前頁にもどる 『恋するアジア』第20号掲載

モンゴルのオペラ

(株)創樹社   山川泉さん

  text  by   春田 実

         

                            
山川泉さんのプロフィール
                   


 モンゴルのオペラを日本で上演したいと考えている男がいる。(株)創樹社をひきいる山川泉さんだ。山川さんとは深夜、新宿の酒場ではじめてお会いした。肩凝りで疲れた様子であったがモンゴルのオペラを語る時は言葉に力が入った。街も寝静まったその夜中の三時、山川さんの口から出る「モンゴル」「オペラ」という言葉は、闇の前に華麗なオペラの舞台がうかんでくる魔力を持っていた。別の日、青山にある事務所を訪ね話をうかがった。
 
 山川さんは1944年東京生まれ。父親は築地小劇場(注1)の最後の演出家・山川幸世(ゆきよ)さん(注2)。幸世さんは劇場を去ったあと舞台芸術学院の設立にかかわり、その1期生としていずみたく(注5)が入学してきた。そんな縁で泉さんは小学生の頃からいずみたくに可愛がられた。早稲田大学に入学と同時に、入学式にも出席しないでいずみたく事務所の仕事をするようになった。「いずみたくさんは日本の創作ミュージカルを創っていた。僕はミュージカルは好きだったし、仕事は楽しかった」。父親の幸世さんの演劇はいわゆる左翼芝居である。影響は?「父親の演劇は労働運動というか、機関車労働組合が生き抜こう、といったようなものが多く好きになれなかった。それが劇団・四季の『オンディーヌ』だったかな、見て、こんな綺麗な芝居もあるのか、と驚いて、演劇もいいな、と思い、舞台制作に力がはいるようになった。父親の影響で言えば、僕は、新劇の創成期の芝居にはだいたい子役で出てるんですよ」。どんな役で?「『女の一生』という芝居では駄菓子屋に走っていって、これちょうだいな、と言う役だった。『ウィリアム・テル』では頭の上にリンゴを載せる役に決まっていたけれど、歌がヘタということで降ろされちゃって、結局4役早変わりの子役をやりました。公演後、宇野重吉さんに、うまいね、と褒められたのを覚えています」。
 教育熱心だった母親によって、役者は小学生時代で終わり高校はラグビーに熱をあげ、早稲田大学入学となる。卒業後、本の編集に興味をもち河出書房に入社するが、3ケ月で倒産。その後は本格的にいずみたく事務所で舞台制作助手を勤め、75年に独立し仲間4人で創樹社を設立。旗上げ公演は鳳蘭主演の『ピープル』。この公演は、当時の新聞をひっくりかえせば分かるが、日本の興行史に残る画期的な日本ではじめての(宝塚はのぞいて)ダンス・ソングショーだった。
 
 創樹社はこれまで千本に届く舞台物のプロデュースをしている。ポップス、民謡、クラシック、沖縄音楽のコンサート、ミヤコ蝶々の芝居等々をてがけた。労音・民音などの仕事も多い。民音が15周年だったかの時、大きなイベントをやりたい、ということで、日本人の心の奥の音楽であるはずのシルクロードの音楽をやることになった。企画は小泉文夫(注3)がたてたものだった。「77年でした。小泉先生と、当時『題名のない音楽会』の企画をやっていた藤田敏雄さん(注4)、それと僕などが2ケ月にわたって音楽調査旅行に出かけました。私にとっては初めての海外旅行でした。新潟からハバロフスクに入って、イルクーツク、タシケント、サマルカンド、アフガニスタンに飛びカイバル峠を越えてパキスタン、インド、北のダージリン、ダラムサラからネパールに行き、香港に寄って戻ってきました。中国本土へは入らずシルクロードをぐるっと回った旅でした。パキスタン、アフガニスタン、ソ連、その3国の国境沿いにカラーシュという谷があって、そこにある村落では、日本の正倉院に残っている『腰鼓(ようこう)』という楽器がまだ現役で使われている、という話を聞き、ジープを3台連ねて奥の奥のその村に行ったことがあります。貨幣経済はまだ浸透していないというので子安貝をいっぱい買い込んで持っていったのですが、つい1、2年前に貨幣が流通していて貝は無駄になりましたけど(笑)。腰鼓はまだ実際にお祭りに使われていて、再現してもらいました。その様子はNHKでも放映されました。小泉先生も今は亡くなり楽しい思い出となってます」。
 
 山川さんがモンゴルに触れたのはその旅の途上でだった。79年から民音主催の「シルクロードの音楽」は1年おきに開催された。西アジア、中国少数民族、イラク、トルコなどの音楽公演を開催した。4回目の時、モンゴルでは有名すぎる民謡歌手・ノロブバンザトさんを日本に招聘した。江差追分を日本の民謡歌手以上にうまく歌った。今年彼女は69歳になる。山川さんはノロブバンザトさんに惚れ込んだ。「歌もさることながら、ジンギスカンの末裔であるという誇りを持っていて、それがけしてウソでなく思えてくる。またゴビ砂漠で育った生活環境のせいか存在に迫力があり、精神が骨太。でありながら腰は低く常ににこやかにしている。日本人とは違う器の大きさがあり、スゲエなあ、と尊敬しています」。山川さんは毎年のようにモンゴルに行くようになった。モンゴルの魅力は?「みんな若い、ということです。国が若い。大学の学長に会うと36歳だったり、閣僚が40代だったり。聞くところによればモンゴルの平均寿命は50何歳とのこと。誤解を招く言い方だけど、それのほうがいいのでは、と思ったりします。日本では延命治療が発達していて長寿になっているけれど、それがいいのか、と思うと首をかしげたくなる。モンゴルでは、長寿の人は尊敬はされますが、本人にとっては哀しいことであるようです。ともかく、若い国、若い人とお付き合いさせていただいて、僕も元気をもらってます。経済面などで甘えられても困るけれど、文化なり音楽の面で信頼関係を築いていきたいですね」。

 創樹社はこうした民族音楽公演のほかに、もう一つ、柱を持っている。ミュージカル『人生はこれからだ(Taking My Town)』の上演である。85年以来、毎年のように興行をおこない既に70ステージを上演した。この作品はブロードウェイのミュージカルの上演権を山川さんが買い取り、翻訳し日本で上演するものだ。どんな内容ですか?「人生を半分以上過ぎた人が、将来の目的を見つけ、前向きに生きていく、といった内容です。ストーリーはなく、男4人、女4人のモノローグ構成です。『コーラスライン』の老人版といったら分かりやすいかもしれません。定年をむかえた高校教師が、実は役者になりたかったのだと、実際にオーディションを受ける話であったり、連れ合いに死なれた悲しみを語る人がいたり。ニューヨークで暮らす実際のお年寄り3千人からのエッセイや作文を基に創られたものです。内容もいいのですが、曲も良くミュージカルとしての質も高いものです」。バブル崩壊でこうした興行の採算は取れてるのでしょうか?「良いモノにはお客さんは来ます。苦しい面はありますが、良いモノは見られている。マスにしてコケル場合は多いのですが、全部がダメとは言えないですね。僕の仕事ではありませんが先頃の東京フォーラムでおこなった『リバーダンス』は5千人も集めて大盛況だったようだし」。山川さんは『人生はこれからだ』を100回まで公演し、そのあとは日本版の『新・人生はこれからだ』を作ろうと計画している。
 いまの人にとって、日々の喜びは、会社にもなく、家族にもなく、仕事にもないような気がしている。では一体どこにあるのだろう。山川さんにそんな質問をしてみた。「あまり考えることはないけれど、僕はもともと人間が好きだし、淋しがり屋なのかもしれないけれど、人に会ったりして、その人のいい所や知識に触れられたら嬉しいと思う。逆に、相手にとっても、自分はそんな存在でありたい、と思う。自分が死んだら、惜しい奴が死んだ、生前にもっと付き合っておけば良かったな、と思われれば、幸せかなと。格好良く生きよう、ということではなく、歩きながらでも、電車の中でも、すれ違う人や前の席の人と、お互いが存在し合える関係であればいいな、とは思ったりします」。
 最後になりましたが、モンゴルのオペラについては?「モンゴルというと草原や独特の家屋などを思い浮かべる人は多いのですが、衛星放送は見れるし、インターネットだってやってる人はいる。オペラにしても、そんなものないんじゃないか、と思ってる人は多いのですが、ソ連仕込みの基礎のしっかりしたオペラはあるのです。完成度は非常に高い。モンゴルの創作オペラもある。今は好きな人が集まってモンゴルにオペラを見にいくツアーを組んでいる段階ですが、いつか日本に招聘し、日本で公演したいですね。皆んな、びっくりしますよ」。
 山川さんはいま、音楽交流のモンゴルとの窓口として、日本・モンゴル芸術交流協会の設立に奔走している。そのメンバーは別掲の通りだが、どこか初々しい組織であり、今後の充実に期待したい。まだ一般個人会員は募っていないが、いずれは開始されるだろう。そして、いずれは、日本でモンゴルのオペラの見れる日が来るだろう。待ちたい。「モンゴルのオペラはこれからだ」。


●注1/築地小劇場
1924年6月、東京市京橋区(現・中央区)に新築開場した日本で最初の新劇(歌舞伎や浄瑠璃などの日本伝統演劇でない翻訳劇、創作劇)の専門劇場。ヨーロッパから帰国した土方与志が私財を投じて建てた。客席400でゴシック・ロマン様式の1階建て。45年3月の東京大空襲で焼失した。当初は劇場の「付属劇団」を持ち、土方と小山内薫が、非商業主義、純芸術主義を合言葉に5年間に117編の劇を上演した。28年に小山内が死亡すると「付属劇団」は分裂し、土方らの「新築地劇団」と、残留組の「劇団築地小劇場」に分かれた。
●注2/山川幸世(ゆきよ)
1904年3月〜1974年11月。舞台演出家。京都生まれ。2歳で父の転勤にともない東京に転居。中学時代は小説を乱読。自由主義的な考えの母親の影響で演劇『ハムレット』を観て感激。22年、京都同志社大学文科予科に入学。音楽部、ラグビー部で活躍。音楽部ではセカンド・テノールで歌う。後年、いずみたくに「おれは音楽では、ちょっとうるさいんだよ」と言っている。在学中に築地小劇場主催の夏期研究会に参加。25年、同大学英文科第一課程本科に入学。「同志社演劇研究会」を起こし演劇にのめりこんでいく。大学卒業後の28年、築地小劇場に演出部研究生として入団。劇団分裂となり、残留組の「劇団築地小劇場」に籍を置く。この頃からマルクス主義的な思想に近づいていき、30年に「劇団築地小劇場」も脱退し、滝沢修と「左翼劇場」に移る。31年、演劇の仕事をほうり出し、労働運動の実際に飛び込んでいく。地下に潜り、33年2月、京橋署に検挙される。「うわずった左翼思想にかぶれたお坊ちゃんであった。演出者として人間を造るよき経験だった」と後年書いている。33年、演劇界にカムバック。ミュージカルの先駆である「金曜会」の音楽劇などの演出も行い、「日本語の発声」に興味をもつ(この発声学の研究は戦後まで続き「音声学の山川」と言われた)。36年、「新築地劇団」に入団。40年、内紛があり脱退。同年、新劇事件(戦局の到来とともに左翼と思われた劇団関係人か検挙された)により鳥居署に留置され、巣鴨拘置所に移送される。太平洋戦争開戦直後の41年12月に保釈。戦中は出版社の東方社でグラフ雑誌の編集に従事。戦後の46年から再び演劇の仕事に戻る。「ルーズな俳優たちに対して、すこしも容赦しない舞台監督」だった。48年、舞台芸術学院の設立にかかわる。55年、胸部疾患により3年ほど入院。この時は生活が苦しくなり生活保護まで受けた(長男の泉は「学用品がタダになるのが恥ずかしかった」と言っている)。74年、心不全により死去。最後まで日本共産党員である姿勢はくずさなかった。山川は学生時代のラグビーについて書いている。「演劇の仕事をやるにあたって、第一に肉体的なガンバリ、最後までやり通すという精神、自分を殺して全体を生かす精神、全体のコンビネーションを第一とする精神、ラグビーは僕の演劇的生活の大部分の基礎を作ってくれたと言っても過言ではない」。山川は子供たちにもスポーツを勧め、長男の泉は高校時代にラグビーをやっている。(参考文献「山川幸世・ある演劇人の軌跡」未来社)
●注3/小泉文夫
1927年3月〜1983年8月。東京生まれ。民族音楽学者。東京大学美学美術史学科卒業。インド留学後、東京芸術大学で民族音楽学を教える。世界各地の音楽を調査、収集、分析するとともに、日本の伝統音楽研究にも業績を残した。放送、マスコミを通じインド音楽やガムラン音楽の紹介に努め、西洋音楽中心の音楽観、音楽教育に鋭い批判を加えた。日本における民族音楽発見の先駆者であり、東京のわらべ歌研究なども手がけた。
●注4/藤田敏雄
1928年滋賀県生まれ。劇作家・作詩家・演出家。宝塚歌劇団文芸部を振り出しに、放送作家を経て、ミュージカルの脚本、作詩、演出を手がける。代表作に「死神」「リリー・マルレーン」「歌麿」。テレビ長寿番組「題名のない音楽会」の企画にもかかわった。
●注5/いずみたく
1930年1月〜1992年5月。東京生まれ。作曲家・演出家・プロデューサー。49年、舞台芸術学院本科卒業。運転手の傍ら作曲活動に励み、三木トリロー門下生となる。63年、永六輔のすすめで定時制高校を舞台にした「見上げてごらん夜の星を」(ミュージカル)を発表。ほか、「夜明けの歌」「世界は二人のために」「恋の季節」など多くを作曲。77年にミュージカル劇団「フォーリーズ」を結成し日本のミュージカル作りに情熱を燃やした。