

| 6月 1日 | 誕生= ■マリリン・モンロー(1927〜1962):20世紀を代表するセックス・シンボルになったアメリカの映画女優。本名ノーマ・ジーン・ベーカー。1927年6月1日、ロサンゼルス生まれ。母親が精神障害を患っていたため、孤児院や里親のもとで多難な子供時代を送った。16歳で結婚した後、20歳で離婚。1944年、軍需工場で働いていたところを陸軍所属のカメラマンに誘われ、兵士用のポスターのモデルに起用された。この写真が反響をよび仕事が殺到したため、エージェントに登録。チャーム・スクールに通う一方、雑誌の表紙を何度も飾った。1946年にマリリン・モンローに改名し、20世紀フォックス映画と契約を結んだが、2本出演しただけで契約を破棄された。48年にはしばらくコロムビア映画と契約を結んだが、この間も低予算のミュージカル映画「合唱隊の女たち」(1949)と、マルクス兄弟主演の「恋は楽し」(1949)に顔を見せただけに終わった。1949年にヌード・カレンダーの撮影をする。20世紀フォックス映画と再び契約を結んだ1950年から、端役ながらも次第に注目を集め始めた。この頃の作品には「アスファルト・ジャングル」「イヴの総て」(ともに1950)などがある。また51年には、「愛の巣」、翌52年には「熱い夜の疼(うず)き」、ケーリー・グラント、ジンジャー・ロジャース主演の「モンキー・ビジネス」にも出演し、「ノックは無用」ではベビーシッター役で初めて主役を演じた。53年には、「ナイアガラ」「百万長者と結婚する方法」、そして「紳士は金髪がお好き」(1953)のローレライ・リー役などで、セックス・シンボルとしての人気を確立した。彼女の天真爛漫な魅力、官能的な肉体、天性のセックス・アピールは世界中に知れ渡った。20世紀フォックスの看板女優だった当時の作品には、「帰らざる河」「ショウほど素敵な商売はない」(1954)、ビリー・ワイルダー監督の「七年目の浮気」(1955)などがある。1954年、野球選手のジョー・ディマジオと結婚したが、翌55年に離婚。この年、これまでの型にはまった役柄への反発から自ら製作会社を設立すると発表し、ニューヨークのアクターズ・スタジオにも参加したが、20世紀フォックス側からこれまで以上の権限を与えられたため会社に止まった。ニューヨークで知りあった劇作家のアーサー・ミラーと1956年に結婚。ミラーは彼女の最後の作品(「荒馬と女」)の脚本を担当することになった。1957年にはローレンス・オリビエとともに「王子と踊子」を製作するが、評判も悪く、興行的にも失敗に終わる。その後、ワイルダー監督「お熱いのがお好き」(1959)で歌手のシュガー・ケイン役を好演し、「恋をしましょう」(1960)でイブ・モンタンと共演した。この時期、ストレスと病気に悩まされ、精神科医の治療を受けてはいたが、ドラッグとアルコールの併用がたたり、次第に不安定な精神状態になっていった。ミラー脚本、ジョン・ヒューストン監督による「荒馬と女」(1961)が最後の映画となり、映画封切の1週間後に、ミラーと離婚。1962年夏、撮影中の現場から降ろされ、その1カ月後の1962年8月5日に自宅で死体となって発見された。36歳。睡眠薬の飲みすぎとみられているが、自殺の可能性も否定できない。1974年に自伝「マイ・ストーリー」が出版された。 ■グリンカ(1804〜1857):ロシアの作曲家。ロシア国民楽派の創始者。1804年6月1日、スモレンスクに近いノボスパススコエに生まれる。サンクトペテルブルクで教育を受けたのち、ロシア、イタリア、ドイツで学ぶ。ロシアの民話と民謡を引用したオペラ「イワン・スサーニン(皇帝に捧げた命)」(1836)は、ロシアで最初の国民主義のオペラとなる。オペラ第2作「ルスランとリュドミラ」(1842)は、ロシアの詩人プーシキンの詩に基づくづく作品で、音楽にもロシア民謡が多く引用されている。グリンカはロシア国民楽派の創始者であり、彼の後にはボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフらが続いた。その一方で、1845〜47年に滞在したスペインのポピュラー音楽や舞踊に興味を持ち、その影響が「ホタ・アラゴネーサ」(1845)と「マドリードの夏の夜の思い出」(1851)という2曲の序曲に見られる。その他に、オーケストラ・ファンタジア「カマリンスカヤ」(1848)を始め、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲を作曲。1857年2月15日、ベルリンで死去。 没= ■ヘレン・ケラー(1968):アメリカの女流著述家・社会事業家。身体の三重のハンディキャップを克服して、障害を持つ人々を鼓舞激励した。1880年6月27日、アラバマ州タスカンビアに生まれ、1882年2歳(生後19ケ月)の時の高熱のため、目、耳、口が不自由になった。1887年7歳から、パーキンス盲学校のアン・マンスフィールド・サリバンから、読み書きの特殊教育を受け始めた。まもなく点字を習得、特注のタイプライターで書き方も覚えた。1890年には、わずか1カ月の練習で、話し方までマスターした。1903年に「ヘレン・ケラー自伝 私の青春時代」を出版。1904年ラドクリフ女子大学を優等で卒業後、視覚障害者のためのマサチューセッツ委員会で委員を務めた。1919年にサリバンと、4年間に渡りボードビル・ショーに出演した。1936年にサリバンが死去した。ケラーはサリバンの死後32年間生き、その間、障害者が自立できることを身をもって示した。1959年に「奇跡の人」がテレビで放映された。後に舞台と映画になった。1968年6月1日、コネティカット州ウェストポートで死去した。生涯を通じて視覚障害者アメリカ基金の募金活動に努め、またイギリス、フランス、イタリア、エジプト、南アフリカ、オーストラリア、日本などの諸国を回って講演した。平和主義者であり、社会主義運動にも積極的に参加した。第2次世界大戦後、アメリカの病院に傷痍(しょうい)軍人を見舞い、ヨーロッパでは身体障害者のために講演した。著書には「私の生涯」(1903)、「私の住む世界」(1908)、「暗闇から外へ」(1913)、「中流―私の晩年」(1930)、「私の宗教」(1940)、「教師、アン・サリバン・メーシー」(1955)、「オープン・ドアー」(1957)などがある。その生涯は、映画「征服されざるもの」(1954)と、アメリカの作家ウィリアム・ギブソン作の劇「奇跡の人」(1959年上演、1962年映画化)で取り上げられた。 ★気象記念日★電波の日★写真の日 ◆希望は人を成功に導く信仰である。(ヘレン・ケラー) ◆出(い)づる月を待つべし、散る花を追うことなかれ。(中根東里) ◆風立ちぬ、いざ生きめやも。(バレリー) |
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| 6月 2日 | 誕生= ■サド(1740〜1814):背徳的小説で知られるフランスの作家。通称マルキ・ド・サド(サド侯爵)、本名はドナシャン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。ペトラルカが愛を捧げたラウラの家系というプロバンス地方の貴族の子弟として、パリに生まれた。七年戦争に士官として参加。その後、司法官の娘と結婚したが、放蕩に耽り度々スキャンダルを起こして、男色などの罪で入獄。脱獄してイタリアに逃亡したこともある。1777年にパリに戻るが、捕らえられてバンセンヌの監獄に収監され、6年後にはバスティーユの監獄に、さらに89年にはシャラントン精神病院に移された。フランス革命とともに一時解放された(1790)ものの、恐怖政治時代に反革命の嫌疑で投獄され、さらにナポレオン体制下の1801年には好色小説出版のかどで逮捕される。監獄から監獄へとたらい回しにされた挙句、03年に再びシャラントン精神病院に監禁されると、74歳で死ぬまでここを出ることはなかった。旧体制下では放縦者として、革命期には反革命者として、帝政期には狂人として、結局サドは、生涯の3分の1以上、40年近くを監禁されて過ごした。したがって、サドの作品の多くは獄中で書き上げられた。主な作品には、美徳と悪徳の権化ともいうべき姉妹が対照的な運命を辿る「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」(1791)と「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」(1797)を始め、「アリーヌとバルクール」(1795)、「閨房哲学」(1795)、死後刊行の作品として、「ソドム百二十日」(1785執筆、1904刊)、「司祭と臨終の男との対話」(1782執筆、1926刊)などがある。なお対象に苦痛を与えることによって満足を得る性倒錯は、19世紀後半の性心理学者クラフト・エービングにより、サドの名に因んで「サディズム」と命名され、フロイトは、サディズムとマゾヒズムを人間存在の本源的欲動の2側面として位置付けた。 没= ■織田信長(1582):戦国期〜安土桃山時代の武将。尾張の戦国大名、のち天下人。幼名は吉法師。尾張の那古野城(名古屋市)城主、織田信秀の子として生まれる。その家系は、尾張守護代の清洲(きよす)織田氏の三奉行のひとつであった。1546年(天文15に元服して信長と名乗り、48年、美濃の斎藤道三と父信秀の同盟の証として道三の娘と結婚する。51年に父の病死で家督を継ぎ、55年(弘治元)、清洲城(愛知県清洲町)を奪って尾張半国を統一したが、56年に道三が子の義竜(よしたつ)と戦って敗死したため、美濃との同盟は破れた。1559年(永禄2)、もうひとつの尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼして、ほぼ尾張一国を統一した。60年に駿河(するが)の今川義元を桶狭間の戦で敗死させ、62年には今川氏の支配から独立した三河の徳川家康と同盟、この年または翌年、清洲から小牧(愛知県小牧市)へと本拠を移し、以後、美濃に侵攻する。この間の1559年には、京都に上って室町幕府13代将軍の足利義輝に謁見し、64年には密使を通じて正親町(おおぎまち)天皇の皇室領回復の要請を受けている。1567年、ついに美濃稲葉山城(岐阜市)を奪って斎藤氏を滅ぼし、ただちに尾張小牧から稲葉山城に本拠を移すと、城下の井ノ口を岐阜と改称した。この頃から「天下布武(ふぶ)」という印章を使い始めており、この印文と岐阜という地名の採用は、信長の天下統一の意志を表したものとされている。1568年、越前一乗谷の朝倉氏の元にいた足利義昭を美濃に招くと、義昭を奉じて京都に上り、義昭を15代将軍に就かせて室町幕府を再興した。しかし、信長は副将軍に就任して欲しいという義昭の要請を断り、朝廷と幕府の権威を微妙に操りながら、実質的な権力を握ったため、まもなく義昭との関係は悪化した。上洛に当っては、わずか数カ月の間にこれを阻む六角氏や三好三人衆などを駆逐して、近江(おうみ)と畿内を制圧し、上洛と前後して伊勢も制圧すると、2男の信雄(のぶかつ。のぶおともいう)を伊勢の北畠氏に、3男の信孝を神戸(かんべ)氏にそれぞれ養子として入れた。信長の勢力拡大を不満とする義昭は、武田信玄、朝倉義景、浅井長政、毛利氏、三好一党などの諸大名や、比叡(ひえい)山延暦寺、石山本願寺などの宗教勢力と手を結び、反信長派による信長包囲網作りを進めた。信長はこれに対抗して徳川家康に援軍を頼み、1570年(元亀元)、浅井、朝倉両軍を近江姉川の戦で破ると、71年には浅井、朝倉両氏に味方した延暦寺を焼き討ちした。この焼き討ちでは、叡山にいた僧俗男女3000〜4000人を皆殺しにしたという。72年、甲斐(かい)の武田信玄が上洛の軍を起こして家康の領国へ侵攻、遠江(とおとうみ)三方原(みかたがはら)の戦で織田・徳川連合軍は完敗したが、まもなく信玄が病死したため武田軍は引き返し、信長と家康は事なきを得た。73年(天正元)には近江の小谷(おだに)城(滋賀県湖北町)を落として浅井氏を滅ぼし、その足で越前一乗谷まで進んで朝倉氏も滅ぼすと、畿内に戻り、槙島(まきしま)城(京都府宇治市)に兵を挙げた義昭を追放して、事実上室町幕府を滅ぼした。1575年、三河長篠の戦で、信長は武田信玄の子勝頼の率いる武田軍を鉄砲隊を使って破り、東からの最大の脅威だった武田氏を封じ込めることに成功した。翌76年には天下統一の拠点とするため安土城の造築を始め、織田家の家督と岐阜城を長男の信忠に譲ると、安土へと移る。77年以降は、羽柴(豊臣)秀吉を中国攻めに向かわせ、毛利氏領国への侵入を開始した。最も頑強に抵抗した石山本願寺との対決は、1570年から始まったが、伊勢長島、越前などの一向一揆を皆殺しにして滅ぼし、信長から離反した別所長治や荒木村重らの武将を次々に討って、本願寺を孤立させた。本願寺に味方する毛利水軍との木津川河口の戦では、鉄板で装甲した巨大な軍船を作って大勝し、大阪湾の制海権を握った。80年についに石山本願寺と講和、石山から顕如(けんにょ)を退去させ、11年間に渡る石山戦争を終わらせた。この石山本願寺の屈伏により、信長の畿内平定は完成した。翌1581年には京都馬揃(うまぞろえ)を挙行したが、そこには旧幕府系の武将や公家たちも参加しており、単なる軍事パレードではなく、織田政権の偉容をしめす一大イベントであった。1582年(天正10)は、信長にとって大きな飛躍の年だった。まず、同年3月、武田勝頼配下の木曽義昌や穴山梅雪(あなやまばいせつ)が信長側に寝返ったのをチャンスとして、信長と徳川家康は一気に武田領国へ侵攻、甲斐天目山(てんもくざん)の田野(たの:山梨県大和村)に勝頼を滅ぼした。これによって、信長は領土を信濃、甲斐、駿河から関東の上野(こうずけ)西部にまで広げ、ほぼ本州の中央部を征服した。 武田氏を滅ぼした帰り道、信長は家康の領国を通り、家康の接待を受けながら悠々と凱旋(がいせん)した。5月にはその返礼として家康と穴山梅雪を招き、安土城や堺などの見物、安土城での能の上演などで2人を接待した。また、5月には3男の神戸信孝に四国遠征を命令、その四国遠征軍は、5月末〜6月初めに大阪湾岸の諸港に集結した。その一方、それまで羽柴秀吉に任せていた備中での毛利氏との戦いに決着を付けるため、5月、明智光秀に中国出陣を命じ、6月自ら出陣する途中、京都の本能寺に宿泊した。武田氏の滅亡に続く、四国遠征と対毛利戦の行方は、この年、信長の領土が一気に拡大しただろう事を予想させる。しかし、6月2日未明、信長は家臣の明智光秀に宿所本能寺を奇襲され、覇業半ばで自殺した。同時に長男の信忠も二条御所で敗死し、織田政権は滅んだ。 ■松平慶永(1890):(まつだいらよしなが)幕末の福井藩主。隠居後の号は春嶽。御三卿(ごさんきょう)のひとつ田安斉匡(なりまさ)の8男として江戸に生まれ、1838年(天保9)将軍徳川家慶に命じられ福井藩主となる。名君として家臣から慕われ、中根雪江・橋本左内らを登用し、儒者横井小楠を招いて藩政改革に努めた。水戸藩主の徳川斉昭、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内豊信ら開明的な大名とも交流している。1853年(嘉永6)のペリー来航に当っては攘夷論を唱えたが、のちに開国論者となる。将軍継嗣問題では、一橋派の中心として一橋慶喜(よしのぶ)を将軍後継に推すが敗れ、安政の大獄で隠居謹慎を命じられた。春嶽は隠居後の号。井伊直弼暗殺後に謹慎が解かれてほぼ大老職に相当する政事総裁職につき、幕政の刷新に当った。慶喜が将軍になってからは、尊皇攘夷派に対抗して公武合体派の有力大名として、慶喜擁護と徳川家存続のため力を尽くし、幕府と朝廷から調停者として期待されたが、戊辰戦争が始まって慶永の努力は報われなかった。明治新政府では民部卿・大蔵卿などを歴任したが、1870年(明治3)に辞任してからは文筆活動に専念。著作には「逸事史補」「幕儀参考」「徳川礼典録」などがある。1890年(明治23)6月2日63歳で死去した。 ★横浜開港記念日 ★本能寺の変=1582年(天正10)6月2日、明智光秀が京都の本能寺で織田信長を襲撃して自殺させた事件。 ◆人間五十年、化天(けてん)[化楽天:ここに生まれると八千歳の長寿を保つという楽土]の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。(織田信長) ◆人城を頼らば、城人を捨てん。(織田信長) |
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| 6月 3日 | 誕生= ■佐々木信綱(1872〜1963):歌人、国文学者。父弘綱が鈴屋(すずのや)系統の国学者、歌人であったことから、幼少より作歌と古典研究に励んだ。竹柏(ちくはく)会をつくり1898年(明治31)に機関誌「心の花」を創刊。このころ森鴎外の観潮楼歌会に参加して、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉らと知りあう。この間、第1歌集「思草」(1903)を始め、斬新(ざんしん)な歌風の「新月」(1912)、「常盤木(ときわぎ)」(1922)などを刊行する。また、「広く、深く、おのがじしに」と個性尊重を標榜(ひょうぼう)した「心の花」からは、川田順、木下利玄(りげん)、九条武子ら多くの歌人を輩出した。その後の「山と水と」(1951)、「佐佐木信綱歌集」(1956)などには、その作歌人生が集大成されている。一方、国文学者、特に万葉学者としても大きな成果を上げた。「元暦(げんりゃく)校本万葉集」の発見から、橋本進吉、久松潜一らと協同しての「校本万葉集」(1924〜25刊。1911〜12増補刊)の完成、「新訓万葉集」(1926)、「評釈万葉集」(1948〜54)などが代表的著作である。万葉集研究のほかにも「日本歌学史」(1910)、「国文学の文献学的研究」(1935)など多くの業績を残した。第1回文化勲章を受章。 没= ■カフカ(1924):1883年7月3日、チェコ生まれのドイツ語作家。彼の長・短編小説は、不安を掻き立てる象徴性に富んでいて、20世紀後期の苦悩や絶望感を予知したかのようなフィクション性を持っている。カフカは、現代世界の文学者の中でも、極めて暗示性に富んだ作家のひとりとされ、グロテスクなもの、不安をもたらすような社会条件一般やその文学的表現をいうとき、「カフカエスク(カフカ流)」の語が用いられる。オーストリア・ハンガリー二重帝国治下のプラハで、中産階級のユダヤ人家庭に生まれた。商人だった父は、極めて権威主義的な人物で、この父の存在は終生カフカに閉塞感をもたらし、作品にも大きな影を投げ掛けた。「父への手紙」(1919)は、彼の劣等意識と父性拒否の感情をよく表している。しかしカフカは、何人かの女性と恋愛したものの結婚には至らず、結局、生涯の大半を実家の家族の元で過ごした。1912〜17年にかけて婚約と解消を繰り返したドイツ人女性フェリーツェ・バウアーとの曲折にとんだ交際は、「フェリーツェへの手紙」(1967。死後出版)で明らかになっている。プラハ大学で法律を学び、1908年から労働災害保険局に勤務し、余暇をみつけて執筆をした。この二重生活のもたらす緊張が、生来の不安症や憂欝(ゆううつ)症に重なり、17年には結核を患って、遂に1924年6月3日、、ウィーン郊外キーリングのサナトリウムで息を引き取った。「変身」「流刑地にて」。なお、カフカは、自分の死後、未刊の原稿を全て焼却してくれるように願ったにもかかわらず、友人で、後に彼の伝記も書いたユダヤ系ドイツ人作家マックス・ブロートは、約束に反してそれらを公にした。この死後出版によって、カフカの名声は不動のものになった。その中には、現在最もよく知られている「審判」、「城」、「アメリカ(改訂版「失踪者」)」の3大長編作品も含まれている。 ■アマデオ・P・ジアニーニ(1949):1870年5月6日、カリフォルニア州サンノゼで生まれた。両親はイタリアのジェノアからの移民だった。1904年継父と友人10人から15万ドルを調達して、バンク・オブ・イタリーを設立して、労働者を支援した。1906年4月18日早朝、サンフランシスコ大地震が発生した。後の混乱の中、多くの銀行は営業を休んで損害を整理しようとしたのとは異なり、APと呼ばれた男は、サンフランシスコ市内のノースビーチ近くの埠頭で素早く商売を再開した。小規模の事業主や個人に「顔とサインで」生活の立て直しに必要な資金の信用貸しを始めた。1919年にバンクイタリー・コープを設立し、州全体への拡大の足掛かりとした。1928年ニューヨークの老舗銀行バンク・オブ・アメリカを買収し、膨大な銀行資産を統合させた。1945年にはバンク・オブ・アメリカが全米最大の銀行となった。1949年6月3日、カリフォルニア州サンマテオで死去した。79歳。住宅ローン、自動車ローンなどを考え出した。 ★1965年3月23日に有人の3号(飛行時間4時間53分)が打ち上げられ、有人宇宙船として初めて軌道変更を行った。同年6月3日に打ち上げられた4号(飛行時間97時間56分)では、エドワード・ホワイト宇宙飛行士がアメリカ人で初の宇宙遊泳を22分間行った。 ★世界に衝撃を与えた天安門事件=1989年の春、民主化を求める学生、一般市民がペキン(北京)の天安門広場で連日、10万人規模のデモを繰り広げた。5月29日には、彼らは要求のシンボルとして高さ約10mの「民主の女神」像を建てた。この学生たちの民主化運動を「反革命暴乱」と決め付けた中国政府は、6月3日深夜から4日未明にかけて、人民解放軍を天安門広場に出動させてデモ隊を鎮圧した。これがショッキングな事件として世界の注目を集めた「天安門事件」である。数百人のデモ参加者が死亡し、少なくても3000人以上が負傷した。 ★1853年(嘉永6)6月3日午前10時ごろ、城ヶ島沖を北上する4隻の黒船を、東岡村の漁師林蔵が最初に発見した。林蔵が沿岸警備の彦根藩山下藤兵ヱに知らせたのが、黒船来航の第一報となった。黒船はそのまま江戸湾に入り、浦賀沖に停泊した。アメリカ大統領フィルモアの親書を徳川幕府に手渡し、開港を迫るため空砲を放ち圧力を加えた。 ◆人間には他のあらゆる罪悪がそこから出てくる二つの主な罪悪がある。すなわち短気と怠惰。(カフカ) ◆真実のない生というものは有り得ない。真実とは多分生そのもののことなのだろう。(カフカ) |
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| 6月 4日 | 誕生= ■ケネー(1694〜1774):フランスの経済学者。重農主義学派の創始者。地主の息子として、パリ近郊のメレに生まれた。パリ大学医学部などで外科医術を学び、1718年に開業、後にパリに出て王立外科学会の常任書記となり、内科に比べて低かった外科の地位向上に努めた。49年にルイ]X世の妃ポンパドゥール夫人の侍医となり、ベルサイユ宮殿の彼の居室には、ミラボー、デュポン・ド・ヌムールらの経済学者やディドロ、ダランベールら百科全書派の思想家など、多彩な人物が出入りした。経済学に深い興味を抱くようになっていたケネーは、1756〜57年に「百科全書」に経済論文を寄稿、さらに58年に「経済表」を出版した。その中でケネーは、商業と工業は本質的に非生産的であり、唯一農業のみが富を増加させうると主張し、重農主義経済理論を確立した。この背景には、工業がまだ発達しておらず、重商主義政策の欠陥が明らかになったことがあげられ、ケネーが労働ではなく自然が富を生みだすものと考えたこともあった。ケネーら重農主義派は、経済法は国富の繁栄を阻害することなく作用するものでなければならないと主張し、早くから自由放任主義政策の提案を行った。 没= ■最澄(822):平安仏教の代表的人物で、空海と並び称せられる日本仏教界の指導者。最大の功績は比叡山において、日本天台宗を開創したこと。諡号(しごう)は伝教大師。近江(おうみ)国に渡来人の子孫三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、幼名は広野といった。12歳のとき近江国分寺の行表(ぎょうひょう)の元に弟子入りし、出家して名を最澄と改めた。785年(延暦4)4月東大寺で受戒したが、同年7月突然比叡山に上って修行生活に入った。788年に草庵を構えて薬師如来を安置し、793年堂舎を整備して一乗止観院(のちの根本中堂)と称した。そして多くの経典を学ぶうち、天台教学に魅かれるようになった。797年(延暦16)最澄は内供奉(ないぐぶ)十禅師に加えられ、翌年比叡山で法華経の経典を講説する講会(こうえ)を始め、802年には南都の十大徳とともに高雄山寺で天台を講じた。804年7月、桓武天皇の天台振興の志を受けて、遣唐使とともに短期留学僧として渡唐。台州や天台山で、中国天台7祖の道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台の教えを、さらに越州の順暁(じゅんぎょう)から真言密教の法を受け、またしゅく然(しゅくねん)から禅法を学んで、翌805年5月230部460巻に及ぶ経巻を携えて帰朝した。帰国後、天台の教学を諸学僧に伝授し、秘密灌頂を授けた。806年、天台宗からも毎年正式な僧2人を出すことを朝廷に申請し、正式に認められた。これは天台宗が南都六宗に並んで、国家の宗教として公認されたことを意味していた。最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺に赴いて空海から灌頂を受け弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国に行き、翌815年には関東地方を巡行した。この頃、会津にいた法相宗の学僧徳一が「仏性抄」を著して天台宗を批判したため、最澄は817年「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」を書いて、これに反論した。以後天台宗と法相宗の教義を巡り数年に渡って論争が続けられた。徳一は人間には小乗の教えに立つ人、大乗の悟りを開く人、悟りを開くことのできない人の区別があるという三乗思想を主張した。これに対して最澄は、小乗の教えも大乗に導くための方便であって、仏教によってすべての人が悟りを開けるという一乗思想を展開した。最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家を守ること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒を受けるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなければならなかったため、最澄は「山家学生式」を提出して比叡山に大乗戒に基づく戒壇を建設する許可を朝廷に願い出た。これは南都仏教側からの猛烈な反論を受けたが、彼は「顕戒論」(3巻)を著して逐一反駁(はんばく)するなど、大乗戒壇の設立に全精力を傾けた。しかし、彼の生前にはその努力は実らず、最澄は822年比叡山の中道院で亡くなった。結局大乗戒壇設立の許可が下りたのは、没後7日目のことであった。 ★歯の衛生週間 ◆農夫貧しくて、王貧し。(ケネー) ◆地上にもてはやされる人間は長続きしない。けだし流行は移り変わるからである。(ラ・ブリュイエール) ◆流行とは、賢い人々が嘲笑しながらも服従するところの専制君主である。(ビアス) |
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| 6月 5日 | 誕生= ■ジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946):イギリスの経済学者。1883年(カール・マルクスが亡くなった年)の6月5日、イングランドのケンブリッジに生まれた。父親はケンブリッジ大学の著名な経済学者だった。母親はケンブリッジの市長になった。1915年英国大蔵省での仕事に就いた。1919年、パリ講和会議の代表団に入り、同年ケンブリッジに帰り、教職に就いた。「平和の経済的帰結」を発表した。1929年のアメリカの株価大暴落に端を発した世界的な大恐慌のもとでイギリスにおいても失業問題が深刻化してくると、失業対策としての政府の公共投資の役割の重要性を主張し、1936年に不朽の名著「雇用・利子および貨幣の一般理論」を著した。ここで、マーシャルらそれまでの正統的古典派経済学を痛烈に批判し、新たな観点からマクロ経済分析の必要性を説いたもので、その経済学に与えた衝撃は、経済学史上ケインズ革命とよばれている。それは古典派経済学が暗黙のうちに前提としていたセイの法則を否定し、産出量すなわち国民所得の大きさは有効需要の水準によって決定されるとする有効需要の原理を基礎として、失業の原因を明らかにしその処方箋(せん)を示したものである。民間の自由な経済活動が失業の解消を含む資源の最適配分を実現するという古典派の完全雇用均衡の考え方に対して、ケインズは、有効需要の不足が原因となって失業者が存在しても経済は均衡する(不完全雇用均衡)のであり、従って、失業の解消には、公共投資の増加など有効需要を拡大するための公共当局の積極的介入が必要になると主張した。彼の創始した新しい経済学はその後ケインズ経済学とよばれたが、その影響はあらゆる経済学の考え方に及んでいる。ケインズは第2次世界大戦に際しては大蔵大臣顧問を務め、1941年イングランド銀行理事に就任した。1942年、ケインズ・オブ・ティルトン男爵の称号を得た。1944年には、戦後の通貨体制のあり方を決定するためのブレトンウッズ連合国通貨会議にイギリス代表として参加、ケインズ案を提示した。しかし、アメリカのホワイト案に破れ、IMF(国際通貨基金)が成立した。1945年、IMFおよびIBRD(国際復興開発銀行)の総裁に就任したが、1946年4月21日イングランドのファールで急逝した。 没= ■オー・ヘンリー(1910):アメリカの作家。ノースカロライナ州グリーンズボロに生まれる。10代半ばで退学し、1882年にテキサス州へ移って様々な職場で働いた。98年、銀行勤務中に犯した横領罪で有罪判決を受け、3年間刑に服した。出所後はニューヨークに住み、大衆雑誌におびただしい数の短編小説を発表し始めた。労働者を描いた物語には、生き生きとした細部描写、鋭い機知、絶妙な語り口を見ることができる。代表作「賢者の贈物」(1906)が示すように、偶然の一致と状況の急転回によって意外な結末を向かえるところに作品の特徴があり、現在に至るまで幅ひろい読者を惹きつけている。肺病の女性と善意の画家を描いた「最後の一葉」、幻の酒をテーマにした「失われた混合酒」なども名高い。数百編の物語をまとめた13の短編集の中でも有名なものに、「四百万人」(1906)、「優しき働き者」(1908)、「オプション」(1909)などがある。 ★世界環境デー ★国連環境計画(United Nations Environment Programme)=1972年の国連人間環境特別会議(別名、ストックホルム会議)で採択された「人間環境宣言」や「環境国際行動計画」を実施するために設立された国際連合の機関。略称UNEP(ユネップ)。毎年6月5日は、ストックホルム会議を記念して「世界環境の日」となっている。 ★ドイツ軍部隊がパリに入城=1940年6月5日、ドイツ軍がフランスへの進撃を開始した。両軍の戦力は、兵力と戦車の数ではほぼ互角だったが、航空機の数ではドイツ軍が勝っていた。電撃戦によってフランス軍は足並みを乱されて撤退し、6月14日にドイツ軍がパリに入るとフランス政府は降伏した。一方、ド・ゴールに率いられた抗戦派は、戦いを継続する決意を表明した。 ★ニュートリノ国際会議’98(Neutrino '98)=1998年6月5日、岐阜県高山市で開催されたニュートリノの国際会議で、日米の共同研究グループは、謎の素粒子ニュートリノに質量がある確証を得たことを発表した。この発見は90年代の物理学にとって最も重要な突破口ともいわれ、これまでの宇宙論の見直しを迫るものとなった。 ★ニュートリノ観測装置、スーパーカミオカンデ=世界最大のニュートリノ観測装置。高さ41.4m、直径39.3mの大きさを持つこの観測装置は、岐阜県の神岡鉱山の地下深くにある。2槽に分かれた水槽に、合計5万tもの純水が蓄えられ、それらの内部は合計1万3000本の8インチ光電子増倍管で覆われている。この光電子増倍管により、電荷をもつ素粒子が純水中を通過する際に発する、微弱な青白いチェレンコフ光を捕らえ、光の強度や方向などから素粒子の反応を観測する。1996年(平成8)4月から観測を開始、その結果1998年6月5日には素粒子ニュートリノに質量があることが立証された。今後も、ニュートリノ宇宙物理学や大統一論などの検証に、大きな威力を発揮することが期待されている。 ★池田屋事件=幕末期、新選組が尊攘派の志士を襲撃した事件。当時、公武合体が思うように進展しないため、長州藩を始めとする尊攘派の志士たちが京都に潜入し、勢力挽回(ばんかい)の機会を伺っていた。一方、京都守護職松平容保の指揮下にあった新選組は、そうした動きを察知するため内偵を進めていた。そのひとり新選組の山崎蒸は、薬の行商人を装って志士の出入りする河原町三条の池田屋に入り、そこで四条寺町の枡屋喜右衛門が志士であることを掴んだ。1864年(元治元)6月5日、喜右衛門をとらえ拷問に掛けたところ、市中放火の混乱に紛れて松平容保らを襲い、天皇を萩へ連れ去る計画のあることが明らかになった。喜右衛門の逮捕はすぐに志士たちに伝わり、肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)、萩の吉田稔麿(としまろ)ら30人ほどの志士が池田屋に集まっていたところ、午後10時過ぎ、近藤勇に率いられた新選組30人が襲い、激闘となった。志士は7人が死亡、23人が捕らえられた。事件後、新選組の名声が上がり、一方で尊攘派を一層奮起させることになり、7月の禁門の変の引き金となった。このとき木戸孝允は、池田屋に来るのが早く、対馬(つしま)藩邸に向かったため事件を逃れている。 ★ロバート・ケネディ=1968年6月5日、兄のケネディ大統領と同じく銃弾に倒れた。 ★ミッドウェー海戦=太平洋戦争初期に、中部太平洋のミッドウェー諸島周辺海域で行われた日米両機動部隊による海戦。この海戦を境に戦争の主導権はアメリカに移った。防衛ラインの拡大とアメリカ機動部隊の撃滅を狙った日本は、1942年(昭和17)6月5日、航空母艦4隻を基幹とする47隻の機動部隊で、ミッドウェー諸島にあるアメリカ軍の陸上基地を攻撃した。しかし索敵活動を軽視したため、すでに作戦を察知していたアメリカ機動部隊の発見が遅れ、アメリカ艦載機の急降下爆撃による急襲を受けて大きな被害を被った。 ◆女が一人で居るときどのように時を過ごすものなのかを、仮に男が知っていたとするならば、男達は決して結婚などしないであろう。(オー・ヘンリー) ◆自由こそ、高度の教養が芽生えてくる土壌である。(フィヒテ) ◆真の意味に於ける自由とは、全体の中にあって、適切な位置を占める能力のことである。(福田恒存) |
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| 6月 6日 | 誕生= ■トーマス・マン(1875〜1955):ドイツの作家。20世紀前半に活躍した最も偉大な文学者のひとり。1875年6月6日、北ドイツの商業都市リューベックの古い商人の家に生まれる。兄のハインリヒ・マンも作家となった。父親が亡くなると、家族とともにミュンヘンに移り、作家としての歩みを始める前に、ミュンヘンの保険会社や風刺新聞「ジンプリツィシムス」の社員として働いた。19歳の頃から創作を始めたが、2人のドイツ哲学者、ショーペンハウアーとニーチェ、作曲家ワーグナーの影響を受けた。「ブデンブローク家の人びと」「トニオ・クレーゲル」「ベニスに死す」「魔の山」「無秩序と幼い悩み」「マーリオと魔術師」「ヨゼフとその兄弟たち」「ファウスト博士」「選ばれし人」「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」「非政治的人間の考察」。1929年に「ブデンブローク家の人びと」を主な対象としてノーベル文学賞を受賞したが、33年にヒトラーが政権を取ると、国外に講演旅行に出てそのまま亡命した。初めはスイスに逃れ、36年にドイツ市民権を剥奪されると、38年にアメリカに渡り、44年にはアメリカの市民権を得ている。第2次世界大戦終結後、52年には再びスイスに戻ってチューリヒに居を定め、55年8月12日にそこで世を去った。なお、反ナチズムの活動で知られる作家のクラウス・マン、歴史家のゴーロ・マンは息子、作家で俳優のエリカ・マンは娘である。 ■プーシキン(1799〜1837):ロシアの詩人、作家。叙事詩、抒情詩、戯曲、小説、短編小説などによってロシア文学とロシア標準語の基礎を築いた。1799年6月6日(ロシア暦で5月26日)、モスクワの貴族の家庭に生まれる。「ルスラーンとリュドミーラ」「カフカスの捕虜」「バフチサライの泉」「ジプシー」「エフゲーニー・オネーギン」「ボリス・ゴドゥノフ」「ポルタワ」「青銅の騎士」「大尉の娘」「スペードの女王」。1837年2月8日(ロシア暦では1月27日)、妻に言い寄っていた青年士官と決闘して致命傷を負い、その2日後、37歳の短い生涯を閉じた。 没= ■ユング(1961):分析心理学の創始者。スイスに生まれ、チューリヒ大学で精神医学を修め、後に精神分裂病研究で著名になるブロイラーのスタッフになってその指導を受けた。このことは、ユングがフロイトと異なって分裂病をベースに理論を組み立てていった理由のひとつになっている。その後、ヒステリーの意識下固定観念の研究で有名なフランスのジャネの元で学び、またフロイトの著作に感銘を受けて、1907年のウィーン精神分析協会に参加してフロイトと出会い、国際精神分析学会の創設にアドラーとともに貢献して、その初代会長となった。当時ユングは既に自らが考案した言語連想テストによって無意識の存在を認識し、コンプレックス(心的複合)という考えを持っていた。だからこそフロイトに接近したのであり、またフロイトもユングのそれらの業績を高く評価したのであったが、まもなく両者の考えが基本的なところで相違することが判明し、出会いから僅か6年後の1913年にユングはフロイトと訣別する。その理由のひとつは、フロイトがリビドーを性的なもの(反理性的なもの)と見なしたのに対し、ユングはもっと一般的な心的エネルギーと見なした点である。さらに無意識に対しても、フロイトのように快感原則に支配された反理性的なものとは考えず、むしろ意識を補償する積極的、肯定的な機能をもったものと見なす一方、個人的無意識と並んで人類に普遍的な集合的無意識を仮定したことである。特に後者は神話、昔話、夢に現れてくると考え、それらの研究から後に元型(アーキタイプ)という考えが導かれた。例えば、グレートマザー、影、アニマ、アニムス、ペルソナなどである。ユングは自らの立場を分析心理学とよび、夢分析や転移の解釈などについても、フロイトのように分析者が合理的、理性的な態度によって一方的に与えるものとは考えず、むしろ患者への共感的な態度のもとで、その解釈の内容を患者と共に吟味する姿勢が重要であることを指摘している。ユングは「補償」の考えを背景に東洋思想や神秘主義にも興味と理解を示し、そのこともあって、その学説は文学を始め多方面の人文科学に影響を及ぼしている。 ■ロバート・ケネディ(1925〜1968):アメリカ合衆国の政治家。第35代大統領ジョン・F.ケネディの弟。マサチューセッツ州ブルックラインに生まれ、ハーバード大学とバージニア大学で学ぶ。1951年、司法省刑事局の弁護士となったのち、1955〜57年に上院特別委員会の主任法律顧問を務め、全米トラック運転手組合(チームスターズ)指導者の腐敗を追及して脚光を浴びた。1960年、兄の大統領選挙で選挙参謀として活躍、翌年、司法長官に任命され、人種差別廃止のための強力な公民権法制定を積極的に推進した。1964年にはニューヨーク州の上院議員に選出され、スラムの貧困者救済問題に取り組んだ。1968年春、民主党の大統領候補として選挙活動を始め、同年6月5日カリフォルニア州予備選挙で勝利。ロサンゼルスでの祝勝会の帰途、狙撃されて翌6日に死亡した。 ★大正池=1915年(大正4)6月6日の焼岳大爆発により発生した泥流によって、梓川が堰き止められて誕生した。形成当時は面積が約0.4km2あり、池は田代橋付近にまで及んでいたと言われる。昭和初期、池を発電に利用することになり、水位を人工的に維持する堰堤(えんてい)や下流域に霞沢(かすみざわ)発電所が作られた。 ★第2次世界大戦中に連合軍がノルマンディに上陸した1944年6月6日は、現代戦争史上特に有名なDデーである。 ★西部戦線ではアイゼンハワーを最高司令官とする連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始されていた。1944年6月6日に上陸したアメリカ、イギリス、カナダからなる連合軍はフランス北部のノルマンディ海岸に上陸した。ドイツ軍を打ち破って海岸橋頭堡(きょうとうほ)を固めた。ドイツは、イギリス海峡が最も狭くなるカレーから侵攻してくると予測していたので、ノルマンディ上陸に不意をつかれた。ドイツは激しく抗戦したが、その日の夜には5カ所の海岸のすべてが連合国軍によって占領された。6月末までに兵員85万人、車両15万台を陸上げしてパリへの進撃を開始した。海上輸送による史上最大の進攻作戦だった。 ★キャパ= ハンガリー出身の写真家ロバート・キャパは、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦を写真に捕らえた―「ノルマンディ上陸作戦、1944年」。キャパは戦争写真を主体とする報道カメラマンとして有名で、技術的に凝った作品よりも、歴史的な瞬間を記録することに努めた。生涯に渡って戦争の写真を撮りつづけ、1954年インドシナ戦争取材中に地雷に触れて死亡した。 ◆無名と貧窮の歳月、実はこの歳月こそ、最も実り豊かな時代であったのだ。(マン) ◆決定を焦ってはならない。一晩眠ればよい知恵が出る。(プーシキン) ◆箴言(しんげん)とか格言とかいうものは、われわれがどう釈明していいか困っている時、驚くほど役に立つものである。(プーシキン) |
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| 6月 7日 | 誕生= ■ゴーギャン(1848〜1903):フランス後期印象派の画家。装飾的効果に富む表現力豊かな色彩や、平面性を強調した形態、主題の独自性などによって、現代美術に大きな影響を与えた。共和派のジャーナリストを父に、中流家庭の子としてパリに生まれた。家族と南米ペルーで4年間過ごした後、1855年に帰国。商船の船員を経て、パリで株式仲買人として成功を修め、妻と5人の子供を得て、快適で裕福な生活を営んだ。1874年にピサロと出会い、第1回印象派展を見てからは、絵の収集家・日曜画家として絵に情熱を傾けるようになった。76年、79〜82年、86年の印象派展に出品し、83年には画業に専念するために仕事を辞め、安定した暮らしを放棄した。十分な生活費を得られなくなった妻は、子供を連れて実家に戻ることを余儀なくされた。1886〜91年、ブルターニュ地方の鄙びた小村ポンタベンに滞在し(この間、87〜88年にパナマとマルチニーク島へ旅行)、そこで新しい表現様式の実験を試みる画家グループの中心的存在となって、ポンタベン派を形成した。エミール・ベルナールの影響で、印象主義を否定し、単なる自然の再現ではなく、そこに内面的・理念的世界を打ち出して、象徴的内容を表現する総合主義を展開した。中世のステンド・グラスや日本の浮世絵版画、文明から遠く離れた土着の素朴な芸術などに霊感を得た。浮世絵版画への造形的関心は、1888年に南仏アルルで、ゴッホと2カ月間共同生活するうちに生じたものであった。彼の新しい表現様式は、「黄色いキリスト」(1889)などの、非自然主義的色彩による、大きく平坦な色面と太い輪郭線に示されている。1891年、ヨーロッパ文明の「人工的で因習的なすべてのもの」から逃れるために、南太平洋の島に向けて旅立ち、93〜95年にかけて一時帰国したものの、生涯南国に止まった。最初はタヒチ島に滞在し、後にマルキーズ諸島に移っている。彼の表現主義的な色彩、平板な形態、遠近法の否定といった独自性は、そこでもほとんど変化せず保持された。一方では、エキゾティックな南国を舞台にポリネシア文化の影響も受け、画題はより独創的となり、構図は更に単純化し、一層力強い造形性を示すようになった。主題は「タヒチの女(浜辺にて)」(1891)のような日常生活の情景から、「死霊がみている」(1892)のような迷信からくる恐怖を描いた一連の作品まで幅広くある。代表作「われわれはどこから来たのか、われわれは何か、われわれはどこへ行くのか」(1897)は、寓意的内容を含んだ記念碑的大作であり、彼はこれを自殺未遂をはかる直前に描いた。死に至るまでの生活はパリの画商からのささやかな送金によって支えられていたが、1903年5月9日マルキーズ諸島アトゥオナで死去した。 没= ■西田幾太郎(1945):(にしだきたろう)明治、大正、昭和期の哲学者。1911年、禅の体験から洞察された心の深奥を西洋哲学の言葉で表現した哲学書「善の研究」を著し、独創的な哲学者として注目される。西田哲学とよばれるその体系は、真に実在するものは主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」であるとし、そこから人間存在と宇宙の根本的実在との一体性を説く。40年(昭和15)文化勲章を受章。「思索と体験」「自覚に於(お)ける直観と反省」「無の自覚的限定」。 ■アラン・チューリング(1954):イギリスの数学者。数値解析およびコンピューターの基礎理論の分野で、多くの独創的な研究を行った。いわゆる情報科学の創始者のひとりで、初めて計算機がどこまで理論的に動作できるかを実験し、更に「知的な機械」としての人工知能の可能性を示したことで知られる。1912年6月23日、ロンドンに生まれ、13歳のときシャーボーン・スクールで学んだ。この時、自分がホモセクシュアルであることを自覚し、生徒の一人に恋をした。1931年から35年、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに入学し記号論理学を学び、1935年に学士号を取得した。1936年には、ガウスの誤差関数の研究で数学のスミス賞を受賞した。同年渡米し、プリンストン大学で2年間に渡って研究を行った。1937年に「計算可能関数と決定問題への応用」と題する論文を発表し、今日のコンピューターの基礎になる仮想的な機械(チューリング機械)を提示した。これは数理論理学とコンピューター理論に発展する画期的な論文であった。1938年に学位を取得後、イギリスに帰国。第2次世界大戦中の1939年から1945年はイギリス外務省暗号局に勤め、ナチスのエニグマ暗号の解読に貢献し、その業績により勲章を受けた。戦後は、国立物理学研究所でACEという自動コンピューターの設計プロジェクトに参加するが、1947年にはケンブリッジ大学へ戻り、1948年からマンチェスター大学の計算理論の講師を勤めた。1950年には「マインド」誌に掲載された論文で、人工知能の実現を予測し、1951年に王立協会会員となった。1952年、当時のイギリスでは同性愛は重罪で、チューリングは同性愛行為によって裁判に掛けられ、「重大なる猥褻行為」の罪を宣告された。執行猶予にはなったが、性欲を抑制するという名目で女性ホルモンを注射された。チューリングは、コンピューターの知的能力をテストする方法として、後にチューリングテストとよばれる手法を提案した。これは、隔離されている2つの部屋に、コンピューターと人間を入れ、ケーブルで接続された質問者から、コンピューターと人間の双方に同じ質問をする。回答は、すべてプリンターに出力され、形式だけでは判別できないようにしてある。質問者に返される回答が適切で、コンピューターからのものか人間からのものかが判定できないとき、コンピューターが人間のように考えていると定義した。その他、コンピューターの知的な動作のひとつとして、チェスをさせることにも熱心だった。そうしたところから、今日AI(人工知能)とよばれるコンピューター科学の一分野の開祖とも見られている。晩年は、特に生物の形態形成に大きな関心を持ち、対称構造の進化や牛の斑(まだら)模様の発達を微分方程式で示すなど、化学反応の数学的理論の組み立てについてユニークな研究を続けたが、1954年6月7日、自宅で青酸カリをまぶした林檎を食べて41歳で死亡した。彼の名を冠したチューリング賞は1966年に創設され、世界最大のソフトウェア学会であるACM(Association for Computing Machinery)が、情報科学分野で優れた業績を挙げた研究者に与える、最高の賞とされる。 ◆個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。(西田幾多郎) ◆人間は神にもなれずさりとて悪魔となりて満足することも出来ず、つまり五里夢中に彷徨する哀れな生き物である。(西田幾多郎) ◆わが心深き底あり、喜びも、憂いの波も、届かじと思う。(西田幾多郎) ◆唯一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい。(西田幾多郎) ◆花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。(西田幾多郎) |
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| 6月 8日 | 誕生= ■ロバート・アレキサンダー・シューマン(1810〜1856):ドイツの作曲家。19世紀前半のロマン主義運動の主要音楽家。ザクセンのツビッカウに生まれる。ライプツィヒ大学とハイデルベルク大学で法律を学ぶ。書籍商の子として、幼い頃から文学に親しみ、特にジャン・パウルらのロマン主義文学や、カントなどの哲学書を愛読した。1830年、法律の勉強を捨て、音楽で身を立てる決心をする。ドイツの音楽教師ビークにピアノを学ぶが、無理な練習が祟って右手の指を痛め、ピアニストになる夢を断念する。以後は作曲に力を注ぎ、音楽評論の執筆を始めた。34年、雑誌「音楽新時報」を創刊。44年まで編集に携わり、フロレスタン、オイゼビウスなどのペンネームでショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズら、当時の新進音楽家を紹介した。40年、師ビークの娘でピアニストのクララ・ヨゼフィーネと結婚した。1843年、メンデルスゾーンが創設したばかりのライプツィヒ音楽院の講師に招かれるが、自らの気質が教職に向いていないことを自覚し、まもなく辞任。50年にはデュッセルドルフの音楽監督に指名されたが、青年時代から兆候のあった精神病が進行して、この職務も54年に辞任した。同年、ライン川に投身自殺をはかり、ボン郊外の精神病院に収容される。1856年7月29日、病院で死去。「リーダークライス」「ミルテの花」「女の愛と生涯」「詩人の恋」「交響的練習曲」「幻想曲」「謝肉祭」「パピヨン(蝶々)」「子供の情景」「クライスレリアーナ」「少年のためのアルバム」「春」。 ■フランシス・クリック(1916〜)イギリスの生物物理学者。DNAの構造解明に貢献した。イングランドのノーサンプトンに生まれ、ケンブリッジ大学のキース・カレッジで物理学の博士号を取得。1949年に同大学の分子生物学研究所で研究を始める。50年代初頭、イギリスの生物物理学者ウィルキンズによるX線回析像をもとに、アメリカの生化学者ワトソンと共同でデオキシリボ核酸(DNA)の二重らせん構造を解明した(1953年)。DNAは親から子へと遺伝形質を伝える物質で、その構造の解明によって、遺伝学は急速に進歩した。1961年クリックのチームが、たんぱく質などの遺伝子情報を発見した。1962年、これらの業績が認められ、クリック、ワトソン、ウィルキンズはノーベル生理学・医学賞を共同で受賞。クリックは遺伝暗号の研究を続け、ウイルスについても研究した。1976年にカリフォルニアのソーク生物学研究所に入り、脳の機能の研究に携わるようになった。 ■ルイス・リーキー(1972):イギリスの古生物学者、人類の進化に関する重要な化石の発見者。1903年宣教師の子としてケニアに生まれ、キクユ族の中で育つ。後にキクユ文化についての著書を書いた。ケンブリッジ大学に入学したが、タンザニアに向う大英博物館の化石爬虫類調査団に加わり、20歳のときアフリカに戻った。その後1926年からタンザニアのオルドバイ峡谷で化石人類を探す調査を開始した。1933年にイギリスでメアリーと出会い、1936年結婚した。1944年にケニアでリチャードが誕生する。1948年にはケニアでプロコンスルの化石を発見したが、人類の祖先ではなかった。しかし1956年、妻のメアリー・ダグラス・リーキーとの共同調査は実を結んだ。1959年にメアリーがオルドバイ峡谷で、今日ではアウストラロピテクスの一種となっているヒト科のジンジャントロプスの頭骨を発見した。それは175万年前の化石だった。更に1960年にはホモ・ハビリスを発見、ルイスはこれこそ道具を作った最初の人類であると考えた。晩年のルイスは霊長類の行動に対する関心を高め、グドールのタンザニアでのチンパンジー研究、ダイアン・フォッシーのルワンダでのマウンテン・ゴリラの研究、あるいはビルーテ・ブリンダムールのサラワクでのオランウータンの研究などを援助した。1964年ルイスが、石器を作った「ハンディ・マン」、ホモハビリスの秘密を暴いた。1972年にはリチャードが180万年前の頭骨をクービ・フォーラで発見した。同1972年10月3日、ルイスがロンドンにて69歳で死去。ルイスの死後、妻のメアリーは化石人骨の探索を続け、1975年、タンザニアのラエトリで現生人類につながる375万年前のホモ属の下顎(したあご)と歯を発見。また、1978年にはメアリーが、ラエトリ遺跡で360万年前に遡るヒト科の親子3人の足跡も発見した。それは明らかに直立して2本の足で歩いた跡だった。1984年にメアリーが「トゥルカナ・ボーイ」を発見し、同年引退した。1985年トゥルカナ湖で「ブラック・スカル」を発見した。1944年にルイスとメアリーの間に生まれたリチャード・リーキーは、ケニア北部やエチオピアのオモ川流域で化石人類を追求する仕事を重ね、トゥルカナ湖の湖岸で多くの重要な化石を発見した。それらの中には、アウストラロピテクスの仲間だけでなく、160万年前に遡るホモ属のほとんど完全な頭骨や、幾つかのホモ・エレクトゥスの頭骨などがあった。リチャードは1968年から1989年までケニア国立博物館の館長を務め、その後、野生動物の保護活動や著作活動を精力的に行っている。1996年12月9日、メアリーがナイロビにて83歳で死去した。 ■ティム・バーナーズリー(1955〜):1955年6月8日ロンドンに生まれ、1976年オックスフォード大学(クイーンズカレッジ:物理学)卒業後、1980年からスイスのジュネーブにあるCERN(欧州原子核共同研究機関)ECP部門で6ケ月の契約で働いた。両親はバーナーズリーを人とは違った考え方をするように教育した。朝食のテーブルで虚数を使って遊んだ(マイナス4の平方根は何かナ?)。また段ボールと穴が5つ開いた紙テープでおもちゃのコンピュータを作り、エレクトロニクスに夢中になった。オックスフォード大学に入ってからは、買い置きの部品と分解したテレビを使って自分専用のコンピュータを作った。数学とエレクトロニクスが融合する分野だと考えて、物理学も学んだ。「 Enquire Within Upon Everything(知りたいことは何でもこちらに)」…これは、ビクトリア朝時代の百科事典の最初の単語で、ティム・バーナーズリーというソフトウエアコンサルタントによって1980年頃に書かれたコンピュータ・プログラムである。そして、コンピュータ・ファイルの中の言葉を、他のファイルに関連付けることができる一種の「ハイパーテキスト」ノートブックを完成させた。これを制限なくすべてのコンピュータからリンクが張れるように工夫した。次に、比較的簡単なコーディング・システム―HTML(ハイパーテキスト・マークアップ言語)をまとめ、これがウエブの共通言語になった。また、個々のウエブページが固有アドレスを持てるように、URL(ユニバーサル・リソース・ロケータ)という番地付けの方法も考え出した。それから、インターネットを介して書類をリンクできるようにするためのルールも作った。そのルールをHTTP(ハイパーテキスト転送プロトコル)と名付けた。1989年には「ワールド・ワイド・ウエブ(WWW)」という世界的なハイパーテキスト・プロジェクトを提案した。1991年、WWWがインターネット上で発表された。1993年イリノイ大学が「モザイク」というブラウザを発表した。WWWの構想から、開発を行い、URL,HTTP、HTMLなど今日,WWWの基本となるプロトコルを作った。1994年から、現在まで、MIT(マサチューセッツ工科大学)の計算機科学研究所の主任研究員であると共に、MITの広いオフィスからWWWコンソーシアム(W3C)を指揮して、そのディレクタとして活躍している。W3Cとは、ネットスケープやマイクロソフト社などが独占的な技術ではなく公開されたプロトコルに準拠するよう指導的な役割を果たす組織である。 没= ■ローランサン(1956):パリ近郊生まれのフランスの女流画家。パリで絵を学び、ピカソやブラックと親交を持ち、1907年に彼らと共に作品展を開いた。現代美術のリーダーたちが導入した平面的な形態と大胆な表現の影響を受ける。彼女の描く女性たちは、ピンクやブルーのパステル・カラーの服を着て、冷ややかで弱々しい。ローランサンの絵には夢のような雰囲気があり、その魅力的な色調は、ペルシャの古いミニアチュールのように平面的である。織物の下絵や舞台装飾も手がけた。 ■ムハンマド(632):イスラム教の創唱者。最後の預言者とされ、その教義の内容は宗教的なものから政治、社会に及び、イスラム文明の土台を築いて世界に大きな影響を与えた。マホメットとも呼ばれる。メッカの有力な部族クライシュ族の氏族ハーシム家に生まれた。父は誕生前に死に、母も6歳の時に死んだので、叔父であるアブー・ターリブの元で育てられた。物思いに耽りがちで内気な性格であったが、幼い頃から厳格な道徳性を示し、アル・アミーン(誠実な人)として知られた。国際商人として知られたクライシュ族の他の人々と同じように商人となり、度々シリアに行き、そこでキリスト教徒と接触した。暫くして、裕福な未亡人ハディージャと一緒に仕事をするようになった。彼女はムハンマドの誠実さと能力に心を打たれ、2人は、ムハンマド25歳のとき結婚した。ムハンマドは商取引を通してキリスト教徒やユダヤ教徒の宗教的な意見を聞き、彼らの投げ掛ける様々な問題に悩まされたと思われる。ある時期からメッカ郊外の洞窟に引き篭もり、導きを求めて瞑想に耽ったり、祈ったりした。そうしているうちに大天使ガブリエルが現れ、ムハンマドに彼が神の預言者であることを告げた。この体験に酷く狼狽(ろうばい)したものの、妻に励まされ、また続けて新しい啓示が下ったこともあり、次第に自分が預言者であることを自覚し始めた。妻のハディージャと、いとこのアリーが最初の信者になった。そして徐々に社会に対して神の啓示を説くようになった。コーランはこれらの啓示を記録したものである。少数の有力者の支持を得たが、改宗の動きは中々進まなかった。最初期の教義は、超越性と人格性を兼ね備えた神と最後の審判を信じること、そして社会的・経済的正義を強調していた。神は諸民族に預言者を使わしたが、それらの改革はことごとく失敗して国家は滅んできたとし、その上で、自分こそが最後の預言者であり、それ以前の預言者のすべてに卓越すると主張した。また、社会改革を訴え、奴隷や孤児、女性、貧者の地位の改善や、部族的特権を廃止することを説いた。この平等主義的、革新的傾向は、メッカを支配していた富裕な商人たちの反目を招き、信者に対する迫害が起こったので、ムハンマドは615年、83の信者の家族にエチオピアに逃げるよう命じた。619年ハディージャと叔父のアブー・ターリブが相次いで死んだのに伴い、メッカには保護してくれる人物がいなくなったため、近くのターイフという町で布教活動を始めたが、うまくいかなかった。その時、メッカの北方300kmにあるヤスリブ(のちのメディナ)から使者がやって来て、メディナに来て、部族間対立を調停して欲しいと要請した。念入りな交渉の後、これを受け入れ、信者たちと共にメディナに移住した。ムハンマドは、ちょうど反対派が彼を殺害する準備をしている時にメッカを逃れ、8日後メディナに着いた。この移住はアラビア語でヒジュラとよばれ、この年がイスラム暦の紀元とされている。メディナで権威を得たムハンマドは、イスラム教の信仰を体系化し、社会改革を実行した。町にいるイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして他の宗教、宗派に属する人々の権利や関係を規定したりもした。その間もメッカの人々のムハンマドへの敵意は変わらず、彼と彼の信者の引き渡しを要求してきた。メディナには、コーランの中で「偽善者」と称されている3つのユダヤ教徒のグループが存在していた。彼らはイスラム教に従っている振りをしながら内密に反対活動を続けており、メッカの人々と通じ合っていた。メッカとの戦争に於けるムハンマドの戦略は、シリアから帰って来るメッカのキャラバン隊を襲って、メッカを経済的に弱体化させようというものだった。624年に最初の大きな戦いが起こり、イスラム教徒は数の上でも武器の面でも劣っていたにも関わらず、メッカ軍を打ち負かした。翌年の戦いでは、メッカが優勢ではあったが決定的勝利を収めることはできなかった。627年、1万人のメッカ軍がメディナを包囲したが、それでも陥落させることはできなかった。ムハンマドはその間にメディナ内に於ける敵を排除していた。ユダヤ教徒のグループは徐々に追放され、3回目の大きな戦いの後、敵に協力したとして、残っていたユダヤ教徒の男たちも処刑された。630年、メディナを陥落させることができず、貿易ルートも止められたメッカは、遂にムハンマドに従うことを受け入れた。彼はメッカを寛大に扱い、恩赦を与えた。アラビア中の部族の使者が到着し、それらの部族は直ぐにイスラム教に改宗した。有力な指導者となったムハンマドは、イスラム教の教義を強化し、イスラム帝国の基盤を確立させた。メッカの伝統的巡礼地であるカーバの偶像を破壊することを命じ、その後、そこはイスラムの最も聖なる神殿となった。ユダヤ教徒、キリスト教徒に対しては、「啓典の民」として宗教上の自由を与えた。631年、巡礼で最後にメッカを訪れた時、彼の改革を総括する説教を行い、そこでイスラム教団の設立と、階級や肌の色や人種間のすべての差別の撤廃を宣言した。彼は632年6月8日、メディナで息を引き取った。エルサレムの聖なる岩の上にたつ岩のドームから、ムハンマドは天に昇ったとされている。妻ハディージャの生前は、ムハンマドは他に妻を持たなかった。619年に彼女が死んだ時、彼は50歳であったが、それから9人以上の女性と結婚した。その中には、最初のカリフとなった、親戚で最初の信者でもあるアブー・バクルの娘アーイシャも含まれていた。コプト教会のキリスト教徒の奴隷もいた。ムハンマドの息子は幼くしてすべて死に、彼の死後唯一生き残った娘のファーティマは、4代目カリフのアリーと結婚した。ムハンマドの死後、信者たちは彼の生涯の歴史に、他の宗教の話から引き出した伝説を付けて、飾り立てることを始めた。例えば、エルサレムからムハンマドが天に昇った話は、イエスの昇天をモデルにしたものであろう。初期の信者たちが主張するには、ムハンマドの心臓は彼が16歳の時に取り出されて洗浄され、邪悪なものは浄化されたという。だから間違いを犯すことはなく、争いを仲介することができるのである。コーランは明らかにムハンマドが奇跡を起こしたことを否定しているが、信者たちは彼が多くの奇跡的行為を起こしたと信じている。しかし、イスラム教徒は信仰を神のみに帰しており、ムハンマドの神性は否定している。彼の特別な能力と性質は、伝統的な偶像崇拝、部族間の妬みや恨み、有力者たちの敵対を乗り越えて、イスラム教の創唱とその急速な拡大に成功したことに示される。 ■ダグラス・ジェラルド(1857):イギリスの劇作家。 ★ペリー来航の約60年も前の1793年(寛政5)6月8日、2本マストの木帆船エカテリナU世号が日本との交易を求めて函館に入港した。ロシアの遣日特派使節として26歳の士官アダム・ラックスマンが、漂流民大黒屋光太夫らを伴っていた。 ◆民の声は必ずしも音あるにあらず、音あるもの亦た必ずしも民の声にあらず。(くがかつなん) ◆人の数だけ異見がある。(テレンティウス) ◆不運が大好きなあまり、途中まで出迎えに走る人もいる。(ジェラルド) |
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| 6月 9日 | 誕生= ■ピョートルT世(1672〜1725):ロシア皇帝。大帝と称される。支配地域の拡大と近代化により、ロシア帝国を建設した。ツァーリ、アレクセイ・ミハイロビチの子として、モスクワで生まれる。3歳で父を失い、1682年に異母姉ソフィア・アレクセーエブナの摂政のもとで、異母兄のイワンX世とともに共同ツァーリとなった。この間、ソフィアによって宮廷から遠ざけられていたが、家庭教師による教育と、外国人居留地に住む外国人たちから、数学・技術・機械、とりわけ軍事・海事の技術を学んだ。また、少年たちを集めて、後に近衛連隊となる組織を作って軍事訓練を身に付けた。89年にピョートル派がソフィアを追放し、96年にはイワンX世が没したため、ピョートルは事実上の単独ツァーリの座に就いた。ピョートルの治世にロシアはヨーロッパの強国となったが、そのひとつの要因は、西ヨーロッパの科学・技術・文化・政治をロシアに貪欲(どんよく)に導入したことにあった。1696年に、ロシア最初の海軍、河川艦隊を編成したのち、オスマン帝国から要塞(ようさい)アゾフを奪い、アゾフ海の制海権と黒海への出口を得た。翌年、西ヨーロッパの技術と政治に触れるため、多くの外交使節団を引き連れて西ヨーロッパの主だった首都を視察して回った。旅の間に、900人にも上る職人・技術者・専門家たちをロシアに招き、後には多くの若いロシア人を、国外に送って西ヨーロッパの技術を学ばせた。1698年にモスクワに戻ったピョートルは、バルト海東部の支配権を握るため、スウェーデン攻略の準備を始めた。この北方戦争(1700〜21)では、1700年にナルバで散々な敗北を喫したが、09年のポルタバの戦でロシア史上最大といわれる軍事的勝利を収めた。21年に結ばれたニスタット講和で、ロシアはバルト海沿岸、後のバルト地方の大部分を支配するようになった。北方戦争中の03年には、「ヨーロッパへの窓」としてサンクトペテルブルクを建設し、12年に首都と定めた。ピョートルは、1721年に皇帝を名乗り、ロシア帝国の創始者となった。大貴族の特権の廃止、貴族と教会の皇帝への従属、産業・教育の奨励、国家行政機構の近代化などの内政改革を行い、徴兵制を取り入れ、バルチック艦隊を新設した。また、ロシア文字の簡素化、アラビア数字の導入、初めてのロシア語新聞の発行、各種学校の設立、科学アカデミーの創設など文化面での近代化も進めた。ピョートルの元で、ロシアは組織だった国家となったが、一方で改革はしばしば過激で、重税が国民とりわけ農民を苦しめたため、ブラービンの率いるドン・コサックの反乱(1707〜08)などの民衆蜂起(ほうき)が相次いだ。死後は2番目の妃エカチェリナT世が帝位を継いで、ロシア最初の女帝となった。 没= ■有島武郎(1923):明治末〜大正期の小説家。東京に生まれ、学習院中等科から札幌農学校へ入学。内村鑑三に影響を受け、在学中キリスト教に入信した。1903年(明治36)からアメリカに留学したが、次第にキリスト教に疑問を抱くようになり、ホイットマンやイプセンらの文学を読み耽った。07年に帰国して札幌農学校の教師となり、10年には雑誌「白樺」の同人となって、「かんかん虫」(1910)、「或(あ)る女のグリンプス」(1911〜13)、「お末の死」(1914)などを発表した。 妻と父の死後は本格的に文学に打ち込み、「カインの末裔」(1917)、「生れ出づる悩み」(1918)などの小説で作家としての人気を博した。1919年(大正8)、「或る女のグリンプス」を改稿・加筆し、長編「或る女」を完成。次いで「惜しみなく愛は奪ふ」(1920)を発表するが、以後創作に行き詰まり、長編「星座」(1922)は中絶した。23年に人妻と心中する。 ■ネロ(68):ローマ皇帝。コンスル(執政官)グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(40年頃没)と、アウグストゥスの曽孫アグリッピナ(小)の子。ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスとしてアンティウムで生まれる。49年、アグリッピナは自分の叔父に当る皇帝クラウディウスT世と結婚し、翌年、息子ネロを養子にさせた。ネロと名前が変わったのはその時である。その後、クラウディウス帝はネロを娘のオクタウィアと結婚させ、実子のブリタニクスより年長のネロを優先して後継者に定めた。54年、恐らくアグリッピナの手に掛かってクラウディウス帝が没すると、彼女の手先だった(近衛)長官ブルス指揮下の親衛隊が、17歳のネロを皇帝と宣言した。治世の最初の5年間は、ブルスと哲学者セネカの指導に従った穏健な政治を行った。この間、女帝の如く振る舞うアグリッピナを遠避けたが、彼女がブリタニクスを後押ししたので、ブリタニクスを毒殺した。59年には、ネロを巡って愛人のポッパエア・サビナと母アグリッピナが争ったため、母親を殺害させた。62年、オクタウィアを離縁し(後に処刑)、ポッパエアと再婚した。ブルスは死に(毒殺説もある)、セネカは引退した。64年7月、ローマ市の大半が焼失する火事が起きた。古来、この大火はネロの仕業とされてきたが、真相は不明である。ネロは、当時まだ少数派だったキリスト教徒に罪を被せ、彼らを迫害した。一方、家を失った人々に避難所を与え、火災の予防も考慮に入れて市街を再建した。建築活動を、大衆に与える見世物や施しのように考え、その費用はイタリアや属州からの搾取によって賄った。また、芸術家を自任していたネロは、公に姿を現すとき宗教劇の俳優のように振る舞い、軍隊や貴族から愛想を尽かされた。その間、帝国内に混乱が広がった。パルティアとの犠牲ばかり多い戦いの末、アルメニアはパルティアの支配下に置かれた。ブリタニア(60〜61)とユダヤ(66〜70)でも、反乱が起きた(第1次ユダヤ戦争)。65年には、元老院議員ピソが陰謀を企て、関与した41人の名士のうち18人が死に追い込まれた。その中には、セネカとその甥(おい)で叙事詩人のルカヌスも含まれていた。また、ポッパエアを蹴り殺したネロは、スタティリア・メッサリナと結婚、彼女の元の夫は、結婚前に処刑された。68年、ガリアとヒスパニア(スペイン)の部隊が、親衛隊とともに蜂起し、ネロはローマ市を逃れたが、元老院によって「国家の敵」と宣告され、同年6月、ローマ近郊で自殺した。ネロが多くの帝位後継者を殺したため、ネロの死とともに、カエサル直系のローマ皇帝は断絶した。 ◆死ぬまで少年の心でいることの出来る人は実に幸いである。(有島武郎) ◆お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或いはいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。(有島武郎) ◆己を主とする以上、他人にも同じ心持のあるのに注意しよう。(有島武郎) |
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| 6月10日 | 誕生= ■徳川光圀(1628〜1700):御三家のひとつ水戸藩の2代藩主。一般には水戸黄門として知られる。黄門は中納言の唐名(中国での呼名)である。徳川家康の11男、頼房の3男に生まれるが世継ぎとなり、1661年(寛文元)、頼房の死で藩主となった。父の死に際して殉死を厳禁してひとりの犠牲者も出さなかったため、水戸藩では幕府の殉死禁止の先例を作ったと賞美している。この殉死厳禁を手始めに行政機構の確立を図り、1670年(寛文10)の領内の大洪水を機に勧農政策を進めた。同時に、由緒のない寺院などを経済力や住職の行跡によって整理し、神社も淫祠(いんし)邪教を排する名目から1村1社に整理・統合した。このような宗教政策は、備前国岡山藩主池田光政も実行しているが、同藩ほど性急ではなかったため成果を収め、光圀の治世を特徴付けるものとなった。光圀は藩主となる以前から日本の歴史を編纂する意向を持っていた。1690年(元禄3)讃岐(さぬき)国高松藩祖となった兄頼重の子に水戸藩を継がせる宿願を果たすと、その事業に本格的に取り掛かった。この「大日本史」の修史事業は1906年(明治39)に完成したが、この過程で全国から学者が集められ、水戸学とよばれる学風が成立した。なお、藩主時代に領内を巡ったことから名君伝説が生まれ、それに修史事業に加わった学者たちが史料採集のため諸国を旅したことが加味され、幕末〜明治初年、講談師らの手でいわゆる水戸黄門漫遊記が作り上げられた。 ■クールベ(1819〜1877):影響力の大きかった多作なフランス画家。同国人のドーミエ、ミレーとともに、19世紀半ばに写実主義の基礎を築いた。農夫の息子として1819年6月10日オルナンに生まれ、40年頃法律を勉強するという名目でパリに出た。ルーブルにある傑作を模写しては独学で絵を学び、50年に「石割り人夫」(1849)を発表。道路工事をする人たちを淡々と在りのままに描いたこの絵は、感情たっぷりに異国情緒を歌い上げるロマン主義者たちや、アカデミーの伝統を頑なに守ろうとする官学派のお偉方の教えを明らかに嘲笑っていた。さらに大作「オルナンの埋葬」(1850)が彼らを激怒させた。この絵ではボロを纏った農民たちが、墓穴の周囲に群がっている。クールベはこうした伝統への挑戦を、別の大作「画家のアトリエ」(1855)でも繰り広げた。この作品には「私の芸術家としての7年間の生活に関する真の寓意画」という副題を付けている。同じ頃、社会主義的なリアリストとして芸術や生活についての信条を詳細に綴った挑発的な声明文を発表しているが、この頃までに彼の名前は広く知れわたるようになった。絵と同じく政治においても急進派だったので、1871年のパリ・コミューン政府の元ではすべての美術館を監督する役に任じられ、暴徒の略奪から市のコレクションを守り抜いた。しかし、コミューン政府が崩壊すると、バンドーム広場にあったナポレオンの記念柱が引き倒されるのを認めたかどで非難され、収監された上、再建する費用を支払うよう宣告された。73年にはスイスのブベーに逃亡し、1877年12月31日に亡くなるまでこの地で制作を続けた。 没= ■吉田正(1998):歌謡曲の作曲家。第2次世界大戦中のシベリア抑留時代に作った「異国の丘」が、本人が帰国する前に一人歩きしてヒットしたのが認められ、1949年(昭和24)にビクター・レコードに入社、専属作曲家となった。最初は股旅(またたび)もののヒット曲が多かったが、1957〜59年にかけてフランク永井の「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」などが次々にヒット。松尾和子とフランク永井の「東京ナイトクラブ」、松尾和子とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」などと合わせて、都会派ムード歌謡の流行を作った。また60年代前半には橋幸夫と吉永小百合がデュエットした「いつでも夢を」や「寒い朝」など青春歌謡も数多く作った。当時の彼の曲の人気は、「有楽町で逢いましょう」が有楽町に新しく出来たデパートのCMソングだったように、戦後の経済成長や都会の消費生活の伸びを背景にしたものだった。70年代以降の作品には「子連れ狼(おおかみ)」「おまえに」などがある。60年に「誰よりも君を愛す」、62年に「いつでも夢を」で、日本レコード大賞を受賞。90年代には日本作曲家協会会長や日本音楽著作権協会会長などを務めた。没後、国民栄誉賞が贈られた。 ■アサド(2000):シリア大統領。ラタキア近郊のカルダーハに生まれ、1946年にバース党に入り、その後、空軍士官学校を卒業、入隊後にソ連などで訓練を受けた。バース党が政権を取った後の64年に空軍司令官となり、66〜70年に国防相を務めた。次いで70年11月の無血クーデタにより政権を取り、71年3月に大統領に就任した。73年の第4次中東戦争ではエジプトと協同したが、70年代の終わりのエジプトとイスラエルの和解には反対した。76年、87年、90年とレバノン内戦に介入し、80〜88年のイラン・イラク戦争ではイランを支持した。1980年代初め、アサド政権に対しいくつかのクーデタが試みられたが、これらを徹底して押さえ込んだ。シリアは長い間政治的にはソ連寄りの政策を取ってきたが、80年代終わりに、ソ連の勢力が衰えると西側との関係強化へと動き、湾岸戦争では、イラクに対し多国籍軍の一翼をになったアラブ合同軍に参加してサウジアラビアに兵を出した。99年に大統領5選を果たした。イスラエルに対しては、1967年の第3次中東戦争で占領されたゴラン高原の返還と中東での包括和平の実現を主張してきたが、96年のネタニヤフ政権の誕生によって、両国の関係は悪化。99年5月、和平推進派で労働党党首のバラクがイスラエル首相となったのを受けて、12月、和平交渉を再開した。しかし、翌2000年6月10日、心不全で死去。後継の大統領には、2男のバシャールが選出された。 ■ガウディ(1926):独創的な個性と想像力を発揮した近代スペインの建築家。その様式はネオ・ゴシックとアール・ヌーボーの混合と見られがちだが、シュルレアリスムやキュビスムの要素も併せ持っている。銅細工師の息子としてカタルニャ地方のレウスに生まれ、1874〜78年にバルセロナの建築学校で教育を受け、同地で生涯を過ごした。既に学生時代にいくつかの建築設計に携わり、卒業後は初期の作品としてバルセロナの邸宅カサ・ビセンス(1878〜80)などを残した。この邸宅やいくつかの作品が実業家エウセビオ・グエルの目に留まり、以後ガウディの主要作品はこの人物の庇護の元に作られる。グエル邸(1885〜89)は放物線形のアーチと豪華な鉄細工で知られ、グエル公園(1900〜14)は、石造の樹木、爬虫(はちゅう)類を模(かたど)った水盤、コンクリートに埋めた陶器破片のモザイクなどが、奇抜な印象を与えている。1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア教会(聖家族贖罪教会)の主任建築家に任命された。この巨大な教会は、未完成に終わりながらも代表作として広く知られ、モザイクで覆われた堂々とした尖塔(せんとう)がバルセロナの空に聳え立っている。その空想的な形態、色彩、質感はヨーロッパにおいては無類のもので、彼の構想を受け継いで現在も建設が継続中である。他にもカサ・バトリオ(1907)、カサ・ミラ(1905〜07)という石材と鋼鉄材を用いた大規模なアパート建築があり、ここでは丸く不揃いな大きさの開口部や、波状の屋根とバルコニーなどを用いて、伝統的な直線と平面は最小限に押さえられている。ガウディはカタルニャ解放運動にも深い関心を寄せ、その主導者のひとりとしても活動したが、1926年6月10日、交通事故に会いバルセロナで没した。 ■フリードリヒT世(1190):ドイツ国王、在位1152〜1190年。神聖ローマ帝国皇帝。フリードリヒV世の名でシュワーベン大公の地位にあったのは1147〜1152年と1167〜1168年。フリードリヒ・バルバロッサ(赤ひげ王)と呼ばれる。 ★時の記念日 ★時の記念日(Time Day)=6月10日。671年4月25日(太陽暦に直すと6月10日)、天智天皇が初めて水時計を用いたと「日本書紀」にあるが、このことを記念し、時間の尊重、厳守を勧めるため、1920年(大正9)から設けられた。 ★長波標準電波=標準電波は、時刻の狂いが10万年に1秒という原子時計をもとに発信、電波時計の正確な時刻合わせなどに利用されている。短波と長波の2種類があり、日本では短波の方が有名だったが、世界的には狂いの少ない長波に主役の座を譲りつつある。日本でも独立行政法人の通信総合研究所が約30年前から茨城県の実験局で試験的に長波の標準電波を運用してきたが、福島県の大鷹鳥谷山(標高794m)の山頂に実用局を建設、「時の記念日」に合わせて1999年(平成11)6月10日から発信を開始した。周波数40kHz(キロヘルツ:1000Hz)で日本の標準時を刻んでいる。出力も従来の10倍以上にアップ、沖縄と九州の一部を除く国内全域で受信可能になったため、長波標準電波で時刻を自動補正する電波時計の新製品が時計メーカーから相次いで発売された。 ◆人は敗れたゲームから教訓を学び取るものだ。(ロバート・T・ジョーンズ) ◆グラウンドの借りはグラウンドで返せ。(水原茂) ◆山には友情がある。(テンジン) |
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| 6月11日 | 誕生= ■リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949):ドイツの作曲家・指揮者。近代オーケストラのための優れた作品を書き、また声楽曲のジャンルでも業績を挙げた。ミュンヘンで生まれ、有能なホルン奏者であった父フランツ・シュトラウスに4歳から音楽の手ほどきを受ける。ミュンヘン大学で学んだ後、21歳のときにマイニンゲンで指揮者としてデビュー。ミュンヘンでも指揮者として活躍した。その後、晩年まで作曲活動の傍らドイツ、オーストリアの主要オーケストラ、歌劇場で指揮を執り、1919〜24年にはオーストリアの名指揮者フランツ・シャルクとともにウィーン国立歌劇場の指揮者・芸術監督を務めている。1933年、ドイツの政権を握ったナチスに請われて第三帝国音楽局の名誉総裁に就任したが、ユダヤ系作曲家の作品を葬ろうとする当局と対立し、35年に辞任。第2次世界大戦の間もドイツに止まり、49年、ミュンヘン郊外のガルミッシュパルテンキルヘンで死去。第1期(1880〜87)の作品は、「チェロとピアノのためのソナタ」「ピアノとオーケストラのためのブルレスケ」「イタリアより」などがある。第2期(1887〜1904)には、「ドン・フアン」「死と変容」「マクベス」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはこう語った」「ドン・キホーテ」「英雄の生涯」。第3期(1904〜49)は、「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」「ナクソス島のアリアドネ」「影のない女」「エジプトのヘレナ」「アラベラ」などの傑作を次々に発表する。他に100曲余りの歌曲があり、そのなかには「献呈」「あすの朝は」「ヨーゼフ物語」「家庭交響曲」「アルプス交響曲」「4つの最後の歌」など。 没= ■吉田織部(1615):千利休の高弟の一人。利休によって完成された茶道は、利休の死後、吉田織部正が新しい作意を用いて引継いだ。織部は歪のあるものを意識的に用い、非対称的な美しさを指摘した。桃山時代に吉田織部が創始した、陶器の基本の円形を変形させたり、模様を抽象化させたりと意匠をこらした織部焼(おりべやき)がある。 ★アメリカ・スペイン戦争でキューバにアメリカ軍が上陸=1898年4月、議会と世論の開戦論が強まるなか、マッキンリーは開戦に傾いた。25日の正式な宣戦布告後の5月には、フィリピンのマニラ湾でスペイン艦隊を撃滅。6月11日、アメリカ陸軍はウッド大佐とルーズベルト中佐が率いる義勇隊とともにキューバ上陸を開始した。アメリカ軍は、開戦から3カ月程でほぼ勝利を手にした。 ◆体力、気力、努力。(金栗四三) ◆相撲は相手の土俵で取れ。(栃木山守也) |
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| 6月12日 | 誕生= ■キングズリ(1819〜1875):イギリスの小説家、聖職者。デボンシャーのダートムーアに生まれ、キングズ・カレッジ(のちにロンドン大学の一部となる)とケンブリッジ大学で学んだ。1842年にイギリス国教会の牧師となり、60〜69年にはケンブリッジ大学で近代史を教えた。自由主義的な見解を持ち、キリスト教社会主義やチャーチスト運動を指導する一方で、イギリス国教会内のオックスフォード運動の厳格な正統主義に反対した。高位聖職者のニューマンに対し名指しで行った神学上の攻撃から、ニューマンの有名な自伝「わが生涯の弁明」が生まれた。「イースト」「オルトン・ロック、仕立屋詩人」「ハイパシア」「西へ出航!」「二年前に」「油断なき者ヘリワード」「水の子たち」。 ■アンネ・フランク(1929〜1945):1929年6月12日、アンネは父オットー・フランクと母エディット・フランク・ホレンダーの次女としてドイツのフランクフルトで生まれた。1934年家族でアムステルダムへ移住した。1942年の13歳の誕生日に日記帳をプレゼントされた。同年アンネの姉がナチスから召喚状を受けたため、アムステルダムの中心街にある事務所ビルの中に作られていた隠れ家に潜んで暮らし始めた。2年後の1944年に発見・逮捕され家族すべてがアウシュビッツ収容所送りとなった。アンネは1945年3月にベルゲン・ベルゼンの収容所で発疹チフスのため死去。隠れ家での生活を綴った「アンネの日記」は、戦後まで生き延びた父により1947年に出版され、その名が世界に知られるようになった。1955年には日記が舞台化された。1995年、オットー・フランクによって削除されていた日記の一部が公表された。 ■エドワード・ルーカス(1868〜1938):イギリスの随筆家。小説家。ジャーナリスト。「ラム伝」。 没= ■蘇我入鹿(645):(そがのいるか)飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。名は大郎・鞍作(くらつくり)などともいう。「藤氏家伝」によれば、新漢人旻の私塾に通って中国の新知識を学び、旻から学堂で1番の秀才と評されたという。643年(皇極2)父の蝦夷から大臣の地位を象徴する紫冠を授けられ、私的な手続きで大臣に就いた。舒明天皇・皇極女帝という非蘇我系の天皇の後、叔母である法提郎女(ほうてのいらつめ)の子の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子の即位を望んだ入鹿は、皇位継承権を主張していた山背大兄王を滅ぼした。朝廷内の反蘇我氏的な動きの高まりを察知すると、入鹿はほとんど朝参しなくなり、甘檮岡(あまかしのおか)に建てた邸宅に多数の兵士・兵器などを置いて篭った。しかし、645年(大化元)中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子(天智天皇)によるクーデタ(乙巳の変:いっしのへん)に会い、飛鳥板蓋(いたぶき)宮で暗殺された( 大化の改新)。入鹿の首塚と伝わる五輪塔(奈良県明日香村)は、後世に作られたものである。 ■エラスムス(1536):オランダの人文主義者。ルネサンスの学問、文化の潮流をヨーロッパ北部にも波及させた最大の功労者。司祭と医師の娘との間の私生児として、ロッテルダムで生まれたと伝えられる。デーベンテルとス・ヘルトーヘンボスの厳格な修道院学校で学び、父の死後、ステインのアウグスチノ修道会に入った。1492年に聖職の資格を授かり、フランス東部カンブレーの司教の元で働いた。95年にパリ留学の費用を提供され、パリ大学でスコラ哲学とギリシャ語を学んだ。聖職の仕事が性に合わないことが分かって、世俗の職を求め、やがてローマ教皇の特免状を得て、市井の一学者として生活するようになった。1499年以降は、ヨーロッパの各都市を渡り歩き、家庭教師や講師をしながら、執筆活動や古代の写本の探索に明け暮れる日々を送った。その間、当時の著名な人物と交わした書簡は膨大なもので、現存する物だけでもゆうに1500通は越える。4度のイギリス旅行を通して、セント・ポール学院創立者としても知られる神学者ジョン・コレットや、医学者で王立医学大学の創立者でもあるトマス・リネカー、大法官にもなったトマス・モア、オックスフォードのギリシャ学教授ウィリアム・グローシンといった、当時の気鋭の人文学者たちと親交を結んだ。彼自身も、ケンブリッジでギリシャ語を教えている。そうした学者たちと交流しながら、古典研究をキリスト教学に適用することを提唱するなど、エラスムスはイギリスにおける人文主義の確立に大いに貢献した。イタリアでは、トリノ大学で博士号を取得し、ベネツィアの出版人アルドゥス・マヌティウスと友人関係を結んだ。スイスのバーゼルでは、やはり出版人で編集者のヨハネス・フローベンと親しくなり、後に協力しあうことになる。1536年6月12日にバーゼルでこの世を去った。著作は、該博な知識と格調高いラテン語の文体、更に持ち前の度量とウィットによる程よい膨らみで、風格を示している。「格言集」(1500。増補版1508)はラテン語の名句を集めたものだが、これによって彼の学者としての名声が確立された。その他の初期の著作の多くで、形骸(けいがい)化した教会の諸慣例や、聖職者たちによってもたらされた唯理主義的なスコラ哲学による弊害を批判している。「キリスト教兵士提要」(1504)とトマス・モアに捧げられた有名な風刺書「痴愚神礼讃」(1511)は、共に、キリスト教的倫理の原点に立ち帰ることを訴え掛けた著作である。一方、「校訂ギリシャ語新約聖書」(1516)は、新発見の写本を幾つか校合して注釈を加え、ラテン語訳を添えたもので、それまで流布していたヒエロニムスによるラテン語訳のウルガタ訳聖書に取って代わる画期的な版本となった。これらの著作が当時の宗教改革者たちに与えた影響は、かなり大きいものがあったところから、エラスムスは、「宗教改革の父」とも呼ばれている。エラスムスは、「文章用語論」(1512)と「子どもの教育について」(1529)などの著作において、児童教育についての啓発的な主張を展開した。彼はそこで、ラテン語の基礎やキリスト教の基本的な修養は、初等教育に入る7歳前に、家庭で躾けられるべきだと主張した。特にラテン語を教える場合、今日では当たり前になっているが、まず最初に会話から入り、それから文法に移るのがよいと提唱した。またそこには、体育の重視、厳し過ぎる教育の弊害、生徒の興味を引き出すことの重要性などについての主張も織り込まれていた。1517年、マルティン・ルターの強力な指導で宗教改革の運動に火が付けられると、エラスムスの知的生活は、全く新しい方向を辿ることになった。鋭い批判精神の持ち主として崇められ、恐れられてもきた彼は、今や護教論者となり、ローマ・カトリックにも改革派にも味方をすることがなかったので、どちらの側からも信用されない立場に立った。改革派とは接触することが多かったが、彼自身はあくまでもローマ・カトリックに止まった。「対話集」(1522。改訂版1533)においても、相変わらず彼は教会の権威が犯す誤謬と悪徳やその権威への盲信に対する糾弾を続けたので、ローマ教会側からはルター派だと攻撃されることになったが、彼はその告発をすぐさま否定した。一方で彼は、結果を恐れて自分の本心を隠しているのだ、とも批判された。そうした批判に反論し、自分の理論的立場をはっきりと示すために「自由意志論」(1524)を発表し、特にルターに向けて鋭い攻撃を展開した。それに対するルターの反論が、またエラスムスの「ルターの奴隷的意味論反駁」(1526)となって現れた。こうした宗教論争の合間にも、エラスムスは、友人の出版人フローベンの協力を得て、「聖ヒエロニムス著作集」(1516)を始め、初期キリスト教の教父たちの神学諸論文からなる著作集を、相次いで刊行している。エラスムスは、しばしば宗教改革の先駆的な人物と目され、後のトリエント公会議(1545〜63)では、その著作が禁書のリストに挙げられたほどだが、宗教的な無知と盲信に対する彼の闘いは、神学者としてではなく、あくまでもヒューマニストとしての信念に基づいていた。彼は、ルターやカルバンのような宗教改革者ではなかったし、諸々の教義論争にも加わろうとはしなかった。エラスムスは、純粋に文筆の人であり、優れた人文主義者として、その時代の最先端に立っていた。 ■清水次郎長(1893):幕末期〜明治前期の侠客、事業家。本名は山本長五郎。駿河(するが)国清水港(静岡県清水市)の船頭の3男に生まれ、叔父の米屋、山本次郎八の養子となる。次郎長は「次郎八のところの長五郎」からの通称。幼少時から粗暴で、養父の死後は家業に励み資産をなしたが、1841年(天保12)博徒となった。多くの子分を抱え、縄張り争いで甲斐(かい)の黒駒勝蔵、尾張穂北の久六、伊勢の安濃徳らと命を賭けた抗争を繰り返した。明治維新は次郎長にとっても転機となった。1868年(明治元)討幕軍から道中探索方を命じられて帯刀を許され、また同年9月、旧幕府の幕府方の軍艦咸臨丸が清水港に碇泊したとき、官軍の兵艦に攻撃された。このため港湾には死屍が多数漂っていたが、後難を恐れて誰も収容しないのを見た次郎長が、義侠心でその収容、埋葬に当ったことから、山岡鉄舟と知りあう。巴川の畔にある次郎長の墓には、鉄舟の「壮士墓」の揮毫がある。これを機会に、明治期には正業に就いた。1874年、次郎長55歳の時に囚人を率いて富士の裾野を開墾、明治17年まで10年間続いた。79年には遠江(とおとうみ)相良で石油開発事業に従事するなど、明治政府の施策に協力した。後には船会社「静隆社」を設立し、明治19年11月より船宿「末広亭」を経営し、そこに英語塾なども開いた。また、清水港を整備して横浜との定期航路を開くなど、起業家として清水の発展に尽くしている。1893年(明治26)6月12日、74歳で死去した。 ★アンネの日記=1942年6月12日、アンネ・フランク13歳の誕生日の日から、ゲシュタポに逮捕される3日前、1944年8月1日までの2年余りに渡って、架空の親友に対する書簡という形で書き継がれた。 ★国博士(くにはかせ)=大化の改新の際におかれた官職で新政府の政治顧問。645年(大化元)6月12日に蘇我入鹿を倒した中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)らは、その2日後に改新政府を樹立。阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)・蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわのまろ)らの保守派を左右大臣にして政権の安定を謀る一方で急進派も登用し、中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣(うちつおみ)に任じて軍事の統轄などを行わせた。国博士は急進派のついた官職のひとつである。 ★山崎の戦=1582年(天正10)6月13日に山城国山崎(京都府大山崎町)の天王山東麓(てんのうざんとうろく)で行われた羽柴(豊臣)秀吉・織田信孝らと明智光秀との合戦。備中高松城(岡山市)の水攻めに当たっていた秀吉は、本能寺の変を知ると直ちに毛利氏と講和、驚異的な速さで大軍を摂津富田(とんだ:大阪府高槻市)へ戻した。本能寺の変からわずか10日後の6月12日のことで、この備中高松からの迅速な秀吉軍の移動は、中国大返しとして有名である。一方、織田信長の命で四国へ向かっていた信長の3男信孝の軍勢も合流し、秀吉の側についた高山右近、細川幽斎(藤孝)、筒井順慶らの軍を合わせその兵力はおよそ3万。対する光秀は、応援する武将も少なく1万〜1万6000の兵を山崎に集めて秀吉らの軍勢を迎え撃った。しかし、敗れて勝竜寺城へ退き、さらに近江(おうみ)へと敗走するところを土民に襲われて殺された。この戦いで、織田信長の後継者争いにおける秀吉の発言力は、飛躍的に強まった。また、この戦いで軍事拠点である天王山を先に占領した秀吉側が後に天下統一を成し遂げたことから、大事な勝負を決する場面や分岐点のことを「天王山」といい、「天下分け目の天王山」といった表現も生まれた。 ◆疑わしいことは問うのを恥じるな。過ちは正されるのを恥じるな。(エラスムス) ◆過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿かれ。(論語) ◆瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず。(古楽府:こがふ) |
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| 6月13日 | 誕生= ■トマス・ヤング(1773〜1829):イギリスの物理学者・医師・エジプト学者。光学分野への貢献で知られる。イングランドのサマセットシャーのミルバートンに生まれた。エディンバラ大学、ケンブリッジ大学で古典語、古代東方語、自然科学を学び、1796年にドイツのゲッティンゲン大学で医学の学位を得た。99年、ロンドンで医師として働き初め、1801年には王立研究所教授となった。02年から、イギリスにおける科学者の団体ロイヤル・ソサエティの外務局長を没年まで務めた。11年、ロンドンのセントジョージ病院の医師に任命。科学委員会などの公的任務にも関与し、18年には経度局長となり、「航海歴」を編纂した。光学の分野で、光の干渉現象を発見し、これによって光の波動説の確立に貢献した。一方、目についての研究も行い、見ようとする物体に応じて眼球を調節する筋肉があることを解剖学的に証明し、初めて乱視について記載し、その原因を指摘した。色覚についての生理学的研究もある。さらに、毛管現象や弾性の理論的研究にも業績があり、弾性率のひとつに彼の名にちなんだヤング率がある。古代エジプト文字の研究も行い、ロゼッタ・ストーンに刻まれた象形文字の解読に参画し、最初に解読に成功したひとりとなった。 没= ■太宰治(1948):昭和期の小説家。青森県に生まれ、東京帝国大学仏文科を中退。大地主の子だったことに罪悪感を抱き、左翼思想に関心を寄せる一方、屈折した文学意識を育てた。大学在学中より井伏鱒二を文学の師とした。心中を図って女性だけを死なせたことや、非合法の左翼活動を離れたことで、生涯拭えない心の傷を負った。その絶望の中から本格的に創作活動を始め、「魚服記」「思ひ出」(1933)で注目され、「道化の華」「ダス・ゲマイネ」(1935)など、巧みな語りと自意識、自嘲を特徴とする作品を発表した。麻薬中毒を克服して以降、「富嶽百景」「女生徒」(1939)など作品は明朗さを増し、「走れメロス」(1940)、「右大臣実朝」(1943)、「お伽(とぎ)草紙」(1945)など、古典、歴史を素材にした小説や、「津軽」(1944)のような優れた紀行文を書いた。戦後、「冬の花火」(1946)、「ヴィヨンの妻」「斜陽」(1947)、「人間失格」(1948)などで時代と自分自身への違和感を書き、「無頼派」と称された。愛人と共に入水(じゅすい)自殺した。娘の太田治子、津島佑子は、共に小説家。東京三鷹市の禅林寺に葬られ、彼の遺体が発見された19日を命日として、毎年6月19日に桜桃忌が営まれている。 ■北里柴三郎(1931):1852年(嘉永5)熊本に生まれる。1885年(明治18)ドイツに留学し、コレラ菌の発見者コッホに師事し、細菌学の研究に従事した。1889年(明治22)、破傷風菌の培養に成功、またベーリングと共にジフテリアの血清療法を完成させ、さらにコッホと共にツベルクリンによる結核療法にも大きく貢献した。柴三郎は、ケンブリッジ大学やペンシルバニア大学の招聘を断って、日本の伝染病予防に寄与しようと帰国した。しかし、当時の日本政府を初めとする公的機関に伝染病研究所の設置を強く訴えるが相手にされなかった。ところが福沢諭吉が柴三郎のために、私財を投じて伝染病研究所を設立し、さらに政府に掛け合って、それを公的な機関にしてくれた。以後、研究所は内務省の管轄に入り、赤痢菌の発見やペスト菌の発見など、目覚しい成果を上げた。1914年(大正3)研究所が東大に付属させるに当り、63歳の柴三郎に所員全員が揃って研究所を去った。その年、私設の「北里研究所」(現在の北里大学病院)を立ち上げた。1917年(大正6)には、故福沢諭吉の恩に報いるため慶應義塾大学に医学部を創立して、医学部長に就任した。その後、大日本医師会(現・日本医師会)を創設して初代会長に就任した。1931年(昭和6)6月13日、80歳で死去した。 ★2000年6月13日〜15日、韓国の金大中大統領が平壌を訪問し、分断後55年にして初めての南北首脳会談が実現した。 ★ワット・タイラーの乱(Tyler's Rebellion)=元兵士のワット・タイラーを指導者として1381年におきたイギリスの農民一揆(いっき)。直接の原因は、百年戦争の費用調達のため再三人頭税が課されたことにあった。これに対する民衆の怒りが、エセックス、ミドルセックス、サセックス、ケントを中心に各地で蜂起に発展した。1381年6月13日、一揆軍はロンドンを占拠し、翌14日には国王リチャードU世と会見して人頭税の廃止を含むいくつかの譲歩を約束させた。しかし翌15日の交渉中にタイラーが殺害され、一揆はまたたく間に崩壊した。参加した農民の多くが処刑され、勝ち取った譲歩の多くは撤回されたが、人頭税を課そうとする試みはその後なされなかった。 ◆愛は最高の奉仕だ。微塵(みじん)も自分の満足を思っては、いけない。(太宰治) ◆私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一事(ひとこと)だ。走れ!メロス。(太宰治) ◆弱虫は、幸福をさえ恐れるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。(太宰治) |
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| 6月14日 | 誕生= ■ストー(1811〜1896):アメリカの作家。奴隷制に対する力強い告発の書「アンクル・トムの小屋」(1850〜52)の作者。コネティカット州リッチフィールドに、自由主義的な牧師ライマン・ビーチャーの娘として生まれた。夫、カルビン・E.ストーもまた、熱心な奴隷制度廃止論者であった。処女作「メイフラワー号または風景のスケッチとピルグリムたちの子孫の特質」は、1843年に出版された。メーン州ブランズウィックに住んでいるときに書いた「アンクル・トムの小屋」は、奴隷制度廃止論の新聞「ナショナル・イーラ」に連載され、1852年に単行本として出版された。新聞連載中はそれほど評判にもならなかったが、本は空前の成功を収め、アメリカ国内だけでも5年間に50万部が売れ、20以上の外国語に翻訳された。奴隷制度廃止を貫くためなら戦闘をも辞さない北部の姿勢を具現化した書として、南北戦争(1861〜65)を引き起こす重大な要因となったといわれる。構成は散漫でまとまりがないが、ペーソスや劇的な出来事に溢れ、この種の作品は1800年代のアメリカで感傷小説と呼ばれて、人気を博した。ストーと同じように、感傷小説作家の多くは社会改革論者であったが、彼らの作り出す登場人物たちは、理想化され過ぎているという批判も受けた。1853年、ストーは奴隷制度反対を裏付ける実録的な証拠を見事に列挙した「アンクル・トムの小屋の解読」を刊行し、「ドレッド」(1856)で再び奴隷制度を激しく非難した。「牧師の求婚」(1859)は、18世紀から19世紀初頭のニューイングランドの生活を描いたロマンティックな小説の中でも、最も有名な作品である。短編や宗教的な詩の他、児童書、家政学の書、随筆など多数の著作がある。 ■チェ・ゲバラ(1928〜1967):ラテンアメリカのゲリラ指導者・革命理論家。その理論と実践は世界各地の左翼運動に影響をあたえ、1960年代には世界中の左翼系活動家のヒーローとなった。ラテンアメリカにおける社会的不平等を改善しうるのは革命だけであると確信する。1928年6月14日、エルネスト・ゲバラ・デラ・セルナはアルゼンチンのロサリオで生まれた。1956年メキシコのフィデル・カストロに加わり、部隊とともにヨット「グランマ」でキューバへ渡った。1958年に雌雄を決する戦いでゲリラを指導した。1959年キューバの新政府に加わった。1965年に政府を去り、中南米とアフリカのゲリラ戦を指導した。1966年にボリビアのゲリラ革命を試みた。1967年10月9日、ボリビア政府軍に捕えられ、バレグランデで39歳で処刑された。1997年7月にボリビアの山中で遺骨が見つかった。遺骨はキューバに移送され中部の都市サンタクララに埋葬された。「革命戦争の旅」「ゲリラ戦争」。 没= ■毛利元就(1571):(もうりもとなり)戦国期の武将。安芸(あき)郡山(こおりやま:広島県吉田町)を本拠とした。毛利弘元の子。兄の興元やその子の幸松丸が早世したため、1523年(大永3)家督を継ぐ。当時、中国地方は尼子氏と大内氏の両勢力に2分されており、国人領主として初め出雲の尼子晴久に、のち周防(すおう)・長門(ながと)の大内義隆に属しつつ、2男元春を山陰境の吉川(きっかわ)氏へ、3男隆景を瀬戸内沿岸の小早川氏へ、それぞれ養子として入れ、安芸と備後(びんご)で勢力を伸ばした。大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)によって滅ぼされると、1555年(弘治元)厳島(いつくしま)の戦で晴賢をうち、2年後には大内氏の領国をそっくり勢力下に収めた。さらに66年(永禄9)尼子氏をも下し、遂に中国地方10カ国と豊前(ぶぜん)・伊予の一部を支配する戦国大名に成長した。63年に長男隆元が若くして死んだため、その後は孫の毛利輝元を当主として後見したが、織田信長の勢力が伸びてくる直前没した。戦術より計略に優れた武将で、性格は細心・慎重だった。有名な「三矢の訓」の逸話は、1本の矢は簡単に折れるが、3本まとめると折れにくいことを体験させて3兄弟の結束を説いたもので、教訓状に残っている。実際、3兄弟の結束は硬く、2男の吉川元春と3男の小早川隆景のは毛利両川(りょうせん)とよばれて、よく毛利本家を支えた。 ■チェスタートン(1936):イギリスの作家・詩人・批評家。ロンドン生まれ。本来リベラルな思想の持ち主だったが、後に保守主義者となった。やはり保守的な作家ヒレア・ベロックと長きに渡る友情を結び、自分たちの考えを詳述するため、二人で雑誌を創刊した。物議を醸し勝ちな見解ではあったが、明快で力強く、ウィットに富んだ文体のお陰で、チェスタートンは極めて人気が高かった。ローマ・カトリックに改宗したのは1922年になってからだが、それ以前の作品もほとんど全て、カトリック擁護の立場を取っている。「新ナポレオン奇譚(きたん)」「木曜日の男」。 ■楊貴妃(756):中国唐の第6代皇帝玄宗の妃。北京で挙兵した安禄山の追撃を逃れ、蜀に向う途中、玄宗の命を受けた高力士に絞殺された。38歳であった。 ■エメリン・パンクハースト(1928):1858年7月14日、エメリン・ゴールデンはイギリスのマンチェスターに生まれた。1879年20歳のとき、40歳で弁護士のリチャード・パンクハーストと結婚した。1898年リチャードが急逝。1903年に婦人社会政治連盟(WSPU)を創設した。1905年にWSPUの活動が戦闘的になる。1914年第1次世界大戦でイギリス支援に尽力した。1918年に30歳以上の婦人がイギリスで初の投票権を獲得した。1920年にアメリカでも婦人参政権を獲得した。1928年にイギリスで婦人の投票年齢が21歳に下げられた。1928年6月14日、ロンドンで死去。 ★1963年6月14日に打ち上げられたウォストーク5号(バレリー・ブイコフスキー)は119時間6分という宇宙での長期滞在記録を作った。 ★フランスは1939年9月にドイツに対して宣戦を布告したが、実際の戦闘は行われなかった。ところが、1940年5月、突如ドイツ軍はフランスに対する総攻撃を開始したため、フランス軍は総崩れとなり、6月14日にパリは陥落した。同月16日に首相に就任した第1次世界大戦の英雄ペタン元帥は翌17日にドイツに対して休戦を申し入れ、莫大な賠償金支払いのほか、フランス国土の5分の3をドイツ軍の占領に委ねることになった。そして、南フランスの残り5分の2の領域には後継国家が存続することになった。ビシーに召集された上下両院議員は圧倒的多数でペタンに全権を委ね、新しい憲法を制定する権限を与えた。 ★ビシー政府(Gouvernement de Vichy)=第2次世界大戦中の1940〜44年にフランス中部の温泉保養地ビシーに移されたフランス政府のこと。正式名称は「エタ・フランセ(フランス国家)」。国家元首の名をとってペタン政権と呼ぶ場合もある。 ★アルゼンチンとイギリスの領有権を巡る議論は1960年代半ばから国連で始まった。そしてまだ交渉の続いていた1982年4月、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に進攻し、約10週間に渡って占領した。イギリスは機動部隊を派遣し、両軍の戦闘が続いたが、6月14日にアルゼンチン側が敗北した。このフォークランド紛争後もアルゼンチンは領有を主張しているが、イギリスは交渉を拒否している。しかし両国の外交関係は1990年に回復した。 ★ドイツ軍部隊がパリに入城=1940年6月5日、ドイツ軍がフランスへの進撃を開始した。両軍の戦力は、兵力と戦車の数ではほぼ互角だったが、航空機の数ではドイツ軍が勝っていた。電撃戦によってフランス軍は足並みを乱されて撤退し、6月14日にドイツ軍がパリに入るとフランス政府は降伏した。一方、ド・ゴールに率いられた抗戦派は、戦いを継続する決意を表明した。 ◆こう竜雲雨(こうりゅううんう)を得(う)れば、終(つい)に池中(ちちゅう)の物に非(あら)ざるなり。[小さな水溜りにいるミズチや竜は、雲や雨水を得ると天に昇り強大な力を発揮する](三国志) ◆英雄は普通の人より勇気があるのではなく、ただ五分間ほど勇気が長続きするだけである。(エマソン) ◆人類の半分は女性。(パンクハースト) |
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| 6月15日 | 誕生= ■空海(774〜835):平安初期の僧で、真言宗の開祖。遍照金剛(へんじょうこんごう)、弘法大師ともよばれ、俗に「お大師さま」の呼び名で親しまれている。天台宗の開祖の最澄とともに平安仏教を代表する僧であり、三密とよばれる行を実践して大日如来と一体化することで現世での成仏(じょうぶつ)を目指す即身成仏が可能であるとの教えを説いた。淳和天皇(じゅんなてんのう)の天長年間(824〜834)、法相(ほっそう)・三論・華厳(けごん)・律・天台・真言の6宗に、各宗派の教義をしるして提出せよという勅命が下った。真言宗では、空海自らが『秘密曼荼羅十住心論』(十住心論)を著し、830年に提出したが、これは引用も多く、10巻にのぼる大部のものとなった。そこで空海は、『十住心論』の内容を抄出した『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』3巻を執筆。緻密な文体で、教義の趣旨を簡潔に著した。人間の心が浅薄な状態から次第に高まり、密教の究極の智恵に達するまでを段階的に示したものだが、それは同時に、当時の社会思想や先行宗派に深浅の段階を付ける試みでもあった。すなわち1〜3は外道(1=欲望人、2=儒教、3=道教)、4〜5は小乗(4=声聞、5=縁覚)、6〜7は権大乗(6=法相、7=三論)、8〜9は実大乗(8=天台、9=華厳)を表し、これら「顕教」に対する密教の優位性を説く。讃岐(さぬき)国の屏風浦(びょうぶがうら:現在の香川県善通寺市)に、佐伯田公(たきみ)の子として生まれ、幼名を真魚(まお)と言った。母は阿刀(あと)氏。15歳で母方の伯父阿刀大足(おおたり)に従って京都に上り、18歳のとき大学に入って、「詩経」「書経」「春秋左氏伝」などを学んだが、満足するには至らなかった。ある時ひとりの僧から、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の真言を百万回唱えれば、あらゆる教法を記憶出来ると教えられ、大学を出て阿波(あわ)国の大滝嶽や土佐国の室戸岬などで苦行した。この苦行によって出家の決意を固め、名を空海と改めて、南都六宗の研究に励んだ。23歳のとき、大和の久米寺で「大日経」を見てから、密教に関心を抱くようになった。24歳のとき「三教指帰」を発表、儒教、道教を排して仏教に進む根拠を明らかにした。このあと山野に入って修行していたともいわれるが、7年に渡って空海の行跡は不明である。空海は804年(延暦23)、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)の一行に従い唐に渡った。都の長安では、インド人仏教僧らにサンスクリットなどを学び、諸寺を訪問して師を探した。中でも青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)から密教を授けられたことは、以後の空海の方向を決定付けた。またこの留学中、空海は仏教のみならず、あらゆる中国文化に接することができた。恵果の死後、空海は留学を2年で切り上げ、多くの密教の経論、仏具、曼荼羅などを持って、806年(大同元)に帰国した。空海は、初め九州に辿り着き、筑紫の観世音寺に滞在したのち、和泉(いずみ)国に移り、809年京都の高雄山寺( 神護寺)に住し、真言密教を広める拠点とした。比叡山の最澄とも親しく交わり、812年(弘仁3)には、最澄に灌頂を授けたが、4年後には教義上の対立を理由に交友を絶った。816年(弘仁7)から空海は修禅の道場として高野山に金剛峰寺を開く大事業を進めた。この間に、「弁顕密(べんけんみつ)二教論」「即身成仏義」「吽(うん)字義」「声字実相(しょうじじっそう)義」などを著し、真言教学の体系を確立した。823年、京都の東寺(教王護国寺)を鎮護国家(仏教によって国家を鎮め守ること)の根本道場とし、翌年、高雄山寺を神護国祚(こくそ)真言寺と改称した。以後、高野山・東寺・高雄山を拠点に真言密教の流布に努める傍ら、828年(天長5)、東寺の隣に綜芸種智院を建て、仏教だけではなく儒教と道教も教える日本最初の一般庶民教育を行った。830年には「十住心論」を完成。834年(承和元)、毎年正月宮中で行われる顕教による法会(ほうえ)の他に真言の修法をくわえるように上奏し、翌年から実施された。こうして、新しい仏教の確立と発展に努力したのち、高野山金剛峰寺において62歳で亡くなった。空海は、経典の研究ばかりを行い人々の救済を怠っていた奈良仏教を批判し、即身成仏思想を強調した。また、「十住心論」で示した人間の心や菩提(ぼだい)心の展開をまとめた思想は、日本仏教全体に深い影響を与えた。空海が遍歴したといわれる各地には弘法大師信仰が生まれ、弘法清水、大師の杖立(つえたて)柳などが残っている。四国八十八カ所の巡礼も、この大師信仰から生まれたものである。空海は、書道でも新しい書風を生みだし、嵯峨天皇、橘逸勢と並んで「三筆」と称される。その筆跡は国宝の「風信帖」「灌頂歴名」「三十帖冊子」や「高雄山灌頂記」「真言七祖像賛」などで伺うことができる。漢詩、漢文にも傑出し、死後、弟子の真済(しんぜい)が編集した「遍照発揮性霊集」は漢文の模範として尊重された。他に修辞学の書である「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」や「文筆眼心抄」、辞書「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」などの著作がある。また讃岐国の満濃池や大和国の益田池の造営など、農民救済のための社会事業も数多く行った。 没= ■北村季吟(1705):(きたむらきぎん)江戸前期の俳人・歌人・国学者。1648年(慶安元)俳書「山之井」を刊行。「源氏物語」「枕草子」などの古典注釈書を記す一方、俳論書「埋木(うもれぎ)」や撰集「新続犬筑波集」など多数の著作を刊行し、貞門(ていもん)俳壇の中心的存在となる。晩年、幕府の歌学方に仕えて、法印の称号も授けられた。松尾芭蕉ら弟子も多い。 ★マグナ・カルタ(Magna Carta)=1215年6月15日に、イングランド王ジョン(欠地王)が貴族たちの要求によって認めた憲章で、以来、イギリスの立憲政治の基礎とされている。「大憲章」と訳される。 ★安保闘争=1959〜1960年(昭和34〜35)日米安全保障条約の改定に対して行われた反対運動。6月15日には、過激な戦術を主張し国会に突入しようとした全学連主流派の東大女子学生が警官隊との衝突で死亡。 ★アリアン4型ロケット=ヨーロッパ宇宙機関が開発したアリアン4型ロケット。3段式ロケットで、第1段目の周囲に最大4基取り付けられるロケット・ブースターの数により、約1900〜4800kgの衛星を静止軌道へ移行可能である。現在、静止軌道への移行性能7トン、低軌道へは19〜20.5トンの運搬が可能になるアリアン5型ロケットが開発中で、2002年以降の実用化が予定されている。1988年6月15日に打ち上げられたブースターが2基装備されていたアリアン4型ロケットでは、3機の人工衛星を地球周回軌道に乗せることに成功した。 ★大陸軍総司令官になったワシントン=1775年6月15日、大陸会議はワシントンを大陸軍総司令官に選出。翌月に正式就任した。大陸軍は民兵組織とは別に、独立戦争を戦うため各地に転戦できる軍隊が必要になってできた。にわか仕立ての兵士たちだったが、やがて規律をもった士気溢れる軍隊になった。ワシントンは、こうした正規の軍隊に民兵の協力をえてイギリス軍との戦闘を行った。 ★プロイセン・オーストリア戦争(Deutscher Krieg)=1866年に起きた戦争で、勝利したプロイセンがドイツ統一を主導することになった。略して普墺(ふおう)戦争ともいい、また戦闘が7週間という短期間に決着が付いたことから、七週間戦争とも呼ばれる。戦端は1866年6月15日に開かれ、勝敗は7月3日のフラデツ・クラーロベー(ケーニヒグレーツ)でのオーストリア軍の大敗によって決した。 ★PKO協力法(Peace Keeping Operation)=海部俊樹内閣が、湾岸戦争の反省から国会に提出した国際平和協力法案は、野党の反対と政府側の国会答弁の乱れから、結局廃案に追い込まれてしまった。このため海部首相は「国連平和維持活動協力法案(PKO協力法案)」を1991年(平成3)9月19日の閣議で決め、国会に提出し、多くの議論を重ね、1992年6月15日に成立した。 ◆議論を吹ッかける場合には、わざとスキマをこしらえて置く方がいいんです。そうしないと敵が乗ってこないんです。(谷崎潤一郎) ◆長い議論も短い議論も目指す目的は同じだということを、よく理解すべきである。(エピクロス) |
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| 6月16日 | 誕生= ■萩原井泉水(1884〜1976):(おぎわらせいせんすい)俳人。季語と五・七・五の定型から離れた「自由律俳句」の作家、理論家として多くの俳人に影響を与えた。中学時代から句作を始め、東京帝国大学在学中、正岡子規の門下で高浜虚子と対立していた河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加。1911年(明治44)、碧梧桐を主宰者として新傾向俳句運動の機関誌「層雲」を発行する。季題(季語)無用論を説くと同時に新傾向俳句を痛烈に批判したため、碧梧桐が離脱。代わって1913年(大正2)「層雲」の主宰となる。この頃から、種田山頭火、尾崎放哉らが同誌に作品を寄せ始め、井泉水と「層雲」は自由律俳壇の全国的な拠点となった。季語に捕われることなく、自然の心を心として自然の深さを求める、と説く。句集に「湧出るもの」(1920)、「原泉」(1960)、「長流」(1964)、「大江(たいこう)」(1971)などがある。 没= ■住井すゑ(1997):小説家、児童文学者。本姓犬田。奈良県生まれ。18歳で上京し、1年間出版社に勤務したのち、1921年(大正10)に農民文学の可能性を示した「相剋」を刊行。夫の農民文学者犬田卯(しげる)とともに実作と運動を展開する。その後、農民文学運動がアナーキズムやプロレタリア文学などに接近してまとまりを失う中、住井は30年(昭和5)に無産婦人芸術連盟に参加し夫の看病や生活に追われながら、「農婦譚」(1939)、「土の女たち」(1942)、「大地の倫理」(1943)を発表して、農民文学の女性作家として認められる。第2次世界大戦後、児童文学作品を書き続けたのち、小説活動に復帰。毎日出版文化賞を受賞した「夜あけ朝あけ」(1954)は、映画化、舞台化され、高い評価を受けた。また、「向い風」(刊行は1958)は常に圧迫されてきた農民像を浮き彫りにし、代表作「橋のない川」へのステップとなった。夫が亡くなった1957年(昭和32)、55歳のとき、昭和初期から住んでいた茨城県牛久において書き始められた「橋のない川」は、奈良の被差別部落に生まれた兄弟が、差別と戦いながら水平社結成に関わっていく姿を描いたもので、第1部は「部落」誌に発表され、61年に刊行された。以後、書き次いで、73年刊行の第6部まで、5000枚に及ぶ大作となる。第6部で一応の完成を見ていたが、昭和天皇の死去をきっかけに再び筆を取って第7部を執筆(1992刊)、95歳の死ぬ間際まで第8部の執筆を課題としていた。「橋のない川」は、あくまでも差別に反対し、人間の命や平和の尊さを訴え続けた住井畢生(ひっせい)の大仕事であり、1〜7部併せて800万部以上読まれている、隠れた大ベストセラーでもある。2度に渡って映画化もなされた。天皇制や国家という枠組みを否定し、自己を地球人として認識していた住井は、著作活動においても言論活動においても、また反戦平和の公開学習会「抱樸舎(ほうぼくしゃ)」を通じての実践活動においても、妥協のない一貫した姿勢を示し続けた人であった。 ■河村瑞軒(1699):江戸初期の土木家。淀川など大阪付近の河川治水工事と江戸東北間の海運の開発を行った。 ■近藤重蔵(1829):江戸町与力の長男として生まれる。1798年(寛政10)4月、重蔵は最上徳内とともにエトロフ島に上陸し、リコップの丘に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を立てた。翌1799年(寛政11)幕府は正式に東蝦夷地(道東)を直轄地と認めた。この決定を聞いた重蔵は、摂津の豪商高田屋嘉兵衛を伴ってエトロフ島へ引き返し、全島を7郷25村に分けてアイヌ人などで行政に着手した。その翌年には、南部と津軽の藩士200人がエトロフ島野守備と警備のため駐屯した。晩年、長男富蔵の殺害事件に連座して近江大溝藩に預けられたまま1829年(文政12)6月16日、病死のため58年の生涯を閉じた。 ★1963年6月16日に打ち上げられたウォストーク6号のパイロット、テレシコワは宇宙を飛行した最初の女性である。彼女は地球を48周した。その間ウォストーク5号との編隊飛行を行った。 ★ワレンチナ・テレシコワ(Valentina Tereshkova)=1937〜 ロシアの宇宙飛行士。宇宙飛行した世界最初の女性。1961年に旧ソ連の宇宙飛行士養成計画に採用された時には、織物関係の労働者で、パラシュート降下を趣味としていた。1963年6月16日から19日にかけて、ウォストーク6号に乗って宇宙飛行を行い、地球を48周、その時の宇宙からの第一声は「ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)」だった。その後、親善大使を勤め、後に政界に入った。1963年にウォストーク3号の宇宙飛行士アンドリアン・ニコラエフと結婚し、翌年生まれた子供は、宇宙を経験した両親から生まれた世界初の子供として話題になった。 ◆弁解は飾られた嘘に過ぎない。(ポープ) ◆人の悪口を言ったら、すぐにあなた自身の悪口を言われていると思え。(ヘシオドス) |
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| 6月17日 | 誕生= ■グノー(1818〜1893):フランスの作曲家。オペラと宗教音楽を作曲。ゲーテの詩にもとづくオペラ「フォースト(ファウスト)」(1859)で知られる。6月17日、パリ生まれ。パリ音楽院で、フランスの作曲家アレビとル・シュールに学び、1839年にローマ大賞第1位を獲得。その結果、イタリア留学が可能となり、同地で過去の作曲家の宗教音楽を集中的に研究する。「サフォ」「心ならずも医者にされ」「フォースト(ファウスト)」「ミレーユ」「ロミオとジュリエット」「アベ・マリア」。著作には、「ある芸術家の思い出」がある。1893年10月18日、パリ近郊のサン・クルーで死去。 ■イーゴル・ストラビンスキー(1882〜1971):20世紀音楽の進路に決定的な方向付けを行ったロシア出身の作曲家。1882年6月17日、ペテルブルグ郊外のオラニエンバウム(現ロモノソフ)で、帝室歌劇場付きのバス歌手を父として生まれる。長じてペテルブルグ大学法学部に入学。在学中の1907年、級友の父リムスキー・コルサコフと知り合い、作曲法と管弦楽法を学んだ。1908年、その年に作られた管弦楽曲「花火」「スケルツォ・ファンタスティック」を聴いた興行師ディアギレフがストラビンスキーの才能を認め、1910年にディアギレフ、自ら主宰するバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)のパリ公演のための作曲を依頼した。こうして三大バレエ(「火の鳥」1910、「ペトルーシュカ」1911、「春の祭典」1913)が書かれた。リズムの効果的な駆使によって生み出される官能的な刺激、強い原色の色彩感に満ちた管弦楽法、ロシア民謡風の素朴なメロディが好評を博して、最初の2作は大成功を収めた。しかし3作目の「春の祭典」は1913年5月29日のパリ、シャンゼリゼ劇場での初演、ニジンスキーの型破りな振付と険しい不協和音、伝統的な拍節構造によらない自由なリズムが保守的な聴衆の怒りを買い、野次とブーイングでオーケストラの音も掻き消される騒ぎになった。しかし、印象主義の夢幻的で曖昧な音楽に飽きていた若い聴衆には熱狂的に受け入れられ、30歳のストラビンスキーは革命的な現代音楽の旗手と目されるようになった。肉感的な音響で聴く者に興奮を呼び覚ますこの時期の様式は、原始主義と呼ばれている。1914年、第1次世界大戦の勃発でロシアに帰国できなくなり、スイスに難を避けた。戦中戦後には大規模な作品の上演は難しく、1918年にはオーケストラの弦、金管、木管を代表する6楽器と打楽器、俳優3人、ダンサー1人で上演できる「兵士の物語」を作曲した。この曲を始め、「11楽器のためのラグタイム」(1918)、「ピアノ・ラグ・ミュージック」(1919)などスイス時代の作品にはジャズへの傾倒が見られる。1920年、パリに戻ったストラビンスキーは「春の祭典」の粗野な破壊力はロマン主義の名残に過ぎないと気付き、ロシアの民話に基づくバレエ付きカンタータ「結婚」(1923)を最後に原始主義を捨てた。後期ロマン派の主情主義に対抗できるのは客観主義だと考え、1923年頃から17〜18世紀の楽曲形式に強い関心を向けた。1927年11月、イギリスの音楽誌上で新古典主義を宣言、「バッハに帰れ」と呼び掛ける。また、演奏者は作曲者の意図に忠実に従うべきであり、自らの解釈や「自己表現」を付け加えてはならない、とも主張した。彼のこうした美学的信条は前衛作曲家の共感を呼び、20世紀音楽の進路に大きな影響を及ぼした。1939年、第2次世界大戦の戦火を避けて渡米したストラビンスキーは新たな聴衆を前にして創造力を取り戻し、「3楽章の交響曲」(1945)で沈滞を脱した。初演当時、世界的人気を博したオペラ「道楽者のなりゆき」(1951)はヘンデル、パーセルの作風に従っており、新古典主義の集大成とみることができる。渡米直後にはまた、サーカスの象のためのダンス音楽「サーカス・ポルカ」(1942)、ブロードウェー・レビューのための「バレエの情景」(1944)など、生活のために雑多な注文作品も書いた。1939年よりハリウッドに定住し、1945年、アメリカの市民権を取得した。1947年、23歳の指揮者、ロバート・クラフトと親交を結び、彼からアーノルド・シェーンベルクの12音技法派をもっと好意的に評価するように勧められて、ストラビンスキーの晩年の偉大な形式展開を導いた。1951年W・H・オーデンの台本を使い、オペラ「道楽者のなりゆき」を作曲した。1957年にはバランチンとともに、バレエの最後の作品となる「アゴン」を創作した。1962年には48年ぶりに故国ロシアを訪れ話題となった。1967年、80代半ばの高齢と病身を押して指揮棒を執り、最後の自作録音を行った。1971年4月6日、ニューヨークで没し、ディアギレフが眠るベネツィアの墓地に埋葬された。 没= ■阿部正弘(1857):幕末期の老中。備後(びんご)国福山藩主。福山藩主阿部正精(まさきよ)の6男として江戸に生まれる。寺社奉行在任中の1841年(天保12)女犯事件を起こした僧侶を処罰して名声を上げ、老中水野忠邦の辞任後、45年(弘化2)若くして老中首座となった。1853年(嘉永6)ペリーが来航すると、事情を朝廷に報告し、諸大名や幕臣に意見を述べさせるなど衆議を重視し、それまでの幕政の方針を転換させた。正弘は徳川斉昭・松平慶永らの親藩、島津斉彬・伊達宗城らの外様大名と親しかったため、譜代大名勢力の反発を受けることになった。これが後の将軍継嗣問題や大老井伊直弼の登場に繋がる。1854年(安政元)神奈川条約(日米和親条約)を結んで開国し、一方では長崎に海軍伝習所、江戸に蕃書調所・講武所を置き、江戸湾・大坂湾などの防備や、大船建造の解禁など国防強化と外圧対策を行った。川路聖謨(としあきら)・岩瀬忠震(ただなり)など、正弘が登用した俊才も多い。10年以上も幕政の中心で開明的政策を行った「天下の名宰相(さいしょう)」といわれるが、衆議を尊重したため優柔不断で消極的という評価もある。 ★国民議会(Assemblee Nationale)=フランス革命初期に成立した議会。その後もフランスの議会では、しばしば国民議会の名称が採用されている。フランス史上最初の国民議会は、1789年6月17日にベルサイユで成立した。母体となったのは、前年末から古い仕組みに基づいて身分別に選ばれた代表者で構成された全国三部会であった。聖職者、貴族の代表者と第三身分の代表者の対立が続く中、6月17日に第三身分の代表者は、自分たちが一身分の代表ではなく、フランス国民の代表であることを主張して国民議会の名称を採択した。 ★沖縄返還協定=第2次世界大戦以来、アメリカの施政権下におかれていた沖縄を日本に返還することを決めた協定。正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国の間の協定」といい、沖縄協定ともいう。1971年(昭和46)6月17日に調印され、1972年5月15日に発効した。これによって沖縄の本土復帰が実現した。 ★1972年6月17日、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入した5人の男がガードマンに捕まった。この取り調べから、ホワイトハウスの指示によるスパイ計画が暴露され、何人もの政府高官が関与していることが発覚した。元司法長官ジョン・ミッチェル、ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーン、ホワイトハウス首席補佐官H.R.ハルドマン、ホワイトハウス国内問題担当特別補佐官ジョン・アーリックマン、そしてニクソン大統領本人であった。 ★バンカー・ヒルの戦(Battle of Bunker Hill)=1775年6月17日、マサチューセッツ植民地のチャールズタウン(現在のボストンの一部)で起きた、アメリカ独立革命初期の大規模な戦闘。前日の夜、プレスコット大佐の率いるアメリカ民兵軍約1200人が、イギリス軍をボストンから撤退させる作戦の一環としてブリーズ・ヒル(標高23m)を占領し、要塞を築いた。これに対して夜明け、イギリス軍最高司令官ゲージはアメリカ軍の陣地を攻撃する準備を始めた。イギリス海軍の軍船がブリーズ・ヒルの射程範囲内まで接近し、ハウ将軍の指揮する、ボストンから派遣された兵士約2500人が上陸した。一方、アメリカ軍には、ウォーレン将軍を始めとする約300人の義勇兵が加わった。 ◆口に蜜有り、腹に剣有り。(唐書) ◆其の樹を陰とする者は其の枝を折らず。(韓詩外伝) ◆人間、莫迦(ばか)は構いません。―だが、義理を知らないのは―人間、義理を知らないのはいけません。(久保田万太郎) |
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| 6月18日 | 誕生= ■ルソー(1712〜1778):フランス啓蒙期の哲学者・社会学および政治学者・音楽家・植物学者。極めて優れた作家でもある。1712年6月18日、スイスのジュネーブに生まれる。誕生の数日後に母親が死亡したため、おじとおばに育てられた。13歳のとき、彫刻師に弟子入りするが、3年後にはそこを逃げ出し、裕福で思いやりのあるバラン夫人の秘書にして友人となる。バラン夫人はルソーの生涯と著作に深い影響を与えた。42年パリに出て、音楽教師、楽譜筆写生、政治家秘書などで生計を立てる。フランスの哲学者ディドロの親しい友人となり、ディドロから「百科全書」の音楽の項目の執筆を依頼されている。1750年、ディジョン・アカデミーの懸賞論文に「学問芸術論」で入選し、1752年には彼のオペラ「村の占い師」が初演された。「学問芸術論」と「人間不平等起源論」においてルソーは、学問と芸術と社会制度は人間を堕落させるものであり、自然状態ないし原始状態の方が文明化された状態より道徳的に優れているという見解を取る。しかし、これら著作の説得力ある文体も、フランスの文学者ボルテールの反感を招き、彼の嘲笑的な論評を受け、両者はしばしば激しく対立した。1756年、パリを離れてモンモランシーに隠棲(いんせい)し、この地で小説「新エロイーズ」(1761)を書く。有名な政治論文「社会契約論」(1762)では、市民的自由の問題を展開し、神権に反対し民衆の意思を擁護することによって、フランス革命のイデオロギー的な背景を準備した。小説「エミール」(1762)に於いて、ルソーは新しい教育論を展開し、バランスの取れた自由に考える子供を育てるには、抑圧よりも感情表現が重要であると強調した。この小説は、教育界に大きな影響を及ぼした。ルソーは、その因習に囚われない考え方のためにフランスとスイス官憲の反感を買い、多くの友人を失い、1762年にロシアに、次いでイギリスに逃亡。イギリスでスコットランドの哲学者ヒュームと親交を結ぶが、やがて仲違いし、公開書簡で罵倒しあうまでになる。イギリス滞在中、「植物学」(1802。死後出版)の草稿を書き、68年、ルノーという偽名を使ってフランスに帰国した。70年には、最も注目すべき著書であり自伝でもある「告白録」の草稿を完成する(1782。死後出版)。「告白録」は透徹した自己分析を含み、ルソーの生活に於ける激しい感情的・道徳的葛藤を描き出している。1778年7月2日、フランスのエルムノンビルにて死去した。ロマン・ロランによるとルソーが若いときには、「臆病、意志薄弱、無性格」だったという。だから、誘惑に弱い人間について嘆息することばには、ルソー自身の反省が込められている? ■エドワード・シルベスター・モース(1838〜1925):アメリカの動物学者。メーン州に生まれる。幼い頃から貝殻の収集研究に熱心で、ハーバード大学のアガシー教授の助手として腕足類の研究に従事した。1877年(明治10)東アジアに生息する腕足類シャミセンガイの採集のため来日した。文部省などの薦めもあり東京大学理学部で教壇に立つ一方で、大森貝塚の発掘調査を行って、日本初の本格的な科学的発掘を実施。日本の考古学、人類学に大きく貢献した。ダーウィンの進化論を日本に紹介したり、江ノ島に臨海生物研究所を設立したり、東京大学生物学会(後の日本動物学会)の創設などもしている。一般向けの講演会でも、分かり易い話と巧みな絵で聴衆を惹きつけた。1882年にも来日し、全国を回って陶器・磁器を始め大量の民族・民俗資料を収集した。現在、ボストン美術館・ピーボディ博物館にこれらのコレクションが保管されている。日本滞在記録である「日本その日その日」(1929)は明治初期の日本を知る重要文献でもある。 ■レーモン・ラディゲ(1903〜1923):フランスの小説家。詩人。「肉体の悪魔」「ドルジェル伯の舞踏会」。 没= ■マクシム・ゴーリキー(1936):ロシアの小説家・戯曲家・随筆家。ソビエト文学の父。社会主義リアリズムの創始者として知られる。彼はまたロシア革命運動においても大きな役割を果たした。1868年3月28日、ニジニーノブゴロド(1932〜91年は彼に因んでゴーリキー市)の指物師の家に生まれる。本名アレクセイ・マクシモビチ・ペシコフ。両親と死別して生活費を稼がなくてはならなくなったゴーリキーは、11歳の時から様々な職を転々とし、何年もの間ヨーロッパ・ロシアの各地を放浪した。この時期、ピストル自殺を図って肺を傷つけ、後にそれがもとで肺結核を病む。その後の彼の生涯は病気勝ちであった。彼のペンネーム「ゴーリキー」はロシア語で「にがい、つらい」の意。1892年に処女作の短編をカフカスの地方新聞に発表し、以後様々な新聞に頻繁に作品を発表する。98年に刊行された作品集「記録と文学」(第2巻は1899年刊行)がベストセラーとなり、ロシア全土で一躍有名になった。初期のロマン主義を捨てた彼は、ロシアの下層階級の過酷な生活を写実的に描いたが、その視点は決して悲観的ではない。ゴーリキーは、労働者、浮浪者、盗人といった人々を、その勇敢な孤軍奮闘ぶりに光を当て、実際の知識をもとに共感を込めて描いた最初のロシアの作家である。パン焼き工場の搾取ぶりを物語る作品「26人の男と1人の娘」(1899)は、この時期の短編の傑作とされる。1880年代からマルクス主義の革命運動に参加していたゴーリキーは、文名が高まった後も、何度か逮捕されながら、革命運動を支援した。1906年、ロシア社会民主労働党の資金調達のため渡米。帰国が許可されないため、そのまま国外に留まり、07年、健康悪化のためイタリアのカプリ島に移住して、13年にようやくロシアに戻った。ゴーリキーは1917年のロシア革命を支持したが、十月革命後の行き過ぎには批判的で、レーニンと対立することもあった。22〜28年、病気療養のためイタリアのソレントに主に居住する。ソ連に帰国後は公的に厚遇され、ソビエト文壇の重鎮としてソ連作家同盟で活躍した。1936年6月18日のゴーリキーの突然の死は、独裁者スターリンの命令によるものだったともいわれる。「母」「クリム・サムギンの生涯」「どん底」「幼年時代」「人々の中で」「私の大学」。 ★ワーテルローの戦(Battle of Waterloo)=一連のナポレオン戦争の最後の戦闘。1815年6月18日に、現在のベルギーの首都ブリュッセルの南東にあるワーテルローで戦われた。この戦いでナポレオンの率いるフランス軍はウェリントン軍(イギリス・オランダ連合軍)と対峙し、会戦は正午前に始まった。そして、夕方からブリュヒャー軍(プロイセン軍)が加わって連合軍が優位に立ち、ナポレオン軍は撃退された。近衛隊による後方支援によってナポレオンはからくも脱出したが、4日後の22日にナポレオンは退位した。こうしてナポレオンの時代は終わった。この結果、フランスによるヨーロッパ大陸支配が終わるとともに、ヨーロッパにおける新しい政治的・軍事的な勢力関係が確定した。 ★ウェリントンは連合軍最高司令官に任命され、1815年6月18日、ワーテルローの戦でナポレオン軍を撃破した。その後、占領軍最高司令官として3年間フランスに止まった後、1818年に帰国すると、リバプール伯のトーリー党内閣に軍需総監として迎えられた。 ◆子どもを不幸にする一番確実な方法は、いつでも、何でも手に入れられるようにしてやることである。(ルソー) ◆十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にして快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にして貪欲に動かされる。いつになったら人間は、ただ叡智のみを追って進むようになるのであろうか。(ルソー) ◆人間の弱さはわれわれを社交的にする。共通の不幸がわれわれの心を互いに結びつける。(ルソー) ◆過失をなすは恥ずべし。されど過失を改(あらた)むるは恥ずべからず。(ルソー) ◆人間は生まれたときは自由である。しかるに至る所で鉄鎖(てつさ)に繋がれている。(ルソー) ◆都市は人類の掃き溜めである。(ルソー) ◆自然を見よ。そして自然が教える道をたどって行け。自然は絶えず子供を鍛える。(ルソー) ◆仕事が楽しみならば人生は極楽だ。苦しみならばそれは地獄だ。(ゴーリキー) ◆才能とは、自分自身を、自分の力を信じることである。(ゴーリキー) ◆真の美というものは、真の知恵と同じく、大変簡明で、誰にも分かり易いものだ。(ゴーリキー) |
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| 6月19日 | 誕生= 没= ■酒井田柿右衛門(1666):肥前(佐賀県)有田の陶工。江戸初期から有田郷で陶業を営み、14代目の現在に至っている。初代柿右衛門(生没年不詳)は、1640年代前半頃までに「赤絵」とよばれる技法の開発に成功し、伊万里焼の発展に大きく貢献した。この技法は、白磁に赤、青、黄、紫など多彩な色で、花鳥や人物を上絵付けしたものである。初期の作品は不明ながら、中国明末の五彩磁に近いものであったと推定されている。17世紀後半以降、柿右衛門様式による色絵磁器は、オランダの東インド会社を通じて多数輸出され、ドイツのマイセンやオランダのデルフトを始め各地で写しが作られるなど、ヨーロッパの色絵磁器の発展に大きな影響を与えた。 ◆愛は最高の奉仕だ。微塵(みじん)も自分の満足を思っては、いけない。(太宰治) ◆私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一事(ひとこと)だ。走れ!メロス。(太宰治) ◆弱虫は、幸福をさえ恐れるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。(太宰治) |
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| 6月20日 | 誕生= ■白河上皇(1053〜1129):第72代とされる天皇。後三条天皇の第1皇子。母は藤原公成の娘で茂子。1069年(延久元)皇太子となり、72年後三条天皇の譲位をうけて即位した。1073年に後三条天皇が没し、次いで85年(応徳2)皇太子実仁親王が病死すると、翌年白河天皇は後三条天皇の遺志を無視して、自分の子で幼い善仁(たるひと)親王(のちの堀河天皇)を皇太子に立て、天皇位を譲った。以後上皇の立場で、幼少の堀河天皇の後見となって政治を行うことになる。これが院政の始まりで、白河院政は堀河・鳥羽・崇徳の3天皇43年間に及んだ。院政を行うに当たって後三条天皇の荘園整理政策を継承することで受領を優遇し、彼らを院の近臣として自分の権力基盤に取り込み、更に叙位(じょい)・任官などの人事権を握って、国政に強い発言力を持った。特に鳥羽天皇の時代以降は摂関家の衰えとともに専制体制を確立した。その治政の様子は、多年、上皇の側近として仕えた藤原宗忠の日記「中右(ちゅうゆう)記」によって知られる。また仏教に深く帰依(きえ)し、法勝寺(六勝寺)を始めとした多くの寺院や仏像を作り、しばしば熊野詣や高野詣を行った。1096年(永長元)には出家し、法皇と呼ばれた。しかし仏教への傾倒は、大寺院の勢力を増大させる結果となった。南都北嶺と呼ばれた興福寺や延暦寺では、朝廷に対し自己の要求を認めさせるために、僧兵を抱え、頻繁に強訴を行った。これに対し白河上皇は、北面の武士をおいて院直属の武力の整備を行い、それに源氏や平氏を起用して対抗した。 没= ■徳川吉宗(1751):江戸幕府の8代将軍。御三家のひとつ和歌山藩の2代藩主徳川光貞の4男。幼名は源六、のち頼方と名乗る。生母お由利の方は百姓の出で、屋敷での下女奉公中に光貞の目に止まったともいう。1697年(元禄10)越前国丹生(にう)郡に3万石の領地を与えられるが、1705年(宝永2)3代藩主の長兄綱教(つなのり)が病死し、後を継いだ次兄頼職(よりもと)も急死したため、和歌山55万石の5代藩主に就任した。同年、将軍綱吉から1字を貰い吉宗と改める。12年間の藩主時代、慢性的な財政難に苦しむ藩政の立て直しに当たった。特に治水・勧農事業を中心とする農政の改革に着手し、緊縮財政を掲げて冗費節減や質素倹約を徹底させ、藩主就任5年目には藩庫に予備の貯えができたという。後の目安箱の先駆けとなる訴訟箱を和歌山城の門外に設け、庶民から意見も求めた。これらは、後の享保の改革の原型ともいえる。1712年(正徳2)6代将軍家宣の病死後、16年(享保元)後を継いだ家継も8歳で死亡。徳川宗家が途絶えたため、将軍の座を吉宗が継いだ。和歌山藩主としての実績が、老中ら幕閣の推挙を得たものである。将軍吉宗は、元禄期以降悪化する一方の財政の改革を中心に、一連の幕政改革を実施。思い切った倹約政策や、年貢増徴・新田開発・貨幣改鋳などの財政再建策、町奉行大岡忠相に命じて行った都市民政策、「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」などの法令編纂などで、この他、全国各地の物産の開発振興、蘭学の発達にも力を注いだ。これらを総称して享保の改革という。 ★テニスコートの誓い=1789年6月20日、フランス革命の開始段階で国民議会を作った第三身分と一部の僧、貴族たちが、憲法の制定まで解散しないことを誓った。国王が認めない国民議会の議場が衛兵によって閉ざされたため、彼らはベルサイユ宮殿脇の室内テニスコートに集まった。立ったままでの議論が行われ、その結果の誓いであった。 ◆け怠(けだい)を憂えれば、則ち始めを慎みて終わりを敬(つつし)むを思う。(魏徴) ◆怠(おこた)る者は修むること能わずして、忌(い)む者は人の修むることを畏(おそ)る。(韓愈) |
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| 6月21日 | 誕生= ■ジャン・ポール・サルトル(1905〜1980):フランスの哲学者・戯曲家・小説家・政治ジャーナリストで、実存主義を主導した代表的人物。1905年6月21日にパリで生まれ、パリの高等師範学校で学ぶ。29年からいくつかの高等中学校で哲学を教えていたが、この頃ボーボワールと出会い、契約結婚する。33〜34年にはドイツに留学し、フッサールやハイデッガーの哲学を学ぶ。第2次世界大戦が始まると兵役に服し、40〜41年にドイツ軍の捕虜となった。釈放後、フランスのヌイイーやパリで教壇に立ち、レジスタンスに参加した。しかしドイツ当局は、それに気づかず、反権威主義的な戯曲「蠅(はえ)」(1943)の上演や哲学上の主著「存在と無」(1943)の出版を認可した。1945年、サルトルは教育活動を放棄し、政治と文学に関する雑誌「レ・タン・モデルヌ(現代)」を創刊、編集長を務めた。47年以降は、冷戦下のソ連にもアメリカにも批判的で、党に属さない社会主義者として活躍した。後にソ連の立場を支持したが、依然としてソ連の政治にしばしば批判を加えた。50年代の著作の大半は文学と政治に関わる問題を扱っている。64年にノーベル文学賞の受賞を拒否したが、これは、そうした賞を受けることは作家としての誠実性を否定することになるという理由であった。1980年4月15日にパリで没した。「嘔吐(おうと)」「自由への道」「出口なし」「恭しき娼婦」「悪魔と神」「アルトナの幽閉者」「聖ジュネ」「フローベールの伝記(全3巻)」「言葉」。 没= ■スカルノ(1970):インドネシア共和国の初代大統領。ジャワ島東部のスラバヤに生まれ、1926年にバンドン工科大学を卒業。在学中から民族運動に参加し、29年にオランダ当局に捕えられ2年後に釈放されたが、33年に再び逮捕され、スマトラ島のベンクルに流刑された。42年、日本軍によって釈放され、日本の占領期には、日本への協力の代わりに政治指導者の地位を認められた。1945年8月17日、日本の降伏直後にインドネシアの独立を宣言し、初代大統領となった。引き続きオランダの再植民地化に抵抗して戦い、オランダは49年に独立を承認した。その後も、55年にバンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開くなど、国際的な反帝国主義運動をリードした。しかし国内では、副大統領ハッタの辞任やスマトラの軍部反乱などで議会政治が行き詰まると、1959年に制憲議会を解散し、ヨーロッパ型民主主義とは異なる、いわゆる「指導された民主主義」を始めた。翌年には国会を解散して軍部への依存を強め、一方で軍部との勢力均衡のために共産党にも近づいた。外交政策では、引き続きアメリカなど西側諸国の植民地主義に対抗する新興国家の指導者として活躍し、オランダに西イリアン(現イリアンジャヤ)を返還させた。63年に新たに発足したマレーシア連邦とは敵対し、65年には国連を脱退して反米色をより強めた。1965年9月30日の左派によるクーデタ未遂事件をきっかけに、右派と軍部は大々的な左派弾圧を行って共産党は壊滅、翌年3月に軍指導者のスハルトが大統領の実権を奪った。更に67年には大統領権限を完全に奪い、翌年、スハルトが第2代大統領となった。スカルノは70年に病没するまで軟禁状態に置かれた。 ■勝新太郎(1997):映画俳優。長唄師匠を父として東京に生まれ、17歳で2代目杵屋(きねや)勝丸を襲名。1954年(昭和29)にスター候補生として大映京都に入社した。「花の白虎隊」「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」「悪名」「釈迦」「不知火検校」「座頭市」「座頭市兇状旅」「兵隊やくざ」「顔役」「御用牙」「子連れ狼」「新座頭市物語・折れた杖(つえ)」。1978年のアヘン法違反(所持)による書類送検、翌年の黒沢明の「影武者」からの降板、81年の勝プロ倒産など苦難が相次いだが、82年には夫人で女優の中村玉緒を社長に新たに勝プロモーションを設立、翌年には「迷走地図」で映画に復帰した。89年(平成元)には15年ぶり26本目の「座頭市」を、製作、監督、脚本、主演の4役で手掛けたが、実子の奥村雄大(現、雁竜太郎)が使用した真剣で殺陣(たて)師が死亡する不運に見舞われ、92年4月には、大麻取締法違反で有罪判決を受けた。1997年6月21日、死去。 ■林子平(1793):江戸後期の経世家。奇行もあって、蒲生君平、高山彦九郎とともに寛政の三奇人と呼ばれる。幕臣岡村良通の2男として江戸に生まれる。兄が仙台藩に仕官したため1757年(宝暦7)に仙台に移ったが、生涯無禄の身分だったため自由で、しばしば江戸や長崎に遊学し、工藤平助に兄事した。大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周らの蘭学者とも交わって海外の新知識を学んだ。1785年(天明5)に書いた「三国通覧図説」では朝鮮・琉球・蝦夷地の地理を紹介し、ロシア防備のための蝦夷地開発を主張。87年から出版を始めた「海国兵談」(全16巻)ではロシアの進出を踏まえ江戸湾防備などの対外防備策の必要性を説き、長崎のみを対象とする幕府の姿勢を批判した。この2冊の本は92年(寛政4)に人心を惑わす危険な書として発売禁止となり、子平も蟄居(ちっきょ)を命じられ、翌年55歳で病死した。■山内豊信(1872):(やまうちとよしげ)幕末の土佐藩主。容堂と号した。藩租の山内一豊から15代目に当る。分家の山内豊著(とよあきら)の長男として生まれ、1848年(嘉永元)13代藩主豊熙(とよてる)が病死し、後継者であった豊熙の弟の豊惇(とよあつ)も急病死したため、宗家を相続した。初め隠居の12代豊資(とよすけ)と門閥譜代たちに行動を制約されたが、1853年のペリー来航を機に藩政改革を行い藩政を掌握した。世情の混乱に伴って将軍継嗣問題が起きると、一橋派として中央政局にも積極的に参加したが、安政の大獄により、59年(安政6)に隠居を余儀なくされた。1862年(文久2)幕府から謹慎を解除されると公武合体論で政局を主導しようと活動を再開したが、藩内および中央政局の激しい推移により叶わなかった。坂本龍馬や後藤象二郎らの建言を容れ、将軍徳川慶喜に大政奉還(1867年(慶応3)10月14日実施)を勧めてからも、ずっと公武協調論者だった。尾張の徳川慶勝(よしかつ)や越前の松平春嶽らと協力して、岩倉具視や薩長の討幕派と鋭く対立しながら、特に徳川家の存続を主張し続けた。具体的には、幕府を廃止する代わりに雄藩連合による議会(公議政体)を設け、そこに徳川慶喜も有力なメンバーとして加わるという案であった。この案は1867年(慶応3)12月の時点では、ほぼまとまりそうだった。しかし薩摩藩による江戸市中撹乱の謀略と、それに業を煮やした幕府による薩摩藩邸焼き討ちによって、事態は急変した。12月28日、この報が江戸から大坂城へ届くと、幕軍は薩長との決戦を主張して沸き立った。明けて1868年(慶応4)正月3日の鳥羽・伏見の戦いとなり、これで容堂ら公武合体派の積年の努力も潰えた。明治新政府では名誉職に就くが、69年(明治2)以降は隠棲(いんせい)生活に入った。1872年(明治5)6月21日、46歳で死去。 ◆人間の運命は人間の手中にある。(サルトル) ◆もし、祖国の一部が自由でないならば、自分は自由だと感ずることはできない。半分生きているということが有り得ないように、半分自由だということは有り得ない。(スカルノ) |
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| 6月22日 | 誕生= ■山本周五郎(1903〜1967):昭和期の小説家。小学校卒業後、東京の山本周五郎質店で住み込み店員として働きながら、英語学校、簿記学校に通う。「須磨寺附近」「日本婦道記」「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚(たん)」「青べか物語」。 没= ■ニコロ・マキャヴェり(1527):ルネサンス期イタリアの政治家・思想家。その著書「君主論」は政治学の古典とされる。小貴族の子としてフィレンツェに生まれ、そこで育った。この時期のフィレンツェではメディチ家の支配が中断し(1494)、サボナローラの神政政治(1494〜98)、サボナローラ失脚後の共和制(1498〜1512)と、激動が続いていた。マキアベリは共和制の時代に書記官として外交と軍事を担当する部門に勤務した。市政の実力者の信頼を勝ち得ていたため、4次に渡ってフランス国王の元に赴き、またローマ教皇、神聖ローマ皇帝の元に派遣された。イタリアの中の多くの都市も訪れて、政治の実力者に会見し、中でも教皇アレクサンデルY世の私生児でイタリア統一を目指して活躍したチェーザレ・ボルジアからは君主の政治的策謀について多くのヒントを得た。マキアベリは、傭兵を用いる軍事活動を批判し、1503年には農民からなる民兵隊を組織しようとした。1512年にフィレンツェでメディチ家の支配が復活し共和制が崩壊すると、マキアベリは反メディチ派として職務を追われ、裏切りのかどで裁判や投獄を経験した後、フィレンツェ郊外に退き執筆活動に専念することになった。18年以後はメディチ家と良好な関係を持つことができ要職にも就いたが、27年に神聖ローマ皇帝カールX世の軍隊が侵入してくると、再びメディチ家はフィレンツェから追放され、マキアベリは今度はメディチ派として、職務を追われ、数カ月後に死去した。マキアベリの著作には、政治を論じたもの、歴史を扱うもの、文学作品と見なせるものがある。最も有名なものは「君主論」で、1513年に書かれた(出版は1532)。ここにはマキアベリの生涯の関心事だった、外敵の侵略に対抗できる国家の仕組みと、それを実現し維持していくための方策が延べられている。正義を省みない権謀術数が後にマキアベリズムという言葉で表現されるようになるが、彼の論点は、政治には信仰や道徳とは無関係に、固有の法則や、それに基づく技術があるということであった。マキアベリの観察は、物事の中に独自の法則を明らかにしようとした、ルネサンスの学者や芸術家と類似しているといえよう。このほかに、傭兵に代えて徴兵制度を採用することを主張した「戦術をめぐる論考」(1521) などの施政に関わる提言、ドイツとフランスについての観察記録、メディチ家の依頼によって執筆された「フィレンツェ史」(1525)、一種の歴史哲学書である「ティトゥス・リウィウスの最初の10章についての論考」(出版は1531)などがある。 ★アメリカ・スペイン戦争のサンティアゴデクーバ攻防戦=アメリカ・スペイン戦争は、スペインの植民地であるフィリピンとキューバが戦場となった。1898年6月22日、アメリカは1万5000人の兵士をキューバのサンティアゴデクーバ南東に上陸させた。7月1日、市郊外でスペイン軍と交戦して勝利、サンティアゴデクーバを包囲した。この時、サンフアン・ヒルの戦でセオドア・ルーズベルトが活躍したことはよく知られている。一方、アメリカ海軍は港を封鎖した。7月3日、スペイン艦隊は封鎖を突破しようとしたが、アメリカ艦隊の攻撃により沈没、座礁した。アメリカ艦隊に大きな被害はなかった。 ★1941年6月22日、ドイツ軍は突如ソ連への進撃を開始した。同日、イタリアとルーマニアもソ連に対し宣戦を布告した。フィンランド、ハンガリー、アルバニアなどの諸国もこれに続いたが、イギリスとアメリカはソ連に対する物資援助を行った。日米開戦によりアメリカが戦争に加わると、英・米・ソの3国は軍事連合を形成、1942年1月には、大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言が発表され、戦争中の連合国の協力が誓約された。 ★かに座=かに座は、ギリシャ神話で英雄ヘラクレスと戦った化けガニに因む。占星術では、かに座は獣帯の第4宮の水の宮で、月に支配される。誕生日が6月22日から7月22日の人はかに座生まれとされる。 ★百日天下(les Cent-Jours)=ナポレオンT世が、エルバ島から脱出してフランス皇帝位に復帰した1815年3月20日から、退位するまでの九十数日間を約100日間とみて百日天下という。この間、ルイ][世はベルギーに亡命、ヨーロッパ諸国は連合してワーテルローの戦でナポレオンが率いるフランス軍を破り、6月22日にナポレオンを退位させた。 ★バルバロッサ作戦=1941年6月22日、ヒトラーはソ連打倒を目論み、「バルバロッサ作戦」を開始した。 ◆ときには我を失うほど酔うことも人間の特権だ。(山本周五郎) ◆「絶望」は人間だけが持つことのできる黄金である。同じ意味で「酒」とよく似ている。(山本周五郎) ◆一足飛びに山の頂点へ上がるのも、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局は同じことになる。(山本周五郎) ◆能ある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしている。(山本周五郎) |
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| 6月23日 | 誕生= ■水野忠邦(1794〜1851):江戸後期の老中で、天保の改革の指導者。肥前国唐津(からつ)藩主水野忠光(ただあきら)の子として江戸に生まれる。1812年(文化9)父の後を受けて藩主に就任、自ら先頭に立って藩政改革を断行。22歳で幕府の奏者番(そうじゃばん)となった忠邦は、長崎警固役を務める唐津藩主のままでは幕閣で出世できないとして、昇進に有利な浜松への転封を実現する。寺社奉行から、その後は大坂城代、京都所司代、西ノ丸老中、本丸老中と順調に昇進、39年(天保10)に老中首座となり幕府の最高責任者となった。1841年大御所徳川家斉が死ぬと側近を一掃、改革派の人材を登用し、将軍家慶(いえよし)の名で天保の改革に着手する。内憂外患の累積する中で、都市政策や産業統制策・年貢増徴策を断行するが、上知令が大名・旗本の猛反対にあって失敗、2年余で幕閣をさる。44年(弘化元)再び老中首座に返り咲くが、持病などが原因で翌年辞職。後に改革中の政治責任を問われ減封、隠居、謹慎を命じられ、家督を継いだ忠精(ただきよ)も出羽国山形に転封の処分を受けた。 ■キンゼー(1894〜1956):アメリカの生物学者。人間の性行動に関する先駆的な調査で知られる。その調査にもとづくキンゼー報告は、広範な影響を社会に与えた。1894年6月23日、ニュージャージー州ホーボーケンに生まれた。1942年、性科学研究所を設立して、人間の性行動の調査を始めた。仲間とともに、15年間に渡っておよそ1万8000人の男女と面接し、その調査結果を、「男性の性的行動」Sexual Behavior in the Human Male(1948)、「女性の性的行動」Sexual Behavior in the Human Female(1953)にまとめ、発表した。この2つの報告は「キンゼー報告」と総称される。報告の内容と、これまでに例をみない方法は議論をよび、強い反発を招いたが、後に研究室内で行われるようになった人間の性に関する研究への道を開き、より現実に即した性行動への理解を可能にした。1956年8月25日、インディアナ州ブルーミントンで死去。性科学研究所は、キンゼーの研究仲間が行った調査の結果を、報告の続編として発表した。 ■アラン・チューリング(1912〜1954):イギリスの数学者。数値解析およびコンピューターの基礎理論の分野で、多くの独創的な研究を行った。いわゆる情報科学の創始者のひとりで、初めて計算機がどこまで理論的に動作できるかを実験し、更に「知的な機械」としての人工知能の可能性を示したことで知られる。1912年6月23日、ロンドンに生まれ、13歳のときシャーボーン・スクールで学んだ。この時、自分がホモセクシュアルであることを自覚し、生徒の一人に恋をした。1931年から35年、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに入学し記号論理学を学び、1935年に学士号を取得した。1936年には、ガウスの誤差関数の研究で数学のスミス賞を受賞した。同年渡米し、プリンストン大学で2年間に渡って研究を行った。1937年に「計算可能関数と決定問題への応用」と題する論文を発表し、今日のコンピューターの基礎になる仮想的な機械(チューリング機械)を提示した。これは数理論理学とコンピューター理論に発展する画期的な論文であった。1938年に学位を取得後、イギリスに帰国。第2次世界大戦中の1939年から1945年はイギリス外務省暗号局に勤め、ナチスのエニグマ暗号の解読に貢献し、その業績により勲章を受けた。戦後は、国立物理学研究所でACEという自動コンピューターの設計プロジェクトに参加するが、1947年にはケンブリッジ大学へ戻り、1948年からマンチェスター大学の計算理論の講師を勤めた。1950年には「マインド」誌に掲載された論文で、人工知能の実現を予測し、1951年に王立協会会員となった。1952年、当時のイギリスでは同性愛は重罪で、チューリングは同性愛行為によって裁判に掛けられ、「重大なる猥褻行為」の罪を宣告された。執行猶予にはなったが、性欲を抑制するという名目で女性ホルモンを注射された。チューリングは、コンピューターの知的能力をテストする方法として、後にチューリングテストとよばれる手法を提案した。これは、隔離されている2つの部屋に、コンピューターと人間を入れ、ケーブルで接続された質問者から、コンピューターと人間の双方に同じ質問をする。回答は、すべてプリンターに出力され、形式だけでは判別できないようにしてある。質問者に返される回答が適切で、コンピューターからのものか人間からのものかが判定できないとき、コンピューターが人間のように考えていると定義した。その他、コンピューターの知的な動作のひとつとして、チェスをさせることにも熱心だった。そうしたところから、今日AI(人工知能)とよばれるコンピューター科学の一分野の開祖とも見られている。晩年は、特に生物の形態形成に大きな関心を持ち、対称構造の進化や牛の斑(まだら)模様の発達を微分方程式で示すなど、化学反応の数学的理論の組み立てについてユニークな研究を続けたが、1954年6月7日、自宅で青酸カリをまぶした林檎を食べて41歳で死亡した。彼の名を冠したチューリング賞は1966年に創設され、世界最大のソフトウェア学会であるACM(Association for Computing Machinery)が、情報科学分野で優れた業績を挙げた研究者に与える、最高の賞とされる。 没= ■国木田独歩(1908):明治期の小説家・詩人。学生の頃キリスト教に入信。カーライルやワーズワースに共鳴し、作家を志した。国民新聞社に入社し、日清戦争の従軍記者として名を挙げたが、その後、浪漫主義的な詩を多数書き、共著詩集「抒情詩(じょじょうし)」(1897)にまとめた。また、小説の処女作「源叔父(げんおじ)」(1897)や「武蔵野」「忘れえぬ人々」(ともに1898)では瑞々しい自然描写に新境地を開拓。「牛肉と馬鈴薯」(1901)、「運命論者」(1903)などでは社会的現実を凝視する傾向を見せ、「窮死」「竹の木戸」(ともに1908)で貧しい人々の悲惨な生活を描いて、自然主義的な作家と目された。 ★オリンピックデー ★沖縄戦=太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3〜6月、南西諸島、沖縄島および周辺の島々で行われた日米最後の決戦。1945年6月23日に牛島軍司令官が摩文仁洞窟で自決し、組織的戦闘は終わった。 ★慰霊の日=沖縄では、毎年6月23日を「慰霊の日」として休日とし、各地で合同慰霊祭が行われている。 ★プラッシーの戦(Battle of Plassey)=1757年に起きたイギリス東インド会社とベンガル地方のナワーブ(太守)との戦い。この戦いでの勝利が、イギリスのインド植民地支配の始まりとなった。この戦いに先だつ1740年にムガル帝国のベンガル太守となったアリーバルディー・ハーンは衰退期にあった帝国の支配を離れて地方権力を築いていたが、東インド会社から財政的圧迫を受けていた。1756年、死亡したハーンの跡を継いだ孫のシラージュ・ウッダウラはコルカタ(カルカッタ)のウィリアム要塞(ようさい)を占拠し、イギリス側と衝突した。翌年、東インド会社軍が要塞を奪い返したため戦闘は激化し、両軍は6月23日、ムルシダーバード近郊プラッシーの野で一大決戦に及んだ。 ★昭和新山=1943年(昭和18)12月、地震を伴って洞爺カルデラの一部である有珠山の東麓(とうろく)の畑が隆起し始めた。1日に20〜150cmも盛り上がり、1944年5月に隆起は50mに達した。6月23日に中央部から爆発が始まり、10月末まで続いた。11月には100m以上に成長していた小山の頂部を新たな溶岩が突き破り、活動が終息した1945年9月には標高407mの高さに達していた。この一連の活動でサージ(熱風)が発生し、森林や家屋を破壊した。 ★日米安保条約=正式には、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約とともに日米間で調印され、翌52年4月28日に同講和条約とともに発動した。その後1960年1月19日、日米新安保条約が調印され、6月23日に同条約が成立して、日米相互協力および安全保障条約(正式には、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)となった。両者を含めて日米安全保障条約と総称される。 ★国際オリンピック委員会=近代オリンピックの国際的統轄機関。略称はIOC(International Olympic Committee)。1894年6月23日、フランスのクーベルタンの提唱によって創設された。目的は、(1)スポーツおよびスポーツ競技会の組織化を推進し、(2)スポーツをオリンピックの理想にそって発展させ、(3)オリンピック大会を定期的に開催し、(4)オリンピック大会を古代オリンピックの光輝ある歴史と高遠な理想にふさわしいものとすることにあり、その第1回大会が1896年4月に古代オリンピック発祥の地であるギリシャのアテネで開催された。 ◆人は世間から生まれ出(いで)て世間の中(うち)に葬られて了(しま)うのではない、天地から生まれて天地に葬られるのである。(国木田独歩) ◆日月(じつげつ)は一物(いちぶつ)の為にその明を晦(くら)くせず。(古文孝経) |
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| 6月24日 | 誕生= ■ビクター・フランツ・ヘス(1883〜1964):オーストリア生まれのアメリカの物理学者。最初期の宇宙線研究者のひとり。1911年に軽気球を上げて高度9000mの上空で宇宙空間からやって来る高エネルギー放射線である宇宙線を観測し、その存在を証明した。また31年にはオーストリアのハーフェレカー山の山頂に宇宙線観測所を開設した。36年、宇宙線研究の功績によりノーベル物理学賞をアメリカの物理学者アンダーソンとともに受賞。38年、ナチスのオーストリア併合により、職を追われてアメリカに渡り、44年に帰化した。著書に「大気の伝導率」(1928)、「宇宙線とその生物学的効果」(1949)がある。 没= ■加藤清正(1611):安土桃山時代〜江戸初期の武将、大名。幼名は夜叉丸(やしゃまる)、元服して虎之助(とらのすけ)清正。尾張国愛智郡中村(名古屋市)の出身。同郷の縁で幼少から豊臣秀吉に仕える。秀吉子飼いの家臣として様々な戦いに参加し、特に1583年(天正11)の柴田勝家との賤ヶ岳の戦で華々しい戦功を挙げ、のち賤ヶ岳七本槍のひとりとして称えられた。86年、主計頭(かずえのかみ)となり、88年には肥後国北半分を与えられた。1592年(文禄元)からの文禄・慶長の役ではいずれも渡海し、前線の大将として奮戦した。特に文禄の役では、漢城(ソウル)を落として朝鮮の2王子を捕え、現在のロシア領あたりまで兵を進めた。この時の虎退治の話は、清正の武勇のイメージから後世作られたものである。武勇に優れていただけでなく、若い時には兵站(へいたん)業務や豊臣政権の直轄領の代官も務めており、経済にも通じていた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で東軍に付いた功績で、天草・球磨(くま)郡を除く肥後一国を与えられると、領内の河川改修や新田開発に努め、肥後の経済基盤を固めた。日本三名城のひとつの熊本城を築城し、城下町経営にも才能を示したため、大名統制策として諸大名を建築・土木事業に駆り立てた江戸幕府から重用され、江戸城・名古屋城の普請工事にも携わった。また熱心な日蓮宗信者で、早くから領内寺院の復興を計り、キリシタン信徒への弾圧策を取った。幕府に忠節を尽くしながら、秀吉子飼いの家臣として豊臣家の存続にも心を砕き、1611年(慶長16)徳川家康と豊臣秀頼の会見を成功させた。秀頼に付き沿った会見の帰路に死去。そのため、徳川方の毒殺説も生まれた。 ■美空ひばり(1990):歌手。横浜市の魚屋「魚増」の長女に生まれる。本名は加藤和枝。9歳から近くの劇場に出演し、1948年(昭和23)、「河童ブギウギ」でレコード・デビュー。天才少女歌手とうたわれ、急激に人気を獲得する。49年、「のど自慢狂時代」で映画に初出演。同年発表のレコード「悲しき口笛」は50万枚のヒットとなり、同じ題名で初の主演映画が制作された。余りの人気に58年7月、ひばりの1社独占を禁じる紳士協定が当時の映画会社6社の間で結ばれた。全盛期の57〜61年には、年平均12本のペースで計63本の映画に出演した。「演歌の女王」の異名をとる。65年、「柔」で第7回レコード大賞を受賞。没後、国民栄誉賞が贈られた。 ★FUSE(エフユーエスイー)=1999年6月24日にアメリカで打ち上げられた紫外線天文衛星。NASAの依頼によって、ジョンズ・ポプキンズ大学とカナダおよびフランスの宇宙局の協力で開発された。星間ガス中の重水素から出る紫外線を観測する。重水素は、ビッグバンで作られたと考えられている。 ★ベルリン封鎖(Berlin Blockade)=1948年6月24日から1949年5月12日まで、ソ連が西ベルリンへの陸路を遮断したこと。第2次世界大戦後、ドイツとその首都ベルリンは、アメリカなど西側3国とソ連に分割占領された。1948年、西側3国は占領地の統合を進め、これにソ連が抗議してベルリンの西側占領区を孤立させた。西側は空路で物資を輸送、冷戦の緊張が一気に高まった。封鎖は翌1949年5月に解除されたが、空輸は10月まで続くことになる。なお、1949年5月に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が、10月に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国した。 ◆政府は帆であり、国民は風であり、国家は船であり、時代は海である。(ベルネ) ◆みんなを不幸せにしておいて、どうしてお国だけが良くなるなんてことが言えるんでしょうか。(内村直也) |
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| 6月25日 | 誕生= ■菅原道真(845〜903):(すがわらのみちざね)平安中期の学者、政治家。後世、菅公(かんこう)といわれ、学問の神様として崇められた。また遣唐使の中止を建議したことでも著名。文章(もんじょう)博士の菅原是善の3男で、母は伴(とも)氏出身。18歳で文章生となり、877年(元慶元)には文章博士となった。10年後に讃岐守(さぬきのかみ)として赴任。在任中に中央で宇多天皇と藤原基経の間に阿衡(あこう)事件が起こり、良識ある立場で基経に自分の見解を伝えたという。帰京後、宇多天皇に重く用いられたが、それは藤原氏の専横を押さえようとするためでもあった。891年(寛平3)、基経が没すると蔵人頭(くろうどのとう)に就任、894年には遣唐使に任命されたが、唐の戦乱や唐から学ぶ意義が薄れたことなどを理由に申請して中止させ、以後遣唐使はなくなっている。その後は基経の子の時平と並んで目覚ましい出世を遂げ、中納言さらに権大納言(ごんのだいなごん)へと進み、899年(昌泰2)には遂に右大臣に任じられた。その当時時平は左大臣で、大臣の席が藤原氏に独占されつつあった。宇多上皇の後ろ盾があったにしろ、学者出身の道真の大抜擢(ばってき)には、反発も大きかった。2年後の901年(延喜元)醍醐天皇を廃しようとした罪で、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷される。事件は時平の陰謀だとされるが、真相は明らかではない。大宰府に赴いた道真は、配所で謹慎、望郷の中で2年後に没した。その死後、清涼殿に雷が落ち、関係した人が亡くなるなどの異変が相次いだために、御霊となった道真の祟りだとの考えが京の人々に広まった。その結果、923年(延長元)には罪の取り消しがなされ、後には正一位太政大臣が贈られた。京都の北野天神は、10世紀半ばに道真の怨霊を鎮めるために建てられ、以後天神信仰は雷神、農業神との関係もあり、庶民に広く受け入れられるようになった。また、優れた学者だったことから学問、芸道の神としても崇拝された。伝承・伝説化した道真を語る作品は多いが、鎌倉初期の「北野天神縁起」(北野天満宮蔵)は道真の生涯と霊が雷神になったという伝承を描いたもので、後世に大きな影響を与えた。そもそも文章博士であり、文人としても学者としても道真は当時の最高峰の人物であった。史書編纂においては、宇多天皇の命を奉じて「類聚国史」(892)を編述し、また、六国史の最後にあたる「日本三代実録」(901)の編纂事業にも大きく関わった。文人としては、まず「菅家文草(かんけぶんぞう)」12巻(900年成立)と「菅家後集」1巻(903年成立)にまとめられた比類ない漢詩文がある。道真の漢詩は純粋に唐風のものではなく、国風文化勃興(ぼっこう)を背景に和臭を帯びた独自の格調高い詩風を持っている。和歌にも優れ、「古今和歌集」以下の勅撰集に34首が採られている。大宰府配流の折に詠(よ)んだとされる「こち(東風)ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(「拾遺和歌集」)は特に有名であり、後に飛梅伝説を生みだした。また、百人一首にも「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに」が採られている。 没= ■宮城道雄(1956):生田流筝曲。7歳で完全に失明した。東京発の夜行列車「銀河」から転落して62歳の生涯を閉じた。「せきれい」「さくら変奏曲」「瀬音」「越天楽変奏曲」「春の海」。 ★朝鮮戦争 ★1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。 ★カスター=カスターは、南北戦争で戦功をあげて義勇軍の准将から少将になった。戦後、中佐として第7騎兵隊を率い、西部開拓地の守衛を行った。1876年6月25日、第7騎兵隊はリトル・ビッグホーン川の近くでスー族とシャイアン族の連合軍と戦い、全員戦死した。 ◆人、その友の為に己の生命を棄つる、これより大なる愛はなし。(新約聖書) ◆幸いなるかな心の貧しき者、天国はその人のものなり。(新約聖書) |
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| 6月26日 | 誕生= ■パール・バック(1892〜1973):アメリカの女流小説家。宣教師の娘としてウェストバージニア州ヒルズボロに生まれた。生後まもなく両親に連れられて中国に渡り、1933年まで暮らした。処女作「東の風、西の風」(1930)以降65冊を越える作品の多くで、中国と中国人を好意的に描いた。単純で率直な文体と、人間生命の根源的な価値に寄せる思いは、中国小説の研究から生まれたものである。作品を執筆することにより、中国への理解を深めようとした。38年、ノーベル文学賞を受賞。「大地」(1931)は、1920年代中国における劇的な物語で、32年のピュリッツァー賞小説部門を獲得した。「息子たち」(1932)、「分裂した家」(1935)と併せて3部作「大地の家」を構成し、今だに人気を保っている作品である。他に「竜子」(1942)などの小説のほか、「私の世界」(1954)、「通り行く橋」(1964)の自伝も出版している。晩年の作品に「ケネディ家の婦人たち」(1970)と「見たままの中国」(1970)がある。ジョン・セジズの名前でも数編の小説を書いた。 ■ケルビン卿(1824〜1907):イギリスの数学者、物理学者。時代の先駆的な物理学者であり偉大な教師であった。本来の名はウィリアム・トムソン。1824年6月26日、アイルランドのベルファストに生まれ、グラスゴー大学とケンブリッジ大学で学ぶ。46年から99年まで、グラスゴー大学で教授を務めた。ケルビンは、熱力学の分野で、イギリスの物理学者ジュールが行った熱エネルギーと機械エネルギーとの相互関係の研究を発展させ、1852年に、ジュール=トムソン効果として知られるようになる現象の共同研究を行った。48年に絶対温度目盛を提案し、その単位は彼の名からケルビンと付けられた。電気の分野では電信の研究を行い、電線での信号伝達の数学的理論を築いた。また、電線の製造方法と、反照検流計、サイホン記録計の構造を改良した。57〜58年と65〜66年には、大西洋電信ケーブルの敷設に技術顧問として従事した。ケルビンはまた、放電の振動特性、金属の電気力学特性を研究し、磁気の数学的な解析を試みた。そのうえ弾性理論の構築にも貢献した。また、ドイツの生理学者であり物理学者のヘルムホルツとともに太陽の年齢を推定し、表面から放射されるエネルギーを計算した。ケルビンが発明し改良した装置の例をあげると、潮汐予測装置、電位計、測深器、音響器などがある。また、船の羅針盤も改良した。1866年にナイトとなり、92年には貴族に列せられた。90年に王立協会の会長になり、1902年にはメリット勲章を受けた。1907年12月17日に没する。ケルビンの科学論文の多くは、電気と磁気の論文集(1872)、数学物理論文集(1882、83、90)、講義講演集(1889〜94)に集められている。現在の絶対温度の単位(-273.16°Cを0度とする)の記号Kはケルビンに因む。 没= ■萩野昇(1990):1955年(昭和30)イタイイタイ病について河野稔と共に学会で発表した。本格的な疫学調査が始まったのは63年からである。68年には厚生省(現、厚生労働省)が、病気の主因は神通川上流の三井金属鉱業神岡鉱業所から排出されたカドミウムであると発表、公害病として正式に認定した。 ★国連憲章調印記念日 ★国連憲章は、1945年6月26日に、サンフランシスコ会議の参加国50カ国とポーランドによって署名された。効力発生には5大国と、その他の署名国の過半数(すなわち24カ国)、合計29カ国が批准書をアメリカ政府に寄託することが必要であり、10月24日にこれが達成され、国連が成立した。 ◆来世(らいせい)は待つべからず、往世(おうせい)は追うべからず。(荘子) ◆現在はその一部が将来、他が過去である。(クリュシッポス) |
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| 6月27日 | 誕生= ■ヘレン・ケラー(1880〜1968):アメリカの女流著述家・社会事業家。身体の三重のハンディキャップを克服して、障害を持つ人々を鼓舞激励した。1880年6月27日、アラバマ州タスカンビアに生まれ、1882年2歳(生後19ケ月)の時の高熱のため、目、耳、口が不自由になった。1887年7歳から、パーキンス盲学校のアン・マンスフィールド・サリバンから、読み書きの特殊教育を受け始めた。まもなく点字を習得、特注のタイプライターで書き方も覚えた。1890年には、わずか1カ月の練習で、話し方までマスターした。1903年に「ヘレン・ケラー自伝 私の青春時代」を出版。1904年ラドクリフ女子大学を優等で卒業後、視覚障害者のためのマサチューセッツ委員会で委員を務めた。1919年にサリバンと、4年間に渡りボードビル・ショーに出演した。1936年にサリバンが死去した。ケラーはサリバンの死後32年間生き、その間、障害者が自立できることを身をもって示した。1959年に「奇跡の人」がテレビで放映された。後に舞台と映画になった。1968年6月1日、コネティカット州ウェストポートで死去した。生涯を通じて視覚障害者アメリカ基金の募金活動に努め、またイギリス、フランス、イタリア、エジプト、南アフリカ、オーストラリア、日本などの諸国を回って講演した。平和主義者であり、社会主義運動にも積極的に参加した。第2次世界大戦後、アメリカの病院に傷痍(しょうい)軍人を見舞い、ヨーロッパでは身体障害者のために講演した。著書には「私の生涯」(1903)、「私の住む世界」(1908)、「暗闇から外へ」(1913)、「中流―私の晩年」(1930)、「私の宗教」(1940)、「教師、アン・サリバン・メーシー」(1955)、「オープン・ドアー」(1957)などがある。その生涯は、映画「征服されざるもの」(1954)と、アメリカの作家ウィリアム・ギブソン作の劇「奇跡の人」(1959年上演、1962年映画化)で取り上げられた。 ■小泉八雲(1850〜1904):(ラフカデオ・ハーン)明治時代に来日し、後に帰化した随筆家、批評家、英文学者。1890年(明治23)4月来日。8月松江中学校に赴任したのをきっかけに、松江の町に魅了され、日本の民俗、神話など日本文化研究に傾注した。同年11月小泉セツと結婚、のち96年帰化して小泉八雲と名乗った。この帰化名は「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」の古歌に因む。松江には91年11月熊本の第5高等中学校に転任するまで住んだ。宍道(しんじ)湖の夕日は、ハーンの名文によって「日本三大夕日」のひとつに挙げられるようになったという。1896年、(東京)帝国大学英文学講師に招かれ、1903年までその職にあった。その間、「心」(1896)、「仏陀の畑の落ち穂」(1897)、「異国情趣と回顧」(1898)、「霊の日本にて」(1899)などを精力的に出版した。1903年、東京帝大から期限切れの解雇通告を受けたが、学生の留任運動が起き、大学側は講義時間、俸給を半減するという条件で慰留するが、これを拒否した。後任は夏目漱石と上田敏だった。04年、早稲田大学文学部に招かれ、日本の怪談を再話した短編集「怪談」を刊行。次いで「神国日本」の出版直前、9月26日に死去した。 ■ファン・トリップ(1899〜1981):1899年6月27日、ニュージャージー州シーブライトで生まれた。1921年にエール大学を卒業し、短期間ウォール街で働いた。1927年10月28日にパンナムを創立して、フロリダ―キューバ間でフライトサービスを開始した。1935年にはアジア便「チャイナ・クリッパーズ」を就航させた。1952年に大西洋便でツーリスト・クラス料金が広く導入された。1958年10月ニューヨーク―パリ間でボーイング707を運航開始した。1968年にパンナム会長を辞任。1981年4月3日、ニューヨーク市で死去。 没= ■上田秋成(1809):(うえだあきなり)76歳、江戸中期の小説家・歌人・国学者。大坂で生まれ、幼時に同じ大坂の紙油商の養子となる。青年時代は漁焉(ぎょえん)の号で俳諧に熱中し、また変人・奇人を主人公とした「諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)」(1766)、「世間妾形気(せけんてかけかたぎ)」(1767)の2つの浮世草子を書いた。この頃から和歌や国学も学び、1768年(明和5)には、怪談小説の白眉(はくび)である読本「雨月物語」の草稿を書き上げている。刊行は1776年(安永5)。38歳の時に大坂の大火で店を失い、以後、医者として身を立てる傍ら、国学研究を深め、「源氏物語」評論の「ぬば玉の巻」(1779)、柿本人麻呂の伝記考証「歌聖伝」(1785)などを著した。50歳代には、本居宣長と、古代国語の音韻や日の神(アマテラスオオミカミ)を巡って論争を展開、古代文献の記載を絶対のものとする宣長と、文献への不信の念を拭い切れない秋成の、国学者としての体質の違いを明らかにしている。1787年に大坂郊外に隠棲し、そこで風刺小説「癇癖談(くせものがたり)」を書いた。93年以降は京都に移り、国学研究と和歌・和文の創作に没頭した。「伊勢物語」研究書の「よしやあしや」(1793)、「万葉集」の研究書「金砂」(1803)など多数の著作がある。晩年は妻に先立たれ、煎茶を友として貧窮の生活を送った。当時の生活と思想をよく語っている随筆に「胆大小心録」(1808)がある。同じ年に書かれた読本「春雨物語」は、歴史や伝説、当時の実話などをもとに独自の虚構世界を築いた小説で、江戸時代小説のひとつの頂点を示している。 ★シベリア抑留者たちの帰還=1949年(昭和24)6月27日、ソ連からの引き揚げ再開第1船の高砂丸(たかさごまる)が京都府の舞鶴港へ入った。ナホトカを出発した2000人のシベリアからの引き揚げ者たちだ。つづいて30日と7月2日にも着いたが、2日までに240人が共産党に入党したといわれ、「赤い引き揚げ」と呼ばれた。この後、12月まで44隻の引き揚げ船が舞鶴港に入港する。 ★1995年6月27日に打ち上げられたスペースシャトル、アトランティスが29日にロシアの宇宙ステーション、ミールとのドッキングに成功した。 ◆希望は人を成功に導く信仰である。(ヘレン・ケラー) ◆慈なり、故に能(よ)く勇なり。(老子) |
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| 6月28日 | 誕生= ■ルイジ・ビランデルロ(1867〜1936):イタリアの作家・ノーベル賞受賞者。1867年6月28日、シチリア島のアグリジェントに生まれ、ローマ大学とドイツのボン大学に学んだ。34年にはノーベル文学賞を受賞。1936年12月10日、ローマで没した。「作者を探す六人の登場人物」「誠実の愉しみ」「御意にまかす」「ハインリヒW世」「一年間の物語」「故マッティア・パスカル氏」。 ■ロジャーズ(1902〜1979):1902年6月28日、ニューヨークのロングアイランドで医者の家庭に生まれた。1919年コロンビア大学に入学、その頃に最初の相棒、ローレンツ・ハートに出会う。2人は1925年に作った「マンハッタン」が一夜にしてヒットを飛ばす。しかし、ハートは大酒飲みで、アルコール中毒になりコンビを解消した。その後、旧友のオスカー・ハマースタインU世(1895年7月12日ニューヨークで生まれた)と新たなコンビを組んだ。1943年の3月31日、「オクラホマ」のブロードウェー公演初日は大成功だった。1945年唯一のオリジナル映画「ステート・フェア」を製作した。1946年にアービング・バーリンの「アニーよ、銃を取れ」をプロデュースした。1949年「南太平洋」開幕。1957年、唯一のテレビ・ミュージカル「シンデレラ」放映。1960年に、彼らの最後のミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」開幕。同年8月23日、ハマースタインが65歳で癌のため亡くなった。1962年、ロジャーズは「ノー・ストリングス」を作詞する。1979年12月30日、ロジャーズが77歳で死去した。ロジャーズとハマースタインは共同で9つのミュージカルを創作し、「オクラホマ!」「回転木馬」「南太平洋」「王様と私」「サウンド・オブ・ミュージック」が伝説的なヒットとなった。 没= ■林芙美子(1951):小説家。両親が行商だったので小さい頃から放浪生活を送った。アルバイトをしながら尾道高女を卒業して、文筆の道を目指した。1922年(大正11)に尾道高女を卒業し、因島出身で明治大学生の恋人を頼って上京した。銭湯の下足番や帯封の宛名書きなどの職を転々として生計を立てた。翌年の春、恋人は郷里で就職するため帰った。当時は女性の社会進出が遅れていたから、女性が働きながら生きていくのは大変難しかった。そうした時代に、貧乏のどん底に落ちながら体当たりで生きていく女性の姿を描いたのが「放浪記」である。 ★貿易記念日 ★1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年の民族主義者プリンツィプが、陸軍大演習の観閲のため妃のゾフィー・コテックとともにサラエボを訪問中のオーストリア・ハンガリー二重帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという、いわゆるサラエボ事件が突発した。オーストリア・ハンガリー政府は事件をセルビアの陰謀と断定し、自国を脅かすセルビアを打ち倒す決意を固め、この暗殺事件の1カ月後、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告、ヨーロッパ戦争の危険が急浮上した。オーストリア・ハンガリーのセルビア攻撃はセルビアを支援するロシアの介入を、ロシアの介入はドイツのオーストリア・ハンガリー支援を招き、その結果、ヨーロッパ諸国は2大陣営に分かれて対決する恐れが現実のものとなった。 ★浅間山の大噴火=長野県北佐久郡と群馬県吾妻(あがつま)郡にまたがる浅間山が1783年(天明3)7月におこした大噴火。「天明の浅間焼け」ともいい、火砕流が吾妻川沿いの鎌原(かんばら)村(現、群馬県嬬恋村)などをうめつくした。6月28日以降は連日爆発を繰り返し、周辺に灰を降らしていた。 ★平和五原則=中国の周恩来首相とインドのネルー首相の会談にもとづいて、1954年6月28日に発表された国際関係の原則。(1)主権・領土保全の相互尊重、(2)相互不可侵、(3)相互内政不干渉、(4)平等互恵、(5)平和共存の5項目からなる。 ★姉川の戦=1570年(元亀元)6月28日、近江(おうみ)国姉川(滋賀県浅井町)で行われた織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍の合戦。この年4月、信長が上洛命令に従わなかった越前の朝倉氏を攻めた際、信長の妹婿の浅井長政は朝倉氏との友好関係を重視して、それまで同盟を結んでいた信長に反旗を翻した。怒った信長は家康の援軍を求めて浅井氏攻撃に向い、浅井氏も朝倉氏の援軍を求めて、姉川を挟んで両軍が激突した。 ★ベルサイユ条約(Treaty of Versailles)=第1次世界大戦後にドイツと連合国の間で締結された講和条約。1919年6月28日、条約はパリ近郊のベルサイユ宮殿鏡の間で調印された。ただし、アメリカは批准せず、1921年7月2日にドイツとベルリン条約を別個に結んだ。 ★朝鮮戦争朝鮮人民軍は進撃を続け、1950年6月28日に韓国の首都ソウルを陥落させた。 ★リオデジャネイロ宣言(Declaracion de Rio de Janeiro)=中南米とEU諸国49カ国が21世紀に向けた戦略的連合関係を謳った宣言。1999年6月28日リオデジャネイロで開催した第1回首脳会議で合意。政治対話、貿易自由化と経済統合、社会文化の3領域での協力関係強化を目指す。民主的諸原則を採択し、現在EUが中南米に民主化の強化を促す根拠となっている。 ◆花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき。(林芙美子) ◆苦悩(くるしみ)は我をして光らしむ、苦悩は我が霊魂(たましい)を光らしむ。(北原白秋) |
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| 6月29日 | 誕生= ■黒田清輝(1866〜1924):(くろだせいき)洋画家。1884年(明治17)法律を学ぶためにフランスに留学したが87年に絵画に転向、印象派的な明るい色彩による外光表現の画家ラファエル・コランに師事した。93年に帰国し、96年久米桂一郎らと白馬会を結成。また、同年新設された東京美術学校西洋画科の指導に当った。その外光表現は、日本の洋画界に視覚的な革新をもたらし、画家自身の感覚の自由を主張する思想は文芸界にも影響を与えた。黒田の指導を受け、白馬会展で成長していった画家は、藤島武二、青木繁など数多い。「日本洋画の父」と評されている。「読書」「湖畔」。 ■サン・テクジュペリ(1900〜1944):フランスの飛行家・作家。リヨンの由緒ある貴族の家系に生まれ、フリブール大学に学ぶ。1921年、フランス陸軍飛行操縦学生として兵役に服した。除隊後の26年、民間航空会社のパイロットとなり、まずトゥールーズ〜カサブランカ線の定期郵便飛行に従事、その後、ブエノスアイレスでパタゴニア線の開拓に努めた。このパイロット時代に執筆された処女作「南方郵便機」(1929)とフェミナ賞受賞作品「夜間飛行」(1931)は、常に死と直面しながら任務遂行が要求される飛行の厳しさとロマンを、詩情豊かに描いた傑作である。1931年に退社してからは、フリーのテストパイロットをしながら、ジャーナリストとしても活躍。アカデミー・フランセーズ小説大賞の受賞作「人間の大地」(1939)と「戦う操縦士」(1942)には彼のヒューマニスティックな哲学が凝縮されている。童話の体裁をとった「星の王子さま」(1943)は、深い思索と寓意に満ちた内容で、むしろ大人の読者を轢きつけている。第2次世界大戦が始まると同時にフランス軍に召集されて偵察機を操縦、任務中に撃墜されたが、奇蹟的に生還した。ドイツ軍がフランスに侵攻するとアメリカに亡命したが、その後、北アフリカの自由フランス軍に復帰。南フランス上空の偵察任務に従事し、1944年7月31日、コルシカ島の基地から出撃したあと消息を絶った。死後の48年、未完の大作「城砦(じょうさい)」が刊行された。 没= ■滝廉太郎(1903):明治期の作曲家・ピアニスト。東京生まれ。1894年(明治27)東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、研究科を経てピアノ科嘱託となる。この間に「中学唱歌」に掲載された名曲「荒城の月」や「箱根八里」、「幼稚園唱歌」に掲載された「お正月」などを作曲。「花」(組歌「四季」の一曲)は日本で最初の芸術歌曲であり、日本人による合唱曲第1号となった。ピアノ曲「メヌエット」もまた日本初のピアノ曲といわれる。1901年(明治34)には文部省留学生としてドイツのライプツィヒ音楽院に入学したが、胸の病気のため、1902年帰国し、1903年(明治36)6月29日大分市府内町の父母の許で死去。23歳だった。ピアノ曲「憾(うらみ)」が絶筆となる。 ■松浦静山(1760):肥前(長崎県)平戸6万1700石の第9代藩主。藩政改革により財政再建をはかった。藩校維新館を創設して学問の振興に尽力した。隠居後20年間に渡り「甲子夜話(かつしやわ」を一日も休むことなく書き継いだ。1841年(天保12)6月29日82歳で没した。 ■トーマス・ヘンリー・ハクスリー(1895):イギリスの生物学者。ダーウィンの進化論を積極的に擁護し、ダーウィンのブルドッグと自称した。生物学者ジュリアン・ハクスリー、小説家オルダス・ハクスリーの祖父。1825年5月4日、ミドルセックス州イーリングに生まれる。ロンドンのチャリング・クロス病院で学び、45年にロンドン大学から医師の資格を授与され、王立医学校の一員となる。翌年、イギリス海軍に入り、外科医補として軍艦ラトルスネークに乗船した。50年まで、軍務によってオーストリア海域を航海する中で、熱帯海域の表層の動物に通じるようになった。クラゲ類の観察の結果、動物分類のヒドロ虫類の系統分類をした。この綱の生物の内層と外層に分かれる二胚葉性は、より高等な動物の発生の初期に見られる、内胚葉と外胚葉に対応しているとの認識に至った。50年に帰国し、ロイヤル・ソサエティの会員に選ばれた。海軍は、53年まで彼を名目上の外科医補に留め置いたが、この時期を利用し、科学論文を執筆した。特に軟体動物の組織学の研究は、以後学界の模範となった。54年には、王立鉱山学校の博物学と古生物学の教授に就任した。またアイルランドの物理学者ジョン・チンダルとアルプスの探検に出かけ、氷河作用の研究も行った。ダーウィンが1859年に「種の起原」を出版すると、ハクスリーはイギリスで先頭に立ってダーウィン理論の擁護にあたった。60年からその死まで、様々な機会に生物進化に関する明快で人気のある講義を行ない、これは、進化論を科学者にも一般大衆にも受け入れさせる上で大いに力があった。1895年6月29日、サセックス州イーストボーンで死去。「自然界における人間の位置」「論集」「科学談義」。 ★ミール宇宙ステーションとスペースシャトルのドッキング=1995年6月29日、アメリカのスペースシャトル「アトランティス」は、ロシアの宇宙ステーション「ミール」とのドッキングに成功。この状態で4日と21時間10分飛行し、7月4日にドッキングを解除した。この米ロ共同の宇宙ミッションは、アメリカの100回目の有人宇宙飛行に当たった。 ◆人生には解決なんてない。ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。そういうエネルギーを作り出さねばならない。解決はその後でくる。(サン・テクジュペリ) ◆愛する―それはお互いに見つめ合うことではなくて、一緒に同じ方向を見つめることである。(サン・テクジュペリ) ◆機械は人間を偉大なる自然の問題から分離させないであろう。むしろさらに深刻な問題で人間を悩ませることであろう。(サン・テクジュペリ) |
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| 6月30日 | 誕生= ■弘田竜太郎(1892〜1952):作曲家。「浜千鳥」、「しかられて」。 ■ジョルジュ・デュアメール(1884〜1966):フランスの文学者。詩人。「パスキエ家の記録」「サラヴァンの冒険」。 没= ■川合玉堂(1957):日本画家。40年(昭和15)には文化勲章を受章した。四条派と狩野派の画法を折衷した平明温雅な風景画で、近代の日本人が忘れかけようとしていた自然と人間の交歓を表現した。代表作に「彩雨」(1916)などがある。晩年は奥多摩の御岳に移り住み、絵画制作とともに自然をう詠った和歌、俳句を作り、多くの歌集にまとめた。 ★1908年6月30日、中部シベリア、ツングースカで起きた大爆発は、小惑星または彗星核が大気圏に突入したことが原因と考えられているが、現場には突入の際に発生したらしい巨大な熱風による樹木の倒壊と焼損が見られるだけで、クレーターは生じていない。 ◆折り取りてはらりと重き薄(すすき)かな。(飯田蛇笏:だこつ) ◆花は何故美しいか、一筋の気持ちで咲いているからだ。(八木重吉) |
