2010/09/02 発行

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今年は38年目 2010/09/02
僕ももう52歳になった。

  発病に気がついたとき14歳だった。
38年経ったんだ・・・・・長い時間だ。

 身体の異変に気がついたあのとき以来、病気のことが頭を離れたことはない。
 
中学生
 
 中学1年生の冬だった、どんよりした天気。


近所に住む友人と町田に釣り道具を見に行った帰り道、一駅を歩くことになった、僕の身体の中にパーキンソン病があるなんて思わないよ、ふつー。
 
 何も考えずに歩き始めた。
 しばらく歩くと家々は閑散となり、団地の風景に変わる。 
 なんだろ、左足が変、、足の裏ではなくて側面部が地面についてる、なんで?
 力を入れても変わらない。
 ”なんとなくこの場で解決できる話しじゃない”・・・・そんな気がした。
足は痛くなるばかり、
  ”走ってみよう・・・”
 突然走り出した僕に友だちがなんか言ってる。
  ”走り出すとその症状は解消した!”
その日はそれで終わったけど。

  だが身体の状態は中学2年、3年とひどくなっていった、明らかに進行してた。
 
 毎日でなかった症状が、
  やがて毎日必ず起きるようになり、
    さらに午後になると僕の脚は痙攣するようになっていった。
 痛かったよ、毎日
  歩き方も変だった。

身体に起きている異常を親に伝えることができなかった。
”とっても重大な病の気がしてたから。
  
でもなにもせずにはいられなかった
なにがきっかけだったのか原因を運動不足のせいにした。
毎日、「自転車で5kmの距離を走ってた、それが僕にとっての唯一の治療だった。

そんな中学校生活の中
あるときみんなで歩いて隣町の市民会館までいくことになった。
”え〜〜〜”
とってもいやだった。
当時、ずる休みなど気がつかない。
歩き始める、なんとなくいやな予感、、、そして
やっぱり始まった。

みんなの歩く速度についていけない。
”もう、先生にいうしかない”・・・・先生に告げた。”足が痛いんです”
”で?どうしたいんだ?”
”どうにかしてほいしい、僕にだってわからない”・・・って思ってる僕に帰ってきた言葉は
”だめだ、全体が遅れる”

僕は歩き始めたけど、取り残された、担任と2人、そこに取り残された。

一生懸命歩いて市民会館に着いたとき、友人が席をとっておいてくれた。
やっと安心できた
 ”もう歩かなくていい”

やがてやってきた高校進学の問題。

なにより近くの学校に行きたかった、でもそこにはすこしばかり点数が足りなかった。
あとはもう、どこでも同じだった。

でも、なにが起こったのか希望の学校を受験できることになった。

中学校時代最後の試練は高校の合格発表のとき。
歩きすぎちゃった。
目的の高校は駅から遠かった
もう、歩行の動作ができなくなっていた。
まだ、覚えてる。
駅まで50m、だけどもう前に進めない。
どうやって駅までたどりついたんだろ?


高校生

黒のつめえりの制服が気に入っていた。
そして通学に自転車が使えた。自転車に乗っていれば前に進めた、いくら足が痛くても前に進めた。

医者には行って見た、市内にある大学病院だ。
でも、なにも解決できなかった、彼らがしてくれたことは筋弛緩剤を2週間分くれただけ、こんなんじゃないって思ったからもういかなかった。

 時間割をもらうとすぐに体育の授業が何時間目にあるかさがす。朝から時間が過ぎていくほど身体は動きにくくなる。いつのことだったか変に調子のいいときがあった。うれしくてわけもなく走った、走れることがうれしかった。

朝礼も憂鬱な時間だった、たっていることができなくて、ただたっているだけのことができなくて一番後ろで座っていた。

2年生の古典の時間、痙攣する足が痛くて限界だって思った。
”先生、足が痛いので保健室に行かせてください”
優しい先生はただ笑っていた。

 そして、僕はあることに気がついた。
  ”どこにいったって痛みが去るわけではない”
 もう、痛みを訴えるのをやめた。
痛くても何も変わらない。

 こんな身体だったけど、高校時代のメインイベント修学旅行には絶対絶対行きたかった。
 北海道だった。
 バスの中でも旅館でもやっぱり痛かったよ。

朝、起きたとき雨の音がすると、僕の気分はあっというまにどんぞこまで沈んでいった。
歩いていかねばならないからだ。
朝は、まあよかった、僕には睡眠効果というものがあったから、朝、起きたすぐは絶好調。
問題は帰り道、途中で歩けなくなる・・・・そんな思いが学校についてからすっと頭の中を支配する。

1,2年生のときは勉強しなかったけど3年生になってやるきになった。世界史、英語、国語、古典。
学校から帰ってくるともう椅子には座れないことが多く、勉強道具を床に投げ出し腹ばいになって勉強してた。生涯で一番の勉強家だった。

 でも、大学へ行くにはとっても大きな問題があった。
 このままじゃあ受験会場までいけない。
 
 冬のあの日から約5年、親に打明けた。

  次の日、御茶ノ水のJ大学付属病院に連れて行ってくれた。
 長いなが〜い時間かけて、やっとついた整形外科医は全身痙攣している僕に
 ”わからない”といった。

 この先生は、この先生は・・・・・・・

 次の日もJ大学病院だった、今度は脳神経内科。
 ”脳”という文字がこわかった。

 何時間もかかって診察室に呼ばれた。

 とっても屈辱的なレントゲンを撮った。痙攣する身体のままでは写真がとれない。
技師がやってきて僕を壁に押し付けた。
 腹が減って里に下りてきた山猿が住民に押さえつけられたようである。

 今でこそ、病気と同居しているような気でいるがこのころは本当に病気に支配され
ていたように思う。
 痛くてもいい、普通に歩きたかった。
  

 大学の受験も終わり自由登校になったある日、友人宅で麻雀をすることになった。
そのとき大きな変化にきがついた。

 ”あれ?足が痛くない”

 いままで5年間、痙攣していた脚がおとなしい。

 ”あの薬が効いてるんだ”

 そういえば受験会場にいって試験受けて帰ってきた。このときも薬効いていたんだ。

 いままであんなに望んでいたのに、 
  あんなに欲しかったどこも痛くない身体、
  
    なぜか、僕の心はうれしいわけではなかった。

やがてやってきた卒業式、毎日が過ぎていくように終わってしまった。

そして大学へ

 希望の学校に入った。
  靖国神社の裏庭が校舎から見えた。
    春の季節の登校は桜のトンネルの中だった。
  そして2週間に一度の通院が生活の必須条件に加わった。
 黄色い錠剤が僕の生活を支えた。
大学に通ってた時間はほんとーに病気から解放されてた。

 ただ、大学に入った年の夏休み、人生で最初の入院生活をした。
  検査入院って名目であったが、恐ろしい検査があった。

薬の効果はわかったが名前も知らなかった、そしてその薬は治療薬でないこともわかったがたいした問題ではなかった。
僕にとっては痛みから解放されたし、身体はどこも動くようになった。

  高校を卒業して鎌倉にいったことがあった。
   鎌倉から江ノ島までの道を歩いた。

    歩く・・・・・とても楽しいことだった。 

  この大学で過ごした時間がなければ僕の人生は挿絵のない辞書みたいなもの
    だっただろう。

 アルバイト
   デート
    いろいろいろいろ楽しかった。

そして就職

    通勤時間は1時間半を越えた、従業員30名にならないコンピューター関係の
   会社に入った。
    僕はとってもできの悪い社員だった。

   そして冬、はじめての試練がやってきた。
   突然身体が震えだした、とまらない・・・・頭の中はパニック、退社時刻まであと30分、
 定時で帰るしかない。
   その日は木曜日だった、すぐには医者にいけない。
  明日がある、明日はどうなるんだ?
   明日が今日になった。
    不安でいっぱい。
  そして夕方〜〜まただ、今日も震えだした、どうしたら・・・いいんだろう?

 次の日は土曜日、先生に会いに行く。
  日曜日には神様にお願いしに行った。

 その次の問題は結婚式をどう乗り切るか?・・・・・だった。

  それはもう先生にお願いした。
   ”結婚式を無事に過ごしたい”
  
 1983年6月13日僕は結婚した。
   でも、身体の方は学生時代のように順風ではなかった。

  新婚旅行、シアトルの税関で震える手を指摘された。
   奥さんは不満のようだった。

  娘が生まれた。
   かわいかった、会社の帰り道、おもちゃなんか買ったりした。
   土曜日は休みのことが多かったので娘といっしょに出かけた、彼女は良く寝ていた。

そんなちっぽけだけど胸いっぱいの幸せが崩れ去っていく日が来た。
 
   娘の手を引いて歩いているときだった、身体が勝手に動き出した。

   すくみが加わり、突進症状が始まった。
  通勤時間は片道2時間に近かった、恐怖、恐怖。
  そのうち駅まで行く途中の信号が渡れなくなった。

  離婚の話しが出た。

   家族と過ごした最後の日のことを覚えている。

   起きたら娘はもういなかった。
   1歳になる長男と公園で遊んだ。3輪車に乗る長男と遊んだ。


   午後、両親が迎えに来た・・・・・・それが最後。

   悲しい涙と悲しい声が・・・・・・止まらない。

病気なんか悲しくない、悲しいのは人が別れてしまうことだ。

  仕事は続けた。

  仕事を辞めるにいたった理由は
  労災に近い事故を起こしたことで働きにくくなりました。

  身体の方も限界だった。
  父親が職場まで送ってくれたけど、そのままタクシーで帰ってきたり、
   働いているのかタクシー会社にお金払ってるのかわかんなくなってた。

  それから10年、なにしていたんだろう?

  僕が病気のことを会社に告げたのは入社してからあっという間だった。しばらくは考えてくれたような感じもしたけど結局は自分に帰ってくるだけだった。
  できないことはできない、それが会社の評価だった。

  夕暮れ時、初めて身体の異常に気がついてから38年。

   現在、身体の状態は退職したころよりずっといいです、薬の量も減ってジスキネジアも でません。あれほどたくさん飲んでたメネシットが減り、薬の束縛(薬を持っていないと不  安でしょうがない)からも解放されています。
   朝、薬飲んでから気がつくと夜の8時とかになっています。担当の先生は
   ”身体の方が慣れたんだ”だっていってたけど僕にはわかりません。
  まぁ、僕もあまり先生のいうこと聞かないし。

毎日、楽しく生きる・・・・僕が楽しく生きてたらパーキンソン君もくやしいだろう、
  ざまあみろ。

  僕が楽しく生きていけるのは外に出られるからだと思う。電動車いすに感謝。

  そしていろんな人に会える。  

  ”わたしいつまでも自分の足で歩いていたいの”って語ってくれた先輩、、かっこいいです。
  僕の周りには今、いろんな人がいます。これからもそんな人とかかわって生きたい。
 
書いた人  はる 
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