備中高松城/「功名が辻」ゆかり地へ 06/4/22(土) 岡山県岡山市高松

自然を味方につけた 秀吉の壮大なプロジェクト  備中高松城 山内一豊も城攻めに参加
大河ドラマ「功名が辻」 原作:司馬遼太郎
主な登場人物
山内一豊:上川隆也  千代:仲間由紀恵  織田信長:舘ひろし  浅井長政:榎木孝明
豊臣秀吉:柄本明  徳川家康:西田敏行 明智光秀:坂東三津五郎

片道:55km、1時間30分のドライブ。 天候:午前中降水確率20%・午後70%予想 帰宅時は雨でした。
行程
JR備中高松駅→馬揃口→高松城水攻史跡公園→太閤岩→御崎宮→宗治自刃之址
→高松城址公園→宗治胴塚→加藤清正陣跡→高松城水攻門前水引口→JR足守駅

長浜城 「功名が辻」ゆかり地

「軍師官兵衛」紀行 2014/7/6放送

毛利との決戦に臨む秀吉は、備中の高松城を攻めます。
高松城は、沼地に囲まれた難攻不落の城でした。官兵衛は、
足守(あしもり)川の流れを変えて城を水没させる戦法を秀吉に進言し、
わずか12日で堤防を完成させたといわれています。
梅雨の雨でたちまち城は湖に浮かぶ小島のようになったといいます。
秀吉が戦勝祈願に訪れたという吉備津(きびつ)神社。ここに伝わる書状には、
この時期雨が多く降ったことが記されています。
このあと、本能寺の変という戦国の嵐に秀吉と官兵衛は巻き込まれていくのです。


























6月2日 本能寺の変

6月4日 秀吉に届く 自刃は6月4日の午前10時ころ
6月6日 中国大返しを開始 清水宗治の自刃とする説が有力

6月13日 光秀軍と山崎で決戦(山崎の戦い)勝利
      小泉川(京滋バイパス)をはさんで両軍が対陣

JR備中高松駅

9時45分

馬揃口(まぞろいぐち)山内一豊布陣地
高松城攻めの際、山内一豊が陣を張ったとされる。
高松城を監視するとともに、毛利から後詰として
加わった軍勢、吉川元春や桂広繁とにらみ合う位置。
重要地点だけに秀吉から信頼されていたともいえるが、
強襲にあえばひとたまりもない位置だった。

聞いたり、探したが 特定できなかった。

高松城水攻築提跡(蛙ヶ鼻築提跡)かわずがはな
軍師黒田官兵衛の策による高松城水攻めの際、
築いたという堤防の東端部が残る。
高さ8m、上部の幅12m、
底部の幅24m、長さ約3kmというスケールを、
たった12日間
で築いたというのだから驚きだ。

築堤、実は数百mではなかったか?
江戸中期の地理学者、古川古松軒によると
数百mで事足りたというのだ。

3kmの堤防をたった12日間で完成させる
無理な話しだったかもしれない。

高松城水攻史跡公園

平成10年には遺構状況調査。
土留めに使われたと見られる
木杭や土俵、むしろなどが確認されている。
現在は公園として整備され、
当時と同じ高さの位置に石碑を建立。
国の史跡に指定されている。

旧持宝院跡
現在の寺宝院の脇から山道を300mほど進むと
旧持宝院がある。
秀吉はここに陣を張り、

高松城を見下ろしていたとされる。

木々の陰で見通し悪い

清水宗治首塚跡
自刃をした宗治公ほか3名の首実検もここで行われ、
秀吉は「武将の名鑑である。丁寧に葬りなさい」
と言い残して中国大返りをした。
さらに500mほど奥へ進むと太閤岩があり、
戦いの際には一つの目印として利用されていたという。

なお11〜2月は狩猟期間のため、立ち入り厳禁。

5〜10月はヘビに注意。

御崎宮に陣を張った 黒田官兵衛

2014年(平成26年)のNHK大河ドラマは
軍師官兵衛
池上孫兵衛尉(いけがみまごべい)の墓
高松城三の丸南口は城郭として原古才に通じる
重要な要衝だったという。そこで毛利方は有事に備え、
自然の沼を利用した「八反堀」という大きな堀を作り、
要害にした。
この堀に川舟を集めて、城外との連絡をとり、
物資を補給。池上孫兵衛とは清水宗治の妹を妻にめとり、
婚姻関係にあった人物。水攻めに逢い孤立状態だった
城内へ物資を運び入れ、城兵の命綱ともいえる
働きだったという。
現在は住宅街の中に、ひっそりと墓が立つ。
史跡ごうやぶ
天正10年(1582)6月4日、宗治公ら他3名の切腹が
決まった際、宗治公の僕、七郎二郎と、宗治の兄、
月清の馬の口取、興十郎がお供を願い出たという。
しかしそれは許されなかったため、死地におもむく
宗治公らの舟を追って、2人は「一足先に三途の川で
お待ち申します」と、お互いに刺し違えて殉死したと
いわれている。
ごうやぶとは2人の死を遂げた場所のこと。
宗治自刃之跡
南を堤防に、他三方を秀吉の軍勢に囲まれても、
かたくなにろう城を続けていた清水宗治。そんな折、
本能寺の変があり、秀吉としては早急に決着をつける
必要があった。そこで秀吉は領地の割譲、城兵助命、
宗治切腹という条件で和議を締結。宗治もみずから
死をもって、毛利家の信頼に報いる覚悟はできていた
という。義を貫き通した宗治が、切腹をしたという
跡地は妙玄寺の境内にある。
敵味方、3万もの武士に見守られて、
切腹した武将というのも古今稀だろう。

2014/7/20放送「官兵衛」紀行
備中高松城水攻めは、清水宗治の自刃により
幕を閉じました
舟の上で舞を舞ったあとに切腹した宗治。
秀吉は、「日本一の武士」と賛辞を贈りました。
浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の
名を高松の苔(こけ)に残して」。
宗治の辞世の句には、武士として名を高松の地
に残したいという強い思いが込められています。
最上稲荷(さいじょういなり)の妙見堂には、
高松城の守護神とされる菩薩像がまつられています。
一命を投げ打ち、5千人の家臣の命を救った宗治。
毎年6月には、地元の人々によって法要が行われています。
高松城を後にした秀吉と官兵衛は、明智光秀との決戦のため、京に向かい進軍していくのです
高松城史跡資料館  ノート記名した 無料でした
清水宗治
浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して
と辞世の歌を残して46歳を一期として見事自刃した。
高松城址公園

高松城の跡地に作られた自然公園。
水攻めの話しを今に伝える高松城址資料館や、
宗治公の首を葬った塚、
400年の眠りから目覚めた蓮池といった見所がある。

宗治公の首を葬った塚 宗治公の首を葬った塚

持宝院の境内にあったが
明治42年(1909)現在の本丸跡に移築。

400年の眠りから目覚めた蓮池とは

高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で、
人馬の進み難い要害の城であった。
本丸と二の丸の間のこの場所は、低湿地。
古来より蓮池と呼ばれていたそうです。

昭和57年に沼が復元がされた後、
地下に眠っていた蓮の芽が発芽した。

宗治蓮」と名づけられた

宗治の胴塚

自刃した宗治公の遺体は、首級のない胴体だけで本丸
に帰ってきた。主を失った家臣一同は、涙を抑えきれず
に嗚咽の声をあげたという。やがて胴体遺体のみが
手厚く葬られたのがここ。また公の介錯人、国府市正は
墓穴にのぞんだ際、自分の首を刀で切り落とし、
そのまま宗政公の墓に落ち込み自刃したと
伝えられている。
武将たちが布陣した場所が望める

右側の岩崎山:吉川元春の陣跡

左側の日差山:小早川隆景の陣跡

吉備高原自転車道

田んぼ、道 曲がりくねっています、
その昔 沼地・湿地の名残りでしょう。

加藤清正陣跡(生石神社)

高松城水攻門前水引口

水攻めにあたり築いたという堤防というのは、
現在の備中高松駅から足守駅までの線路上らしい。
四方を取り囲み、水引口から足守川の水を流し入れた
と伝わっている。指揮をとっていたのは、
現在の生石神社あたりに陣を構えた加藤清正。

面積188haの広大な湖を完成させた。

JR足守駅

12時40分発乗車 

12時50分 備中高松駅着 140円

110km・5時間の備中高松コースでした

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