) 、0 %(68.0 %) 、0 %(53.3 %) であった。この文部省の通知を受けて、沖縄県教育委員会は日の丸掲揚と君が代斉唱を強制を遮二無二押し進めていった。1986年3 月の卒業式には小中学校で日の丸掲揚率は50%をこえ、87年には96%にまで達した。高校も86年80%、87年95%となった。沖縄国体に向けて、沖縄を「本土」並みに一挙に画一化しようとする強引な試みであった。
 読谷村では、86年2 月に「明日の読谷村を考える住民会議」が結成され、12月に村議会は「『日の丸』掲揚、『君が代』の斉唱の押しつけに反対する要請決議」を採択した。住民会議は強制に反対する署名をおこない、87年2 月までに8223名の署名を集めた。

 87年3 月の読谷高校の卒業式の時、壇上に掲げられた日の丸を一人の女子高校生が引き下ろした。またこの年の10月村議会・村当局・村民の意思をふみにじってソフトボール会場になった平和の森球場に日の丸が掲げられ、それを知花昌一氏が引き下ろし、燃やしたこともよく知られている。それらの出来事のくわしい紹介は別にあるのでここではふれないが、この二つの出来事の背景には、日の丸を拒否する読谷の人々の強い意思があり、単なる突出した人間の行動ではなかった5)

 山内村長は村議会での1987年度の施政方針演説6)の中で、この問題を取り上げて述べている。そこでは、まず「異常な基地の島」の実情を述べたうえで、「ちいさい島沖縄は、昔は武器のない平和な島であった。貧しくとも心豊かな守礼の邦であった。大戦の中をやっとの思いで生きぬいてきた人々、戦後うまれた若い人々をも含めて沖縄の人々は自由と平和、人権と民主主義を願い反戦平和実現のため四〇年間苦闘してきたのであります」と平和だった琉球時代と戦後の人々の努力に触れ、さらに「その県民の上に今、権力をむき出しに襲いかかってきているのがある。それは基地の問題だけでなく、戦後新憲法の下で否定されたはずの『忠君愛国』思想の再来であり、戦前への回帰であります。日本政府はアジア諸国への侵略戦争に対する謝罪と反省もなく、又日本国民の戦争責任論を不問にし、『国旗』『国歌』の改正提案の手続きもとらず戦後四二年間の歳月が経過した今、かつての『日の丸』『君が代』屁の一顧の反省もせず、行政指導の形をとりつつ学校現場の『卒業式』『入学式』等に強引に押しつけてきている実態と、誠に遺憾であり、行政権力が人間の基本的人権をも支配していく恐ろしい結果になることを憂慮するものであります」と戦争責任との関わりで日の丸・君が代の問題、さらにそれを強制することの問題を批判する。さらに沖縄戦において「『国策に従え』という政府の指導に追従させられ多くの犠牲を払わされてきたこと」を指摘し、チビチリガマの「集団自決の悲劇」がそのことを「鋭く問いかけております」と述べている。チビチリガマの世代を結ぶ平和の像が完成したのは、この施政方針演説からまもなくの4月2日のことだった。チビチリガマの事実の掘り起こしがおこなわれたことによって、日の丸・君が代が歴史的に果たしたことの意味は読谷の人々に一層明確な形で理解しえたであろう。ヤマトへの「思想統一」がはかられたことが悲劇を生み出したのであり、それは平和な琉球時代との対比でとらえられている。
歴史への総括の上に、日本の枠を越えたアイデンティティを求めようとする読谷村にとって、強権的に押しつけられてくる日の丸・君が代は、とうてい受け入れられないものであったといえる。

 さらに言えば、平和の森球場は、基地を浸食する形でかちえた成果だった。読谷村内でいつも日の丸が上がっているのは米軍基地である。トリイ通信基地の正面ゲートの脇には星条旗と日の丸がいつも翻っている。基地の村読谷にとって日の丸は、金網の向こう側=米軍基地の象徴である。基地によって苦しめられ、その基地を無くそうとしてその努力の成果として得られた球場に、基地の象徴である日の丸が掲げられるということほど皮肉なことはない。
 そうしたことを見ると、日の丸・君が代問題は、読谷の人々の営みの根幹にかかわる問題であったことがわかる。

 読谷村はすでに1982年6 月に非核宣言を決議し、91年3 月には平和条例を制定、4 月から施行した。88年からは平和創造展を毎年おこなっているが、これは12月8 日にあわせている。それは「日本の侵略戦争についてその加害者としての側面を重視した歴史の検証を行い、平和創造に資することを目的とする展示会の主旨を明確に打ち出す」ためである7)。また平和条例に基づく、平和事業の一環として、1991年8 月に「日本の中国侵略の実相を調査」するために調査団が中国を訪問した。この調査成果は1991年12月の第4 回読谷村平和創造展で発表されている。また読谷村役場の表には、読谷村職員労働組合の名前で大きな立看板が掲げられており、そこには憲法第 9条と99条( 公務員の憲法擁護義務) の条文と自衛隊は憲法違反であるという言葉が書かれている。読谷村は自衛隊募集業務をおこなっていない村でもある。

 こうした中で興味深いことは、読谷村は3万人を超える村であるにもかかわらず、町になろうとしないことである。人口が1万人を超える村が珍しくなっている現在、村としては最大規模である(豊見城村は4万人を超える)。一般に村より町が、町より市が格が上であるという意識がある。こういう上昇指向を拒否し、村は村でよいとする発想は興味深い。上昇指向と中央指向はしばしば重複して表れるので、読谷の意識は両者を拒否しているとも見られる。読谷に根ざした発想である。

 こうした村政を支える村議会は、1990年9 月の村議選では、22名の村議のうち革新系16名、保守系6 名、得票数は革新系1 万1765票、保守系5959票となっている8)。読谷村の属する中頭郡は革新が強い地域( 米軍基地が集中している地域でもある) であるが、その中でも読谷は革新の強固な地域である。基地との闘いの中で政治主体が鍛えられてきたといってよいのであろうか。

 最後に読谷飛行場の転用計画について触れたい。
 転用計画について村は次のように述べている。
 「読谷補助飛行場用地は読谷村の中心に位置し、読谷村第一の平野であり、かつその規模の大きさと国道58号に隣接する立地性から本村のみならず沖縄県にとっても大きな開発可能性を有している用地である。この用地を器として、21世紀に向けた新しい読谷村の村づくりが歩み始めている。それは、戦争にうちひしがれてきた読谷村民の未来に対する夢と希望の実現であり、子孫に対し、より人間的、より文化的、より平和的に生きんとする村づくりの実践の場所である。さらに、21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくりの拠点として、沖縄の亜熱帯農業の黄金の花をさかせ、かつ公共公益施設を位置づけ、人々の英知を結集し、従来の発想を越えた人間の夢とロマンを実現する中心地域となる場所である。」9)

 この転用計画では全体を6 つの地区に分けて構想されている。それは次の通りである。
 @ 村民センター地区
 A 先進集団農業地区
 B 国道58号線バイパス・ロードパーク
 C 展望公園及び芸能ホール地区
 D 大木土地区画整理地区
 E 水道施設( 読谷調整地

 @村民センター地区は「村民活動の拠点」として考えられており、すでに建設されている福祉センター、伝統工芸センター、体育センター、平和の森球場、運動広場、多目的広場などに加えて、村庁舎・議会棟・デモクラシー広場などの行政民主広場、国際平和研究所や美術館を含めた文化交流広場と森と湖の広場( カルチャーレイク) 、畜産まつり広場・闘牛場・かりゆし農園などのかりゆし畜産広場、などによって構成される計画である。この地域は地理的に見て読谷村の中央部にあたり、戦前は村の中心であった。

 A先進集団農業地区は計画地全体の約3 分の2 を占める地域であり、亜熱帯農工業振興センターを中心に農場が広がる地域である。「都市と農村が共存する本村の立地特性と当用地の大規模性を活かし、亜熱帯性気候を活かした研究開発から生産・販売までの一環的な経営をめざした新産業としての先進集団農業地区」と位置づけられている。

 B国道58号線バイパス・ロードパークは、南北に貫く現在の滑走路を利用して建設されるもので、単なるバイパスにとどまらず、左右一帯が芸術回廊( ロードパーク) として整備され、「ここを中心に上り・下りの車と人が集まり情報が交換され、地場産品の販売等経済及び文化が交流する拠点、すなわち読谷村の文化・経済の発展を担う新しい道・ロードパーク」として構想されている。なおこのバイパス計画自体はすでに1986年に日本政府によってその計画が発表されており、それを発展させたものである。

 C展望公園及び芸能ホール地区は滑走路の南端に位置する。この展望公園には、赤犬子広場として、芸能ホール・野外ステージ・展望公園が構想されている。

 D大木土地区画整理地区は、バイパスと村を縦断している県道6 号線が交わる付近、展望公園の南側の地区であり、「商業・文化・観光機能が複合した一大サービスエリアとし、個性的な地域づくりを図る」とされている。

 このように米軍基地をなくし、そこに行政・文化・産業の複合された新しい拠点を作ろうとする大胆な構想である。それは「今までの暗いイメージ『戦争→抑圧→基地→犠牲→事故、事件→被害』から、新しい21世紀への希望にもえた明るいイメージ『戦後処理の実現→戦争の鉄鎖・抑圧・苦悩からの解放→夢とロマン・希望と自信』へと変わり、黄金の花さく拠点形成となるのである」とされている10)。しかも読谷( 沖縄) の歴史的伝統や特徴を活かそうとする姿勢がはっきりとしめされている。

 山内村長は1991年8 月、大田昌秀県知事らとともに訪米し、米政府・議会・マスコミ等に飛行場の早期返還を訴えた。まだ返還の見通しはたっていないが、読谷村では、1991年9 月に読谷村庁舎建設委員会が、1993年敷地造成、94年工事着工、96年完成・移転を目指すという内容の「庁舎建設基本構想」を村長に答申した。
 現在も米軍によるパラシュート降下訓練や滑走路損壊査定訓練がおこなわれている。パラシュート訓練は空から降りてくるのて訓練自体を阻むことはできないが、村は抗議行動を展開している。また滑走路損壊査定訓練では、飛行場へ通じる道に村役場職員をはじめ村民が座り込んで米軍の進入を阻み、訓練を中止に追いやる闘いをおこなっている11) 

(注)
1) 読谷村職員労働組合『30年記念誌 揃てぃ行かな』P252-253。細かな表現については異同があるようだが、同書の記述を採用した。
2) 読職労委員長( 当時) 仲宗根盛良氏の投書、『沖縄タイムス』1985年7 月5 日。
3) 平和のための読谷村実行委員会『続編 心の楔 とりもどす平和 読谷村』P32 。
4) 沖縄については、新崎盛暉『日本になった沖縄』有斐閣、1987年、参照。
5) 知花昌一『焼きすてられた日の丸 基地の島・沖縄読谷から』新泉社、1988年、下嶋哲朗『白地も赤く百円ライター』、参照。また記録映画『ゆんたんざ( 読谷山) 沖縄』( 西山正啓監督、シグロ作品、1987年) はこれらの出来事を広さと深さをもって描いた秀作であり、参考になる。
6) 知花昌一『焼きすてられた日の丸』P196-199。
7) 読谷村『平和の炎 Vol.4 第四回読谷村平和創造展』1991年、P1。
8) 読谷村職員労働組合『30年記念誌 揃てぃ行かな』P334。革新と保守の区分は読職労の基準をとりあえず利用した。86年選挙では、革新15名、保守7 名、82年では革新13名、保守9 名、78年革新12名、保守10名、となっており、山内村政のもとで選挙のたびに革新系が増えている。ただし革新と保守の区別は基本的には基地問題に対する対応の違いによるようであり、革新といってもほとんどが無所属であって、「本土」の革新議員とは同じには考えにくい側面がある。この点は検討課題である。
9) 読谷村役場『読谷補助飛行場の早期返還を求めて』1991年7 月。転用計画の内容は同書による。
10) 『平和の炎 Vol.1』P110-111。
11)  たとえば、1991年6 月11日には村民約400 名が11か所の通路を封鎖し訓練の実施を阻止した( 『沖縄タイムス』1991年6 月11日夕刊) 。

まとめにかえて

 読谷の村づくりの基礎には、自らの歴史に対する総括がある。ヤマトへの一体化が推進され、国家主義に一元化されていったときの経験への反省とそうではなかった琉球時代の経験を今日的にとらえ直そうとしている。それは国家という枠を超えたアジアの人々( 日本も含めて) との平和的な繋がりの中で、自分たちの歴史と文化( 個性) が築かれていったという、開かれた沖縄( 読谷) へのアイデンティティである。” 読谷 沖縄( 琉球)日本を含めたアジア” という重層的多元的なアイデンティティの構造である。ここから見ると、日本( 天皇を頂点としたヤマト) への一元的なアイデンティティを強要する行為は読谷の人々の目指す方向とは正反対のものである。国家であれ、民族であれ、イデオロギーであれ、一元的なアイデンティティが持っているマイナスが吹き出し、それが戦争や紛争の大きな要因となっている今日、読谷のめざす方向性は普遍的な意味を持っている。

 こうしたアイデンティティの探究をベースに基地反対闘争が展開される。それは戦争と抑圧、加害と被害の象徴である米軍基地をなくし、平和の地へ転換することである。そこでは自分たちが被害者にならないというだけでなく、加害者にもならないという両者の意味が込められている。

 平和とは単に戦争がないだけの状態をさすものではない。奪いかえした基地をどのように利用していくのか、そこに平和を創る力が試される。さきに述べたようなアイデンティティを探究する文化施設の建設もそうだし、沖縄の歴史に根ざした地場産業の育成、福祉・医療などの諸施設の整備などが進められている。歴史に根ざしながら、文化的にも自立し、経済的にも活性化しうる経済政策がとられているとも言える。そうした経済のあり方を作っていくこと自体が平和を創る基盤になるだろう。

 1990年の県知事選挙で革新知事に変わってから、変化が生まれているが、それまでの保守県政の基本的な性格は、基地の肯定( 米軍・自衛隊とも) 、ヤマトとの一体化、経済的には中央( 中央政府と本土の大企業) 依存の土建体質、という性格が強い。しかし、読谷村政の基本的な性格は、その反対に基地の否定、沖縄の独自性( ヤマトの相対化) 、沖縄の歴史に根ざした地場産業の育成、という方向を目指している。生活の場、働く場、遊びやすらぐ場、文化の場、闘う場などあらゆる場でのあり方が、平和を創る取り組みの一環を構成しているといってもよい。そうした意味で地域から平和を創り出す営みととらえてよいだろう。

 もちろん読谷村に問題がないわけではない。現在、大きな問題になっているのが、リゾート開発のことである。すでにリゾートホテルが建ち並ぶ隣の恩納村をはじめ、投機的な土地の買占めがこの数年進んだ。特に海岸線は次々に買い占められ、囲いこまれていった1) 。読谷では村は当初からリゾートホテルは2 か所にする計画で、まず1988年に残波岬に残波ロイヤルホテル( 大和ハウス工業) が開業した。これは客室501 室、収容人員1120名の沖縄でも最大規模のホテルの一つである。
 沖縄のほかのリゾートホテルは通常、ビーチを囲いこんでプライベートビーチにしている。そのため住民はそれまで自由に入れた浜に入ることができず、入場料を払わなければならなくなる。しかし読谷では、ホテルと海岸の間に村道を通し、村が人工ビーチを造成し、誰でも自由に浜に入ることができる方法が取られている。またホテルの排水が海を汚染することのないよう、ホテルで使われた排水は浄化のための貯水池を設け、農業用水として再利用する方式を村の指導でとらせている2)

 現在、元ボーローポイント飛行場の海岸線に沿って、約2 キロメートル、約34ヘクタールがリゾートによって買い取られ、「読谷リゾート」( 国和ミサワ、1550室予定) として開発が進められている。面積は残波ロイヤルホテルの約3 倍、客室も約3 倍に及ぶ大規模なものである。村は基地への経済依存から脱却するために第 3次産業、その中でもリゾートは必要と考え、この「読谷リゾート」も残波ロイヤルと同様の規制を加えながら、積極的に推進している。
 このリゾートとして開発されている地域は、海岸に沿った細長い区画である。ボーローポイントの跡地は基本的には農地として土地改良事業がおこなわれているが、この区画は海の近くであるために農地に適さず、土地改良がおこなわれていない部分である。ここをリゾートが利用しようというのである。
 ただこの中に墓地があり、200 基ほどの墓があった。これらの墓は自然洞窟に手を加えた掘りこみ式のもので、壁龕( へきがん) 墓という貴重なものも含まれていた。しかし、これらの墓は中があけられて移転し、墓自体は91年夏前に壊されて敷きならされた。「墓も沖縄の文化ではないのか。( 中略) 沖縄がこうして文化を失ったら、何が残るのか」という訴えもある3) 

 今日の日本、あるいは沖縄で大手資本( 本土の) が入ること自体を拒否することが適当かどうか議論があろうし、リゾートホテル自体を否認するかどうかも議論があろう。リゾートホテルを認めるにしても宿泊施設として、民宿やペンションのような施設とかなり性格が違うことは否定できない。リゾートホテルにおける客と従業員の関係と、民宿・ペンションにおける関係は性格がちがう。前者ではビジネスライクな関係を超えることはまれである。後者では、地域住民でもある事業者との対話と交流が可能であり、読谷の歴史・文化・生活に触れる機会もずっと多くなろう。そうした点を考えると後者の充実が重要であり、そのうえにリゾートホテルがあるのならば、ひとつの選択肢となりえよう。ただ現在の読谷は後者がまったくといってよいほど欠けており、巨大なリゾートホテルだけがそびえている状況にある。「大資本の手によって一挙に造られつつある大リゾート。そこには本土から何万もの人が訪れ、しかも村民の生活と触れあうこともなく帰っていく。確かにすくなからぬ金が落ちるであろう。しかしそれがそのままで、これまで私たちが手づくりで進めてきた村おこしと結びつき村民の本当の意味での豊かさにつながるとは思えない」4)という危惧は、必ずしも的外れとは言えまい。これは村政だけの問題ではないが、克服すべき課題であろう。 

 次に琉球の歴史の評価にかかわる問題である。沖縄の伝統的な文化を積極的に受け継ぎ発展させようとする姿勢が強いが、あまりにその伝統に対して、楽天的すぎる傾向が見られる。すでに進貢船は薩摩によってもおこなわれた「屈辱の象徴」であり、「『非武装国家・沖縄』『昔から平和を願う沖縄』のイメージが、いかに滑稽なものであるか」という批判がある5)。また沖縄の伝統的文化そのものの持っている問題も指摘されている。たとえば、「洗骨」の習慣が女性にいかに犠牲を強いるものであり、「洗骨」からの解放が女性の悲願であったか、という問題、戦争体制を築くうえでのヤマトへの一体化という性格づけがされてきた改姓改名( 大和名への改称) の問題の背景には、「沖縄文化は、人間的な誇りに耐えるほどの名を、半身としての女性に与えなかった」という問題などが指摘されている6)。この歴史の評価の問題は、いずれ避けては通れない問題として浮かび上がってこざるを得ないと考えられる。

 読谷の経済上で、「克服しなければならない」問題として、宮城辰男氏は次のような点を指摘している7)
 「@生産機能がまだ貧弱である。A村外就職者が全就業者の約半分を占めている。B生産者組織が未整備である。C農業基盤整備の立遅れ、D経済団体の育成強化、E情報化社会への対応、F基地依存からの脱却など( 以下、略) 」

 本稿は読谷の経済・財政分析をおこなっていないので、その検討は今後の課題である。その分析も含めて読谷村政の評価をしなければならないが、まず本稿では平和を創る運動としての村づくりという視点からの検討をおこなった。読谷村は「21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくり」を掲げているが、読谷で進められている方向は、国民国家の全盛期だった20世紀への逆行ではなく、より市民に密着した地域に基礎をおきながら、国家を超えた連帯( 平和) を創りあげようとする21世紀を展望した方向性を持っていると言ってもよいだろう。「自分たちの歴史を総括できた者が、未来に向かってものが言える」(喜納昌吉氏)8)のである。だからこそ読谷の営みは読谷だけの個別的なものにとどまらない、普遍性を持った営みなのである。

(注)                                        
1) 観光業ならびに沖縄経済の現状については、杉野圀明・岩田勝雄編『現代沖縄経済論』法律文化社、1990年、沖縄のリゾート開発の問題については、三木健『リゾート開発沖縄からの報告』三一書房、1990年、安里英子『揺れる聖域 リゾート開発と島のくらし』沖縄タイムス社、1991年、など参照。沖縄経済の現状あるいはその活性化への提言についての文献は多い。たとえば真栄城守定『沖縄経済 格差から個性へ』ひるぎ社、1986年、宮城辰男『地域活性化への戦略』ひるぎ社、1991年、など参照。
2) 読谷村総務部企画課の小橋川清弘氏の説明。
3) 連載「理想島( リゾート) 沖縄」第17回( 『沖縄タイムス』1991年1 月31日) 。この墓の問題については、比嘉豊光氏と知花昌一氏にご教示いただいた。
4) 知花昌一『焼きすてられた日の丸』P106-107。
5) 関広延『沖縄びとの幻想』三一書房、1990年、P197。
6) 堀場清子『イナグヤ ナナバチ 沖縄女性史を探る』ドメス出版、1990年、P160。同書は沖縄の伝統が持っている問題( 特に女性差別) をえぐりだした好著である。
7) 宮城辰男『地域活性化への戦略』P229。
8)『沖縄タイムス』1992年1 月16日。


(記)本稿は、1991年度経済学会特別研究費による研究成果の一部である。 本稿のための調査・資料の収集などにあたっては、読谷村総務部企画課の小橋川清弘氏、村史編集室の上原恵子氏、読谷村の知花昌一氏、比嘉平信氏、比嘉豊光氏、安井康正氏に御世話になった。記して感謝したい。また1989年以来4 回にわたって学生とともにおこなった沖縄調査旅行の成果も本稿で随所に取り入れさせてもらった( 学生の方はメンバーが代わっているが) 。調査旅行についてはいずれも『沖縄調査報告書 ニライカナイへの旅』第 1集〜第 4集( 経済学部林研究室) としてまとめている。そうした意味で本稿は、教育実践の中で学生とともに得た成果でもある。       (1992 年1 月25日稿)
                                        
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