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私はこうしてDBSを選んだ。 by 四絃
 四絃(しげん)です。初めて投稿します。2011年の6月にDBS(脳深部刺激療法)のための外科手術を受け、その後設定値の調整を行って2年が経とうとしています。そもそも約15年前にパーキンソン病(以下「PD」)と診断されたとき45歳前後であり、約15年の病歴をもつ私ですが、本稿は最近の3~4年のできごとに絞り、中でも読者の興味が最もあると思われる「DBS手術を受けるに至った経緯」と「手術の結果」を中心にまとめたものです。これによってより多くの方に私のPDとDBS体験を知っていただき、皆さまの治療の一助になれば幸いです。

 ■屁理屈  
 さて、私のPD15年の経緯はまた別の機会にお話するとして、本稿ではDBSをどうしてやることになったかから始めましょう。
 2011年の正月頃、私はまだ迷っていました。PDの治療が外科手術で、頭蓋骨に穴を開けて電極を埋め込むというのは、本来のあるべきものとは毛頭思えなかったからです。
 また睡眠障害が翌日の寝不足を呼んで眠れない悪循環に陥り、次の日の体調を悪化させることになります。普通の人が普通に過ごす生活時間にできれば、昔のような無理はきかないまでも、5年ほど前に「すくみ足事件」(お先に失礼した店の玄関先で足がぴたりと止まってしまい、後から出てきたお客様や同僚にタクシーへかつぎこまれるという社内では有名な事件)があったのにまだこりず、お付き合いももっとできるでしょう、ストレスもなく、よく寝られるかもしれないと思い、生活時間帯を少し後ろへずらせないかなど、あれやこれやと思い悩んでいました。
 一方、当時主治医だったD先生は、DBSをしきりに勧めていましたが、私としては、

 ① DBSは根治療法ではない
 ② 振戦に効くと聞くが私の症状にはほとんどない
 ③ 頭に穴を開ける手術で危険が大きい
 ④ 今後の本命治療は再生療法や神経保護療法である

ということを強く信じていて、D先生の話にのることができませんでした。実際は③が特に怖かったのだと思います。
 そうは言ってもDBSそのものには興味もあり、怖いもの見たさからかインターネットで調べていた頃、PD治療に関する新しい本が目にとまりました。これは最近はやりのEBM(科学的根拠に基づく医療)シリーズの一冊で、よく見ると今は某有名病院の院長になっている高校時代の同級生が「責任編集」として名を連ねていました。この本はPD治療の「ガイドライン」(2002年日本・2006年米国)の解説書ですが、薬物治療では十分な効果が現れない場合は、外科治療を検討するように書かれています。これが私の背中をDBSの方向へ押したのは、間違いないと思います。
 
  ■作戦  
 そこで私は作戦を立て、外科手術に踏み切る前に薬の飲み方をもう一度見直し、工夫することで、生活時間の調整と薬効の向上を図れないかと考えてD先生に相談したところ、ふたつ返事で入院でやってみようということになり、入院日を2011年の3月1日と決めました。そしてこれでうまくいかなければ、手術を受けようと決心しました。
 当時私自身の考えは、薬の総量は変えずに食事のとき動くよう半分を食前に、残りを食後に飲むという方法でした。しかし先生は、朝からずっと効いているように必要な量は増やし、時間と量を調整していくという方法でスタートしました。それ自体は悪くはなく、時間で飲んでいたものを食事などとの関係を明確にし、食後の服薬を軸においたものでした。
 しかしその後は私のイメージから離れていき、飲む量は増えていきました。先生は一度切れるといけないので、朝から寝るまでずっとつながるように考えている、と言われました。結果は自分の身体のコントロールがきかなくなってしまったのです。
 作戦は失敗し、私は白旗を揚げ、気持ちをDBSに切替えました。周りから見れば「はい、一丁上がり」ですんだかもしれませんが、私にすればどこかに落としどころを見つけて、今日も明日も生きていかないといけません。D先生は「ベッドが空いたので、付属病院に移りましょう」としか言われませんでしたが、それは「手術のために転院」という意味でした。
 
  ■再会  
 3月22日T大病院を退院し、そのまま介護タクシーで付属病院に向かいました。家内は着替えをもって家からまわり、現地で落ち合いました。同じT大の病院でもずいぶん雰囲気が違うもので、医学部付属病院は新しくて大きく、敷居が高い感じがありましたが、入院先の病棟で待っていたのは、数年前救命センターで熱中症から救われ、その後入院のまま神経内科で処方調整時にお世話になった看護師さんたちのなつかしい同じ顔、顔、顔。まるで同窓会に出席しているようで気が楽になりました。特にその日の夜勤は前回直接の担当だったN看護師で、固い握手の再会をしました。
 お会いした主治医のE先生も、前回の入院のとき病室で一度診ていただいた方で、アドバイスをもらい、当時T大病院のB先生が「付属には三度の飯よりPDが好きなドクターがいる」と言って紹介していたことがよくわかりました。「PDの名医は処方がうまい」と聞きますが、一時11.5錠まで増えたLドパ製剤(ネオドパストンL100配合錠、以下「N」)とコムタン(100mg、以下「C」)8錠は、緊急に転院したものの退院時にはN9錠、C8錠まで減薬に成功、そしてDBS手術は改めてスケジュールを決めることになりました。
 
 ■準備
 付属病院へ転院してからは、基本的には外科手術の準備期間でした。実際に執刀する脳外科のF先生に初めてお会いしたとき、じっと黙って長いこと患者の話に耳を傾けて聞いてくれている姿が印象的で、大事な手術をお任せしたくなりました。また、その後外来で何度か診察を受けるうちに、このF先生と主治医(神経内科)のE先生の性格の違いが大きいことがわかってきて、大きな意思決定を行うときの組み合わせが絶妙であると思いました。
 手術やその前後の話については、APPLE運営仲間の会発行のDBS体験記集『パーキンソン病患者の自由への扉』という資料を病院で借り、先の入院時に読んでいましたので、だいたいの見当はついていましたが、DBS手術の前後の比較や結果の評価、手術後の「調整」段階でのやり方についての情報はほとんどなく、とても不安でした。
 私の場合の準備は、大変大きなリスクにさらされる手術であるという認識がありましたので、A5サイズのノートを一冊用意して、日記、処方の変化、その後得られた様々な知識、その他何でもそれに書き込むようにしました。また万が一何か起きたときのために、「終活」情報も多少考え、骨格を同じノートに記入しました。またどうせ刈られるならと、先に自ら3ミリの丸刈りにしておきました。これは決断の気持ちを表すのにとてもよかったと思います。
 
  ■手術① 
 6月29日の水曜日が手術と決まったので、二日前の27日を入院日としました。4人部屋で担当となったL看護師が紹介された後、神経内科の担当ドクターが3人まとめて来られましたが、結局私のことを気にして最後までお付き合いしてくれたのは最も若いG医師でした。その後、脳外科のF先生が私の丸刈りの頭を触りに来て、「よし、がんばりましょう」と言ってくれました。
 翌28日は検査日。脳血流SPECTでは大理石のベッドの上で長いこと寝かされ、お尻などが痛くなりました。
 その晩から絶食になっているとは夢知らず、翌朝は気合が入って気分は朝食準備万端でしたが、いつも配膳をしてくれる係りの人を問い質したら、今日は避けているように指差して食事を採らないことを教えてくれました。手術当日は終わるまで食事はしないという病院としての決まりのようです。そんなこととはまったく知らない初手術で、気合抜けしてよけいに空腹を感じたようです。
 29日朝8時、家内現れる。オペ着に着替えて準備完了。9時過ぎにベッドのまま送り。家内の顔に向けてうなずいたが気づいたか。オペ室では大勢の仲間(医療スタッフ)に明るく迎えられる。「おはようございます」というF先生の声。9時半、オペ台に移乗して部分麻酔の注射。実はこの後のことはほとんど覚えていない。後日先生から「楽しそうでしたね。焼肉の話で盛り上がったと思ったら、スタッフの英語のRの発音を直していた」と言われる。手術は18時過ぎに終了。
 この手術は、頭を固定してドリルで頭蓋に穴をあけ、脳の両側に1本ずつ電極を埋めます。先生は「ロボットでもできる」くらいやさしいと言いますが、先に撮影したMRIをもとに、コンピュータを駆使して少しずつ電極を掘り下げていく大変な作業です。実際には脳の反応を話し合い、確かめながら進めるのですが、本人は覚えていません。
 その点では私は語る資格はありませんが、気がつくと病室にもどっていました。そして口には酸素、腕には点滴、それに尿管という状態で、傷口が少し痛んでよく眠れず、鎮痛薬をもらって飲みました。電極を埋めるときに脳が傷つくことになるので、その効果で病状が軽くなり「スキップしながら退院していく人もいる」という話でしたが、残念ながらその口ではありませんでした。翌朝は頭の傷口が痛み、お腹がすいて気持ちが悪くなっていて、それまで完食を続けていたのに、スープにパン片を浸して食べようとしましたが、「無理をするな」という声に一口だけでやめておきました。
 
  ■DBS手術と変化 
 DBSの手術は、左右の視床下核をターゲットとして電極を埋め込む手術①と、電極とその発生装置をつなぐ手術②の2回があり、1回目の手術が終わると電源はもう入っていた気がしました。この頃手術前と比べて変わったと感じたこととして、以下のような点を挙げておきます。

 ① 声色が変わった。
 ② オフのときでも手足が動く。
 ③ ジスキネジアがほとんど出ない。
 ④ 筋肉のこわばりがやわらいだ。
 ⑤ 一日のうち何時間か手足のしびれ感が強くなり、力が入らない。
 ⑥ つばが出て飲み込めず、しゃべりにくい。
 ⑦ 話がくどい。

 ①について本人は音声がぼやけたと感じていましたが、何人かに聞いてみるとむしろ「言葉がはっきりした」という人の方が多いという結果でした。②と③は今回手術の狙いであり、大きな効果が上がったと思います。特に③について意外なところで変化があったのは、手術前に50キロを切ったこともある体重が、2月には52キロ、手術後の8月にディサービスに復帰したときには55キロ、翌年には60キロを超えるときもありました。これはジスキネジア(不随意運動)が体力を消耗させて体重を減らすという結果を出しているのでしょう。
 しかし‬すべてがよいことばかりではありません。⑥はつばを「ゴックン」とのみこむ力が弱ってきているようで、ベッドに横になるとつばが流れ落ちるためか、口が楽になってしゃべることができるようになることもわかってきました。⑦は直接関係はないかもしれませんが、近い記憶から付箋がはがれるようにおちていき、話そうとしている論理がこんがらがってくるのを感じるようになりました。さらに術後1年頃から、③のジスキネジアが弱いながらも復活の兆しがあります。
 
  ■手術②  
 手術の2回目には、ペースメーカを鎖骨のあたりに埋め込みます。前回からこの一週間は、一進一退という感じで、朝調子がよければ一日好調、朝がいけないとその日はしんどいという具合。ほぼ一日おきの波がありました。前日に脳外科のH先生が、まだジャンパーケーブルとともに頭から出て胸にぶらさがっている機器をセットし直し、電流を調整してくれました。
 7月7日、14時に準備完了。今回は絶食を知っていたので、気分的な問題はなく、3階で脳外科の「焼肉クルー」に再会したと思ったら、全身麻酔で後のことはすぐにわからなくなってしまいました。気がつくと病室にもどっており、家内が来てくれているのがわかりました。再度スパゲッティ状態のなかで、家内に気持ちで感謝を言ってまた寝てしまいました。
 翌朝は調子がよかったようで、日記に「朝から快調。最初のトイレ無事すむ。」と書かれていました。
 
  ■パルス 
 しかし、ずっとよいわけではありませんでした。二日目は頭痛の朝で始まりました。脳外科のF先生が来て、手術時に下げていた電流量(AMP)を2.0から2.5にもどし、調整のプログラムがはじまりました。気がつくとこれまで首にぶら下げていた機器がなくなり、頭から出ていたアンテナのようなケーブルも見えず、胸や頭がすっきりしていました。これで手術が終わり、次のステップである「調整」がはじまったのだという実感がようやくわいてきました。
 ペースメーカから出るパルスは、①電流の流れ方のパターン、②レート(ヘルツ)、③長さ(μ秒)、④流量AMP(V)の4つの要素からなり、それぞれ独立に選択肢の範囲から選択できます。この時点で私の場合、左右とも電極№0→1・3→1のパターンで、レート130Hzの電流を、120μ秒ごとに、3.0Vの流量で発生させていました。これをどう組み合わせて利用するかが、これからの仕事です。 
 ■退院 
 調整はじっくり外来でやることになるので、胸部に機器を埋めたときの傷が癒えれば退院してもよいという許可が出ました。病院はその週末が納涼祭で、外では模擬店が出され花火があがるときいていました。また退院は週明けて7月20日と決定しました。土曜日の夜、寝る支度をして部屋でそわそわしていたら、看護師さんが約束どおり花火見物に誘ってくれました。病棟内の他の部屋に入れてもらい、打ち上げられる花火を感動しながら眺めることができました。
 四年前に熱中症で命をひろい、さらに今回頭蓋骨に穴をあけてまで面倒を見てもらい、よりかかった付属病院の皆さんは、はしごをはずすことなく本当によくしていただきました。前々回は帰りの道の彼岸花が、今回はこの花火が、いつまでも心に残るでしょう
 
 ■調整 
 DBS設定値の「調整」は、ほぼ月1回の通院で行います。パルスは先に述べたように4つの要素の組み合わせですが、脳外科での診療時に患者の訴えに応じて必要によって設定値を変更します。米国産のこのシステムは、ドクターが手に持った小さな道具箱のような設定機器をペンで、「ピ、ピ、ピ」と触ると、患者の胸部に埋められたペースメーカが反応して値が変更されます。患者はその時の様子やしばらくした後の様子をみて変更の影響を確認します。しかし前提となる手術の結果や反応は人によりまちまちで、デジタルを生かした「マニュアル」はなさそうで、結局はドクターの経験と患者の協力が重要なものであるようです。
 さらに、服薬としては何を、いつ、どれだけのむか、ということとの組み合わせもあります。パルスは脳外科、投薬は神経内科という分担になっていますが、まさにコラボレーションが必要なテーマといえるでしょう。
 ■評価と課題 
 さて、今回の手術は総合的に見てどう評価できるでしょうか。

 ① ○ 筋固縮の軽減
 ② ○ 無動の軽減(底上げ)
 ③ ○ ジスキネジアの軽減
 ④ △ 服薬量は変わらず
 ⑤ △ バランス障害は変わらず
 ⑥ × 口腔機能障害の悪化

 上記のように変化を分類すると、6戦3勝1敗2分けですが、私の場合ははじめの三つのウェイトが大きく、①②③は1項目でも倍くらいに評価してもよいかもしれません。
 ④は入院前と比較すると、服薬の合計量は変わっていません。(下記処方を参考にしてください。)また⑤のバランス障害は、座位でも立位でも右側に上体が傾く傾向があり、このような姿勢保持の問題について、DBSが有効かどうかをはっきりさせることも、現在の課題のひとつです。
 総合的にみて、オフの無動がきつい時間は半分くらいに減ったうえに、そんなときでも足を動かして車椅子のフットレストを操作したり、足を上げ、かかとから着いてトイレに行ったりすることはできるようになり、オフ時の底上げは確実にできたのではないかと思います。またジスキネジアが消えたことで、無駄な身体の動きがなくなり、ずいぶんと楽になったことも事実です。以前は食事のときにテーブルの下で向かいの人の足を蹴飛ばすこともあり、家内はそれ以来食事中に対面せず、斜に構えるようになってしまいました。診察のとき先生方がよけるように診ていらしたのを覚えています。これに呼応して、私の体重も10kg近く増減した記録が、午後のディサービスに残っていました。手術前はやせぎすだったのが、余分な動きがなくなって戻り過ぎた体重を、今はリハビリで絞りつつあります。
 患者としての私の評価は悪い方にばかり目が向きがちで、動きは改善しましたが、唾の飲み込みの悪さや、排泄の逼迫さなどは悪化しています。特に口腔機能の悪化がもたらす不具合が日々の生活(ADL)に与える影響は大きいと言わざるをえません。現在の最大の課題は、オフ時につばをゴックンして、しゃべれるようになる(コミュニケーションがとれる)こと、即ち「口腔機能のリハビリ」ではないかと思います。
 一方、私の毎日はさまざまなサービスを行う専門家に支えられています。訪問看護、訪問マッサージやディサービスやショートステイでリハビリを指導してくださる方々、また保健福祉事務所に集う仲間の患者さん達からも、口をそろえて「ずいぶん元気になったね」と言われますが、この感想が客観的に今の私を表してくれていると思いますし、同時に感謝の気持ちでいっぱいになります。
  ■反省
 今回のDBS手術を受けるにあたり、一つ大きな反省があります。それは、もう2~3年早くやっておけば、どうだったかという思いです。これは結果論だと言えばそれまでですが、ひとりでぐずぐず悩んでいる代わりに、ズバッと手術を受けられなかったのでしょうか。たぶん私は、頭に穴を開けるのが怖かったのでしょう。当時は地元のT大病院へ通院しながら、定年の60歳を意識して、仕事を終えてから考えよう、その頃には外科手術なんか当たり前になっているでしょう、などと考えて手術を受けるのを「先送り」していたのだろうと思います。
 最近、ノーベル賞受賞とともに再生医療の実用化に拍車がかかっていますが、他のアプローチも含め、「完治療法が実現しそう」である雰囲気ができてきました。ここにつながれば、DBSは「つなぎ」として大変意義が出てくるでしょう。これから5年先か10年先かわかりませんが、一日でも早い実現のために、私も「DBS経験済み患者」として、お手伝いできることをやっていこうと思います。
 ■あとがき
 この文章は、私自身のホームページに掲載していた文章を大きく手直ししたものです。これをまとめるにあたり、主治医であり、かつ人生の師であるT大医学部付属病院のE先生とF先生の叱咤激励、並びに家内の強力な指導がなければ、日の目を見なかっただろうと思い、この場を借りて改めてお礼申し上げます。
                                          (2013年5月)

《参考》  私のパーキンソン病~DBS体験記
 ■略年表 (数値)は年齢
 1997 (45)  秋頃 歩行時足の「つっかかり」に気づく
         12月 T大病院神経内科で初診
 1998 (46)  半ば T大病院でPDと診断

 2002 (50)  4月 介護保険認定   
 2003 (51)  6月 障害者手帳交付
 2005 (53) 10月 特定疾患(重症)認定

 2006 (54)  5月 出先で「すくみ足事件」
        
 2007 (55)  8月 熱中症のため付属病院へ救急搬送
            入院したまま救命センターから神経内科へ
            神経内科でエフピーから新薬コムタンへの切替

 2011 (58)  3月 処方調整のためT大病院に入院
     (59)     DBS手術準備のため付属病院に転院
         6月 DBS手術のため付属病院に入院
         7月 DBS手術を終え、退院

 2012 (60)  3月 米国テキサス州へ単独旅行
         4月 定年退職
  ■DBS値(2013/5/1現在)
《左側》
 極性 陽極:ケース 陰極:1・3
 刺激電圧: 2.8 V
 レート:  145 pps
 パルス幅: 90 μs

《右側》
 極性 陽極:ケース 陰極:1・3
 刺激電圧: 2.5 V
 レート:  145 pps
 パルス幅: 90 μs
  ■薬剤処方(2013/5/1現在 一日あたり)

<分類> <薬名>           <錠>  <服薬のタイミング>
Lドパ   ネオドパストンL100       7.5  起床時 朝食後 11時 昼食後1.5
                            15時  夕食前 20時
COMT阻害剤  コムタン錠100mg     3     起床時 昼食後 夕食前 
アゴニスト   カバサール錠1mg       2     朝食後2
 〃        ミラペックスLA錠1.5mg   2    朝食後2
 〃          〃    LA錠0.375mg 2    朝食後2
腸活性化  ナウゼリンOD 10        3    朝食前 昼食前 夕食前
精神安定剤 デパス錠0.5mg        1     不眠時
入眠剤   マイスリー錠5mg        1     不眠時
2013.07.29
ファイル作成 ふみくん,はる
原稿  四 絃

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