不忍池の中心にあるのは弁天堂です。
寛永二年(1625)―江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って上野の岡に東叡山寛永寺を創建した慈眼大師・天海は、常陸国下館城主・水谷勝隆という人に不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島を模した小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てました。
最初のうちは文字通りの離れ小島で船を使って行き来していたようです。
のちにだれでも気軽に往来できるように石橋が架けられました。
増え続ける行楽を兼ねた寺社参拝客の要望にこたえたのでしょう。

戦災で焼失するという不幸にも見舞われましたが、昭和33年に現在の八角形堂宇が再建されました。

弁天堂に祀られているのはもちろん弁天様…『弁才天』(または『弁財天』)
仏教のあるいは神道の神格であり、七福神の紅一点として親しまれているのは言うまでもありません。
江戸時代には勝運守護の神様として武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めていました。
現在でも開運厄除はもちろん、長寿や福徳・芸能と幅広い功徳の神様として大人気なのはだれもが御存じのとおりです。

弁天様のルーツはヒンドゥー教の女神『サラスヴァティー』とされています。

サラスヴァティーは古代インドを流れていた実在の河を神格化したもので、そのためか弁天様も祀られているのは水にかかわる場所がほとんどです。

サラスヴァティーは学者の神であり弁舌の神であり、その他詩人・音楽家など様々な芸術の部門を統括する女神とされ、信仰を集めていたようです。

その姿は4本の腕を持ちクジャクや白鳥を従え、インドの楽器ヴィーナを奏でている…というのが定番です。

インド・タイ系のアジアン雑貨店ではそんな姿を描いた絵が縁起物として今でも人気があるようで、たくさん目にすることができます。

ヴィーナを持つ手以外の2本の腕には聖典ヴェーダと数珠を持っているのが一般的なのですが、左の絵は変則的で数珠の代わりになぜか矛を持っています。    
日本の弁天様の影響かも・・・・・
日本では楽器としてあまり馴染みのないヴィーナのかわりに琵琶を持つようになったといいます。

中国仏教やチベット仏教あたりでは弁天様は楽器を弾いているのか、もし弾いているならそれはどんな楽器なのか―気になるところです。


不忍池弁天堂の御本尊である弁才天像は慈覚大師 円仁の作と伝えられています。
弁天様といえば七福神の中で穏やかに琵琶を奏でている姿が頭に浮かぶと思いますが、不忍池弁天様は八本の腕に剣や弓などを握った完全武装のちょっと物騒なお姿『八臂弁財天』という形態です。
江戸の鬼門を護るための寛永寺堂宇だから、悠長に琵琶など弾いている場合じゃない…というわけではありません。
弁天様の造形としてはこの姿もポピュラーで
、琵琶を持つ弁天様の形よりこちらの弁天様の形の方が日本においては歴史が古いようです。

御本尊は基本的に秘仏で、いつもは上の写真の弁天像のうしろにある厨子の中に安置されているとのことです。年に一度、『巳成金大祭』の日にだけ御開帳があります。


不忍池弁天様、琵琶はどうされたのかと思いきや、弁天堂の外で雨ざらしになっていました(笑 

 巳成金大祭
不忍池弁天堂では年に1度―9月に『巳成金大祭(みなるかねたいさい)』が開催されます。

「巳成金」とは―
弁才天と習合した宇賀神が蛇体であるのに因み、暦の十二支の「巳」と十二直の「成」、二十八宿のうち「金」に縁のある項に該当する日を「実の成る金」とし、その日に金銀や銭を紙に包んでおくと富むという故事に由来する。ここ弁天堂では、毎年、暦で「巳」と「成」が重なる9月の巳の日にこの行事が行なわれる
…んですと

巳成金大祭の日にだけ手に入る小判のお守りと福財布 

小判には弁財天ではなく、老人の頭を持つ蛇の姿が…これが宇賀神という福の神です。 
 古来、日本の池・沼・河・湖・滝といった水に関係する場所の多くには龍神信仰がありました。
その後、仏教の台頭とともに龍神信仰は弁才天信仰に吸収されていきました。
吸収といっても単純に弁天信仰に塗り替えられたわけではなく、いわゆる習合という形になります。
つまり弁財天の姿を持ちながらも龍神としての性格や性質が色濃く残ったりするわけです。
このためサラスヴァティの使いは孔雀や白鳥ですが、日本の弁天様の使いはもっぱら蛇です。

宇賀神も姿から判るように龍神の剣族であり福徳神です。おそらく龍神の中では最もランクが上の神様で、この宇賀神との習合により弁才天が財宝神としての性格を色濃く持つようになり『弁財天』と書かれるようになったのでしょう。



八臂弁財天の姿は金光明最勝王経という仏教経典に詳しく書かれており、日本には奈良時代にもたらされました。
日本各地にある八臂弁財天像はこの経典を基に制作されているようです。



それにしても八臂弁財天…見れば見るほどサラスヴァティーとは程遠い姿です。

本来のサラスヴェティーは学問・芸術・弁舌の神様であり強力な守護神のような性格はなかったはずです。
それがトレードマークでもあるはずの楽器をかなぐり捨て、いくつもの手に武器を握った完全武装の女神さまに変化するなんてことはちょっと信じがたいことです。
本当に弁財天のルーツはサラスヴァティーなのでしょうか?


管理人は八臂弁財天の姿はサラスヴァティーではなくドゥルガーなのではないかと疑っています。
 
こちらは足利市にある厳島神社の弁天様    ドゥルガー 
ドゥルガーはサラスヴァティー と同じくヒンドゥー教の女神様ですが、こちらはめっぽう強い戦神です。
神々の《怒れる光》から生まれ、武神たちから超強力武器を託されて魔族アスラを蹴散らしたと伝えられています。
最高神
シヴァの妃パールヴァティーの一つの側面―言ってみれば戦闘モード時の姿
…ともされています。
日本にも仏教を経由していろいろな化身として入ってきていますが、比較的有名どころでは
准胝観音としてのお姿です。


経典が書かれた時点でドゥルガーとサラスヴェティーの形状を単純に間違えて記載したのか…この時点ですでに二神がゴチャゴチャと習合していたのか…そもそも弁才天とはドゥルガーのことであり日本においてどこかで何か勘違いしたのか…


何かが間違って伝わっているのです。でも どこで なにが どう間違っているのかというのはさっぱりです。このあたりは管理人のようなトーシロには手も足も出ません。
どうしても知りたいという人は仏教とか神話に詳しい方々がたくさんいらっしゃるでしょうから尋ねてみてください。
管理人は弁財天のルーツがサラスヴァティーとされるようになったのは琵琶を弾く弁天様の姿が世間一般に広まったとされる鎌倉時代からではないかと想像してます。 

どちらにしろ長い長い歴史の流れの中で、いろいろな事情が重なり作用し、ねじ曲がったり変化したりして今日に至っているのでしょうねぇ
 ちなみに弁天堂のすぐ横には大黒天堂がありますが、大黒様のルーツはシヴァ神ということになっています。
大黒様とシヴァ神は似ても似つかないですね。


さて、弁天堂のある場所…かつては小島だったわけですが…この弁天島に近接して小さな島があったのを御存じの方は少数派かと思います。この島は今でも弁天堂すぐ近くに残っていてその名を聖天島といいます。
この聖天島、一説には寛永寺よりずっと歴史が古く、土俗の神様が祀られていたとも言われています。
奈良時代に編纂された『風土記』には池そのものが信仰の対象で
瀬織津比刀iせおりつひめ)が祭られていたとありますので、この島の最初の主は瀬織津比かもしれません。

当初弁天様はこの小さな島で元の神様(瀬織津比唐ゥ聖天様か…あるいは他の神様かは不明)と一緒に祀られていましたが、やがてすぐ隣に何倍も大きな島が造られ弁天堂が建立されて弁天様はそちらに移ったというわけです。

ちなみに瀬織津比唐ヘ女神さまで、性質が弁天様とかなり重なるところがあります。


聖天島は現在立ち入り禁止になっていますが、柵の外から鳥居や祠、石碑らしきものが眺められます。
 聖天島と言うからには、鳥居の奥にみえる祠には聖天様…大聖歓喜大自在天が祀られているのでしょう。
聖天様は象頭人身の神様で、日本においてはちょっとH系の側面で名が知られてます。
そのルーツはやはりヒンドゥー教でシヴァ神の息子
ガネーシャです。
くわしくはググッてね
管理人も今回、不忍池のことをいろいろ調べていてはじめて知ったのですが、この聖天島―
石像・石仏マニア、遺跡マニアの間では知る人ぞ知るスポットらしいです。
彼らの注目の的は聖天様の祠の左側奥…

矢印のところです。

・・・・・わかりますね…そう、ナニの形です 


江戸時代にはこの不忍池界隈は一大行楽地であり、出会い茶屋-今でいうラブホテルみたいなもの-のメッカだったみたいですから…
聖天様といいこの石像といい、この島はそのテの信仰の聖地(性地?)だったのかもしれませんね。
上の写真は実は後ろ姿です。もちろん意図的にそのような形に造ってあるのですが―

不忍池側から双眼鏡などを使って見てみると…
かなり破損している様子ですが、髭を生やした老人のような姿がわかります。
通称
ひげ地蔵と呼ばれるこの石像の正体は役小角(えんのおずぬ)だそうな

役小角とは修験道の開祖―
葛城山で修業し神通力を身につけて鬼神を使役し…数々の奇譚を残した、日本において
陰陽師安倍清明と肩を並べる有名な呪術者です。


弁財天信仰と役の行者とは、実はすごく深いつながりがあるそうですが、管理人はこれまた詳しく知りません。

機会があったら調べてみます。

碑 
 弁天堂の境内やその周辺には記念碑や慰霊碑がたくさん建ち並んでいます。なぜここに石碑が集まっているのかは不明です。
主だったものを紹介してみましょう。
駅伝の碑   めがねの碑  扇塚
真友の碑   いと塚  十二世杵屋六三郎の賛碑
幕末の剣豪 櫛淵虚冲軒之碑  八橋検校顕彰碑  高久藹崖筆塚 
 スッポン感謝の塔  ふぐ供養碑 鳥塚 
魚塚 蓮花の歌碑  利行碑 
暦塚   東京自動車三十年記念碑  芭蕉の碑

数ある碑の中でもこの包丁塚は我々の年代―とくに男の間ではわりと名が知れ渡っています。
その昔、少年ジャンプに『包丁人味平』という人気漫画が連載されていて、料理対決の舞台としてこの包丁塚前が登場したのです。
包丁人味平は料理漫画の元祖といわれている名作―
白糸ばらし・・ブラックカレー・・・・・懐かしいですねぇ…
 

2011年 10月