金森長近と飛騨の歴史





幾多の戦場を巡り戦国時代を駆けた武将、金森長近

■金森長近の出自
金森長近は、一般的には大永4年(1524)美濃、多治見大畑で生まれたとされています。父は、大畑定近といい、土岐一門だったようです。幼名は、五郎八可近(ごろうぱち ありちか)といい当時の守護土岐氏の力が衰え争いごとが耐えなかった美濃を離れ、近江野洲郡、「金森」へ移住したようです。金森は、京都にも近く一向衆が盛んな所で寺内町を形成しつつも商業地としても栄え、町が自立して武装されたところで、そのような独立独歩の強い地域で少年期を過ごしたようです。やがて地名にあやかり姓を金森と改名したようです。
■織田家に仕官して織田信長に仕える。
可近18歳のときに近江を離れて、尾張の織田信秀に仕えるようになったようです。やがて信秀亡き後、織田信長に仕え青年時代は主君、信長に付き添い尾張各地で転戦しました。弘治元年(1555)今川義元と戦う桶狭間の戦いにて功績を認められて信長の「長」の字を与えられ名を「長近」と改め、さらに信長の親衛隊、赤母呂集に追加されました。このとき長近32歳で、織田信長が戦国武将として急速に力をつけて行き「上洛作戦」「長篠・設楽原の戦い」「武田氏征伐」など主要な戦いに参加していきます。信長が天正3年(1575)越前の一向一揆の討伐の際には、長近もそれに伴い美濃口から進軍し平定後に、越前大野郡の3分の2を与えられました。大野で城持ち領主となった長近は、越前大野城を築城して城下町の整備も行いました。その後、信長の命で各地で戦い続けて大野の平定に力を注いだ12年間の間、忙しく各地を転々として戦っています。
■賤ケ岳の戦い、そして豊臣秀吉に仕える。
天正10年(1582)信長が本能寺の変で、明智光秀に討たれるという大事件が起こりました。この時の本能寺の変で嫡男、金森長則も討死にしています。信長亡き後の清洲会議の後、対立した羽柴秀吉と柴田勝家との賤ケ岳の戦いには、柴田勝家に加担して出陣しますが、前田利家らともに兵を撤収して秀吉に従う意思を示しました。この時、長近は秀吉に許しを請い剃髪して金森法印要仲素玄となったようです。
■飛騨攻略と高山の町づくり
天正13年(1584)越中、富山城主の佐々成政は、飛騨の三木自綱と結んで秀吉に敵対する姿勢をとっていました。(富山の役)そこで秀吉は隣国の長近に三木自綱を討つため飛騨征伐を命じました。長近は、飛騨に攻め入り、飛騨は短期間で長近によって平定されました。その後、秀吉は長近に飛騨3万3千石を与えて越前大野から飛騨へ転封となり、高山城を築城して高山の町を建設を始めました。その後、秀吉の天下普請により各地を奔走し相変わらず多忙を極めます。
■そして関ヶ原の合戦
慶長3年(1598)秀吉が亡くなると、五大老の実力者だった徳川家康が、天下取りに動き出すと長近は信長以来の付き合いのある家康の方につくようになります。天下分け目の関ケ原の合戦も東軍に属し戦い、勝利の後、美濃上有知1万8千石を加増されています。金森氏は最終的に5万石余りの大名となり美濃上有知に小倉山城を築城して、高山を養子可重に譲り叡居生活に入りました。その後、慶長13年(1600)京都伏見にて卒去。85歳。墓は京都大徳寺塔頭、金龍院に入りました。長近は信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代の判断を見誤ることなくゴールインした勝利者と言えます。また茶の道に通 じ、教養のある面も持ち合わせておりました。千利休や古田重然らに茶の湯をならい、文武ともバランスのとれた思慮深い武将だったと思います。茶の道においては孫の金森宗和によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。
■歴代藩主と一門衆の紹介
長近の死後、金森家は、6代、107年間、飛騨を治めましたが、元禄5年(1692)出羽の国、上ノ山に転封となり、その後、さらに元禄10年(1697)に美濃国、郡上八幡に転封となって7代、頼錦の代に郡上での宝暦郡上一揆が起こり責任を問われて改易となります。本家は、取り潰しとなりましたが旗本の金森左京家は越前白崎にて幕末まで存続します。歴代藩主と宗和は、下記を見てください。

・金森可重 ・金森重頼 金森頼直 ・金森頼業 ・金森頼時 ・金森頼錦 ・金森宗和


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