東京マリン





かつて足立区西新井に巨大なレジャープールがあった。その名は『東京マリン』。
今となっては実に懐かしい響きをもつナイスなネーミングである。このウォーター
パークは1972年から2001年まで営業し「としまえん」「東京サマーランド」
「船の科学館シーサイドプール」とともに都内では有名なプールだった。

最近でこそ、キレイになったと言われている綾瀬川だが、1970年代には「日本一、
汚い川」と呼ばれていて、その頃の足立区の河川ではとても子どもたちが水遊び
できるような環境ではなかった。そこで当時の足立区長は、区内に巨大なウォーター
パークを造ろうと広大な土地を持つ地元の資産家K氏に協力を求め、『東京マリン』
が開業したと言ういきさつがある。場所は足立区栗原3丁目、敷地面積は11,000平方
メートルの巨大ウォーターパークが1972年に登場した。翌年には波の出るプールを
開設したのを皮切りに、一躍人気スポットになり、都内はもとより近郊に住む人たち
も『東京マリン』を訪れるようになり、足立区の名所と呼ばれるようになった。

その頃、高校生だった私は『東京マリン』内にある洒落たレストラン(たしか”サント
ピア”という名前だった)でウエイターのアルバイトをしていた。当時、『東京マリン』
には大勢の芸能人やアイドルが撮影やTV収録で来ており、水着姿の浅田美代子
伊藤咲子、アグネス・チャンを目の当たりに見たし、プールサイドで歌っている
城みちる、西城秀樹に手を振ったこともある。レストランではマネージャーと
打合せしている岡崎友紀にコーヒーを運んだこともあるし、井上順に「トイレは
どこか」と尋ねられたこともある。足立区にこれだけの超有名人が集まったスポット
はあとにも先にもこれが最初で最後ではなかろうか(笑)
人気アイドルや芸能関係者が見られるという相乗効果もあり、ピーク時の1978年
には24万人以上の入場者数があったという。



しかし、1980年代に入るとお手軽な公営プールが増えてきたり、ディズニーランド
に代表されるテーマパークやレジャー施設との競争が激しくなり、入場者数は減少
し始めた。としまえん、東京サマーランドなどの競合施設はプールの他に遊園地・
アトラクションを併設するなどして客を集めたが、東京マリンには遊園地をもつ
ほどの敷地に余裕がなかったことも減少理由のひとつだろう。いじらしいことに
ローラースケート場(のちにゲームセンターになる)を設け、夏以外はプールを
展示即売場にして頑張ったが、入場者数はピーク時の約半数の13万人まで低下した。

けれども、『東京マリン』の経営者はここで起死回生の勝負に出る。1986年にスパイラル
ウォータースライダーを導入し、1992年までに5つの大型滑り台を設置したのだ。
その導入資金は約30億円と言われている。そしてスライダーと言えば、『東京マリン』
を連想させるまでその知名度を定着させ、1990年にはピーク時と同様の24万人
まで入場者数が回復し91年決算では売上10億円を突破したというから
「よく頑張った。足立区根性をみたぞ」と褒めてあげたい。

     
(ヘビのようにクネクネした「スパイラルスライダー)             (近所では浮き輪やボートも売られていた)


ここで『東京マリン』が誇る当時のウォータースライダーを紹介しよう。

ブラックパニック
専用の2人乗り8の字型ゴムボートに乗って真っ暗なチューブの中を滑走する。
外が見えないので恐怖心が増す。高さ40m、時速40km/h、傾斜角45度はいずれも
当時世界一。
フリーフォール・カミカゼ
高さ28mから、長さ80m、最大斜度60度の斜面を最高速度70km/hで滑り降りる。
ウォータースライダーでは「最恐」と認められていた。
フリーフォール・コブラ
滑り出しは緩いが、突き当たりで暗いチューブ内を180度ターンするスライダー。
ターンする時のGが強烈。西新井駅に向かって加速する
ジェットスライダーX-1
「X-1」の意味不明。地上30mからチューブの中を最高速度60km/hで滑り降りる
直線タイプのスライダー。お尻が痛くなると不評。
スパイラルスライダー
曲がりくねったコースを滑る初心者向けのスライダー。180mと160mの2レーン。
スピードはあまりでないが、二人で一緒に滑れるというカップル向け。
サーフヒルスライダー
マットに乗って3人同時に滑るスライダー。マットを敷いて腹這いでスタートする


とりわけ、ブラックパニックとカミカゼは、よくテレビ番組の罰ゲームでも使用され、
視聴者から笑いをとっていた。そのスピードと水の抵抗力で美女の水着が脱げて
しまうというウハウハのハプニングも頻繁にあり、これが楽しみで視聴率がアップ
したなどという巷の噂すらあった。

これらのスライダー効果で入場者数は一時、ピーク時まで回復したが、スライダー
導入資金の30億円をまかなうために入場料の値上げを繰り返し、1991年には3,500円
(中学生以上)になった。これは当時の東京サマーランドの遊園地を含む入場料と
同額であり、ディズニーランドのパスポートが4,400円だったので、プールのみの
料金としてはかなり高額であった。(2,000円のサンセット料金なんていうのもあった)
そしてスライダー効果も徐々に薄れるようになり、1990年台後半には入場者数は再び
10万人前後にまで落ち込むことになる。さらに経営多角化のために手を出したフィッ
トネスクラブやパチンコ店が失敗し、ついに2000年10月に東京マリンは倒産
負債総額は関連企業も合わせて87億円に上ったという。翌2001年、6月30日から
のシーズンを最後の営業となり、別れを惜しむ往年のファンたちに見守られ、9月9日
をもって閉鎖された。(泣)


(解体されるカミカゼ)

その後、『東京マリン』は解体され、跡地は東武鉄道が買収し、2003年2月に
「東京アクアージュ」というマンションが建てられた。「東京・アクア」の名称が
『東京マリン』のかつての栄光を名残り惜しんでいるように思うのは私だけでは
ないはずだ。
ちなみに、『東京マリン』が運営していたスイミングスクールは倒産前に別会社に
していたため、東京マリンの名前が残り、『東京マリンスイミングスクール』として、
現在、西新井・舎人・江北に存在している。西新井校は東京マリン跡地の近くにあり、
この辺りを通ると、アルバイトをしていた青春時代に見た浅田美代子の眩しかった
水着姿やウォータースライダーの頂上から見上げた真夏の太陽を思い出す。


写真提供:加藤 康夫(piyokato)
参考文献:Wikipedia
(原稿:2013.6.23)



「あの頃」のセピア色の想い出