【楢本神社】


神風特攻第一號敷島隊五軍神祀碑



昭和五十六年十月二十五日 全国の融資諸賢奉賛により五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて敵艦に突入の二五〇キロ爆弾と同型の祀碑を 戦闘隊型に建立し、十九才、二十才と云ふ若者達が国家の悠久繁栄を信じ大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ因(よすが)とせり。

第一番機海軍中佐関 行男愛媛県西条市出身行年二十三才
第二番機海軍少尉中野磐雄福島県原町出身行年十九才
第三番機海軍少尉谷 暢夫京都府舞鶴市出身行年二十才
第四番機海軍飛行兵曹長永峰 肇宮崎県宮崎市出身行年十九才
第五番機海軍飛行兵曹長大黒繁男愛媛県新居浜市出身行年二十才



日本の特別攻撃隊について アンドレ・マルロー(元フランス文化相)

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにもかえ難いものを得た。 それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。 スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、けっきょくは権力を手に入れるための行動だった。日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだったろうか。 断じて違う。かれらには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。代償をもとめない純粋な行為、そこには 真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」

〔#ファナチツク:fanatic,狂信者〕〔#ファナチズム:fanaticism,狂信的行為〕



戦艦大和主砲々弾

この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。 当時においては世界にその比を見ない大きなもので、恐らく将来もかゝる大きな砲弾は生まれないであろう。 この砲弾を発射し得る大砲、遠距離に飛ばす火薬、これを命中させる指揮装置、砲弾自体に装甲板を貫く形状と材質がある、 従って旧海軍が到達した用兵技術の極致がこの一発の砲弾に示されている。 この砲弾は国家の至宝ともいうべきもので呉地方総監香取顯男海将の肝煎りにより中国火薬且ミ長神津幸直から往時の日本海軍の威容をしのびつゝ 日本国護持のため悠久の大義に殉じた軍神関中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため奉献されたものである。
 砲弾および銘盤寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直
      (海軍兵学校第六十期 海軍少佐)
 台座寄贈      西条市朔日市  越智忠一

(戦艦大和主砲々弾)
型式九四式四十五口径四十六糎砲九一式徹甲弾
全長一.九五メートル重量一、四七〇キログラム
さく薬量三四キログラム装薬量三三〇キログラム
初速七八〇メートル/秒最大射程四二、〇〇〇メートル
(戦艦大和の要目)
排水量六四、〇〇〇トン
主機械一五〇、〇〇〇馬力
速力二七ノット
全長二五六メートル
三六.九メートル
吃水一〇.四メートル


戦艦三笠主砲々弾

この砲弾は明治三十八年五月二十七日 日本海々戦において、聯合艦隊旗艦として東郷平八郎海軍大将が坐乗され、 ロシアのバルチック艦隊を撃滅して世界戦史に赫々たる偉功を奏した戦艦三笠に装備されたものである。 戦艦三笠は大正十五年老朽化により廃艦となり、この搭載物件処理当時舞鶴海軍々需部長の当市出身鈴木秀次海軍大佐の配慮により、 帝国在郷軍人会新居軍聯合分会石川梅蔵海軍部長の要請に応えて拂下げられ市内禎瑞嘉母神社に奉献されたものを、 このたび同神社氏子中より楢本神社境内へ搬入されたものである。
 台座寄贈 西条市朔日市  越智忠一
 銘盤寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直

(戦艦三笠主砲々弾)
型式四十口径三十糎砲徹甲弾
全長0.九五メートル重量四一〇キログラム
初速六〇〇メートル/秒最大射程一二、〇〇〇メートル
(戦艦三笠の要目)
排水量一五、一〇〇トン
主機械一五,〇〇〇馬力
速力一八ノット
全長一三二メートル
二三メートル
吃水八メートル


「戦艦大和」特攻出撃士官の煩悶と苦悩

・・・
痛烈ナル必敗論議ヲ傍ラニ、哨戒長臼淵大尉(一次室長、ケップガン)、薄暮ノ洋上ニ眼鏡ヲ向ケシママ低ク囁ク如ク言ウ
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ  今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日「ガンルーム」ニ沸騰セル死生談義ノ一応ノ結論ナリ 敢エテコレニ反駁ヲ加エ得ル者ナシ
出撃気配ノ濃密化トトモニ、青年士官ニ瀰漫(ビマン)セル煩悶、苦悩ハ、夥(オビタダ)シキ論争ヲ惹キ起サズンバヤマズ
艦隊敗残ノ状スデニ蔽イ難ク、決定的敗北ハ単ナル時間ノ問題ナリ―――何ノ故ノ敗戦ゾ
如何ナレバ日本ハ敗ルルカ
マタ第一線配置タル我ラガ命、旦夕ニ迫ル―――何ノ故ノ死カ 何ヲアガナイ、如何ニ報イラルベキ死カ
兵学校出身ノ中尉、少尉、口ヲ揃エテ言ウ 「国ノタメ、君ノタメニ死ヌ ソレデイイジャナイカ ソレ以上ニ何ガ必要ナノダ モッテ瞑スベキジャナイカ」
学徒出身士官、色ヲナシテ反問ス 「君国ノタメニ散ル ソレハ分ル ダガ一体ソレハ、ドウイウコトトツナガッテイルノダ  俺ノ死、俺ノ生命、マタ日本全体ノ敗北、ソレヲ更ニ一般的ナ、普遍的ナ、何カ価値トイウヨウナモノニ結ビ附ケタイノダ コレラ一切ノコトハ、一体何ノタメニアルノダ」
「ソレハ理窟ダ 無用ナ、ムシロ有害ナ屁理窟ダ 貴様ハ特攻隊ノ菊水ノ「マーク」ヲ胸ニ附ケテ、天皇陛下万歳ト死ネテ、ソレデ嬉シクハナイノカ」
「ソレダケジャ嫌ダ モット 何カガ必要ナノダ」
遂ニハ鉄拳ノ雨、乱闘ノ修羅場トナル 「ヨシ、ソウイウ腐ッタ性根ヲ叩キ直シテヤル」
臼淵大尉ノ右ノ結論ハ、出撃ノ直前、ヨクコノ論議ヲ制シテ、収拾ニ成功セルモノナリ
・・・
出典:「戦艦大和ノ最後」吉田満著 講談社文芸文庫 (P46〜48)


「軍神関行男中佐」の母サカエの戦後

終 章

 ・・・(略)
 軍令部の源田実参謀が「神風隊攻撃ノ発表」は「国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処」と政治的効果を最大限に利用しようとしたように、 本土決戦をひかえた内地では、体当り攻撃の戦果はそのねらい通りに敗色気分を一掃する清涼剤の役割を果たした。・・・(略)


 戦後の不幸の例といえば、母一人子ひとりで新婚五ヶ月目に特攻戦死した関行男の家庭もそうであった。いやむしろ、 他の四人の若者たちにくらべて関一人が妻帯者であったために、悲劇の底は深いのである。・・・(略)
 サカエはその日、近所の人と連れたって町の唯一の娯楽である映画見物に出かけていた。勇太郎が館内を探して戦死を知らせると一瞬息をのみ、 しばらくうつむいて黙っていた。気丈な母は、一人息子を喪った哀しみをじっと耐えているようであった。そして、
「兵学校に出したときから、いつかはこうなることを覚悟しとりました」
 と一言、勇太郎ら告げた。それ以降、くり言はいっさいのべなかった。
 地元西条市では、二階級特進した軍神関中佐の母が健在だと知り、どの地よりもはるかに大きな騒ぎとなった。・・・(略)
 戦死公表が突然であったために、鎌倉の実家に帰っていた妻満里子と西条の母それぞれに新聞記者が押しかけた。記事発表の思惑と地元の熱狂ぶりが先行して、 妻と母は別々に祭壇を設けさせられる羽目となった。当時の新聞記事を見ると、遺族の心情を無視して鎌倉と逗子につぎつぎと人が押しかけている様子がよく判る。 ・・・(略)
 だが、新妻と母の間柄について、地元で思いかけない不評が立つ。まもなく行われた氷見新町の関の葬儀に、新妻満里子は父と一度姿を見せたきりで、 すぐ鎌倉に引き揚げてしまったからである。いらい西条と鎌倉とは往き来がなく、敗戦後、サカエが物置き部屋に寝泊まりし極貧のなかで一人暮らしをつづけるのに対し、 満里子はまもなく離籍し女子医大に進んだ後、医者と再婚する。戦争中「軍神の母」「軍神の妻」とあおりたてた周囲が、 戦後おき去りにされた母と妻に対していかに非情であったかは、以下に記す通りだが、それとは別に「軍神の妻」の変身は地元西条での評判をひどく下落させた。
 だが、新妻満里子の再婚は母サカエの強い希望であった。
こんな逸話がある。・・・(略)
「軍神の母」として涙ひとつこぼさなかったと新聞、雑誌に書かれている母サカエは、しかし息子の友人の前ではちがった表情を見せた。 箱の底の小さな髪の束を見つめるうちに目頭を押さえ、
「西条の人たちは行男のことを、軍神、軍神と騒いでくれとるけど、私は生きていてほしかった・・・」
 と、肩をふるわせた。・・・(略)
 涙が涸れるかと思うほど泣いたあと、サカエは彼にこんな話をした。
「私は満里子さんには、元の姓にもどりなさいというている。これからは長い人生だし、まだ二十歳の若さだから、いくらでもやり直せる。先のある人だ。 行男との生活はわずかだったし、復籍してまた新しい人生を歩めば良いと思うとるんですよ」
 実際、新妻満里子が未亡人となって氷見にもどってきたとしても、女二人借家暮らしでは将来に見通しが立たない、軍神の妻と回りが囃したてても、 幼いころから女一人で生きてきたサカエには、現実生活の難しさが痛いほど理解できたことだろう。鎌倉女学院を特待生で卒業した才媛と、 石臼で粉をひき草餅の行商で生きている田舎の母との共同生活には所詮むりがある。観念では理解できても、現実の生活は立ち行くまい。
 そのことをよく知っていたのは、幼くして父を亡くし一人で世間を生き抜いてきたこの母である。妻満里子が西条を引き揚げた背景には、 サカエのこうした強い意志がある。「再婚して、新しい人生を歩みなさい」と新妻を励まし、「私は一人でちゃんと暮らして行けるから・・・」と力づけた。 ・・・(略)
 こうして関の妻満里子は新しい人生を歩み出すが、この第二の人生は母サカエの終生の望みであったことを改めて記しておきたい。


・・・(略)
 前掲の村上美代子の回想文である。この文章は昭和五十年三月、郷里の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立されることになり、 西条海軍会の求めに応じて書かれたものである。
 この一文にもふれられている通り、敗戦直後の混乱は母サカエの身にも大きな変化をもたらした。「軍神の母」が、 「戦争協力者の母」と批難を浴びる立場に移り変わるのは、他の四人の隊員家族同様である。米軍の進駐とともに陸海軍は解隊され、 それに付随する一切の観念は旧思想として排除された。「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。・・・(略)
旧軍解隊とともに軍人恩給は廃止となった。収入の中心が閉ざされたのである。
 母サカエは途方にくれた。窮状を見かねて、村上美代子が自分の恩師、氷見古町に住む久門昌代に相談すると、 「物置きに使っている部屋が空いているがそれでもよかったら・・・」と助け舟を出してくれた。
草餅の行商だけでは食べて行くのに精一杯で、仕事を求めて日傭いに出ることもあった。・・・(略)
 一日の仕事を終えて帰っても、物置き部屋ではただ一人眠るだけであった。 つい一年前は、県知事はじめ地元西条の名士が多数訪れて席の温まる間もないほどの忙しさであったものが、いまや誰も訪ねるものがない。
 時代の非情さは、こんな一件にも現れていた。借り部屋でなく、せめて小さくても自分が住める家があったら・・・という願いを請けて、 村上美代子は夫と相談し、サカエに代わって氷見の切り山ふもとにある兵舎小屋の払い下げ嘆願書を西条市役所と愛媛県当局に差し出すことにした。
 当時、小屋は廃屋となっており、いずれは取りこわされる運命にある。一人息子が若くして国のために命を捧げ、遺された母がその日暮らしにも困窮しているのだから、 関中佐の戦死当時あれほど顕彰を競いあった県・市当局が何がしかの配慮を「軍神の母」にしてくれるのではないか、という期待があったからである。 だが、関サカエ名義で出された村上夫妻の願いも、結局無視された。待てど暮らせどついに何らの返事もなく、 「嘆願書は反古(ほご)として握り捨てられたものであろうと思えば、情けない敗戦の世情に止めどない涙が湧き出るのでありました」と、村上夫人は記している。
 久門宅での一人暮らしは約三年間つづいた。この間、息子を喪った母サカエを二重に苦しめたのは、「軍神関中佐は生きている」というひそかな町の噂である。 ・・・(略)
親族の小野シナにもこんな苦衷を訴えて、涙にくれたことがある。
「戦争に負けたんじゃから、山の中に隠れていようとどんな卑怯なことをしようと、行男さえ生きてもどってくれたら、私は嬉しいと思うとるのに・・・」
 小野シナ自身も、地元の口さがない連中から「特攻隊で死ぬなんて馬鹿者(もん)じゃ」と皮肉っぽい声をかけられたことがある。 「馬鹿かどうか、私にはわからんが・・・」とシナが、母サカエの貧しい暮らしぶりを思いやって声高にいい返した。 「国が戦争しとるんじゃから、行男さんもがまんして、身体をこわしとるいうのに出て行きなさった。死ぬのが嬉しい、いうて出て行くものが、 どこの世界におるものか!」
・・・(略)
「軍神の母」だからすでに遺族年金をたっぷり支給されているにちがいない、というもう一つの噂が立った。 後述するように、旧軍人に対する恩給復活法案が国会に上程されたのは、昭和二十八年六月のことである。したがって母サカエも妻満里子も、 結局その恩恵に浴することは一度もなかった。
 だが、事実としてこれらの噂話は人々の口から消えることはなく、生涯母サカエを苦しめるのである。

 昭和二十三年八月、母サカエにようやく恵みの便りが来た。教員不足で、ふたたび県下周桑郡小松町にある石鎚中学校で教鞭をとることになった村上夫人が、 校長村上国一と石鎚村の村長伊藤一を説き、同じ敷地内にある石鎚小学校の小使いの職ではどうか、と話を持ち込んできてくれたのである。 「その知らせを聞いたときの関の小母さんの嬉しそうな表情は、いまでも忘れがたい」と、村上美代子は回想している。
・・・(略)
 軍人恩給案は八月に可決され、新任の渡辺校長の世話で、秋も深まる頃になってやっとサカエにも事務手続きの書類が届いた。 墓詣で(伊予三島の秒除大師にある関家の墓)の帰り、小野シナ宅を訪れた母サカエは、「来年二月から、私も年金が下りることになったんよ」と、嬉しげに語った。 ・・・(略)・・・米と玉子を土産に持たせて一緒にバス停まで歩き、元気なサカエの姿を見送った翌日昭和二十八年十一月九日の夕刻、小野シナ宅に電報が来た。
「サカエキトクスグ コイ」
・・・(略)―――行年五十五歳。敷島隊長関行男の母サカエは、何一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。 ・・・「あれだけ喜んだ年金ももらえずに・・・」
 小柄な身体に、苦労ばかりを背負い込んで生きたサカエの後半生が想い起こされ、シナは涙があふれてならなかった。・・・(略)
 戒名は「清浄院釋妙栄大姉」―――。その墓は伊予三島の秒除大師内で、いま関行男とともにある。


出典:「敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯」 森史朗著 褐人社 1995年3月刊 (終章P606〜625抜粋)


楢本神社はひっそりと、有志の方々によって祀られているように思われる。
この狭い境内には、近代日本、明治以来の栄光と挫折、日本国民の光と影が凝縮されている。
「特攻隊」は戦後、左翼にも右翼にも政治利用されたし、特攻隊員の遺族の戦後生活の悲惨と悔しさは無視された。
西条海軍会の有志により郷里の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立されたのは昭和五十年三月、戦後三十年程も経ってからのことである。
平成13年(西暦2001年)イスラム過激派による「9.11同時多発テロ」がアメリカで発生した。 この民間人をターゲットにした卑劣な「テロ」と「特攻隊」を同列に扱うような論調があるが大きな間違いである。 日本の「特攻隊」が民間人をターゲットにしたことなど絶対にない。卑劣な「テロ」とは全く違う次元の行為なのである。
日本の「特攻隊」と「異端イスラム過激派」の心情は全く異なるものであり、これを同一視することは特攻隊員の崇高なる自己犠牲を侮辱するものであり、 日本の歴史を貶めることになる。
未曾有の戦没犠牲者の上に復興し、人類史上最高の平和と自由と豊かさを実現した現代日本、物資溢れる豊かな平成の飽食日本は、しかし、 戦艦大和と共に散った哨戒長臼淵大尉のいう「本当ノ進歩ニ目覚メル」ことが出来たであろうか?
私自身大した信仰心もなく観光気分で札所を回っていることに、疚(やま)しさを感じざるを得なかった。
碑の前で、ただただ頭を垂れて黙祷する。      H15/11/15