■讃留霊王伝説1
讃留霊王は「さるれお」と読み、香川の歴史に名高い伝説の人物です。
ここでは飯山町在住で、讃留霊王に関する様々な資料を集め、研究されている桑島和茂さんに頂いた資料を簡単にまとめてみました。各写真の説明も桑島さんのお話を元にしています。



■讃留霊王伝説とは
今は昔、西暦九十二年景行天皇の頃、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、 船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った景行天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト) にその悪魚退治を命じましたが、日本武尊は自分の息子の霊子(武殻王・タケカイコオウ) にその役目を命じるように天皇に進めます。悪魚退治を命じられた武殻王はさっそく土佐に向かいますが 、大魚は讃岐の国(香川県)へ移動していました。大魚を追いかけて讃岐にやってきた武殻王は、船を作り兵士を集め、いよいよ大魚との戦いが始まりました。しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、ついに武殻王ののった軍船は飲み込まれてしまいます。大魚の腹の中で魚の毒気にあてられてぐったりしている兵士達の中、武殻王だけは元気で、何とか大魚の腹の中から脱出する術を考えます。そして火をたくことを思い付き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂いて、ついに脱出に成功します。武殻王の乗った大魚の死骸は福江の浜(坂出市福江町)に流れ着きました。しかし兵士達は皆魚の毒気により、半死半生です。そこへかめに入ったきれいな水を持った子供があらわれ、武殻王に差し出しました。武殻王はそれを飲んでみて、その甘くておいしいことに驚きました。武殻王はその水を兵士達にも飲ます為に、その水のある場所に案内してもらいました。そして兵士達は皆その水を飲んで元気を取り戻したのでした。武殻王に水を持ってきたのは、横潮明神という神様で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました。大魚の亡骸は魚御堂をたてて供養しました。
さて景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃留霊王となります。つまり讃岐に留まる霊王という意味です。{讃留霊記の諸本(漢文)を抜粋}
 晩年、海の見える館に住むことがいやになった讃留霊王は、城山から矢を放って、海の見えない新しく館をたてる場所を探します。矢が突きたったのは、東に城山、南に象頭山の山並、西に善通寺の山々、北に飯野山のある、広々とした、讃岐平野の真ん中でした。しかし矢の突きたったところはまだかすかに海が見えていました。そこでその矢の突きたった場所から少し北によった所に新しい館を構えることにしました。その場所は古代寺院法勲寺跡と伝えられています。
 矢の突きたった石はその後は矢塚と呼ばれ、大切にお祀りされました。しかし現在は道路拡張工事の為、矢塚は讃留霊王神社境内に移されています。
 その後、讃留霊王は百二十四歳まで長生きし、その亡骸は現讃留霊王神社境内にある讃留霊王古墳におさめられたといわれています。 讃留霊王神社ではその古墳を御神体として、今も地元の人々にあがめられています。



■讃留霊王伝説パンフレット
讃留霊王神社パンフレットを公開しました!
桑島さんがご自身で内容とレイアウトを考案され作成されたものです。フルカラーでとても美しいパンフレットです。是非ご覧になってください。
ご覧になるには Adobe Acrobat Reader のダウンロードが必要です。
----------【四国新聞(11/29)の引用】----------
完成したパンフレットはそれまで伝説でしかなかった人物を、30年に及ぶ研究資料の中から歴史に基づいて簡潔に解説。ポイントとなる写真も豊富に採用し、分かりやすい内容になっています。
讃王さんパンフレット



■讃留霊王神社
(丸亀市飯山町下法軍寺西尾)
讃留霊王神社は地元の人から「さんのうさん」「さんなはん」と大変親しみをこめて呼ばれています
讃留霊王神社正面参道口
本殿裏の前方後円墳 讃留霊王が眠っているとされています。(南側から観る)
桑島さんが御自身で築造中の前方後円墳の縮小版(10分の1の縮尺)。実際の古墳の様子がよく分かります
讃留霊王が城山から放った矢がささったという矢塚
讃留霊王神社北参道。
秋祭りに御神輿がお旅所に向かうまでの渡御道です。(上部写真の左側縦の直線沿い部分)
古代寺院法勲寺の礎石。 現在の法勲寺の東方の大川の河床から昭和61年発掘保存展示。礎石配置は鐘楼 建物跡2*3の柱間。(何時の世か大川の護岸用に使われていた)



■八十場(八十蘇)の清水
(坂出市)
ところてんで有名ですね
大魚の毒気に当てられた兵士達が蘇ったという、八十場(やそば)の清水です。冷たく清い霊水であろうか。
ここ八十場では流れ出る清水の横で、「ところてん」を食べることができます。山中の冷たい空気と澄んだ水の湧き出る側で食べるところてんはとてもおいしいです。



■桑島さんのお話によると…
□讃留霊王神社の正面は東に向いています。この神社の正面から東にいくと、300メートル程の地点に「矢塚」があり、さらにいくと、讃留霊王の父、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がまつられている、大川郡白鳥町の白鳥神社があります。この神社の社伝によるとこの神社の創建の基を武殻王がつくったとあります。またさらに東に向かうと、ついには伊勢神宮にたどりつきます。伊勢神宮は天皇家の祖霊が祀られています。

□ もともとこの辺りでは、国に何事か一大事があると、讃留霊王の御墓(古墳)が「ごー-」と音をたてて地鳴りがするという言い伝えがありましたが、本居宣長の「古事記伝」にもそのような記述があります。「国内に変事あらむときはこの讃留霊王の祠、必ず鳴動になる」と記されているのです。その他讃留霊王の古墳の土をもって戦争に出かけると、死なないとか、古墳の砂を懐中にいれておくと、子を授かるとか、船酔いしないとかいわれていわれています。

□ 讃留霊王神社の本殿の最背面には立派な彫刻の扉があります。これは普通の神社にはないもので、御神体としての讃留霊王の古墳がすぐその扉の裏にあるためです。お祭りの日にはこの扉が宮司により開けられ、塚の御神体をお迎えします。そして拝殿から御簾越しにこの古墳が見えるようになるそうです。このような神社建築様式は全国的に大変珍しいものだそうです。古墳が御神体であるこの神社ならではのものです。

□象頭山と城山の三角点、丸亀城と大高見峰山、それぞれを結ぶ直線同士がちょうど交わる位置ぴったりに、この讃留霊王古墳が造られています。またそれは飯野山の頂上にある、おじょもの石からちょうど真南の方向にもあたります。詳しいことはまだ研究中だそうですが、巨石文明となんらかの関係があるかもしれないとのことです。




■古代法勲寺跡について
 讃留霊王神社のすぐ側には古代寺院法勲寺跡が広がっています。ただ一見しただけではただの田んぼなのですが、桑島さんにたずねればどこからどこまでが、そうであるかすぐに教えてもらえます。讃岐国名所図会によると、行基上人は讃留霊王が退治した大魚が流れ着いた福江浦に魚御堂をつくり、そこに寺をたてて、法勲寺としたとあり、後に弘法大師がこの法勲寺を現在の場所に移したそうです。その後法勲寺は荒廃した時代もありましたが、現在は再び法勲寺は蘇っています。井上郷玉井村には讃留霊王神社に捧げる為の、玉の井という沸き水があったそうですが、今ではすっかり枯れてしまっています。
 またおもしろいことに、この法勲寺跡内にあたる田のあぜ道を歩いていると、そこここに古代白鳳時代のものと思われる古瓦のかけらが落ちています。 田で農作業をしていると今でも瓦がたくさんでてくると、桑島さんが教えてくれました。桑島さんはその瓦を集めて讃留霊王神社境内のコンクリートの中に埋め込んで、なかなかおしゃれに利用しておられました。 法勲寺瓦については不思議な形のひしの実のなかにも少しのせてあります。



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