金成日国家賠償請求訴訟 

1986.12(神戸地裁へ提訴)〜1998.11(最高裁判決)

控訴審最終意見陳述

金 成日

 控訴審の結審にあたり、意見を述べたいと思います。
 今日私は、一審で警察側から出されてきた捜査資料の中に含まれていた私の外国人登録原票のコピーをもってきました。このような資料は普通、当の本人であっても見ることができないはずですが、たまたま裁判に資料として出されてきたということで、今ここで手にしているわけです。
 ここには十四歳になったばかりの坊主頭で、幼い顔をした私の写真があります。そして当時は三年ごとに外登証を更新しなければなりませんでしたので、三年おきに撮影した、少しづつ大人になっていく私の顔が並んでいます。別の欄には、やはり三年ごとにとられた私の指紋が並んでいます。


 十四歳のときの写真に記載されている日付は、昭和四十年(一九六五年)九月二五日となっています。その日、中学校二年生だった私は、ひとり学校の授業をぬけて市役所に行きました。初めての外国人登録手続をしながら私は、ただ漠然と外国人やからせんといかんのやと思うのみで、自分がなぜそういうことをしなければならないのか、その社会的意味がどういうものなのかについて、何も理解していませんでした。しかし手続きを終えての帰り道、無性に悲しい気持ちがこみあげてきて、涙を流したことを覚えています。

 私はこの当時のものを含めて、少ないながら自分の個人史をたどることのできる写真を、アルバムに収めてもっています。今日ここにいらっしゃるみなさんも、同様のものをもっておられるとおもいますが、自分の写真を自分でもち管理していることは自然であり、あたりまえのことです。しかし在日朝鮮人の場合は、役所が私たちの写真のみならず指紋も保管していて、時に警察が見たいといえば見せ、コピーがいるといえば渡すわけです。
 この登録原票には、七枚の写真が貼られています。一九六五年から八〇年までが三年おき、そして五年後の八五年のものが一枚です。私はその一九八五年の再交付申請の際、自らの良心にもとづいて、あえて法律に違反する決意をし、指紋の押捺を拒否しました。
 一枚目の写真の十四歳の頃、私はまだキム・ソンイルという本名を使っていませんでした。多くの在日同胞が今だに日本名を名乗って暮らしていますが、私の場合も中学を卒業するまで本名を名乗ることができませんでした。在日朝鮮人が好きこのんで日本名を使っているのではないことは、改めて言うまでもありませんが、日本社会の差別が今だに根深く存在していることこそ、本名を名乗ることをためらわせている原因なわけです。しかし私はその当時、朝鮮人である自分が恥しいと感じ、そのことが級友達にばれないようにと日々おびえ、朝鮮的なるものを遠ざけ、否定し、日本人に生まれてきたかったと嘆く、そんな子供でした。
 私が十四歳だった一九六五年は、日韓条約が締結された年でした。そして、その後数年間の間に外国人学校法案、出入国管理法案などが出されてきて、在日朝鮮人社会は騒然としていました。また一方では、泥沼化するベトナム戦争、七〇年安保をめぐって日本社会全体が激動している、そんな時代にあって私は、いかに生くべきかと自問を繰り返していました。

 そんなとき、私はひとつの言葉と出会いました。「Black is beautiful」、アメリカの黒人運動の中から出てきたスローガンです。自己否定から自己肯定へ。ありのままでいいんだ。
 その頃の私にとって、この言葉はとても衝撃的なものでした。法律や制度、社会的な差別、様々な障壁があることを知り、暗い気持ちになっていた私にとって、それを問題として闘いを挑む、その前に、自分が朝鮮人であることをありのままに肯定し受け入れるという内的な闘い、まず越えなければならない高いハードルがあったのです。
 その後私は、アメリカの黒人の公民権獲得をめざす非暴力不服従運動を知ります。差別と抑圧に対する良心的不服従、非暴力抵抗。人権を踏みにじられている人々にとってそれは権利であり、更に言うなら義務であるとさえいえることだ、今私はそのように考えています。
 良心にもとづいて法律に従わず、そのことの結果、自分が受ける不利益や罰を甘受する覚悟のもとに法の不当性を告発する。私の場合は外登法に定められた指紋押捺義務を拒否した、ただそれだけの不服従でした。しかしそのささやかな抵抗に対して、その後私が払うことになった代償は、けっして小さいものではありませんでした。
 一九八六年十一月五日早朝に逮捕された私は、自宅前に待機していた車の中で手錠をかけられ、早朝にもかかわらず正面玄関前にまるでVIPを迎えるがごとく制服警官が整列した尼崎北署に連行されました。
 しかし何十人もの警官を動員して逮捕したにもかかわらず、警察での取り調べは全く形式的なもので、まさにみせしめのための逮捕であったことを裏づけるものでした。ところがそれに続いておこなわれた被疑者指紋の採取は、私の予想を越えるものでした。数名の警官によって身動きが出来ないようにされたうえ、指紋採取のために開発された器具を腕に装着され、十指の指紋と両手の掌紋を採られました。
 左手ひとさし指一本の指紋拒否という抵抗に対して十指全部の強制採取という報復をうけることになったわけです。ケガの防止という口実のもとに使われた道具は、その本質において前代未聞の拷問具というべきものであり、みせしめのための不当逮捕と被疑者指紋の強制採取は、指紋拒否者に対するまさしく拷問以外の何ものでもなかったと言えます。

 一審の際に
被告側から出されてきた書面には、私の指紋押捺義務違反をさして、犯行、犯罪と呼び、その他に共犯関係、背後関係、罪証隠滅、逃亡などの言葉が出てきます。しかし、自己の良心にもとづいて指紋を押さなかったという小さな違反を理由に、大勢の警官を動員して逮捕し、とる必要もない被疑者指紋を暴力的に採取するような蛮行が、合法の名のもとに許される国家体制こそ、まさに犯罪的と呼ばれてしかるべきなのです。
 ところが一審判決は、これまでの日本政府がとってきた在日朝鮮人政策と、それにもとづいておこなわれた警察の暴挙を追認することで、「良識の府」たる責任と役割を自ら放棄しました。判決は、法律を形式的に解釈することに終始し、在日朝鮮人の歴史性、現在かかえている諸問題について全く触れませんでした。
 唯一、一審判決は在日朝鮮人の存在にふれて次のように言っています。
 「ところで、外国人の中には、原告を含む在日朝鮮人のように日本で生まれ育ち、日本社会との密着性の度合いの強い者もいるが生年月日等について戸籍簿などの形で公証する記録が存在しているわけではないから、その親との関係が不明確な場合があり」云々とあり、続けて「また外国人の場合、我が国に在留する資格の有無自体が問題となりうるという点において、日本国民との間に基本的な法的地位の相違があり、この点は右のような外国人についても同様である」としています。
 ここでは少なくとも在日朝鮮人が日本社会との密着性をもっていることを認めています。しかし、それは日本人のように戸籍簿に登録されていない存在であることを言うための枕言葉として触れられているに過ぎず、密着の歴史的由来とその意味についての言及は何もないわけです。判決に一貫して流れているもの、それは国家の側に立ち、在日朝鮮人を管理の対象としてのみ見ようとするまなざしです。しかし、国家が管理の対象として人を見る、そのまなざしとは果して在日朝鮮人をはじめ外国人にのみ向けられたものなのでしょうか。日本政府・国家は自国民である日本人に対してはどうだったのでしょうか。
 日本には戸籍という世界にも例のない、もっとも日本によって植民地支配をうけた台湾と韓国には今でもそれが残っているらしいですが、そういった制度があります。家族・親族による相互監視によって同一人性の確保をめざす、そういったシステムをもちながらも、戦後まもない時期、日本国民から指紋を採取し、戸籍制度とあわせてより完全な管理をめざそうという動きがありました。「国民指紋法」というものが検討され、法案作成までには至らなかったものの、実際に、各府県警単位では独自の指紋採取が進められたことは衆知の事実としてあります。

 日本人にとって同一人性確認、
言葉をかえて言うと身分の証明ということになると思いますが、それがどのように意識され、あるいは意識されずに暮らせているのか。そこのことを考える材料になりそうな新聞記事が、昨年の七月二五日付朝日新聞の投書欄にありましたので紹介してみようと思います。

「私だれなの」冗談が現実に

大東市 女性 46歳

先日、郵便局の窓口で、自分自身の身分を証明出来る何かを求められ、戸惑ってしまった。持参していた貯金通帳と病院の診察券を示したが「これでは駄目。次からは健康保険証か運転免許証を」とのこと。保険証はいつも手元に置いていないし、運転免許証は取得していない。いったい何が私を証明してくれるというのだろう。急にゾッとし、同時に悲しくなってしまった。
 「ここはどこ? 私はだれ?」。普段、冗談めかして使っていたこの言葉が現実となったのです。ますます自分というのは何なのだとうと考え込む羽目に陥ったのである。
 外出すれば、いつどこでいかなることが起こるかも知れず、自分を証明する何かが、それこそ本当に必要になってくるだろう。その時には、郵便局の窓口でのような悠長なことも言っていられなくなってくる。
 「所持していた免許証から身元が判明」なんてことを新聞などでよく目にしていたけれど、さあ大変。私の場合、バックの中には身分を証明するものを何一つ所持していない。これから先、どうすればいいのか。「私は私なのですが‥‥」だけでは通用しないのだ。


 私自身、この投書をした女性と同じように、郵便局で身分証明をするものを求められたことが何度もあります。私は免許証をもっていますので、大抵の場合それを見せます。しかし、在日朝鮮人の場合は外登証というものがありますので、免許証や保険証がなくてもそれで間にあうわけです。
 今、この法廷におられる日本人のみなさんのなかには免許証をもっていない方がおられると思いますが、お前は何者なのかと問われてそのとき保険証をもっていたとしても、本当にお前のものか信用できないと言われれば、それ以上の証明はできないでしょう。
 また今、私は、裁判官席に座っておられる方が、本当に私の裁判を担当しておられる裁判官であると思って陳述しておりますけれども、仮に私がそのことに疑問をもち、ひっよとして他人がなりすましているかもしれないから裁判官の同一人性を確認してほしいという要求をしたなら、いったいどういった対応をされるでしょうか。おそらくそんなとっぴな要求をした人はこれまで一人もいなかったと思いますし、仮定として成立したとしても、現実にはありえないことでしょう。
 ところが一審判決は、その現実ばなれした仮定を私に対しておこない、それを根拠に被疑者指紋の採取が必要であったと言っているのです。
 一審判決にはこう書かれています。
 本件指紋採取の当時、被疑者である原告の国籍、本籍地、住所、氏名、生年月日は既に北署の警察官に明らかになっており、又、北署の警察官は何度も原告と面談しており、押収した原告の外国人登録証明書には本人確認のための写真も貼付されていたのであるから、被疑者である原告の身元については、一応明らかになっていたというべきであること、又、原告の本籍地、氏名、生年月日等を前提とした前科照会により、原告に前科、前歴のないことは本件逮捕時には一応判明していたこと、しかし、それ以外にも、原告が全然別の偽名を使って他の犯罪を犯していたという事実があるか否かについても確認する必要があり、そのためには原告の指紋が不可欠であったことが認められる。

 私はこの判決を書いた裁判官に、大真面目に問いたいと思います。
 あなたがたは犯罪前歴がある場合裁判官になれないはずだが、十本の指や掌紋までとられて、前科・前歴のないことを証明せよと要求されたことがあるのか。もっと言うなら、あなたがあなたであることを、絶対確実な方法で証明せよと言われたらどうするのか。

 判決の中にも書かれてあった戸籍簿があったとしても、日本人外国人をとわずあらゆる人間から指紋を採取する、そこまでしない限り、同一人性の確認ということは不可能なのです。
 ここで確認すべきこと、それは先程紹介した投書の主であれ、裁判官であれ、すべての日本人が、完全なる同一人性確保のシステムがなくとも、基本的に、暮らしや仕事、社会的な信頼関係を維持できているという事実です。また戸籍制度のない世界の国々でも、「私は私です」で世の中ちゃんと回っているのです。

 身分を証明するには、住民として行政サービスをうけるのに最低限度必要な情報があればいいわけです。『戸籍うらがえ史考』という本を書かれた佐藤文明さんは、その本の中で、「絶対的同一人性を求めれば、それはもうジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた徹底した管理の世界。どこの国もそんな絶対性を追求していない。国は世界の人権に寄与するためにリスクを負うべきなのだ」と書いています。
 しかし、現在の日本政府・国家が進めようとしている方向は、残念ながら人権のためのリスクを負うという方向ではありません。日本政府は、指紋押捺拒否運動の高まりの中で、政治決着により永住権者からの指紋採取を断念しました。
 しかしそれは、従来の姿勢が変ったということではけっしてありません。むしろコンピューター化の進展や代替技術の発達によって、これまで以上の高度管理へと向っていくことは間違いないでしょう。日本人もまた管理される対象としてあること、外登法を問うということは、とりもなおさず国家が人間を管理することの意義を問い直すことにつながっていくものだと思います。

 ところで私の息子は、昨年の十二月で外登証の初回登録をする十六歳になりました。小学生のとき自分の父親が、指紋を拒否したというそれだけのことで自宅から警察に連行されるのを目のあたりにすることとなった息子は、指紋を押すべきか否かということについて思い悩み、決断を迫られることはありませんでした。たしかにそれは親である私にとってもいささかほっとすべきことでした。しかしそうなったからといって、私達在日朝鮮人が置かれている法的状況が変ったかというと、全くそのようなことはないわけです。外登法のもつ政治的性格、その機能と役割は何ひとつといってよいほど変りなく維持されていると言っていいと思います。 昨年おこったいくつかの出来事は、そのことをあらためて確認させるものでした。 核疑惑をめぐる北朝鮮たたきが続く中、北朝鮮に対する制裁問題とそれに関連して朝鮮半島有事体制への準備ということが公然と議論されはじめました。そしてそれと期をいつにして、朝鮮学校に通う学生に対する嫌がらせや暴力事件が頻発しておこりました。その一方では大阪と京都の朝鮮総連本部に対し、前例のない政治弾圧というべき強制捜査がおこなわれました。
 一方その間に、「南京大虐殺はデッチあげだ」とする永野発言、「日本は侵略したくてやったのではない」などという桜 井発言がありました。そして今年になってからも「日韓併合条約は円満に結ばれた」とする渡辺発言「侵略かどうかは考え方の問題」という島村発言など現職、元閣僚の許しがたい問題発言が続いています。それは単に一部の政治家の偏った歴史認識が、たまたま本音発言として露呈したということ では決してなく、今だにそのような考え方をもった政治家が政治の中枢を占めていること、そしてそれを支持する土壌が日本社会に広範に存在していることを示しているのではないでしょうか。
 これらの出来事は、かつて朝鮮戦争がおこる前に日本政府とGHQが団体等規正令をつくり、朝鮮人の組織を解散させ、民族学校を閉鎖させるなどの大弾圧をおこなった、そういう過去の歴史を思い起させるものでした。とりわけ有事体制ということを考えるとき、治安管理の強化ということが当然考えられているはずですし、そのとき外登法の役割が俄かにクローズアップされてくるだろうと思います。
 外登法で定められている外登証の常時携帯義務、呈示義務により私達は、いつどこで外登証の呈示を求められても拒否することができません。拒否すればそれだけで外登法違反に問われます。
 改訂外登法の施行後、常時携帯義務について、数年前に日本政府は弾力的に運用すると言いました。しかし生活圏内ではもたなくてもよいといっても、明確な基準は何も示されていません。
 たとえば自宅近くのマーケットに買い物に行くぐらいの範囲を生活圏というのか、それとも尼崎から県境を越えてこの裁判所に来る場合はどうなのか。私の息子は自宅から一時間以上も通学時間のかかる遠方の学校に通っていますが、そういう場合はどうなのでしょうか。生活圏の範囲について私達が判断を下すことはできませんし、また警察は必要と考えるならいつどんなところででも呈示を要求するでしょう。
 私は十四歳のときの最初の登録時に、申請期限を過ぎたという理由で外登法違反に問われるという体験をしました。申請期限の日に役所に行ったが写真をもっていなかったため、一日か二日、期限を過ぎて再度出向いて外登証の交付をうけました。
 ところがたったそれだけのさ細な違反を理由に、それから二年後に突然刑事の訪問をうけ、警察への出頭を命じられたわけです。今の息子と同じ高校一年生のときです。十六歳の子供をわざわざ警察に呼び出し、調書をとる必要性とはいったいなにだったのでしょうか。
 違反に対する重罰を定めて、できるだけ厳格に外登法を遵守させ、治安管理の対象として朝鮮人の動向を確実に把握し、取り締まり体制に万全を期する、というのが一貫して日本政府がとってきた政策でした。
 私の子供のときの体験、そして指紋拒否により逮捕され、強制具による被疑者指紋を採取されたことも、そのような脈略において理解されるべきものだと考えています。

 私は今、外登証をもっていません。
それはたまたま携帯していないということではなく、一九九〇年の八月に日本政府にあてて郵便で返上したからです。現在法務省で保管されているはずですが、もう五年の間、私は外登証をもたないで暮らしています。
 これまでのところ、外登証がないことで生活上の支障をきたすということはありません。もたされる側の立場でいうと、外登証は全くいらないものだということを体験しているわけです。
 外登法でいうと、とりあえず常時携帯義務違反を続けているということになりますが、九〇年の更新手続きもしていませんので、更新義務違反ということにもなります。この事実を、法務省・警察は当然知っているにもかかわらず、これまで何も言ってきていません。指紋を拒否したことで逮捕までしておきながら、今回はなぜ何も言ってこないのでしょうか。
 その理由は明らかです。外登法による管理の要である常時携帯義務の問題に火がつくきっかけになるのを恐れているからです。ことを荒だてるより当面放っておいた方が得策だと判断しているからにほかなりません。しかし、外登法が根本的に変わらない限り、不服従の抵抗がなくなることはないでしょう。
  今年は日本が戦争に敗北し、朝鮮人が植民地支配から解放されて50年目の年です。しかし、残念ながらその解放とは括弧つきでしか語ることのできないものでした。
 私達在日朝鮮人は戦後半世紀を経た今日にあっても社会的な諸差別、そして外登法、入管法という法のくびきを負わされ続けています。
 ほんの数年前まで「遠い夜明け」と言われたアパルトヘイトの国南アフリカはすでにマンデラと言う黒人大統領を生み出しましたが、名誉白人の国、日本では今も日本版アパルトヘイト=外登法・入管法体制がしっかり維持されているのです。
 人権というキーワードを軸に日本の社会を変えていく、そのための役割と責任を裁判所は負っているはずです。
 管理し支配しようとする国家の側に立つのではなく、差別され抑圧されている側に人間らしいまなざしを向けて、判決を下して頂きたいと思います。そう遠くない将来、私達にも「夜明け」が訪れることを確信しながら陳述を終わります。

                                  1995年9月12日