月刊 世界10月号 「憲法を獲得する人びと」 F徐翠珍 より抜粋

 「指紋押捺制度は.日本が植民地支配/侵略戦争を清算できていないから存在し、追放も同化もできない他者を支配管理するためにあるンや。これは、歴史を刻んだ人権侵害の制度や」。翠珍はこう確信すると、二人の息子たちには、絶対に押させたくないと思った。ことばよりも行動で伝えようと母親は思った。こうして翠珍は三八歳で初めて、指紋押捺を拒んだのである。在日中国人どしては第一号だった。徐翠珍が外登法違反容疑で大阪府警に逮捕されたのは、八六年も押し詰まった一二月十二日である。三階建ての茶色〔現在はウグイス色〕の西成労働センターは、木津川に近く、南海高野線沿いに建つ。翠珍はその三階に家族と暮らしていた。訪ねた部屋の壁には、一〇年ほど前から描くようになった花や野菜や魚の淡彩画が数点飾られ、八八年六月に亡くなった父親の写真もあった。強い意志を持つ翠珍の言動を支える繊細な性格を見たような気がした。「その朝、ここへ刑事やマスコミやらそら、ぶわ一つと来たンです。私、コーヒーいっぱい喫むから待つときイ、てゆうたンです」。こうして翠珍は、翌八八年三月〔在宅で〕起訴された。
 それからしばらくして、長男は初めての登録に際して、母にボソッと言った。「ワシ、押さへんで」。母の「拒否・逮捕・起訴」という強烈なメッセージを息子はしっかり受け止めていたのだ。

 外登法の前身は、現憲法施行前日の四七年五月二日に天皇の最後の勅令に上って制定された外国人登録令である。さらに遡ると、指紋押捺は中国東北部の撫順炭鉱の労働者管理のために一九二四年に導入され、やがて天皇を主権者とする大日本帝国は「満州国」擁立という巨大な中国侵略を貫いていくにあたって、反満抗日の民衆の抵抗を抑え、管理・支配するためにそれを制度化Lたのだった(田中宏「在日外国人新版」など)。外登法違反で起訴された翠珍らは、裁判では指紋押捺制度は違憲である、指紋押捺拒否は人権侵害を訴えるためで外登法違反での逮捕は行き過ぎなどと主張した。「起訴」した日本国が逆に正面から問われる裁判になった。八七年三月二三日、翠珍は大阪地裁の法廷で長い陳述をしたが、その中でこう述べた。「私は日本国に問わざるを得ません。偽「満州」で中国人たちが銃剣のもとに持たされた(これも常時携帯です)指紋付きの居住証と、今私たちに強要している指紋、あるいは外国人登録証と、一体どこが違うというのでしようか」。翠珍は、日本の戦争責任を問うていた。

 だが指紋押捺拒否で起訴され、全国で公判中だった翠珍ら33人は、昭和天皇の死去(八九年一月七日)に伴って出された大赦令で、「免訴」されてしまった。そこで翠珍ら11人は、天皇制と切っても切れない関係にある指紋押捺制度が天皇の恩赦によって「許される」のは、耐え難い屈辱だとして、逆に裁判史上初めての大赦拒否の民事訴訟を起こしたのである(九〇年一月)。内容的には、押捺拒否の刑事裁判での二点に加えて、「免訴」によって憲法で認められている裁判を受ける権利を奪われたと主張した。
 大阪地裁判決では逮捕は行き過ぎで違法という判断が出た。一部勝訴だった。だが、大阪高裁では逆転敗訴し、現在最高裁に係っている。

 指紋押捺制度は、在日外国人や国内の日本人支援者、さらに海外からの批判などもあって、ついに九三年には永住外国人について、九九年には非永住外国人についても全廃された。ただ、常時携帯義務や重罰規定などはまだ存続し.「管理」という政府の外国人政策の本質は継承されている。だが、異議申し立てが指紋押捺という侵略政策の中でつくられた制度を崩した事実に、翠珍も驚きを隠さない。

翠珍は、大赦拒否訴訟を起こしただけでなく、九〇年八月一四日、拒否仲間の金成日の呼びかけに応じて、常時携帯を義務付けられている外国人登録証を首相・海部俊樹(当時)宛てに内容証明郵便で送り返した。外登証の返還運動はその後少しずつ増え、最近、辛淑玉らも返送して話題になった。今日まで不携帯で検挙された人はいない。「すっきりしました」。翠珍は愉快そうだ。テコでも動きそうにない制度に「ノー」が風穴を開けつつあるから。

《注》:文中に辛淑玉さんが外登証を返送したとあるのは間違いで、現在、返上の時期をさぐっているところです。 

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