三章、忌子



 二、


 桜の身体のぬしが、かつて鵺(ぬえ)という名の少女であったことは雪瀬も知っている。鵺は北の糸鈴の地に生まれた、月詠――白雨黎の妹であり、妻である。しかし今から二十年ほど前、朝廷による糸鈴の鎮圧で鵺は胎の子ともども死に、黎もまた行方不明になった。数年後、幼い雪瀬の前に現れた月詠は藍という拾い子を連れていたが、月詠がどのような経緯で藍を見つけ、雪瀬たちの前に現れたのか、詳しいことは知らない。偶然だと思っていた。藍と桜の容姿が似通っているのは偶然か、あるいは月詠の粋狂だと。
 けれど、ほんとうに?
 月詠は本当に偶然、藍を見つけたのだろうか。
 「鵺」と同じ、緋色の眸を持つ子どもを産んだ藍を。

「雪瀬様」

 書物に目を落としたまま、思案していた雪瀬は、千鳥の呼声で我に返った。

「ごめん、何?」
「沙羅様と空蝉様がいらしています。御所望の者を見つけたそうで」
「思ったより早かったな」

 さして読み進められなかった本を閉じ、肩に羽織を引っ掛けて裏にある土間のほうへ向かう。夜も更けたこの時間は表門を閉じていたし、そうでなくても沙羅たちは裏口から現れるのが常だった。予想どおり、厨などがある土間では、縄で縛った男を転がした沙羅が「遅いです」と雪瀬を睨んだ。

「一日中駆けずり回ってようやく船の中で寝ていたこの男を捕まえてきたというのに、あなたときたら、どうやらまったく沙羅たちへの感謝が足りないようですね!」
「……もしかして、こいつがクレツの商人?」
「そうです」

 沙羅に示された男は、見慣れない黒の外套を着て、悄然と地面に転がっている。さすがに縄で縛るのも申し訳ないと思って解いてやると、雪瀬にはわからない言葉で頭を下げた。蜜色の、この国ではあまり見ない目の色をしている。こいつが漱が取引を持ちかけたクレツの商人なのだという。

「……さすがにクレツの言葉はわからないんだけど、俺」
「ああクレツ語なら、前の仕事で使ったからわかるぞ」

 土間の掃除をしていた無名が振り返る。雪瀬と沙羅は胡乱な目を向けたが、「いや、嘘じゃねえ」と首を振り、無名は何がしかをクレツ商人に話しかけた。対するクレツ商人は目を丸くしてうなずき、驚いたり、首を振ったりしている。

「わかったぞ」

 ひとしきりクレツ商人と話し終えると、無名は言った。

「いろいろ勘違いがあったそうでな、百川が接触した商人はこの男の友人で、すでにおとといの船で本国に戻ったあとらしい。嵯峨の奴が言うように、情報を流す代わりに少し金子を稼いだようだな。金子の代わりに嘘の情報を流させたのは本当らしいから、まあ、クレツ商人らの訴えもわからなくはない」
「でも、本人はもう本国に戻ったあとなんでしょ」

 ならいい、と雪瀬は薄く笑った。

「どうするんだ?」
「そちらの方に商談をしたいと持ちかけてくれない?」

 不思議そうに蜜色の眸を瞬かせる商人と話をするべく、雪瀬は腰を落とした。

 



「嵯峨卿にお伝え願いたい。葛ヶ原の橘雪瀬がまた来たと」

 今度は橘紋の入った懐刀を持ち出さずともよかった。千鳥を連れて無理やり都察院内へ押し入ると、嵯峨卿は不在で、代理の者が顔をしかめて現れる。

「百川漱が取引をしたクレツ商人を見つけました」
「なんだと?」
「本人は今朝の船で本国に帰りましたが、話は聞けました。ちなみに、取引したときの証書がこちらです。クレツ語ですが、胃薬と書いてあるのがわかりますか」
「いぐすり?」

 いぶかしげに眉根を寄せた男に、雪瀬はわらった。

「ええ、胃薬です。西のものは効くそうですよ」

 クレツ商人の印が押された証書を差し出す。長官代理はあいにくクレツ語には詳しくないようだが、生粋のクレツ商人に作らせたクレツ製のものである。詳しく改めてもらってもよかったが、嵯峨卿が不在であるのをいいことに、雪瀬はこのまま畳みかけてしまうことにした。

「不正取引なんて事実はまったくどこにもありません。百川漱の身柄は今この場で返していただきましょう」
「だが、私の一存では。担保もない上……」

 ぶつぶつと呟く男に向かって懐刀を勢いよく振りかぶる。斬られると思ったのか、ひい、と男が悲鳴を上げた。もちろん鞘は抜いておらず、雪瀬は刀を男の胸の前で止めた。鞘に刻まれた橘紋を見せて、「これでは足りませんか」と尋ねる。勢いに押された様子で男は首を振った。

「どうぞ。後日帝からのお口添えもあるでしょうから、正式に釈放令を出すとき、わたしのもとへ返してくれたらいい」
「……雪瀬様」

 身分の証となる懐刀は普通、肌身離さず持ち歩くものである。それを知る千鳥は控えめに諌めるそぶりを見せたが、雪瀬は黙殺した。

「それともうひとつ」

 襖に手をかけたところで足を止め、雪瀬は振り返った。

「嵯峨卿にお伝えください。次喧嘩を売るときは相手をよく考えろ?と」

 事情のよくわかっていない男は呆けた顔をしたが、これはもとよりそういう「喧嘩」なのである。
 雪瀬は南海事変において勝利をおさめ、その名を上げた。しかし東の辺境に住まう、所詮は経験の浅い領主である。快く思わない者は宮中の内外を問わずもちろん多い。中には帝の重用を危ぶみ、今のうちに何とかして引きずりおろしてやろうとたくらむ輩も。クレツの不正取引は、そうした企図から蒔かれた火の粉のひとつだった。――くだらないことである。実にくだらないことだった。ゆえに、雪瀬もまたくだらない手でもって火の粉を振り払うのみである。こんなところで歩みを止めるわけにはゆかない。
 ……ゆかないのだ、もう。





「いたたたたたたた! いたいいたいです、もうちょっとお手柔らかにって朧さんひゃあああああううううっ」

 壮絶な叫び声が居間から上がる。医者の朧が漱の手当てをしているらしい。桜が沸かしたお湯と清潔な布を持っていくと、ちょうど涙目になった漱が朧の手から逃げ出すところだった。

「漱さん、まだ手当は終わっておりませんって」
「もういいですって、治りましたから!!!」
「嘘おっしゃい」

 喚く漱の首根っこをつかんで、朧が座布団の上に連れ戻す。周りには手当用の薬草を調合する擂鉢やすりこ木、包帯が散らかっていた。

「ちょっとこの方をどうにかしてくださいよ、桜さん。医者のくせに、わたしを殺す気ですよ」
「ええと、元気そうでよかった……?」
「現状から感想がおおいにずれていると思います」
「ああ、そのまま動かないでくださいね」

 うなだれた漱の肩をおさえて、朧が薬をしみこませた綿を額の擦り傷に塗る。再び叫び声が上がったが、うん元気そうでよかった、と桜は胸を撫で下ろして部屋を出た。

『とりあえず、泣きました』

 桜たちの心配に反して、漱は腕と額に擦り傷をいくつか作ったくらいで都察院から戻ってきた。嵯峨卿の口ぶりだとさぞやひどい改めが行われたのでは、と案じていたのにどうして。尋ねた千鳥に対する漱の返答は飄々としたものである。

『いえ、不正取引ごときで鞭打ちにされることはないだろうと踏んでたんですけど、やっぱり狭い部屋に放り込まれるとびびるっていうんですかねえ……。逃げ回って足を滑らせて頭を打って昏倒したところ、お医者様の御世話になったといいますか、ま、ほぼそれだったんですけど』

 腕と額の擦り傷はそのときにできたもののようだ。『心配して損しました!』と千鳥は思いっきり肩をすくめたが、安堵したのは本当らしい。さっきから朧と一緒に、甲斐甲斐しく漱の世話を焼いている。
 洗った手巾を内干し用の竿に掛けると、桜は母屋へ戻った。ちょうど火を持った竹とすれ違ったので、雪瀬のことを聞くと、自室にいらっしゃいますよ、と返される。声をかけて、半開きの襖を引く。雪瀬は濡れ縁のほうにしゃがんで、野良を構っていた。桜が隣に座ると、ひゅるりと尻尾を振って綿毛色の猫が去っていく。

「よかったね、漱」

 話を向けると、雪瀬は適当な相槌を打ち、桜の膝元にもぐりこんで頭を横たえた。雪瀬がそういう風に素直に甘えるそぶりを見せるのは珍しい。

「い、いたくない?」

 膝上に乗った重みに緊張して、桜は変なことを訊いた。女としての丸みがさっぱり足りない身体なので、あまり寝心地がよくないんじゃないかと心配になったのだった。「どうして?」と案の定、相手にはすこしわらわれた。

「ほっとする。帰ってきたんだって」
「……そう」

 さして言葉を交わさないうちに、うとうとと目を細めた男のひとの髪に桜はそっと触れた。そういえば、南海で雪瀬は数日高熱を出したと千鳥が言っていた。白海領主の呪いだなんて言葉を桜は信じなかったけれど、やっぱり疲れているんだろうか。

「雪瀬?」

 潮風で傷んだ濃茶の髪に触れながら、ささめくように呼ぶ。
 寡兵で湊城を奪還したと聞いていた。あるいは白海領主を自ら捕えたとも。
 すごいことだ。とてもすごいこと。
 都に戻ってくるなり、皆が褒めたたえるのに、雪瀬は聞きたくなさそうに目をそらしてしまう。謙遜しているわけでもなく、ほんとうに嫌で嫌でたまらないことをこらえているような顔つきだった。
 へいき? と尋ねるのを桜はやめた。へいきではないなどとこのひとが言うわけがないのだから、はなから聞いても仕方のない問いである。やるせなくなって目を伏せると、自分のほうを仰ぐ濃茶の眸と目が合った。指先が頬のあたりに伸びて、けれど、かすめただけで落ちてしまう。まぎらわせるように雪瀬は桜の肩にかかった髪に指を絡めた。くるくると遊ぶように触れる。そうすると、桜が落ち着くのを知っている。だから、繰り返し触れる。

「心配した?」
「したよ」
「そう」
「すごく、したよ」

 髪に触れる手はとてもやさしい。甘い予兆を感じて桜は一度目を閉じたけれど、いつものようにそれ以上を求められることはなかった。髪だけをいとおしんで離れようとした手のひらを包み、桜はその指先に口付けた。ときどき、もどかしくなる。雪瀬はいつも、いっとう壊れやすくて、大事なものを扱うように桜に触れるので。時折とてもきれいなものを穢しているような表情をすることがあるので。そしてそういうとき、このひとは細心の注意を払って、大事に大事に、桜に触れないようにつとめるので。いやだ、と桜は思った。遠のかれてしまうのはかなしい。桜は雪瀬に触れていたいのに。
 雪瀬が武勇を誇らないのは、結局それがどうしようもなく屍の山の数にすぎないからだ。それでも、褒めたたえる声も、称賛も遮らないのは、自分の名において、手を汚した者、斃れた者たちがいるからだ。だから、沈黙する。
 昔も今も桜の望みは変わることなく。
 雪瀬に触れたい。
 その手が誰を討っても、何を奪っても、屍の山をいくつこさえたとしても、桜は雪瀬に触れていたい。触れて、いたいのだ。嗚咽が咽喉を震わせそうになったので、桜は固く目を閉じた。それでも閉じ入った眸から涙は溢れて頬を伝う。冷たい指の背が濡れた頬に触れた。ごめん、と囁く声がこめかみに触れる。何を謝られているのか、どうして謝られているのかわからなくて桜は雪瀬の手のひらをずっとずっと、宝物のように握り締めていた。