
老子
第一章
道可道非常道。
名可名非常名。
無名天地之始。有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。
此兩者。同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。
衆妙之門。
道は人の理解をはるかに超えている。
そして人のことばによってはその存在を説明する事も証明する事もできない。
道は生命の根源。生命そのもの。
道は全てのものを生み出し、
確実にある法則を以て人の生命に働きかけてその全てを握っている。
それ故この道の在る事を信じて生きるなら調和の世界を生き、
人の果てしない欲にまかせて生きるなら混乱と悲惨な世界に生きる事になる。
人は生命の法則によって生まれ、
そして生きているに過ぎない。
しかし道の在る事を知って生きようとあるいは知らずに生きようとそれは同じ事。
全ては闇の又闇。
人にいったい何が知れよう。
人はその自分勝手な知識と欲もままならないではないか。
だから全ては生命の法則としての道に従って生きればよい。
自分には解らない世界があるという事に気づけば、
あなたは既に調和の世界への入り口に立つ。
第一章
「道の道とすべきは常の道にあらず。」とは。
我々個々の人間が完成された生命体であるならば完全な「道」を捉えて、これを規定する事もできるだろうが、しかしそうではないから「道は人の理解を超えているもの。」と捉えた方が無難な解釈だろう。しかしながら人の理解を超えたものを我々はどうやって理解しようか。無理な事を説いたって始めから我々人間に理解できるものではないだろう。はて、老子先生は何を説明されようとするのか。
老子は孔子を比して説かれたものと考えられている。
孔子は言った。
「知るを知ると為し。知らざるを知らざると為す。」と。
しかし老子は反駁する。
「知らざるを知らざると為し。知るもまた知らざると為す。」と。
果たして「知る」とはどういう事か。
それは科学的にして数量的に計れ、目に見えて証明可能な事柄を指して我々は「知った」とする。
例えば孔子の世界観を一日の内の昼としよう。
そこでは白日の元、全てが目に見えて「これ」と指差す事ができる。
安全も危険もそれは目によって知る事ができる。
しかしどうだろうか。一日の中には夜もあり、闇の中で目はほとんど役に立たない。
我々は見えないものを「ない」と言うが、
それは見えないだけの事で、そこに在る事に変わりがない。
見えないからと言って「ない」事にはならない。
昼間の星は見えないけれど、「ない」のではない。
夜になれば天空に輝いている。
しかも星は宇宙の秩序の中で法則的に運行している。
我々の乗るこの地球も宇宙の中で法則的に存在しているに他ならない。
そして我々人を含めた全てのいのちも、やはり法則的に存在しているのであり、
老子はこの全てのいのちを貫いて法則的に働くものの存在を昼間の 星のように「見えないものでも在る。」と言っているに他ならない。
「我々の理解をはるかに超えている。」ものでも在り、それを「道」と呼び、その「道」を見失うような生き方を止め、自らの中に在る「道」つまり「生命の法則」を大切にして生きなさいと言う。
そしてそうするためにはと、この「老子」を展開する。
老子は我々がこの現代社会に於いて持つ価値観が「道」に照らして生命そのものの有り様であるかどうかを問い掛ける。
生命とは不思議なものだが人が最も大切にすべきは生命であり、
そしてこの生命とはなんであるかを人の内側から教えてくれるものが「聖人」であり「道」であると言ってこの書を綴る。
第二章
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。
故有無相生。難易相成。長短相較。高下相傾。音聲相和。前後相隨。
是以聖人。處無爲之事。行不言之教。
萬物作焉而不辭。生而不有。爲而不恃。功成而不居。
夫唯不居。是以不去。
世の中の人は何が美しく何が善かを知ってそれを為そうとするが、
しかしこれはおかしな事。
美も善もそれは物事の一面に過ぎない。
その裏側には醜も悪もある。
有るという事は無いという事によって有ると解り、
難しい事と易しい事も同じく、
長いか短いか高いか低いかも同じ事。
ことばには音があるように、
体には前と後ろがあるように、
善と悪も決して切り離せない。
だから美善だけを生命の尺度としてはならない。
問題なのは生命そのものの有り様。
人の勝手な美善をつくりその美善の尺度を振り回す事ではない。
生命は人の尺度で計れるのではなく在るがままに自然に在り、
自然は止まる事なく全てを生み出して何一つこだわらずに飽く事もない。
だからこの生命は自分のものではなく自分ではどうしようもないもの。
どれ程上手に生きたからと言って死なない訳にはいかない。
しかし死んだからと言って生命そのものが失われてしまうという事もない。
それは生命そのものが絶えるという事がないから。
第二章
「世の中の人は誰も、何が美善であるかを知ってそれを為そうとするが、それはおかしな事です。なぜなら有るという事は、既に無いという事によって有ると解るに過ぎず、美善もはじめから有るべきものなどではない。」と言う。
確かに美善の価値観は固定的なものではなく、人に教えられるものでもない。
誰に教えられずとも、人は花や自然の風景を前にこころに湧きあがる「美しい。」という思いを抱くし、善だと思って人に為した事でも、それが常に善であるとは限らない。
美と醜、善と悪とは一つのセットで、
それはコップの口のあちら側とこちら側のようなもの。
あえてそこから美善だけを取り出そうとすれば、
割れたコップでどうやって水を飲もうと言うのか。
我々の価値観では美しいものや善を優先してしまうが、
それがこの世界を危うくしてしまうのだと言う。
「難易しかり、長短しかり、高下しかり、ことばには音があり、体に前と後ろがあってもこれを別ける事はできない。だから聖人と言われる人は敢えて美善を為そうとはしない。何もそんな事を為さず、何も言わなくても万物は自ずと作り出され、そして聖人はそういった物を生み出しても、それを独占しようなどともしない。自然が厭く事を知らないように、聖人もまた厭く事なく生み出し、それによって世の中で成功しても、その成功にこだわって止まる事もない。人の作り出した美善の尺度など振り回さないから聖人の行いは決して消え去ってしまう事がない。」と言う。
「老子」の中にはしばしば「聖人」が登場する。
しかしこの「聖人」は固有の名前を持たない。
いや「老子」中には歴史的にその成立年代を探る手がかりがなく、
はたして老子は孔子儒家が現れた事により、
反ってこれを批して著わされた太古からの「知恵のことば」とも言えよう。
伝えたのは李耳A。
そしてそれを書き残したのは函谷関の官吏、尹喜だったかも知れない。
しかし「道」の前でその名は問題とはならないだろう。
なぜならこの無名性こそが「道」に生きる者の有り様なのだから。
そして生命そのものは道の働きによってこそ生きるものであり、
生命は綿々として続くものだからあなたの生命の働きによって生み出されたものは道によって生み出されたものであって、
それは決して消え去る事がないと言う。
第三章
不尚賢。使民不爭。
不貴難得之貨。使民不爲盜。
不見可欲。使心不亂。
是以聖人之治。
虚其心。實其腹。弱其志。強其骨。
常使民無知無欲。使夫知者不敢爲也。
爲無爲則無不治。
人々がより賢明で在ろうなどとしなければ人は争そわないですむ。
生きてゆくためのお金を得るのは大変な事だが、
そうかと言ってお金ばかりを大事にしてしまうような世の中では盗人も絶えない。
またあまり何にでも首をつっこむとこころの落ち着きを失ってしまうもので、
だから聖人の政治とは人々にいたずらな好奇心を持たせるような事をせず、
人々が飢えるような事がないようにし、
立派な人になる事など押し付けず、
丈夫な体を持って生きる事を勧め、
人々が必要もない知識や行き過ぎた欲望など持ちたがらないようにし、
知者賢者を起用して余計な事もしない。
そうすれば何もしなくても生命の法則として世の中が治まらないなどと言う事はない。
いたずらに欲をかきたてる知識に頼って生きるような事がなければ、
世の中は平安な生命によって満たされ、
人々はそのようにして生きられる。
第三章
この章では「政治」についての有り様が説かれる。
全章と同じく、 人の計らいによる「賢」も、それは「愚」に等しく、
老子のそれは「愚人政治」と言われるが、「賢」は「愚」とのセットであり、
老子はことさらに「愚」を唱えてこれを推奨しているのではない。
それは後世の解釈であり、
そのことばの意味は決して単なる「賢」に対抗する「愚」ではない。
例えば「賢」ばかりを欲張っても、その裏には必ず「愚」が顔を出す。
老子は人の「賢愚」の価値判断そのものを否定し、
「道」に立ち返った政治の有り様を示して「賢を貴ばず。」と言う。
親の欲は子どもに成績優秀である事を望み、
誰もが我が子の賢人となる事を望む。
なぜなら「賢」を貴ぶのが現代社会の常識となってしまっているからで、
その中には老子が指摘する「争」が作り出され、
子供たちは無理矢理、競争の中での成長を強いられ、
そしてさらにその中には「いじめ」が作り出される。
そう言った「争」のすべては、人為的に作り出されたもので、
それは「賢を貴ぶ。」からだ。
生命本来の有り様からすれば、それは間違った常識でしかない。
第一章に返って、「道可道非常道。」という事であろう。
「博学」を説き、その価値観に於いて現代社会を導いたとも言える孔子に対し、
老子は後の章で「絶学」と言い切っている。
瓦礫のように無機的な知識を詰め込み、
賢者は腕によりをかけて問題を作り、
子供たちはまるで河口堰を必死に上ろうとする鮭のようで、
堰さえなければのびのびと上流に辿れるものを。
中には堰を上る事をあきらめて自らその生命を絶つ者が出ても不思議ではない。
生命にとっての法則が見失われた中で人々は、そして子供たちは、
その争いを克服できないで居る。
現代民主主義は自由と平等を歌い文句にしながら、
100人の子供たちは試験によって1番から100番までに別けられて進路の選択を迫られるのが現実で、
これでは戦う事が正義とされた時代に、
多くの人々が争いを否定する事を忘れてしまったのと同じ事ではないか。
老子の生きた時代から遥かな時を隔ててもなお、
現代もまた、自由が不自由を生み、平等が不平等を生み出している。
我々はこれをどう乗り越えて行こうか。
第四章
道。
冲而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。
挫其鋭。解其紛。和其光。同其塵。
湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。
道。
それは空っぽの大きな器のようなもので、
人がそれをどう使おうと決して一杯になってしまうような事もない。
そしてどれほど使おうと尽きる事もない。
あるいはまた道は満々と水を湛えた淵のようなもので、
谷川の水の烈しさを鎮め、
あらゆる際立ちを和らげ、
どんな塵あくたをも拒まない。
しかも水の淵は満々と自然のままで、
道はこの淵の有り様に似ている。
しかしそんな道がどうしてできたのかを私は知らない。
形あるものの全てを束ねるものに先立って在ったものが道。
だから人の生きる姿は人に先立って在る生命の法則によって決められていた事。
第四章
我々の生命はこの宇宙の中で、
決して宇宙そのものの存在と何ら無縁のものではない。
つまり我々をして生命そのものは、既に宇宙と一体のもの。
宇宙の光景は荒涼としていて味気がないが、
我々がここに存在する事を事実として、宇宙には生命が存在する。
そして老子は、生命を含むすべてのものを生み出した「道」がどうしてできたのかについては解らないと言う。
がしかし老子は一筋ならではいかないしたたかさを持っている。
つまり「知るを知らざると為す。」のことばの通り、
ここでは「吾不知誰之子。」ととぼけてみせる。
いや「道」がどうしてできたかについては、
これをどの様に人に説明し、証明しようとしても、
既に「道」の中に居る人には、
客観的に自分自身の存在理由など説明も証明も無理な話で、
敢えて説いても人の理解が及ばない事には「吾不知」と「不仁」を決め込んで老子はにべもない。
時に「道」は闇や空気や水に喩えられ、
「一」とも呼んで「仮に道と呼ぶ。」などと我々には捉えどころがない。
そしてそんな捉えどころがない世界についてどれほど科学的な知識を積み重ねても、
我々には到底到達できない世界がこの宇宙に在る事を「老子」は示そうとする。
「和光同塵。」の字句はよく知られているが、
道の前では人の日々の争いすべてが相対的なものとなる。
人は一つの草を、それが足元に在れば雑草と呼び、
遠くに在れば山野草と呼び、
人の病気に効けば薬草と呼ぶが、
珍しいきれいな花なら喜び、ありふれた花なら喜ばない。
人は沢山の知識を持ち、草よりずっと偉く、
人と草とはとても同じ生命などではなく、
人のためなら花など手折っても当然だと思ってもいるだろう。
しかしタンポポの花は風が吹く事を知って白い綿毛を風に乗せる。
それも春の東風に乗せて西に種を運ぶ。
しかしこの自然の営みを人は自らの中に見失い、
ひとりよがりの知識をため込んで人は「万物の霊長」などと自惚れている。
老子はそんな人の有り様を、
すべての生命と等しく在るものとして「同塵」と言って戒めているのだろう。
果たして人の生命は草木なくして在り得なかったであろうし、
芥の如き水が生命を育んだ時の在った事を、
我々は自身の存在のためにも否定する事はできない。
本当はこの目のために花を手折ってもならないのであろう。
しかし人はそんな事にはおかまいない。
第五章
天地不仁。以萬物爲芻狗。
聖人不仁。以百姓爲芻狗。
天地之間。其猶R籥乎。
虚而不屈。動而愈出。
多言數窮。不如守中。
天地自然は人のために在るのでも人を守ってくれるべきものでもない。
その厳しさは人を試練の中に置き、
その果てに人の生命をも簡単に打ち捨ててしまう。
そして聖人もまた人の生命を守ろうとはしない。
時にその全ての生命をも打ち捨てる。
自然と人とをつなぐものは賢しらな人の知識ではなく、
それは心に湧きあがる想い、願い、そして祈り。
地上の生命は人をも生み出し、
そのようにして生命は更に生命を生み出して絶える事なくその営みを盛んにしていく。
それによって多くの生命、多くの言葉が生まれ、互いに争いその生命を短くする。
しかし必ずや人が守るべきは生命そのもの。
第五章
「 天地不仁。」 とはまさにその通りで、
地震や台風がもたらす被害は我々に情け容赦もない。
しかし「仁」とは人の作り出したことばであって、
我々は始めから「天地」には及ぶべくもない。
地球の歴史を見ても恐竜しかり。
その中でどれほどの生命が「天地」によって滅ぼされた事か。
あたかも自然は生命に試練を与え、
さらなる進化を促すかのようだ。
つまり「天地自然」はその中に人をも生み出しながら、
それは決して人のために在るのでも人を守ってくれるべきものでもない。
時には容赦なくこれを打ち捨てる。
宗教はそれぞれに釈迦やイエスやマホメット達が、
それぞれを信じる者たちをのみ救おうとするのであるが、
老子は「聖人不仁。」と言い切って人々を救おうとするかの如き存在者を、
この「老子」の中に置こうとはしなかった。
「天地自然の営みは、大きな口から入った風が小さな口から勢い良く出るようなもので、決してその働きは止まる事がなく、そこにはいろんな事が起こる。そして例えどれ程人が多くのことばを弄しようと、それは何の意味も為さない。だから余計な事をせず、何も言わず、次から次とその働きによって生み出す空っぽの道を守りなさい。」と説く。
ここ に存在するのは固有の名を持たぬ「聖人」であり、
「聖人」は「道」を守って生きる人の事で、
そして誰もが「道」を守り、これに従って生きさえいれば、
何ら宗教的な「救い主」を持たなくても誰もが「即ち聖人である。」と説く。
人が独善の価値世界を作ろうとしても、
それは天地自然と調和する訳もない。
ここでも老子は孔子儒家の「仁」を打ち砕く。
そして次第に明らかになる事として、
「老子」にとっては「孔子」の存在が不可欠であった事が知れるだろう。
前章では歴史的なヒーローを「鋭」「光」に喩え、
「道」は「鋭を挫き、その光を和らげる。」と「同塵の生」を喚起し、
ここでは「不仁」「多言数窮」と言ってこれを明快に批す。
人間の成長、そして人間社会の成長のためには、
「孔子」の出現は大きな光だった事は間違いない。
しかしその光の中で繰り広げられてきた歴史を振り返り、
その光が陰を作り出すという大きな矛盾を我々の現代社会の問題として意識する時、
老子のこれらのことばが聞こえて来、
そして彼が説き描く世界が見えてくるのではあるまいか。
第六章
谷~不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存。用之不勤。
山があって山と山の間は谷となる。
谷には山に降った雨が集まり、
雨は谷川となってやがて平地を潤し、
そこに生きるすべての生命あるものたちを養う。
この様に自然によって生命が長らえる仕組みは絶える事がない。
それは不思議な事だがあたかも人知れぬ生命生成者の営み。
これは天地自然の在りのままの姿でいつまでも絶える事なく続き生命の生成者は絶えない
今、人は誰しもその絶えざる生命を抱いて生きる。
生命の法則が絶える事はない。
第六章
「谷~不死。」の字句は、
古代中国の伝説的な王、黄帝のことばとしても伝えられるように、
「老子」は一人の個人的な創作文ではなく、
むしろ太古からのことばを伝えるものであろう。
「老子」は、とかく「不老不死」を求めたり、
「仙人」や「房中術」といったものを喜ぶ人たちによって、
その世界の元祖のように位置づけられるが、
それは人の数ほどに赦された解釈の一つで、
正しいとも間違っているとも言えない。
いずれにしてもそれらは後世の解釈であり、
「老子」が宗教の枠にはめられて以後の事であろう。
「老子」の一字一句を辿ろうとする事で、
我々はこの現代世界で見失ってしまったものを再び発見する事ができるかも知れない。
しかし本文中「牝」となると「牡」の存在が気になるが、
第六十一章で
「牝は牡のように荒々しく強がったりせず、おとなしくて弱いが、しかしこの弱さがいつしか牡に勝ってしまう。」
と生命の生成者としての牝の優位性を認め、
牝の有り様が「道」に叶う生き方と説く。
女性が強くなったのは戦後の事か、
現代社会は牝の有り様までも変えてしまったのかも知れない。
ところで、なぜ女性は口紅を着けるのだろうか。
なぜ人は入浴し、暑い夏には海を恋しく思うのだろうか。
これは「道」を説明する事のように空想的な事だが、
人はその歴史の中で海に生きた長い時を経てきたのではないだろうか。
その海は穏やかで海辺には外敵もなく、貝や小魚が餌となり、
その海で人は猿の毛を脱ぎ、そして海辺を立って歩くようになっていった。
貝を食べた口には貝の色素が鮮やかに着き、
唇に色を着けている事は生きている事の証となった。
そして貝を獲る事が生きる事そのものとなり、
そこから人はお金の観念を作り出し、
その貝を堅く守る事から「賢」の観念が作られ、
「賢者」は経済社会を作り出し、現在に至ったとするなら、
老子はこの「賢」ばかりをことさらに貴んでばかりでは、
社会は混乱と悲惨な結果になりますよと警告する。
生命の生成者が絶える事はないが、
そのことばの裏で、人と人の作り物が絶えないとは言わない。
前章の様に「天地」も「聖人」も、人の世界の「仁」には無関心だが、
その働きは笛の様にいろんな音を奏でてその働きを止める事はない。
第七章
天長地久。
天地所以能長且久者。以其不自生。故能長生。
是以聖人。後其身而身先。外其身而身存。
非以其無私耶。故能成其私。
天地宇宙は永遠なるもの。
その中に在って生命もまた永遠なるもの。
人の生命は自ら生まれたものではなく、
だからこそ永遠に生きる。
そしてこの生命の果てに生まれながら、
全ての生命に先立つ生命こそがこの世界を開いた。
だから一人一人がその生命を大切に伝えないなら始めの生命もなかっただろう。
道を得、そして自分自身の生命を大切に守る事で永遠の生命と一つになれる。
第七章
この章の一般的な解釈は、概ね次のようなものだ。
「天地の営みは悠久にして永遠。
なぜかと言えば、天地は自分が万物の生成者であるとは意識しないから永遠。
だから道を得た聖人は、自分の事を後回しにして人の事を優先し、
しかし結局推されて人に優先する事になる。
それは、聖人が小さな自己にこだわらないからで、
それによって聖人は自己を成就する事ができる。」と。
しかし「天長地久。」から「故能長生。」までの前半と「是以聖人。」以下についての内容にはあまりに隔たりがありはしないだろうか。
「人を優先し、自分を後にする。」のはまことに小さな道徳的処世術の様なもので、
何もそうであるなら「天地」の有り様ほどの事を持ち出さなくてもよいだろう。
「天地」の永遠性と人の後先の問題とが、
どうして無理なくつながるのか、私には理解できない。
第四章で、老子は「道」なるものがどうしてできたのか、
「吾不知」と知らぬふりをしたが、
ここではその解釈に任せて一つのヒントをことばの中に潜ませていると思う。
思うという事を以ってこれも私の空想に過ぎないが。
「久者」は永遠の生命。
そして我々人間の生命の果てに、いつか存在するであろう生命が、
彼は我々の はるか後世に現れながら、我々に先んじた。
それは我々が持つ意識能力のようなもので、
彼の意識を我々は共有して生まれ生きるからこそ、
自分の生命を大切にしなさいと。
もちろんこの解釈には何の科学的な根拠もない。
しかしだからと言って、これを否定できる根拠もない。
我々は意識によって様々な事を知ってきた。
科学的な知識も、意識という基本的なものの上に成り立つアプリケイションの様なもので、
それは我々の人生が、老子の言う「道」という基本的なものの上に成り立っているのと同じ事ではないか。
我々は科学的な知識によってのみ生きているのではない。
果たしてクリスマス・イブにサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれる事に科学的な証明を必要とするだろうか。
それはスーパーマンでもいい、一寸ぼうしやムーミン、あるいは八十一枚のうろこを輝かせて空駆ける麒麟でもいい。
「道」は我々の知識の届かない闇の中に在り、
その闇の中では意識そのものこそが「道」と一つのものであって、
そこでは過去も未来も我々の制約とはならないのであろう。
第八章
上善若水。
水善利萬物而不爲。處衆人之所悪。
故幾於道。居善地。心善淵。與善仁。
言善信。正善治。事善能。動善時。
夫唯不爲。故無尤。
生命が善く生きるとは例えば水の有り様に似ている。
水はすべての生命あるものを育んでそれは決して争う事がない。
多くの人が汚いと思うような場所でも水にとっては善も悪も一つだ。
だからそういった水の有り様が道の有り様を教えてくれる。
そしてこの水に習うなら人は地に在って善しとし、
心は満々と水を湛える淵の如くを善しとし、
他を慈しんで善しとし、
ことばは信じられるを善しとし、
政治は正しさを以って善しとし、
事にあたっては善く行い、
行動するにはタイミングをはかり、
ただひたすらに争わない。
それによって何も失う事がない。
第八章
「上善如水。」このことばもしばしば使われる。
先に「道」を「谷」に喩え、
ここでは「道」に従って生きる人の姿を、その谷を流れる水に喩える。
そしてここでも「上善」は「悪」と一つのものとされ、
この「道」を行く時の心構えが説かれる。
「足を地に付け、心は淵のように大きく、人に仁を与え、ことばは人に信頼されるものとし、正しくその身を治め、善く事を為し、善く時を得て行動す。」と。
確かに水の淵は大地に座り、生命を養い、淵の中の水はお互いに均衡を保って争わず、在るがままにしてそれは生命の手本と言えるだろう。
そして争わないから何一つ失う事もないと。
老子は天地自然の有り様を「不争」と言い、
生命は個人が余りにも生きる事に固執し過ぎて争いを生んでしまうが、
しかしそれでは「道」に適わないと言う。
生命が生命を損なうような事は生命の法則ではないからだ。
釈迦、イエス、マホメットの祖先を辿れば、
それは一人の母から生まれたはずにも拘わらず、
その宗教戦争の砲火は止まない。
なぜか。
それは人の手のように手のひらは一つで、
分かれた指が争う様なものではないか。
自らの右手で左手を傷つける様なものではないか。
彼らが「聖人」ならば、きっと今の争いを戒めるだろう。
彼らが衆生を救おうとしなければ、
人々は彼らを掲げて争う事もないだろう。
争いの元は利益に賢明であろうとし、
名誉やプライドを際立て、
善悪の価値観を掲げてことさらに善と悪とを分け、
他を悪、此方を善とする人の身勝手さにあるのではないか。
民族間の争いも同じ事で、「正義は我にあり。」とするが、
人による正義など「道」には初めから存在せず、
「道」に従って生きようとするなら、
人に身勝手な仁義礼など無くてよいものと老子は綴る。
老子の言に従えば、人は生命の完成過程にあり、
経験によってしか争いによって引き起こされる不幸を知り得ないのかも知れない。
そして老子はそういった一つ一つの不幸を、まさに知っているからこそ、
これらの事をことばとして残したのだろう。
老子もまた争いの時代に生き、
争いの果てに訪れる新たな世界を願い、祈り、夢想したのだろうか。
第九章
持而盈之。不如其已。
揣而鋭之。不可長保。
金玉満堂。莫之能守。富貴而驕。自遺其咎。
功遂身退。
天之道。
あまり沢山のものを持っても長くは歩けないだろう。
あまり刃物の刃を鋭く砥いでもその刃を長く保つ事はできないだろう。
それは無理な事をしていてはその生命を長らえる事もできないという事で、
苦労して財宝を蓄えても持っているからといって威張って見せるような事はこれを捨てるよう
なもので、決してその財宝を守る事はできない。
富を以って威張るような事をすれば自ずとその報いを受ける事になる。
だから財を持って成功したならそれは後の生命に譲り、
さっさとその身を退ける。
それが生命の法則というもの。
第九章
最後の「功遂身退。天之道。」は、この章を端的に言い表している。
「人生に成功したならその身を退けなさい。それが天の道。」と。
そしてこのことばも孔子儒家に対する強烈な批判となっている。
孔子は天に願った。
「我を滅ぼさざるもの。」、
「常に人々を導く存在者としての我。」を。
しかし老子は「身退」と言ってこれが天の道とし、
人の不完全さを以って、絶対なる天の前にその身を退け、
「道」に従う生き方を人の有り様として示す。
そして「至聖」孔子もその弟子顔淵が死んだ時、
「ああ天。われを滅ぼせり。」と嘆くのだった。
「太山くずれんか。梁柱くだけんか。哲人おとろえんか。」、
「天下。道なきこと久し。能くわれを宗とするなし。」と。
また後代、呉、蜀、魏の三国に於いて、
その知勇を遺憾なく発揮した蜀の諸葛亮孔明も、
争いの世にあって「いかに道に照らして争うべきか。」を示しながらも、
その大きな歴史の流れの中では魏の前に屈し、
その魏もまた多くの国がそうであったように、
永遠を手に入れる事はなかった。
争いの時代、誰もがその武器を鋭くしたが、誰もが「不可長保。」、
それを長く保つ事はできなかったのである。
しかし老子は物を持つ事を、刀を、 そして財を根底から否定してはいない。
後々の章では
「世の中は弓を弾く如く、高くは低く、互いにその持つ者は待たざる者に、・・・・・。」、
「武器を見せびらかすような事をせず。・・・・・。」と綴り、
ここでは
「財を以って成功したなら、それは後の者に譲ってその身を退けなさい。」と説いて、人のこころが「無欲」であるべき事を説く。
我々は現代、退けない富者を容易に見つける事ができ、
またその残された富を争って得ようとする有欲の人たちを当たり前に見つける事ができる。
未だ老子が生きた時代と我々が生きる現代との間には、
時を隔てて変わる事もない。
人はなぜ国に「王」を立てて争ったのか。
それは人が人としての生命そのものを成長させるために避けられない事だったのだろうか。
「不争」が説かれる事の裏には「争」があるからだが、
ではこの「争」をいかに避けて人の生命を未来に繋ぐ事ができるのかを、
老子は八十一章のことばを以って為そうとしている。
そしてそれは我々へのメッセージであるに他ならない。
第十章
載營魄抱一。
能無離乎。專氣致柔。能嬰兒乎。滌除玄覽。能無疵乎。
愛民治国。能無爲乎。天門開闔。能爲雌乎。
明白四達。能無知乎。生之畜之。生而不有。爲而不恃。長而不宰。
是謂玄徳。
自らの生命は宇宙にある生命の法則によって得られたもの。
だからこの生命を道なる一つのものに委ね、
この生命を手放さないように大切にする。
常に心持ちは柔軟に保ち、
知識によって縛られる事なく子供のように純真な心で生きる事。
常に心を洗い、
その汚れを除き去って生命の根源を見つめていれば病を得る事もない。
国を治めるには愛を持ってし、
ことさらに余計な事をしてはいけない。
そうすれば天の道はその門を開き、
その門が生成者となってそこからは必要なものが産まれてくる。
世の中の事柄に精通していても知ったかぶりなどせず、
これを無知とし、
ことさらに知識を求める事なく、
いつか朽ち果ててしまうような物を大切にする事なく、
自然に産まれてくるものを大切にする。
その生まれてきたものを蓄え、
喩え生み出しても一人占めせず、
ためらわず人に与え、
しかしそうしたからといって人々を支配しようなどとはせず生きる。
人には理解できない事だろうが、
それが生命住むこの世界の定めを得るというもの。
第十章
漢字、その「王」の文字は「一」が天、
「二」が地、
「三」が天と地の間に在って生命あるものを指し、
天には天の法が在り、地には地の法、
そして生命には生命の法が在って「王」はその三つを貫く法を持つとして「王」という文字ができたとある。
しかし付け加えるまでもなく、それぞれは独立して在るのではなく、
全ては天の法に従って在り、これを老子は「一」と言っている。
つまり最初の二句は、「営魄」を「魂を営ませしもの。」、
つまり「肉体」と解釈し、
「人はこの体を授かって天の法をその内に抱き、そしてこれを決して離さないないようにする。」と解釈できようか。
そして「能無疵乎」までは「病む事無し。」と、
それは健康法の極意を意味するかのようだ。
人は夜の空に満天の星をいただき、
銀河は生きもののように曲がりくねって、
それは天の道の様。地には人の歩いた跡が道となり、
果てしない地のどこかでその道は天の道とつながっていると想った事だろう。
老子はその暗闇の中に天の門が在ると空想的に語る。
生きている事の事実を、一人天の大きさの中の一切れとし、
そこに「道」と一体なって揺るぎ無い個の存在を据える。
子どもの様に無邪気で純粋なこころで居れば 、
そしてこころの汚れを拭い去って居れば、
そのこころを病む事もなく、
天の門はその扉を開き、
その門が雌の働きとなって人のこころに必要なものが生まれてくると。
四方世界に明知を働かせても、
知識によって夜の暗闇を取り除く事はできない。
「らしさ」の観念はこころを親と子、夫と妻、
あるいは貴者と貧者、賢者と愚者のこころに分け、
この「人間性」の概念という代物は、
生命そのものが持つこころのしなやかさを奪い取って頑ななる「不完全な理想世界」を人々に押し付けようとする。
そしてある人の「理想」は他の人を果てしなく傷つける。
まさに「理想は人を傷つける。」のだ。
老子は「愛民治国。能無為乎」。
「人々を大切に慈しむこころがあれば、特別な事など何もしなくても国は治まる。」と言う。
下手な「理想」を下手な価値観で振り回す事など、
生命にとっては余計な事で、
そんな事を好んでするから世の中はおかしな事になってしまうと言う。
我々には解らない事があっても、
それはそれでそのままに受け入れる事が「玄徳」と言う。
第十一章
三十輻共一轂。當其無有車之用。
挺埴以爲器。當其無有器之用。
鑿戸B以爲室。當其無有室之用。
故有之以爲利。無之以爲用。
例えば 三十本の棒が一点に集まり車輪の真ん中には空っぽの穴があってそこに車軸が入
るから車の用を為す。
また土をこねて器をつくるにしても器はその中が空っぽだからこそ器の用を為す。
あるいはまた部屋をつくるにしても土の壁に穴を掘って出入り口をつくり、
その中を空っぽにするからこそ部屋となる。
だから有用なものとは。
その中が空っぽで何もない事で、
何もないからこそそこにものの用が生まれると言うもの。
第十一章
この章は実に解り易い話で、
しかもそれが決して陳腐なものとならないのは、
あたかも明快に物の「存在と無」についての哲学的命題を解こうとするからだろう。
しかもこの解かり易さは「無」を以って「道」を語り、
「有」を以って「生命の有様。」を語り、
「老子」全体その八十一章の中にしっかりと組み込まれて今に伝えられる。
これまでは何やら漠然としたその物言いが、
俄に身近な物に例えられて語られるが、
確かに茶碗の中まで土がつまっていたら、それは茶碗の用を為さないし、
家だってそうである。
「だから有る物の有用性とは、それは空っぽで何も無いから、そこに物の用が働きを持つ。」と、
逆に「無」の有用性を説いて、有るか無いか解らない様な「道」の有用性を併せて説明しようとする。
この事は別の章でも、
「優秀な人材などというものは無くてよいもの。彼はせいぜい一部所の長ぐらいには使えるが、そんな優秀さなどは要らない。」と同じような事を説いている。
人は優秀さを競う。
ぼーとなんかしていられない。
優秀な技術。優秀な資格。
そんなものをどんどん取り込んで頭の中を一杯にし、
有りもしないものを求めるより、
目の前の手にする事のできるものを大切にする方が先だ。
時代は物質文明の時であり、
掘り出した石がダイヤモンドの原石なら、
せいぜいカットに磨きをかけてこれを大切なものとする。
いやまさに老子はそんな現代の風潮にも痛烈な皮肉をこめる。
しかしいったい、道祖神や「道」を説く事を好んで老子のことばを伝えて来たかつての日本はどこへ行ってしまったのだろうか。
科学が「核」の恐怖をして我々の生活を豊かなものにするというその万能性を失い、
またその限界を露呈する今、
我々は「知恵のことば」の前に自らの優秀さを「無」にして、
現代に新たな調和を作り出すための価値観を再構築する必要があるのだろう。
しかもそれはこころの世界の事だから、
我々がそうしようと想えば叶う事で、
現代は、この「想うこころ」が萎えてしまった時代でもあるのだろう。
知識優先の時代に、意識の萎えた時代に我々は生きているに違いない。
誰しも子どものようなこころを持ち続ける事も難しい事で、
いつまでも子どもである事を許す社会でもない。
しかし「道」に照らすなら勉強する事は本当に必要なのだろうか。
第十二章
五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。
馳騁田獵。令人心發狂。難得之貨。令人行妨。
是以聖人。爲腹不爲目。故去彼取此。
全ての色を混ぜ合わせてしまっては人は色を見分ける事もできない。
全ての音を一度に聴いても人は耳をふさいでしまう事になる。
全ての味わいを一度に味わうような事もできない。
どれ程おいしいものを走り回って集めようと、
そこには心の狂いが生じてしまう。
折角得た財貨も、多すぎれば人の行いは狂わされるだろう。
だから大切な事は、
見た眼に惑わされる事なく、
この生命にとって大切なものを見失わず、
眼によって生きる事を止め、
これとは見えないがこの生命のために生きる事。
第十二章
「五色」の「五」は陰陽五行の「五」と重ねて捉えてよいだろう。
いや陰陽道そのものが老子の「道」とは切っても切れない。
のみならず、釈迦の「慈」もイエスの「愛」も、
それは人が人として潜在的に分け持つ「生命のことば」ではないか。
ではなぜ「五」も「慈」も「愛」も、
それが「老子」のことばの中に眠っているのか。
実に不思議な事だが、私には知れない。
ただ「老子」という「知恵のことば」が、イエスにも釈迦にも先んじて在った事は歴史的な事実であろう。
いずれにしても太古のある時に、人類は一つの集団として生きていたに違いなく、
誰が先だったかについてを論じる事にどれほどの意味があるとも私には解らない。
さて人によって自然界から取り出された色が人の目を盲目にし、
その音が人の耳を聞こえなくし、
その味わいが人の味覚を狂わせるとは、どう解釈しようか。
我々には日々の生活に於いて当たり前の事であり、
日常の中に色は溢れ、音も溢れ、そして五味も溢れている。
また走り回っておいしいものを集める事が料理人の振る舞いであり、
我々はそれを「ご馳走」と呼んで称賛してもいる。
老子の言うところに従えば、我々はすでに盲目であり、
耳も聞こえず、味 覚も失っている事になる。
ものがおいしく食べられるのは目のためではなく腹のためであり、
いったいこの世界に「聖人」などは一人も居ないだろう。
ここでは画家も音楽家も料理人もこころに狂いを生じたる者となってしまう。
いったい我々がどっぷりつかるこの文化文明は根底からその意味を為さない。
そして我々の存在そのものが怪しくなる。
しかしそう言われてみれば、芸術家と呼ばれる人たちにはある種の狂気がある。
天才と呼ばれる人の多くは夭折し、それ故夭折が天才の条件でもあるかのようだ。
人は自分の目で自分を見る事ができないようにできている。
自分の声も自分には聞こえない。
他人の事なら客観的に見る事ができるのに、
自分の事となると人に言われて初めて気がつくような始末である。
自分を見失わないようにするには、
こころを外物に奪われないようにする事かも知れない。
しかし都市型文化の中で、こころを見失わないようにするのは難しい。
もう一度、我々は根底から物の価値を問い直してみる必要がありそうだ。
第十三章
寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲下。
得之若驚。失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者。爲吾有身。
及吾無身。吾有何患。
故貴以身爲天下。若可寄天下。愛以身爲天下。若可托天下。
人に褒められたら驚きなさい。
人は人の事を褒めるが、褒められていい気になっていてはいけない。
大きな病気にかかったらその病気を大切にしなければならないように、
人の褒めそやしには慎重で有りなさい。
そしてもし褒められたら、
自分はそんな褒められるような事はしていないと言って自分を引き下げ、
褒美を得たならその事を慎重に受け止めなさい。
そして逆に人の賛辞を失っても、ことさらに自分を卑下する必要もない。
そのようにして決して自分を見失ってはならない。
自分自身を見失わなければ大きな病気も生命を奪うまでにはいたらないし、
自分自身にいかほどの憂いも起きはしない。
生命の法則とはそのようにしてある。
生命の法則はそれを守る人に法則として働き、長く生き長らえさせてくれる。
第十三章
前章で、我々は自分自身を見失っている事を指摘され、
ここではそんな病への処方箋が説かれると言えようか。
人は面と向かえば他人の事を褒めそやしたり、
また陰に回っては悪い評判を流したりする。
これは人が生まれながらに持つ処の基本的な性質、
あるいはそれによって人のこころに巣くうこころの病の様なものとも言えるだろう。
つまり自分では自分の事が見えないから、
人に褒められたらそんな自分を反省し、
逆に人の称賛を失ったらやはり反省し、
そうして反省する事によって自分を見失わないようにしていれば、
自分のこころに知らず知らずの病を抱え込む事もなくなる。
そのようにして自分を大切にする事が人の世のためとなり、
自分の生命を大切に愛しむ事が、人が生きるこの世界に善い事となる。
誰しも人に褒められれば悪い気はしないし、
褒められ続ければこころは増長してしまう。
そして悪口を言われれば憎しみを抱き、
そこからさらに悪口を言われるようにもなってしまう。
人はこれほどにこころの弱い生き物なのだ。
我々は体を成長させ、大きくなるに従ってまたこころも成長させるが、
心は育つ環境によって大きく変化する。
いや変化する前にこころの成長を妨げられてしま う事もある。
子どもたちの意識というこころが育とうとするその大切な時に、
彼らは瓦礫のような知識を詰め込まれて競争を強いられる。
そして褒められれば喜び、辱められれば憎悪を抱くようになり、
反省の術を知らず世間から疎まれるようになってしまう。
しかし、それはその子の罪ではない。
こころの成長を妨げてしまっている現代社会の在り方が罪として問われているに相違ない。
子どもが学校に行けなくなったら、それはそれでゆっくり休ませてあげればいい。
学校は一律の教科指導を押し付けるような事を止め、
その子が喜んで参加し、
楽しんで夢中になれる事を妨げないようにする。
そうするだけで子どもたちのこころは水を得て大きく成長するだろう。
そこから新しい意識が芽生え、
新しい価値観が生まれ、
我々の病を克服して新しい世界を創って行くに相違ない。
おかしい事を素直ににおかしいとする事が、おとなにはできなくなってしまっているのだから。
第十四章
視之不見。名曰夷。聽之不聞。名曰希。摶之不得。名曰微。
此三者。不可致詰。故混而爲一。
其上不@。其下不昧。繩繩不可名。
復歸於無物。是謂無状之状。無物之象。是謂惚恍。
迎之不見其首。隨之不見其後。
執古之道。以御今之有。能知古始。是謂道紀。
この世界には見ようとしても見えないものが在る。
それを夷と言う。
また人には聞こえない音があり、それを希と言う。
そして掴もうとして得られないものを微と言う。
これら三つのものは混ざり合って一つのものとなって、
とてもその正体を証す事はできない。
一なるものの上も下も曖昧ではっきりせず、
縄縄として名付けようもない。
つまり道に立ち返るとは物のはっきりしないような状態としか言いようがなく、
そのこころは恍惚とした状態のようなもの。
どこが首でどこが後ろかも解らないから、これを迎える事も、これに従う事もできない。
古くからの道の有り様に従えば、道を大切にしてこそ道はここに在り、
道に身を置けばなぜ生命が生まれたのかを知る事ができる。
これを道紀と言う。
第十四章
人は目を持つが、どうやらこの目がどんなに良くても見えないものが在るらしい。
我々の視覚能力には限界があるのだろう。
目で見える世界がこの世界の全てではないようだ。
同じく耳にしても我々には聞こえない音が在り、
そして我々にはこの手に掴めないものが在ると言う。
それらは混ざり合って一つのものとなっており、
その一つのものの上の方がどうなっているのか、
またその下の方がどうなっているのか、
縄縄として名づけようがないと言う。
ここで縄のようなものが、「DNA」のあの螺旋構造をイメージさせるのは愚かしくも押さえ難い。
しかし私にとって、空想を以ってしか読めない「老子」には、
時々想いもよらぬイメージを抱かされる。
例えば他章では、「どこまでも真っ直ぐ行くと、再び元の場所に戻る。」とあり、
地球が丸い事をこの時代すでに知っていたかのようだ。
あるいはまた、見えず、聞こえず、手にも取れぬものとは、
「神」、「仏」のようではないか。
これと言った具体的な形を持たず、
曖昧としてしかも恍惚たるものの存在。
そしてそれを迎えようとしても、またその後に従おうとしても見ることができないから不可能と言う。
しかし古くからの「道」を生命の有り様として得ようとする者には、
この「神」、「仏」のようなものが有り、
それによって消え去った古の歴史を知る事ができる。
そして人の有り様が生命の法則として見えてくると。
孔子儒家の「儒」の文字は「人」「雨」「天」が一つになって、
即ち「雨乞い」から生まれたとする説がある。
とすると「雨乞い」は稲作による儀式。
それは祭壇を築き、「神」の如きを迎え、雨を祈るもの。
そこから儀礼三千と言われる儒家の慣習がつくられたと言う。
しかし老子は敢えて「迎之不見其首。」と言い、
「無状之状」「無物之象」は迎えるに迎えられるものではないと言う。
ここでも孔子と老子は激しくそのことばを異にする。
両者の対立的な観点の相違は、「老子」中のいたる所に観られるが、
だからと言って決して老子は孔子儒家に敵対しているのではない。
我々にはとても理解に及ばないほどに、彼はすべてを包み込み、
そしてその世界は果てしなく大きい。
第十五章
古之善爲士者。微妙玄通。深不可識。夫唯不可識。
故強爲之容。豫兮若冬渉川。猶兮若畏四隣。
儼兮其若客。渙兮若氷之將釋。敦兮其若樸。曠兮其若谷。混兮其若濁。
敦能濁以靜之徐C。敦能安以動之徐生。
保此道者。不欲盈。夫唯不盈。
故能敝而新成。
かつて古く、人は自然のままに生き、微かなる生命の法則を持って生きていた。
しかし、今はその生命の法則も奥深く潜在してしまい、誰も理解する事さえできない。
無理にそれを知ろうとしても、それは冬の川を渡るように辛く厳しい。
あるいは敢えて四方を敵に囲まれるようなもの。
だから周囲に十分想いをいたし、
あたかも礼儀正しき客のように慎ましくし、
氷柱から自然に水滴の滴るように、じっと自分の生命を見つめていれば善い。
滴り落ちた水滴はやがて集まり谷を流れる。
そしてそこではいろいろな物と混じりあって濁りもするだろう。
しかし、やがてその濁りも消えて澄んでいこう。
時が経てば大海へと流れ、穏やかな平安を得られよう。
だから、じっと自身の欲を捨てて心を空っぽにし、
そのようにして自らの中に真なる新しき生命を得る。
第十五章
前章の「古之道」を受けて、
この道を行く者、即ち「古之善爲士者。」の有り様が語られる。
その人は微妙なる玄の世界に通じた者だが、
しかしその世界は知識で知れるものではないから知識として知ろうとはしない。
強いて知ろうとするのは辛い修行を求める事になり、
恐ろしい事にもなりますよと、老子は忠告する。
それはいつしか頑なになってしまったこころが氷柱から溶ける雫のように、
一滴一滴ゆっくり溶け、
やがてその雫が谷川となってその谷を流れるようなもので、
時にその人のこころは塵芥にまみれて濁る事もあろうが、
じっとこころ静かにして居ればまたその濁りも清んできれいなこころで生きられると言う。
宗教者は大なり小なりの修行を、悟りへの方法として選ぶ事になるが、
老子は山にこもったり、冬の滝に打たれたり、自分の体に鞭打つような事を「道」行く者の姿として描いてはいない。
いやひょっとすると、そういった辛い修行をすれば「道」が得られると言っているのかもしれない。
果たしてどちらであろうか。
知りたいのなら冬の川を歩いたらいいだろうが、
しかしその「知りたい」と想うこころがすでに欲であるに相違ない。
「不欲盈。夫唯不盈。」、こころはいつも空っぽ。
そしてそんな人なら、人の世界の煩わしい一々の決め事に泣かされながら生きる自分を開放して「道」に従って生きられると言う。
我々日本人はお米を食べる農耕民族だと言われるが、
それは肉食の欧米人を指して牧畜民族と言うように。
しかしより正確に言うなら、今は「貿易民族」と言った方が正しいだろう。
そんな中で、我々日本人は一つの世界観、一つの価値観にこだわって生きられる社会には生きていない。
そこには儒家の儀礼習慣もあり、クリスマスもあり、初詣もあり、仏教の法要もある。あるいはまた昨今は新たな宗教宗派の花盛りでもある。
それらの中にある神々しき救済者たちはその首を現し、
人々に従う事を約束させるが、老子はこれと言ったものの一切を持たない。
すべては「玄」なる闇の中に覆い隠してその姿形を現す事はない。
第十六章
致虚極。守靜篤。
萬物竝作。吾以觀復。
夫物芸芸。各歸其根。歸根曰靜。
是謂復命。復命曰常。知常曰明。
不知常。妄作凶。知常容。
容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。
沒身不殆。
こころを空っぽにしてじっと自分の生命を見つめていれば、
そこから全てが生まれてくる。
これを生命そのものに復帰すると言う。
全てのものは草の生え出るが如く生まれ、
そしてまた、生命は死をもってその根に復ってゆく。
その復るべき根を靜と言い、これを生命の根源に復帰すると言う。
そしてこれを常と言い、常を知る事を明と言う。
常を知る事がなければ不幸な事になり、常を知れば容となる。
容とは公であり、
公は王。
王は天。
そしてこの世界の王となれば、永遠なる未来の生命として生き続けることができる。
第十六章
人が何か行動を起こす時、
そこには必ずその人その人に特有の「想い」といったものが働いているもので、
まさにそこには人それぞれの様々な「想い」がある。
「お金が欲しい。」
「名誉が欲しい。」
あるいは「親のため、愛しい人のため、子どものため。」等々と。
しかし多過ぎるお金は人のこころを狂わし、
多すぎる名誉は人を争わしめる。
子どものためへの想いが多過ぎれば、
子どもの自然な成長を損なってしまう事だろう。
人の行動パターンは意外とただのつまらぬ欲であったりするものだ。
そして欲と欲とがぶつかり合って争い、
結果は勝っても負けても自らのこころを深く傷つけてしまうような事にもなる。
だからこころを空っぽにし、
「どうしたい。」などと自分勝手な「想い」を抱かず、
「静」を守れば、生命そのものの「想い」が得られ、
そこから多くの実りが自然に作られ、
生命そのものに立ち返って草木の自然に生え出るように物事を生み出す事ができる。
それらは自然に生え出たものだからその帰るべき根を持ち、
その根は再び芽を出す時まで静かにしているもの。
この事をこころの有り様とすれば、
何があっても揺るぎのないこころで居られ、
そしてこころの目は開いて物事の 有り様が解かるようにもなる。
こころが自分の想いに拘っていたのでは、
その人から生まれ出るべきものも生まれず、
返って人に恨みを残してしまう。
生命そのものの有り様を知れば、人への寛容さを得、
その寛容さが人々のためになり、
あなたの生命が人々のためになれば、あなたは生命の偉大さを知る事になる。
それが偏りのない天を戴く人の「道」と言うもので、
その様にしてあなたの生命が在れば、その身を没してもその根に返る事ができると。
実に「禅」のようでありながら、だから厳しい修行をしなさいとは言わない。
ことさらに「想い」を遂げようとするのではなく、
日々の営みの中で、草木の生え出る如く自然に示される、
言わばサインを見逃さず、
このサインを慎重に受け止めて自分の生業に励む、
それが人の役に立ち、人の役に立てば、自然とお金も得られ、生きて行ける。
と言う事であろうか。
「道」を得るために何もことさらな事をする必要などないと言うのだ。
第十七章
大上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。
信不足焉。有不信焉。悠兮其貴言。
功成事遂。百姓皆謂我自然。
この上もなく大切な事は人々が、生命の法が在るという事を知っていればよい。
そして次善の事として、この大いなる生命の法を大切にし、
あるいは次にこれを畏敬し、
これを侮るも善し。
あなたの道に対する誠実さが足りなければ、あなたは不信の時を得、
悠然としてその道からの貴重なことばを守れば、
あなたの生命の営みは成功するものとなる。つまり道の在る事を忘れ、
あるいは信じる事に疑いを抱く事なく、
自己を超えて大きな生命を守り、
人のことばに惑わされる事なくこの教えを守りなさい。
道に従って生きるなら、事遂げ功成って想いが叶う事は全く自然な事なのだから。
第十七章
この章の主語となるものを「支配者」とし、
その有り様を語るものとしてこの章を解釈する事もできるだろうが、
私は主語に「道」を置いて解釈した。
最善の事は、目にも見えず、耳にも聞こえず、手にも掴めない「道」の世界が在るという事を人々が知って居さえすれば善く、
それが無理なら、一部の人たちが「道」に親しんで「道は大切なもの。」と褒め称える事でも善い。
それがだめなら、訳もなく恐れを抱かせるものとして「道」を位置づけて置くのも善いだろう。
さらにそれも無理なら、「そんなものはない。」と思って生きたら善い。
人々が「道」を信じる事がないなら、
世の中に信じられるものもなくなってしまう事だろう。
ただがさがさと生命をすり減らして生きるより、もっとゆったりと構え、
「道」からの貴重なことばやサインを逃さないようにこころ落ち着けて生きていれば、人生に於いての成功は遂げられよう。
そんなあなたの有り様をこそ、人々は「自然だ。」と言う事だろうと。
果たしてあなたは「道」についてどう思っているだろうか。
「在る。」と知っていようか。
疑ってはいまいか。
志を持って一生懸命に努力する者が時として成功する事もあるが、
しかし我々は、その一人の成功者が無数の失敗者を生み出してしまう事を知っている。何を以って成功者と呼ぼうか。
財か、名誉か、地位か。
しかしそれらが天地に自然な 営みであるに相応しい事があるだろうか。
誰もが人を利用する事を考えても、
「道」を用いようとはしないのが現実の世の中だろう。
自然に成し遂げられた成功には何の形もない。
どうしても即物的な成功を「成功」としてしまう。
科学的な思考、科学的な価値観だけでこの世界が成り立っているなら、
即物的な成功だけで人は生きられもしよう。
しかし、やがて人は今の成功だけでは飽き足らなくなる。
人を押しのけても次の成功を手に入れようとさえするだろう。
それが領土の拡大なら、果てしなき不幸な戦争を生み出してしまう事になるだろう。
「成功」とは「道」を得て、その働きのままに生きる事ができた者へのことばではないだろうか。
老子は我々の価値観を根底からひっくり返してしまうのだ。
第十八章
大道廢。有仁義。
智慧出。有大僞。
六親不和。有孝慈。
國家昏亂。有忠臣。
未来に至る生命の法則を見失うと、
現在という時の中で人は仁や義を言い出し、
目に見える知識の山を築こうとする。
しかしそこには大きな僞が生じる。
家庭の幸福が失われると、そこに孝や慈が言い出される。
そして国が乱れると、忠臣なる者が現れる。
生命の法則を抱いて生きるなら、それらは無意味なものとなる事を知ろう。
第十八章
何とも痛烈な章であろうか。
裏を返せば、名将現れて国の乱れる様を言い、
「親孝行」が叫ばれるほどに人がそのこころを失ってしまっている事を指摘する。
「大道廃れて仁義有り。」とは孔子儒家に対する正面切っての批判に他ならない。
いや孔子はその生きた時代に何を人々に訴えるべきかを「仁義礼」とする事に不自然さはなかっただろう。
それほどにその時代の世相は戦乱の中で乱れていたのだから。
それゆえ老子はその様を「大道廃れて」と但し書きを加える。
「知恵出でて、大偽有り。」とは、核利用の危険性になぞらえても肯ける。
人はこれまで、余りにも短い時間の中で正否の判断を下しては来なかったか。
いやもはや怪物のように大きくなった現代社会の生産システムは、
一人の立ち止まりすら許さないのであろう。
もしも立ち止まろうとするなら、落伍者の名を与えられる事にもなろう。
「今の社会の有り様は、自然に照らして間違っている。」と、
どんなに大きな声を張り上げたところで、
「ではどしたら善いのか。」その答えを作り上げ、
それを実行するには膨大な時間と膨大なシステムの組み替えを余儀なくさせられよう。これまで積み上げたシステムそのものを放棄しなければならないだろう。
近代文明が作り出したすべての便利さを捨て、
物見遊山の旅を止め、
国外からのご馳走を我慢し、
いずれゴミと化す製品の目新しさと決別し、
戦争のための要らぬ武器生産を止め、
人のための森林伐採を止めなければならない。
なぜなら人のためのすべてが「偽」に他ならないからだ。
我々は直面して、これまでの人の有り様に反省を迫られている。
子どもたちの世界にも、
生産についてのコンセプトについても、
自然に対する組し方についても。
そこには新たな価値観の想像と発見が、人の能力として問われている。
そんな中で「老子」は人類に受け継がれた「智恵のことば」として多くの示唆を我々に与えてくれる。
人が「仁」や「義」を言い出したら、
それは「道」が廃れた世の中である事を示し、
知る由もない事を知ったかの様に言いふらすような予言者は大きな誤りを犯しているのであり、
「孝慈」に喧しくなれば家族に平和が無いからで、
「人気者」は、国家混乱の現れだと。
第十九章
絶聖棄智。民利百倍。
絶仁棄義。民復孝慈。
絶巧棄利。盗賊無有。
此三者。以為文不足。
故令有所屬。見素抱樸。少私寡欲。
自分一人が聖人君子であろうとする事を止め、
そんな小賢しい知恵も捨て、
あるいは何が聖で、何が知恵かについて、これを規定するような事を止めるなら人々の得ら
れるものは今より百倍も多く、そして大きいだろう。
人の勝手な仁を絶ち、勝手な義が捨てられるなら人々は孝慈に立ち返る事ができる。
便利さを求めて巧くやろうとする事を止め、
そしてお金もうけばかりを止めるならこの世に盗賊も居なくなる。
聖智を絶ち、
仁義を絶ち、
巧利を絶つ事。
これら三つの事はことばを文字に置き換えただけで済むものではない。
これらの事は道に於いても有る事だが、それはもっと素朴で根本的なもの。
決して事細かに人の都合で規定されうるものではない。
そしてその根本に有るものをじっと見据え、
あなたのこころの器を欲で満たさぬように空っぽにし、
私利私欲を捨てて生きなさい。
真に必要な事は生命のありのままの姿を見、そこから全ての生命を大切にしようとする事。
第十九章
「聖人」の「聖」を絶てとは、 いかなる事か。
これまで老子は人の勝手な世界の作りようを、
「聖人」を持ち出して揶揄してきたのではないか。
前章のことばを借りれば、「聖人」もまた「忠臣」の如き存在でしかないのだろう。
世の中に聖人ばかりなら、「聖人」も居なくなると言うもの。
このように老子は、これを違わずに解釈しようとしても一筋縄ではいかず、
表と裏があり、またその裏の裏があったりする。
うっかりすると迷路に迷い込み、
だからと言って表面をなぞっていてはますます訳の分からぬ難解さが、
愚かしくもこうして解釈しようとする者にとっての壁となる。
「老子演義」の中に登場する老子はまさに変幻自在。
忘れ去られた人の歴史の空白を、
それゆえ空想的に雲にも霧にも姿を変えてこの世の始めの皇に教えとして説き、
全く頭で理解しようとする事を難しくする。
孔子の説く「仁義礼」は時の権力を支える法でもあり、
自身、魯の国の宰相にもなって、日本でも儒教は国の学問として江戸時代の封建性を支えたと言えよう。
「人はかく在るべし。」と。
しかしそんな孔子に対して、ここでも老子は「絶仁棄義。」とにべもない。
結論は
「じっと自分自身のこころを見つめ、そ のこころを空っぽにしていれば、生命に具わった元々の孝慈の姿に立ち返る。」と言う。
我々が「道徳教育」と言う時、
それは往々にして「らしさの概念」を押し付けたり、
また押し付けられてはいないだろうか。
元々「道徳」と言うことばはこの「老子」に由来し、
第一章から第三十七章までを、そのはじめの文字をとらえて「道経」。
また第三十八章から第八十一章までを「徳経」。
合せて「道徳経」と呼ぶ。
そして老子は「その聖を絶ち、その智を棄てなさい。」と「らしさの概念」を否定し、「人間性」の規定を戒めている。
どうやら我々は「男女七才にして、席を同じゅうせず。」を長い間の「道徳」としてきたのであろう。
そしてその「道徳律」が、今問われている。
学校の在り方を、その根本から規定しているのは「博学」の精神であり、
これに対して老子は「絶学」を唱えるのだ。
一度その根本を零に戻し、改めて教育の在り方を構築する必要がありそうだ。
この「道」に照らして。
第二十章
絶学無憂。唯之與阿。相去幾何。善之與惡。相去何若。
人之所畏。不可不畏。荒兮其未央哉。衆人熈熈。如享太牢。如春登臺。
我獨泊兮其未兆。如嬰兒之未孩。儡儡兮若無所歸。衆人皆有餘。
而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨昏昏。
俗人察察。我獨悶々。澹兮其若海。C兮若無止。衆人皆有以。
而我獨頑似鄙。我獨異於人而貴食母。
学問を捨ててしまえば人は思い悩む事もない。
のんびり生きようと焦って生きようと果たしてその事にどれほどの違いがあろうか。
こうすれば善く、ああすれば悪などと、それが何だと言うのか。
人によって決められた善悪になど振り回されてはいけない。
人の恐ろしい所は不可能を恐れないという所で、荒っぽくて未熟な所。
人の生命は未だ中途半端なものでしかなく、人々はすぐにはしゃぎ回り、
目に見えるものによって喜びや悲しみを抱くが、これは大きな牢屋に入っているようなもの。
意識は未だ芽生えたばかりで、まるで春のようであり、
私は今、時を隔ててここに居る。
人々は皆子供のようで、数は多いが、未だ生命の何であるかを知らず、
皆自らの生命を持て余して生命の帰るべき所を知らない。
今、私はそんな時代に一人居るのだ。
私は一人愚かしき心を抱いて生きよう。
未だ生命は混沌としているのだから。
人々は今を生きているが、私は彼らが生命の法則を知るまで眠りの中に居たいもの。
人々は私の言うことを信じられず、ただ海の上を風が吹くように止まる所を知らない。
しかしやがて時が経ち、彼らが生命についての秘密を知るようになるまで、
私は一人ではあっても彼らの中に生き続けよう。
今、私は一人、この生命を育んでくれた生命の法則を大切にして生きる。
第二十章
私には最も興味深い章で、「絶学無憂。」とは何と端的なことばだろうか。
勉強しないで済むなら、まさにそんな社会が在れば余計な憂いも無くなる事だろう。
しかしどこに「勉強するな。」と言う親が居ようか。
あなたはご自分の子にそう言えますか。
現実この社会で、子どもの将来を考えたら、とてもそんなのんきな事は言ってられそうもない。
しかし家庭の中で、「勉強」の二文字はとても辛くて重く、
不幸な親子関係を生み出しているのも事実である。
我々はこんなことばそのものが、「老子」の中に在る事を見逃さずに、
現代の「学」の在り方を反省する必要があるのではないだろうか。
このことばもさる事ながら、この章の全体が意味する所は、
老子が「我」と呼ぶ者の存在以外は「衆人」であり、
しかも「我」は「獨」で、あたかもその「我」は「我獨異於人」、
と自身を異邦人のように表現している事が、私に不思議な空想を与える。
まるで老子は未来からタイムスリップしてきた者のように「衆人」たちの様を記している。
人は時間的空間的制約の中でしか生きる事ができないものでありながら、
老子の意識は、時の「衆人」たちの外にある。
「老子」の中の主体は「我」であり、「吾」 であるが、
この章にはそんな「我」が「衆人」と並ベられて記され、
次章と共に老子そのものを探るにただ空想を以って興味深い。
また「澹兮其若海。C兮若無止。衆人皆有以。」が、その意味として伝えるものは、
海辺に群れ生きる人たち、
つまりかつて海辺の民が存在し、
彼らに森の民が羊を追って生きる術とことばを伝えたと空想される。
そしてこの事は「般若心経」が空想的に伝える意味と符合し、
その「般若心経」の中心には、「道」の文字が置かれて現在に伝えられている。
老子は函谷関を出て西に旅立ち、
インドの地で釈迦になったと道家の経典に伝えられるが、
これも空想に於いては符合する事かも知れない。
空想が意識に於いて捉えられたある種の映像であるならば、
意識は時間空間の制約を受けずにこの世界を旅する事ができる。
我々はこの自分から抜け出す事のできない存在でしかないが、
生命の果てに生まれた者が、意識をその肉体から開放する事ができたなら、
彼の意識は時空間を超えたとしても不思議ではない。
我々には解らない事ではあるが。
第二十一章
孔徳之容。惟道是従。道之為物。惟恍惟惚。惚兮恍兮。其中有象。
恍兮惚兮。其中有物。窈兮冥兮。其中有精。其精甚眞。其中有信。
自古及今。其中夫去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之状哉。以此。
大きな生命の法則を受け入れて生きるならすべては法則に従い、
その法則が働いて物が生まれている事が解る。
頭の中を空っぽにして、ぼーとゆったり揺らめくような恍惚感に浸ってごらんなさい。
やがてぼんやりと物の形が浮かび上がるだろう。
こんな瞑想状態が得られれば、物事の詳細が見えてくる。
そしてこれこそが真実なるものに他ならない。
それこそが信じてよいもの。
例えばあなたの過去を思い返してみれば、この法則によって今までを生きてきた事が解かる
だろう。
このように一人一人の生命に働きかけるものが何であるかが解かるだろう。
私がどのようにして生命の根源を知ったのかと言えば、それはまさにこのようにして。
第二十一章
「恍たり惚たり。窈たり冥たり。」とはどんな精神状態であろうか。
例えば我々は夢を見る。
眠りの中の状態は、明かりのない部屋で目を閉じ、
それは「玄之又玄。」なる世界をさまようように何の脈絡もなく、
明かりもないのに闇の世界に物が見える不思議な世界。
そしてそれはほんの一瞬の事かも知れないが、
意識がもはや眠りの中と言う時に、自分では想いもよらぬ光景を見る事がある。
それはぱっと光るフラッシュの中に浮かび上がるような光景であったり、
もう少し長いものであったりするが、
意識は自分のものであるにも拘わらず、説明するのも難しい不思議なものを捉える。
あるいはまた、我を忘れてある仕事に夢中になって熱中していると、
その仕事の先が見えてくるような気がする事もある。
そんな経験は大なり小なり誰にでもあるのではないだろうか。
それは我々の生命そのものが持つ潜在意識に根ざしたものかも知れない。
「禅」の境地かも知れない。
神仏に向かって手を合せる時、我々は無意識にこころを「無」にする事ができているのかも知れない。
いや普段、自分の意識はどうしても自分のこの体から決して抜け出す事はないのだが、潜在意識は自分と言う存在を離れて自由に 時空間を移動しているのかも知れない。
経験としてあるはずのない過去の事を知る事ができたり、
光の届かない未来の事が予見できたり、
そんな能力を我々は生命の法則に従って生きさえすれば発揮できるのかも知れない。
ただただ普段目に見える世界に汲々として生きなければならない事を習慣として、
この目に見える世界がすべてだと我々は思い込んでしまっているのではないか。
この様に考えると「老子」その第一章の冒頭に掲げられている
「道の道とすべきは常の道にあらず。ことばのことばとすべきは常のことばにあらず。」のことばが意味するものが、
何やら次第に具体性を帯びてくる。
古代、夢は吉凶の予兆とされたが、
「道」を失ってしまっては見る夢も我々に何の働きかけもしないと言う事か。
子どもたちの夢には、現実への批判と未来への希望が込められていよう。
それらを単なる夢、あるいは絵空事などと言って見えないものを否定してしまっては、老子のことばも空しい。
しかし証明を必要とする科学の有り様が、
その根本に於いて問われているのも確かな事で、我々はどの「道」を行こうか。
第二十二章
曲則全。枉則直。
窪則盈。敝則新。
少則得。多則惑。
是以聖人。抱一爲天下式。
不自見故明。不自是故彰。不自伐故有功。不自矜故長。
夫惟不争。故天下莫能與之争。
古之所謂曲則全者。豈虚言哉。誠全而歸之。
人生は自分を曲げてこそ全うでき、曲がってこそ真っ直ぐに生きられると言うもの。
欲を少しひっこめれば、満足する事もでき、
古臭い決まり事などは擦り切れてこそ新しい世界が開ける。
欲が少なければ得るものも多く、欲が多ければ惑う事になる。
だから聖人は一なるものを抱き、これを世界の方式とし、
自分の在るべきを見つめて、故に道に明るく。
自分を知って、故に自分を誇張しようなどとはしない。
我を忘れて人々に尽くすが故に成功があり、
自分を偉ぶらないが故に長生きができると言うもの。
自分を知って争わず、故に世界に争いも興らない。
古くから、自分を曲げられる者が人生を全うできると言うが、
それはその通りで、だから人生を全うしてこそ生命の根元に帰る事ができると言うもの。
第二十二章
「曲則全。」も古くからの諺としてよく使われる。
どんなに優秀な人でも、優秀であればあるほどやがて大きな壁に突き当たる。
その壁をどうして乗り越えようか。
もちろんその壁はこころにとっての壁だから、
こころを風のように保って居れば難なく越えられよう。
背伸びをしたって始まらない。
高く跳ぶには膝を曲げ、張り詰めたこころを緩めて余裕を持てば、
また人生を旅する事ができると言うもの。
望みや欲を少し減らせば、絶望も去って行こう。
すり減ってしまったこころでも、物事考え様で新たなこころに生まれ変われる。
これは人生の妙法と老子は言う。
人を知り、己を知り、無闇に自分の優秀さをひけらかして人の上に立とうなどとするのは真に優秀な人のする事ではない。
自分勝手なわがままが罷り通るほど世の中も甘くはありません。
そんな人はやがて人生に失敗します。
自分は他の人より優れ、
かつ偉いとなんか思っていては、
この世は生きられないんです。
それが世間の方程式。
戦争はいけない事で、不幸な事と知っているなら、
試しに人の欠点を見つけるのを止め、
あなたの周りに居る人と競争するような事をお止めなさい。
それでこそこの世から戦争も消えるだろう。
古くから 自分を曲げる事のできる人がその人生を全うできると言うが、
うそではないんですよ。
試しに誠実にこの方程式を守ってごらんなさい。
きっと生命そのものの素晴らしさを発見できますよ。と老子は言う。
こんな語り口調で解釈すると、身振り手振りで踊るように説教する老子の姿が目に浮かんでくる。
私には中国語の発音はよく解らないが、
全章の短文は字句ごとに韻を踏み、
きっともっと耳に入り易いことばであったに違いない。
いやそうして口から口に伝えられていた太古からの「知恵のことば」が、
ある時文字を得て「老子」となったのではないだろうか。
争いの時代に人の文明世界を支えてきた孔子。
そして争いが千年の未来に続くなら、
やはり孔子の世界観が必要だろうが、
いつの日かきっと、老子が眠りから覚める時が来るだろう。
いや、老子を目覚めさせなければ争いが絶える事はなく、
我々はそのために、「老子」をなぞる必要があるのかも知れない。
第二十三章
希言自然。
故飄風不終朝。驟雨不終日。孰爲此者。天地。
天地尚不能久。而況於人乎。故従事於道者。
道者同於道。徳者同於徳。失者同於失。同於道者。
道亦楽得之。同於徳者。
徳亦楽得之。同於失者。失亦楽得之。
信不足焉。有不信焉。
耳には聞こえぬ自然からのことば。
生命の根源からの微かな声。
一つの教えがある。
例えば夜半の突風も朝には終わり、激しい雨も一日中降り続く事はない。
果たして誰がそうするかと言えば、それは天地自然である。
しかし天地自然でさえも永久にこれを続ける事はできない。
ましては人に於いて何をか言おう。
だからこの様に、それは道に在っても同じ事。道を得ても同じ事。
いやまた道を失った者もそれは同じ事で、道を得て楽しみ、楽しんでまた道を得。
例えその道を見失ってもまた楽しむ。
天地の有り様も変化する様に、人もまた変化を自分のものとして、
それはそれでがっかりする事なく楽しめばよい。
どんな時もそれが道だと信じて生きなさい。
人が道の有る事を信じようと信じまいと、
道はあなたの前に在る。
第二十三章
「天地尚久しきに能わず。而して況や人に於いて乎。」と、
「道」を行く者の有り様を自然の有り様になぞらえて説く。
これまでは「道」を説いてその「道を守る。」事を力説してきた老子が、
ここでは天地に倣って
「まあそう言う事だが、あまり一途に道を守る事ばかりにこころを汲々とさせてもいけませんよ。」
と柔らかい。
どうしても我々は真偽のほどを疑い、完全なものを求めたがってしまう。
そんな我々の性癖を見透かしたように飄々として
「道を得て楽しみ喜び、また道を失ってもそれはそれでよい。それ天地の移ろいの如く。」と言う。
まるで老子のことばを一語たりとも聞き逃すまいとする緊張を解きほぐすかのようだ。そこには決して崩れ去る事のない生命が持つしたたかな生活者の有り様が語られる。
まさに文字によって何を知る事もできるものではない事をこころに明記した上で我々はこの「老子」を読み進めて行こう。
天地は在るがままに在って、我々に味方するものでも敵対するものでもなく、
「天。我を見放せり。」のようなものではない事を、孔子に比して説く。
我々は往々にして自分の不幸を嘆き、それを「運が悪い。」という事にする。
しかし、運を「偶然との遭遇」であるかのように考えるが、
天地には偶然も必然もない。
すべてが在るがままに在り、
それは生命の法則によって生成万化しているのだ。
我々はそんな天地の「希言」を聞く事ができないから、
諦めて悪い事を「不運」、善い事を「幸運」と言っているに過ぎない。
そして老子は、「そんな事のすべてを楽しめばいいんだ。」と言うのであろう。
常に「聖人」であろうとするのは、とても無理な事。
それは身に余る財が守れない事に同じく、
身に余る「道」も守りきれるものではない。
「飄風」の如きも「道」。
「驟雨」の如きも「道」。
そんな激しさも時には有るだろう。
しかしそれが長くいつまでも続く事もない。
況や人の世界のどこに変わらないものなどあろうか。
過去の栄光に比して今を嘆く事なかれ。
また過去にこだわって今を失う事なかれ。
未来に通ずる「道」を信じ、
この生命を大切にし、
こころを空っぽにし、
この「道」を楽しく 生きようではないか。
第二十四章
企者不立。跨者不行。
自見者不明。自是者不彰。自伐者無功。自矜者不長。
其在道也。曰餘食贅行。物或悪之。故有道者不處。
生命の法則に従う事なく私欲によって企てようとする者は、やがて立ち往かなくなる。
自分の事しか考えない者は生命の光を失い、
そして自分の企てが正しいものと思い込んでしまい、
生命本来の姿を見失って道を行く事はできない。
自信過剰でも、自暴自棄であってもうまくはいかない。
それは道が法則として働くからで、
自分の生命を大切にしないなら、他人のために生きる事もなく、
自らの調和を失って生き長らえる事もできない。
有り余るほどの食を求めて贅沢をするのは善くない事。
だからこの道を往く者はそのような事はしない。
余計な企てもそれと同じ事で、生命の無駄遣いと言うもの。
第二十四章
「背伸びをし、さらに爪先立って道の先を見ようとしても、長くは立っていられない。」
「企」の部首は人。
この文字は、人が遠くを見ようと爪先立って「道」に止まる様が思い浮かぶ。
しかし「道」は人を止め置かないから、立っても居られない。
こうして一歩も二歩も人の先を見てうまく立ち回ろうとする者が、
また自分勝手に「道」をつくり、
筋書き通り事を運ぼうとする者が「企者」で、
そしてそれは「不立」と結ぶ。
「足を突っ張って仁王立ちして力んでみた所で、それでは前にも進めない。」とは、
その光景が思い浮かんで精神的な比喩ともなっている。
また「自分の外見ばかりを気にしていたのでは進むべき道を見失う。自分こそが正しいと思い込んでいる人も、それでは返って正しい道を見逃してしまう。あるいは自分で自分の事を卑下していては、成功などおぼつかないし、だからと言って、自分をあからさまに誇り、威張ってみせるような事ではこれ無事長久を果たす事もできない。こういった事は道の中で既に基本的に決められている事で、それは言わば自分の身についた腹の大きさも考えずに食べ物を有り余るほどならべて贅沢な事をするようなもの。そんな物欲に耽ける事も決し
ていい事ではない。」と戒める。
そして「この道を行こうとする者は、そういった贅沢な所には居ない。」と。
これらの事は、喩えて我々「老子」を読もうとする者への戒めともなっている。
「何か先行きの不安を解消してくれる導きはないか。」
「何かもっと確かな生の法はないか。」
と在らぬものを爪先立って求める人のこころの弱さを「企者不立。」と言い切って、
「外見を気にするな。」
「自分ばかりを肯定するな。」
「卑下するな。」
「誇らず、威張らず。」
そして「食べ物を残すのは贅沢な事で、それは生命の法則に叶った事ではないからいけませんよ。」と。
人は事細かな検討の結果として「道」の働きに叶わぬ事を迂闊にも為すもので、
それが「道」に於いての「余食贅行」であり、
だから人のあさはかな智恵で事を為すと、その結果はろくな事にはならない。
人の目先を先取りして策をめぐらす様な事は、
結局のところ自分自身をにっちもさっちも行かない様な事にしてしまいますよと言う。
第二十五章
有物混成。先天地生。
寂兮寥兮。獨立而不改。周行而不殆。
可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。
強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。
故道大。天大。地大。王亦大。
域中有四大。而王居其一焉。
人法地。地法天。天法道。道法自然。
この世界の始まり、それは混沌としていた。
そしてそこから先ず天地が生まれた。
静寂にして寂寥たる中で、天地はそれぞれに独立して、その様を変える事はなかった。
天地の運行は止まず、そしてここにこの世界が生まれた。
私はその母となったものの名を知らないが、強いて名を付けるなら道と呼ぼう。
道は大きく、そして果てしなく大きな世界だが、これを遠く行けば再びここに返る。
ここには四つの大いなるものが存在し、
その大いなるものは道。
天。
地。
そして王。
人の法は地の上にあって、地の法は天の下にあり、
天の法は道に従っている。
道の法とは自ら在って自然と呼ばれる。
第二十五章
第二十一章で、「道」によって生きれば「恍兮惚兮。其中有物。」とし、
「自古及今。」とあるように、
老子はこの世界、この宇宙の神秘的な始まりについてのその「象」 を明かそうとする
「始めに混沌が在った。 そして混沌から天地が生まれた。」 と。
しかし、これはキリスト教の「聖書」、
その「創世記」の冒頭に書かれているものと同じではないか。
もし同じだとすると、「老子」と「聖書」の両者は同じ根を持つと考えるに至っても不思議な事ではないだろう。
果たして「老子」が先に在ってそれを伝えたのか。
あるいは「聖書」が先に在って伝わったものなのか。
あるいは両者に共通する消え去ったある「物語」が在ったのか。
そのいづれかであろう。
私は空想的に次のように考える。
まず「般若心経」をひも解いてみよう。
「摩訶般若波羅蜜多心経」の文字が意味するもの。
その「摩」の文字は「广」と「林」と「手」という材料によって作られており、
これを「森に家を作って生活する。」と解釈し、
「訶」の文字は「言」と「可」によって作られ、
これを「ことばを話す。」と解釈できるとしてみよう。
するとこの「森に住んでことばを話す者。」とはいったい誰であったか。
それは「般若」で、しかも「海辺に群れ生きる般若」であり、
「般若心経」は「森に住み、ことばを話すようになった海辺の民の物語」と解釈できる事になろう。
そして、であるならば自ずとこの経典 に書かれた物語の内容も理解できる事になるだろう。
そして確かに釈迦の祖先たちはその昔、
地中海沿岸の地に住んでいた人たちから分かれ、
大陸につながったインド新大陸に移り住んだ人たちで、
経典は彼らに森での生きる術とことばを伝えた者が居た事を伝えている。
そして伝えられたことばとは「老子」のそれと同根ではなかったか。
始めに羊を手に入れ、その羊に食べられる草の実を教えられた人。
森に小屋を作り、その中に火を置いた人。
そしてその目の奥に意識という小屋を得た人。
始めに意識を以ってことばを話した人。
彼は小屋の中のりんごのような赤い火をイブという名の海辺の女性に与えたのかも知れない。
不思議な事だが、この事は「老子」と「聖書」、
それに「釈迦」とがどこかでつながっている事の証なのかも知れない。
第二十六章
重爲輕根。靜爲躁君。
是以聖人。終日行。不離輜重。雖有榮觀。
燕処超然。奈何萬乗之主。而以身輕天下。
輕則失本。躁則失君。
重いものが軽いものの根底となり、静が躁を制する。
これがこの世界での決まり事で、
この事を知る聖人は終日行軍して生命の糧を手放さず、
どこかに美しい眺めが在っても、超然として自分の場所を大切にする。
どうして戦の王たる武将が天下を軽んじるような事をしてよいものか。
天下を軽率に扱うような事をしていては武将としての使命を失い、
戦で世の中を騒がしくしてばかりいたのでは仕える君主にも見放されてしまうと言うもの。
第二十六章
「さて、そもそもこの世界では、重いものが下になって軽いものを支え、いくら騒がしくしても、それはやがてくたびれ果てて静寂に取って代わられる。」
と前置きした上で、老子は「聖人」の有り様を説く。
時は戦国の時代、老子も戦を体験したのであろうか。
しかもただの一兵士としての若き頃の老子の姿が想い浮かぶ。
彼の大将はどんな武将だったのか。
隊の食料を積んだ荷車を放り出して逃げるような事をしたのか。
あるいはどんな事があってもその荷車だけは守ったのか。
はたまた旅行気分できれいな景色を見ようと隊を離れる武将だったのか。
それとも常に兵士と行動を共にし、不意の敵に備えて隊を守ったのか。
争いを静めるべき武将が、逆に争いを好んで更に大きな戦いを招くような事をしたのか。そしてそれがためにその武将は仕えるべき君の信頼を失ってしまったのかも知れない。
「是以聖人。終日行。不離輜重。」は、
「聖人は、生きる限り懸命に生き、決してその生命の手綱を手放す事がない。」
とも解釈でき、
次を、「喩え栄耀栄華を観られようと、超然として居心地のよい小屋を我が住まいとする。」と解して、
聖人の有り様が知れる。
これは、カントの「喩え想像しさえすれば、愚人が口をあんぐり開けて観放たれるような宮殿を自分のものにできたとしても、私にとって居心地のよい小屋さえ在れば、私はそんな想像だにしない。」と言うのに似ている。
しかし、誰もが一度は栄耀栄華を夢に見、
できるものなら軽やかに楽しく人生を送りたいものと想う事だろう。
人であれば当然の願望でもあろう。
しかし浮かれて踊り明かすのも若さの一時で、
そんなくたびれ果ててしまうような事を求めても、
それでは余りにこころ寂しくもまた儚い。
人生に王道はなく、きっと老子も若き時に経てきた道なのであろう。
何が軽はずみな事で、何が慎重な事か。
それは結果として自分自身が自分に負わなければならない責任であり、
誰もその責任の手綱を手放す事はできない。
「道」は決して自らの生命の手綱を疎かにする事は許さないのだろう。
まさに「道」に従って生きる以外に王道はないと老子は言う。
第二十七章
善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不籌策。
善閉無關鍵而不可開。善結無繩約而不可解。
是以聖人。常善救人。故無棄人。常善救物。故無棄物。
是謂襲明。故善人者。不善人之師。不善人者。善人之資。
不貴其師。不愛其資。雖智大迷。
是謂要妙。
善行はその跡を残さず、生命のままに生きていれば何もわざとらしい処はない。
善言も人を傷つけず、生命の言葉には無理もない。
生命については、これを数えるに科学的なものによっては知る事もできない。
生命の門を閉ざすに鍵などかけなくてもよく、人の手によってどうなるものでもない。
生命を結び合うに縄などなくてもよく、人の絆が誰に解けようか。
だからその事を知る者は常によく人を救う事ができ、決して人を見捨てる事もない。
常に物を生かして使うから捨てる物もなく、
これを真に知恵があると言う。
善人とは不善人の師となるが、
不善人もまた、善人の鏡となる。
互いにその師を貴ばず、その資質を大切にしなければ、知っていても人生に迷う事になる。
これは人生の妙法、生き方の基本。
第二十七章
とかく人の善い行いは当たり前の事とされ、悪事は千里を走る。
その人のために善かれと思って言ったことばが、
返ってその人を傷つけてしまう事も多々ある。
数を数えるにも、棒を使って数えようとすると、
今度は棒の数が本当に合っているかどうかが心配になってしまう。
鍵を掛けたって、安心はできない。
泥棒さんは錠前の専門家で、もし開かずとも鍵を壊されれば門は開いてしまう。
信頼関係を築いて結ばれた同盟に、何も縄のような条件を付けなくても、
解けないものは解けない。
解ける時は解ける。
そして「是以聖人。」と老子は続ける。
「聖人は困っている人を見捨てる事なく、これを救い。無闇に物を捨てるような事をせずに、逆に物を生かして使う。これが本当の知恵だ。」と言う。
我々の社会は捨てられた物で溢れそうだ。
この大きな流れに乗れない人は容赦なく見捨てられ、
悪は悪として法によって裁かれ、
その悪が社会という大きな鏡に映し出されたものであるとは思わない。
「人を捨てず、物を捨てず、悪を悪として裁いてしまえばそれで世の中は善くなるとはせず、互いにその持って生まれた資質を尊重しなければ、頭で理解していても道に迷う事になる。」と。
そして第七十 四章では、
「誰がいつも正しき裁判官となって人を裁けようか。」とも言い、
老子の「道」に於いては「善」「不善」もなく、
それは人が勝手に作り出した常識の相対的な価値判断でしかないのである。
大量消費国家である事から生まれる混乱。
法治国家である事を厳しく守ろうとする事から生まれる誤った審判。
一括大量教育が生み出す「落ちこぼれ」。
経済優先産業が生み出す「過労死」。
これらは皆、この社会の「迷い」であるに相違なかろう。
萎えた意識では未来に「道」を見出す事もできそうにない。
親子の絆が解ける事はないのだから、
せめてその首に重ねて縄を結ぶような事を止め、
子どもたちを自由にしてあげよう。
それによって「道」は再びその芽を出すかも知れないし、
老子の眠りを醒ます事ができるかも知れない。
自由であるという事は、現在を制約として未来を整えるための大きな条件とも言えるだろう。
せめて子どもたちの意識が育つ大切な時ぐらい、
その環境は自由なものにしてあげたいもの
第二十八章
知其雄。守其雌。爲天下谿。爲天下谿。常徳不離。復歸於嬰兒。
知其白。守其黒。爲天下式。爲天下式。常徳不D。復歸於無極。
知其榮。守其辱。爲天下谷。爲為天下谷。常徳乃足。復歸於樸。
樸散則爲器。聖人用之。則爲官長。故大制不割。
人は生命を抱き、
知るべきは人間という虚構ではなく、誰もが唯男であり女であるという事を知るべき。
そしてこの雌雄が世界の谷となって谷は新しい生命で満ちる。
人間という規定を止め、雌雄の道を得てこれを離さず、子供のような心に復る事。
知るべきは明白なるこの事実。
守るべきは縄縄として知られざる世界。
世界はこの雌雄から出発している事を方程式とし、その道を得て偽る事なく、
その働きの極まる事のない世界に立ち返ろう。
それは素晴らしい事であり、恥ずべきものとされてもこれを守り、
生命世界の谷となって、道を得て満足できる。
そして生命そのものに立ち返ろう。
生命そのものの働きを大切にせず、専門分野に於いてのみ生きようとするなら、
聖人は彼をせいぜいその部所の長官として用いるくらいのもの。
だから大いなる生命そのものを細かく割って、これを無駄にするような事をしてはならない。
第二十八章
老子には、「人間」という概念はない。
そこに居るのは唯の「男」と「女」。
そしてこの一対が現実の存在者となって、生命世界の谷となり、
谷は新たな生命を生み出しているという事実をしっかりと認識し、
この事をこの世界の基本として生きなさいと説く。
事実我々は「人間」という男でもあり、女でもあるような存在者を知らない。
それは儚くも理想的な概念でしかないだろう。
それは完全を希求する人の弱さから生まれた概念に於いて作られたものであり、
人の作り物からさらに作られた価値観によってこの世界を理解、認識しようとするのは、本当に大切にしなくてはならないものを小さく割ってしまうようなものと老子は言う。
余りにも分析的、科学的なるものを「樸を散じて、則ち器と為す。」とし、
器は「樸」即ち荒木を削って作られたものであり、
それが木で作られている事を忘れてはならないと言う。
「樸」はしばしば使われることばで、「生命そのもの」と解釈できようか。
そして「復帰於嬰児。」「復帰於無極。」「復帰於樸。」と説くが、
「復帰」とは元に戻る事であり、ここではもちろん「道」に立ち返る事であろう。
その「復帰」する所が、「嬰児」、「無極」、「樸」。
つまり、幼児であり、極まり無き所、そして生命そのもの。
この内「極まり無き所」とは、無限の未来とも解せ、「白」を光の世界。
つまり白日のものとなった過去及び現在。
「黒」を未だ光の届かぬ未来を言い表すとすれば、
老子の意識は我々の未来に生まれたものとも解釈する事ができる。
そして我々の過去に立ち返ったと。
それはとても我々の知る所ではないが、
果たしてそんな事が可能であろうか。
それが「生命の法則」であろうか。
アインシュタインは物の相対性を表すものとしてその理論式「E=mC2」を導き、
この時Cは光の加速度で、つまりそれは空間/時間で表され、
エネルギーEは既に空間時間をその中に制約として内包している事になるが、
仮に「生命の法則」が空間時間に制約されないものとして、
この宇宙に始めからの「道」として在るなら、
この解釈を「単なる空想」として否定する事もできないだろう。
この世界には物と相対する何者かが、
我々人の感覚に於いては認知できないものとして存在するのではないだろうか。
第二十九章
將欲取天下而為之。吾見其不得已。
天下神器。不可為也。為者敗之。執者失之。
故物。或行或隨。或歔或吹。或強或羸。或挫或E。
是以聖人。去甚。去奢。去泰。
まさにあなたが欲を以って天下を取ろうとそうしても、
私にはそれが不可能だと解かる。
なぜなら天下は人の欲によってどうなるものでもなく、
天下は言わば神のものだから、人がそう望んでも果たせる事ではない。
敢えてそうする者は敗れ、
敢えて天下を取ろうとすれば、天下はその手を離れる。
そもそも天下という代物は、それに向かって行こうとすれば従わされ、
のんびり構えていると急変し、
強かった者があっと言う間に弱くもなり、
人は結局その事に挫折し、
そして落ちてゆく事になる。
だから聖人は欲に駆られて天下を取ろうなどとは思わず、
天下に贅沢を求めず、
天下に泰平を作ろうなどとはしない。
全ての人にとっての理想世界を望んでも、私にはそれが不可能だという事が解る。
生命の法則としての定めは、
何もかも捨て、唯この生命と見つめ合って生きる事こそが大切な事。
無理な理想を求めて自らの生命をいたずらに傷付けるような事をしてはならない。
第二十九章
人は時の中で、いったい何のために「天下」を取ろうとしてきたのだろうか。
それは一人の個人がその「理想世界」を作ろうというようなもので、
始めから「天下」はすべての人のもの。
人一人がその欲を満たそうとその理想を掲げたとしても、
逆に誰もが自らの理想の前に敗れ、
もしくはその生命を失うような事になったりもする。
ましてやすべての人にとっての「理想世界」を目指しても、
結局その理想は挫折し、あるいは堕落した世の中になってしまうと言うものだ。
なぜなら、始めから「天下」は「神器」であり、
人が敢えてそうしたいと思っても、
その手にできるものではないと説く。
まさに「理想は人を傷つける。」と言わねばなるまい。
ドイツ民族の理想がユダヤ人を傷つけ、
大東亜共栄圏の理想がアジアを傷つけた事は歴史に新しい。
老子は、そんな人の「理想好み」を、賢しらなものとして示そうとする。
「皆のために、理想世界の構築のために、目標を持って頑張ろう。」と言った時、
果たして理想は刃となってその理想に敵対する者を、
そして頑張れない者を切り捨て始めるのだ。
人は「時に行き、時に従い、ある時はゆっくり、 ある時は急ぎ、またある時は強く、またある時は弱く、そして時に挫折し、時に堕落もする。」もの。
だから生命の法則としての定める所は、
「天下に理想世界を構築しようなどとはせず、そう言った人の欲のすべてを棄て、ただこの生命を見つめ、この生命に誠実に生きる事こそが大切な事で、無理な理想を求めて、自らの生命をも傷つけるような事をしてはならないんだ。」と言う。
そう言われて自分自身を省みるに、
残念ながら自らの「理想」がどれだけ周りの人を傷つけ、
そして互いの「理想」を裏切り合い、
結局生まれ持っていたはずの生命の絆をも失ってしまうような事になっただろうかという事に思いあたる。
これは自分から好んで孤独を拾い集めるような事で、
どこかで「けちな理想」は捨てた方がいい。
個人の「理想」など賢しらに振り回していたのでは、
返ってうるさがられるだけで、
その人の家庭には「安泰」もなく、
ただ「不信」が生まれるばかりで、
時には「暴力」すらも生まれる事になろう。
そんな下らない事はさっさとお止めなさいと言う。
第三十章
以道佐人主者。不以兵強天下。其事好還。師之所処。荊蕀生焉。
大軍之後。必有凶年。
善者果而已。不敢以取強。
果而勿衿。果而勿伐。果而勿驕。果而不得已。果而勿強。
物壮則老。是謂不道。不道早已。
道によって人々を導こうとする者は、
争いのための兵をもって人々に道を強いるような事はしない。
その方が返って善い結果となり、それは道によって定められている事。
道。
即ち生命の法則を体得した者の家には自然のままにいばらが生えてその人を守るが、
大軍を連ねるような事をすれば田畑は荒れ、人々は必ず飢える事になる。
道に従って生きれば、その道には自ずから果が熟し、
敢えて人々に道を強いるような事などしなくてよい。
しかも実りを得ても、その事を自慢するようでは返ってその実りをふいにしよう。
道の実りを自慢するのは収穫を放棄するようなもの。
その実りを守ろうと強がって勢い込んでも、やがてくたびれ果ててしまう。
これはもう道ではない。
道に叶わぬ生き方など直に終わってしまう。
第三十章
「道の働きによって人々を導こうとするなら、その道を広めるために兵隊を使うような事を誰がしようか。」
と群雄の割拠する戦国の時代の有り様そのものを否定する。
所で我々は、「道」と言うと人や車の通る所を道と呼び、
老子が言う所の「道」とは全く別のものとして認識してしまうのではないだろうか。
しかし、本来「道」は道と同意同義で、
今の道が単に道路とされてしまって、
「道」とは異なるもののようになってしまったに過ぎない。
きっと「あのコンクリートに被われた味も素っ気もない道が、老子の説く道ならば、そんなものは要らない。」と思われる事だろう。
だがそれはつい最近の事であり、
本来道には水溜まりが在ったり、溝が在って草が生え、
脇の水路には魚が泳いでいたり、
またそこで子どもたちが遊んでいたり、
道端にはおいしい実のなる木が在って春には花が咲いていたり等々が道の光景だったのだ。
そしてその道につながって人々は生き、
生命の営みは何をきれい事ともせず、
在りのままに生き、
子供たちはそこで謎めいた生命の有り様を垣間見ながら
「していい事。」と「してはならない事。」を身に付けていたのだ。
そしてこの道の働きを、我々は今、「近代化」と いう美名の元に失ってしまっていると言えよう。
もう一度道の有り様を再考した上で、
町の有り様、都市の有り様を描く必要があるのだろう。
すべての道をコンクリートできれいに舗装すればそれが道だとするのような行政の有り様は、余りにも貧弱で、
生きる者の役に立とうという機関の働きではない。
行政は、集めた税金を事務的、定型的に使うだけの機能を果たすのではなく、
いかに生活者の息遣いを聞き取って公共性を社会に構築してゆくかが問われるのではなかろうか。
老子は、その「道」に実った果に喩えて、
「道」を行く者の有り様を「物壮則老。」と言って戒める。
近代的な道路も長い間には物としての性質として老朽化してゆくのであり、
再び構築しなければならない時には、
我々は「道」の有り様をこの世に具体化したいもので、
残念ながら、まだまだ老子は眠りの中から出て来そうにもない。
第三十一章
夫佳兵者。不之器。物或悪之。
故有道者不処。君子居則貴左。用兵則貴右。
兵者。不之器。非君子之器。
不得已而用之。恬淡爲上。勝而不美。
而美之者。是楽殺人。夫楽殺人者。
則不可以得。志於天下矣。
吉事尚左。凶事尚右。偏将軍居左。上将軍居右。言以喪禮処之。
殺人之衆。以哀悲泣之。戦勝以喪禮処之。
優れた兵などというものは無くてよいもの。
道を守る者は彼らの中にはいない。
この世界にとって大切なことは常にこの世界を変えて行こうとする力。
その力を左側とすれば、兵は右側に立つ事になる。
右側とは生命の世界を固定しようとする力であり、
そのための兵は要らない。
ましてや兵によって君子たらんとする者など君子の器ではない。
止むを得ず兵を用いなければならないとしても、その時は淡々としてこれを用い、
やたらにその功を誉めるような事をしてはならない。
もしも勝つ事が正しい事なら殺人を楽しませるのと同じ事。
互いに殺し合ってどうして世界を治められよう。
為すべきは変革。
不幸は留まろうとするところに生まれる。
だから戦に於いて副将軍は左に立ち、主将軍は右に立つが、
これは戦が葬式と同じ事を表すからだ。
多くの人たちが殺されていく時、人は悲しみを込めて泣く事になり、
いくら戦に勝ってもそれは葬礼と同じく悲しむべき事。
第三十一章
第十八章には「国家昏乱。有忠臣。」と有り、
ここでは「兵者。不祥之器。」と有って、
「不祥」は「幸いならず。」「不幸な物事。」の意味。
つまり「兵者」は幸いならぬ者であると言うのだが、
時の戦国時代、これほどの物言いは、
先の大戦下で「戦争反対」を叫ぶようなものではなかったか。
もちろん過去のそれと、現在のそれを比較する事はできないが、
「老子」を書き残す事は大変に危険な事だったのであろう。
真実を告げる者が受け入れられない時代、
彼はその名を明かさず、単に「老子」としてその身を守ったのかも知れない。
そしてその時代に際立ったものの存在は、その時代の陰をも際立たせ、
老子の生きた時代が、決して平和な時代ではなく、
争いおさまらぬ「不祥」の時代であった事がここに知れる。
生命の世界は、「道」の働きによって止まる事なく、
喩え一個の生命であっても日々に変化し、決して一所に止まる事はできない。
にも拘わらず、権力は優位に於いて止まろうとする。
しかし、これまでにこの世界が一所に止まった事はなく、常に変化している。
人はこの変化を恐れず、「道」に従って生きるものであり、
「兵」によって変化を独裁的に止め置こうとする者は、
とて も人々の上に立つ「君子の器」ではないと言う。
群雄が割拠した時代に。
「老子」はその全章を貫き、徹底して「不争」を説き、
そのためには人がいかなる意識を持って生くべきかを伝えようとしている。
自然災害を避ける事は難しいだろう。
しかし人災を避ける事は決してできない事ではない。
人が戦争という人災を乗り越える事は、
我々の生命そのものに課せられた歴史的命題であろう。
そして今我々は、天災に苦しむ人々を救おうとするのか、
それとも人災の愚かさを招いた者を称賛しようとするのか。
この社会に事件として報じられるあらゆる事柄に於いて、
まさにその答えを試されていると言える。
しかし、「老子」に伝えられた「道」に於いて選択するなら、
その答えは自ずと明らかな事と言えよう。
理解するには単純過ぎて難しいことばではあるが、
何とか天の運行の如き生命の法を得て、
踏み込んでしまった現実の迷路から抜け出したいもの。
第三十二章
道常無名。樸雖小。天下莫能臣也。
候王若能守之。萬物將自賓。
天地相合以降甘露。
民莫之令而自均。始制有名。名亦既有。夫亦將知止。知止所以不殆。
譬道之在天下。猶川谷之於江海。
道の働きは説明のしようもなく、飾り気のない在りのままなるものの形も小さい。
この世界には道に仕えようとする者も居ないが、
時に王たる者が道を守れば、
すべての生命はまさに己の生命を大切にし、
天地は相和して祝福の甘露を降らせるだろう。
人々は特にそう命じられなくても互いに助け合って平等に生きるだろう。
人は道を、
そして樸を小さく割ってそれに名を付けるが、
それは既に名がその中に有った事に相違ない。
人々が道を細切れの知識にしてしまい、
それによってのみ生きようとさえしなければ、
そこには危うさのない本当の幸福と平安が得られる。
もしも道がこの世界に広まれば、
この道の栄光は川となって海にそそぐが如く人々の間に行き渡り、
まさに人々は大海の平安を得られよう。
第三十二章
「道」は「樸」に喩えられ、
それは「切られたままの木。」であり、「朴」の字と同義で、
この事から「老子」は「森の民のことば」と捉える事ができようか。
例えば太古に於いて人が海辺に生きた時代を経ているとするなら、
海には人の視覚を遮るものはなく、
そこでは安全も危険も視覚で捉えられたに違いない。
また視覚と触覚を発達させなければ、海辺に生きる事は難しかったのであろう。
餌となるべき貝や小魚も、目に見えてこそ捕えられただろう。
そしてある時、ある人たちは何らかの自然の変化によってその海辺を失い、
川に沿って内陸の森に生きるようになって生き、
彼らは海で得た動物タンパクによって増大させた食欲を満たすために大型動物を追った。
長い時を経、やがて彼らは草原と森に羊を得、
羊は彼らに肉と毛皮を与えて飢えと寒さから彼らを守り、
そして羊は食べられる草の実を人に教えた。
その森は、生い茂る木によって彼らの視覚を遮っていたが、
集団は音を使ってそれぞれの居場所を知り、
自分の存在を知るようになっていった。
こうして森では視覚よりも聴覚が発達して、
安全と危険を知るためのことばが育っていった。
始めことばに文字はなく、ことばは口から耳へと 伝えられて十分なものだったが、
未だ海辺に生き、視覚によってしかことばを理解できない人たちがことばを伝えられ、そのことばの意味するものに物の形が与えられて文字が作られたと考えられる。
その「ことば」の中で、森に生きるための知恵が、
「道」として語り継がれて、
それは「老子」のルーツとなったものに他ならず、
その「ことば」が世界に広まっていったのではないかと私には思えるのだが。
そして「王なる者がこの道を守れば、万物は大切なものが何であるかを自ずと知り、天地自然は人を赦して甘美なる祝福の露をあまねく降り注ぎ、人々もその恵みを皆等しく与えられて生きられる。人が天地相和す処の生命の法を大切にするなら、降り注いだ甘露は川となってその生命の谷を流れ、世界は平安の大海に至る。」と言う。
まことに気宇壮大な話で、俄かには信じられない事だが、
我々は荘子の「鯤」という名の魚を見る事はできなくても、
それをイメージによって捉える能力は生まれながらに持っている。
第三十三章
知人者智。自知者明。
勝人者有力。自勝者強。
知足者富。強行者有志。
不失其所者久。死而不亡者壽。
人についてのその生命の根源を知る事を、本当に智恵があると言い、
自分自身の生命についての秘密を知る人を智恵に明るいと言う。
これを以って人に優って勝つ者を力があると言い、
自らに勝つ者を強いと言う。
与えられるものに満足する事を自らに知れば、それが本当の富となり、
自らの生命の働きを知って、生命のままに休まず行いを為し、
自分に強く生きる者を志を持つ者と言う。
この事を見失わずに生きるなら、その人は生命を長らえる事ができる。
人を知り、自分を知る。
それにより例え死んだとしても、その人の生命は長く、
決してその生命が滅びる事のない者として祝福される。
第三十三章
「人を知り、己を知る。」とは、ことばは簡単だが実に難しい。
なぜなら人と話をするにしても、自分では自分の顔も見えず、
自分の声も聞こえず、自分の匂いも分からない。
感覚で自分を捉えようとしても、それはまず不可能な事ではあるまいか。
知識は自分の中に貯めこむもので、自分を知ろうにも自分を映す鏡がない。
しかし本当の知識とは、「人について知り、自分について知る事。」だと言い、
どうしてそれが可能かと言えば、
それは「道」の有り様に照らして自分の有り様を省みれば知れると言う。
いったい誰も「反省」を必要としない人など、
人であれば存在しないだろう。
そして「反省」を可能にするのは意識であって知識ではない。
この意識によって捉えられた自分の姿を見る事を、「智恵がある。」と言い、
知らざるを知って自分を「道」に迷わぬように導く事ができるようになる事を、
「智恵に明るい。」と言う。
「頭脳明晰」の「明」とは知識による人の処理能力のようなものを指すが、
それは人の作り出した価値世界の上にこそ成り立つもので、
果たしてそれが「道」に於いて定められた価値世界ではない。
人の価値世界では、戦いにおける勝者の能力を優れたものとするが、
本当に強い人と言うのは、自分自身に勝つ事のできる人の事で、
実はこの事ほど難しい事もない。
まずいつもこころには「不満」が巣食い、自分は人と比べて不幸だと思っている。
例えどれほどはた目には恵まれていると思われる人で、実際にも確かにあらゆる面で恵まれている人であっても、
そのこころの中の「不満」の大きさは誰もが同じ様なものであり、
そしてこの事を乗り越えるには今の自分に「満足」し、
ここに有るものを富とする事だと言う。
しかしいつまでも競争原理が働く社会では、人が「満足」する事は許されない。
科学の進歩も、経済の発展も、
社会全体の発達も「競争原理」がなければできない事とされ、
そしてそんな社会は、一つの生命がまさに生きる事の困難さと直面し、
競争のための力を失っている人に対しても決してこれを救おうとはせず、
さらに「がんばれ。」と叫ぶのみ。
自己満足ということばは愚人のものであり、今の社会はこれを許さない。
老子のことばに照らすなら、この世界は何かおかしい。
第三十四章
大道汎兮其可左右。萬物恃之而生而不辭。
功成不名有。衣養萬物而不爲主。
常無欲。可名於小。萬物歸焉而不爲主。可名爲大。其終不自爲大。故能成其大。
大いなる生命の法則。
それは生命の行く末全てを握っている。
全てのものがそこから絶えず生み出され、
しかも人がどれ程の関心をその事に示そうと、その姿を見せる事はない。
その法則、道は全ての生命を生み、
そして養っていながら少しもこの世界の主などと誇ら顔をしない。
常にあからさまな欲を示さず、
その働きの小さなところでしかその存在を示さない。
例え全ての生命がこの大いなる法則の存在に気づきこれを讃えたとしても、
それは我々の主となる事はなく、
ただただ偉大なる存在。
しかもその働きを終えるまで自らを大なるものとはしない。
だから道は偉大なもの。
第三十四章
老子の意識世界はとてつもなく大きい。
地球は丸くて、 しかも動いているのは太陽ではなく、
我々が乗るこの地球の方だったと知ったのは最近の事だが、
老子にはこのコペルニクス的転換が例えられようか。
例えば人は万物の霊長であり、世界に君臨し、
自然とも対峙する事のできる主体であると考えられていたが、
そんな我々も地球が太陽の周りを回っている如く「道」の周りを回っているに過ぎないと。
そしてその「道」の働き、「道」の運行に左右されながら生きているのが、
我々であるに過ぎないと。
しかもこの地球は、我々が自らの生存環境を破壊し、
その結果として滅びてしまおうと何一つ嘆く事もない。
生命は再びDNAを組み替えてその形を変え、
新たなる者を生み出すだけの事なのだろう。
「恃」の意味は「頼る」、「頼みにする。」で、
「万物は道に頼み、而して生み、而して止まず。」
「道」は「万物を養いかばう。」ものでありながら、
万物の主体たるものとはならない。
「常無欲。」で、「ことばで説明できるとしても、それは大きな道のごく小さな事についてでしかない。」
老子によれば、「主」が「主」として存在する事はなく、
「道」は我々の「救い主」でもなく、仮に我々が「主」と呼んでこれを称えても「大いなる道」が「救い主」となって我々に働きかける事はないと。
それほどに「道」は我々のすべてを左右しているにもかかわらず、
我々の働きかけなどはとても及びもつかないほど大きいのだ。
しかし、そんなとてつもなく大きな世界を捉える事のできた老子の意識はいったいどうなっていたのだろうか。
どうやってその様な意識を得たのだろうか。
生きる事に汲々として毎日を過ごしている我々には、
そんな老子が存在した事すらとても信じられない事だが、
老子は「道」に従ってそれを得たと言う。
少なくとも神々は我々の願い事を聞いてくれる。
だからこそ我々は神前に合掌し、こころに願いのことばを呟く。
仏は死者の魂を黄泉の世界に導いてくれ、
残された者 はその事をやはり合掌して祈る。
しかし老子は、そういった事のすべてを肯定しようとはしない。
「老子」中には救世主など存在せず、
ただ在るのは「道」で、その中に「聖人」は居ても、
彼は「不仁」。
生きべきは生命のままにと老子は言う。
第三十五章
執大象。
天下往。往而不害。安平大。
楽與餌。過客止。道之出口。淡乎其無味。
視之不足見。聽之不足聞。
用之不可既。
大いなる道の現れを見てとってこの世界を生きるなら、
そこにあなたの生命を害するものなど居ない。
しかしこの平安なる大いなる道も、
楽を奏で食事でも与えて楽しませなければ、
人々は道への関心を持とうなどとはしない。
道への入り口に人を引っ張っても、在るか無いかも解からず、
人はまるで淡白で味気のない物を食べるようなものだろう。
目にも見えないものには満足もしないだろう。
道には人の耳に聞こえるようなことばもないから、これも不満に思うだろう。
しかしこれを用いて尽きる事がないという事を人々は知らない。
第三十五章
老子はあたかも「道」が我々をコントロールしていると言うのだが、
ではどうやって「道」は我々の生命に働きかけるのか。
それは我々のすべてを左右していながら、
しかしそれを「これ。」と言って指し示す事も難しい。
ただ老子のことばに従えば、確かに我々は「道」からの働きかけを受け取って生きているのであろう。
だから我々にとっては偶然としか思えない事でも、
それは「道」からの言わばサインであり、天啓であり、
言わばこの「道」の道しるべでもあろう。
自然の中で見つけた花は季節を教えてくれるが、
これを自分勝手に手折ってしまうのは自然からのサインを消してしまうようなもので、偶然という形で我々自身が遭遇するもののすべてが、「道」からのサインであり、
自ら道しるべを見失っては、我々はこの「道」を行く事もできない。
それは何ら我々の食欲をそそるような事もなく、
これがサインだとはっきり示される事もない。
しかし時が過ぎて、後になって「あの時が自分の人生に於ける分かれ道だった。」、
「あの人とのあの時の出会いが今の自分に至っている。」
と思える事が、はっきり思い出の中に足跡として残されている事に気づかされる。
人は誰でも100年前に、 あるいは1000年後に生まれる事もできなかった。
我々は生まれた時のその時代を生きるものでしかなく、
そこに与えられたものを、どうやって受け入れ、
そして不用なものをどうやって捨てて生きるかが生そのものであるし、
過去に積み重ねられた先人たちの生の上に、この我々の生は積み重ねられてゆき、
そして子どもたちは我々の上にその生を積み重ねてゆく。
これはすでに「生命の道」と言ってよいだろう。
だから我々は注意深く道しるべを見逃さないようにし、
自ら抱え込んでしまった重い荷物は捨て、
次の世代にこの生命世界を手渡さなければならないのだろう。
そして見逃してはならない「道」からのサインを、どう受け取るか。
捨てべきは何か。
それが「老子」の中に、まるでタイムカプセルの中に入れられたコンピューターソフトのように積み重ねられている。
是非「道」を起動させてみたいもので、別の世界が開けるかも知れない。
そのためには「老子原語」への試行錯誤が必要なのであろうと言えようか。
第三十六章
將欲歙之。必固張之。
將欲弱之。必固強之。
將欲廢之。必固興之。
將欲奪之。必固與之。
是謂微明。柔弱勝剛強。
魚不可脱於淵。
國之利器。不可以示人。
人々が口を揃えてまさにこれを欲しがるような時は、
しばらくその声を張り上げさせて置きなさい。
彼らを弱めようとするなら、
しばらく強がらせて置きなさい。
そしてそれを止めさせようと思うなら、
しばらく興奮させておき、
彼らがこれを奪おうとするなら、しばらく与えて置けばよい。
それが自分に必要なものなら、やがて相手はそれを放り出す。
これも一つの小さな智恵。
人生の秘訣。
柔軟さは剛強さに勝つと言い、
それは魚が水の淵から出ては生きられないのと同じ事。
この智恵を守るのは大切な事だが、だからと言って人に言うほどの事ではない。
第三十六章
「歙」は「息を吸う事、揃って怒る様。」で、
人はその怒りを表す時、確かに息を吸い込み、そして胸を張って怒気を吐く。
そんな時はこちらも一緒になって怒りを表すような事をせず、
相手に怒らせておけば、やがて相手はそうする事に疲れ、おとなしくなるもので、
もしも相手をやっつけてやろうとするなら、
強がらせておけば必ず強がった分だけ弱くなる。
止めさせようとする時は、もっと派手にやらせなさい。
そうすればその事の馬鹿馬鹿しさを知るだろう。
相手が奪おうとするなら、抗わず与えてやった方がいい。
下手に争うような事をしなければ、こちらも怪我などしないで済むと言うもの。これが本当に賢明な事と言うものなんだと言い、
「柔弱勝剛強。」「柔よく剛を制す。」と言う。
そしてそれは「魚は水から出て生きる事ができない。」のと同じ事だと言う。
まさにこの事を生命あるものの智恵、そして国を守るための利器として生きなさい。
そしてこの智恵を胸に秘めておきなさいと。
何ともしたたかな生き様ではないか。
確かにそうすれば自らのこの生命を傷つけるような事にもならないだろう。
この生命が傷つく事がなければ、この智恵も生き、語り継がれて平和な世界を作る事 ができるかも知れない。
人はその「争い」を克服できるかも知れない。
なぜかイエスの、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい。」と言うのに似ている。
しかしこれもまた現実には難しい事で、
そうするためには自分の欲を我慢し、
あるいは自分の欲を無にして臨まなくてはなるまい。
それができれば誰もが「聖人」になれる事だろう。
そう解かってこころ掛けるならできそうな事がある。
つまり、「何事も相手がいいようにしてあげる。」という事で、
そうすれば何事に於いても争いにはならないという事だ。
「常にこころを無欲にし。」と言われて難しければ、
「相手が喜ぶ事がこちらの喜び。」にしてしまえば、
そんなに難しい事でもないだろう。
いや結婚生活とか夫婦生活における「智恵」と言ったものも同じ様な事で、
そうすればきっとうまくゆき、
大きな争い事にはならないに違いない。
試しに相手のいいようにしてみよう。
お互いがお互いの意見の正しさを主張して傷付け合う事が、すでに正しい事ではないのだから。
第三十七章
道常無為。而無不爲。
侯王若能守之。萬物將自化。
化而欲作。吾將鎮之以無名之樸。
無名之樸。夫亦將無欲。不欲以靜。天下將自定。
道。
即ち生命の法則はいつも何一つ直接手を下さない。
しかも何一つ道が創り出さないものもない。
だから上に立つ者が道を守れば、万物は自ずから生成化育するが、
しかし人々の間に果てしない欲望と混乱が生まれたなら、
私は無名の樸をもってその混乱を鎮めるだろう。
それは姿なき力。
人々の理解を超えて名づけようもない力。
静かな中にも静まり返った力がこの世界を支配するだろう。
この力によって世界は自ずから安定する。
第三十七章
「道」は我々に何一つ直接働きかける事はない。
それはあたかも法則として働き、
すべては我々の行いによって起因し、
そして法則によってその結果を与えられるに過ぎない。
つまり、「道」は「無為」なるものでありながら、
何一つその命運を左右しないものもなく、
誰も「道」から逃れる事もできないのだ。
この様にして「道」は万物を生み出し、
そしてこれを統べながら、
もしも生命がその欲に任せて生きるような事を続けるなら、
「吾将に無名の樸を以って之を鎮めん。」と言って意味深い。
「無名之樸」とは、ことばにはできない生命そのものの事で、
生命そのものが本来「無欲」なるものであるからこそ、
欲を持って生きる生命の有り様を正し、
これを鎮めると言うのであろう。
それは何も不自然な事によってそうされるのではなく、
自然な「道」の営みとして人の生命に働きかけるものだと言う。
果たして我々人間の欲は、「鎭」の対象となってはいないのだろうか。
近代以降の人の営みは、既に地球環境をも変えつつあり、
のみならず人の作り出した「核」は、明らかに自らの生存そのものを脅かしている。
第六十四章で言われているように、
「小さなほこりなら吹き払う事もできる。」が 、
簡単には吹き払えなくなってしまった欲の塊を吹き飛ばすには大きな力が要る事になる。
その力を我々は自身の中に見出せようか。
それとも我々の力の及ばぬ大きな力が我々の生命そのものに働くのであろうか。
その日が来る事が既に決められているのなら、
我々は今にも悔い改め、その日に備えなければならないだろう。
その日は静かに、そして何の兆しもなく、しかも確実にやって来る。
もはや争い奪い合っている時ではないだろうし、
いがみ合っている時ではないのだろう。
「無名之樸」を以って生命世界が自ずと定まる時、
いったい我々は生き残っていられるだろうか。
そんな想いを抱くなら、
この世界を少しでも生命の法則としてある「道」の世界に、
我々自身を復帰させなくてはならないだろう。
我々はこの世界を「甘露が川となって人々を潤す世界。」に作り替えてゆかなくてはならない。
人は、その文化文明の名に於いて生き続ける事ができるだろうか。
揺るぎ無き大地の上に、明日も生きているだろうか。