日光は766年に勝道上人が、男体山に修行に訪れ開山されたと言われています。
はじめ勝道上人は二荒山(ふたらさん)と名付けられたそうですが、その後820年に弘法大師空海が入山して
日光と改めたそうです。

日光と改めるに当たって諸説あるそうですが、
一例を上げると、「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めるということから「にこう」になり、それが後々「にっこう」に
変化していき、「日光」という漢字を当てたと言う説があるそうです。
何だか無理があるように思えます。この説が正しいかどうかは判りませんが、地名や名前の由来は
得てして「なんだぁ、そんなことだったのか」というようなことが多いのかもしれません。
もちろん、きちんとした歴史的背景がしっかりしている場合も多くあると思います。

何が本当なのかどうかは別にして、いろんな地名や名前の由来にまつわる話や伝説はおもしろいと思います。

確か、私が小学5年生の時、学校のバス旅行でこの日光に来ました。
その時バスガイドさんが、神橋にまつわる話や戦場ヶ原での戦いについての話をしてくれたと思います。
そんなことを思い出しながらいくつか、この日光の伝説を紹介します。

日光は、国宝や重要文化財が沢山あり、社寺は世界遺産に登録されています。
多くの方が訪れたことがあると思います。

【神橋】

766年に勝道上人一行は、霊峯二荒山に登頂すべく歩を進めていました。
一行は大谷川にたどり着きましたが、激流のために渡ることが出来ません。
勝道上人一行は護摩を焚き、神仏の加護を求め一心に祈りました。
すると対岸に衣をまとった神人が現れました。
身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向って「我は深砂大王である。
汝を彼の岸に渡すべし」と言い、手に持った赤と青の蛇を放つと、蛇はたちまち川の対岸とを結び、
虹のような美しい橋になりました。
蛇の背には鱗が光って渡れませんでしたが、そのうちに背に山菅が生え小道が出来渡ることが出来ました。
振り返ってみると、蛇は深砂大王の手に戻り、雲の彼方に消えていきました。
その後、その場所に丸木橋をかけ「山菅の蛇橋」と呼ぶようになりました。
勝道上人は深沙大王の加護に感謝し、後に深沙大王のお堂を建ててお祀りしました。

神橋

平成9年から8年間をかけて改修工事が行われてきました。
現在、特別公開中です。
渡橋する事も可能なようです。
詳しくはこちらを参照してください。

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【戦場ヶ原、赤沼、菖蒲が浜、歌が浜】

日光男体山(二荒山)の神様と群馬県赤城山の神様が、領地をめぐって戦になりました。
男体山の神は大蛇に、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦いました。
苦戦していた男体山の神は弓の名手猿丸に助太刀を頼み、この猿丸が大百足の右目を射抜き
戦いは男体山の神の勝利に終わったとされています。
この戦いのあった場所が戦場ヶ原で、大百足の流した血がたまったところが赤沼。
そして、勝負が付いたところが菖蒲が浜で、勝利を祝ったところが歌が浜と呼ばれるように
なったと言われています。

この猿丸と一緒に磐次磐三郎兄弟が登場するのですが、この兄弟も弓の名手で別の説では
この兄弟が大百足の左目を射たというように言われています。
この兄弟は、マタギ(東北地方の狩猟の民)の祖とされているそうです。

戦場ヶ原

磐次磐三郎についても様々な説があり、名前の漢字も「磐司磐三郎」
「磐司万三郎」「万事万三郎」とその地域によって表現が違ってくるようです。
狩猟(住居)をしていた場所は日光山麓と言う説、仙台という説、山寺(立石寺)に移り住んだとかいろいろな説があるようです。

一部では、狩猟の他に山賊まがいのことをしていたとする説もあります。
それぞれいろいろな説がありますが、弓の名手でマタギの祖ということは
共通しているようです。

日光ではなないですが、この争いの伝説の関連で
【群馬県老神温泉伝説】というのがあります。
戦場ヶ原と比較してみるとおもしろいです。

神の化身である大蛇と大百足が上記の伝説と全く逆になります。
男体山の神が大百足で赤城山の神が大蛇となります。
戦いは赤城山の神、大蛇が弓で射抜かれ何とか赤城山の麓まで逃げ帰ります。
しかし、男体山の神、大百足の軍勢が後を追ってすぐそこまで迫ってきています。
「ちきしょう」と矢を地面に突き刺すと、不思議なことにそこから湯がわき出てきました。
傷を湯に浸してみると、これまた不思議で傷はたちどころに治ってしまいました。
傷の治った赤城の神は、追いかけてきた男体山の神の軍勢を見事追い返しました。
それからというもの、傷ついた神が敵を追い返す力の基となった温泉と言うことで
誰言うことなくいつの間にかこの地を「追神」と呼ぶようになったそうです。
月日が流れ、若かった赤城山の神も年老いてゆき、いつしか「追神」の名も「老神」と
呼ばれるようになりました。
神の傷おも治すこの湯は、万病に良しとして多くの人々に愛されました。
このありがたい湯を湧き出させてくれた赤城山の神に感謝して、毎年5月7・8日の
赤城神社祭典の両日に張りぼての蛇を担ぎ歩くという、現在の「老神温泉大蛇祭」
原型のようなことが行われるようになり、その後変化しつつ今日に至ったとされています。

【明智平】

第2いろは坂をほぼ登り切ったところに、駐車場とロープウェイの発着所が有ります。
ここが明智平です。
ここからの、あるいはさらにロープウェイを登った所からの眺望はすばらしく、絶景ポイントとして多くの観光客で
賑わっています。

この明智平の名称にちなんでおもしろい説があります。
この地の命名は南光坊天海僧正が付けたと言われています。
そして、その天海僧正こそ明智光秀であると言うのです。
命名に当たって、後世に自分の名を残したいと言うことで、この眺めの良い場所を選んで「明智平」としたというのです。

明智光秀というと、秀吉との山崎の合戦で敗れ、敗走途中土民の竹槍によって命を落とすという説が有名ですが、
一方で実は比叡山に逃れ南公坊天海、天台宗の僧として生きていたとする説があります。
そしてこの命名になるわけです。
「天海僧正=明智光秀」説には、いろいろおもしろい説がありますが、ここではこれ以上の紹介は止しておきましょう。

ただ簡単に、事柄だけをいくつか紹介しておきます。
1,比叡山には、江戸時代に明智光秀によって寄進された石灯籠がある。
  本能寺の変は1582年。江戸開府は1603年。
  石灯籠に刻まれている寄進の日付は1615年。
  この年代にはすでに明智光秀は死んでしまっている年代です。
  しかし、寄進の日付からすると1615年までは生きていた証ではないだろうかということです。
2,光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の謚名が同じ「慈眼」であるということ。
3,日光東照宮の陽明門の脇にある二対の大礼服の、随身の座像の着物には、明智家の家紋桔梗紋があること。
4,三代将軍将軍、家光の乳母に春日の局(お福)の登用。
5,大阪岸和田にある本徳寺に光秀の位牌が残っており、その裏に「当寺開基慶長四巳亥」と書かれています。
  慶長年に光秀が寺の寄進者になっているというのです。
  慶長年間に光秀が
生きていたことになります。
  この他、光秀の肖像画も残っており、その肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる
  一文があります。

この他にも諸説いろいろあるようです。
興味を持たれたなら、調べてみるのも良いでしょう。

明智平

《日光伝説》

【神橋】

【戦場ヶ原、赤沼、菖蒲が浜、歌が浜】

【明智平】

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