「般若心経」を解く―禅とキリスト教の対話  
 

「般若心経」を解く―禅とキリスト教の対話

秋月龍・八木誠一 / 講談社


水が低きにつくような無心清浄な布施行

衆生が足の痛いのを我慢して座禅に努めて悟りを開こうというような禅定ではなしに、仏として座る。 ストイックに自分の意志で自分を支配するというのではない。
西洋哲学には”理性で自分を律するのが人間の完成だ”という伝統がありますが、イエスの振る舞いは実に無心で自然です。 イエス自身がそうだから、イエスは野の花や空の鳥に無心で自然な生の営みを見て、そこに神の栄光の美しさを讃えることができたのでしょうね。

「野の百合を見よ。なぜ着物のことで思い煩うのか。野の花がどうして育っているか、考えみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなた方に言うが、栄華を究めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」
「きょうあって、明日炉に投げ込まれる野の花をも神様はこのように美しく装ってくださる。栄華を極めたソロモンの装いすら、この花ひとつの装いに及ばなかった」

「はからいなし」に「無心に生きている」その無心さが輝いているわけです。 そういう「はからいのなさ」は、やはり自我を空じて「思い煩う」自我がなくならないと出てこないわけです。
イエスは神の働きが、この世では無心で自然な生として現れている、そこに神の働きの美しさを見ているんですね。 野に咲く花は明日は炉に投げ込まれる。あるいは、やがてしぼむ。草は枯れる。これは実体ではない。 だから神の働きの中で咲いてはしぼんでゆく。そこに無心の美しさが輝いている。



空とは自他不二

「自我」エゴを「空」じて「無我」になって、「本来の自己」セルフが実現自覚されると、
「自他不二」という心境が開けてきて、他人のために働かざるを得ない、「智慧」は自然に
「慈悲」となってほとばしるのです。


「僕は何をしたらいいんですか?」
「僕の好きなことをしたら、いいじゃないか」
「その僕がわからないから、東京に来たんです。僕とは何ですか?」
「昔から"汝みずからを知れ"というが、一番身近にあって、一番わかりにくいものだ。
時間がないから結論だけ言おう。 君は今から、自分のことは勘定に入れないで、誰かの為に自分を献げて生きてごらん。 そして他人のために働いて"良かったなあ、幸せだなあ"と思えるような自分がわかったら、それが本当の"僕"だとワシは思うがなあ」
「他人のために働いて自分が幸せだと思うような私」こそ「"自他不二"の自己」です。

釈尊は自己を空じて明星と「持我一如」の自己(無相の自己)を自覚した→自己がないとき全てが自己である。



遠離一切顛倒夢想

「般若の智慧」を得る者は悟りを究め、一切の「顛倒夢想」を離れる。
つまり、あらゆる倒錯(最たるものは「もと」と「すえ」との逆転)や迷いを離れる。
人間が「もと」を捨てて「我」を立て「我」を張り「我」に執し、 従ってまた「我」の支えとなりそうなものに見境いもなく執着して、自らを苦しめた人をも苦しめる、その「倒錯」が清算される。
「苦」からの救いという時、それはもともと「苦」そのものが問題というより、 「絶えず無用の苦を生み出す人間のありよう」が問題だったので、 「苦」は人間本来のあり方を捨て、その結果あるべからざるものへと変質していく、その非本来性の症候、というべきものでしょう。

キリスト教において「罪」が問題となる時、実は絶えず「罪」を造り「罪」を生み出して自他を損なう「人間のありよう」が問われているのと同じことでしょう。
「罪」また罪を作ることと結びついている自我の「思い煩い」は、神を捨てて頽落した人間の症候「造罪シンドローム」だといえる 症状がある場合、症状をなくすことが病気を治すことですが、問題の中心は健康を快復するところにあり、そうすれば症状はおのずと消失するものです。
そうでなく対症療法で症状だけをなくしても病気の根があれば、またそれは別の形をとって出てくるでしょうからね。

人生を「苦」にするとはこの意味で、"非本来的なあり方の症候"だと言えるでしょう。
すると、やはり問題の中心は単なる「苦」の解消ではなくて、「涅槃」こそ不病・不老・不苦・不汚だということを掴むこと、 換言すれば「人間の"本来性"の快復」であり、一切の「倒錯」や「迷い」を清算してこの「本来性」をもたらすものが「般若」の智慧 だというなら、私たちが問うべきことは、「般若」の智慧とは何であり、そこで何が明らかとなるのか、ということでしょうね。



全体子ホロン―――縁起

最近の「生命科学」によると、生きているものは「実体」じゃない、従来考えられてきたような「個物」でもない、と。 で、「個物」といわずに「全体子ホロン」と呼ぶ。
これは自分のみによって自分であるようなものではなくて、まさしく他のものとの関係の中で存立しているものであると。 だから他のものが変わると自分が変わるし、自分が変わると他のものが変わって、全体として全体の調和を取るようになっているんで、 それでその場合の「生体」なんですが、これが"開放系"だという。

それは「生体」は熱力学的なシステムだから、エネルギーを生み出してこれを発散するというように出来ていないと、 エネルギーが中にたまると「生体」は壊れてしまう。
つまり、外からエネルギーのもとを食物として取り、 エネルギーを生み出し、これを発散させる必要上、どうしても「開放系」でなければならないのですね。 しかし、それだけではなくて、他のものとの関係からみても、どうしてもこれは「開放系」であって、他者からの働きかけを察知し、 これを受け入れて、自分も変わることを通して他者に働きかけ、全体が全体として成り立つように振舞う。 こういうものとして個物は「全体子ホロン」であるという。

木が一本あるということは、太陽があって空気があって、水があって大地があって、生命の歴史があるということだから、 木が一本あるということは、まさしく地球があるということだし、太陽と地球があるということは、宇宙全体があることだ。 さらにまた、木は太陽の光のエネルギーを使って、水と炭酸ガスから炭水化物を作って自分自身を構成していくわけだから、 これはどうしたって「開放系」ですよ。大きく言っても、よく動物と植物と微生物は三者そろってはじめて 生態系の全体を成り立たせていることが指摘されていますが、個々の生体が「開放系」であるということは、 全体として「相依相関」のシステムを作っている、ということですね。 個々の生態が「開放系」だということはまさしく、全体が「相依相関」の上に成り立っている、ということです。

「人間」の場合は、そういう生物的なものと違って、言葉で話しかけ働きかけ合うということがありますね。 他者の言葉を聞く、と。それが自分を変えていく。
もし私はこう言うものだ、と頭から決めてかかっていて、 それと違ったものは一切拒否する、あとは自分を相手におしつけるしかない、とすれば、これはもう喧嘩にしかならない。
こういうあり方は「空」じゃないんだろうと思います。
「本来空」でありながら、それを拒否する無理に陥っている。
それに対して生体は全体としても、個としても、個の部分としても、外に開放されたものとして、はじめて存在者なんだし、 逆に存在者だということは、他者に対して開かれていることだということが、かなり「生命科学」の分野でも明らかになっている。

ボケになりやすい人は、自分だけにしか関心がなくて、他者に関心がない。人の言うことを聞かない。 一番ボケやすいのは、外からの新しい情報を受け付けないということだそうです。
ふつう私たちは外から新しい情報を入れて、それに従って自分を組み変えていくでしょう。 それが開放されているということですね。そういう人の方がボケにくいらしい。
つまり、脳の働きというものは、もともと「開放系」で、新しい情報を絶えず入れて、それに従って知識や知識の枠組みを変えていく ようになっている。
そういうプロセスがあって、はじめて「脳の働き」が正常に営まれているようです。

要するに私たちが生活しているということは「将来に対して、他者に対して、開かれている」ということではないか。 それは同時に過去から決定されてはいないことを意味している。
このように「開かれている」ことが、同時に「自分が自分でありえる」ことだ、 ということは、現代の哲学や神学のみならず、科学でも最近一般化している考えだと思いますね。
それはつまり「生の営み」が、外からの働きかけを受けてそれを自分の中に組みこんでいく、という仕方で成り立っているからでしょう。


「輪廻」すなわち「生死」の繰り返しからの「苦」から、どのようにして「解脱」するか、
仏陀もその解決の道を求めて出家修行し、 その結果として「法」を悟られたわけです。
その「法」こそが「縁起」と呼ばれるものでした。
「苦」は「業」とよばれる人間の"行為"が原因となって造り為せる結果であって、神のせいでも、偶然でも、運命でもない。 そして、その「業」(行為)は「惑」(煩悩・無明)が引き起こすものである。これが「惑・業・苦」の体系。

まず自分があって、それから「愛」が個人の意志的決断によって成り立つ、ということではなくて、 最初から私たちは共存する他者を受容して愛し合うようにできている、と言える。
言い換えれば「生きる」ということ自体が、他者に対して自分の一部を与える、また他者からそれを受ける、ということの上に成り立っている。
だから、それをはっきり見究めるなら、与える喜びと受ける感謝が自然に、主体の側の気持ちとしても、成り立ってくるはずなのです。
一緒に「生きる」ということが、互いに与えまた受けることだ、という構造が最初からあって、
だから生きることは、関わり合いの中で存在することだということになっている。

それと同時に他方ではもちろん「自由」ということがありますね。これは「私は私である」という面の事柄です。 自分で感じ自分が考え自分で決める。そして責任を持つ。 どんな自然で素直なふるまいでも、そうであればこそ、そこには主体的自由と責任がある。
私のありよう 生きざまは 他者に強制されて機械的必然的に造られるものではありません。 人間には「単独者」の面があって、キリスト教では、
人は単独者として神の前に立って、責任を問われる、責任を負う、という風に言われます。
私のありようを他人のせいにばかりできぬ面が厳としてある、ということですね。

すると「愛」と「自由」はどう関連するのか。
「愛」は「自由」の事柄で、「自由」は「愛」の関わりの中で現実化するということがあります。
「愛」しているとき私は「自由」だ、私が主体的「自由」を行使して何かを決断するとき、その決断は「愛」の関わりの中で起こっている。 決して他者の存在を無視して、自我のやりたい放題を択びとるのが「自由」ではない、と言う事です。
「愛」だけでは他者と癒着しやすい。「自由」だけでは人間バラバラになる。
「愛」と「自由」は両方あって本物だ、
ということです。

つまり、人間というものは、まず自分があって、よそからくるものは全部つっぱって拒否する。
他方では、自分を相手におっつける、というそういうものではない。

他者と一緒に生きてはじめて自分自身であるような人間。 人間であるということの中には、開かれている、相手から来るものを、働きかけを、受け入れる、 つまりその意味で、こちらには空っぽのところが、「ゼロ」だということが必ずある。
あくまで自分自身でありながら、自分自身でありうるについては、相手の働きかけを容れる、自分の中に組み入れて、組み変えていくという 開放された面があって、そうした面があるから、お互いに相依り相集まって「個人」ともなり、また一つの「共同体」になるんだということです。

ヨーロッパ的「自由」("freedom"ないし"liberty")は、自分を縛っている何かから解放されることである、それに対して、 禅の「自由」は、まず「自」という「絶対主体」(真人)の確立があって、その「自に由る」自由、「自に在る」自在ということだ。



親鸞とパウロ

秋月龍・八木誠一 / 青土社


仏陀は目覚めた人だ。「本来の自己」に目覚める、その目覚めの智慧を「般若」という。
それは「心性本清浄」という意味。釈尊は「本来清浄」な「自己」を自覚して仏陀になられた。
釈尊は当時の民衆と共に永劫の輪廻転生の苦しみを逃れようとして、生死からの解脱を求められた。 それが、もはや苦界に再生することのない永遠の安らぎである「涅槃」です。
しかし、釈尊は涅槃を求めていくうちに、思いがけなく「菩提」を証されました。 すなわち
「不生不滅・不垢不浄」の「本来の自己」を自覚されたのです。これが釈尊の「悟り」でした。

迷っている時の「生死的自我」に対して、悟りの自己を「涅槃的自己」といいます。
生死的な「自我」の否定によって、その否定(空)を媒介として、涅槃的な「自己」を自覚する。
死んで生きる。
仏教というのは、万人が仏になる教えで、仏とは「本来の自己」に目覚めた自覚者のことです。
そして「本来の自己」に目覚める為には、持戒で自ら誓って自分の生活をコントロールして(戒)
そのよく整えられた身心を挙げて禅定:身心の安定統一に入る(定)、
禅定とは自我の否定行のこと。 それによる自我否定(「空」すなわち「無我」)の禅定によって、そこに「本来の自己」が露わになってくる(慧)。

釈尊の仏教は、まぎれもない自覚宗教で、 絶対者と言われる神や仏による人間の救いを説く
普通に言われる宗教、すなわち救済宗教とは程遠い教えでした。

四諦。苦集滅道の四つの真理。
人生は苦である(思うままにならない)という認識。これが苦の真理。
その苦の原因の探究。集の真理。
釈尊は、人生苦の原因を神の罰とは考えなかった。偶然だとも運命だとも考えなかった。
釈尊は、物事は必ず因縁によって生起すると考えたのです。これが因縁生起説(縁起)です。
これがあるからかれがある。これがなければかれもない。生老病死という人生苦は、
知性的に言えば「無明」、情意的に言えば「渇愛」によって、それを因縁として起こる。
その因縁を取り除けば、自然に結果である人生苦はなくなる。
その「無明」がなくなった「明」、すなわち「般若」の智慧こそが「菩提」であり、
その「渇愛」の火が消えた(滅)状態が「涅槃」である。
これが第三の滅の真理です。
最後に第四が、その実践的方法論である道の真理です。
初め八正道だったそれは戒定慧の三学にまとめられました。

「般若」は悟りの智慧です。それは「心性本清浄」という「本来の自己」の自覚に他なりません。 「般若」の「空」思想とは、自我エゴの否定による自己セルフの自覚です。
その般若の完成(般若波羅蜜多)こそが仏教です。
しかし様々な問題を抱え、素質も色々な人々にも画一的な教えを説いても効果はありません。 仏陀はきっと、今わが目の前で悩んでいる人に最もふさわしい、様々な方便的な優しい教えを
工夫して、 法を説かれた、導かれた、それがいわゆる待機説法です。
いろいろな方便をめぐらして、それぞれの具体的な問題に則した優しい説き方を工夫された――その一つのあり方として、 本来「自覚宗教」である仏教を、一種の「救済宗教」として説かれたに違いないと思うのです。 そこに浄土教誕生の源泉があったと見るわけです。

浄土思想はどうやって興ったかというと、まず第一に考えられるのが人間の素質の問題です。
その人の素質によって、自覚宗教(例えば禅)でいける知性・意志型の人と
救済宗教(例えば浄土)でいく感情型の人にわかれる。というわけです。
知性的な訓練もあり、意志も強い人は、自力で「無我」になって本来の自己を自覚して仏になれる。 しかし、そういう能力のない人、いや本来純粋な感情型の人は、
自力を捨てて救済を信じて絶対帰依の感情で 己を空しうして「無我」になる方が、
戒定慧で「無我」になるより早く優しくその境地には入れる、というように考えられます。



TOP bookshelfBACKNEXT