一章、新帝



 十三、


 星天の下を桜は歩いていた。
 頬を膨らませて、ひどいしかめ面だ。事実、桜はたいそう腹を立てていた。
 だって、雪瀬はどうしてこんなことが言えるんだろう、こんなひどいことが。
 そう思うと、胸が締め付けられて、こらえていた涙が滲みそうになるのだ。

「嘘ばっかり!!!」

 祝宴が開かれている殿を離れ、人気がなくなったところでついにこらえきれなくなり、追いかけてきた雪瀬を思いきりなじる。雪瀬はひどい、と思う。いくら皇祇が困らせるようなことを言うからって、何もあんな風に嘘を吐いて逃れることなんかないのに。腫らした目で睥睨すると、雪瀬は少々不本意そうに肩をすくめた。

「嘘じゃない」
「皇祇にはわたし、ちゃんとじぶんで言うつもりだった。なのに、花挿に勝手にちがうものを挿して、みんなをだまして。最初から――……?」

 つっかえつっかえまくし立ててから、ひとつ前に返されていた言葉が遅れて届き、桜は呆けた顔で雪瀬を見上げた。

「なにが?」
「何も。簪も何も、最初から最後まで嘘じゃない」
「うそじゃない」

 鸚鵡返しにして、桜はゆるゆると言葉の意味を咀嚼する。心臓が激しく打ち鳴り始めた。嘘だ、と即座に否定する。そんなことはありえない。きっと桜がまた何かを都合よく勘違いしているのだ。それか、間違った夢を見ているだけで。混乱しかけて小さく首を振ると、頬にそっと雪瀬の手のひらが差し伸べられた。桜に安堵も幸福も、何もかもを与えて奪う手だ。それでも触れられると、幼子のようにすべてを委ねたくなってしまう。
 明かりはなく、頭上で星が瞬くばかりの夏闇の中、少しだけ頬に触れていた手のひらは、やがて桜の髪に挿された簪を指で撫でた。
 
「嫌なら、返したらいい。ちゃんと自分で言えるのでしょ」

 桜は呆けたまま、雪瀬の手が離れていくのを見つめた。未だ内裏の一角ではあったが、草陰で虫の声が時折する以外は、誰も、何もいない。
 ただ、星天が広がっているだけだ。
 風が吹いて、目の前にたたずむ雪瀬の青墨色の衣裾を翻していく。とても大きなことを委ねられているのだとわかった。けれど、桜の胸を占めるのは、こんな風にずるい委ね方をされても、やっぱり青墨の衣をゆるやかに風に揺らしている雪瀬は宝物のようにうつくしいのだという、そういうことだった。
 桜は簪を引き抜いた。繊細な花の透かし細工がされたそれを手の中で温めてから、雪瀬のほうへ差し出す。それから、急にこみ上げて溢れ出しそうになるものを閉じ込めるようにぎゅっと目を瞑った。

「もういちど、さして」

 震えを必死に隠した声で告げれば、少しの間があったあと、雪瀬の手が桜の頭に回った。瞼裏に広がる薄闇の中で、そよそよと、風がずっと吹き続けている。雪瀬はほんとうに風の言祝ぎを受けているひとなのだと思った。きっと、雪瀬は否定するだろうけど。閉じた瞼の向こう、星の瞬く現と彼岸のあわいで、風が吹いている。足元の夏草を撫で、木々を揺らして、やさしく。守るように。いとしむように。初夏の雨上がりにも似たにおいのする風が吹いている。
 髪をおさえるひんやりとした指先がつと火照ったうなじをかすめた。
 薄く目を開けると、息の触れそうなほど近くに腕が回っていたことに気付く。暗闇で表情がうかがいづらい眼差しは、桜の結い髪のほうへ落ちている。

「もういなくならない?」
「……ならないよ」
「ほんとうに?」
「ならない」

 簪を挿した手が離れるのを待たず、桜は目の前のひとに腕を回していた。勢いよく飛びついたので、転びそうになったのをあたたかな腕に支えられる。そうするともう、だめだった。ずっとこらえていたものがぜんぶ溢れ出してしまったみたいに、泣き声が上がる。どうしてなんだろう。とてもうれしいことは、とてもかなしいことにも似ていて、桜はこういうとき、胸が締め付けられて、苦しくてたまらなくなるのだ。背中に回った腕がそっと桜を引き寄せる。しばらくやさしくやさしく抱きしめてから、次は身体ごと引き寄せるようにぎゅっと。桜は泣いているけれど、雪瀬はたぶんすこし笑んでいるのだろう、と思った。そういう仕草だった。
 
「つれていってくれる?」

 そのひとにだけ聞こえるように、桜は言った。

「――……果ての、その果てまで」

 乞うたわたしに、そのひとは眸をあまく細めて静かに微笑う。その眸に広がる深淵が、桜にはおおいなるものそのもののようにも、冷酷なるもののようにも、それでいていとおしいものにも思えて、泣き濡れた眸を閉じた。乞い、祈るように。





 祝宴を出て執務室のある赤の殿に戻ると、ねじ伏せていた不快感が胃の腑からこみ上げてきた。几帳に取りすがろうとしたが、叶わず、引き裂きながら倒れる。咽喉がひゅうひゅうと鳴って、抑えた手のひらに何かが飛び散ったのがわかった。鉄錆にも似たにおいの粘ついたもの。幾度か噎せて血を吐き出したあと、月詠はわずらわしげに口元を拭った。
 哄笑がほとばしりそうだった。
 あと少しなのだと、月詠は確信している。だから、焦りはなく、今となっては恐れもまたない。そもそも、この現にいったいどんな恐ろしいことがあるというのだろう。閉じた瞼の向こうには、彼女がいるのに。息の根を止めれば、再び彼女とまみえることも叶うだろうに。

「――ああ。もうじきだ」

 柱に背をもたせて目を瞑ると、音も、光も、何もない暗闇に覆われた。その安寧に身を委ねて、男はすこしだけわらう。この果てにあるものは、きっと。何もない。何もないだけの、ただの、虚無だ。
 月詠もまた独りその果てを想う。届かないものに祈るように。


【一章・了】