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つれづれ小腹立ち日記 春田の極私的日記
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8月19日(土)

●すみだジャズストリート(路上ライブのイベント)があり、会場の1つが知人の運営する場所で、そこで演奏会もひらかれるというので、行った。曳舟である。行くと、演奏まっさい中で、さっそく聞いた。会場は、ふつうの民家の大きめの庭であり、庭から縁側で演奏される音楽を聞くという感じだった。なかなか、良かった。名も知らぬバンド、ソロが、次々に登場したのだが、皆、うまいものである。気持ちが広くなる感じがあった。会場には知った顔が数人おり、やあやあ、と挨拶した。音楽の終了後は、同じ会場の別の場所で、知った面々が集まり、雑談会となった。情けないドーベルマン犬の話や、貧乏なので柏の外に出られない女学生の話や、いろいろ楽しい話が出て、夜は更けた。
●三鷹は今日と明日、阿波踊り大会。もうやめてほしい。


8月18日(金)

●血痰検査の結果を聞きに医院に行ったが、お盆休み明けの最初の日なので、えらく混んでおり、1時間待っても順番がこず、出直すことにした。で、検査結果は聞かずじまいになったが、今は血痰は止まっており、原因はほぼ食道の入口のところの血管が切れたものと思われ、検査結果は聞かなくてもいいかと思っている。来週、すいていそうな時間に行ってみよう。それにしても病院は老人ばかりで、ひとりの婦人は、待ち時間に耐えられず、うめき出し、息をぜーぜーさせ、救急車を呼んで、と絶え絶えの口調で言っていた。看護婦が出てきて、かつぐようにして、婦人を診療室に運んでいった。
●吉祥寺に出て、カツ丼を食い、マクドでコーヒーであった。そこで長く、読書であった。前に座る女は、美容器具をとりだし、くるくる、やっていた。先端に丸い真鍮の玉が付いていて、それを腕にあて、肩のほうから手首のところまで、くるくる回して這わせる。それを何回もやる。皮膚の美容にいいのだろうか。で、そのうち、女(20歳くらい)は、足をあげ、太ももの奥から足首まで、くるくる、やっていた。パンツはもろに見え、いいのか、と思ったが、女は気にしてるふうはなく、雑技団のような姿勢で、別のほうの足もあげ、交互に、くるくる、していた。ワシの視線など、まったく無視、美容に一心腐乱であり、色気もへったくれもないのであった。


8月17日(木)

●このところ、毎日、雨である。梅雨みたいで、このあと、カッと、また夏が来るのか。
●『脳外科医マーシュの告白』(ヘンリー・マーシュ著 栗木さつき・訳)を読んだ。実にいい本だった。けっこう厚い本だが(342ページ 改行少ない)、時間を忘れて読んだ。著者はイギリスでは高名な脳神経外科医であり、本書はその診療回想録。この本が優れているのは、手術の失敗も正直に書いており、本の全体で言ってるのは、医者は神ではないこと、生と死、脳の有り様、1ミリ以下の脳血管の欠損で障害を残す脳手術の危険、などなど。医者と患者の関係、医療業界の変転などにも触れている。著者の描写力も優れており、濃厚な短編集を読んでるような感動もあった。これは、おススメの1冊である。いくつか言葉をひろう。「患者さんの身に起こることに責任をもたない人のほうが、患者さんに共感しやすい」「楽観主義(患者さんに無駄な希望をあたえる)とリアリズム(死の宣告になる)のバランスをとるのが難しい」


8月16日(水)

●人妻Sが、西荻窪に親戚の用があって来て、帰り、時間があるので、お茶でもどうかと誘われ、いいよ、ということで会った。西荻窪の駅前のモスでお茶した。特に何を話したということではないが、会うのは1年ぶりで、Sも、やや生活感が身についてきたように感じた。昨年、結婚したのである。子供はつくらないらしいが、そのへんは、どうなるかはわからない。フェイスブックの話になり、ワシの投稿数に感心していた。ほぼ毎日、平均3つくらいの記事をワシは投稿している。ヒマだから、とワシは実際の理由を述べた。実際、ヒマだから、投稿しているのである。それと、Sは、投稿する記事が面白い、とも褒めた。それはそれは、と、ワシはコーヒー代(ケーキ代も含めて)をおごりたくなった。ワシは少々トンがった記事を投稿しているのであり、Sは、そのことがわかっているようであった。ありがたい。ちなみに、Sは血液 Bである。やっぱり同族は、相通じるのであった。
●Sとは1時間ほどで別れた。そのあと、大戸屋で、「チキンかあさん煮定食」を食い、西友に寄り、バナナ95円と100%林檎ジュース98円を買った。西友は安い。三鷹にも出来てくれぬか。天気は、このところ、ずいぶん涼しい。
●ネット言論は、最近は、単純化が激しい。立場でモノを言ってるのか、言うことがソッチに行ってしまうのか、1を聞くと、もうその先が読める意見が多い。言ってる本人が、そうゆうこと(単純化)に気づいてるのか、そうでないのかは、よくわからない。反・安倍と親・安倍も、どっちの立場かで、言うことが全部そっちになっている。安倍のここは嫌いだけど、ここは良いという意見はない。嫌いったら全部嫌い、好きったら全部好き、という具合で、意見もそうなってる。たとえば東京新聞の望月という記者、記者会見の動画を見れば、公平に見て、幼稚だと思うが、反・安倍側は、その幼稚さも策略、という言い方をする。黒も白と言う。そういう、低次元な意見に、ネットは埋め尽くされていると思う、昨今である。


8月15日(火)

●お盆休みのせいか、電車がすいている。高円寺に出て、焼きソバを食い、図書館にまわって本を受け取り、駅構内のコーヒー店でコーヒーを飲んだ。コーヒー店も、お盆のせいか、すいており、窓際に座って、外を通る人をながめていた。女は暑いせいか、襟足(首のうしろ)を出しているのが多く、色っぽい人もいた。
●ときどき思うのだが、ワシが倒れた場合(病気とかで)、駆けつけてくれる人は、1人もいないだろう。それは承知で、これまでやってきたが、ちょっと困るかも、と思うようになった。それは精神的な意味ではなく(伴侶が欲しいとかでなく)、現実としてである(歩けなくなったら生活はどうする)。公共の福祉はあるが、面倒臭そうである。で、ハタと、家政婦を雇うのはどうだ、と思い、調べたら、1時間で2千円ほどかかる。4時間で8千円。1ケ月に10日来てもらうとして8万円である。けっこう高い。しかし美人なら(と、こう書くと、女子から苦情が来そうだが)、払えない金額ではない。これで掃除はしてくれ、食事も作ってくれ、買物もしてくれる。いいじゃないか、と思いはじめている。


8月14日(月)

●朝から、ジトジト、雨であった。気分も不調。気温はさがり、もう秋のようである。
●ほぼ1日、本を読んでいた。面白い本なので、つい、没入した。
●夕に途中休憩で、駅前のサイゼリアに行き、いつもの、トマト・スパゲッテイ+ピザ生地のようなパン+ドリンク・バー、を食った。旨かった。コーラは2杯、コーヒーも2杯飲んだ。炭水化物ばかりである。
●8月になると、テレビも戦争もの番組が多くなる。しかし、総てが戦争の悲劇を描き、戦争反対がテーマである。こんなだからまた戦争が起こるのである。戦争の勝利、大義の貫徹を描く戦争賛成の番組もあるべきなのである。


8月13日(日)

●過日、血痰が出る、と書いたが数人の方よりお見舞いのメールを頂戴した。ありがたいことである。で、その後、血痰はまだ出ている。量は減っているが、消えることはない。血痰は万病が疑われる。肺ガン、結核、ほか、いろいろである。しかしあまりに急な血痰なので、ガンや結核ではないような気がしている。肺ガンは初期症状がないと言われるが、何かしらヘン、という予感はするものである。結核も同様である。そういうものがないので、今回は血管が切れた、と思ってるのだが、5日も続くのはちょっとヘン。やはりヤバイのか。来週の血痰検査の結果を待つことにしよう。
●そんなに暑くはないが、湿気の高い日が続いている。どうも体調が悪い。静かに読書の日であった。


8月12日(土)

●体調不備で部屋に引きこもった。夕に駅前に出たが、連休の真ん中で、ファミリーでごったがえしていた。ま、別にいいけど、わざわざ混雑に出てこなくてもいいだろうとは思う。
●フェイスブックの投稿は続けているが、寄せられるコメントの内容が、AとBで、はっきり分かれている。ワシは途中をはしょって結論だけ短く書くが、このはしょりにAは完全についてこれない。Aはゼロからいちいち説明しないとわからないのである。それが悪いということではないが(コツコツとゼロから積み上げていくのは重要である)、ワシとは肌が合わない。で、Aのコメントには返信のしようがなく、いつも困っている。ちゃんと返信しようとすれば、A仕様のゼロからの説明となり、長くなり書くのが面倒。かといってB的に短く書くと相手の反感を余計に買う。どっちも面倒である。なので返信は気が重く、Aのコメントは正直、いらない、と思っている。たかがフェイスブック、されどフェイスブックである。
●このところ、すこし涼しくなっている。


8月11日(金)

●本日は「山の日」らしい。そんな祝日、いつからできたのだ。「海の日」があるので、いつかは海も、ということで昨年できたらしい。なんでも祝日になるようだったら、「春田の日」もつくってほしい。それ、現実味のない話ではない。現皇太子の誕生日はワシと同じで、彼が天皇になったら、ワシの生誕日が祝日となる。
●祝日なのでファミリーが町にあふれており、不快な日であった。ファミリーをさけ、四谷あたりを、ぶらぶらした。このあたりはファミリーは追い出す感じがあり、よろしい。しかし逆にカップルが多く、それも邪魔であった。カップルにもいろいろいて、まだ初々しい感じのもいて、女の子は手を握ってほしいのに、男のほうはシャイで、握りたいのにそれができない不甲斐なさを顔に出してる。女の子が可愛いと、おい、ワシが握ってやる、と、つい言いたくなる。値踏み段階のカップルもいて、お互い、視線をよけながら、しっかり相手を観察している。妙な緊張感がある。そんなこんなのカップルをながめつつ、味噌かつ定食を食い、ドトールでコーヒーを飲んだ。血痰はまだ出ているが、いくらでも出やがれ、とひらきなおっている。


8月10日(木)

●朝方、地震があった。かなり揺れた。ワシは半睡状態であったが、マンションが倒壊し、ワシは下敷きになるかと、その映像がうかんだ。地震は2回続いた。2回目のとき、本気度を感じ、いよいよ大地震かと、半分、期待、半分、不安となった。
●ずっと続いている血痰が気になり、医院に行った。血痰を瓶にいれ持っていった。培養、分析してほしいのである。そのためには個人医院では無理と思い中規模の中央病院に行った。ここは総合病院で診療の科はぜんぶそろってる。場所は不便で、バスもあるが歩いていった。25分かかった。で、受付に行ったところ該当の科目は本日は休診だと言う。ほかの科でもいいので誰か診てくれないかと言ったが、ダメ、と断わられてしまった。これだから大きい病院は嫌いである。システムができすぎていて融通がきかない。ワシの症状(血痰が出る)は呼吸器科らしいのだが、そんなのは内科でも診れるはずである。個人病院なら、そんな区分けはせず全部診る。が、総合病院はテレトリーがはっきりしていて外れる病気の診療はいっさい受けないのである。ワシは大いにムカッときたが、病院で怒ってもいいことはないので(将来お世話になるかもしれずモンスター登録はのがれたい)、持参した血痰だけでも分析してくれないかとお願いしたが、当然のごとく、そんなことできるわけないじゃない、と断わられてしまった。ケッ、とワシは後ろ足で病院に土をかけ、去った。で、また25分歩いて三鷹駅前にもどった。往復50分の歩行で身体は燃え、なんだかワシの病いは治ってしまったようであった。で、こんどは個人病院に行った。ここは正解であった。最初からここに行けばよかった。はじめは、薬でも飲んで様子を見ましょ、と、やる気があるのか、ないのか、そんな診療であったが、血痰を見せると、えっ、と驚き、予想外の血の色と量だったようで、背筋が立ち、レントゲンをとりましょう、血痰は分析にまわしましょう、と、てきぱきと治療をはじめた。で、レントゲンを見て、特に異常はないですね、と言い、あとは血痰の分析を待ちましょう、となった。結果が出るには1週間かかる。納得の治療であった。この病院ははじめて行ったが、なかなかよろしい。今回の血痰の件、ワシはたいしたことではないと思っている。大病につながるものではなく、どこかの血管が切れて血が出ていると思っている。しかしやはり調べることは調べておきたく、分析にまわされたことはありがたい。あとは結果待ちである。


8月9日(水)

●昨夜、部屋でゴロゴロしていたら、鼻水があふれる感じがあって、起きて鼻を押さえたら、血が飛び散った。おっと、と驚き、ティッシュを当てたが、血はだらだら、あふれてくる。脳の血管が切れたか、と思い、前後左右に目をやったが、フラつきはない。脳ではないようだ。暑さで興奮して鼻血が出たのか、と思ったが、はじめてのことである。そのうち喉がガラガラしてきて、痰を吐いたら、血痰だった。まっ赤。鼻血は結果だった。身体にあふれた血が、横になっていたので、鼻から出たのだ。ああ、いよいよ、ワシも、お終いか、と思った。最近は過去の夢ばかり見るし。しかし血を吐く病気というのは、なんだろう。結核か、どこかの臓器が破損したのか。が、特にどこが悪い自覚症状はない。血は止まる気配はない。といって、次から次にあふれる感じもない。少しずつ、おさまっている。いったい、血の原因は何なのか。わからないままでいる。気管がゼーゼーしてるので、咳をしたおり、どこか切り、血が出ているのかもしれない。
●夕に近くの中華食堂に行き、冷やし麺を食った。いつもはそのあとコーヒー店に行くが、血痰が出るので部屋にもどった。あとは静かに本を読んでいた。


8月8日(火)

●高円寺に出て業務スーパーに寄り買物。帰り、中華食堂で麻婆丼を食い、サンマルでコーヒーであった。コーヒー店の窓から古着屋が見え、漠然と見ていたが、来る客には共通点があった。お洒落だけど貧乏という感じの人ばかりであった。貧乏なのでお洒落も、どこか垢抜けておらず、いっそう貧乏感をただよわせているのだった。それも高円寺の風景だろう。
●ドキュメンタリー雑誌『neoneo』の9号を読んだ。9号までよく続いていると思う。正直なと
ころ、あまり面白い雑誌ではない。あまり売れているとも思えない。しかし続いているというの
はスタッフのこの雑誌にかける思いが強いということだろう。また、周囲の応援団も、こうゆう
雑誌は必要だ、と思っているのだろう。
 で、感想。ケナすことばかりである。
 まず、この雑誌には「批判」がない。わざと事を荒立てる必要はないが、作品の見立てを語る
「上品」な文章ばかりでは、つまらない。批判するというのは、書き手の考え、立場を明らかに
することなので、そういう文章がないというのは、書き手に自分を探る能力がないということな
のだろう。ほとんどの文章が、情緒、もやもや、詩のようなもの、で書かれており、何を言って
るのかわからない文章が多い。
 批判がないのは、みんな仲間だから言いにくい、というのもあるのかもしれない。であるなら
、仲間うちの同人誌でいいわけて、本屋に置いて売る必要はない。仲間うちで乳繰り合ってればいいのである。
 あるいは、批判というのが、もう成立しにくい時代なのかもしれない。相手が見えず(自分も
見えず)、ぼんやりした対象に向かって批判を書くのは不可能で、そもそも批判とは何かと、そ
こから考えなくてはならない事態に落ちいってるのかもしれない。それは書き手が悪いのではなく、時代の状況がそうなっているのかもしれない。なので、文章を書けば、作品や人物への寄り添い、とか、わかるよ、とか、いいね、とか、そういう言葉を述べることしかできないのかもしれない。
 が、批判が成立しにくいというのは本当なのか。今号のテーマは「いのちの記録」。こういうテーマの立て方が、もはや、時代遅れなのではないか。こんなテーマを寄こされたら、書き手は、いのちの大事、いのちへの寄り添い、そんなことしか書けなくなる。これが「いのちの相場」というようなテーマだったら、現代の大量殺戮時代に向けた視線が感じられ、いのちに対する違った視線を書き手に与え、雑誌も多様な面白いものになったのではないか。面白いものになったかどうかはわからないが、少なくとも古臭い、いのち感からは抜け出せたはずである。
 最近、若いドキュメンタリー作家に会って話をすると感じるのは、勉強不足である。社会のこ
とを、あんまり知らない。安倍とか加計とか世の中を騒がせていることには、いちおうアンテナ
を立てているが、小学校の給食がどうなってるか、OLのカハンには何が入ってるのか、別にそんなことは知らなくてもいいが、そういうことに好奇心を向ける目が欠けていると思う。あるいは地味なテーマを追ってるドキュメンタリー作家は、そのテーマの背景を知ろうとしない。なので見方が一方的で、できた作品も、未熟で世間には通用しないものとなっている。世間は昔に比べれば、いろんなことを知っており、それに負けない情報量が、ドキュメンタリー作家には必要だと思うのである。
 と、ケナすことばかり書いた。この雑誌の個々の文章は面白いものも、つまらないものもあり
、ある意味、今のドキュメンタリーの状況が見えてくる。興味ある方は購読を。


8月7日(月)

●朝から強風であった。隣のベランダに散らかっているレジ袋が音を立て、うるさい。チャラチャラ、まことに、うるさい。隣家の、そういうことに気づかない鈍感さには、いつも腹が立つ。で、文句を言いに行った。が、チャイムを鳴らしても出てこない。居るのはわかってるのである。声がする。で、部屋で待機し、何かの用で出てくるのを待った。ほどなく出てきたので、うるさい、と文句を言った。隣の婦人は、いつも、あやまる。ワシを恐れてるのか。婦人はすぐ部屋にとってかえし、ベランダのレジ袋を片づけていた。よしよし、である。レジ袋がうるさいというのはワシだけなんだろうか。電車の中で、レジ袋を開けたりたたんだりして、ずっとチャラチャラやってる老婆がいるが、あれなどもワシは非常にイラつく。レジ袋を奪って捨てたくなる。
●夜は大雨になるというので外出はひかえた。近くの中華食堂に行き、冷やし麺を食い、駅前のマクドでコーヒーであった。マクドはガラガラであった。やっぱり大雨予報のせいか。
●『最後の聖戦』(中村うさぎ・著)を読んだ。暑い日にはこうゆうエッセイがいい。精子バンクのことが書いてあった、結局買われるのは、見目麗しく、性格温厚で、頭の良い男の精子。で、著者は書く、「品評会の牛や豚のように、そういう優劣で価格をつけられてしまう世の中は、人間はものずごーく高度で複雑な文明を築いたのだが、その果てには人権もヘッタクレもない、牛や豚にも等しいシンプルな格付け社会が待っていた、と、こうゆう次第なのですね」。そのほか、早漏は美容整形で簡単に改善できる、ということも書かれていた。男雑誌には一大事のように書かれているが、すぐ改善できるのだった。


8月6日(日)

●ヒマなので、また散歩に出た。秋葉原→浅草橋→柳橋→両国を歩いた。直線だと短い距離だが、途中に隅田川があり、沿道を寄り道したので、距離はけっこうあった。両国では盆踊りをやっており、なかなか良かった。下町の小規模の盆踊りだが、こういうもののほうが風情がある。町内会がブースを出していて、焼きとうもろこしや鉄板焼きを売っていた。ワシはアイスキャンデーを買い、なめながら、しばし盆踊りを見ていた。なにか、盆踊りの曲は日本人の血をわきたたせるところがある。人を感動させる。
●なんとなく、すこし早いが、夏の終わりという感じがただよっている。年々、夏は前倒しになっているのかもしれない。


8月5日(土)

●ヒマなので、渋谷の盆踊りを見に行った。神輿をかついで流す祭りと違って、盆踊りは一画を囲って通行止めにするので、そんなことが渋谷の目抜きで可能なのか、と興味をもち見に行ったわけだが、エラい、ちゃんとやっていた。道玄坂を通行止めにして舞台をつくり、皆さんで踊っていた。へえ、やるときはやるんだな、と感心した。盆踊りそのものは若者仕様で、少女群団が舞台で踊り、まわりで男どもが騒いでいた。光景として奇異なのは、撮影してる人間が異常に多いことである。ほとんどスマホだが、そこそこのビデオカメラをもちこんでる人間もいる。踊る人間より、圧倒的に撮影してる人間のほうが多い。そんなんで、いいんだろうか、という印象をもった。ジャンルは違うが、小説は読む人間より書く人間のほうが多いというのと、どこか似ている。撮影した映像はyoutubeなどに流し、ほらほら見たんだよ、とSNSに投稿するのだろう。別に、いいけど。
●盆踊りは途中で切り上げ、恵比寿のほうに向かって、ぶらぶら散歩した。さっきの盆踊り会場と違い、人の通らぬ裏道を歩くのは、それまた楽しい。静かな通りでも飲食店はあり、店主が道路に出した黒板に本日のおススメを白墨で書いていたり、どういう事情があるのか、大急ぎでベッドを運ぶスーツ姿の2人組に出くわしたり、散歩の途中で出会う、そういう都会的な光景が、どうも、ワシは好きである。


8月4日(金)

●懐かしい面々が登場する夢を見て、トイレを探すところで目がさめた。夢からさめても、あの人やこの人の残像は残っていて、今はどうしてるかなと思った。しかしそんな夢を見るのも、走馬灯と同じで、ワシもお終いが近いのか。
●新宿に出て、ヨドバシに寄り、インクを買い、ついでに、蚊が獲れる空気清浄機を見てきた。過日テレビで見て、ほほお、と思い、買う気になったのである。空気の清浄には興味がないが(ワシの部屋は常に清浄な空気が流れている)、蚊いがいに子ハエも撮る、というところに引かれた。台所にけっこう子バエ、多いのである(部屋、清浄ではないではないか)。今は「コバエがホイホイ」を使い、非常に効果的であるが、けっこう高いので、それにかわるマシンがあれば、これ幸いである。で、見てきたが、価格は安いが、図体がデカい。そんなのを置く場所はない。で、あきらめた。かなりアナログな器械であった。
●昨日書いた社会の劣化であるが、これはネットのせいかもしれない。その理屈はこちらに詳しい。このとうりだと思うのである。ならば、どうするか、そこはまだわからない。


8月3日(木)

●本日も部屋の掃除。風呂場を掃除した。風呂場は風呂桶を撤去してシャワー室にしたいと思うのだが、業者が見つからず、そのままになっている。風呂桶の下は掃除のしようがなく、かなり汚れていると思うが、ほっておくしかない。風呂場の掃除は疲れる。
●ここ2日、わりと涼しく、よろしい。このまま夏が終わればいいのだが。
●夕に近所の図書館にいき、雑誌、週刊誌のチェックをした。しかし、なんというか、いろいろ書いてる人の世界が小さいなあと感じる。これはテレビの発言やネットの文章でも感じるが、見ている世界が小さい。なぜなのかと考えるに、不確かな世界が広がりすぎていて、信じられる世界の中だけで意見をまとめようとするから小さくなってしまっているのだろう。その小ささが書き手に意識されていればいいが、それが習い性となり、しまいに本人も小ささに気づかなくなっている、ということはありそうである。戦争は不幸、障害者に優しく、問題は話し合いで解決、大切なのはカネでなく心、そんな陳腐な言いまわしばかりが氾濫しているように思う。想像力が減退しているのだと思う。ほんと、こんな状況はヤバイと思う。


8月2日(水)

●夏休みとなり、隣家のガキが朝から、うるさい。ふつうなら学校に行くので静かだが、ずっと家にいるので、午前も午後も、実にうるさい。母親の声が輪をかけて甲高く、こっちの脳髄を直撃する。朝は起こされ、殺意すら覚える。
●夕に駅前に出て吉野屋にはいり、新メニューのクッパを食った。わりと旨い。このメニュー、いぜんも出していたが、長く中断し、今回の復活になったようだ。いぜんは280円、今は450円で、ずいぶん値上げしている。玉子をのせるともっと高くなる。病人食にはうってつけで、食欲のないとき、これはいいだろう。ワシはいま病気ではないので、やや辛く感じた。
●最近は「知性」について考える。日本だけでなく世界中の社会が劣化している。日本はマスコミはじめ、知識人も政府も、幼稚きわまりない。社会は野蛮に向かっている、としか思えない。20世紀まではあった「哲学」「歴史観」「教育」は、無に帰すような趨勢である。どこかにまだ知性の残る社会はあるだろう、と期待するが、それが、見当たらない。世界はこのまま滅びていくのか。原因は何なのか。つまるところ、言葉の無力だろう。言葉が通じなくなっている。言語の違いとか、そういうことでなく、例えば同じ日本語を喋っていても、違うように受け取られ、コミュニケーションが成立しない。それは意味の多様化なのか、単純化なのか、その両方なのか、おそらく、その総てなのだろう。人の喜びとは何か、人はどんなときに幸福を感じるのか、そういうことを求めながら、人はそれとは反対の方向にどんどん進んでいる。単純なことが複雑になり、あげく、薄汚れた単純になっている。この先、人はどうなっていくのか、そんなことを、かなり、ひんぱんに思うのである。
●で、さらに深刻なのは、誰もが、そういう不安(「社会がおかしくなってる」)を感じながら、その原因も、どうしたらいいかも、わからないことである。ずるずると地獄に落ちていくような不安ばかりが増している。


8月1日(火)

●ヒマなので、最近は部屋の掃除ばかりしている。本日は台所の反対側を掃除した。疲れた。ホコリが1センチくらい積もっていた。
●吉祥寺に出て、冷やし麺を食い、マクドでコーヒーであった。最近、マクドは混んでいる。夏休みとなり、ガキや子連れ親が多いのだ。
●『ヒトはなぜ助平になったか』(戸川幸夫・著)を読んだ。楽しく、納得の本であった。著者は新聞記者出の動物学者で、この本は1988年に出たもの。この本の結論は、人間はセックスを愉しむように身体の構造ができている、というものである。セックスは、ほかの動物は生殖(子孫を残す)が主な目的だが、人間は生殖というより快楽のためにある、という説である。その説を証明するため、この本はいろんなエピソード、生態学、身体の構造学などを駆使している。面白く書かれているので、小難しくなく、そうだ、そうだ、と著者に同意する。著者はセックスのテクニックまで披瀝しており、何か時代的なものを感じる。今ならここまでは書かない。が、80年頃は、こうゆう行き過ぎも許されたのだろう。本には、いい時代であった。



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