石原莞爾・実弟の六郎氏、人となりを最も端的に表すものとしては、
昭和47年経済往来社発刊「最終戦争論」を御一読されるとよい。
六郎氏の筆になる各章の解説、及び最終章の「石原莞爾の思想と人」に
その全貌を彷彿とさせるものがある。
だが、ここでは、世間一般に知られてない側面を語るものとして、
昭和51年11月テイ未亡人逝去の際、六郎氏が筆にした挨拶状がある。
六郎氏の几帳面で細やかな性格が滲み出ている文面で、
更めて六郎氏の残像に思いを致したいので次に掲げる。

挨拶状

石原テイが11月11日、午後1時半、78年2ヶ月の一生を閉じました。
永い間、みなさまからご親切なおつき合いをいただきまして、ありがとうございました。
姉は明治29年9月2日、国府氏の次女(姉上1人、令弟1人あり、共にご健在)
として東京氏牛込区で生まれました。
国府家は藤堂藩の家臣で、元禄時代から江戸詰だったそうですから。
姉は生粋の江戸っ子という事になります。父上は陸軍少佐で早く病死された方と聞きます。

莞爾との結婚は大正8年でした。
前述の姉上の夫君も軍人で陸軍教官として莞爾の先生であった関係から、
その方のお世話によるものです。結婚後は兄の任地の変わるにつれて
東京‐漢口‐東京‐旅巡‐東京‐仙台‐東京‐新京‐舞鶴‐京都と移り住みました。


16年3月、兄が予備役になり、その秋、鶴岡市に転住。21年秋、西山に入りました。
兄が24年8月15日、病死してからは姉は兄の死んだ家に独りで住み、
西山の共同のお墓の清掃をし、また鶏を飼ったり、花を植えて
生活の足しにしようと試みた事もありました。
その後、扶助料が復活して、国民の皆様のおかげで姉は生活する事が出来るようになりました。
私が西山でお世話になることになったのは28年6月です。


42年2月26日、姉は突然、腰から下の自由を失いました。後になって考えますと、
その前から道で転んだりする事があったのですが、小石につまづいたのだ、などと思っていたのでした。
9月8日、鶴岡市立病院に入院しました。腰椎骨髄膜炎という見方でした。
11月に入ると、つかまって歩けるようになり、年が明けるころには、病院としては、
これ以上の処置が無いという診断を聞かされました。ちょうどその頃、拙宅から南に2キロ半ほど離れた
砂丘の松林の中に、山形県の特別擁護老人ホームの新築が進んでいましたから、
そこへ入所を願い出ましたところ幸いにも許可されましたので、4月12日に庄内病院を退院し、
217日ぶりに帰宅しました。それから20日間は自宅にいて、
苦心しながらも便所にも行き風呂にも入ることが出来ました。

5月1日、老人ホームの一部完成による開所式があり、姉が第1回の入所者に加えられました。
このホームは至れり尽せりの設備の上に職員の方々の言葉通り親身も及ばぬお世話があり、
その上、医療費以外は全額が公費です。ありがたいことでした。
姉はよちよちながら歩けるので、同室の寝たきりの方へのお手伝いなど少しは出来て喜んでいました。
拙宅からバイクで4分位ですから、まことに好都合でした。
しかし44年1月に入って、また体調が悪くて自分で便所に行く事が出来なくなりました。


その上、前々からあった両足のケイレンが烈しくなり特に夜はヒドイと言っていました。
老人ホームは病院ではないから、もう1度、病院で治療を受けたほうが良いというホームの御意見により、
2月10日、ホームの寝台車で再び庄内病院に入院させていただきました。
12日、急に容態が悪くなり、付き添いを頼み酸素吸入や点滴注射などを受け危険を切り抜けました。
それ以来、一進一退の状態が5年10ヶ月続いて次第に衰弱し、安らかな最後でした。
莞爾は昭和3年春、重い中耳炎にかかって以来、頑健だった体に故障か続出し、
8年に連隊長として赴任した仙台の東北大学病院で膀胱にデキモノが出来る持病を発見されました。
これが兄の命取りとなったのです。姉は生来、丈夫な体でなかったのに、
兄の看病をし、戦争中は床についた母の世話まで重なり、半生を看護に過ごしたようなものです。


子供の無い姉が楽しい一生を送ることが出来ましたのは、
西山のみなさんをはじめ全国の多くの知人のみなさまからかわることなく寄せられた
暖かいお心づくしのおかげです。また病気になってからは、病院や老人ホームの職員の方々はもちろん、
たくさんの方たちの言葉に尽くせぬお力添えをいただきました。
付添いの派出婦さんのご苦労も大変なものでした。みなさま。ありがとうございました。


遺骨は西山の共同のお墓、註(1)に莞爾のそれと並べて納め、一切の後始末を終わりましたから、
後弔詞や御供花などのお心遣いは固くご辞退申し上げたいと存じます。
どうぞ、お許しくださいますよう、お願いいたします。以上のように、後始末を全部終わってから、
お世話になった方々へご挨拶状を差し上げる考えでしたのに、私の不注意のため通信社の耳に入り、
新聞に姉の死亡の記事が出ました。それで早速たくさんの方から、お悔やみを頂戴し、恐縮しています。
そのお礼も本状で代えさせていただきます。よろしく
西山は変わりました。拙宅のすぐそばを国道7号が走り、目と鼻のところには県営の国民宿舎
その他の宿泊設備がいろいろ出来ました。当地をお通りがかりの折がございましたら、お立ち寄りください。

昭和49年11月20日   莞爾末弟  石原六郎         
以上

註(1)旧墓地の事、新墓地より国道7号バイパスを越えた向かい側の松林の中にあります。


六郎さんは、将軍存命中は見えざる手足となり、晩年は石原主義の道統を守って
その旗をかざして歩むに終始し、テイ未亡人とお別れしてからの2年と1ヶ月は、
数少ない自分自身の時間だったのかもしれない。たとえ全てが意のままにならなくとも、
幸せの一握り位は持てたのではないかと顧みて思う時がある。
又、前述した経済往来社刊「最終戦争論」は、現在では貴重な「石原主義」顕現の教本として
現代史は勿論の事、各分野での応用、引用に活用されている。

平成5年には、生前六郎氏が熱望されていた文庫本化が「中央公論社」により実現し、
数多の人々がたやすく目を通すことができるようになった。六郎さん、以って瞑すべしと申し上げる。
わが国は、只今この時「石原主義」が示す道標こそが唯一の戦後を生きるこの国の姿であることを
確信し、全アジアはもとより、ひいては全人類、地球社会の総てが、
共存共栄共生する永久平和の全体像のサンプルとしての日本を造ろう。
力が総ての欧米覇道か?道義が根本の東洋王道か?近々10年を待たずに決着の時がくると観ている。