名張市の歴史
目次
1章 縄文〜壬申の乱
一、旧石器・縄文時代
二、弥生時代
三、古墳時代
四、伊勢巡幸
五、大化の改新
六、壬申の乱
七、万葉集
2章 荘園制
一、荘園制
二、東大寺
三、黒田悪党
四、観阿弥
五、太平記
3章 天正伊賀の乱
一、伊賀忍者
二、予兆
三、第一次天正伊賀の乱
四、第二次天正伊賀の乱
五、天正の乱以降
4章 筒井家・藤堂藩
一、筒井時代
二、藤堂高虎
三、藤堂宮内家歴代当主
四、享保騒動
五、藤堂宮内家家臣
六、無足人と庄屋
七、新田開発
八、宗教
九、平高騒動
十、幕末・維新
5章 明治以降
一、廃藩置県
二、市町村合併
三、江戸川乱歩
四、太平洋戦争
五、戦後復興

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4章 筒井家・藤堂藩


一、筒井時代

筒井定次
 脇坂安冶に代わり、天正13年(1585年)8月24日に筒井順慶の甥筒井定次が 大和郡山から伊賀上野20万石に転封になった。この転封は、8月18日に豊臣秀吉から国替えを命じられ、24日に大和を追放 されるという惨めなものだった。筒井定次は平清盛が建立した平楽寺跡に城を築城、 伊賀上野城・名張・阿保(旧青山町、城主:岸田伯耆三千石) ・平田(旧大山田村、城主:箸尾半三郎千石)以外の城を全部破壊した。

松倉父子
 『筒井順慶葬式帳』に筒井三家老(松倉右近勝重島左近友之森好之)とされていた松倉勝重は名張城主として八千三百石を与えられた。 簗瀬の地に居館を構え、松倉重政に頓子山に砦を築かせた。 居館を構えた当時の簗瀬は乱によって焦土と化したため、民家が16戸しかなかった。 松倉右近と島左近は筒井家の「右近・左近」と称され、『和州諸将軍傳』において天正14年(1586年)3月7日に名張で死去、 『寛政重修諸家譜』では文禄2(1593年)7月7日死去したとされている。 松倉勝重の跡を松倉重政が継いだが、二千石を弟重宗に譲り、 天正15年2月に森好高、3月には松倉重政・重宗 、天正16年2月には島左近が相次いで筒井家を去った。 松倉兄弟の後を継いだのが桃ヵ谷国仲である。桃ヵ谷国仲は四千石を与えられ、天正15年5月に名張に入った。 桃ヵ谷国仲は奸智に長じ、定次を酒色乱交に導いた張本人とされている。 定次がキリシタン大名であったことや酒・女に現を抜かしている風評や家臣との不仲などの理由(学者の間では家臣との確執が有力説)から、 慶長13年(1608年)6月、中坊秀祐の訴えによって領地が召し上げられ、1608年6月20日筒井家は改易となった。 桃ヵ谷国仲も筒井家改易と同時にその責を問われ、藤堂高虎によって伊賀上野城に幽閉された。  松倉重政は名張を去った後、興福寺で出家していたが、関が原の功が認められて慶長13年(1608年) 大和五條二見一万石を与えられる。大阪夏の陣では水野勝成に属して軍功を挙げ、 肥前島原城六万石城主として島原に赴きキリシタン弾圧・重税を課した。子・ 松倉勝家の時に島原の乱が起きたため、勝家は責任を取って切腹。 松倉家は改易となる。

筒井検地
 豊臣秀吉は全国的にで太閤検地・刀狩の実施を命じた。伊賀では多羅尾道賀を奉行として文禄年間に検地が実施されたが、後の藤堂家 が「旧知」と呼ぶもので、筒井家独自の検地だったと推測される。

筒井天守閣跡筒井本丸跡





二、藤堂高虎

藤堂高虎
 筒井家に替わり、藤堂高虎が伊勢(前領主富田家)・伊賀転封になった。筒井家が伊賀から去ると 慶長13年(1608年9月下旬)高虎は伊賀上野に入城する。高虎は10月2日に 名張城城主梅原勝右ヱ門に対して「法度」21か条を出す。その「法度」に次の付記がある。

従伊予御国替之時分、伊賀名張松倉豊後守殿城跡、梅原勝右ヱ門ニ御預成候ニ付、城付御法度御書付之写

一、口米は三升六合。
一、秤は百姓一人一人に量らせる。
一、米は籾・糠なきよう念を入れる。
一、納升は「御定之御焼印」を押した升。
一、俵は二重にし、桟俵を当て立縄をかけ五ヶ所を結ぶ。
一、代官以下、百姓人足を使ってはならない。
一、代官・下代の食事は自分賄。
一、竹木伐採禁止。
一、糠・藁・薪がその所にあれば百姓に出させてよいが、他所まで運ばせるのは禁じる。
一、庄屋百姓の娘や下女に猥りなことをすれば、後日にわかっても曲事。
一、妙な感じの牢人者は知らせること。
一、百姓に十人組を組織させ判形をつかせて届ける。
一、年貢未納は、理由により庄屋・百姓を人質とする。
一、鹿・猪・牛・犬を喰うことを禁じる。
一、山中での発砲は許すが、広場では禁止。
一、年貢を済まさないうちに他国へ米を出すことは禁止。
一、年貢未済のままでの借米・頼母子・勧進はいっさい禁止。
一、「鉄砲之衆」他組への編成がえは相談を必要とする。
一、「鉄砲之者」は法度を厳守、みだりな事があれば組頭も曲事。
一、年貢や耕地ののことなど細かなことも聞き込んで届けること。
一、代官に任命した者には五人扶持を給する。
慶長十三年十月二日  梅原勝右ヱ門 和田真斎

 慶長13年11月藤堂高虎は伊賀国内では上野・名張・阿保以外での商売を禁じるが、藤堂家は寛文10年(1670年)には島ヶ原・佐那具 ・上柘植での商売を許している。
「国中よろず売買の儀上上野町並に名張の町、阿保の町にて商売仕るべく候。右のほかわきわきにて売買かたく停止せしむるものなり。」


藤堂高清
 大阪夏の陣では、名張の守備を高虎の異母弟である留守居役藤堂高清に命じるも 藤堂高清はその命令を無視し八尾の戦いに密かに参戦し奮戦するも認められず、伊勢三ヶ野村に謹慎させられた。 梅原勝右ヱ門を和田真斎、乙女五郎介、壬生太郎作が助けたが、梅原勝右ヱ門は年貢取立て等の職務執行の不手際から上野に引き戻され 、禄高も二万石から千石に減らされた。その後、 1619年に許されて伊賀上野城代になっていた藤堂高清が名張を直接支配することになった。高清は藤堂出雲家の祖。

慶長十■年元祖出雲に名張城御預けなされ候ぬ付梅原勝右ヱ門以下引渡しの儀御下知御書写

一、その城いずれも与左衛門に相渡すべき事
一、竹木出し候儀いよいよかたく停止たるべく候也




三、藤堂高吉以下歴代当主(名張藤堂家宮内当主)
1636年〜1869年
家紋:桔梗
石高:二万石 → 一万五千石
家臣:203名(享保19年) → 94名(天保10年)

11











20

(1887)
10







(1824)





(1864)
9







(1811)





(1864)
8







(1779)



13

(1830)
7







(1738)





(1797)
6





17

(1732)





(1741)
5





11

(1698)





(1776)
4







(1689)





(1716)
3







(1647)



16

(1703)
2





19

(1614)





(1682)
1







(1579)



10

(1670)

















藤堂高吉
新居甚兵衛・武田伝次が著し、高吉の生涯を知る『藤堂高吉公一代記』がある。

 父は織田信長の家臣丹羽長秀、母は若杉越前守の娘、 陸奥白川初代当主丹羽長重の実弟でもある三男藤堂高吉(幼名:仙丸、従5位下、宮内少輔)は、 天正7年(1579年)6月1日に近江佐和山城で生まれた。高吉が生まれた頃、 豊臣秀吉柴田勝家と敵対していたため丹羽長秀を仲間に引き込む必要があっ た。天正10年(1582年)に弟の豊臣秀長の養子として高吉は但馬出石に送られる。 天正13年4月に丹羽長秀の死去後、丹羽家の禄高も30 分の1(120万石 → 4万石)に減俸される。豊臣秀吉は秀保(三好武蔵守一路の子)を秀長の嫡子にすることを決め、1588年に秀長に 高吉を廃嫡するよう命ずるが、秀長は拒否した。これが豊臣兄弟不仲の原因となったため、当時子供がいなかった藤堂高虎は秀吉に高吉を養子にすることを願い出た。 天正16年、秀長から一万石、秀吉から宮内少輔を与えられ、名前を高吉に改めた。
1592年 3月朝鮮征伐に出陣
1594年 7月朝鮮半島から帰国後、伏見城松の丸普請に参加
1595年 7月高虎が伊予宇和島七万石城主となり高吉も従う
1597年朝鮮再出兵に従軍
1600年 6月上杉景勝征伐に従軍
1600年9月関が原の合戦に高虎と共に参戦
1601年11月高虎夫人長氏とのあいだに藤堂高次誕生
1604年  藤堂高吉は銀泉城を守っていた。銀泉城近くの松山藩加藤嘉明領林町で、高吉の家臣が松山藩士に殺害される事件が起きた。 事件は発展し両藩の紛争沙汰になったため、江戸城で裁きが行われ、非は松山藩にあると下された。しかし、高虎からこの一軒に関して責任を問われて 大洲野村郷へ蟄居を命じられる。慶長11年に徳川家康の命により蟄居謹慎は解かれた。
1608年10月高虎は伊勢・伊賀20万石を与えられ、10月には安濃津城に入った。 家康の命で高吉は今治城に残り、2万石を領した。
1614年大阪冬の陣で、藤堂藩の大砲隊を指揮し、木村長門守を破る。
1615年大阪夏の陣で、八尾で長宗我部盛親と対峙。藤堂仁右衛門の後詰。長宗我部の進軍を食い止める
1630年10月藤堂高虎死去。急ぎ今治から江戸へ向かおうとするが、近江水口で津城からの藤堂家臣に止められ、 家督は大学助(高次)が継ぐので江戸へ上京する必要なしと言われる
1635年7月伊勢飯野・多気二万石との国替えを命じられる。
1635年11月江戸城で徳川家光に謁見し、国替えの礼を述べる。高次に二万石の内、五千石を名張で替地させられる
1636年1月名張の地に入り、北出村の山村甚之邸に身を寄せる
1636年9月名張藤堂邸完成。新居に移る
1670年7月藤堂高吉亡くなる。徳蓮院に埋葬される

補足
1636年(寛永13年)、筒井時代の居跡の高台に屋敷を構えて、家臣・伊予の商人・職人達300人を名張 に連れてき、屋敷を中心に中町・榊町・鍛冶町など陣屋町を形成した。
 高吉は藤堂高虎が伊予宇和島七万石城主となった1595年に*注*溝口伯耆守宣勝の女を 大阪屋敷で妻に迎える。溝口伯耆守宣勝の女とは2〜3年で離婚し、溝口伯耆守宣勝の女の侍女であった慶法院を側室とした。 寛文10年7月18日死去し徳蓮院に埋葬されている。高吉の亡き後、二万石のうち一 万五千石を2代当主長正、残りを長直(藤堂隼人家初代)・長則(千五百石)・長正の甥の長吉・長正が引き継いだ。 名張藤堂家の子孫は代々家老職を勤め、明治を迎える十一代まで続いた。明治時代において宮内藤堂家は男爵であった。
名張藤堂家邸徳蓮院
名張藤堂家菩提寺

*溝口家*
 尾張溝口村発祥。新発田(現在の新潟県新発田市)六万石の藩主。初代藩主伯耆守宣勝は丹羽長秀の家臣であったが、賤ヶ岳の戦いの功により 豊臣秀吉から加賀大聖寺四万四千石が与えられる。
(新発田藩の情報源HPは 道学堂〜新発田藩史研究所〜




四、享保騒動
 享保19年(1734年)藤堂長煕は、宗家から独立し大名になることを試み幕府に画策する。 江戸詰の聞番役七条喜兵衛に命じ て丹羽氏や幕府用人大久保源次郎に通じ、横田太右衛門鎌田新兵衛小沢宇右衛門らが江戸へ下った。しかし享保20年1月には 宗家の知ることとなり、上野城から名張に来た藤堂修理に対して長煕は「将軍への謁見を願い出ただけ」と弁明した。 『永保記事略』 4月25日には「藤堂宮内江戸表へ不勤一件荒増わかり候事」とあり、藤堂長煕の画策は宗家に露見した。5月24日、上野城代藤堂玄蕃から 藤堂長煕・奉行横田太右衛門・家老鎌田将監・ 小沢宇右衛門・江戸聞番役七条喜兵衛・ 鹿道左近衛門6名に対し上野城への登城命令が出る。 5月25日、鎌田新兵衛・山崎太郎左衛門が上野城に赴き、藤堂長煕が眼病のため登城できない旨伝える。そのような状況下、 安濃津から藤堂隼人 が出向、藤堂兵庫が手勢を率いて水越に陣を張った。他にも要所要所に見張りや足軽を置き通行人を尋問した。名張藤堂宮内家も守りを固め、 一触即発の状態であった。26日、家老鎌田将監・奉行横田太右衛門・小沢宇右衛門・江戸聞番役七条喜兵衛・鹿道左近衛門・ 小沢藤右衛門山崎太郎左衛門 の7名が藤堂長煕と別れを告げ、上野城に出頭した。厳しい取調べに対し、横田太右衛門・ 小沢宇右衛門・七条喜兵衛の3名が主人長煕のあずかり知らぬところ として責任一切を被った。この結果、小沢は藤堂新七郎、 横田は藤堂造酒之丞、七条は藤堂修理に預けられ、他4名は名張に返された。 藤堂長煕は名張代官藤林左武次から「隠居、長美家督相続」と伝えられた。8月23日になって預けられていた3名は切腹。 小沢の遺体は有田彦兵衛 が引き取り西方寺に埋葬され、姓を吹田姓に改め家系存立を許された。 横田の遺体は松本武左衛門が引き取り、専称寺に埋葬。七条は妻子がなかったため藤堂修理が葬儀を行った。 この後、宗家は2名の横目付を配し、名張藤堂 宮内家を監視した。家臣の旅行、他家へ使者を送る時・他家から迎える時にも必ず上野城に届け、許可が必要となった。





五、名張藤堂家家臣

御家中文限役付帳」でみる名張藤堂家家臣団の禄高

享保19年(1734年)天保10年(1839年)
石高役職人名石高役職人名
600−−鎌田将監600家老鎌田将監
400−−小沢宇右衛門350−−小野三左衛門
300番頭丹羽外記300番頭丹羽泰次郎
300火消鎌田新兵衛170−−中村幸兄
250用心小沢藤右衛門230武芸横目小沢藤右衛門
170横目勘定役長坂半兵衛170用人武田伝左衛門
130取次厩横目武田伝左衛門150 書役筆頭・奥用人
宝蔵院流世話役
小沢藤右衛門
230書役有田彦兵衛170儒者鎌田重節(梁洲)
120武具役高橋金右衛門100取次長坂半兵衛
70勢州代官役新居五郎右衛門60武具役山崎市之丞
100横目勘定役岡与左衛門90御刀番岡勘次郎
の単位は石  の単位は扶持・俵
20扶馬役野村所左衛門3扶銃士・奥御近習久留嶋小左衛門
50俵番帳改役七条喜兵衛40俵御近習
貴直流世話役
豊永戸左衛門

 享保の「御家中文限役付帳」では家臣数203名。天保の「御家中文限役付帳」 では家臣数94名。この家臣数の激減は、「享保騒動」を発端とする 本家からの弾圧政策と財政逼迫が考えられる。伊勢領の保津村に役所があり、勢州代官という形で派遣させていた。 天保の「御家中文限役付帳」で分かるように鉄砲隊を編成し、平尾山(名張駅前)に鉄砲の練習所が用意された。

鎌田梁洲
 津で有造館、上野で崇広堂といった藩校が設立されたのを機に、名張でも安政5年(1858年)に家老鎌田重節(梁洲)が藤堂長徳に進言し、訓蒙寮 が創設された。鎌田梁洲を寮長とし、読書・習字・算術の三課を教える学校であった。鎌田梁洲の跡を田中質堂が継ぐが、明治四年の廃藩置県とともに 廃校となった。鎌田梁洲は『観瀑図誌』『遊香落潤記』といった香 落渓や赤目四十八滝といった名張を代表する景勝地を描写した書を残した。

中村杜園
 藤堂家の祐筆だった中村杜園は「名張の手跡、津の弓、上野の鉄砲」と讃えられる程の名筆だった。

福井文右衛門
 藤堂高吉の重臣で、伊勢代官として出間村の住民を救うために神域を侵し自害。







六、無足人と庄屋

 「宗国史」では無足人を次のように定義している。
「伊州主城管下に属する農兵なり。五員。俗にいう俸禄なくして公用に供するを無足となす。村里有名の家、官の報い。 一副の甲冑、一根の長槍を自製す。すなわち両口刃を帯ぶを許可し、衆戸と別にす。これを呼んで無足人という。 越前戒厳の日、高山公(藤堂高虎)命じ封内より農兵五十名を募り、葛原半をもって都頭とす。事罷放還、爾後伊藩に命じ この法を定む。・・・・・」

解説
 「越前戒厳」とは、徳川秀忠の弟で越前国北庄六十七万石城主松平忠直が秀忠夫人殺害未遂、徳川家重臣永見一族の族滅するなど 幕府に対して不遜の行動が多く、元和9年2月に改易され豊後萩原に流された。秀忠は松平忠直の叛乱を恐れ、 藤堂高虎を含む大名は出陣準備の命を受けていた。その際、50名の農兵が取り立てられたことが無足人制度の始まりとなっている。  「村里有名の家」とは武士家筋という意味だが、天保の頃には米・金銭を献納した新興富農なども無足人の身分を与えられた。 「俸禄なくして公用に供する」とあるが、実際には無足人頭で7〜13俵、最下級の者でも1俵ぐらいは給付されていた。 「一副の甲冑、一根の長槍を自製す」と定めているが、無足人兵の主力武器は鉄砲で、鉄砲隊を編成していた。 「両口刃を帯ぶを許可し、衆戸と別にす」とは、無足人に与えられた特権のこと。

 無足人は御目見無足人と平無足人に大別され、御目見無足人の中の 五人の無足人頭(西之沢の家喜、川西の中矢、黒田の保田、治田の治田、荒木の海津)は世襲制を採用していた。 平無足人は年々取立てが原則であり、その中から130名を藪廻り無足人として5組の銃士隊に振り分けられた。 名張の藪廻り無足人は黒田の保田か治田の治田に組み分けされ、上野城代直属の部隊として小波田新田に約100名の鉄砲隊がいた。 平成の現在でも小波田では平安神宮に奉納する火縄銃を作っている。無足人の特典として 紬や絹の着用、家族全員の移動時における籠の使用、長男と同居中の次男以下の帯刀も許された。無足人制度は兵農主義に基づく半分農民半分武士であったが 、実際に動員されたのは幕末の動乱期だけで、『無足人帳』(弘化2年)に記載されている約1220名の無足人の内63歳以上が225人、15歳以下が44人と なっている。また、伊賀国内の大庄屋は皆御目見無足人となり、奉行や代官による監視の下、年貢の割付・宗門改宗 などの業務を代行して郷村を管轄した。無足人制度は軍事力目的から郷士の名誉と郷村支配へと変化していった。




七、新田開発
 美旗新田は1654年に、1800石の伊賀加判奉行加納藤左衛門直盛を中心に百姓・町人総勢約1万3千人が開墾した。 讃岐の満濃池の修築・京都二条城の修築など高虎の下で地図作成・溜池築造・荒地開墾に奔走した西島八兵衛の計画を元に、 普請奉行郡横目とともに直盛・直堅父子が開墾に着手した。木津 川の水を高尾出合からの約14kmの新田水路で、水の安定化を図った。新田には約100haの水田・約50haの畑がある。 2年間無年貢・3年目以後の年貢軽減・経費の無利子貸付など藩も入植を勧めるも、収穫もかんばしくなく離散者も出た。よって、1657年に藩直営の新田は 大阪町人安井九兵衛の資本による町人請負新田に替わった。安井九兵衛により、さらに210町開墾された。新田を請け負う代わり に、安井九兵衛達は伊賀一円の塩の販売権を手に入れた。




八、宗教
名張妙典寺
 藤堂藩は、地元住民の信仰が厚く縁故関係にある寺院に対し、寄付や給付を行っていた。 名張藤堂家の菩提寺徳蓮院は五十石の禄高を与えられ、赤目延寿院は藩主藤堂高久より二十三石八斗四升・寺内竹木 の寄進を受けている。一方、藩は寺院を町年寄・庄屋の支配下に置き、『寺社七か条』を発布し、ご講和・ご開帳・鎮守の祭礼など人が多数集まる 儀式等にも制限を加え取り締まった。
 江戸時代に禁制にされていたのはキリスト教だけではない。不受不施派・非田宗も慶長18年に禁制とされた。 不受不施派は教義上、公儀からの布施や寺領を受け取れないと拒絶し禁制にされた。布施や寺領を非田供養として受ける 非田派は不受不施派と混同され、名張妙典寺は再三藩から疑われた。藤堂藩は梅原左衛門を伊賀の切支丹奉行として取り締まった。 キリシタン自体が名張にいたという記録はなく、隠れキリシタン大江兵太夫が名張を通過する際に捕まり 、大阪町奉行所に送致された程度である。

寺社七か条』(貞享3年)
一、公儀御制法の趣かたく守り奉らるべき事
一、火用心常々専要に申付けらるべき事
一、寺々の住持有り来り候法談、諸宗開山忌等は定式なり。他所の僧を招き談儀執行あるいは先例なき本尊の開帳、鎮守の祭礼その他にも 参詣人群集に及ぶべき儀みだりに執行せらるべき事は甚だ自由の至りなり。よんどころなき子細これあるに於ては奉行所に達し差図を受けらるべき事。
一、手負、欠落人、由緒なき浪人、胡乱なる旅僧道心者の類、境内に抱え置かれまじく候。





九、平高騒動

本高と平高
 藤堂藩の三十二万三千九百五十石(うち伊賀十万五百国)という石高は慶長年間の徳川幕府による検地によって決められた本高、表高と呼ぶものである。 本高は江戸時代の間、一度も変わることは無かった。平高とは各村の実収(生産能力、戸口) を元に村に応じて年貢徴収の基準を決定し、それが四割となるような高を平高と言う。二百石の村が百二十石の年貢を納めている場合、 収穫高が三百石となり、これが平高として確定された。平高は慶長13年に藤堂高虎が伊勢・伊賀に入国した時に採用されたもので、 幕府が検地をしてから新田開発や技術革新等により生産能力が上がり、その分を徴収しようとした。

伊賀(平高)騒動
 廃藩置県後、津県は平高の廃止を決定した。本高より平高の方が徴収率が高く、住民の減免に対する期待は高かったにも関わらず 、突然平高継続が通知された。始めは庄屋・有力百姓が県と平和的に交渉していたが、要求は通らなかった。 それに怒った百姓達は明治4年11月11日に結集し津県上野庁舎まで押しかけようとした。しかし、鉄砲・槍を持った部隊が待ち構えていた上に 、津県上野庁舎の役人が平高廃止等の要求を呑んだため、12日には名張組は解散した。




十、幕末・維新

天誅組の乱
 文久3年(1863年)8月に長州藩の吉村寅太郎を首謀者とする34名が大和十津川で挙兵した。藤堂藩は彦根藩・紀州藩と共に討伐を命じられ 、藤堂七郎・藤堂良忠の部隊が派遣された。この時に無足人制度発足以来初めて、無足人が戦に参加した。名張藤堂家は逃亡を阻止するため の周囲監視役で、討伐の中心は伊賀上野の部隊・無足人であった。

蛤御門、長州征伐、鳥羽・伏見の戦い、函館戦争
元治1年7月 蛤御門の変が起こる。藤堂藩は今在家で警備するも長州藩と戦闘はなかった。
元治1年8月 長州征伐では、西宮で沿岸警備を担当。
慶應2年8月 第二次長州征伐のため、藤堂藩は藤堂高克を筆頭に約3000の兵が河内八尾の久宝寺に陣を張る
慶應4年1月 鳥羽・伏見の戦い勃発。藤堂藩は幕府側で山崎に駐屯。朝廷からの勅命で 藤堂采女が独断で判断し、朝廷側についた。

版籍奉還・廃藩置県
 明治4年7月に廃藩置県が行われ、三重県内にあった14の藩は全て廃され、安濃津県と度会県が置かれた。




     2章  3章 4章  参照史料