第1章

 本章では、「使節団」の結成の過程や来日時の活動、さらには、その最大の目的であった「報告書」の位置づけについて検討したい。



第1節 アメリカ教育使節団の結成
 アメリカ教育使節団は、1946(昭和21)年の「第一次」と、1950(昭和25)年の「第二次」の2回来日し、戦後の占領政策の一環として、日本の教育を方向づける勧告を行った。本研究で取りあげるマックロイは、「第一次」の使節団のメンバーであり、保健体育学の専門家として来日した。
 以下に「第一次」の「使節団」の成立過程の概要を先行研究から簡単に述べる。
 日本の戦後教育改革構想は、すでに終戦前から始まっていた。太平洋戦争開始後間もない1942(昭和17)年8月23日、対日占領教育政策の検討が行われ1)、実質的な作業に入ったのは終戦直後の1945年8月18日SWNCC(アメリカ政府国務・陸軍・海軍三省調整委員会)極東小委員会SFEにおいてであった。そこでは、日本人の再教育に関する政策文書の作成に必要とされる、前提条件を検討する6名の特別委員会任命が行われた。その中に、後に使節団組織に関わった中心的な人物であった国務省のボートンとボールスがいた2)。
 発足間もないCIEは、この使節団計画を重要な政策の一つとして位置づけ、メンバー選定の作業に入った。当初のCIEにおける作業では当時世界の著名教育家であったデューイやソーンダイクなどを含む超一流教育家、指導者18名をリストにあげていた3)。このリストは、若干の変更があったものの、10月30日にはCIEでは決定された。マッカーサー等の最高首脳はこのリストを不承認として、メンバー選定の再研究を命令した。その理由は、「個別大学における重複が多い」、「不十分な地理的分布(北東部13名、北中部5名、南部1名、西部1名)」等4)であった。その後CIEは選定作業を繰り返し、12月24日には30名のリストを作成した5)。
 4月の新学期から、日本での新しい方向での教育を実施したいCIEは年始早々に本国に打電した。このリストは「ニューヨークタイムス」と「読売報知」の両紙にスクープされ、政府内外から問い合わせや意見が殺到した。特に多かったのが「現場教師かその組織の代表がいない」ことと、「日本人への道徳性指導のため、カソリック教育の代表を参加させるべき」という意見、さらには、候補者としてリストにあがった当の本人も、新聞で初めてその事実を知るといった状況で、この候補者リストも実現することができなかった。結局、団員の選定と依頼の作業は国務省が引き受けることになった6)。
 国務省では、文化関係局極東課長のボールスが中心となりこの作業を進めた。使節団三人説のような極端な意見も出されたり、リストを二種類作成したりする中で、2月7日には当時ニューヨーク州教育長官だったストッダードが団長として正式決定し、2月18日には28名の国務省名簿が公表された。同名簿は「対日教育顧問団」と命名され、この名簿にアイオワ大学教授のマックロイの名前が初めて載った。結局、CIEで作成された最初の名簿にあった、デューイとかソーンダイクといった当代第一級の教育家や研究者はほとんどいなくなった。しかし、国務省によって公表されたこの最終名簿からなる「使節団」は、アメリカの各教育界を代表するバランスのとれた使節団であった。
 マックロイが最終段階になってメンバーに選定された理由は、今のところわかっていない。ただ、団長となり、当時ニューヨーク州教育長官であったストッダードも以前にアイオワ大学の教授であったこと、しかも彼の専門が心理学及び教育学であり、特に発達心理学を中心に子どもの発達を測定するテストやその評価基準づくりに携わっていた関係から、同じ体育測定や統計を専門とするマックロイを推挙したのではないかと推測される。ともあれ、マックロイの使節団のメンバー発表は2月18日であり、それは日本に向けサンフランシスコを出発する2月27日の9日前だった。



第2節 事前準備と日本における活動
(1)事前準備(ワシントン会議〜ハワイ会議〜グアム会議)
 「使節団」は国務省主導で漸次形成されたが、すべての団員の最終決定以前に、並行して使節団候補者及び国務省関係者はワシントンに集合して事前準備を始めた。これを「ワシントン会議」と呼ぶ。1946年2月当初から数回行われ、ストッダード団長とボールスを中心にして、対日占領教育の基本方針を説明するために行われたものである。また、日本の教育及び宗教の特徴や問題点についての講演なども開催されるとともに、旅券や身分証明書なども作成して渡航準備を進めた。その中でも特徴的なのは、「日本側に主体性をもたせること、すなわち全く新しい制度に改革するのではなく日本人の主体性を尊重し、日本人自身の要望に応えて、日本側と協力することが積極的に協議されている」7)と、土持は述べている。
 2月26日にワシントンを出発したアメリカ東部在住の使節団員は、サンフランシスコで西海岸の団員と合流し、翌27日にホノルルに向かった。団員たちは、ここで、日本の教育の特色と改革すべき諸問題の講義を受けた。これらの講義を受けた資料が「ハワイアンノート」8)である。そこには、八つの講義ノートが所収され、その内容は、教育勅語に関するものや原爆投下などに関するものであった。このホノルルでの講義は、「日本での経験のない使節団に、日本の実際の教育についての予備知識を授け、さらにワシントンでの使節団の基本方針を再確認する上で重要な役割を果たした」9)と先行研究でも言及されている。
 ホノルルでの滞在を終えた使節団は、来日の直前にグアムに立ち寄った。日本で実際に行う活動や、「報告書」作成に関しての最終的な打ち合わせを行うためであった。団長は「報告書」作成の準備作業として、8項目にわたる具体的な説明をしている。その中には、戦前及び戦時中の日本の教育の実態と問題点を明らかにすること、また日本人独自の長期的な傾向を発見し利用することや、日本の内にある可能性を発見すること等、できるだけ押しつけや強制にならないようにする配慮がうかがえる。また、「使節団」の組織として四つの委員会と二つの特別委員会及びその委員長を発表した。さらには、「報告書」の草案作成の準備としてだれがどの分野を担当するのかも発表している。マックロイは教育課程と教科書を担当する「第1委員会」に配属された。また13年間の中国滞在の経験を生かしてか、彼は「言語特別委員会」にも配属された。そして「報告書」作成のための作業分担の割り振りがあり、マックロイは「保健教育と体育」の草案を作成することが確認されたのである10)。
 以上のような事前準備を行った後に、「使節団」は3月5日と7日の二組に分かれて日本入りしたのであった。

(2)日本における活動
 日本での日程は過密だった。例えば、3月8日のスケジュールを見てみると、9時から11時まで阿部文部大臣と日本教育家委員会の紹介、10分休憩、11時10分から12時までストッダード団長の答礼挨拶、12時から14時までマッカーサーらと昼食会、14時から14時45分までCIE教育課員ワンダリック少佐による「教育課程と教科書」と題する講義、14時45分から15時30分まで同じくCIE教育課員のバーナード大尉による「日本再教育の心理に関する委員会の範囲」と題する講義、10分休憩、15時40分から16時25分までCIE教育課員ホール少佐による「日本の教育制度の行政的再組織」の講義、16時25分から17時10分までクロフトス少佐の「日本における高等教育の組織」の講義と、分刻みで講義や懇談などの公式行事が組まれている11)。この中に個人的な日程は組まれていないため、「報告書」草案の執筆とその準備は公式日程以外の時間、つまり専ら夜に行われていたと予想される。
 講義の内容は、初期にはCIE教育課員による日本の教育に関する概要や文部省の行政組織など全般的なことを扱っている。その後、小・中等学校の行政組織、日本の学校の教育課程など、学校現場の状況把握に移り、12日からは教科の内容に入っている。14日には、保健体育に関わるところで、CIE教育課の保健体育担当官のノーヴィル少佐が「日本の体育」と題する講義を行った12)。15日夜からは関西地方へ旅立ち、西本願寺、桂離宮など、日本文化について観光を兼ねた視察を行っている。19日には都ホテルにて委員会別に日本人教育者との会談が持たれている。ここで行われたマックロイの講義が「Opinions on Physical Exercise」であり、京都府教育課によって「体育所見」としてまとめられている。この関西視察旅行は往復とも夜行列車を利用し、東京出発は3月15日午後7時30分、京都出発が3月19日午後8時57分、東京着が翌20日朝8時30分である。マックロイが当時60才であったことからわかるように、来日したメンバーはそれぞれアメリカを代表するような教育者や学者であるため、それなりの年齢に達している。そのような高齢者がこのような過密スケジュールをこなしたことに驚きさえ感じるものである。
 関西視察から東京にもどった後は、各委員会ごとに草案を検討し、団長に提出する準備に費やしたのである。そして、早いところで第3委員会は23日に「報告書」に盛り込むための草案を団長に提出している。27日には天皇と会見したり、箱根に一泊旅行したりする日程を挟みつつも、28日にはすべての委員会が団長に草案を提出している。29日からは団長ストッダードとボールスを中心として「報告書」の最終作成に取りかかり、翌30日早朝4時まで作業、同日午後6時完成、午後9時GHQ宛に「報告書」は提出された13)。31日に予定されていた団員の帰国は天候のため延期されたが、ボールスを除き4月1日には団員は帰国の途についた。そして、「報告書」はマッカーサーの声明を付して4月7日に公表されたのである。



第3節 「アメリカ教育使節団報告書」
 「報告書」が求めるものは、平和で民主的な国家を構築するための人間を教育の力で形成することだった。しかし、それは占領国であるアメリカ人の手でアメリカ人の発想を押しつけ、それを頑なに実行させるという発想ではなく、勧告はするが、それを実際受け継ぎ、実現するのは日本人自らの手によるべきであることが、この「報告書」の基本的立場であった。それは、「報告書」の「はじめに」の数ヶ所に表されている。例えば次のような文章である。

諸国民の平和な社会での日本の新しい役割にふさわしい新教育政策を実施するその中心的な担い手は、この国民の指導者たちでなければならないのである。14)

 この表現は、アメリカを中心とする連合国が、日本を新たに統治するのではなく、あくまでも日本人が自ら判断し、自ら行動して改革を行い、新しい日本を創り上げていくべきであることを示すものである。この立場そのものが民主的手法であると主張するのであった。
 とは言え、日本政府にとっての「報告書」は、GHQの発した命令そのものであったことは想像に難くない。「この『教育使節団報告書』は、(中略)GHQから日本政府への『勧告』として発表された。終戦から8ヶ月しかたっていないその当時では、GHQの『勧告』は事実上、『指示』あるいは『命令』の意味の重い内容がこめられていたのである」15)との指摘に見られるように、当時の文部省役人や学校教育に携わっていた者にとっては、「報告書」は強制力を帯びたものとして受け取られただろうことは想像できる。さらに、その影響力についても、「この指針(新教育指針)は、基本的にはやはり総司令部の四大教育指令や『米国教育使節団報告書』の示す線に沿うかたちで、軍国主義教育を排除し、日本の民主化を推し進めるための教育について述べているといえる」16)と、「報告書」が出された後に日本政府がその後の日本の教育の根幹となるべく出した「新教育指針」も、これに従って作成されたように、日本の戦後教育の方向性を決定し、多大な影響を与えた日本教育史上重要な文書であった。
 「使節団」の詳細な研究を行った土持も、「報告書」の意義について次のように結論づけている。

「報告書」は戦後日本の教育を方向づけ、民主主義の理念に基づいて教育改革の抜本的な提言をおこない、その後の「教育基本法」「学校教育法」に重要な影響をおよぼした。17)

 以上のように「報告書」は、第二の教育改革である戦後の教育改革を方向づけた「戦後教育の原点」18)であり、「戦後教育改革のバイブル」19)とも称された文書であった。