
「それじゃ、私はもう行くけど……ちゃんと寝ててね、あやか」 千鶴は静かにドアを閉め、学校へと向かった。ドアを閉める直前の千鶴の心配そうな顔 を、あやかは布団の中から見送った。 はあ、と熱い息を吐き出し、呟く。 「まったく、この私が風邪を引くなんて……」 風邪は万病の元 振り返ってみれば、昨日からその兆候はあった。 あやかが部活動を終えて寮に帰宅して、皆で夕飯を食べて、風呂で一日の汗を流して、 自室で授業の予習をして、そして異変に気付いた。全身がなんだか重い感じがして、妙に 熱を持っているような気がしていたのだ。しかし、それは風呂に入った後だからで、別に 不思議なことではない。とはいえ、馬術部の大会が近いこともあって最近は練習も厳しい し、相変わらずクラスメイトたちには振り回されっぱなしだし、疲れが溜まっているのだ ろう。あやかはそう考え、 ――今日は早めに寝ましょう。 予習を早々に切り上げ、倒れ込むように床についた。 翌朝、あやかが目を覚ましたときになっても、あやかの体は風呂上がりのような熱とだ るさに襲われていた。ここに至って、あやかはやっと自分が風邪を引いていることに気付 いたのだった。 「あ、いいんちょ、おはよ……どうしたの!? 顔真っ赤だよ!」 力が入らない体になんとか力を入れて起き出し、リビングまで出たところで、夏美に驚 かれた。どうやらはた目から見ても酷い状態らしい。 「ええ、ちょっと風邪を引いてしまったみたいで」 「あらまあ。大変だわ」 朝食を用意していた千鶴が慌ててあやかに近づき、額に手を当てる。 「熱は……少しあるみたいね。なにか他にある? 頭が痛いとか」 「体がだるくて、力が入りませんわ。軽く頭痛もします」 「なるほどね。夏美ちゃん、氷水とタオルを用意してくれないかしら?」 「うん、わかった」 バタバタと慌ただしく冷蔵庫に駆け寄る夏美。 「あやかは布団に戻ってゆっくり休んでて」 「すいません、ご迷惑をおかけしますわ」 「いいのよ、そんなこと。さ、早く休んで、早く治して。ね?」 「……はい」 弱々しく答え、あやかは自室へと戻っていった。それを横目で見つつ、千鶴は朝食を消 化の良い物に作り替え始めた。 「……暇ですわ……」 夏美も千鶴も学校へ行き、今は自室であやか一人きり。本来ならば早く寝てしまって体 力を回復させるべきなのだろうが、先ほど目覚めたばかりなのにまた眠りにつくのは、い ささか難しいことだった。 ――今頃、皆さんはどうしているのでしょう。私が風邪を引いたを聞いて驚いているか しら。心配してくれているかしら。それとも、特に変わりなく過ごしているのでしょうか。 そういえば、今日の一時限目はネギ先生の授業でしたわね。ネギ先生は心配してくれてい るでしょうか――そんなことばかりが脳裏をよぎる。 「……暇ですわ……」 意味もなく、同じ呟きを繰り返すあやか。呟きは空気に溶け込み、室内には時計の秒針 が刻むかすかな音だけが残る。 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ…… 一定のテンポで進む針の音に、あやかはしばらく耳を澄ませた。 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ…… やがて、あやかはふと思いついた。 「昨日の予習、まだ終わってませんでしたわね」 意識して声を出し、気を紛らわせる。弱っているせいか、何かやっていないと色々と考 えてしまうのだ。あやかは布団から体を起こし、 「うっ……!」 しかし、途中で頭痛に襲われて体を起こすことを断念した。ビデオを巻き戻したように 布団に戻り、はあ、と息を吐く。先ほどは軽かったはずの頭痛が少し重くなっているよう だ。 「おとなしく寝ているしか、ないみたいですわね」 元からそんなことはわかりきっていたが、あやかはそう呟かずにはいられなかった。 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ…… 再び針の音に耳を澄ませるあやか。 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ…… それにも飽きてきた頃。 チッ、チッ、チッ―― あやかはまどろみの中へ落ちていった。 「お姉ちゃん」 誰かが体を揺すっている。 「ねえ、お姉ちゃん」 誰だろう? 聞き覚えのない、だけど愛おしく感じる声がする――嗚呼、そんなに揺す らなくても聞こえてますわよ。 「お姉ちゃんってば!」 ハッと目を覚まし、あやかは体を起こす。 ――ここは……ああ、そうだ、私は実家に帰ってきたんでしたね。私は机に向かって予 習をしてて……どうやら、ついうとうとしてしまっていたらしい。 「あ、やっと起きた」 あやかの傍らでふくれっ面をする男の子。年は十歳くらいだろうか。 「ねえ、一緒に遊ぼう?」 ふくれっ面から一転して、男の子は無邪気な笑顔をあやかに向ける。あやかもつられて 笑顔になるが、ふと思い出す。 「それはいいですけど、ちゃんと宿題はやったの?」 「そ、それは……」 痛いところを突かれたのか、男の子はたじろぐが、 「あ、後でやるよ! 大丈夫!」 力強く宣言し、再び太陽のような笑顔になる。 「そんなこと言って結局やらなくて、この前学校で先生に怒られたのでしょう?」 先ほどよりももっと痛いところを突かれ、太陽のような笑顔は日没寸前だ。 「遊ぶなら宿題が終わってからになさい」 「はーい」 しゅんとうなだれる男の子。とぼとぼと部屋を後にしようとするが、 「でも、そうね」 あやかの声に振り向き、 「三十分くらいならいいかしら」 再び男の子の顔に日が昇る。 「やったー! お姉ちゃん大好きー!」 「あらあら、この子ったら……」 あやかの顔に苦笑がにじみ出るが、その顔はまんざらでもなさそうだ。 男の子はうきうきとドアを開けて、一秒でも早く遊びに行きたいと全身でアピールして いる。 「さあ、お姉ちゃん、早く行こう!」 「はいはい、そんなに慌てないで」 あやかもそれに続いて部屋を出ようとするが、 「あ、あら?」 それ以上は足が少しも動かず、どうしてもドアから先には進めなかった。 「お姉ちゃん、はーやーくー!」 「ま、待って」 ――ど、どうして? どうして!? 「もう、先に行ってるからね!」 男の子は部屋の外へと走り出していってしまう。あやかはその背に手を伸ばすが、その 手は届かず、空を切った。 ――待って! 行かないで! 私を一人きりにしないで! 一人きりは嫌! 一人きり はつらいの! もう一人で部屋の隅で泣きたくないの! 私は、私は―― 「私は、もう……!」 あやかが布団を跳ね上げて起き上がったのはそのときだった。 「……ここは……」 あまりに急な場面転換に、あやかは一瞬ここがどこか理解できなかったが、すぐに見慣 れた自室であることに気づき、大きく息を吐きながら再び布団に倒れ込んだ。心臓は壊れ てしまったかのように脈動し、体中が寝汗でべっとりと濡れていて気持ち悪かった。しか し、それよりも気になったのは、 「あんな夢、見るなんて……」 会えなかった、会えるはずだった、弟の夢。普段は意識もしない遠い日の記憶。あり得 たかもしれない未来。 夢の中で弟と談笑していたときのあやかは、確かに幸福だった。だからこそ、今のあや かとのコントラストが強調される。風邪のせいではない寒気を感じて、あやかはぎゅっと 自分自身を強く抱きしめた。それでも寒くて、寒くて、このまま自分は凍死してしまうの ではないかと思った。 そのとき、ガチャリと部屋のドアが開けられる音が室内に響いた。 「あ、起きてたんだ」 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、 「アスナさん……どうして」 あやかにとっては思いもよらぬ来訪者だった。驚くなというのが無理な話だ。それを尻 目に、明日菜は布団のそばに腰を下ろした。 「那波さんも夏美ちゃんも、今日は部活で帰りが遅くなるから、代わりに私が来てやった のよ」 感謝しなさいよ、と明日菜は意地の悪い笑みを浮かべながら嬉しそうに言う。 「でもまあ、意外と元気そうね。私が来るまでもなかったかな?」 「そんなことは!」 思いがけず大声を出してしまったことに、あやかのみならず明日菜も驚く。 「いえ、その……う、嬉しいですわ」 「そ、そう……」 まさかあやかからそんな素直な言葉が出てくるとは思っていなかったため、明日菜は再 度驚く。その頬はかすかに赤みが差していた。そんな自分が恥ずかしかったのか、 「ま、まだ熱が高いみたいね。いいんちょからそんなこと言われるなんて」 明日菜はついいつものように憎まれ口を叩いてしまったのだった。 「あ、あなたという人は、見舞いに来たのかそれとも……うっ」 あやかもそれに対抗しようとするが、頭に鋭い痛みが走り、中断されてしまう。 「ああもう、ほら、病人はちゃんと寝てなさいよ」 明日菜に押し戻され、再び布団に横たわるあやか。明日菜が布団をその上にかけ直し、 子供をあやすようにポンポンと叩く。あやかにはそれが心地良くて、思わず涙が出てしま いそうになるくらい安心する。 ――嗚呼、そういえば、弟に会えなくて悲しんでいる私を元気づけてくれたのも、アス ナさんでしたわね。 「食欲はある? 那波さんがおじや作ってくれてたみたいだから、良かったらあっためて 持ってくるけど?」 そう言われると、お腹が空いてきたような気がする。考えてみれば、今日は朝から何も 食べていないことを、あやかは思い出した。 「ええ、それじゃ、お願いしますわ」 「わかった。ちょっと待っててね」 明日菜は立ち上がり、部屋を出て行く。その背中に。 「アスナさん」 「なに?」 「……ありがとう」 さて、その翌朝。看病のかいあってか、すっかり元気を取り戻したあやかが教室に入る と、 「あ、いいんちょ、おはよう!」 「おはよう、いいんちょ! 風邪はもう大丈夫?」 「心配したよー、いいんちょが風邪なんてさー」 「まあ、元気になって良かった良かった!」 クラスメイトたちが暖かく出迎えてくれた。あやかにとってはそれが何よりも嬉しかっ た。 しかし、ただ一人、 「おはよ、いいんちょ」 「あら、おはようございます、アスナさん」 「風邪はもういいの?」 「ええ、もうすっかり」 「あ、そ」 明日菜だけはそっけなかったが、それでいいと、あやかは思っている。 「皆さん、おはようございます」 やがて、ネギも教室に姿を現した。 「ネギ先生、おはようございます」 「あ、いいんちょさん。風邪は治ったんですね」 「ご心配おかけして申し訳ありません。このとおり、ネギ先生にお会いするために完全に 治してきましたわ!」 背景に花が描かれているかのようなあやかの姿に、ネギはいつもどおりの風景が戻って きたことを感じた。 「それじゃ、号令お願いします」 「はい。起立!」 きっとアスナさんがお見舞いに行ったおかげだなあ、なんて思いながら。 「礼!」 『おはようございまーす!』 |