国 之 子 桃 太 郎 ― 渥 美 勝 の 片 影        
 
富士の裾野 
  富士を負ひ海原見ゆる裾野あたり牛追ふたつき夜々夢に入る
 右の歌は、渥美勝が大正十二年二月十五日に東京から西下する夜行列車の中で詠んだも
のである。この歌に詠まれた裾野の地に渥美はいま眠つてゐる。静岡県裾野市佐野若狭森に
墓碑が建つてゐるのである。JR御殿場線裾野駅の北方、市民体育館と線路を隔てた反対側
にその碑は静かに建つてゐる。
 平成九年四月三日に、筆者は初めてここを訪れ参拝する機会を得た。碑表の「渥美勝乃命
碑」の文字は頭山満の揮毫になるもの。頭山は渥美を「あれは、ほんとの人間だよ」と評して
ゐた。碑背には、山本吉之夫人の筆になる冒頭の裾野の歌が刻まれてゐる。
 渥美勝といふ先人の名を知る人は、いまはさう多くないであらう。頭山をして本物だといわし
めた渥美勝とは、一体いかなる人物であつたのか、本稿ではその生涯の極一端を拙い筆もて
少しく記してみたい(伝記事実については田尻隼人『渥美勝伝』同『桃太郎渥美勝』による。渥
美の文章は断らない限り遺稿集『日本之生命』より引用する。)。 

 国之子桃太郎の誕生 
 渥美勝は、明治十年二月十三日滋賀県彦根町字石ヶ崎(当時)に呱々の声をあげた。父平
八郎は旧彦根藩士、渥美家は代々武術指南で仕へて来た家柄であつた。母(名前不詳)は旧
藩主井伊家の分家である木俣家の出身で、近衛家の血を引くといふ。幼くして父を失い、母の
手一つで育てられた。
 長じて彦根中学を卒業後、第一高等学校を経て京都帝国大学独法科に進んだ。明治三十
三年のことである。大学時代は正規の学業よりも終日図書館に籠つて哲学・宗教書を貪り読
んだり、寺院や教会の門を叩いたり、深夜比叡山に登つて瞑想に耽つたり、といふ生活であつ
た。「煩悶青年」といふ言葉がある。その例として有名なのが、一高生藤村操で、彼は「万有の
真相は唯一言にして悉す曰く『不可解』」の語を残して華厳滝に身を投じた。時に明治三十六
年五月二十二日。渥美もまたそのやうな青年の一人として、煩悶の日々を送つてゐたのであ
る。
 人生問題、社会問題に没頭してゐた渥美に一つの転機が訪れる。先は失恋といふことがあ
つた。「俺は恋をする資格がないのか」と悶々たる最中に、今度は母危篤の知らせが届いた。
急ぎ帰郷するもむなしく最愛の母は、遂に帰らぬ人となつてしまつた。はやくに父を亡くし、貧し
い中をその手一つで育ててくれた母のことである。思慕の情強く、ために余程の衝撃であつた
のだらう、丁度母の遺骨を墓所に納める費用なく途方にくれてゐたこともあつて、渥美は「母を
おれのふところへ葬ろう、母はきつと喜ぶに違ひない」と考へるに至つた。尤も咽喉骨を何とか
呑み込めただけで全部はとても無理であつたが、幸いにその後程なくして墓所への納骨を済
すことが出来た。                 母を亡くした悲しみの中、渥美は京都に戻らず
暫く郷里に止まつてゐた。そんなある日のこと、近接の小学校(幼稚園とも)より唱歌「桃太郎」
が可愛らしい歌声にのせて聞えてきた。
  桃から生まれた桃太郎 気はやさしくて力もち
  鬼が島をば伐たんとて 勇んで家を出かけたり
  日本一の吉備団子   情けにつきくる犬と猿
  雉ももろうてお供する 急げやものどもおくるなよ
「はつ」としたその刹那、渥美は「桃太郎!桃太郎!さうだ桃太郎だ」と思はず叫んでゐた。遺
稿集の略伝には「翻然悟る所あり、以為らく『人、この世に生を享く、須らく万有を統一し、一切
不善、一切悪を征服するの信念無かるべからず、桃太郎は維れ日本民族生命の象徴にあら
ずして何ぞや』と。これより国典を繙き、日本哲学の玄義を究め、以て寝食を忘る。」とある。
 回心といつていいのであらう。葦津珍彦氏は、神道には回心はないといふ学者があるがそれ
は当らず、神道にも神縁や神々の恩頼による回心によつて強く深い信を得た人は多い旨述べ
てゐるが(「神道教学についての書簡」『葦津珍彦選集(一)』)、渥美の場合それに当るのだら
う。この体験以後の渥美は、桃太郎を目標とし、自ら桃太郎たらんとする、求道といふ他ない
生涯を送ることになる。

 帝都での獅子吼 
 桃太郎との邂逅を果した渥美は、一度京都へ戻ったけれども、最早学窓に止まる気にはどう
してもなれなかつた。もとから欧米模倣の教育に不満であつたが、愈々その念を強くし、遂に
卒業を目前にして大学を中退する。一高から京大へといふエリートコースを弊履のごとく投げ
捨てたのである。
 中退後故郷に帰り中学校で教鞭を執ること約二年、転じて大阪へ出て鉄工所の職工となる。
彦根・大阪時代を合はせて約七年程の渥美の動静は詳しくは分からない。桃太郎体験以後の
渥美は、国典特に古事記の研鑽に没入してゐたが、働くやうになつてからもそれは変はらなか
つたらう。桃太郎に触れて把捉したものを更に深め磨くことに沈潜してゐたことと思はれる。
 さうして迎へた明治四十三年、大逆事件が発生する。これを機に渥美は上京を決意する。多
年研鑽を積んできた身、心中深く期する所あつての東上であつた。翌四十四年に鉄工所を辞
し、途中石清水八幡宮、神武天皇陵、橿原神宮、神宮、熱田神宮を参拝しつつ上京した。東
京着は九月のこと。先づは生活の糧を得るべく直ぐに埋立人夫となつた。この仕事を皮切りに
大正四年ぐらいまで、人力車夫、花屋、活動写真館の中売、夜回りの火の番、美術館の下足
番、等々職を転々とする。
 渥美が帝都で実行すべく考へていたのは、後年初対面の満川亀太郎に「僕は須田町に立ン
坊をしてゐる者です」(『三国干渉以後』)と語つたこと、即ち十字街頭に出ての獅子吼であつ
た。初陣は明治四十五年三月三日桃の節句の夕方、神田須田町の広瀬中佐銅像前に「桃太
郎」と大書した旗を立て、道行く人々に「神政維新」ー日本人の使命である万有の修理固成ー
を叫び訴へかけた。後には上野公園でも行ふことになるこの辻説法は大正十年に至るまで続
けられ、これを通じて渥美の門下に列する者や支援者が徐々に出てくるやうになる。
 かうして大道演説に雄叫びをあげはじめたのと同じ時期、渥美は奇しき縁で道会へといざな
はれる。

 道会への加入          
 渥美が人力車夫をしてゐた頃、乗客のある青年と何かのことで口論になつた。しかしそれが
きつかけでその青年とは肝胆相照らす友となつた。大川周明のことである。この大川が渥美を
道会へ紹介したといふ。
 道会はもと日本教会と称し松村介石が明治四十年十月に創設した日本的基督教の団体で
ある。しかし松村には基督教の神学中信じることの出来ない所があつたために徐々に基督教
色を脱して行き、明治四十五年四月には日本教会を道会と改称するに至つた。道会は信神
(宇宙の神を信ずる)・修徳(自己一身の修養)・愛隣(人と国家の為に尽す)・永生(霊魂の不
死)の四綱領を信仰箇条とし、「吾党は一宗一派に属するものにあらず、不朽の道、不易の真
理、即ち古今に亘り、万国を通じて、動かず変ぜざる宗教倫理の根本義に拠り、人をして天に
対し、人に対し、永遠に対して、自己一身の安立と、責任とを全ふせしめんことを期するものな
り」をその主張とした(大塚健洋『大川周明』、刈田徹「道会機関誌『道』の「改題」ならびに「総
目次」(その一)」『拓殖大学論集』一五八)。  渥美と知合つた頃の大川は既に明治四十三
年以来の道会の正式会員であつた。その大川の導きで渥美が正式に入会したのは明治四十
五年三月二十四日、第十回の入会式に於てである。道会を通じて大川の他に終生の交はりを
結ぶことになるのが、大逆事件後社会主義から離脱し、明治四十四年に道会に入つた西川光
二郎である。西川はその後独立して雑誌『自働道話』を発刊するなど道徳修養運動を行ふこと
になる(田中英夫『西川光二郎小伝』)。                                
 入会に際して渥美は「今に於ける自分の感情は先生(注・松村介石)と教会とに対して『惚れ
たりと云ふ程には無いけれど何んとなうほどのよいのが気に懸かる』と云ふにある」(「鐘に譬
へてー道の会に入りたる際に」)と述べてゐる。入会後暫くは人力車夫を続けてゐたやうで、無
理がたたつて体を悪くしてしまつた。それを心配した西川に「知人に米一升ずつ貰つても人力
を引くのを止める様に」と勧められてさうすることになつた、とは西川夫人文子の回想である
(天野茂編『平民社の女ー西川文子自伝』)。多分この後のことであらう、渥美は大川らと共に
機関誌の編集に従事するやうになり、そして自らも雑誌に寄稿した。渥美の遺稿集に収録され
てゐる随筆の殆ど(三つだけ出典不明)は、機関誌『道』やその姉妹誌『道話』に発表されたも
のである(前者には本名で、後者には「愚公生」の筆名で執筆してゐる)。以下渥美が道会時
代に発表した随筆を少し紹介してみたい。 渥美の「求道」「内省」ぶりが表れてゐると思はれ
るものを引く。

  夜も更けたから床に入つた。母人に遭はんとて墓に行つた。墓は塵土に汚れて居る、  
自分の不孝が思はれた。墓下に母人は蒼白の面に子の為すなきを嘆ちつ言葉無しに居  ら
るゝを見て、何となく悄然れた。自分の去し方は何、唯妄念妄動。……それこれを  想ふて母
人を懐えば不孝の子実に涙が湧く、涙をせめてもの母人の供物とする。母人  には不孝なり
に猶泣く自分がある。碌でなしの自分の如き死んで泣き呉るゝ者遂に無  かる可きか。正直
の所こんなことを思ふと寂しい様で悄然て居堪なくなる。……まあ  泣て呉れる呉れぬの沙
汰は別として自分の向ふ可き所へ向ふかなあ、と自ら慰めた。  (「妄想一過」)

  回顧すれば爾来一年になる。省み自ら問う何を成したかと。肉身に僅少なる汗して粗  食
を口に入れ辛く漸やく活きて来た。唯肉身を活きて来た。其れ丈に過ぎない。撫然  たるもの
がある。去れど此間にも桃太郎を標的とする身の、其糧たる可き吉備団子は  何ぞと求めて
止まなかつた。……「忍は糧」との戒は亡き母人の遺訓として、今猶耳  に響いて居る。而し
て近頃「神は何を食て活くるか」に思い入り、惨憺たる踏分け道  を辿つて漸くにして「神は神
自らを食て活きて居る」に至つて、不尽の糧を得た心地  がした。天地の霊気を受けたる桃
太郎の爺媼の吉備団子は之れだと思った。嬉しく有  難かつた。(「歳暮の間」) 

  (注・友からの手紙を読んで)第一に桃太郎と情死せよとの勧告。之れ程言ひ当てら  れ
た言葉は僕が他より耳にするは始めてだ。吾が理想とする桃太郎が吾が衷裡に充実  せず
ば我れ自ら我れ如何。而も猶ぴつたりと添はぬのが自分ながら自分でももどかし  くてたまら
ない。吾が弱いのだ、勇気が足らないのだと想ふ度毎に天に祈つて居る。  (「友に与ふるの
書」)

 道会時代の随筆にはまだ明確に打出されてゐないが、後年の渥美が最も重視し強調したの
は、日本人の「生命観」は何かといふことであつた。その原形と思はれるものを引いてみる。

  外国にて教へられたる道として聴き及ぶ所に依れば、信仰によりて新たに生れ更るこ  と
によりて神の子たるを得、又信仰によりて神の子となる約束を確受し次生を俟つて  神と同
体の神の子となるを得るとある。其の孰れでもなく我が祖先よりの信念は、生  れながらにし
て神ながらなる神の子であり、死にも又其侭に神の子であると云ふので  ある。此の信念よ
り来る外国人と我等祖先よりの人生観の相違は、外つ国人の教にあ  りては、神の子となる
と云ふことが、人生至上の目的であるとするのであるが、神の  子と云ふ考への上に、となる
と云ふのでなく本来に、であると信ずる我等にありては  となると云ふことは問題ではなく、で
ある我等が何を又如何様にと云ふことが考察の  対象になり努力の対象ともなるのである。
であるから外つ国人の教へにありては、と  なると云ふ至上目的の為に、或は祈祷、或は帰
命と云ふことを要とするのであるが、  である我等にとりては、得て以て在らむとするのでな
く、在る所のものを如何にす可  かと云ふ問題を要とするのである。従て我等が人生に於け
る修養と云ふものも、神の  子とならむが為の生の修練でなく、現に神の子にてある生の力
の研磨と其適用の修練  を要とするのである。(「祭りを過ぎりて途上に」)

 右の引用文は『道』大正四年七・八月号に掲載されたものであるが、これを最後に道会の雑
誌に渥美の文章が見えなくなる。これ以降大正四年中には道会を去つたものと思はれる。そ
の理由を伝記では、渥美には松村の思想と合はない所があり、そのために親友の大川に迷
惑がかかつてはいけないと慮つてのことであると記してゐる。
 道会に別れを告げた渥美は更なる求道の歩を進め行く。渥美の事跡のうち老壮会への参加
と高千穂行について次に触れたい。

 老壮会への参加
 大正七年十月老壮会が結成される。その経緯を満川亀太郎は次のやうに述べる。「米騒動
によつて爆発した社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想の横溢とは、大正七
年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさへ見られた。一つ誤
てば国家を台無しにして終ふかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、国家改造
の基調となり得るかも測り難い。そこで私共は三年前から清風亭に集つて、時々研究に従事し
つゝあつた三五会を拡大強化し、一個の有力なる思想交換機関を作らうと考へた。かくして老
壮会が出来上がつた。」(『三国干渉以後』)
 老壮会では、今後の日本の進むべき針路の発見を期して、年齢・職業・思想・立場の相違を
越えて忌憚無き意見の発表と討論を行ふのを宗とした。後年満川が「エタイの知れないものに
なつてしまつた」(同右)と述懐したほど多彩な顔ぶれが老壮会には集つた。その中には渥美
勝もゐたのである。
 大川に連れられて渥美が初めて老壮会に姿を見せたのは、大正八年七月十四日の第十六
回例会に於てであつた。その時の印象を満川は「汚れて汗臭き絣の着物に小倉袴をつけ、腰
にタオルをぶら下げて入つて来た渥美氏の姿は見すぼらしき限りであつたが、透明にして露を
たゝへたその眸には犯すべからざる気品があつた」(同右)と記してゐる。渥美はこの初参加
の席上「明治維新には三大勢力が渦を巻いてゐた。即ち黒住、佐幕、勤皇の三派であつた。
然しながら彼等の間には何等の連絡も諒解も無かつたから随分無用のことに人命を殺したの
である。今や第二革新の機が眼前に切迫せるに際し、氷炭相容れざる各派、即ち右は保守的
軍国主義より左は急進社会主義の極までを網羅する此の会の如きは、御互に顔を見知つて
置く丈けでも、誤解を釈くことも出来、一朝有事の日敵を変じて味方とすることも出来る」(同
右)とその所感を述べた。これ以後渥美はほぼ毎回の例会に参加するやうになる。
 大正八年八月五日、第十八回例会では渥美は約二時間に亘る講演を行つた。当時の記録
には「氏は予言者の如き態度を以てその標榜し奮闘し来れる神政復古の理想より、明治維新
を見、来らんとする第二維新を見、世界改造を見、基督教を見、日本古代史を見熱烈火の如
き熱弁は列席の人々を魅せずんば已まなかつた」(「老壮会の記」『大日本』六ー九)とある。渥
美の熱弁振りは相当強い印象を聴衆に与へるものだつたやうで、満川はまた「姿はそゞろにア
シジの聖フランシスを思はせられたが、舌端火を吐く熱弁はサボナローラーに比すべきであら
う。魂のドン底から人を揺り動かさずば已まなかつたのである。」(『三国干渉以後』)と評してゐ
た。
 老壮会での講演の具体的な内容は分からないが、遺稿集にある「神政維新」の論文や講演
録と同内容のものであつたかと思はれる。その根幹部分を次に引いてみたい。先に引用した
道会時代の随筆で、神の子「となる」と「である」の違ひとして言及されてゐたことが、ここでは
「生命の自覚」の違ひとして述べられてゐる。

  原始の日本、それの内容を構成せりし当初の先人等が、人間としての生命の目醒めの  
その曙に、最初に最先に強く且つ深く、その中核よりして動きと要めを取りたる所の  もの
は、「我等この生命で何を為さうか」と云ふことであつた。それは生命の苦観、  罪観、弱観よ
りして、生命考察の主力点を其所に置て或は置かざるを得ざりし生命者  が、不安の境を安
全地に回復し得むが為めの詮議として「生命とはそも本来如何なる  ものなるか」或は「宥さ
れ又は免かるゝには如何にすれば宜しきか」とのやうの題目  に沿ふての自覚とは、その自
覚の採りやうに於て、全く趣を異にした所のものであつ  た。それは存在の怯えからでは無く
て、適用の要めよりして呼起されたる純然たる自  覚であつた。「天つ神の命もちて、此漂へ
る国を修理固成せ」と云ふを以て、その作  動の原頭とした事は、それ自体が此事を自証す
る所であり、これは何としても尊きこ  とであつた。……これは地上に人類の在らむ限り、失
はれてはならぬ、また失はる可  くも無く隅々までも徹せられねばならぬ所の、素晴しく尊きも
のであつた。(「新日  本之生命」、遺稿集三版では「日本の宣言」) 

 言い回しが難しいが、右と同じ内容を遺稿集の他の論文や講演録でも述べてゐるのでそれ
らも合はせ参照して纏めてみると次のやうにならうか。
 太古日本の先人等は「我等この生命で何を為さうか」と考へた。それは基督教や仏教のやう
に生命を罪や苦と見て、そこから逃れ救はれるためにはどうすればよいか、と考へるのとは生
命の自覚の仕方に於て根本的な相違がある。「生命であることの真の意義と価値は、為すこと
の上に存する」(「高天原を地上に」)、「生命を単なる存在に於いてのみに価値づけず、使命
の中に価値づける」(「日本民族の本来の使命」)。これが「生命の基調」であり、この「生命の
基調」をしつかと把握して「万有の整理開拓」を行ひ、高天原を全地上の上に実現しなければ
ならない(「古事記とバイブルの比較ー外国生命と比較したる日本生命の基調」)。
 桃太郎渥美勝の到達したのが「我等この生命で何を為さうか」であつた。 

 高千穂行 
 大正十年九月二十三日秋季皇霊祭当日午前四時半、渥美は高千穂行を決意した(西川宛
書簡)。その動機を伝記では渥美が「国家、社会の現在および将来に対する根本的解決を如
何にすべきか、同時に自分自身に、かうした難局を克服するに足る不死鳥のやうな強靭さに
欠くるところ無きや否やと、思い悩んでゐ」たことに求めてゐる。それと共に「人知れぬ内面的
悩み」即ち「家なき孤独の淋しさを、どうしても拭い去りきれぬ悩み」からでもあつたと述べてゐ
る。渥美は大正四年頃から純然たる浪人生活に入り、友人宅に泊まつたり、神社の縁の下や
谷中の墓地で時を過ごしたりして、生涯家庭を持たなかつた。そのやうな境涯にあることから
来る悩みも深かつたのであらう。伝記には「第二の懊悩煩悶時代」とある。
 渥美は高千穂行の決意をすぐに同志の沢田五郎(当時東京農大講師、神道本局顧問)に伝
へた。沢田とは大正八年から始まつた神道宣揚会を通じて親しくなつた。神道宣揚会とは神道
の発展に志ある者が月一回麻布の神道本局に集まつて研究発表や討論をする会合である
(「神道宣揚会第三十回紀年に際して」『神道』七一)。渥美の決意を聞いた沢田は「東京の地
上。お前は遂に渥美氏を容れ得ないのか。日本の首都よ、お前でさへも其の様に狭く醜いの
か」と悲しんだ(「渥美勝氏の高千穂行を送る」『神道』六四)。     渥美を送る壮行会が開
かれたのは大正十年十月十七日。挨拶に立った渥美は自己の来歴を述べ「今度高千穂峯に
登つて、国の内を見はるかした太古の神の心にならむ」との決意を語つた。続いて西川司会
のもと田中治吾平、禊教某氏、労働中尉庄司俊夫、沢田、佐土原すゑ、満川、最後に物集高
量が送別の辞を述べ、盛会裡に終了した。当日の渥美は「一しほに落ち着いて強く尊く見うけ
られた」と沢田は記してゐる(同右)。        出発は十月二十三日、東京発の夜行列車
に乗り込んだ。同行の士は村山惣作、市毛康隆、大塚喜積の三名。途中彦根に墓参し、多賀
大社、神宮、橿原神宮、桃山御陵を巡拝して三十日大阪より船に投じて水路西へ向かつた。
 高千穂登拝の途についたのは十一月三日未明のことであつた。中腹で日の出を迎へ、村山
が大祓詞を奏し、渥美は
  日向のや高千穂の根に吾が立てばひむがしの空ゆ旭日さしのぼる
の歌を捧げ拝した。絶頂は十時、金扇日の丸桃太郎旗を立て、日天及び四方を拝し、勝鬨の
声を挙げ、「静かに岩角に腰を下ろして四顧、天孫降臨の幽意及神武肇国の偉業を偲び、目
を閉ぢて、生等が今の時、国に致すべき使命を瞑想神助を念じて下山」した(西川宛書簡)。こ
れから大正十二年の秋まで約二年間(一度帰京)に亘つて「神人の生活」(『三国干渉以後』)
を送ることになる。
 暫くの間霧島神宮の近くに滞在し、十一月下旬に宮崎県檍村一ツ葉海岸に移つた。空の漁
師小屋を借受てそこで寝泊りすることにし、沢田宛書簡に「日々荒波に身を投じて禊をして居り
ます」(「靄々亭閑話」『神道』六五)とあるやうに禊をしながら翌年の夏頃まで暮らすことにな
る。渥美は当地で次のやうな歌を詠んでゐる(満川宛書簡)。
  神祖の禊しませる檍原涙の海に我れ身を浸す
  檍原涙の瀬戸に我れ死なむミコトしあらば唯国の為めに生きむ
 大正十一年七月頃、禊の日々を終へ別の地へと移動する。満川宛書簡に「小生は近い内に
当檍村を去りまして三田井(高千穂村、肥後境にして延岡より西方十三里)の方に移りまして
岩戸神社の遺跡を尋ね、其近傍にいくつも岩穴があるそうですから、金のない自分は藁でも穴
に持込んで当分岩戸籠りでもさして頂きまして内観と孤独とを真に味はゝして頂かうかとも思ひ
居ります。」と記してゐるやうに天岩戸神社に参籠生活を送り、更に転じて高千穂神社の神楽
殿に移り住んだ。東京を去つて一年が過ぎようとしてゐた。
 その年の年末に一度東京に戻り、翌大正十二年二月十五日に再び東京を離れ、九州へと
向つた(この時に裾野の歌を詠んだ)。今度は大分県臼杵町に住み始めた。「唯だ此所では自
ら神様の御手に舂かれ搗かれて居らして頂くといふ気分で、日を過ごさして頂いて居るに過ぎ
ません」と沢田に書き送ってゐる(「臼杵町より」『神道』八二)。この頃沢田ら神道宣揚会の
面々が、九州にある渥美を経済的に援助するやうになる。その好意に渥美は長文の手紙を出
して感謝し、その内なる心情を吐露した。
  実を申せば小生の如きは他人様からお助けなくば活きて行けぬ身であり、また現に何  
等かの道で活きさして頂いて居るのでもありますが、自分自身の勝手なる行き方を致  して
居りまする身にはいつもいつも強く反省さゝれ相済まぬ、勿体なく有難くこれで  は相済まぬ
等様々の感じに鞭打たるゝ事であります。……一言にして申せば、対人的  にも、対社会的
にも何等の生産を挙げ居りませぬ此身それは以前の人夫車夫等は体力  上今は出来ませ
んが、納豆売り位は出来る体力は今でも持つて居る筈です。それを為  ない自分、それが出
来ない今の心持ちの自分、それでゐて唯だ活きさして頂いて居る  自分そして食ひ潰して何
の役にも立たぬ自分に実際ぞつとして時には肌に粟を生ずる  の心地もすることでありま
す。(沢田宛書簡)
 六月上旬には宮崎の妻町史蹟研究所に居を移した。九州へ来てからは修道、聖地巡拝、旧
跡探訪の他に座談会や講演会にも出席してゐたが、妻町でも当地の神職や青年会から講演
の申入れがあつた。講演に臨むに当つて渥美は年来のある主張を重点的に話そうと考へた。
沢田宛の手紙に次のやうに述べてゐる。                      今秋は府県会
議員、また来春は衆議院議員の改選期にも当りますから、小生は選挙界  の革新、改正の
一端、一助にもと、選挙者が選挙当日、氏神に参拝して心持を清め、  情実利害の累より離
れたる心持を以て、選挙場に足を運んで呉れらるる様に一の方法  として、此の風を興して
貰ふことを、一般民衆に御相談もし、又御願も致したいと存  じ居りますことであります。小生
としては、これは年来の一の主張でありましたが、  此度は、当日向に居ります間、一つ此事
に力を致して見たいと思ひ居りますことであ  ります。(「日向の国より」『神道』八三)
 九州での二年目の修道生活も終りに近づいて来た九月一日、関東に大地震が起つた。渥美
は未だそのことを知らないまま、この日満川宛に手紙を認ていた。           予てより
小生の祈りでありました神政維新の幕が案外早く打開せらるゝのではなから  うかと云ふ様
なる気も致すことであります。小生としては自分の存命中に、我が内に  在る所のもの、而し
て唯だそれ丈けに止まるものでなくして、現実の客観界に、せめ  て、序幕の切り開きの拍子
木丈けにても耳に入れたいと存じ居りまするが、まあそれ  も出来なければ、此侭の巡礼で
終る計りよと覚悟を致し居りました事であります。そ  れが今のやうな模様では案外早く時運
の推移を見るかも知れないと云ふ気が致しまし  て、静かに天意を聴き度いと思ひ居ります
事であります。
 天意を感じたのだらう、渥美の「祈り」である神政維新の序幕に立向かうべく、約二年の「巡
礼」を切上げ、九月十三日に日向を去つて震災後の東京へと向かつた。 

 召還の命のままに 
 大正十二年十月の初頃に東京へと帰着した渥美は、精力的に種々の社会運動、思想運動
に加はり、尽力するやうになる。略記すると、大正十三年には天野辰夫、沢田らと五月党を結
成し、総選挙に立候補する天野を応援した。及川智雄主唱の「宗教懇話会」創立準備会に沢
田、補永茂助、野尻祐通らと共に参加した。沢田・満川・西川・千家尊建・田尻隼人らと聖日本
学会を創設した。全日本興国同志会の総代に推挙された。大正十五年の建国祭に際し赤尾
敏を援け、建国祭本部が建国会に発展的解消をした時にはその道場の指導者となり、井上日
召、前田虎雄や青年達と起居を共にした。昭和二年には遠藤友四郎の錦旗会に迎へられ顧
問に就任した。その間にも東へ西への講演行脚に忙しく飛び回つた。   さうして昭和三年を
迎へた。渥美はこの年も変はらず、錦旗会の巡回講演のため東北や関西へ赴くなど神政維新
を熱心に説き続けた。しかしその一方で、春頃より体の不調を覚えるやうになつてゐた。   
                           渥美はかつて「僕の半生を顧ると満身疵痕だら
けだ……苦戦苦闘百戦百敗の惨史だ」と語つた(「友に与ふるの書」)。常に「なすことなき」自
分を叱責しては涙を流した。そのやうにして桃太郎を求め、桃太郎たらんとして生きてきた。愚
直な、あまりにも愚直な生き方であつた。そんな渥美を莫逆の友西川光二郎は次のやうに評し
た。         彼には所謂手腕と云ふものがなかつた。それは極端になかつた。けれども
彼は手足の  ない大きな魂であつた。目に見へるものは、何んにも造り得なかつたが、人の
心に、  見へざる感化は残した。(田中『西川光二郎小伝』)
 十一月二日、渥美は友人の長岡理泉宅を訪ひ、そこで二泊する。その前後に手帳に記した
のであらう、渥美の次のやうな言葉が残されてゐる。絶筆とされてゐるものである。   而立
より知命まで二十年、皇と国とに業火を燃して、自らの存在に何等かの価値あり  と思ひつゝ
生の歩みを続け来り、どん底を這ひながらに、そは未だ代価にならぬ迄で  にして無価値に
あらざるなりと、己惚れながらに終に二十年の生を盗み来つた。而し  て此間、一子をも生み
得ず一食をも生み得ず、将た一事をも為し得ざりし自己を省み  る時、徹底して、自己の無
代価は無価値と別事ならざりしを暁り得たり。
  石の上にも三年とある、二十年石の下に蚯蚓の如く生を盗みし事の申訳なさ。一食、  一
衣、一室を賜ひて故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す。
  自然死か不自然死か自ら知らず、唯だ神の召還の命のまゝに逝くに際し。
 昭和三年十一月四日の朝、渥美は火鉢にあたりながら静かに帰幽した。
(『不二』平成10年2月号)
 




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