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影と闇の中で

誰の心にも影があり闇がある
それは善人顔に隠れた冷たく残忍な悪
それは天使のころもをまとった悪魔の欲望
ふっふっふ、とうとう、のぞいてはならないものをのぞいたな!

注意:このページには不愉快な、病的表現があります。
  不快に感じられましたら即ご退出下さい。 
  

本   性
  とうとう覗かれてしまったか
  ふふふふ
  誰の心にも天使も居れば、悪魔も居る
  誰にも覗かれたくないものもある
  それはなにもパンツの中だけでは無い
  ある女性が、私にこう言った
  パンツは脱いで見せても
  この日記だけは見せられないの
  私はパンツの下よりも
  その日記が見たかった
  
  私の日記は
  残念ながら彼女のパンツほどの
  価値もない
  まして、私に寄生する悪魔など・・・
機関車
生まれ故郷
落ち武者の子孫
叔父の遭難
母の発狂
泥  棒
禁断の果実




昭和28年 宮崎県日向市日田尾村で生まれる

機関車
 3歳ぐらいのとき、母と一緒に里帰りした。何時間も汽車にゆられた。カタッコトッ、カタッコトッ、線路の継ぎ目の振動が窓枠にもたれた頭を叩く。いつしか意識がうすらいで夢と現実をさまよう。突然こげ臭い煙にむせかえる。母があわてて窓を下ろす。トンネルに入るたびに車内に真っ黒い煙が充満し石炭の匂いがたちこめた。

 汽車をおりるとおそろしく力強い機関車が真っ黒い煙を吐きながらゆっくりと目の前を通り過ぎた。プシー、プシーと蒸気を吐きながら巨大な鉄輪を太い腕で突き動かしていた。その大げさな力強さに圧倒されて動くこともできず立ちすくんでいた。ボーッという突然の警笛に思わずしりもちをついた。後ろで母や大勢の人たちが声を上げて笑って見ていた。おもしろくなかった。しかし、みんながあまりに可笑しそうに笑うので、一緒に笑うしかなかった。

 人は他人のヘマやぶざまな失敗をこれほどまでに喜ぶものか。笑いをとるためにワザと人前でヘマをする習性を身につけたのはこのときだった。

生まれ故郷
 南日向駅を降りた。思い荷物を背負った母は私の手をひいて歩きだした。何キロも曲がりくねった砂利道を上ったり下ったりしながら歩いた。山道を歩くことには慣れていた。

 母の表情がだんだん生き生きしてくる。懐かしそうに付近の家を指さしてあれが、だれそれ、こっちはだれそれの家、としきりに説明した。声がはずんでいた。いつもの母ではなかった。しばらく見ないうちに変わった村の様子に驚いたり落胆したりしていた。私に言っているようでもあり、独り言のようでもあった。

 一面を低い熊笹に覆われた小高い丘にさしかかると生まれ故郷の日田尾村が見えた。田んぼの中に大きな古い屋敷があった。そこが母の実家であった。広い庭を闊歩しているニワトリをおどかしながら中にはいる。広い土間の向こうの座敷の囲炉裏に母の母がいた。

 二人並ぶとたしかに親子であった。祖母の顔立ちは6つ年上の兄にも似ていた。やがて親戚が三々五々やってきてはかわるがわるに暮らしぶりをあれこれ聞いたり、愚痴を言ったりした。

 母の実家は立派だった。それなのに今は鹿児島の山奥で炭焼きの嫁。草ぶきの小屋に住んで朝から夜まで木炭の粉塵にまみれている。家族の前で精一杯しあわせを装っている母を見て胸が苦しくなってきた。家が貧乏なことぐらい当時でもわかる。父と母が兄達が寝静まった頃、お金のことで言い合っているのを聞いたことがある。
「これ以上の貧乏があるなら、教えてよ」と母が泣いていた。
昭和29年 鹿児島県肝属郡内之浦町岸良姫門に引越し

落ち武者の子孫
 私たち一族は祖父母と長男の父一家6名、次男一家4名、三男一家3名であった。鹿児島南方の山林で炭を生産する仕事を請け負うため四国からわたって来た。祖父によれば我家の祖先は、壇ノ浦の合戦で平家方につき源氏方に敗れ四万十川の上流に逃げ延びた落ち武者であるらしい。なんともうらめしい家系に生まれたものだ。四万十川の流域に今でも我家と同じ氏の村があり、村人のほんとんどと村長や助役までも同じ氏であるらしい。

 そこでの生活も決して楽ではなくなり、新しい仕事を探して鹿児島へ一家揃って移住することにしたらしい。鹿児島に着くと炭の販売元の商店の世話で山の割り当てをもらったり、当面の生活費用を用立ててもらったりした。祖父母と父一家と次男一家は目と鼻の先にそれぞれ居を構えた。3男一家は2里ほど離れた山あいに住んだ。いずれも手作りのかやぶきの家だった。村人や山仲間も手伝って柱や屋根の梁となる木材を山から切り出し、丸太のまま縄でしばった。その骨格の上から壁といわず屋根といわずすべてよく乾燥したかやの束で覆っていった。設計図らしいものもなく、父親の指図でなんの躊躇もなくまたたくまに草ぶきの家が完成していった。完成した家は乾燥した草のにおいがして心地よかった。夏は涼しく、冬はあたたかかった。今でも、へたなマンションに暮らすよりもあの草ぶき屋根の家に住みたいという願望は消えてない。

 私は男ばかり4人兄弟の末っ子だった。それも、上の3人とは6歳以上年が離れている。間に一人か二人いたらしい。昔は生まれてすぐ死んでしまうことが多かったらしく私の2歳上の兄も小さいころ死んだそうだ。6歳も年が離れると兄という感じよりもオジさんに近かった。小さいころから遊びも会話も次元が違いすぎていた。6歳年上の兄によくいじめられていた。その兄はさらに上の二人にいじめられた腹いせに私をいじめていた。平家の落ち武者の子孫はこうして炭焼き人夫として鹿児島の南方の山林に10数年を過ごすことになる。  

叔父の遭難
 ある夏の夜のこと、父とその次男、三男はつれだって、海に磯釣りに出かけた。父の兄弟は皆釣りが好きでよくこうして一緒に夜釣りに出かけた。明け方には左巻きだのなんだのと黒や鮮やかな色の雑多な魚やタコなど収穫物を持ち帰ってきた。そんな夜はみんなで鍋を囲み飽きるほど食べた。

 ところが、その日、夜中になって村人が急な知らせを持ってきた。突然の高波にさらわれて全員が海に落ちたというのだ。父と次男は自力で這い上がったが、三男の行方がわからないというのだ。これから寝よういうときだったが、ただならぬ出来事に母も兄達も一睡もできず父達の帰りを待っていた。消防所のサイレンが遠くに聞こえた。捜索隊の召集のサイレンだった。

 夜が明けて、村の消防や青年団があらためて磯を捜索にいった。三男は釣り場の近くの波間にうつぶせに漂っていた。波にゆられて腕を上下にしているように見えたので、祖父が「まだ、生きちょる、まだ生きちょる、はよう、助けんか」と狂ったように絶呼した。水の一滴も飲んではいなかった。転落したとき岩に激突死したらしい。父も次男も全身が赤い擦り傷だらけで痛々しかったが命があっただけましというものだ。

 生まれて初めて身内の葬式を体験した。重苦しい雰囲気の葬儀だった。死んだ三男は兄弟の中でもとりわけ美男子で性格もやさしかった。祖母も親戚も何故こんなにやさしく、しかも一番若い者が先にいかなければならないのかと運命を呪い嗚咽した。
 「お前達が死んだほうがまだマシじゃった」
と、祖母は父達に罵声をあびせた。「そうじゃ、すまんことをした」とミイラのような包帯姿の父達は亡がらのそばでうなだれていた。残された若妻と子供は可愛そうで見ていられなかった。妻は若く美人であった。明るくて陽気な性格でみんなに可愛がれていた。とりわけ夫の三男は愛妻家だった。結婚して一度も夫婦喧嘩をしたうわさも聞かない。おしどり夫婦と評判だった。彼女は私をよく可愛がってくれた。私のつまらない冗談にも声を上げて笑ってくれた。それからというもの、よくふさぎこむようになった。たまに遊びに行っても力のない愛想笑いで迎えてくれた。すっかり元気がなくなってしまっていた。肌のつやも失せ、いつもどこか遠くを見ているようだった。彼女を見るたびに叔父と葬儀のことを思い出し子供心にもつらかった。人の死はこれほどまでに人を悲しませるものか。悲しみはこれほどまでに人を変えてしまうのか。自分には彼女を慰めることも励ましてあげることもできなかった。自分がいかに無力な存在かを思い知った。  

母の発狂
 ある夏の夜のこと、ただならない喧騒に目が覚めた。父と母が家の外でなにやら言い合っている。眠い目をこすりこすり玄関の戸を開けて外へ出た。空には大きな満月が輝き真昼のようであった。母はその月に向かって泣きながら大声で「お母様〜」と絶呼していた。父の事業がうまくいかず、また身内の不幸が続き、生活は極貧を極めていた。「これ以上の貧乏はありません。」が母の口癖だった。このとき、故郷の母の死に目にも会えない身の不幸を月に詫びていたのかも知れない。事情はよく解らなかったが子供心に母があわれでならなかった。

 母はよく唄った。母の唄う『川は流れる』を聞くと子供の私の心は引き裂かれた。母と一緒に歌っていても『ささやかな、のぞみやぶれて かなしみに』の句にさしかかると目が涙でくもりのどがつまり声にならなかった。母の境遇、哀しみそのままの歌詞であった。

    『病葉わくらばを 今日きょうかべて まちたに かわながれる
     ささやかな のぞやぶれて かなしみに 
     まるひとみ黄昏たそがれの みずのまぶしさ』

 母は本当によく唄った。ほとんど絶唱であった。『川は流れる』、『美しき天然』、『月の砂漠』、『南国土佐を後にして』、『ジンジロゲ』、『旅の夜風』などを海の見える小高い丘にたって絶唱した。中でも『川は流れる』は、いつ聞いても胸を締め付けられた。母は歌がうまかった。声も美しく、心がこもっていた。どの唄を聴いても感動した。母が夜毎、月に向かって絶呼するようになってから、母の唄はいっそう哀しさを増した。唄いながら、さめざめと泣き続けることが多くなった。

 母が精神病院に収容されたのはそれから3ヶ月ほど後のことであった。母の行動が普通でないことはとっくに知っていた。台所に立って包丁を研ぐとき、ぞっとするほど鋭い目つきをして延々と研ぎ続けていた。疲れることを知らないかのように一心不乱に畑仕事をする姿も常人ではなかった。ある日、家中のものというものを座敷に引っ張り出してひとつひとつ確認しながらまた片付けるようなことを延々と続けていたりした。

 当時、小学2年生だった私は母の異常には気づいていたが、家族のだれにもこのことに触れなかった。父は出稼ぎにでかけ、兄達は中学校で帰りが随分遅かったので日中母と二人だけでいることが多かった。ある日、母が「一緒に死のうか」といいながら研いだ包丁を片手に近づいてきた。「母ちゃんといっしょなら、あの世でもどこでも行くよ」と笑いながら私は答えたらしい。私の記憶にはない。母が後で「お前がそう、言ってくれたのであのとき助かったんだよ」と泣きながら教えてくれた。やがて村人から母の奇行に苦情が出るようになって病院に収容されることになった。

 極度の貧しさ、度重なる不幸に夢も希望も失った母は狂気の世界に逃避するほか生きる術がなくなってしまったのだ。子供心に私はそう確信していた。その貧しさの中で私達兄弟を育てあげてくれた。母は母として精一杯私達のためにその勤めを果たしてくれた。かけがえのないたった一人の私の愛する母である。
昭和41年 同小学校卒業 岸良中学校入学

泥 棒
 「うそつきは泥棒の始まりである。」
「泥棒」という言葉に突然グサリと心臓を突き刺された。よく晴れた夏の日の朝のこと、担任が授業の前に日ごろのみんなの行いについて何か説教をしていた。私は突然顔から火の出る思いがした。「泥棒」という言葉にやたらに敏感になっていた。心の底から自分のしたことを恥じた。クラス全員が自分を見つめているのではないかという錯覚に落ちた。自分のしたことをみんな知っているのではないか。自尊心もプライドも土足の恥辱に踏みにじられた。後悔してももう遅い。してしまったことはしてしまったこと。取り返しはつかない。さりとて、自分のしたことをみんなに告白する勇気など持ち合わせてもいない。このまま、死ぬまで自分の心にしまって置こう。ただし、二度と自分にこんないやな思いはさせまい。ひたすら自分にいい聞かせ、忘れようと努力した。

 数日前の放課後、当番の清掃も終わり掃除道具を片付けた。自分の机の忘れ物を取りにいくと、途中A子の机のなかにピンクのサイフが見えた。

 「あいつ、サイフなんか持っているんだ。」
 当時、田舎の中学校のこと、サイフなどというものを学校に持って来る者はほとんどいなかった。持っていても数十円程度だ。せいぜいノートや鉛筆を買うか、贅沢をして、途中の食堂で30円のぜんざいを食べるか10円のアイスをしゃぶるかぐらいであった。教室に残っているのは私が最後だった。一瞬躊躇したが、気がつくとピンクのサイフを手に持っていた。あけてみると120円ほど入っている。50円玉1個と10円玉が7個。当時アイスなら12個、クリームパンなら5個ぐらい買えそうだ。
 「サイフなんか学校に持ってきてるんだ。女の子はおシャレだな。」
ひとりつぶやいてサイフを机にもどそうとした。そのとき、自分のポケットには20円しかないことを思い出した。最近、お小遣いにありついていない。たまにクリームのたっぷり入った菓子パンでも腹いっぱい食べてみたい。誰にもバレやしない。盗っちまえ。

 心臓が突然パクついた。中の小銭を自分のポケットにいれる。サイフをどうする。どこかに捨ててしまえ。生まれてはじめて他人のお金を盗んだ。今ならまだ間に合う、はやく机にサイフを戻せ、いやだ、どうせ誰にもわかりゃしないさ。心の中で二人の自分が争っている。

 頭の中にA子の顔が浮かぶ。今頃、サイフが無いことに気づいているのだろうか。明日、教室で「私のサイフ見なかった?」と聞かれでもしたらどうしよう。掃除当番で最後まで残っていたのは自分だと何人かは知っている。でも、A子の机の中のサイフに誰か気づいていたやつがいるのだろうか。サイフを盗んだあとで、あとからあとから不安がつのった。
ピンクのサイフの捨て場に困った。体育館の外壁の空気口から床下に思い切り奥に放り込んだ。体育館を解体でもしない限りサイフは見つかりっこない。引き返すことのできない道を進み始めたと思った。これから先、一生、自分と周囲に悲しいウソをついて生き続けなければならない道を選んでしまった。

 次の日の朝、学校に行くのが憂鬱だった。とりわけA子の顔を見たくない。いつものようになにくわぬ顔で教室に入る。気のせいなのだが、みんなの視線がやたら気になる。A子がやってきた。心臓がパクつく。見ないようにしているが、どうしても視界にA子がはいる。案の定机の周りを何か探している。カバンを調べたりしている。サイフなら今頃うすぎたない体育館の床下だ。生涯探しても見つからないぞ。ごめんA子、オレが盗ったと白状できたら、たとえみんなから軽蔑されてもどれだけ気持ちは楽になるだろう。

 A子は探し物が無いとわかるとあきらめたように、とりわけ皆に何か言うわけでもなく、席についた。やがていつものように授業が始まった。私の心は後悔と罪の意識と自己嫌悪とA子に申し訳ない気持ちとでズタボロになっていた。一週間たっても気分はよくなかった。以来、「うそつき」とか「泥棒」とかの言葉に心臓をえぐられるような不快感を覚えた。私はまぎれもなく「泥棒」なのだから。誰一人私を疑う者はいなかった。人が私を見る目と私の真実とのギャップ。それがかえって自分を苦しめた。

 「どうしたの? 最近元気ないよ?」
A子がくったくのない笑顔で話しかけてくる。ひどい負い目を感じる。おれはお前のサイフを盗んだ男だ。おれは・・・いくら虚勢を張ろうとしても、自分を正当化しようとしても、言い訳を考えても、罪悪感とおのれのちっぽけさに心はみじめになるばかりであった。忘れようとすればするほど記憶は鮮明になっていく。こんな思いは二度と自分にさせまいと心に誓った。
昭和46年 北海道千歳駐屯地勤務

禁断の果実
 ジープの後部座席に搭載した車載機関銃用の銃架から62式機関銃をとりはずし、武器庫へ急いだ。東千歳演習場の実弾射撃場でジープ車載の機関銃の射撃の訓練を終えて部隊に帰ったばかりだ。機関銃というのはなかなか命中しないものだ。ゆっくり走るジープの上から150から200メートルぐらい先に立てかけた人型の分厚い鉄板数枚をめがけて撃つ。命中すればカキーンと金属音をたてて鉄板が倒れる。着弾の土煙を的へ誘導するのだが、これが実際やってみるとなかなか傍で見ているほどうまくいかない。うっかりするとたちまち弾を撃ちつくしてしまう。

 「もともと、機関銃なんて、敵が頭を出せんように弾を敵の近くにバラまくもんだ。」
 ある幹部候補生がうそぶく。先輩はさすがにうまいものだ。5個の的のうち4個まで倒した。今日の最高記録だ。何回かチャレンジしてようやくまぐれで1個の的を倒せた。射撃のセンスは自分にはないと思った。

 実弾射撃は嫌いである。確実に的を射抜くには、正確な照準はもちろん、銃と身体を一体にして衝撃を正しく受け止めなければならない。これがまた、簡単なようでなかなか難しいのだ。弾の発射の衝撃で照準が大きくひとゆれした後、元の正確な照準に戻っていれば必ず弾は命中している。たまにそういうときもあるが、たいていはあっちゃ向いてホイだ。実弾射撃が嫌いなのはそれだけではない。射撃後の銃は火薬反応で金属が腐食するため、射撃後3日間は入念に分解掃除をしなければならない。これが結構大変だった。

 この日も黒こげた銃身やバラバラにしたバネや撃鉄などを何度も拭き取って入念に油をひいて組み立てた。武器庫に格納すると丁度終礼の時間になった。夕食が済むと風呂にはいり、当直室に行って休暇証と外出許可証をもらって部隊を後にした。ひさびさの休暇だった。

 幼なじみの3つ年下のいとこのA子から手紙が来たのは1週間ほど前だった。中学校を卒業して愛知県の紡績工場へ就職していた。あれから2年になるのでもう18才だ。月日の経つのは早い。自分が中学を卒業すると入れ替わりに同じ中学へ入学した。それ以来3年間まったく会っていなかった。幼い頃から家がすぐ近所だったので、中学校を卒業するまでよく一緒に遊んだ。

 自分が中学生のとき彼女は小学校の高学年。そろそろ胸なども出できて、少しは女らしくなってきていた。一緒に部屋で遊んでいると、プロレスなどをして組み伏せているうちに、その気になり我慢ができずに下半身をいたずらしたりした。さすがに痛がるので挿入は無理だったがときどきペッティングなどをした。二人ともまだ、罪悪感がある頃なので、あとで後ろめたい思いをした。大人たちはこうなることを見越していたのか、彼女の親や自分の親からも、A子とはいとこ同士だから、結婚できないのだからそのつもりで、と暗に釘を刺していた。

 彼女も私がしつこく迫ると「子供ができたらどうするつもりよ?」と小学生らしくなく大人ぶって私を制した。そう言われると引っ込む他はなかった。その彼女から北海道へ友達と一緒に遊びに行くから、案内して欲しいという連絡を受けたのだ。彼女がどんな友達を連れてくるのか、それが楽しみだった。

 事前に入念に北海道地図で観光地を調べ、コースと予算を設定した。レンタカーを借りて4泊5日ぐらいで、札幌、旭川、網走、摩周湖、阿寒湖、襟裳岬などを回って千歳に帰ってくることにした。いざ、空港について彼女達を待っていると、なんと現われたのは彼女一人であった。肩透かしを食わされた感じだった。でも、見知らぬA子の女友達に気を使わなくて良い分気が楽になった。これもまたいいかと、あきらめた。すっかり大人びたA子が少し香水の香りをさせながら近づいてきた。3年ぶりの再会だった。

 内心、不安だった。若い男と女が二人きりでこれから一週間、レンタカーで北海道一周する。休暇を申請するとき部隊の小隊長がにやけながら言った。
「18だって? いとこだって? 気いつけや、いとこは乗りやすいっていうからな。」
「友達と一緒に来るそうです。それは心配ありません。」
 ところが、目の前にはA子一人だったのである。
「友達は?」
「うん、都合悪くて来れなくなったの。」
「実家は知ってるの?北海道へ来ること」
「うん、友達と一緒に行くって言ってあるから、大丈夫。」

 その晩は千歳の下宿で一夜を過ごすことにした。普段は部隊で生活しているが、独身隊員の多くは、休みや休暇や外出時のプライベートルームを市内に借りている。一人でまるまるひと月分の家賃はもったいないので、気の会う仲間同士2、3人で一部屋を借りていた。部屋にはテレビやオーディオ、冷蔵庫ひととおり揃っている。交代であるいは一緒に使っていた。この日は私たちだけが使うことになっていた。

 A子とは思い出話や二人の3年間の空白の時間の出来事など夜遅くまで語り合った。北海道旅行の日程などの打ち合わせをして休んだ。夜中に、ときどき目が覚めた。A子の寝顔を見ると疲れたのかスースーと寝息をたてて熟睡している。そっと布団に手をいれて腰の当たりをさわると、これも予期していたのかしっかりとジーパンをはいていた。胸のあたりに手を当てる。ブラジャーの上からふっくらとした乳房の感触がつたわってくる。ああ、いとこでさえなければと、この情けない状況を呪った。

 自衛隊入隊以来、訓練に明け暮れて、彼女もいない状態が続いていた。熟睡しているA子の胸をさわっているうちにとうとう我慢ができなくなって、トイレに駆けこんで処理をした。そうでもしなければとうてい眠れるはずもなかった。
翌日、早朝から慣れないレンタカーで長いドライブが始まった。当時、北海道の道路は未舗装道路や工事中が多かった。襟裳の黄金道路などは工事中の悪路でダンプの巻き上げるホコリや砂利の乗りこご地の悪さでへき易した。しかし、襟裳はきれいだった。襟裳岬の灯台に続く道は笹の原と原生の花々に彩られて素晴らしかった。1泊目は広大な牧場の片隅に野宿した。車の横にテントを張った。寝袋に入って虫除けの蚊取り線香を枕元で焚き、ろうそくの明かりで昔話をしているうちに返事も途絶えいつしか寝息が聞こえはじめた。いとこでなければロマンチックな夜を過ごせたのにと悔しがりながらいつしか寝入った。

 2日目にあこがれの摩周湖に到着した。霧は嘘のように晴れて、吸い込まれそうな青く深く美しい湖が真下にぽっかりと口をあけていた。カメラのシャッターを何度も何度も押した。いくら撮ってもフイルム切れにならないので少し不思議に思ったが、気にもとめず夢中でシャッターを切った。見知らぬ人から頼まれれば押し、また見知らぬ人に押してもらった。霧の無い摩周湖も充分神秘的だった。

 阿寒湖や知床五湖などを見て日暮れに網走に着いた。適当に宿を探して飛び込んだ。夕食に蟹を食べた。宿帳には同じ名字で記帳して夫婦ということにした。当然一つ部屋で休むことになった。このころになるとA子の胸のふくらみやまるいお尻、かいま見える太ももなど、年頃のA子の肉体がやたらと気になり、その誘惑に耐えられなくなっていた。浴衣姿のA子が風呂上りの濡れた髪を床の間の鏡の前でしきりにすいている。その後ろ姿をみるといてもたってもいられなくなってきた。下半身はすでに痛いほどコチコチになっている。A子が振り向いて座りなおしたとき、浴衣の裾からしろい太ももがちらりと見えた。気がついたとき、A子を布団の上に押し倒していた。はだけた浴衣の胸元から風呂上りにほんのりと赤みを帯びた可愛い乳首がのぞいた。 A子の両腕を押さえ、その小さな乳首に吸い付いた。A子の下着の上にコチコチになった自分の下半身を押し当てた。A子に、もはや抵抗はなかった。

 A子の身体は、すでにすべてをまかせるようになすがままになっていた。私の下半身はカンカンに脈打ち我慢の限界にあった。
A子の下着に手をかけてゆっくり押し下げようしたそのとき
A子が弱弱しい小さな声で
「バカ〜」
とささやきともつぶやきともつかない甘えるような言葉を発した。

 そのせつな私は我に返った。いとこだぞ。この後どうする?私は、はじかれるように飛びのいて乱れた自分の浴衣を調えはじめた。A子は指を口元あたりに置いて半分脱げかけた下着のまま両足を力なく広げ、まだぐったりとしている。まさに間一髪のことだった。彼女の貞操は奪っていない。これが唯一の自分自身への救いだった。

 こうして、生涯で男としてもっともつらいもっとも惨めな満たされない一週間が終わった。毎夜、それはほとんど拷問にも近かった。年頃のうら若き女性の肉体のぬくみのそばで一人もんもんとして過ごした一週間。A子はまた何を思って過ごしたのか。答えは後の帰郷広報という1ヶ月にもわたる長期休暇で故郷に帰り、A子に再開したときに了解した。

 「あのとき、最後まで抱いてくれればよかった」

 それから、さらに2年後、故郷に帰った。A子は私の同級生と一緒になっていて、すでに2歳になる娘をつれて出迎えた。彼女は親戚の喧騒のなかでも、ことあるごとにうらめしそうな目つきで上目遣いに私を見ていた。その目線は痛いほど雄弁に私の後ろめたい記憶を攻めていた。


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