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この日は『馬先生の診療所』を見る予定だった。しかしこの作品は3時間45分ある。たいへん長い。この上映は午後の1時からなので、午前中に1本見ることは可能である。しかしその終了時間は、『馬先生』の開始に接近している。昼の食事がとれない時間ではないが、先に書いたように周辺に食堂はなく、あったとしても混雑する(周辺の喫茶店が映画祭期間中だけカレーライスとか軽い食事を用意していた)。もし食いそこなったら、そのあと4時間は食えず、空腹をかかえたまま映画を見ることになる。そんなに無理して映画を見ることはない。私は午前中の映画は外した。見ないことにした。
ホテルでゆっくりしていたら、10時に掃除婦がやってきて、ドアをどんどんたたき、「部屋から出ていけ」と言った。私は連泊の客なので、出ていく必要はない。掃除の時間は融通がきくはずである。そういうことを知らないのか、婦人は、頭ごなしに、出ろ、と言う。仕方なく、出た。フロントで文句を言った。フロントの男は、すいません、と頭をさげた。さげながら、掃除はやっぱり10時にさせてほしい、というような顔をした。掃除婦はたぶんアルバイト。時間外労働はさせたくないのだろう。経営が苦しいのである。
中央公民館前のマクドナルドで朝食を摂った。新聞も読んだ。くつろいだ朝である。
町を散歩したのち、すこし早めに会場のフォーラムに行った。
『馬先生の診療所』は混むと思われたからである。
入り口のところでS夫妻に会った。そわそわしている。食事をとるか迷っているのだった。午前中に1本見たが、まだ昼食は食べていない。この先4時間、何も食べないのは、きつい。そうは思うが、次の開始時間はせまっており、混みそうなので列には早めにならびたい。どうしよう、という感じである。私が予想したとおりの窮地に陥っているのだった。私も午前中に1本見ていたら、こうなった。
フォーラムの階上に喫茶食堂があった。結局そこに行くことにした。私も同行した。
行くと、すごい賑わい。列をつくっている。
料理を注文するとカードをくれ、あとで番号の呼び出しがあり料理を受け取る、という方式になっていた。
私らは注文し、テーブルに座ったが、呼び出しはぜんぜんなかった。料理人はひとりしかいないらしく、時間がかかっていた。映画の開始時間はせまり、あせった。映画祭苦難の1つである。ようやく順番がきて、呼び出しがあった。私はジュースだったので、ぐいと飲みくだし、先に行って席をとっておくとS夫妻に告げ、下の会場にむかった。
ところで、先の、料理を待つあいだ、『フェンス』を監督したFがやってきた。彼はいつも黒装束である。黒の服いがい見たことがない。作品の出来はどうか、と聞くと、いやいや最高の出来ですよ、と自信の顔であった。ならば見に行くよ、と私は答えた。上映は明日である。
会場は6分の入りだった。そんなに混んでいない。開始前には8分くらいまで入ったが座れないという状態ではなかった。以前の映画館、ミューズだったら立ち見となっただろう。フォーラムは広い。
●『馬先生の診療所』(中国/監督ツォン・フォン 215分)前半
甘粛省の寒村にある漢方診療所。ここの馬先生は名医ということで、周辺各村から連日、患者がやってくる。この作品は、その患者たちの様子、話を、急がず騒がず、じっくり撮っている。馬先生のことはあまり語られず、ひたすらやってくる患者の話に耳をかたむけている。そうした話からは、貧困、就職難、仕事斡旋業者の誤魔化し、嫁買い、など、など僻地で暮らす人々の生活が見えてくる。それは大多数の中国の農民の生活実態でもある。なので、興味深い作品ではあるが、話はあまりに単調である。ほとんど地元ネタの話がえんえんと続く。それは日常の風景ではあるが、それをそのまま見せられても疲れるだけである。およそ2時間見たところで、私はギブアップした。最後まで見ることができなかった。もうすこし観客のことを考えてくれよな、と毒づきながら会場を出た。
ホテルのステイインの入っているビルの4階は飲食街になっていた。昼食を食べにそこに行った。2年前は、そこには、洋食や和食や中華や喫茶や、ひととおりの店があった。しかし、今回行ってみて驚いた。店の構えは残っているが、のきなみ営業はしていなかった。つぶれていた。唯一、中華食堂だけが営業をしていた(きのうも中華食堂はやっていた。中華は強し、ということか)。そこに入って麻婆飯を食べた。四川の本場仕込みらしく(店の人がそう言った)、やたら辛かった。私の口には合わない。だいぶ残した。私が入ったときに客はおらず、食べてる間も客が来ることはなかった。おそらくこの食堂も長くは続かないだろう。そんな店で、本格仕込みにこだわっているところが、妙に、寂しかった。
そのあと見たい映画はなかったので、町の散歩をした。メインの通りで大規模な建設工事をやっており、マンションが出来るようだった。マンションの需要はあるということか。その工事場の対面には、新規の野菜販売店ができていた。2年前にはなかった。店内はスーパー式で、道路側に野菜の籠をならべ目立つ価格表をベタベタ貼っていた。活気が演出されており、この店だけ周辺から浮いていた。客は入っており、店は成功しているようだった。何か新しい空気が山形にも流れこんでいるようであった。
町を歩いていると知った人間に会う。多くが東京から映画祭にやってきた連中である。会釈して行き過ぎた。みな、早足で歩いている。目当ての会場に急いでいるのである。
時間がきて、私も中央公民館に向かった。
●『忘却』(オランダ、ドイツ/監督エディ・ホニグマン 93分)
この監督はヤマガタではおなじみである。作品のほとんどはヤマガタで上映されている。『アンダーグラウンド・オーケストラ』もこの人の作品である。私はこの人はオランダ人かと思っていたが、本作品の中でスペイン語を流暢に喋るので、パンフレットで確認するとペルーのリマの生まれの人なのだった。今回は故郷のリマを撮ったのだった。貧富の格差が激しく、政権は私欲に走り、インフレ率はひどく、山賊が跋扈する。そういう悪徳の町でも人々は明るく生きている。この作品はそういうことを描いている。監督は体制批判とか大きいことは何も言わない。政府庁舎の前の通りでバーや軽食喫茶や装身具店を営むオヤジに、その生活ぶりを語らせている。大統領がやってきたときのエピソードなども語られる。彼らの話は生活感にあふれ、具体的で、ユーモアに富んでいる。世間の矛盾など笑い倒しているところがある。政府も山賊も、その所業は不正だが、どっちが悪いか、と聞かれ、ある店主は、そんな質問は山賊に失礼だ、と答える。そういう笑いがある。この監督は作品で変化球を投げない。常に柔らかな直球を投げる。そこには女学生のような初々しさがある。実際は50代後半の女性なのだが、この感性は得がたいものである。作品の素直すぎるところに、やや物足りなさは感じるが、計算の多い映画祭の作品の中で、こういう作品は一服の清涼剤である。その素直さ、作品のわかりやすさに、感動してしまう。乞食の少年少女を描くのに、この監督は彼らに貧困の厳しさを語らせない。彼らが路上パフォーマンス(それで金をもらう)を練習する姿を描く。彼らも、彼らのやり方で生きているのだと描く。貧乏な少年を暖かく見守る同級女学生ような視線がそこにある。その視線が、たまらなく、いいのである。
終了後、ファーラムに行った。中央公民館からフォーラムまで、歩いて12分かかる。ちょっと遠い。早足で歩いた。
●『長居青春酔夢歌』(日本/監督 NDS
佐藤零郎 69分)
大阪の長居公園。ホームレスたちと、それを強制撤去する警官たちと、その場で演劇をおこなおうとする集団、彼らの衝突や共闘が描かれている。私には嫌いな作品であった。様々登場する人物たちの本音が描かれていない。ホームレスも、警官も、役者も、彼らの役割を担っているだけである。もうひとつ奥、彼らが、その場にいて、何を感じているのかは描かれない。彼らは、よくある行動をし、よくある言葉を喋るばかりである。作品に新鮮さ、ドキッとするものは何もない。はっきり言って、駄作である。作品の雰囲気も、60〜70年代っぽく、何かの作品をまねているのでは、と思えた。まね、でなく、今の時代でこの雰囲気がいいというのなら、それは干からびた感性である。
この夜もコンビニに寄り、握り飯とカップラーメンを買った。この時間、食べられる店が、開いていないわけではない。しかし、それは暖簾をくぐる飲み屋といった風情の店で、そういうところに入る習慣は私にはない。私は酒呑みではないので、そういう店は私の人生には登場しないのである。
ホテルの部屋でカップラーメンを食べたが、昨夜同様、私は幸せであった。
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