宮澤賢治の友人  かとうじ物語   紫波ネット連載  どっこ舎 内城弘隆 

 
 はじめに

紫波の先人藤原嘉藤治は、宮澤賢治の創作と実践活動の身近にいて、早くから作品の価値をわかり、賢治亡き後、 その作品を世に出すためにがんばりました。戦後は賢治の精神を実践に移して開拓農民となり、 東根山の麓に人生を全うしました
 地元の人々は「開拓のかとうつぁん」と呼んでいますが、嘉藤治は宮澤賢治の友人というだけでなく、音楽人、詩人、編集人 など独自の功績もあり、人々に注目されています。
 皆様にはこのささやかな物語から、何かを感じ取っていただければ幸いと思います。

1、嘉藤治のおいたち

平成16年6月掲載

 明治29年2月10日、旧水分村小屋敷の藤原家に男の子が誕生しました。 名は嘉藤治といいます。しかし家庭の事情により嘉藤治は間もなく他家にもらわれていくことになりました。その 先は旧不動村白沢の博労(家畜仲介人)、菅原豊治郎とその妻ソノの家でした。
 二人には子供がなく、栄養不足でやせ細った嘉藤治を喜んで迎え、大事に育てました。 ところが皮肉にも、その後、夫妻には、いわゆる「やかねっこ」といわれる子どもが三人も生まれました。 でも、菅原家の人々はこの子どもらを分けへだてなくかわいがり、嘉藤治も義理の弟妹の面倒をよくみたそうです。 四人の兄弟は終生仲良く、互いに支え合いました。
 「白沢村物語」の編集委員長佐々木民五郎さん(82歳)は嘉藤治が子ども時代よく遊んだ場所に案内してくれ、 こんな話もしてくれました。
 「この辺りは馬場野といい、豊治郎の本家の馬場(屋号)の土地だ。ここに堤があった。 あの森や原野、その堤は嘉藤治の遊び場だった。学校から帰ると、嘉藤治は道具の風呂敷包みを台所さ放り出し、 水浴びだの雑魚(ざっこ)捕りに夢中だったど」
 嘉藤治が晩年に書いた本の中に「太田川は浅瀬あり、急流あり、淵ありで結構この上ない自然のプールだった。 かわせみは光のつやを流し、ミンミン蝉は奏で、いつ終わるともない河童どもの川辺の祭を祝福してくれる。」 と述べています。
 秀麗、岩手山を北に望み、西には南昌、東根の山並みを仰ぐ白沢の地は、嘉藤治の詩と音楽への憧憬をはぐくみ、また ものごとを真剣に追求しようとする気持ちを育てたホームグラウンドなのです。
 嘉藤治は不動高等小学校を終えてなお向学心に燃え、日詰の紫波高等小学校に一年間歩いて通いました。そして 実の兄広治に習い、岩手師範学校へ進んで音楽教師の道を目指しました。師範学校に入学した時、義父豊治郎は立派な 袴を買って与えたそうです。
 白沢の人々の心の優しさもまた嘉藤治を心豊かな人に成長させたようです。

2、音楽教師への道

平成16年7月掲載

 藤原嘉藤治は明治44年4月、岩手県師範学校二種講習科に入学しました。師範学校は明治9年、県庁真向かいに、近代教育の 担い手を育てるために創設されました。しかし、明治末期のころになっても県内の教育の実状は低く、 正規の教員も足りない状態でした。
 嘉藤治はそんな期待に応えようと、授業には真剣に臨み、読書もしました。寮ではそまつな食事に耐えながらも、 寮友と政治や教育、あるいは文学について、熱心に語り合いました。
 明治45年、嘉藤治は念願の本科に編入し、音楽部にも入って三浦波治先生から声楽やオルガン演奏の指導を受けました。 また、英語を習うために近くの盛岡幼稚園の外国人タッピング園長のもとに通い、その縁で、タッピング夫人から学校にはない ピアノを借りて練習することができました。彼は授業が始まる前、早朝から猛烈な勢いで練習に打ち込み演奏の力をつけていきました。
 時代は明治から大正へと変わり、その秋も深まったある日、兄広治の訃報が届きました。広治はこの三年の間に不動小学校、 日詰小学校、水分小学校と歴任し、短い勤務の中にも、それぞれの校歌を創るなど、その才能を発揮して、地域から 慕われていました。嘉藤治にとって広治は実の兄であり、理想の教師でもあったのですが、突然心の支えを失って、 悲嘆にくれるばかりでした。
 青春の悩みと希望はいつしか嘉藤治の胸に詩の心を宿らせていきます。彼は、盛岡地方の文芸誌「朔風」や校友会誌に草郎 の名で詩を投稿するようになりました。燃ゆる思いの作品は、新聞などにも取り上げられ、いつしか詩人草郎の名は巷に 広がっていきました。
 一方、このころ梅村保や原 彬(原敬の甥)などによる盛岡弦楽研究会が結成されるなど、声楽が中心だった音楽界に 弦楽合奏という新たな風が吹き始めます。
 その中にあって師範学校音楽部の演奏会は県都の秋を飾る恒例の行事でした。嘉藤治にとって最後となる演奏会は 大正天皇即位の礼の祝賀ムードの中、師範校、盛岡高等女学校(現二高)の生徒や一般の聴衆千人ほどを集め盛大に行われました。 その模様を伝える岩手民報の大正4年11月9日号は「4年藤原嘉藤治氏の真摯な演奏は尊敬に値す」と評しています。
 嘉藤治は卒業に当たり、音楽部長としての表彰を受けています。

3、音楽教師への道

平成16年8月掲載

 藤原嘉藤治が師範学校で勉強に打ち込んでいたころ、そのすぐ斜め向かいの盛岡中学校に宮澤賢治がおりました。
 明治42年、盛岡中学校に入学した賢治は、岩手山はじめ多く野山に登って石の観察をし、自然観照を短歌に描いています。 学校の寄宿舎「自彊寮」の同室の先輩藤原健次郎と親しくなり、二人で南昌山にもたびたび登りました。賢治が「大仏さん」と 呼んで親しんでいた健次郎は野球遠征の疲れがもとで急逝します。そのためか賢治は仏教により深く心を寄せるようになりました。 その健次郎は、嘉藤治と同じ白沢小学校の一年先輩で、家も近くですから、嘉藤治が師範入学の前から二人のうわさを聞き、 あるいは見かけていた可能性は十分に考えられます。
 賢治が中学校卒業も近くなると、父政次郎から家業を継ぐよう迫られ、それがいやで勉強もおろそかになり、成績も下がりました。 鬱積した気分のなかで体も弱ったせいか、賢治は鼻の病とチフスにかかり、盛岡病院に入院してしまいました。うす暗い病室に 心細く横たわる賢治、その高熱にうるむ目に、優しく世話をしてくれる看護婦の真白い制服制帽の姿はビーナスそのもののように 神々しく見えたのでしょう。賢治の初恋の始まりです。

 検温器 青光りの水銀
  はてもなくのぼり行くとき
   目をつむれりわれ
 その相手の看護婦は高橋ミネといい、日詰の中心地仲町にあった八百屋高橋福太郎の娘でした。
 賢治は心も体も元気がないまま卒業し、いやいや花巻の家の手伝いを始めますが、その後もミネのことが忘れられず、結婚の 許しも得られず、空転する思いを抱いて野山を歩くのです。
 志和の城の 麦熟すらし
  その黄いろ きみ居るそらの
   こなたに明し
 賢治は胡四王神社の神楽殿から日詰を遠望し、こんな歌も詠んでいます。賢治研究家の小川達雄氏は先頃出版された 「盛岡中学生 宮沢賢治」のなかで「この歌からは、「きみ」がいる天地のいろどりに、 遠いこちらまでが染まるという大いなる融合と連関の感覚に気づかされる」と述べています。
 耐え難くなった賢治は、線路づたいに城山に来て、日詰の町を眺め、空しい思いを抱いて草に臥したという歌も遺しています。 後にその初恋は、童話「めくらぶどうと虹」の中に実を結んでいます。
 賢治はミネへの思いを秘めたまま、大正四年、盛岡高等農林学校に進みました。賢治は猛勉強を始め、 やがて法華経へ接近していきました。一方嘉藤治は、翌年春に師範学校を卒業して気仙郡広田小学校へ赴任し、教師の道、 そして音楽人の道を歩み始めるのです。

4、音楽普及に燃えた嘉藤治

平成16年9月掲載

  大正五年春、藤原嘉藤治は初任地広田小学校へ赴任しました。青い海原、人里を抱く湾の松原、砂浜に働く親子の姿、 盛岡とは全く違う漁村の風景に嘉藤治の心は奮い立ちました。
 「・・・神我にあり、である。世界創造の神を信じて生きることは吾人の最大の幸福である」。 着任して間もなく岩手民報の紙上に連載された「心の糧記」に彼はそんなことを書いています。自然を神として崇める心は、 後に宮沢賢治から仏教への勧めがあっても変わることなく、すべての活動の奥深くに貫かれている精神です。
 岩手の教育雑誌に「唱歌研究」を書き始めた大正六年六月、嘉藤治の魂を揺り動かすニュースが伝わってきました。 太田カルテット結成の報です。嘉藤治が学生時代、すでに盛岡弦楽研究会の中心メンバーとしてヴァイオリンを弾いていた 梅村保が、盛岡市の郊外太田村に移り、地元の豪農館沢繁次郎、同じく佐々木休次郎、盛岡の赤沢長五郎と組んで、 弦楽合奏の会を作ったのです。
 太田カルテットはアマチュアの合奏団ですが、東京からプロの榊原トリオを呼んで指導を受け、たびたび演奏会を開くなど 岩手の洋楽発展に大きく貢献しました。
 嘉藤治が盛岡の仙北小学校に転任した大正七年といえば原敬が首相となり、大正デモクラシーと自由主義の波が地方にも及び、 また芸術運動にも新たな波が起こって、東京から童謡誌「赤い鳥」が創刊されています。そんな空気のなかで、 嘉藤治は新藤武や岩手師範学校の先生で、後の作曲家下総ユ一らと共に盛岡音楽普及会を結成し、第一回の演奏会を 城南小学校で行いました。この時嘉藤治はピアノ独奏をしています。
 大正九年には、城南小学校に移り、美術教師の菊池武雄と出会います。その縁で、菊池は後に宮沢賢治の童話 「注文の多い料理店」の挿絵を描くことになります。また嘉藤治の提言で、県内はじめての海浜学校を行い、 宮城県渡ノ波海岸から十日間に及ぶ集団生活のもようを「城南校海浜団通信」と題して四回にわたり 岩手毎日新聞に書き送っています。
 城南小学校は、県公会堂ができるまで、盛岡の音楽の中心舞台でありました。そこで、嘉藤治はますます音楽の普及と教育 に熱を入れました。 弦楽演奏にも魅力を感じ、太田カルテットのメンバーでもあり、県内の音楽普及に力を尽くしていた原 彬からヴァイオリンと チェロの奏法を習いました。中古で穴のあいたチェロを夜を徹して弾く嘉藤治の姿は、後に賢治童話「セロ弾きのゴーシュ」のモデル とされました。
 大正十年十月、県の学務課に勤める原 彬が嘉藤治の才能と熱意を岩手の音楽発展に活かそうと考え、 嘉藤治を花巻高等女学校へ抜擢しました。努力は新たな出会いを呼び、人間の運命を変えていくようです。

5、賢治との出会いと交流

平成16年10月掲載

 大正十年九月、藤原嘉藤治は花巻高等女学校に転勤しました。
 花巻高等女学校は明治四十二年の創設で、当時、地方の女子エリート校、青いセーラー服姿で日詰駅から汽車に乗る生徒も 少なくありませんでした。今も健在な教え子は、「先生はとても熱心で厳しく、できないとすぐに怒りました。 でもうまくできると感激して喜んでくれました。」と証言しています。詩も書き続けていました。
 十二月のある日、花巻農学校に勤め始めたばかりの宮沢賢治が突然宿直室を訪れ、自分の詩と童話を読んで欲しいと言うのです。 嘉藤治は、面食らい、しかも手にしたその詩のすばらしさに圧倒されて表情がこわばっていました。 じれったくなった賢治はその手から原稿をもぎ取るようにして自分で読み始めました。これが二人の出会いです。
 宮沢賢治は、この年の夏、妹トシの病気悪化のため東京から帰り、童話創作に打ち込んでいました。この秋から冬にかけて 「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」「注文の多い料理店」「狼森、笊森、盗森」、 「雪渡り」など名作を次々に書いています。
 「塀のかなたの嘉莵治かも、ピアノぽろろと弾きたれば・・・」賢治は嘉藤治の名前の音の響き(下等児?)を嫌い、 嘉莵治(かとじ)と呼びました。 隣の学校の音楽室から流れ来る嘉藤治の弾くピアノの音を鋭敏な耳で聞き取り、詩にも書いています。 そして音楽への憧れを深めていきました。
 嘉藤治と賢治は「交換授業」をすることにし、賢治は英語やドイツ語を、嘉藤治は音楽を互いに教え合いました。 賢治はその影響で音楽の魅力を深め、自作の詩に曲をつけたり、それを生徒に歌わせたりしました。
 その一つが「農民精神歌」です。「日ハ君臨シカガヤキハ/白金ノ雨ソソギタリ/ ワレラハ黒キ土ニ臥シ/真ノ草ノ種マケリ・・」曲は川村梧郎が創りました。 嘉藤治は女学校から農学校にオルガンを運んで最初の指導に当たりました。やがてこの曲は卒業式の式歌として歌われ、 今に引き継がれています。こうした賢治の歌は生徒の精神に作用し、校風を変えていったといわれます。
 また、二人はレコードを買い求め、蓄音機で鑑賞しました。バッハ、べートーヴェン、R・シュトラウスなどの曲を二人は 好んで聞いたようです。賢治が中心になって町内のあちこちでレコードコンサートを開いています。 そんな賢治について、嘉藤治は「音楽を聴いている彼の幻想の素晴らしさと言ったら、実に側にいる僕は音楽よりも 賢治の身振りや口走る言葉、目の輝きにさらわれていくようだった。」と述べています。賢治の音楽を聴き取る感受性は体内に 新たなイメージを燃え上がらせているようです。
 翌十一年の暮れに、賢治の妹トシが亡くなり、賢治は悲しみの日々のなかから「永訣の朝」や「青森挽歌」などの作品を 書いていますが、嘉藤治はそんな賢治をどのように見守ったのでしょうか。

6、賢治の仲人により結婚

平成16年11月掲載

 藤原嘉藤治は女生徒の指導に大きな喜びを感じていました。声の出し方と楽譜の読み方を徹底して訓練すると、 独唱も合唱もぐんぐん伸びていきます。やがて世に出て母になるこの子どもたちに、歌うことの楽しさを持ち続けて欲しい、 そんな願いをもって歌曲や子守歌などの楽譜を集め、音楽の指導に活かしています。
 そんな評判を聞いた地元の小学校の先生方から音楽研究会に講師として招かれるようになり、 花巻、稗貫地区はもちろん、和賀や紫波地方にまで出かけています。嘉藤治は小学校の音楽指導の向上にも大きく 貢献しているのです。
 嘉藤治の音楽指導の才能と情熱に心惹かれた宮澤賢治は、嘉藤治からオルガンや チェロ(当時はセロと発音した)の奏法を教わります。嘉藤治も賢治の音楽のとらえ方や感じ方の独創的な才能を見抜いており、 二人は急速に親しくなっていきました。
 二人は音楽や詩や教育を論じ、理想の村づくりについて夜遅くまで語り合い、時には激論を交わすこともありました。 また、地方では手に入りにくいレコードを買って聴いています。嘉藤治の書斎に現在も残っているレコードは このころのものでしょう。
 その賢治にも転機が訪れます。農学校では、生徒に農民になれと指導しているのに、自分は給料を取って悠々と生活している ことに矛盾を感じ、賢治はついに農民になる決心をしました。大正十五年春のことです。
 賢治は下根子の別宅を改造して羅須地人協会の看板を掲げ、一農民として畑仕事に精を出しました。夜には、 農民を集めて農業の講義をし、、その後はみんなで楽器を取り出して演奏するのでした。創作にも打ち込み、間もなく 「農民芸術概論要項」を発表しました。その中の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という一文は、 今も世界の人々に大きな共鳴を与え続けています。嘉藤治には理想の村づくりに向かう賢治の考えと行動力に感動し、 夜の音楽活動には力を惜しまず応援しました。
 時は昭和に移って間もなく、嘉藤治が中心になって弦楽合奏団花巻クヮルテットと花巻トリオが結成されました。 嘉藤治はチェロを受け持っています。盛岡の太田クヮルテットを見て以来、いつか自分でもと夢に描いていたことがついに実現したので す。嘉藤治はうれしくてなりませんでした。賢治もまた喜んでくれました。
 昭和三年三月、賢治は嘉藤治に縁談を持ちかけ、わざわざ青森まで行って花嫁の親の許しを得たり、 婚礼の準備を整えるなど仲人の役割を懸命に果たしています。嘉藤治は賢治の好意を受け入れ、キコという女性と結婚しました。 間もなく生まれた長女と長男に賢治が名前をつけてやりました。賢治のこの熱い思いを嘉藤治は終生背負うことになります。 大きく重く、そして輝かしい贈り物でした

7、チェロ交換、そして別れ

平成16年12月掲載

 藤原嘉藤治は、中等学校音楽教員の免許をとるため、東京まで出かけて勉強していますがなかなか試験に合格出来ません。
大人になってはじめたピアノの実技が障害になっていたようです。
 諦めかけていた嘉藤治に、賢治は「おれが履歴書を書いてやるからがんばれ」と丁寧な文字で代筆しています。
しかし、また不合格。嘉藤治はすっかり落ち込んでしまいました。
そんな嘉藤治を元気にするために賢治のとった最後の手段が嫁の世話だったのです。
 二人のことを回想して嘉藤治の妻キコさんは、「ブーブーベーべー下手だったね、二人のセロは。」 「夜中に二人で山を歩いて来たとか、星がきれいだから田んぼに入って踊って来たとか、大人のわらしだった」といっています。
 畑仕事と農民指導に明け暮れていた賢治は、やがて病魔に犯され、父母の元に帰りました。
小康状態を得て、賢治は東北砕石工場の技師として働きますが、出張中に東京で倒れ、家に戻りました。
「雨ニモマケズ」の詩が手帳に書きはじめられたはこのころです。
 賢治の代表作といえば農学校教員時代に書いた心象風景「春と修羅」ですが、これは難解なものでした。
それを気にしていた賢治は、ある日、病床から「春と修羅の物語りをおれが口述するから君が筆記してくれ」と嘉藤治に頼みました。
しかし、嘉藤治はこの時、仕事が忙しく賢治の願いを叶えることができませんでした。
 昭和七年九月、NHK仙台放送局の依頼により、嘉藤治は花巻高女の生徒と花巻小学校の児童をつれて仙台へ出かけました。
その放送を聴いた賢治から嘉藤治の元へ手紙が寄せられています。
 「今夕の放送を聴けり。始めはただ過障なきを希ふのみ。而て奏進むや泪茫呼ベリ。
その清純近日に比なきなり。身顫ひ病胸熱してその全きを祷る。事恍として更に進めり。
最后の曲後半に至りて伴奏殆ど神に會す。奏ありて聲を挙げてよろこび泣く。弟妹亦枕頭に来って祝せり。
 凡そ今夕意を抑えて聴けるにあらず。ただ鍛えたるものは鍛えたるもの。よきものはよきものなり。
 更に盛岡の演あらん。翌は餐を重んじ煙を節して身を興奮より謨られんことを。」
 数日後、盛岡の県公会堂で盛岡洋楽協会の第一回公演会が行われ、嘉藤治も花巻カルテットを率いて参加することになりました。
晴れの舞台です。しかし、嘉藤治は自分の穴のあいたみすぼらしいチェロを見ながら、 今回は賢治の立派な楽器を借りて行きたいものだと思いました。病室を訪れた嘉藤治を見て、 賢治はすぐさまその気持ちを察し、チェロを貸すのではなく交換しようと申し出てくれました。
嘉藤治は賢治に感謝しつつ、賢治のチェロを抱えて盛岡に向かいました。
 この二つのチェロは後に数奇な運命をたどります。
 ある日、賢治からはがきが届きました。文面はただ開経偈(かいきょうげ)などの経文だけです。
それには友への感謝と懺悔、別れの気持ちも込められていると、私は思います。
 昭和八年九月二十一日、賢治は永久の世界へ旅立ちました。その十日後、嘉藤治は学校に退職願いを出しています。

8、宮澤賢治全集に全力尽くす

平成17年 1月掲載

 賢治の葬儀の後、嘉藤治は賢治の弟宮澤清六と共に、賢治が遺した膨大な原稿を前にして、 これらの作品を世に出す決意を固めていました。全集の出版、それは、この十二年間、 賢治の作品が生み出されていくようすを間近に見ていた自分に課せられた 仕事ではないか、そしてそれが朋友賢治への唯一の恩返しではないのか、そのためなら教師の道も音楽の活動も捨てて構わない。
嘉藤治はそう思ったのです。
 二人の願いに応えて、早くから賢治作品に注目していた草野心平が東京の文学者たちに呼びかけ、 全集出版に向けた編集プロジェクトが結成されました。嘉藤治はしばらく花巻にいて原稿を整理し、 浄書して東京に送る仕事に当たりました。そして昭和九年十月には、文圃堂から童話の名作を収めた第三巻が出版されました。
  残る作品は賢治が精魂傾けた心象風景「春と修羅」です。
これは、第一巻と第二巻に収める予定でしたが、難しい言葉が多い上、岩手に住む人でなければ分かりにくい地名や風景があり、 編集作業は遅れがちでした。嘉藤治はここで自分も直接編集の仕事に加わらねばと上京を決心します。
暮れも間近な夕刻、嘉藤治は送別会の席上からモーニング姿のまま、妻と二人の子どもを連れて花巻駅へ急ぎ、 教え子たちが涙ながらに見送るなか東京へ向かいました。
 嘉藤治一家は吉祥寺の借家に住み、床の間には賢治のチェロを飾り、心の励みにしました。
昼は都内の富士小学校に代用教員として働き、夜は出版社に通って編集の仕事に打ち込みました。
  こうして念願の全集は完成し、売れ行きも上々、再版を重ねるようになりました。
そして宮澤賢治の名前は文学愛好者の間に急速に広がっていきました。
嘉藤治は、一般の読者に、詩集「春と修羅」を分かってもらうためには、 詩の中にちりばめられている難しい言葉の解説書が必要と考え、 各方面の専門家の協力を得て賢治作品の辞典ともいえる注解の書を作りました。
 昭和十四年春、嘉藤治は代用教員を辞めて大日本青年団本部に就職しました。
そして、最初の全集に収められなかった作品を含めて十字屋からの二つ目の全集を出版する仕事に取りかかりました。

 青年団本部に勤めて、嘉藤治にはまた音楽教師としての血が甦ってきました。
日本中の青年たちに内外の名曲を歌って欲しいと多くの楽譜を集めて地方の青年団に送りました。
また嘉藤治は、日本の女子青年が良き母親になるように願って「日本子守唄集」を発行しています。
 昭和二十年一月、銀座裏の料亭「浜作」において出版の仕事を成し終えた最後の編集委員会が行われました。晴れやかな嘉藤治の笑顔が見られます。長老格の高村光太郎とはこの十年間、仕事を通じて、 また賢治の作品を通じて深く共感しあう仲となりました。
  嘉藤治が農民になることを決意し、焦土と化した東京を脱出し、 懐かしいふるさとの大地を踏みしめたのは終戦のわずか二日前のことでした。











              9.賢治の精神を継いで開拓に挑む
                                                       平成17年 2月掲載

  戦火の東京を脱出した藤原嘉藤治一家四人は、一時、育ての親の旧不動村の菅原家に身を寄せ、そこで終戦を迎えました。文部省の計らいもあり、混乱の中にもたくさんの蔵書や楽譜類、それに賢治のチェロなども貨物輸送で持ち帰ることができました。
日本の敗戦は、荒廃した国土に急激な人口増加と深刻な食糧不足をもたらし、食糧増産は最重要の課題となっていました。行き場を失った人たちは岩手山麓はじめ多くの未開地に入植しました。その数は岩手県内に二万人ともいわれます。嘉藤治一家も周囲の人々の親身の世話により、生まれ故郷の水分村東根山麓に新生活の一歩を踏み出しました。しかし、そこには厳しい現実が待っていました。
 嘉藤治は当時を振り返って「入植当時は住宅とは名ばかりで、大部分はテント張りの雑魚寝の共同生活、雨露をしのぎ、わずかな馬鈴薯、雑穀に山菜を混ぜた粗末な食事、朝に霜を踏み、夕に星をいただき、汗と泥にまみれながら手鍬を奮って荒野に挑んできた」(開拓二十五周年記念誌)とのべています。山林を切り拓き、根を掘り起こし、大小の石を取り除く厳しい労働、これを畜力も機械力にも頼らず人の手でやるのです。嘉藤治にはその外、開拓集団二十戸の食糧と営農生活資金をどう確保するのか、子どもたちの教育をどうするのかなど課題は山積していました。
 そこで嘉藤治は県内の開拓指導者と連絡を取り、昭和二十三年「岩手県開拓者連盟」と「岩手県開拓者農協連合会」を結成し、その紫波支部長となって陳情のため県庁や農林省へしばしば出かけました。そのいでたちは作業服にリュック姿で嘉藤治はいつしか人々から「開拓のかとんつぁん」と呼ばれるようになりました。
世の中がいくぶん落ち着いてきたころ、嘉藤治は長男を北海道の酪農研修に出しました。後を継ぐ者に北海道の進んだ経営方法と技術を習得させたいと考えたからです。一方、都会育ちの息子には電気関係の技術者になりたいという夢がありました。しかし、父親の厳然たる信念の前には従うほかありませんでした。
 嘉藤治の農業を目指す固い信念とは何か。情熱を傾けた教師の道も音楽への憧れも投げ捨て、家族の夢をうち砕いてまで開拓の仕事に頑張ったのはなぜか。それはただひとつ宮澤賢治への崇敬とその精神の実践にあったのです。あの農民芸術概論や農民精神歌に込められた賢治の理想の村づくりへの思いを実践することでした。賢治のチェロを飾り、賢治の経文の埋まる東根山麓から遙かに花巻の空を仰ぎ、農民のために精魂を傾けた賢治を思いつつ開墾の鍬を振るう嘉藤治でした。

                   10.死の床まで賢治を慕う
                                                 平成17年 3月掲載
  「わっ、この眺め! ここは天然の舞台じゃないか!」
  ある日、宮沢賢治全集出版の同志で彫刻家の高村光太郎が花巻市郊外の開拓地から嘉藤治の牧場に来ていいました。賢治の精神により鍬を奮うことになった二人は互いに訪問しあっていました。今日は開拓十周年の記念式典に寄せた詩を届けに来たのです。マンサードの赤い屋根の新居と酪農家を目指す若い夫婦の姿を満足げに見ながら、光太郎は嘉藤治に祝福の笑みを贈りました。
 式典の席上、嘉藤治は感激に振るえる声でその詩を読みました。
「赤松のごぼう根がぐらぐらと/まだ動きながらあちこちに残っていても、/見わたすかぎりはこの手がひらいた/十年辛苦の耕地の海だ。 今は天地根源づくりの小屋はない。・・・」
 ようやく軌道に乗りかけた開拓農業ですが、昭和二十八年から三十一年にかけての冷害に開拓地は大打撃を受け、借金に喘いでいました。嘉藤治も同じです。背に腹はかえられず、大事にしていたヴァイオリンを米二俵と交換しました。それでも足りずに、嘉藤治はついに賢治から託されたチェロも手放すことにしました。
 賢治の弟宮澤清六はその手紙に「(生前兄が(病床であなたのセロと取り替えたといふことが、今の急場に間に合って(兄もあの世で}喜んでいると思います。遺品として大切にします。」と述べています。花巻、東京、紫波と嘉藤治と共にあった賢治のチェロは、こうして再び花巻に帰り、今は宮沢賢治記念館に眠っています。
 昭和三十六年、嘉藤治は家業を息子夫婦に任せ、自分は岩手県開拓者連盟委員長、東北開拓協会会長として県内外を飛び回っていました。高度経済成長のさなか離農者も出ている時、懸命に開拓農業を打ち込む農民たちを少しでも勇気付けたいと考えました。
 そこで嘉藤治は自費でイチョウの苗木を買い、県内の開拓農家や開拓地の学校に送りました。一緒に送った小冊子には、いちょうは日本特有の樹木で、成長力、保水力、色彩感、長寿などを宿しており、その生気をもらってほしいという願いを込めています。。
 昭和四十六年、嘉藤治は県政功労者賞を、翌年には勲五等瑞宝章を受賞しました。しかし、嘉藤治は、その栄誉はすべて苦労を共にした開拓農民みんなに帰すべきものと考えていました。
 そのころ、賢治について聞き取りに訪れた盛岡一高生たちに、嘉藤治は次のように述べています。「・・・賢治は終生形あるもの、掴んだり手に持ったりすることを非常に嫌っていた。つまり所有することを恥だと思ったのです。だから彼は無限だ。所有することを求めたら、そりゃ喧嘩だよ。地球は有限でしょうや。それを求めたら戦争が起き、平和の妨げになる。」
 それから嘉藤治は賢治のことを正しく伝えたいと書斎に閉じこもり、最後の力を振り絞ってペンを走らせました。およそ書き上げたころ、病気に倒れ、昭和五十二年三月二十三日、県立紫波病院で亡くなりました。八十一歳、死の床まで賢治を追い求めた人生でした。


 藤原嘉藤治については、「こだまの会」(会長瀬川正子)    がその顕彰活動を行っております。お問い合わせは水分公民館へ(電話673 8222)


トップへ戻る