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大腸雁之助の尿管結石闘病記

2006年3月20日(月) 
人生初の救急車

渡る風が春の訪れを伝えてくれていた。そんな爽やかな朝だった。しかし、それとは対照的に体調が……。しかたなく全ての予定をキャンセルして自宅に引きこもることに。

午後2時少し前頃、その痛みは突然現れた。なかなかの痛みである。激痛という言葉の定義は、ぜひこの痛みにしてもらいたい。右の腰辺り(背中側)がとても痛いのだ。ベッドから這い出してシップを貼ってみたがあまり効果なし。救急箱をひっくり返しバファリンを取り出す。バファリンの半分は「やさしさ」から出来ているとコマーシャルで聞いたことがある。それなら大丈夫、効くだろうと2錠を口に放り込み水で流し込む。それからバファリンの効果を待ち続けたが……。ダメ、まったくダメ。効くどころかプラス吐き気がしてトイレにて嘔吐。吐いちゃったからとバファリンをあと1錠追加。そして、また吐く。鎮痛剤を大量に摂取するとバカになる気がして今度は半錠だけ……。ダメだ。この時のバファリンには全く「やさしさ」が無かった。少なくとも私にはそう感じられた。〜トイレとベッドの往復〜

神様、本当にすいません。もう悪いことはしません。いい子でいますから……。神様にお願いをした。これもまったく効果なし。

実は、3〜5年ほど前にも同じ様な症状があったのだ。その時は、シップとバファリンで何とか治まったが……。今回は……。

午後4時少し前頃、最終手段。「人生初の救急車」を呼ぶことにする。(正直なところかなり迷った。果たして本当に救急車が必要だろうかと。世の中には、もっと救急車を必要としている人がいるんじゃないだろうかと。)ベッドの中から受話器を取り上げダイヤル。頭がボーッとしていたのか110番にダイヤルしてしまい、あわてて119番にかけ直す。「どうしましたか、消防ですか、救急ですか。」との問い掛けに何とか返答。その後、玄関にてうずくまる様に待機。救急車は5分位で来るんじゃないの、と思っていたがナカナカ来ない。遠くでサイレンが鳴ってはいるが近づいて来ない。どうしたんだ〜と思っていると自宅の電話のベル。動けない、動けない、電話に出られない……。救急車は迷っているようだ……。カーナビ付いてないの?

しばらくして救急車のサイレンがやっと自宅近くまで来た。チャイムが鳴りドアを開けた。イロイロ質問された。答えた。簡易型の車椅子に乗った。動いた。ストレッチャーに移動。動いた。激痛。叫んだ。

やっとの思いで停車中の救急車まで到着。血圧、脈拍、その他イロイロ。私はストレッチャーにベルトで固定され、身動きが出来ず悶えていた。これから受け入れ先の病院を決めるようだ。泌尿器科。整形外科。救急隊員たちが話している。(まだこの時は、背中の痛みでなぜ泌尿器科なのか、全く理解出来なかったが……)大和病院に行ったことあるかと聞かれ、私はあると返答。(確か10年以上前に受診したことがある。)隊員は大和病院に電話を入れた。しかし、結果、なんと受け入れ拒否。ドラマでよくあるシーンだ。受け入れ体制が無い状態での患者受け入れは、かえって状況を悪くする事は何となく理解できる。ただ、この時の私の心は「何でやねん……大和病院……」。そして、すぐ(だったと思う)私は「日大病院」と天に叫んだ。通院していることも告げると隊員は電話してくれ、日大板橋病院内科での診察を受けられることとなった。

救急車は走り出したが、思いのほか揺れる。激痛、吐き気。自宅から日大板橋病院まで、どの道順で行ったのか今となっては全く分からない。

日大板橋病院に到着してストレッチャーが移動。救急室のような所(だと思う)に通された。もう病院ですよ。大丈夫ですよ。誰かが言った。誰かは分からない。その後ストレッチャーから病院のそれに移動。「せーの・1・2・3!!」。なんだかテレビで見たことある……。そう思った。

その後、腕に点滴(今となっては正体不明の液体)。CT造影検査、レントゲン検査。(あれレントゲン検査はしてないかなぁ。)この時もわめき散らしていた。痛みで体を自由に動かすことも出来なかった。

救急室に戻り、ベッドに移された。しばらく悶えていると、不思議なことに痛みが緩和。若手女性医師登場。その医師から「病院到着時と比べて痛みはどうか」と聞かれ、私は「到着時を10とすると今は2」と答えた。何が痛みに効いたのか。点滴か。しかし、点滴には鎮痛剤が入っていないと聞かされたような……。

ここで、座薬(鎮痛剤)を使用。医師は、1時間後にもう一度来ると言い残し去っていった。

たぶん1時間位後、若手女性医師が戻ってきてCT画像の解説をしてくれた。結果、命に関わる病気ではない。右の腎臓から出ている尿管に何ミリかの結石があり、それが痛みの元とのこと。「尿管結石」と言うらしい。また、やはり右の腎臓の中央が黒くなっているとのこと。これらの説明を受ける頃には、やっと普通に話すことが出来るようになっていた。(尿検査の結果、潜血反応があったとのこと。)

その後、泌尿器科専門の男性医師登場。救急室の中にある診察スペースに移動して改めて説明を受けた。やはり、「尿管結石」であるとのこと。それを聞き、安心した。ただし、その結石が尿と一緒に体外に排出されるまでには3つ狭い部分があり、そこに達すると、まあ痛いらしい。今は3つの内の1つ目ということか。次回予約を取り診察終了。そう言えば、尿と一緒に排出される結石を採取する必要があるため、茶こしを使い尿をこすようにとも付け加えられた。

さあ自宅に帰るわけだが、なんと私は上下パジャマにサンダルONLY。(正確には靴下も履いていたが……。)所持品は、もらったばかりの処方箋と自宅玄関の鍵のみ。現金その他一切無し。

病院事務所にて事情を説明すると、(後日必ず支払うという)書類にサインさせられた。院外薬局でも同様にサイン。その後、ビニール袋に入った処方薬をブラブラさせながらタクシーに乗車。もちろん運転手にも救急車で運ばれてきた経緯を説明。自宅到着後、料金を支払った。

自宅に到着したのは確か午後9時半頃(あれ?午後8時半頃だったかな)。食事をして処方薬を飲んだ。(ウロカルン錠225mg2錠、チアトンカプセル5mg1カプセル)

こうして、今日が終わった。「人生初の救急車」は終わった。つい何時間か前の痛みが嘘であったかのようにすら感じる穏やかな1日の終わりだった。

ただ、この時の私には知らされていなかった。「人生2度目の救急車」が、明日であるという事実を……。


 
2006年3月21日(火) 
人生2度目の救急車、そして緊急入院

朝から痛み。食パンを半分だけ食べて薬を飲む。しばらくして、激痛。そして、嘔吐。

午前8時頃、お守り代わりにと処方された痛み止めの座薬(ボルタレンサポ50mg)を使用する。しかし、効果なし。続けて午前10時、正午とやはり座薬を使用。

午後3時20分頃、痛みと吐き気に耐え切れなくなり、人生2度目の救急車を要請。(2日続けての救急車にかなりの迷いはあったが、苦しさを自分自身でどうすることも出来ず……。)

午後3時40分頃、自宅の電話が鳴る。その電話は救急隊員からのもので、いくつかの質問を受けた。到着までの時間を短縮するため、走行中に詳しい状況を確認するようである。私は前日からの流れを順番に説明した。

しばらくして救急車到着。前日同様に隊員に運ばれ、そして救急車に乗せられた。

日大板橋病院への連絡の後、救急車は走り始めた。私は、揺れる車内で痛みと吐き気に耐えながら「この光景、どこかで見たことがある……。デジャビュ?」と感じていた。しかし、もちろんデジャビュではない。前日も実際に全く同じ経験をしているわけだから。

日大板橋病院に到着後、救急室に通され左腕に点滴を受けた。点滴の中身は分からないが、たぶん痛み止めと吐き気止めじゃないだろうか。(座薬も使用。)

病院での緊急処置を受けたが、状況が好転したとは言えなかった。前日は徐々に痛みが消えていったのだが……。

何時間が経過しただろうか。医師が一向に良くならない私の状態を見て、入院した方が良いとのアドバイス。素直にそれに従う。

入院病棟からのお迎え。車イスでの移動。エレベーターに乗せられ、どこかに運ばれた。2床部屋窓際のベッドに寝た。隣のベッドは空きだった。

何時頃の出来事なのか分からない。とてもとてもとても痛かった。痛みを我慢しているのだが自然に声が出てしまう。ナースコールを押さずとも看護師がやって来た状況から推測すると、かなりの大声を上げていたのかもしれない。

尿管結石の痛みには、すごく波がある。大波、小波、大波、小波。痛くないと安心していると、また激痛。疲れるのだ。ちなみに、尿管結石の痛みは、すい炎、胆石の痛みと並んで三大激痛のひとつと言われているのだという。また、痛みの種類は難産のそれに似ているらしい。私は男でありながら難産の痛みを経験することができたわけだ……。

激痛、嘔吐、時々アクエリアス。その繰り返し。こうして入院初日は終わっていった。 


 
2006年3月22日(水) 
入院2日目

東京は雨だった。

朝、食事が運ばれてきた。もう丸1日食事をしていないが、全く食欲なし。水分だけ補給。

病室を移動。30号室窓際から29号室窓際へ。(どちらも2床部屋なのになぜ移動したかは分からない。けれど、何か理由があるのだと思う。)29号室廊下側には既に患者がいた。

私は、入院するつもりもなく病院に来たわけで、ほとんど何も所持していない。そこで売店へ向かう。点滴スタンドにつかまりながらフラフラ移動。エレベーターホールまで来て、ここが地上5階であることを実感。(地上5階くらいかなとは感じていたが……。)売店に着きタオルと歯磨きセットを購入。

5階洗面所にて歯磨きそして洗顔。少し気分が改善した。

話は変わるが、以前、病気になると安静に寝ていることが回復への近道とされていたような気がする。しかし、最近は多少無理してでも体を動かすよう指導される。寝た状態では内臓の機能が低下して回復に向かわないらしいのだ。(老人などは骨折などの原因でそのまま寝たきりになることが多いと聞いたこともある。)

昼食、夕食とも飲み物以外まったく手を付けず。

夜、浴衣をレンタル。(本来病院にはレンタル浴衣はないのだが、病院近くに着がえを持って来てくれる知人がいないという悲しい現実を話したら、特別に貸してくれた。)

かなり辛い1日だったが何とか終わった。


 
2006年3月23日(木) 
入院3日目

少し体調が良くなってきた。入院3日目にして初めて食事に手を付ける。朝10%、昼20%、夜50%。主に食べたのは白粥と汁物。久しぶりの食事は、食べた物が体に浸透していく感じ。味のない白粥を少々、そのあと汁を少々。病気の時はコレに限る。あぁ〜日本人で良かった。はて、肉が主食の地域は、どうしているのだろうか。病気の時も肉を食べるのか。オレはイヤだ。食べたくない。お粥、梅干、ときどき味噌汁。コレが良い。

午前中、レントゲン検査。その後、午前10時〜正午頃まで許可をもらい自宅に戻った。(着がえ等を持ってきた。)

病院に戻ってからレンタル浴衣に着がえ点滴を再開。点滴スタンドを押しながら病棟内を歩いた。すると、この感覚、以前にも経験済みだと感じた。それは国立がんセンターに入院している時(2004.10)で、今回ほどではないが腰の辺りに痛みがあったのだ。ただの腰痛だと思っていたが、もしかするとあの時も尿管結石だったのかも……。

夕方、発熱(38.2℃)。頭はボーッをしていたが、全然平気。所詮、痛みや苦しさなんて比較するものによって変わるのだ。健康な状態からの発熱ならば、苦しく感じるだろうが、回復する過程での発熱は楽にすらさえ感じる。そんなもんだ。

アイスノンベルトをおでこに付け、少し寝てしまったようだ。

夜、痛みや吐き気は、ほとんど無し。そんな状態で1日は終わった。 


 
2006年3月24日(金) 
入院4日目(退院日)

早朝、いや深夜という表現が正しい。時刻は、たぶん午前2時頃、目が覚める。結局、それから再び眠りにつくことは出来ず、朝まで起きていた。起床は午前6時なので、暇な時間が4時間も……。

午前5時頃、病室のカーテンを開けてみた。窓の正面には西新宿の高層ビル群。飛行機などへの合図であろうか。規則的に赤いライトが点滅していた。左手には池袋サンシャイン60、それと清掃工場の煙突。また、遠くの方には小さく東京タワーが。もちろんココは東京なのだ。

病室という非日常的な空間は、真実と虚構との境界線を曖昧にする。窓の外を見なければココが東京であるということさえ分からなくなる。

少しずつ光の量を増しながら変化していく空を、私はしばらく眺めていた。

午前9時頃、造影検査。検査は、造影剤を体内に注入後、しばらく時間を空け何枚かレントゲン撮影をするというものであった。検査台の上に体を預け、地面に対して水平になったり垂直になったり。

午前9時半頃、少し遅い朝食。80%位食す。もう元気。

午前10時半頃、退院。

後は処方薬を飲みつつ、結石が体の外に排出されるのを待つ訳だ。



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