石川啄木論 ―「うたごころ」で読む短歌―

01E1103019G 橋本恵美




岩手山と子供

◇◇目次◇◇






第一章 啄木概要

(1)啄木の生涯    
(2)『一握の砂』について
(3)近代短歌の黎明  

第二章 『一握の砂』からの解釈

(1)恋の歌の音読み
(2)「音」の歌のしらべ
         〔1〕擬音の効果
          〔2〕臨場感を呼ぶ「音」
         〔3〕歌への哀愁

第三章 現代においての短歌と〈うた〉

(1)現代における短歌      
(2)西洋音楽からの「うた」の受容
(3)現代の“吟遊詩人”による試み

第四章 啄木思想における〈うた〉―現代の生き方にも通じて―


おわりに


脚注
参考文献






序 


 とある時、とある一冊の本を手にし、その世界に落ちていく感覚を味わったことがあるだろうか。現実に体をなじませることに疲れていた心を潤してくれるものがそこには書かれていた。美しい日本語のオブジェ。淡々と連なる心の声。
 本の名は、『新編 啄木歌集』。始めはなんとなく、序々に確実に、魅せられたところで、一人の文学者として〈石川啄木〉を研究してみたくなった。短歌それぞれに住み着く彼の息づかいを読み解きたいという思いが、はじまりだった。
 また、自身が管弦楽部で触れてきた「音楽」の要素を日本の文学の中に見出したい、と以前から思案していた。西洋音楽と和歌、対立するかのようなそれらを繋ぐもの、それは音節や文節の集合体によって織り成される何か狄潅呂茲い發痢蹐任△襪呂此2山擇任浪山を軸にしたフレーズを歌い、日本では古くから和歌に思いが馳せられている。共通するのは、節にのせて「心」を伴う芸術であるということ。「うたごころ」というキーワードを軸とし、『一握の砂』中の短歌の調べに耳を澄ませると共に、その価値を改めて検討したい。



第一章 啄木概要


 2002年の流行語大賞を皮切りに現在も話題の『声に出して読みたい日本語』シリーズ(注 すべてに啄木の短歌が載せられていることからも、今なお人の心を潤すことができる牴留咾澂瓩世箸い┐茲ΑF本のことばが見直される現代に於いて、啄木作品は確かにひとつのメルクマールとして息づいているといえよう。

(1)啄木の生涯  

 明治十九年二月二十日、・岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村常光寺に生まれた。本名一(はじめ)。翌年より一家で渋民村宝徳寺に移り住んだ。
 渋民尋常小学校を首席で卒業、盛岡市立高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校で好成績を残す。中学入学当初の啄木は、周囲の刺激により軍人を志すが世間の浪漫主義の風潮に魅せられて、文学に傾倒、特に与謝野晶子や上田敏らを好む。後に自ら中学校を退学し、文学者を夢見て上京の途につくが、実績も無い者に現実は厳しく行き倒れ同然となり、渋民村へ帰郷する。
 明治三十六年十二月、初めて「啄木」(きつつきの意)という雅号で五編の詩「愁調」が「明星」に発表される。満十八歳になるかという時であった。三十八年五月の『あこがれ』刊行まで、天才少年詩人として順調に評される。しかし父が住職を罷免され、満十九歳の少年に、家族四人の扶養責任が突然襲いかかる。啄木は自分の結婚の披露宴にも顔を出さず、行方をくらませた。
 生活を成り立たせるため、母校・渋民尋常小学校に代用教員の職を得てついに働くことを決心。傍らで書いた小説の処女作「雲は天才である」は不評に終わった。同年暮れに長女・京子が生まれるが、無職の父は宝徳時復帰運動に失敗し家出する。生活の重みに耐え切れずストライキを起こし、免職処分を受ける。わずか一年の代用教員時代であった。
 一家は北海道に移り住む。文学者としての夢はまだ捨てきれず、「明星」系列の雑誌の同人を頼って再起をはかった。雑誌の編集を任され、充実した日々を送る。
 その後札幌の北門新報社に校正係として入社するが給与支払いの不備によりわずか十三日で去る。その後小樽・釧路の新聞社を転々とするも、生活苦は解消されず、遂にたった一人での上京を決意。
 明治四十一年四月、かねてからの知人金田一京助の厄介になりながら、千駄ヶ谷の新詩社に入社、小説執筆に悪戦苦闘する。翌四十二年、東京朝日新聞社に校正係の職を得る。母と妻子が上京するが節子は生活苦による体調悪化と夫の無配慮に耐え切れず、娘を連れて実家に帰ってしまう。節子が戻ってきてから啄木は変貌し、文壇批判をかりて昔の自分を批判するという評論を新たな舞台とした。四十三年八月「時代閉塞の現状」執筆。
 生活のため必死で働いた啄木には文学にあてる時間がなく、その中で啄木調の未練や諦めを含んだ短歌が多く生み出された。しかし皮肉にも新聞の片隅に掲載された歌が注目を浴び、「朝日歌壇」の選者に抜擢され、処女歌集『一握の砂』は三行書きの生活派短歌として高い評価を得るに至った。
 歌人として名声を得た啄木の仕事はさらに増え、過労が転じてか、約一ヶ月の入院生活を送る。退院後、病床において最後の詩作品「呼子と口笛」をノートに残す。のちに節子にも病気が感染、自身の病状も悪化し、文学活動に支障をきたす。明治四十五年四月十三日、肺結核により啄木永眠。六月、遺歌集『悲しき玩具』が刊行された。

(2)『一握の砂』について

 明治四十三年十二月一日、東雲堂書店より出版。二百九十ページ。啄木の処女歌集である。明治四十一年六月から明治四十三年までに作られた五五一首を、テーマ別に章にわけ、観念連想の方法で編集する。啄木生前に出版された唯一の歌集で、長男の出産費用捻出のために計画されたものであった。出版前啄木は『仕事の後』と名づけていた。出版社との契約成立後も構想を練り、書名を『一握の砂』と改め、一行書きだった一首を三行書きにする。さらに何度も短歌の推敲が続く。印刷途中で長男が亡くなったため悼歌が追加され、完成に至る。五章はそれぞれ「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」と題される。

(3)近代短歌の黎明

 明治四十年代は、厳密には規定されてこなかったものの、短歌の近代化の確立が成された時代だと認識される。それはいわゆる自然主義、島崎藤村『破壊』(明治三十九年三月)や田山花袋の「蒲団」(『新小説』明治四十年九月)の出現とほぼ同時期と見られる。明治三十年末期から四十年代において、中堅歌人の伊藤左千夫らを中心に、二十歳代の新人が輩出されてくる。彼らが自然主義文学に遭遇し、また明治二十年代以来の新派和歌の革新運動も汲み取りつつ、短歌が生活や人生を捉えうる詩型としての可能性が明らかになっていった。これらの新人が登場した明治四十年の前後が、近代短歌のほぼ上限とされるのは、前田夕暮、若山牧水を筆頭に、新人歌人が相次いで歌集を発表した事実に基づいている。
 短歌の近代化の大きな特徴は、第一に、犹篁蹇蹐箸靴討寮格を持つようになったことである。そして、散文と異なって、現実や生活を「瞬間」で捉え内面の心情のゆらぎを表し、瞬時・刹那を切り取っていく姿勢である。旧派和歌のような概念的な広い時間帯はあまり扱わない。さらに、定型詩であるために文語を使用しながらも、明らかに口語文体の発想が試みられ、より現実味を帯びるものとなった。また、「連作」のシステムが増えてきたのもこの頃である。しかし、単に自然主義文学思想からの影響だけでは、近代和歌への革新は成されなかっただろう。当時の様々な運動と試行の結果あってこそ短歌の変貌は少しずつ行われていったのである。
 前田夕暮は詩集『収穫』の自序でこう語る。「唯一箇の人間であつたらそれでよいと思ふ。通例人の思つたこと、感じたことを修辞せず、誇張せず、正直に歌ひたい」。心象を飾らず「正直に」あらわそうという主張は、口語文体を意識した散文的な発想とともに、言うまでもなく短歌における自然主義であった。若山牧水もまた、『我が生存の意義は「自己」を知り、自己の全てを尽すことによつて、初めて生じて来るものと信じてゐる』と述べ、前記はみずみずしい音楽性にのせて、後期は定型を壊してもなお、内的な心情・悲哀が表れた短歌を残している。その不安定な作風は啄木と呼応するかのようであった。
 啄木と重要なつながりを持っていたのが土岐哀果(注◆である。『NAKIWARAI』はヘボン式ローマ字でつづられ、世に初めて三行歌を示した作品集である。意味よりもリズムを重視し、口語体でつづられる作風は、当時の短歌界への挑戦であったことは間違いない。啄木が土岐の歌においての狷常性の獲得″を評価(注)したことから、二人の交流が始まった。
 啄木後期においては、都市生活者の知的な苦渋と言うべき「うめき」がありのまま作品化されていることが顕著である。『一握の砂』の中でも後期の作品は、明治四十三年六月の大逆事件に衝撃を受けたことが明らかで、いっそう虚無感が増している。絵空事を一切排除した現実世界での苦悩を吐き出す作風でありながら、その言葉の節々はいたって鮮明かつ抒情的である。そのような良い意味での懸隔が、大衆の心をつかむと同時に短歌の近代化の指標と成り得たのではないかと見られる。



第二章 『一握の砂』からの解釈


 数ある作品集の中でも『一握の砂』に焦点を絞るのは、刊行当時の啄木が人生で一番成功の道に近づいた瞬間だったからである。現在啄木研究の成果が圧倒的である近藤典彦氏(注ぁは「啄木は『一握の砂』に始まり『一握の砂』に終わる、と日頃わたくしは思っている」(注ァと述べ、また啄木の詩集・日記・評論などの製作背景を比較し、「かれがその隅々にまで神経を行き渡らせ、完璧も期し、所期どおりに創り出した作品」「もっとも大衆性・普及性に富む作品」(注Αとも述べている。
 一般的な啄木像の起源であり、啄木自身が出版にいたるまで見守り通した歌集『一握の砂』。そこに流れる爐Δ燭瓦海蹲疆詠みを抽出させてみたい。

(1)恋の歌の音(おと)読み

 啄木はよく「青春詩人」と称される。それは心をめぐる思いの瞬間をみずみずしく詩に込める技術や、作品や評論を通して民衆や政治に熱い視線を投げかける社会主義的青年像などからうかがえる。特に啄木の恋愛にまつわる短歌は誰もが通るであろう青春の甘さと苦さを歌というものに瞬間化しており、巧みな技法と共に賞讃されている。愛人が決して少なくなかった彼の短い生涯の私生活において、そのことさえも恋愛歌の種であり、花を咲かせているのではないかと思わされる。技巧の奥深さを感じさせる二首を見ていきたい。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

 初恋の対象は妻になった堀合節子であり、恋愛は数え年十四歳で始まったというから、八年から十年前を回想している。昭和期啄木研究の中心を担ってきた今井泰子氏(注Аは『「いたみ」は表現上過去の痛みであるが、そこに現在の心の痛みを重ね合わせて、「遠く」以下の現在に視点をゆるやかにもどす。』と述べる。同様のことが、過去を回想する現在をテーマにした、「わが恋を/はじめて友にうち明けし夜のことなど/思い出づる日」の一首にも言えるだろう。近藤典彦氏もまた、砂に「腹這」う男の情感と過去の時間との隔たりを「大きな美しい空間とはるかな時間と青春の人事とが三十一も字の中に凝っている」と評している。(注─
 本論では、この歌を「音」のイメージから分析してみることにする。〈砂山〉の「す」から〈砂〉の「す」、〈腹這ひ〉の「は」から〈初恋〉の「は」、〈いたみ〉の「い」から〈おもひ〉、〈出づる〉の「い」、この三箇所で同じ音が再出していることに注目したい。反復効果に合わせるかのように思い出が心の内でよみがえるイメージが湧く。音が連なる効果は歌全体の流れをスムーズにし、口に出して歌う時に一層なだらかな曲線を現す。これを「啄木調うたごころ」と認識したい。そして二度、三度と歌うその人の中に、当然この語順であるべきである、という現実感を生み、この歌たる存在理由がにじみ出るのである。
 濁点の位置にも注目したい。〈腹這(ば)ひ〉と〈いづる〉に存在するのだが、逆に回想部分としての〈はつこいのいたみ〉には濁点が無い。〈腹這ふ〉現在であり〈おもひ出づる〉現在の苦しみ。〈はつこいのいたみ〉は過去に閉じ込められた時点で聖域化され、その無垢な美しさゆえに今では取り戻すことが出来ないものと言っても良いだろう。  視覚的〈うた〉としても考察したい。啄木独自の三行書きがこの歌で見事な成果をあげている。二行目がたった三文字〈初恋の〉だけで打ち止められているところに注目する。主人公は〈現在〉にあっても、やはり真の主題となるのは〈初恋〉にほかならず、あえて次に出てくる〈いたみ〉を改行することでこの歌を鑑賞する各々の初恋の思い出がよみがえる仕掛けになり得る。また、二行目〈初恋の〉と三行目〈いたみを遠くおもひ出づる日〉の文字数の比は約四倍である。初恋当時の幼さと記憶の中で小さく佇むもの、それに対して多くの事を背負い込んだ過去と共にある現在との大きな時間的距離がはっきりと現れているかのようである。

やはらかに積もれる雪に
熱てる頬を埋むるごとき
恋してみたし

 心の情景描写の極みを感じさせる一品である。歌の内容を「色彩」の目で追いかけていくと、〈積もれる雪〉の「白」、〈熱てる頬〉の「赤」、またそれらの色が織り交ぜあうかのように〈恋〉は白色と赤色によって生み出された「桃色」を彷彿させ、純度の高い〈恋〉は読者に懐かしい感覚をもたらす。子供の頃小さな飴玉を口の中で大切に転がしていたかのように。
 歌のフレーズ(楽句)の構成もこのうえなく美しいものとなっている。一行目では〈雪〉を〈積もれる〉が修飾し、さらに〈やはらかに〉が覆うことで東北の粒子が細やかな雪の様子がみずみずしく伝わる。二行目〈熱てる〉〈頬〉〈埋むる〉というコマ送り的な場面送りが、ゆるやかな弧を描く。そして一行目、二行目のすべてが三行目の〈恋〉に集約されるところにこの歌の秘めた力を感じる。序盤からそこはかとなく匂いを漂わせながら、綿密に設計されたかのように歌はクレッシェンド(次第に強く)し、歌が終わる瞬間に最大の見所となる。これほどドラマティックな物語を定型から外れることなく三十一文字に収めた啄木の感性に魅せられると共に、脱帽するしかない。啄木の描く恋のうたは非常に純粋かつ色あざやかである。啄木初心者でも大いにその世界を楽しめよう。

(2)「音」の歌のしらべ

 啄木の五感感覚が非常に優れていたことを、一度啄木の体を通して生産された歌が、時間が経っても錆びることなく人(他人)の体に再び染み入る効能から感じ取れる。研究者らの対談では啄木の魅力について、「人の感情の表し方がうまい、感性の幅の違い、いろんな角度からいろんなことが言える」点と述べられている。(注)作品は天才歌人とうたわれる天性から滲み出した原石と言えよう。そして年月をかけて人々に読まれる(うたわれる)ことで磨きをかけられていったのである。
 短歌の材料・部品は、おそらく視覚を通してやってくるものが一番多い。『一握の砂』でも目から入ってくる情報による情景歌の割合が目立つ。次に多いのが心境歌である。人は幸せに満たされている時にそれほど歌にすがりたいとは思わない。何か心に刺さるものがあった時、歌を詠み、歌を聴きたいと思う。『一握の砂』の主人公の切々とした嘆きやため息に、われわれは同調しながら心を浸すことができる。それについて今井泰子氏は『一握の砂』に関して、「(啄木は)作ること自体に興味を持つ人ですね。一生懸命にみじめっぽい男を造形することに情熱を注いでいます。読者の方はそこにすっかり騙されるわけです。あの人は本当に誇りの高い人でしょう、それがそれほどまでにそういうような形で自分を作るわけですから。」と述す。啄木の短歌(歌集)は日常の生活を歌うが、決してエッセイではなく、やはり設計された作品であったということが今井氏の見解によって明らかになる。
 本論では『一握の砂』の中の「聴覚を用いた歌」、「繰り返し効果」などによるリズム感の表れる歌を見ていきたい。視覚、心境に次いで多い「音」の歌は約六十首ある。(注)無意識のうちに計算されたであろうその緻密な図式のトリックを、「音」の読みを通して確信に変えていきたい。

(2)―〔1〕擬音の効果

こつこつと空地に石をきざむ音
耳につき来ぬ
家に入るまで

 この歌は「我を愛する歌」収録の、疲労による神経衰弱的な徴候を表すとされている。けれども心身ともに健康な読者にも訴える要素があるのは、何度か読み返しているうちに明らかになってくる。「こつこつと」という無機質な擬音が読者の第一印象を刺激する効果を持っているが、一見しただけでは平凡な帰り道の歌である。しかし「音」「耳」という単語が飛び込んで来た瞬間、我々の頭の中で「こつこつ」が再現される仕掛けである。それは各々のイメージする「こつこつ」で、幼い頃石で遊んだ思い出かもしれないし、都会に転がっている冷たい石のイメージかもしれない。
 それに加え、「つき来ぬ」の「キ」という音の反復、「家に入る」の中では「イ」音が反復される。この語感の良さがさりげなく置かれているところがまた、〈啄木調うたごころ〉であると定義したい。

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

きしきしと寒さに踏めば板軋む
かへりの廊下の
不意のくちづけ

さらさらと氷の屑が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな

 平仮名の擬音で始まる歌を続けて抜粋した。「しらしらと」の歌において、冒頭で視覚を刺激しつつ音のイメージを持つ「しらしら」は、通常の擬音・擬態語としては使われていない。元は「しらじら(白白)」で、いかにも白いさまを意味する語であろう。それを敢えて例外読みの「しらしら」と音のイメージを優先させたところに啄木の音へのこだわりが感じられる。
 「きしきしと」の歌では「板軋む(きしむ)」と言葉を重複させたところに「音」遊びのユーモアがある。その語も「カ」音が二回、「ク」「ケ」音といった「カ行」の音が意図したかのように置かれている。
 「K音を出すとき、喉を硬く締め、強く息を出してブレイクする。息は最速で口腔内を抜ける。そのような息は唾液と混じらないので、ことばの音の中で最も乾いている。K音を発音する度に、私たちは、自分自身の体で、硬さ、強さ、スピード感、ドライ感の四つの『感性の質』を体験している」(注)という分析結果もある。そのような言葉による緊張感を啄木は知りえていたかのようだ。
 「さらさら」との歌はさらに面白い。「髪の毛がさらさらだ」、などというように通常「さらさら」は程よく潤いを含んだ手触りのよい感じを伝えるが、この歌では「さらさら」と「鳴る」のである。現代の感覚では全くイメージ出来ない表現は、おそらく当時も異質な光を放っていただろう。氷の潤いを湛えたイメージとそこからおそらく聞こえてきそうな音として「さらさら」を結びつけたのだとすれば、音の印象が幻想を呼び、何とも言えぬ神聖さをもたらしていることを啄木は意図していただろうか。
 これらの歌を眺めていると詩というより音楽のように感じられないだろうか。擬音は、歌全体の印象をひとことで担うキーワードであるとともに、歌の流れをスムーズに進めるリズム的効果がある。これらの歌を口に出してみれば一目瞭然で、もはや啄木の貧困生活のイメージとは一線を画すといってもよいだろう。それは芸術に通ずる。平仮名の繰り返し擬音はさらに歌に透明感を添え、読者をひととき幻想の世界へといざなうのである。リズム感をふんだんに採用した歌として、次の歌も聴衆を楽しませる作品である。

たんたらたらたんたらたらと
雨滴が
痛むあたまにひびくかなしさ

 このような歌だけでなく、短歌は常に音読するのが好ましいと思われる。音読は数多くの器官(目・口・耳・脳)、を使うことで、字を追うだけの黙読よりもはるかに臨場感を増し、歌の世界によりリアルに飛び込む手助けとなる。安達忠夫氏は、「子供は蝉やトンボを追いまわすのとおなじ気持ちで、ことばの動きそのものを楽しむ。意味よりもまず音の響きとリズムが、耳を通して心に浸透していく」と書いている。(注)実際の教育現場で体感した事実は、人間全般における「脳と音読」の研究につながっているという。「ことばの動きそのものを楽しむ」ことは大人にも十分に作用することが唱えられ、最近では短編小説の音読・暗記を通して脳を活性化する『脳を鍛える』シリーズ(注)も話題となっている。脳と言葉に関してはまだ解明されないことが多々あるとのことなので、今後も注目し、さらなる文学との関わりを見届けていきたい。

(2)―〔2〕臨場感を呼ぶ「音」

遠方に電話の鈴の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな
 この歌は、耳鳴りのわずらわしさを「遠方に電話の鈴の鳴るごとく」という比喩で詩的にカバーしていると読まれているが、まさに啄木のセンスの良さが光る一品であろう。故に「かなしき日」すら鈴の音のように澄んだ艶をまとっているようである。啄木にかかれば生きていくことそれ自体に、芸術の彩りがなされるのである。

飴売のチヤルメラ聴けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし

 この歌も主題とは別に、印象的なのは「チヤルメラ聴けば」の一節である。この歌を読むと遠くから懐かしいラッパのような音が聞こえてくるのではないか。何やら気楽な感じのチヤルメラの音から、「うしなひしをさなき心」という少し悲しい回想へと収縮していくのがこの上なく切ない。しかし最後の「ひろえるごとし」で気分は再び浮上する。ふと聞こえてきた飴売のチヤルメラによって童心を思い出すような懐かしさがこみあげる。耳をふさいで外の世界を断絶していたならこの歌は生まれない。常に五感を磨ぎ澄ませていた啄木の心の貪欲さが詩に広がる「うたごころ」を一層高めたのではないか。

馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に

 この歌は〈歌効果〉が美しい一首である。まず第一に、有名な「東海の小島の磯の白砂に/われ泣き濡れて/蟹とたはむる」の歌における「の」音のインパクトとの類似が見られる。〈馬鈴薯の〉〈うす紫の〉〈花に〉と〈都の〉〈雨に〉のそれぞれの行で「の」と「に」による力強い韻押しがされる。雨のイメージを感じさせない程のテンポ感である。逆に、それらのない二行目の「雨を思へり」が歌の軸なのだが、韻踏みに挟まれた何もない一言こそが、切ないため息として機能しているようである。ふと思い出す故郷の雨への慕情がこの上ないことを感じさせる。
 また、全体を倒置法にすることで歌がさらに締まっている。倒置により「雨を思へり/都の雨に」という〈雨〉の音が続くことで、降り続く雨のイメージをより一層強めているかのようだ。都会に居ながら故郷の情景をうたう思考にも、啄木の洒落っ気を感じてしまうのである。雨をただの雨にしないところに、啄木の魔法がある。


(2)―〔3〕歌への哀愁

かにかくに渋谷村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川 

かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ 

 最後に、個人的な狄瓦瞭鷦鶚瓩魑鵑欧気擦討發蕕ΑA絢圓蓮劼もひでの山〉と〈おもひでの川〉の二者が呼応するかのように並べ詠まれている空気感が何とも言えないメロディーである。たった三行読んだだけで、心に懐かしさと暖かさが宿る絶品である。
 後者は、歌人啄木が慌しい小樽の〈歌ふことなき人人〉を嘆く歌だが、何か自問自答しているかのような印象が拭いきれない。生活を窮しても文学の道を追い続けた啄木の人生のテーマとして読めないだろうか。特別な技巧を伴わない裸の短歌は、その哀愁感により、芸術色を帯びた文学に成りえているのでははないか。言葉や理論で説明できないはがゆささえ、逆に奥深いものとして存在できるのが、心を動かす芸術と言うべきものだろう。

 音のイメージは読者それぞれの感性に委ねられている。そこに歌の魅力が限定されないという最大の特性がある。永田和宏氏(注)はこのように述べる。『短詩型は作者だけでは成立しないというのが私の立場である。俳句や短歌が詩として成り立っているのは、作者が発した「わずかな」情報が読者の中で膨らんで、読者を感動させるところにある。いい読者を得なければどんないい歌を作ってもそれは無に等しい』。この論には同感であり、短歌の中でもとりわけ「音」を喚起させる歌こそ、その力が著しいのではないだろうか。音にまつわる啄木の短歌を再読して、それが確信に変わった。



第三章 現代においての短歌と〈うた〉


(1)現代における短歌

 「音」から読む短歌という主題で進めてきたが、様々なメディアが混合し影響し合う現代において、文学としての短歌だけでは文化として生存してゆけないのではないかというのが、著者の痛切な感である。早稲田大学助教授で音楽文化論を講ずる小沼純一氏によって書かれている評論(注)を手がかりに、短歌が〈うた〉たりえるかを検討してみたい。
 『「短歌」は、「うた」は、声をだして詠まれるのがふつうである―ふつうであった。自ら短歌を作ったり、読んだりといった習慣のないひとにとっても、「うた」は、かなり朗々と、時間をたっぷりかけて詠まれる、歌われるものだとイメージだけはある。』と述べる小沼氏だが、わずかに違和感があったので立ち止まることにした。
 現代において、例えば小学生が「短歌」というものを、音楽で触れるような「歌」、あるいはテレビから流れてくる「歌」と同一視できるか、ということである。短歌はたった三十一文字、前奏もメロディーもそこにはない。受け取るその小学生が燹崔参痢廚留咾澂瓩鮹里蕕覆韻譴弌歌はもちろんのこと興味の対象にもならない可能性がある。問題は、短歌を扱うのが学校の国語授業だとしたら、そこにある。むしろ短歌を国語で扱うという枠組みすら壊していくべきかもしれない。短歌は「歌」なのだから。実際私が受けてきた授業の経験でしかないが、短歌を扱うとき、大方が短歌の内容分析と作者の文学史的位置であった。今思えば短歌一首を暗記して、頭の中でふとリフレインしてしまった、というような愉快な記憶はない。音楽の唱歌は、毎日のように歌わされ、また生徒達も「歌」が好きになっていた。古くから声に出して詠まれてきた「歌」である「短歌」ならばなぜそれが廃れてしまったのか。楽譜があって、伴奏がないと歌にならない、というような固定概念が知らず知らずに教育されてしまったのだとしたら大変なことである。さらに小沼氏は指摘する。

 いまでも「短歌」がつくられ、なんらかの場においてそれが声にのせられるわけだが、そのとき、しばしば、とても古風な日本的な節まわしによって、歌われる。(中略)なにかしら身体のどこかに眠っていたかのような日本旋法が、また時間の延びと音の揺れが浮上してしまうという事実。(中略)一般的には多くのひとが西洋近代の音組織をあたりまえに呼吸し、耳にしているなか、「短歌」は、一体いつの、どこに起源をもつのかわからない日本の、自由な音組織と発声によって歌われ、日常の西洋的な音楽時空とパラレルワールドのように、併存しているのだ。

 では、小沼氏も述べる〈日本的な節まわし〉とは具体的には何なのか。おそらく、「東海のぉ〜、小島の磯のぉ〜」などといった、それぞれの節の途中または最後を延ばして歌うしらべのことである。現代ではそこまで感情を込めない場合、句と句の間に「すきま」を入れることで、調子を整えている。それらの分析のひとつに、佐藤良明氏は、「五七五の韻律のもとには、八八八というベースの層がある」と述べている(注亜が、不思議と納得させられる。「東海の、、、/小島の磯の、/白砂に、、、」といったように、大方短歌を歌う時に「、」の部分を暗黙の了解として休符にしているという話である。そう考えれば、休符というゆとりがあるからこそ、例外の「字余り」も許容されうるからである。先人がそう歌っていたといえばそれまでだが、私たちの身体に当たり前として登録されているリズム感は説明を要しない概念である。それは短歌が、厳密に譜面に記されている「音楽」と極めて近い要素を持っていることを少なくも裏付けているのではないか。その発祥云々よりも、何より「お約束」として受け継がれているその〈歌い方〉は、日本人が短歌を詠む上で一番自然な「うた」の形を成しているのだろう。

(2)西洋音楽からの「うた」の受容  

 日本は独自の伝統と明治以後の西欧文化の輸入を組み合わせてできたものを「文化」と示してきた。西欧における音楽と言えばクラシック音楽である。啄木が青春時代に西洋音楽に傾倒し、楽器を奏で、作曲家ワーグナーの観を昇華させようと試みた評論『ワグネルの思想』を執筆していたことは有名で、故・中村洪介氏による明解な検証はたいへん貴重な論説である(注院。本節においても「うた」というキーワードの下で話を広げてみたい。
 ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付」は、第四楽章にシラーの「歓喜によせる」の頌からの句を歌詞とする「歌」(四人の独唱者と混声合唱による)を含んでいる。その詩は、「歓喜」「人間愛」「平和」を中心主題にフランス革命直前の一七八五年に書かれたものだったが、その詩を目にしたのが手紙の記述によると一七九三年、曲が完成したのが一八二四年であった。構想を練り始めてから三一年がかけられている。それだけベートーヴェンという人物の人生が色濃く写し出されている内容となり、クラシック音楽史において最高峰を保ち続ける人気と実力を持つ作品なのである。
 しかし「第九」は西欧では狎散吻瓩箸靴涜困个譟長い冬の終わりである五月や、ホールの建て替えなどの記念行事に演奏されることはあっても、普段には取り出さない風潮がある。年末によく見られる「第九演奏会」はそれこそ、日本人が生み出した独自の文化なのである。では、なぜ日本人が「第九」をそこまで好むのか。指揮者小松一彦氏(注押はこう語る。

ヨーロッパとは逆に、日本は四季の変化がはっきりしています。言いかえれば息の長さよりも、息の短い切り換えを好む国民性があるといえましょう。ですからやはり西欧にはない狢膸な正月瓩魴泙┐襪謀って演奏する側も聴く側も大きなエネルギーのいる曲「第九」を演奏してまた聴いて良い汗を流して、一年の気持ちを切り換えて新年に臨むというのは、「年を越す前に風呂に入ってよく垢を落としてから」という気持ちに通じるところがあり、そのような国民性だからこそ「第九」がこれだけ日本で愛好されているのでしょう。(中央大学管弦楽部第四十八回定期演奏会プログラム・特別寄稿より)

 第九の演奏は、アマチュアの市民団体などによる場合が今では少なくない。地域が一丸となり練習を積み重ね、様々な思いを抱える別々の個人が気持ちを一つにして歌を歌う。なぜこのようなイベントと化したかというと、「深遠で、神聖なる儀式のような性格を持ち、フィナーレに独唱や合唱も入る多彩な内容の曲が、日本人の体質・息の短さに合う七十分程度にまとめられている」からだと小松氏は言う。ということは年末あるいは年始の記念行事として「第九」が日本人に合う条件を満たしていたからに過ぎないのではないか。たまたま明治に近代化し、ヨーロッパの音楽を取り入れ、日本人によって「文化」化されたというだけなのだ。
 しかしその支持が大きいのはやはり「歌」(うた)の力だと思えてならないのである。心地良い音楽の旋律に人は癒され、疲れを回復したり明日への活力にすることができる。けれども根本に勤勉性を持つ日本人は、どこかで何かを学んでいなければならない、向上しなくてはならないという学びへの執着心がある。欧米人が「休むために働く」一方、日本人は「働くために休む」という考えから脱せないと言われていることがよい例えだろう。自分を癒すために音楽に触れる傍らで、同時に歌詞のついた「うた」に全身の力を持って参加する。快楽と学びが同時に得られるとはなんと効率が良い行為なのだろうか。「第九」を例に挙げたが、どんな歌にも音階と言葉が存在する。言葉を伝達手段、記録手段だけにとどめず感性に訴える「音楽」と合体させることで、より価値と芸術性のあるものへと昇華させたものが「歌」であるならば、それこそ『万葉集』時代あるいはそれ以前から短歌、和歌という形式で「うた」ってきた日本人の芸術への欲求の強さがうかがえる。

(3)現代の犇稷兄躾有瓩砲茲觧遒

 「うた」は大衆性を獲得して初めて社会に認知される「歌」となる。個々で詠む「うた」は実生活に基づく実感・現実味に溢れ、各々の楽しみとして個人を満たすだろう。しかし、先に引用した永田氏の論に基づけば、爐いて票圻瓩△辰討海修硫里世箸いΑ8渋紊砲いて最も人の耳に触れるメディア進出を成しえている「歌」は、テレビ・ラジオ・CD・インターネット等を媒体とするジャパニーズ・ポップスである。二〇〇二年にデビューを果たした歌手・一青窈(注魁は耳慣れない独特さを持つ歌詞、オリエンタルな歌唱力などにより、デビュー曲「もらい泣き」をヒットチャートの常連とさせた。彼女の「うた」に対する姿勢をここで検証し、歌人啄木の「うた」をより身近に捉える一要素としたい。
 以下はNHK教育テレビ「トップランナー」(平成十五年四月放映)での本人へのインタビューである。

司会)自作の詩はかなり独特ですね。歌詞カードを見ると変な所に「。」がついていたり、英語と日本語が急に挟み込まれていたり。具体的には「so she tear」で「そして」と読むなど。

一青)「tear」には引き裂くというのと涙という意味を掛けています。歌詞を、詩自体を、詩集みたいに、ぱっと見たときにデザインブックと一緒でいいから、感覚で受け取って欲しいんですよね。その行間自体も読んで欲しいというか。左揃えならぴちっと見えるし、斜めになっていれば川の流れのように見える。書きたかった情景を文字でどう表現するかということで、句読点の打ちかたなどもすごくこだわりますね。自分の立ち位置としては、すごく古い言葉と現代の言葉を、数学的な頭で考えつつ、感覚を信じて作っています。

 これまでの歌謡界の歌詞は大衆が歌を理解するための解説書と捉えられ、あくまでもメロディーが優先され、歌詞は歌の付属品でしかなかった。一青窈の歌詞は歌の旋律にまるで寄り添わず、生き物のように気ままに点在するため司会者もそれに触れざるを得ない。「うた」、それ自体の魅力を伝えるために言葉の置き方をあるがままにしているとしたなら、啄木の三行書きに通じる要素があるのではないだろうか。
 啄木の三行書きへの経緯として、「一利己主義者と友人との対話」(「創作」明治四十三年十一月)で次のように書いているのが本人の有力な言説と見なされている。

昔は何日の間にか五七五、七七と二行に書くことになつてゐたのを、明治になつてから一本に書くことになつた。今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首各異なつた調子がある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。

 もう一つ、啄木のローマ字日記(「NIKKI I.MEIDI 42 NEN 1909」)において「このごろまじめにうたなどをつくるきになれないから、あいかわらずへなぶってやった」と記述し、二行書きを実践しているのは有名な話である。こちらの方が前の年に書いてあることより、始めはどこかなげやりな思いで遊び始めた二行書きが、時間を経て啄木自身の中で煮詰められ定説化され、世間に投げかけうる形態と見なしていったのではないかと推測できる。しかし『一握の砂』において、始めは一首一行書きだったところ、編集段階に土岐哀果の影響を受けたことも起因して、三行書きに書き直されたことも有名である。日記や評論では割合自分の意見を率直に曝け出しても、実践への踏み込みにおいては慎重だったということだろうか。
 また、古い日本の言葉を愛用し、句読点を詩に用い、英語、中国語混じりで構成される一青の詞。それは、文語体主流の短歌界で口語体を用い、句読点や感嘆符カタカナ語も必要に応じて使用していた『悲しき玩具』に見られる啄木調や、土岐哀果の創作スタイルと重なるところがある。歴史は繰り返すと言ったところだろうか。現代の短歌界では穂村弘、岡井隆など多く定型を破る歌人の活躍がめざましいが、そのような「わかる人にはわかる」というような感覚を、メディアを駆ける「ポップス」で採用したことが、一青が数多くの歌手の中でも特に注目される理由になったのではないか。
 本が売れない時代において、再び古来の「ことば」の趣を聴衆に訴えかける一青は、歌手でありながら詩人とも呼べよう。今後、文学界が目を向けるべき作家の一人となり、またそのような広い視野の文学界たることを期待したい。歌詞には父母への思いや複雑な恋愛模様が描かれているが、それらをすべて実話だと語る一青の目に揺らぎはなかった。言うまでもなく、啄木も評論において短歌と生活の密着観をあらわにしている。最終章では啄木の持っていた、あるいは目指した「うた」の姿を探ると共に、現代まで通ずる人の深層心理への働きかけに迫ってみたい。



第四章 啄木思想における〈うた〉―現代の生き方にも通じて―


 来歴にも記したように、啄木は東京時代、小説の執筆に行き詰まると一転して評論を書いて生計を立てた。しかし単に収入を得るためだけの商品ではなく啄木が何より訴えたかった自身の文学への思い、こだわりの具現化ように思えてならない。特に有名な二つの評論を取り上げたい。
 まず一つ目は、『弓町より(食ふべき詩)』(明治四十二年十一月三十日より「東京毎日新聞」にて連載七回)である。前半に自身の文学経歴を挙げ、後半では現在の詩観をあげている。副題の「食ふべき詩」とは生活に必要な詩といった意。啄木は口語体・感情的内容を基本とした日常生活の報告・批評たる「詩」のありかたを要求している。実際にこののち詩を離れることや、二年後にこの主張と相容れない形式で詩集『呼子と口笛』を書いていることより、啄木の最終的詩観とは言いがたいとも評されるが、論調の熱っぽさや激しさはこの時点での詩人としての回生を感じさせ、この上ないダメ押しとして我々の頭に訴えかけて来る。次のように語る。

 謂ふ心は、両足を地面に喰つ付けてゐて歌う詩という事である。実人生と何等の間隔なき心を以て歌う詩といふ事である。珍味乃至は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に『必要』な詩といふ事である。
―斯ういふ事は詩を既定の或る地位から引下す事であるかも知れないが、私から言えば我々の生活に有つても無くても何の増減もなかつた詩を、必要な物の一つにする所以である。詩の存在の理由を肯定する唯一の途である。

 歌を食べ物の如く『必要』と言い切る姿勢は当時にしても斬新であった。まさに「生きること=歌うこと」を主張しているのではないか。それは現代の感覚では聞こえがいいが、文学としての歌さえも啄木の生活の中では生活と切り離せないものとなっている事実は、啄木にとって喜ばしいことではなかったというのが通説である。啄木は文学の尊き存在を認識し、自分はその能力を授かり世に声をあげることでしか命を全うできないと信じていた。それは札幌に居た頃、与謝野寛への書簡に「予が天職は文学なりき」「この道を外にして予が生存の意義なし目的なし奮励なし」と熱く記していることから伺える。息をするように歌う詩こそ必要だと述べた自身の生活短歌が、後にその予言通りに民衆の糧となることを彼は予期していたのだろうか。彼は芸術至上主義者が詩的な考えでふるまうことを「偶像崇拝」とし、次のように非難した。

 今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望ももっていない―飢えたる犬の食を求むるごとくに、ただただ詩を求め探している詩人は極力排斥すべきである。

 伊藤整氏(注粥は「啄木の詩からは、〈瞬間的な人間くさい感銘〉を受け、同時期の白秋や茂吉のように、和歌や詩の精神そのものの神聖視による、完璧な作品への願望が動機ではない。」と述べる。詩及び短歌を芸術の枠で囲わず、もっと身近な存在として自分のテリトリーで扱う、生活に根ざした「うた」に変換させたことで、万人の心に確かに触れる作品に仕立てあげた。いや、あがったと言うべきだろうか。文学と生活は共生できないという諦めと未練が、折々で書きとめられ、それは文学を忘れて暮らす以外ない詩人のため息にほかならなかったからである。啄木死後においてその全集が何度も出版を渋られた事実(注21)からも、当時の文壇では啄木は異質な存在であった。ただ日々を「生活する」ことだけに命を燃やす等身大のつぶやきが、眠れる原石であり、一世紀を経てなお多くの人がその輝きに触れたいと願うばかりになっているとは誰が予想しただろうか。
 次に『歌のいろいろ』(明治四十三年十二月十日より「東京朝日新聞」にて連載五回)という啄木による歌の分析論を読んでみよう。前半で当時担当していた朝日歌壇の投稿歌二例、土岐哀果の近作についての人生的・社会的態度について論評したのち、短歌観が以下のように述べられる。

三十一文字といふ制限が不便な場合には、どしどし字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束を罷めてしまって、何に限らず歌ひたいと思った事を自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。

 余談になるが、夏休みに啄木の故郷を訪ねて盛岡へ行ってきた。生誕の地・渋民村と盛岡市内を本当は徒歩で回りたかったが、時間がないので交通機関を使って回った。盛岡市内にある「もりおか啄木・賢治青春館」は明治に建てられた銀行を改装して生まれた施設だが、その一室で放映されていた啄木の生涯をまとめたビデオの結びとして、まさにこの部分が引用されていた。クライマックスの音楽と共に、「歌というものは滅びない!」とナレーションされた時、私の体に電撃が走ったようだった。ポップスやクラシック、合唱歌、また、短歌・詩などを好んで触れていた私自身の何かに、啄木の声が重なったような気がした。大げさだがそうだったのだ。この一文に触れられたことが盛岡旅行の最大の収穫だったと言っても過言ではない。
 本題に戻るが、木股知史氏(注22)は『食ふべき詩』と『歌のいろいろ』の分析において、象徴主義の要点をつくエドマンド・ウィルソン(注23)の理解を用いて次のように述べる。「瞬間の感覚の表現と(『歌のいろいろ』)、人生の断片の報告(『食ふべき詩』)という矛盾する二つの方向が、啄木の詩歌論には含まれているのである。歌集『一握の砂』に即していうなら、心理の方向では瞬間の感覚が歌われ、対象の方向では失意の男の人生という物語が表現されているのである」。
 これらは果たして矛盾するのだろうか。『食ふべき詩』は『歌のいろいろ』を述べる上での前提として読むことができる。前者で「うたは必要であるもの」、後者で「瞬間瞬間をうたうべきである」と述べるのだから、合わせて「瞬間を歌ううたこそが必要である」と取れなくはないか。必ずしも理想を追わない、ただひたすら今日を生きる中で歌ううたこそが自分に必要なものである、と啄木は言いたかったのではないだろうか。
 少し表現方法を変えてみると、「瞬間の感覚」を切り取り表現化することで、それは物質化し芸術作品と呼べるものになる。もう一方の「人生の報告」はどちらかといえば飾り気のない質素な日常として存在する。「芸術」=「非日常」と置き、「日常」との位置関係を考察することで、啄木の言わんとした詩(うた)においての意味が浮き上がるはずである。
 私たちが求めるものは、何だろうか。身近にある、日常の幸せ。毎日の積み重ねの中で少しでも多く笑えたらよいと思うこと。あるいは、叶えたい夢。大業を成し遂げたい、生きている喜びを感じるようなスリリングな体験がしたいというような欲望。
 両者は一見相反するものに思える。夢を追い続けたら安定した暮らしは保障されず、穏やかな毎日に満足していたら非日常はやってこない。  しかし二つは共存しているのではないか。安定した環境があるからこそ、向上したいという欲望が出てくるもの。人間弱いものであり、どれだけ偉業を成してもいつかやすらぎが欲しくなるもの。両方同時に手に入れることは不可能かもしれないがどちらも人間が生きる上での基本であり糧となるべきものなのではないだろうか。
 啄木は、その死後に才能を認められたことが最大の不幸だったのではないか。啄木は、日常を燃え尽きようとしていた人だから。目指すべきものを生活に引き寄せ、いのちの一秒を尊んだ人。啄木の生き方は人間の基礎体力のあり方として、今後も参考すべき価値があるに違いない。


おわりに


 正直、学生時代は字の如く「あっ」という間で、本格的な研究が行えたかは胸を張れるほどではない。しかしながら、大学生活において目に写る景色や肌で感じる空気などのあたりまえなものを一瞬ごとに楽しんだことには自信がある。四年間は、心の感性を押し広げるのに十分な時間であった。未熟だが現在の力を尽して論文には取り組んだ。また、「誰が見てもわかる論文」を目指し、現在の流行・情報なども多く取り入れ、横につながる章組みをすることで、音楽で言うところの組曲風に個性を打ち出したつもりである。何より「啄木研究」は今後の文学への興味を失わせないだろう第一歩として貴重な時間を得ることができた。最後に、筆者のメッセージを載せることをお許し頂きたい。これをより多くの人に伝えるための今後でありたい。

 忙しさに駆け回る人。逆に時間がありすぎて悩む人。最近楽しいことが無い人。そんな人たちに啄木の短歌を思い切り薦めたい。
啄木効果はすぐに現れるだろう。帰宅時に降る雨と電車の窓から見る夜景、冬の訪れを身に染み入らせる夕暮れの風。そんなごく当たり前の「ものたち」を尊び、言葉に変換させてやりたいというささやかだが痛切な心の叫び。毎日を面白くさせたいなら何より自分自身の中にユーモアを持つこと。そのことを啄木が教えてくれるような気がする。
 なにげない風景を自分のこころのフィルターを通して色づける。物足りないと漏らす現代人に欠けている行為を、思い出させてくれた啄木。そう、爐Δ燭瓦海蹲瓩脇本人が本能的に持ち得る一番身近な芸術なのである。


                                    (原稿用紙五十六枚相当)       







脚注

〈注 斉藤孝著。二〇〇一年九月第一巻、二〇〇二年七月第二巻、二〇〇四年4月第三巻発行の人気シリーズ。草思社。
〈注◆土岐善麿。哀果と号。明治十八年東京生まれ。昭和五十五年死去。牧水・啄木と親交を結ぶ。歌集出版は三十を超える。
〈注〉「『NAKIWARAI』を読む」東京朝日新聞 明治四十三年八月
〈注ぁ東京大学文学部国史学科卒業、同大学院人文科学研究科国語国文学専門課程中退、高等・中学教諭を経て、現在は群馬大学教授。最近では歴史的事件から見た啄木研究、『一握の砂』編纂についての研究を行っている。
〈注ァ『国文学 解釈と鑑賞』学燈社 平成十六年二月号 「啄木の魅力世界へ」
〈注Α近藤典彦「『一握の砂』の研究」おうふう 平成十六年二月 序
〈注А北海道大学文学部を卒業、同大学院文学研究科博士課程中退。静岡女子短期大学助教授を経て、静岡県立大学短期大学部教授。
〈注─『国文学 解釈と教材の研究』学燈社 平成十年十一月 「啄木の歌 新鑑賞50」
〈注〉『一握の砂―啄木短歌の世界―』世界思想社 平成六年四月  
〈注〉『新編 啄木歌集』収録「一握の砂」の全首を〈視覚〉〈聴覚〉〈嗅覚〉〈触覚〉〈心象〉の五分野に主観を含め分類した結果である。
〈注〉黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』新潮新書 平成十六年七月 序章「ブランドをつくるマントラ」
〈注〉引用は共著『脳と音読』より、著書『感性をきたえる素読のすすめ』(カナリア書房・平成 十六年一月)の一文の紹介より。東京大学独文科卒、同大学院独文科修了。埼玉大学教授。 主著に『吉本ばななイエローページ』(編著・荒地出版社)、『感性をきたえる素読のすすめ』(カナリア書房)。
〈注〉川島隆太(東北大学教授)著。くもん出版。
〈注〉歌人。理学博士。京都大学理学部卒業。細胞生物学の研究者として多忙な日々を過ごす一方、短歌結社「塔」を主宰し、自らも歌を詠む。歌集に「メビウスの地平」「無限軌道」「華氏」、評論集に「解析短歌論」「同時代の横顔」、訳書に「生化学イラストレイテッド」などがある。
〈注〉引用は著書『Jpop進化論』(平凡社新書・平成十一年五月)より。アメリカ文化、ポップカルチャーを題材にユニークな活動を展開。東京大学教授(表象文化論)。
〈注亜『国文学 解釈と教材の研究』学燈社 平成十四年六月 「声の復権と短歌」
〈注院『国文学 解釈と教材の研究』学燈社 平成十年十一月 「啄木と音楽」
〈注押こまつ・かずひこ。桐朋学園大学指揮科卒業、斉藤秀雄氏に師事。現在ロシアの名門サンクト・ペテルブルグ交響楽団をはじめ、プラハ交響楽団、スロヴァキア・フィル等の常任客演指揮者を務める。日本を代表する国際的指揮者の一人。
〈注魁ひとと・よう。一九七六年九月二十日生まれ。台湾人の父と日本人の母の間に生まれる。北京語、英語、日本語で歌詞を書く。クールさとエキゾティックな情緒が混在する歌世界でファン層を広げている。
〈注粥一九〇五〜一九六九。詩人、小説家、評論家。東京商大中退。詩から小説に転じ、昭和初期に「新心理主義」を唱え「得能物語」などを書く。戦後は創作と文学理論の統一をめざし活躍。
〈注21〉啄木死後、その作品を全集として世に残そうと務めたのが、啄木晩年に知り合った土岐哀果であった。苦節の末、死後八年目になってようやく新潮社へ持ち込んだが、社長・佐藤善亮は「啄木の全集は出版上不可能」とつき返す。しかし土岐があまりに熱心に頼んだので、「ではあなたの啄木に対する友情に免じて出版しよう」と言い、犠牲的な気持ちで出版を引き受けた。三巻に及ぶ全集は全くの冒険であったが、意外なことに売れ行きがよく、数年の間に二十版も出て佐藤を驚かせた。 〈注22〉甲南大学教授。石川啄木、村上春樹研究論文を多く発表している。『〈イメージ〉の近代日本文学誌』(双文社)『石川啄木・一九〇九』(冨岡書房)他著書多数。論は国際啄木学会編『論集石川啄木』 おうふう 平成九年十月「「『一握の砂』の時間表現」。
〈注23〉一八九五年〜一九七二年。ニュージャージー州生まれ。一九一六年、プリンストン大学卒業。第一次世界大戦に従軍後、雑誌『ヴァニティ・フェア』『ニュー・リバブリック』の編集に参加、その後『ニューヨーカー』誌の書評主幹を務める。多岐にわたるテーマでエッセイ、書評などを執筆、二十世紀アメリカの批評活動の中心的な存在となる。

参考資料

・岩城之徳編『別冊国文学 石川啄木必携』学燈社 昭和五十六年九月
・『鑑賞日本現代文学 第六巻 石川啄木』昭和五十七年六月
・久保田正文編『新編 啄木歌集』岩波文庫 平成五年五月
・『一握の砂―啄木短歌の世界―』世界思想社 平成六年四月
・国際啄木学会編『論集石川啄木』おうふう 平成九年十月
・『国文学 解釈と教材の研究』学燈社 平成十年十一月
・佐藤良明『Jpop進化論』平凡社新書 平成十一年五月
・枡野浩一『ほぼ日ブックス006『石川くん』〜啄木の短歌は、とんでもない!〜』朝日出版社 平成十三年十一月
・『国文学 解釈と教材の研究』学燈社 平成十四年六月
・『ダ・ヴィンチ』メディアファクトリー 平成十五年十月
・『国文学 解釈と鑑賞』至文堂 平成十六年二月
・近藤典彦『『一握の砂』の研究』おうふう 平成十六年二月
・川島隆太 安達忠夫『脳と音読』講談社現代新書 平成十六年五月
・黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』新潮新書 平成十六年七月