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昭和20年4月、私は旧制の福岡市立第一工業学校機械科1年に入学した。
この学校は何度かの移転や学制改革を経て、現在は福岡市立博多工業高等学校として市の南端、油山の麓にあるが、当時は西のはずれ百道(ももじ)の元寇防塁近くにあった。
私は当時、学校から10キロほど東の吉塚(よしづか)に住んでいたので、通学は路面を走る西鉄市内電車を利用していた。だから東のはずれから西のはずれに通学していたことになる。
私の家のすぐ近くに明光寺(みょうこうじ)という禅寺があり、この寺は当時としては珍しい鉄筋コンクリート製で頑丈な上、大規模なつくりであったことから、寺の一部を海軍が将校宿舎として借用していた。
私は小学生の頃からこの寺を遊び場にして、若い修行僧たちに遊び相手になってもらったりしていたが、海軍将校が来てからはその頻度が多くなった。
理由は海軍の乾パン欲しさである。
食料統制の配給時代だから誰しも食べ物に飢えていた。木の実はもちろん、野生の植物でも口に入るものは何でも食べた。イタドリが生で食べられると知ったのもこの頃だった。
だから、食べ盛りの少年にとって軍隊の保存食・乾パンは特上品であった。
海軍の乾パンは陸軍と違ってミルク色の、8センチ×6センチぐらいの大型で、その上バターか牛乳を含んでいたので格段においしく栄養もあった。
大空襲があった6月19日(火)も学校から帰ってすぐ明光寺に行った。
乾パンを貰い、それを食べながら西の空を見ると、夕焼けが何とも異様に赤かった。大火災の前触れだったのか、と今にして思う。
夕焼けも終わり闇が訪れた頃、「警戒警報」が発令された。
実際に敵機がやって来る前の段階で、防空壕に退避準備をという訳だが、その頃はみんな慣れっこになっていて、家族全員誰も動じない。
それまでにも実際に空襲は数回あったものの、小規模だったから警戒警報ぐらいではもう不感症になっていた。
「警戒警報」は出たものの、9時、10時になっても解除されず、本番の「空襲警報」もいっこうに出ない。吉塚のわが家から南に連なる水田の蛙の合唱がことさらやかましく聞こえるのみ。
ところが11時頃になって、これまでにない大編隊の爆音が響いて来た。
「空襲警報」が出たかどうか記憶にないが、その大編隊の壮観さにただ唖然として眺めていた。恐怖心は殆どなかった。
かなりの低空飛行で、機影も大きくはっきり見える。日本軍の通信妨害をするためだろうキラキラ光る錫のような金属片が大量に撒かれ、照明弾も投下される。
わが方は東平尾台など高台に陣取る3〜4箇所の高射砲陣地から高射砲弾が打ち上げられるが、いっこうに当たる様子はない。
わが方のサーチライトや敵の照明弾のせいでよく見える。
やがて激しい夕立のような音と共に六角柱の物体が無数に落下し、火の手が上がる。焼夷弾だろう。
「クソッタレメ!」と思わず叫んだ。
焼夷弾は先ず街を円形に囲むように落とされたようだ。
B29爆撃機編隊は波状的に来襲し、絨毯(じゅうたん)爆撃を繰り返した。
攻撃はおよそ2時間、翌20日の午前1時ぐらいまで延々と続いた。
吉塚は田園地帯に隣接しているせいか、攻撃目標の僅かに圏外だったようで、我が家周辺に直接焼夷弾の落下はなかった。
その頃、街は今のように広くなく、市街地は半分以下で、郊外に田園が広がっていた。
しかし、天を焦がす紅蓮の炎はごく間近にあり、風向きによっては我が家も類焼して不思議ではなかった。
こうして福岡部、博多部の街は焼け落ちた。
明光寺には焼け出された人々が次々に避難してきた。当然、火傷や怪我をした人も多い。ゲートル(巻脚絆)、戦闘帽姿の修行僧たちはこれらの人々の救援に徹夜で飛び回っていた。
避難民から空襲の凄まじさ、被害の規模などが徐々に伝わってくる。しかし詳細は分からない。
終戦後の資料によると、来襲したB29は221機。死者は744人、千人以上との説もある。
一夜明けた。明光寺の修行僧たちはまだ被害者救援に当たっている。
「哲ちゃん、今日は学校に行かん方がよかよ、どげんなっとうか分からんし、危なかよ!」と母はいう。
私は入学してまだ2ヶ月、真面目一方の新1年生。「うんにゃ、今日は水曜日やろ日曜じゃないけん、行かないかんと。とにかく行ってみる」
下駄履きで学校に向かった。
当時、運動靴など殆ど配給がなく、下駄が主流。手作りも多かった。
通学でいつも乗っている路面電車は当然不通。下駄で学校まで10キロほどを歩かざるを得ない。
行くほどに被害の凄惨さが判ってくる。
木造家屋は焼け落ちて灰しかない。
焼け爛れた死体が転がっている。性別すら分からない状況の遺体がそれも次々に目に入る。
木レンガを敷いた繁華街の道路はまだ燃えている。アスフアルト舗装も燃えている。溶けたアスフアルトが下駄にまつわり、歩きづらい。
玉屋デパート、松屋デパートのビルの窓からはまだ火が出ている。
石堂川、那珂川には犠牲者が無数に浮いている。
まさに地獄絵なのだが、ここまで来るともう私は感覚を失い、何も感じない。
4、5時間かかって午後遅くやっと学校にたどり着く。しかし教師もまばらで生徒も僅かしか来ていない。学校からは別段の指示もない。
それなら帰るしかない。同方向に帰る級友と連れ立って帰路につく。
帰路、大濠公園蓮池のほとりに建つ郵便保険局ビルの入口階段に遺体が数体安置されていた。
さらに行くと池の水際に母子の遺体があった。火に焼かれここまで来て息絶えたのだろう。
友達と共に母子2体を保険局まで運ぶ。
焼け爛れた遺体は持つとずるずると皮膚がはがれる。セーターが脱げる感触だが、気持ち悪いなどという感覚はすでにない。
明日はわが身かも……と思う。
あちこちで遺体を大八車に乗せ、収容する作業が行われていた。
私たちはその度に遺体収容を手伝いながら、その頃市内随一の繁華街・川端商店街まで来た。
ひときわ大きい遺体が目に付く。「川端ゼンザイの親父じゃなかろうか?」誰ともなく、つぶやく。老舗で知られたゼンザイ屋の巨体の主だったかもしれぬ。
遺体は数箇所に集められていたが、そこには僧とおぼしき人たちがいて、「この人は何処から運んできたか」を聞き取り、性別などのメモを付けていた。後で識別するためだろう。
その頃お坊さんも皆、ゲートルに戦闘帽姿で一般人と同じだったが、袈裟を架けていたので私はそう思った。
集まった遺体にはハエが群がっていた。
あれだけ天まで届く紅蓮の炎に包まれた街で、ハエだけはどうして生き残れたのか、今でも不思議でならない。
米軍機といえば他にも記憶に残る事がある。
大空襲から2ヶ月足らずで8月15日の終戦となるが、その日の午後か翌日、米軍機が飛来し、多数の物資を落下傘で投下した。蓆田(むしろだ)飛行場目がけての投下だ。
また空襲か!と思った。
蓆田飛行場は数年前に出来た陸軍飛行場で、終戦前は滑走路の拡張工事をしていた。その後、米軍・板付基地となり、朝鮮戦争では連日ここから戦闘機が飛び立っていたが、現在は福岡空港になっている。
私がいた吉塚から飛行場は数キロしか離れていない。落下傘は風に流されて吉塚にもかなりの数が落ちてきた。落下傘が運んできたのは自動車のタイヤ状の丸い物と大きな木箱の2種類だ。
時限爆弾かもしれない?あるいは毒ガスか?
まだ誰も本当に戦争が終わったとは思っていない。
遠巻きにして恐る恐る眺めている。ドーナッツ状の物からは得体の知れない臭いも漂ってくる。
1時間以上も眺めていたら、同じ町内に住む白系ロシアの混血と思われる娘さん(18歳ぐらい)がやって来た。
「この匂いはチーズです。牛乳から作った栄養価も高いおいしい食べ物です。開けて見ましょう」
自ら率先して空け、試食もし、「間違いなくチーズです」と言った。
もう1種類の箱も空けてみた。チョコレートだった。この味は皆知っている。
チーズは馴染めなかったが、食糧難の時代、食えるものなら、栄養があるならと、誰もが持ち帰り、またたく間に無くなった。
なぜこんな救援物資の投下が行われたのか?日本人当てではない。米軍捕虜に対するものだった。
蓆田飛行場拡張には多数の捕虜米兵が動員されていた。私も彼らの作業を何度か見たことがある。休憩時、麦の穂を取って食べるのも見た。我々と同じように彼らも食糧不足で飢えていたのだ。
また、彼らが野外で大便をするいわゆる『野糞』の光景も見た。簡易便所などもちろんない時代、原っぱでの作業だから当然だろう。
その捕虜収容所が近くにあり、米軍は間髪を入れず彼らに手を差し伸べたのだ。
この機敏な行動を見て、私は日本の負けを痛感した。
しかし、都市への残虐な絨毯爆撃は今でも「クソッタレメ!」と思っている。
(平成18年11月、74歳の誕生を迎え、昔を振り返って記す)
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