白頭庵放談

Whiteheadianと呼ばれる人びとがいる。
A. N. Whiteheadにしびれっぱなしの彼らの
日々の随想と放談をここに採録した。
このWhiteheadian、訳して白頭庵と称す。


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Wed, Jun. 4, 2008

価値実現のプロセス、という難題


 われわれはどこから来たのか。
 われわれは何ものか。
 われわれはどこへ行くのか。


ゴーギャンの、とても有名な作品の片隅に書き込まれた言葉である。
そうですよ……
またゴーギャンですよ。
僕はいつまでたっても、この言葉から離れられないのだ。

これは、おそらくパスカルの『パンセ』から見つけてきたのではないかと思われる、3重の問いだ。この3重の問いを知ってか知らずか、プロセス哲学は、僕らが何もので、どこから来てどこに向かおうとしているのかという問いに対して、生命と文明化の創造性という宇宙論のなかで、自然科学の知見とも合致するような答えを探ろうとした。
そこが、ホワイトヘッドの有機体の哲学に端を発するプロセス哲学の魅力だ。
有機体の哲学は、はるか古代ギリシアの思弁哲学に起源を発する形而上学的思弁の営みだ。そこに現代論理学と自然科学の知見が加わってこの哲学は成立してきた。
その根本にあるのは、僕らはこの宇宙のなかでいったい何のもなのか、どこから来て、どこへ向かおうとしているのか、という問いだ。

そもそも、この3重の問いは、僕らの実存の不透明さや不条理と、西洋の理性と啓蒙の近代が生んだ文明の危機とから発せられた問いだった。これは、いかにも近代的な問いだ。
プロセス哲学、正確にはホワイトヘッドの有機体の哲学は、この問いに対して、真摯に、真正面から取り組む。古代ギリシアから当時最先端の自然科学的・数理論理学的知見まで、あらゆる学を総動員し、そこに文学とキリスト教とインド仏教とを加えることで、ある壮大な宇宙論を提示しようとしている。
それは、営々と続いてきた探求の道だ。

僕らは、とにかく文明化された生命の世界、現代文明社会に生きている。
いや、もちろん異論や保留はあるだろうが、僕らの生きているこの世界を文明社会と呼ぶことにしたい。
そう呼びたい。
それは、生命の躍動を野放図にはじけさせるような世界ではない。習慣と制度とコモン・センスとが、ある程度の成功を積み重ねてきた社会秩序のなかで形成されてきた社会である。生命の躍動は、この文明化された社会で、制度のうちに回収され、習慣や規則といった鋳型のうちに押し込まれたわめられ、押さえ込まれつつ、そのエキスだけをうまく利用されている。

僕らは、どこかから来て、おそらくどこかへと向かおうとしている途上の存在で、しかもその途上にあるそのつど、ある一定の存在として、制度的にも個人的経験のなかでも、みずからを何ものかとして固定し、自己同一性を確保し維持しようとしている。生命と文明化の大きな流れのなかで、みずからが何ものかであることを僕らは必死に確認しようとし、僕ら自信の存在の位置とか意味とか役割を絶えず求めている。
そのとき、その大きな流れは、確定すべき自己を取りまく環境として、関係性として、構造として、かなり限定的な視座から見られることになる。
構造などというものが、どれほど恣意的で、どれほど流動的で、相対的かということを、20世紀最後の四半世紀を通じて、みんなが必死に指摘してきたが、それにも関わらず、みずからの位置を確固とした枠組みとか物語とか構造のうちに位置づけたいという要求には、相変わらず際限がなかった。

構造とか秩序とか安定した関係性とかいったもののなかで自己を位置づけるという作業は、おのずと、自己を生命の躍動としてではなく、ある意欲をうまく制御できるような秩序の一要素として形成しようとする制約というか、圧倒的な要求、条件として働く。
制度的で社会的な保守的秩序に対して、新奇で個性的でしかも社会的な貢献を約束する一要素としてみずからをうまく演出するという技能が、現代の都市化し情報化し国際化し組織化した社会では、社会参加の条件として求められえている。

それは、文明化した社会の社会人として生きるためには、多かれ少なかれ受け入れなければいけない社会参加の必須条件だ。

だけど、そこに欠けているものがある。

精神の、止むに止まれぬ衝動や、既存のものを超え出ていこうとするあの躍動が、今、こうした圧倒的な秩序と習慣とそれを保持する複雑なシステムのなかでその生き生きとした活動性を発揮するためには、ただ生命の世界で生き残り繁栄するために必要だった生命の技芸工夫より以上の何かが必要とされている。
その何かこそ、有機体の哲学としてのプロセス哲学が探求し続けるものだ。
文明社会において、僕らの生命は、より広いヴィジョンをもった理性をもって、この現状に対処しつつ、この現状を乗り越えていかなければならない。
そして、この現状を新たに作り直していく理性の創造的な活動が、今、この時代に、世界中のおそらくあらゆるところで、ひそかに、けれども切実に要求されている。
文明化された社会の中で生命が生存するために適応しなければならない既存の環境がある。しかも僕らは、その適応を行いつつ、同時に、新しさへの意欲と行動を実行に移していくための生き生きとした理性のしなやか躍動を絶えず、タイミングよく、発揮しなければならないのだ。

場合によっては、生きていくために、生命は、その環境を徹底的に、革命的に、大転回的に、変えなくてはならないだろう。あるいは、そうすることができずに、その環境を捨てて、別天地を求めて旅立つ生命の冒険もあるだろう。
いずれにせよ、それらは、既存の秩序の側から見れば、反道徳的な行為である。
しかし、そうしなければならないという、止むに止まれぬ衝動と意欲と理想への邁進が、生命には、あるのだ。
そして、そうした衝動に導きの光を与えてくれる理想を見出せなくなったとき、僕らの文明社会は停滞する。

今は、もしかしたら、そういう時代になりつつあるんじゃないかとすら、僕には思える。故郷喪失だけではない、未来に実現すべき理想も喪失した時代。

みんな、現状と将来に対する深いヴィジョンをなかなか入手できなくて暗澹とした気分のなかにいるけれども、それも、考えてみれば当然である。みんな、この、高度に、広範囲に、多層的に展開された現代の情報化社会のなかで、どこに創造的な生命の躍動がなされる場所があるのか、わからないのだ。

突破といい、脱皮といい、大転換といい、とにかく、一挙に、この文明社会のあり方が変化していくことを希求し、その実現に全身全霊で邁進するたくさんの人たちに出会ってきた。
思慮深い人もいれば、学界の切れ者的な明敏な頭脳をお持ちの方もいたし、精力的で情熱的な活動家も、実務的で行動的な実践家もいた。
けれども、彼らにはそれぞれ特有の性急さがあって、僕はいつも、その性急さに対して、ある微妙な、しかし深刻な、違和感を感じてきた。

行動とか革命とか意識の変革とかいったことで、ましてや制度改革などといったことで、この出口なしに思える状況を打破できるとは、とても思えない。
伝統の再評価とか、古き良き時代の習慣への復帰といった道が、本当によい道であるとも、残念ながら思えない。
現代社会の課題に即応した認識論や倫理学の再構築とか近代理性批判のポスト近代的な再批判とかいった議論が、何か決定的な突破口を開くとも思えない。

哲学者は、すぐに、僕らの思考や常識や習慣を形成している暗黙の了解事項、まるで空気のように社会全体に浸透している共有されたものの見方・考え方の枠組みを批判して、その変革や批判を訴えるけれども、それが哲学の唯一有効なアクチュアリティであったとも思えない。

批判と反省の哲学は、重要である。文明の危機に対して、一番基礎のところで、とても重要な役割を演じている。けれども、そこから思弁的あるいは論理的な推論や直観によって導かれた指針や新しいヴィジョンが、いつも、成功をもたらしたわけではないことも、よくわきまえておかなければならない。
哲学の提言したことなど、社会的には、実行不可能だったり、誤解されたままだったり、空理空論とあしらわれたりし続けてきたのだ。中には本当に空理空論、ユートピア的で独断的な狭い料簡のヴィジョンもたくさんあったのだから、哲学は実際の社会問題に対処するには無能だという批判の大半は当たっているのだけれど。

人間としてでなく、制度の一要因として次々に世代交代しながら制度を維持発展させていく存在として僕らの生を位置づけて、実際に人々がそのとおりに振る舞うなら、合理主義的な社会設計は文句なしで上手く機能するだろう。
だけど、人間は、そんなもんじゃない。

人間の、おそらくもっとも切実で大なる要求は、みずからの存在の意味なり、存在の根底なり、その由来や行く末なりをしっかりと意味づけ、指し示し、それを実現するための方途を知って、その道をしっかりとあゆむことだろう。
言い換えると、それぞれに固有の出来事として、各自がそれぞれの価値を実現していくプロセスを貫徹しようとすること、あるいはそこで唯一無比の価値を実現したという満足に達することが、人間存在の「意味」であり、躍動する生命の「憧れ」だろう。そのとき、大事なのは、達成された価値やその評価ではなく、価値ある新しさを目指して創造的なプロセスのただなかにある、という自己肯定観であり、途上にあることの喜びと苦悩を「生きがい」として実感することである。
いや、「生きがい」などといったが、あの躍動する生命の歓喜、爆発、しなやかな身のひるがえし、喜び、と言ったほうがずっといいだろう。

生命であるというこは、ただの無機物であること以上にしんどいことであり、同時に、歓喜や充実、満足をも感じる経験の滴だということである。
それは、みずからがある価値を実現するプロセスであるということの苦悩であり、喜びなのだ。

そして、そこにホワイトヘッドが、宇宙の詩人たる<神>の恵みなり導きなりを洞察したという気持ちも、僕には、かすかに、分かる気がする。
ひとつの生命としてこの宇宙の森羅万象を受けて存在しているという、そのことは、たかだか一個の生命であるということの私利私欲に夢中になった狭い視野の限界を超えて、何だか分からないでっかいものとして拒否権なしに僕らに送られた、恵みなのだ。

僕らは、とにかく、生まれ、生き、活動し、出合い、別れ、そして死にゆく、ひとつの生命なのだ。
そのひとつである生命が、一切と、さまざまな結びつきのうちで生起し、その結びつきのなかへと消滅して、そしてその結びつきのあり方を変えていく。
多にして一、一にして多、だ。
そうやって、この宇宙は、生命の活動によって、思いもかけない多様多彩なタペストリーを織り広げながら、絶えず、めくるめく展開をし続けていく。

そこに、ホワイトヘッドがなぜ<神>を洞察したのか、いつも、もうちょっとで分かりそうでいて、それなのに、どうしても「分かった!」と思えないもどかしさがある。

しかし、この現実の大宇宙は、この文明社会は、この僕らを取り巻く直接の利害と配慮に充ちた関係性は、僕らの生のプロセスを織り成し、僕らの生のプロセスによって逆にまた織り成されていく、大きな多様なプロセスなのだ。
ホワイトヘッドが言うように、そこには、調和よりもむしろ闘争の方が多かったかもしれない。
けれども、そこには、やはり、創造的な生命の躍動と、その躍動のなかに具体化されていく価値実現のプロセスがあったのだし、その躍動的なプロセスのうちに、混沌とした不協和ではなく、宇宙の創造的な調和の未完の響きを聴き取ることができるように思える。

既存の秩序と、その秩序では収まり切らない新しい価値への創造的な飛躍とのはざまで、僕らの生命の営みは、過去から未来へ、また未来から過去へと、揺れ動きつつ、何かかけがえのないものを実現していく。その「今」は、文字通り、今、たった一度しか生起しない出来事の比類なきプロセスである。

僕らの生きる道は、いつも、確定したように思える多様多彩なプロセスのひとつの選択的な集約であり、また、僕らが生きていくだろう道は、未確定ながらもこれまでの僕らの道によって限定されつつある、この世界へと新しい道筋を刻むことになる未踏の道なのだ。

プロセスの哲学は、そういう道を、この宇宙の森羅万象の生成消滅のプロセスと関係性のなかで論じようとする目論見である。

さて、しかし、そのプロセス哲学の直面する伝統的でしかも絶えず新しい課題は、このプロセス/道が、いつも、容易に、、水平的・地上的・人間的な視座に限定されてしまうことだ。

ホワイトヘッドは、主に3つの方向から、この人間主義的なプロセス論の限定を打破しているように思える。

一つは、自然科学からの厳密かつ独創的なアプローチによってである。
プロセスとしてこの宇宙を理解する後期のホワイトヘッド形而上学にも、中期のホワイトヘッドの科学哲学や数理論理学の巨大な研究実績が凝集されている。リアリティはプロセスである、という洞察は、実存主義も文明論も含めた人間主義的な視座に限定されるものではない。それは、物理学的な宇宙論をプロセスの宇宙論へと書き換える試みでもある。

二つ目に指摘しなくちゃならないのは、思弁哲学の2つの伝統、人間の最も深い洞察と冷徹無比な合理的な論理との両方にまたがる実在の論理として、ホワイトヘッドのプロセス論が展開されているという点だ。この宇宙の普遍的な(と思われている)論理的な構造を、ホワイトヘッドは、たとえば、ある合理的な論理体系によってある程度還元可能な説明原理によって支配されたひとつのコスミック・エポックのなかでのみ適用可能な限定的な論理だとする難解な(そして読者にとってとても不十分な)議論で相対化しようとしている。
カンタンに言えば、僕らの生きているコスミック・エポックは、現代物理学が証明しつつある数学的な論理によって記述可能な物理法則によって支配されたエポックであり、それは想像もできないぐらい昔にはじまり、やがて想像もできないほどの未来において終焉を迎え、また違った法則なり何なりの支配する宇宙へと転換していくだろう、という、SFまがいの壮大な思想だ。
その考えによれば、僕らがたとえば数学や数学的な物理学などをモデルとして想定している普遍的な実在の論理というのも、相対的なものでしかない。そして、宇宙は、その物的な論理的整合性を次第に消尽しつつ、しかも、精神的・霊的には、上昇しつつある、とホワイトヘッドは洞察する。ちょっとベルクソンぽい感じもする。

これに関連して、三つめに、ホワイトヘッドは、現実世界における人間的経験を、ただ、水平軸のプロセスとして思弁してはいなかったことを指摘しなければならない。
そこには、<神>をもプロセス論的に論じようとする議論があるのだ。
あるいは<神の国>とか<平和>をも、プロセス論として論じようとして、しかもその際に神話化・教義学化を徹底して回避するような議論があるのだ。<神の国>の千年王国的な神話的解釈を回避して、ホワイトヘッドは、終わりなき現実世界のプロセスにおけるある種の到達点を<文明化>の理想としての<平和>という言葉によって示そうとしているように思える。
この議論を、ただ人間主義的で地上的なプロセスの議論のうちだけで理解しようとしたって、土台、無理なように思える。
地上的なプロセスと交錯する、神のプロセスという議論が、その逆説や議論の論理的破綻をも覚悟の上で、展開されている。
その議論は「最終的解釈」と呼ばれている。
そこでホワイトヘッドが何を言わんとしているのか、しっかりと見つめなくちゃならないと思う。

過ぎ去る流動の世界。
未来へと飛翔する創造の世界。
調和と秩序のうちで個々の有機体とその環境との相互作用が生命の息吹きを価値実現のプロセスへと昇華させていく世界。
そんな世界にあって、この地上的で水平的なプロセスにいつも介入し、このプロセスをまさにそのつど固有のプロセスとして成立させるような、垂直的なものとの関係性、垂直的なものから出て垂直的なものへと帰趨するプロセスを、やっぱり僕らは考えなくちゃならない。

それが、あまりに神さま臭くて、宗教臭くていやだ、という御仁は、どうぞそういうものなしでこの世界において理性的で情緒的な生命であることの道を見出していただきたい。個別的にして社会的である人間の生のあり方を指し示してほしい。

ホワイトヘッドは、そういう人たちの思索を排除しているわけではない。彼の懐は深い。

せっかく深い懐のうちで思索しようとしているのだから、その一番深そうなところまで突っ込んでいきたい、と僕は思うのだ。

なぜなら、そこに、人間主義的な視座の閉塞的な感じを突破するような、すがすがしいまでに遠くへと突き抜けていく議論があるように思うからだ。
僕らはたかだか人間だ。
でも、その限界の彼方へと、いろいろな仕方で飛翔できることが、やっぱり、人間であることの面白さだと思う。
切実さだと思う。
思索の強さだと思う。
詩作の偉大さだと思う。
宗教の深さだと思う。
芸術の冒険的な力だと思う。
哲学することの魅力は、そういうところにあると思うのだ。

あ、この放談、かなり低い精神状態で書き散らしました。一応、公開するけれども、訂正、加筆、削除するかもしれません。そのあたり、自分でも分かりません。無責任のかぎりですが、ご寛恕願います。



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Mon, May. 5, 2008

枯渇?


まことに久しぶりの放談である。
長らくこのサイトが放置されていたが、その主たる原因は、僕の生活が、反復的な秩序の存続という恐るべき惰性のうちに巻き込まれていたからである。つまり、生活のなかで、新しいことが何も感じられなくなっている。

言葉が枯渇するという、哲学徒としては致命的な情態で半年以上を過ごしてきた。ひとりの人間が、語るべき言葉を見出せなくなるのは、なぜか。新しいことを感じる感性が閉じてしまったからだろう。そういう無力感のなかにいた。
読書も、勉強も、散歩も、それどころか人との会話も、そこから何の言葉も生み出さないまま、素通りした。

哲学の言葉は、新しさへのセンスが古い秩序のなかに生まれるところから生じる。これは、哲学や文学ばかりじゃない。理論科学だって同じだ。政治も、宗教も、そうだ。
語るべき言葉はいつも、新旧の世界のせめぎあうはざまから生まれる。人と人とのあいだに息づく言葉というのは、そういうものだ。古い秩序のなかから響いてくる戒めと慰めの言葉も、いまだ実現しない理想を求める冒険から生まれてくる言葉も、「保守の精神と変化の精神」のせめぎあうはざまでこそ、言葉としてのいのちを得る。

新しいことを見つけるというのは、メンタルな経験である、物的な経験じゃない、とホワイトヘッドは言っている。五感が知らせるようなこの世界の「ありのまま」の姿のうちには、新しさは見つけられない。それは、そこに有るものをここに感じるような、既存のものの物的な受容に過ぎないからだ、と言うのだ。
そこに有るものをここに現前するものとして感じる、というのが、経験の妙諦である。そのとき、メンタルな経験は、すでにそこに有るものが「今、ここ」に現前するという反復的な性格を超え出ていく。
「メンタルな経験は新しさの機関(organ of novelty)であり、彼方(beyond)への衝動である。しかもそれは常に新しさをうなずき招いて、反復的な性格をもった重々しい物的事実に生気を注ぎ込もうとするのだから、メンタルな経験はそれ自体無秩序の要因を含んでいる。」(『理性の機能』)
経験とは、客体を主体の認識のうちに反復させることではない。そこには、所与のものを超え出ていく要因が必ずある。経験には、あるいは情緒的な色合いがともない、あるいは目的への志向がともない、あるいは価値評価がともなう。ありのままを知る、ということが経験世界の普遍的な姿を明晰判明に知る、ということだとすれば、そんな知は、人間には到達不可能である。
経験にともなう目的や価値評価が、その経験を反復不可能な唯一無二のものにする。精密な観測機器による観察の場合ならなおさらである。僕らがこの世界を経験しているとき、僕らは、新しさを求めて既存のものを見つめているのだ。

新しいことを感じ、それを言葉にする、というのは、簡単に言えば、この世界のどこにも表現されていないものを見つけ、これまでの言葉では表現できなかったことを表現することだ。それだけじゃない。表現不可能と思われることが、その不分明さの器のなかでいっぱいに満ち溢れて、みずからを表現したいと激しく意欲しているときにこそ、時満ちてそれは言葉になって溢れ出る。

だから、そういう言葉が熟するには、経験のうちにまぎれこむあの要素、既存のものを超え出て彼方をめざすようなあの無秩序の要素が、言葉という秩序のうちに受肉するのを待たなければならない。習慣化され規則をもち反復されていく有限の秩序のなかに、既存の枠組みを超えた洞察を内包しつつも既存の枠組みのなかで何とか理解可能な表現をもたらさなければならない。それを僕らはただ待つのではない。表現できないものを表現しようとする悪戦苦闘のなかで、言葉に新しい息吹きが吹き込まれていくのを待つのだ。そこに思考がある。

新しい言葉を生み出し、時代を画する者、つまり天才は、新旧のはざまで、そういう悪戦苦闘を続けつつ、わずかながらも新しい言葉を見つけるのに成功する者のことだ。そして、人は、誰でも、そういうはざまの悪戦苦闘の努力に身を投じれば、天才的な言葉の話し手になる可能性をもっている。

「天才の作品は、大概、あるひとつの比類ない情動から発している。それは、あるいは表現不可能とも思われた情動でもあろうし、またみずから表現されたいと欲した情動でもある。だがこのことは、そこにいくらかの創造が入り込んでいれば、たとえいかに不完全であっても、作品すべてについていえることではないか。」(H.ベルクソン『宗教と道徳の二源泉』)

問題は、新旧のはざまに身を置くというあやうさのなかで、表現不可能なものを言葉へともたらそうと努力することが、誰にでもできるわけでない、という点だ。生涯の仕事としてこの悪戦苦闘をやり遂げられる者が、天才である。

この時代に、ベルクソンの言うような天才の情動を保持している者がいるのかどうか、僕には分からない。みんな、確かに、新しいものへと殺到している。鵜の目鷹の目で、新奇なものはないかと探し回っている。それでいて、古いものの枠から有無をいわさずはみ出していくあの情動に突き動かされているわけじゃない。こぞって新しさを求めてはいるけれど、そこからは何も創造的なものが生まれない。この衝動には、あの比類ない情動が欠如している。ベルクソンの別の言葉を借りれば、この時代には、しなやかさがない。気概のない文明社会が創造的でいられるはずがない。

放談は、天才を擬するものでは、無論、ない。とはいえ、放談するときには、気楽に、はざまの確執のうちに身を置こうという気概をもちたい。それは、気楽に、悪戦苦闘する試みだ。しなやかに悪戦苦闘する。まさに生命そのもののあり様だ。生命とは非情な環境に対するしたたかでしなやかな取っ組み合いだとホワイトヘッドも言っている。放談はそういう生命のほとばしりでありたい。どんなことでも、もっともらしく語るとか、いつでも、気兼ねなく言葉を吐き散らす、とかいったことが、言葉を語ることを仕事にする者のするべきことであるはずがない。
言葉が涸れて放談もできない、ということは、気概が萎えている、っていうことだ。

そういう閉塞状態を切り開いてくれたのは、またしても、ホワイトヘッドであり、ベルクソンであり、ジェームズであった。この点、僕に進歩はない。でも、読み方は少しちがってきたように思う。どんなふうに彼らの言葉が響いてきたのか、また、おいおい紹介していこう。




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Wed, Oct. 3, 2007

熱弁的講義放談に終わる


プロセス研究のビヂテリアン大祭が、先の週末に開かれた。そこで、それぞれに情熱のこもった熱弁に触れた。
早稲田の名誉教授遠藤先生のempty space論は、本当に素晴らしいものだったし、研究発表も質の高いものが多かった。コロキウムでは、パース、キリスト教神学、G.H.ミードの専門家がそれぞれの視座からホワイトヘッドを論じて、勉強になった。まさに成熟した熱弁であった。
わが身を振り返ると、熱弁、していないなあ。

気合を入れて、熱弁的講義をここでしようかと思う。

発泡酒とユンケル飲んで、頑張る。

熱弁というからには、弁士講壇を叩き額に青筋を立て口角泡を飛ばし髪振り乱して滴る汗が最前列の聴衆にかかる怒濤の饒舌でなければならない、という法はない。熱弁であればこそ、それは、沈黙と朗読の交替する緊張のなかで、ときに呻き、ときに講堂の虚空に呼びかけ、ときに窓外の色づく木の葉に言葉にならぬ何かを探し、聴衆の存在を忘れ、我を忘れ、それでも何かを猛烈な熱意をこめて説得的に論じるひとりしばいでなければならないだろう。

今日の放談には、あらかじめ題目が予告されていた。熱弁者白頭庵にわずかに残っている記憶では、ホワイトヘッドへの道のなかで、前回、『自然認識の諸原理』の「序文」をやると予告したはずだ。これを、熱弁するぞ。

あれ。
ないな。

「序文」が、ない。

いや、本はあるのだが、そこに、肝心の「序文」が、ない。
まずい。

『自然認識の諸原理』には、「序文」は、なかったのか。

いやいや、確かにあったぞ。
手元には、今、二冊の『自然認識の諸原理』の原書がある。図書館放出の、曝書の薬の臭いがぷんぷんするぼろぼろの原書には、ちゃーんと、載っている。

今回、読もうと思っていた『自然認識の諸原理』An Enquiry Concerning the Principles of Natural Knowledgeは、複数の版がある。長らく絶版状態だったのだが、この夏、米国のCosimo社からやっと復刻されて、新刊で入手可能になった。無論、我が家の財政的困窮などお構いなしに、注文し入手した。
間違いなく、Alfred North Whiteheadの著作である。
だが、そこには「序文」Prefaceが、ない。
扉のページにあるはずの、献辞もない。
あの、第一次大戦で戦死した次男の、墓碑銘とも読める献辞なのに、それもないのだ。

これでは、熱弁する気も失せるわな。

というわけで、今日の講義は、ここで終了する。

無理に熱弁的講義をしようとしたのがいけなかった。やはり、放談するのがよいのだ。

是非とも原書でPrefaceを読みたいという方は、何とかして、古書店でも図書館でもどこかの大学の研究室でもいいから、Cambridge University Pressから出版されたAn Enquiry Concerning the Principles of Natural Knowledgeを入手、あるいは複写するしかないと思う。
ついでに、米国Cosimo社にクレームをつけておいていただきたい。こんなことは、あってはならんのだ。
どうしてもCambridge版が見つからない方は、白頭庵の草庵まで連絡すれば、ひょっとして、コピーぐらい渡すかもしれないけど、過度の期待は決してしてはいけません。

あ。
理想社とか松籟社とかから出ていた翻訳があるな。
それを読むという人は、それなりに、読んでください。



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Wed, Sep. 5, 2007

生命へのロマンス


不連続の連続的に、ホワイトヘッドへの道を辿ろう。
そう、ホワイトヘッドへの道だ。
白頭庵はこう見えても教師をなりわいとしている。一緒に学ぼうと言ったからには、約束は忘れない。
ホワイトヘッドへの道行きを、また、辿ろう。
それは、思弁哲学の世界へと分け入っていく道である。生きている自然を思弁する哲学の道である。生成と消滅、多と一、全体と個、複雑と単純、陽と陰、呼気と吸気、反復と新しさのリズムのもろもろが織り成すめくるめくようなタペストリーが開けていき、数学的秩序と諸要素の調和を具現しながら絶えずそれらをはみだして生々しく動き行くプロセスが展開していく。呼気と吸気のリズムのなかで複雑で多様な諸要素を与件として引き受けつつ新しい秩序が達成され、その達成されたものが後続する新しさへの冒険のための地盤となっていく、秩序と変化のなかでの生成と消滅、そして客体的な不死性への移行のリズムのなかに、現実世界の生きたプロセスがある。繰り返されるパターンが、新しいトーンを導入していくところに、生命の定常的でダイナミックな営みがある。
思弁哲学が、その数学的な、論理的な、直観的な、叡知的な、神話的な、隠喩的な、伝統的な、冒険的な、また重厚にして洒脱な、あらゆる手段を尽くして探求するのは、宇宙の生きた営みのうちにある論理であり、僕らの入手した実体的な論理体系を常に超え出る彼方の領域だ。

僕らがこの現実の世界とその直中での僕ら自身を思弁するとき、その探求から生まれる哲学の言葉は、この宇宙の生命の血潮に満ちた呼気と吸気のなかから生み出された宇宙の一表現だ。だから、哲学の言葉は、もともと、生きている自然の生成と消滅、生と死、呼気と吸気から生まれる新しい生の息吹きを表現したものなんだ。それは、いかんともしがたく人間的な視座からの制約を受けているとともに、圧倒的なこの宇宙という脈動する複雑多様な与件の一表現なのだ。哲学の言葉は、呼気と吸気のなかで、血肉化される。哲学的な諸観念とその体系的な表現は、呼気と吸気のリズムのなかで、生命をもつ。つまり、哲学的な探求によってもたらされた言葉は、生きた言葉になるために、本来は、声に出して表現されるべきものだったのだ。

生きている自然を探求する思弁哲学の成果を、僕らは僕ら自身の生命の躍動と衰退のリズムの表現として、受け取ろう。そのためにも、僕らは、その論理を僕らの血潮の脈動するリズムのなかで、僕らの気息のリズムのなかで、感じとろう。

生きている自然を理解し、生命を探求するために最良の方法は、機械論的自然観に基づく近代自然科学の方法ではない。このことは前にも言ったね。生命の血潮に満ちた世界を理解しようとするなら、僕らの経験するこの世界の全体にいきなり科学的で冷徹無情なメスを入れて切り刻むことは、避けねばならない。
そんなことは、他の人がやってくれる。僕らは、ホワイトヘッドの思索を辿りながら、生命を生命として理解しようとしているのだ。

生命をあるがままに理解するには、生命への愛がなければならない。
生命の営みへの驚きがなければならない。
生命の血潮に満ちたこの宇宙への、憧れてやまぬ気持ちがなければならない。
生命への共感がなければならない。その営みの切実な興趣も悲哀も、自らに引き受けて感じ取るセンスがなければならない。
それは、生きている自然として現前するこの世界の全体を相手にした感動であり、驚嘆であり、憧憬である。
それは、要するに、ロマンスである。

「哲学は驚き(wonder)の産物である。われわれを取り巻く世界の一般的な性格づけをめざしての努力は、人間の思索のロマンである。」(『思索の諸様態』第7講「生命なき自然」)

声に出して読みたい哲学的文章である。
これは、もともと、シカゴ大学で1933年になされた講義だったのだから(当時の一般的な講義スタイルにもれず、ホワイトヘッドも、用意した原稿を読み上げながら講義を行った)、元来、声に出して読まれるべき文章なのだ。黙読するのは、ピアノソナタの譜面を目で読んでいるのと同じだ。譜面の音楽を眼前のピアノで表現してはじめて音楽が音楽となるように、ホワイトヘッドの哲学は、ときに、声に出して読んではじめて哲学になる。
さあ、声に出して読みたまえ。

読んだね?
朗々と、読んだね?
大恐慌後の混迷と危機の時代に、シカゴ大学の講堂に集まった人々を前にして教壇に立って、生きている自然を語りだそうとするときの心情で、読んだね?

じゃ、次の文章だ。ちょっと難しいぞ。

「どの時代も、専門諸科学の研究にとって基本的な出立点になると思われるような分類様態を見出そうと努めている。それぞれの後につづく時代は、前の時代の根本的な分類がうまく働かないことを発見する。・・・・・・問題が起こってくるのである。哲学とは、問題の解決を求めての探求である。」(同所)

最後の一文を読むために、それまでの文脈がある。どの時代にも、前の時代のものの見方、考え方の出立点となっていた基本的な枠組みがうまく働かなくなることがあるというのだ。そこに、様々な問題が起こってくる。時代が直面する根本的な問題が起こってくる。つまり、ものの見方、考え方の枠組みそのものが問われてくるのだ。
身体的にして精神的な存在として、歴史的にして社会的な存在として、探求し享受する存在として、この世界の全体を複雑微妙な細部に至るまで、いかに理解するか、その基本的な枠組みが、問われるのだ。
だから、(声を出して読もう)「哲学とは、問題の解決を求めての探求である」

音吐朗々と、読んだね?

では、次の文章。

「哲学は驚き(wonder)に始まる。そして、哲学的思索が最善を尽くして終わったときにも、まだ最初の驚きはそのまま留まっている。」(『思索の諸様態』第8講「生きている自然」)

大音声で読んだね?
あるいは、深い思索の底からのぼってくるような、ひそやかな、しかし遠くへと呼びかけていくような声で、読んだね?

生きている自然を探求するというのは、そういうことなのだ。ロマンスにはじまり、ロマンスに終わる。そして、ロマンスを語る言葉は、声に出して読まれるべきなのだ。「哲学は詩に似ている」(『思索の諸様態』エピローグ)のだから。

では、今日の講義を終了する。


いや、本気である。

次回は、『自然認識の諸原理』を取り上げるから、「序論」を読んでおくように。



こんなふうに講義したいな。
20分ほど遅れて教室に現れ、こういうふうに5、6分ほど話して、教室を去る、という哲学講義。

もちろん、現実にそんなことはしない。学生さんはお客様であり、痒いところに手が届くようなサービスに努めなければならない。

白頭庵は、ご覧のとおり、不完全な人間である。
たとえば、コンスタントに生活と仕事のペースを保持するということができない。偶然性と変節の生を彷徨するように生きている。
それでも、ホワイトヘッドへの道をともに辿ろうという言葉は、忘れない。次にこの道行きをともにできる日がいつになるかは分からないけれども。



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Thu, Aug. 30, 2007

直接経験と数学的論理


ホワイトヘッドの思弁哲学の出立点は、直接経験の世界、つまり、僕らが経験しているこの現実の世界だ、と僕は言ってきた。学会でも、研究会でも、居酒屋でも言い続けてきた。論文にも書いたし、放談でも熱弁でもブログでも書いた。

誰も反論してくれない。

だけど、それがホワイトヘッド哲学の出立点のすべてではない。このことは、肝に銘じておくべきだ。

明らかに、ホワイトヘッド哲学の出立点には、もう一つの意図がある。
論理への意図
それも、彼が以前にラッセルと共同作業をした頃からの信念である、数学的論理への意図が、彼の哲学を動機づけている。

ホワイトヘッドの哲学の出立点となり、その思弁の駆動力となっているのは、素朴な直接経験の世界の深みへと立ち返ろうとする洞察の深化と、そして、洗練された知の体系をめざして想像的に飛躍する数学的論理への飛翔だ。

僕らの素朴な直接経験の世界は、非常に限定されている。
たとえば、国際線の飛行機にでも乗らないかぎり、あるいは海外と電話やネットで同時的な連絡を取り合ったり衛星放送を受信したりしないかぎり、つまり、現代の技術的な力に頼らないかぎり、僕らが直接に経験するこの地球は、「地球」ではなくて、ただ端的に「大地」であり、「大洋」である。それは、実感としては、球状のものではなく、やはり、平面的だ。

太陽は大地の彼方、あるいは大洋の彼方から昇り、そして大地や大洋の彼方へと没する。
それが、素朴な直接経験の世界だろう。

一方で、僕らは、知識として、地球が球状であり、自転しつつ太陽の周りを公転しているということを知っている。

すべての惑星が太陽を焦点とする楕円軌道を描き、冥王星を除けばどの惑星もほぼ同一平面上を公転していることも知っている(そして、天文学界では、冥王星が惑星から外されそうになっているという報道にも触れている)。

だけど、僕らが直接に目にするのは、たとえば、今年の夏、さそり座の赤い星アンタレスの真上に輝いてきた異様に明るい星(たしか木星?)だったり、昨夜の見事な月蝕だったりする。この直接経験の世界では、誰も、宇宙空間に描かれる楕円軌道を見たものはいないのだ。それは、ただ、理論の中にだけ存在する。

ホワイトヘッドは、直接経験の世界に対して、ジェイムズやベルクソンに匹敵するようなたぐいまれな感性をもっていた。
そして、理論的な世界に対しては、恐らく彼らを凌ぐような鋭い感性をもっていた。それは、物理学の法則を示す数式を実感的にとらえるような感性だ。現実世界を観察し、記録し、そこに一定のパターンやリズムを、つまり物理的な法則性を見出し、それを数学的に記述し、さらに、その数式から未だ観察されていない現実世界の出来事を予測する、そういう営みのなかに働く感性である。

その二つの感性を総動員して作られたのが、有機体の哲学の宇宙論である。

その二つの感性によって究められた世界像が、有機体の哲学というかたちで表現されている。

言い換えると、その哲学体系は、素朴な直接経験の世界の深みと、緻密で洗練された数学的で理論的な世界の深みとの両方にまたがって展開されている。直接経験の与件をいかに解釈するのかという問題と、数式によって表現された物理法則をいかに解釈するのかという問題の両方にまたがる論理体系が展開されている。

僕が、昨年あたりから、自分のホワイトヘッド理解が不十分だと痛感させられたのは、この両者を架橋するようなホワイトヘッドの体系のうち、僕が見ていたのは一方の側ばかりだったと知ったからだ。

ティマイオスからケプラーやガリレオやニュートン、そして一般相対性理論から前期量子力学まで、ホワイトヘッドは、科学的・思弁的宇宙論の描く世界像を、この二つの感性で見つめていたのだ。

古典物理学の世界は、要するに、僕らが勝手な力を加えたりしなければ、この現実世界の物的要素はみんな、最短距離を進むような運動をするか、全然運動しないかのどちらかしかない、という世界だ。なぜそうなのか、つまり、物はみんな、重力とか電磁力とかを考慮しなければ、等速直線運動をする、慣性の法則にしたがっているのだけど、なぜ物はそんな運動をするのかについては、誰も答えられない。ただ、直接に経験しているこの世界を観察し、記録して、その結果を総合しながら理論体系を作ると、すべての物はそのような運動を行うと解釈するしかなかったのだ。とても大事なことがある。直接経験の世界では、等速直線運動する物を見たものは、誰もいないのだ。

ホワイトヘッドは、古典物理学が厳密な意味では成立しえなくなってきた時代、つまり20世紀の前半を生きた学者であり、そのキャリアの大半は応用数学、つまり基礎物理学に従事することによって費やされた。直接経験の世界から、数学の世界へと架橋する分野こそ、彼の真骨頂だったのだ。

直接に経験する世界では見えないものが、それでも理論的にはあると解釈せざるをえないという知の領域が、彼の専門分野だった。

直接に経験する日常の雑多な世界にいては見えない秩序が、理論的な領域においてくっきりと浮かび上がってくるということを、彼は、その生涯の大半を費やして実地に経験してきたのだ。その明晰判明な理論的で数学的な世界は、しかし、この現実世界を合理的に解釈する知の体系であり、そのような知によって強化された感性をもって再びこの現実世界の直接経験を再解釈することによって、雑多で見通しのきかない直接経験の世界に、リズムやパターンが、秩序が、具体的なかたちをとって見出される。直接経験を豊かにする知こそ、理論的な知なのだ。そして、ホワイトヘッドの思索の出立点は、まさに、そのようにして合理的な知によって強化され豊かにされた直接経験の世界だったのだ。

「具体性を置き違える誤謬」を厳しく戒める彼の哲学は、彼自身の応用数学者としてのキャリアから生み出された、二つの感性の総合だったといえる。

僕は、その二つの感性のうち、一方にばかり集中してきた。

いずれの感性も、いわば、天然のものだ。だけど、それは鍛えることができる。

読書。そして、経験。あるいは数式を理解しようとする努力。
要するに、思弁である。

ホワイトヘッドがそうした多方面にわたる鍛錬を惜しまなかったことは、伝記が明らかにしている。だから、彼の読者も、理解しようとすれば、そうした感性の鍛錬が、ある程度は必要になってくるだろう。一言でいえば、直接経験の世界の不可測の深みを究めようとする努力と、理論的な知に習熟しようとする努力だ。いずれも、果てしない道である。本当に、文字通り、果てがないのだ。その道に限界をもうけるのは、時代の制約であり、社会の制約であり、個人的な資質の制約である。僕らは、制約されながら道を歩む。だけど、その制約は、たとえばホワイトヘッドのような先達によって、大きくとりはらわれ、道は広々と、唖然とするほど広々と開け広げられている。

「哲学は詩に似ている。・・・・・・詩は韻律に、哲学は数学的パターンに結びついている。」

『思考の諸様態』の最後の言葉である。



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Tue, Jun. 26, 2007

ガラス張りの理論と思弁的理性の抱負


二ヶ月以上ひきこもって、何をしていたかと言うと、趣味は散歩と読書だと断言できるほどに、何もしていなかった。

京都北山を歩いていて、林道の路肩の弱いところをうかうかと踏み抜き、数メートル転落して、藪の中で動けずにいたりした。遠くで自動車の音がする。木々が風にざわめく。近くで鳥の声がする。転落した人間のことなど、この世界は知ったこっちゃない。いや、そんなこともない。もっと近くで、蚊が僕の血を吸っている。そのもっと近くで、これは脊椎かどこかを壊したのではないかなどと思いながら木々の梢を見上げている自分がいる。そのもっと近くで、なぜかウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の一節を思い出している自分がいる、いや、そんな自分がいるのではなく、一番近くにいるのは、その一節の言葉だったりする。「哲学は果たして、宗教的人間がもっている神的なものの意識が真であるという保証の刻印を押すことができるだろうか。・・・・・・哲学は自分の力の及ぶかぎりの領域を秘密と逆説とから取り戻すことを抱負としているのだ。」ずっと以前に、この一節をめぐって、何とか論文を書いてみようとしたことがある。その言葉が、山林の斜面にひとりで横たわって、身動きできずにいるあいだじゅう、僕の視界全体を彩るように繰り返し浮かんでくる。

あとで医者に聞いたら、そういうのは、やっぱり鬱なんだそうだ。なんでもかんでも鬱のせいになる。フツーなら、咄嗟に、思考が切り替わって、生きるための方策を探そうと脳がフル回転するはずなんだそうだ。転落して体が動かなくなってから、ぼんやりとジェイムズの言葉を考えてました、というのは、要するに、フル回転するべき脳が、ぼんやり夢想にふけっているという病んだ状態だということらしい。

無事に帰還できたのは、あまりにも煙草が吸いたくなって、身を起こしたからだった。身体的な危機を解決したのは、僕の場合、身体的な切実な欲求が、僕の夢想を中断したからだった。医者の所見は、そういう意味で、正しいのだろう。

携帯電話の時計を見たら、多分、転落してから、1時間と経っていなかった。帰路は悲惨なものだったが、幸い、少し山を下りると車の通る道があり、携帯電話が通話可能になった。京都の山でよかったと思いながら、タクシーを呼んで、煙草を一箱空にするまで待ちながら、さっきの一節は何だったのかを考えていた。たびたびタクシー会社から位置を確認する電話が入るので、考えがまとまらない。やっと来たタクシーの中では、ひたすら眠っていた。

オカルトだの神秘主義だの狂気だのといって、普段の僕らの理性は蓋をして見えないことにしている領域が、この生活世界のなかにある。蓋をしておくのがマトモなのであって、敢えてそれを取り除けたり、あるいははじめからそんな蓋のない生活をしていたりする人間は、異常だとされたりする。かく言う僕だって、誰かが酒の席などで、まじめに宗教的体験を語りだしたりしたら、共感するよりさきに、日常的な理性が蓋をして、聞かなかったことにする。

しかし、さすがに文明社会とは奥深いものであって、そういう蓋を取り除くための手続きというものが、社会生活においてもしっかりと定式化されているのだ。地元の祭りで、町内会の会員が不可避的に氏子になっている神社の神輿を担がねばならなくなる。僕はキリスト教会に通ってますからなんて言い訳は一切通用しない。それで、昨年からは子ども神輿の先導という役をおおせつかり、今年も同じ役ということで、地元の神事に参加する。

宮本武蔵ゆかりの神社の狭い狭い境内に、町内のみんなが密集して、夕暮れの薄闇のなかで神輿を倉から担ぎ出し、本殿の前に据える。そして、神主が現れると、誰もが押し黙って頭を垂れ、無言の数分を過ごす。そのあいだに、本殿の社から神輿に神様が移られるのだ。誰も顔を上げてはならず、誰も言葉を発してはならず、しわぶき一つない静寂のなかで、日常生活の時間が、祝祭の時間へと変わっていく。あの蓋というのは、こうやって取るものなのだ。リチュアルなものの意味というのは、そこにある。

みんな、神様が移ったと知っている。そして、一方では、日常的な理性がちゃんと機能していて、そんなアホな話があるか、とも思っている。しかし、蓋は外されたのだ。これは祭りだ。そこに神様がいるとみんな知っていて、しかも、そんなはずないということも百も承知で、その二つのあいだに、何の齟齬もない。神様の乗った神輿を担いで、大の男たちが半裸で町内を練り歩く。その先導をするのが子ども神輿で、さらにその先導をするのが、ジェイムズの一節に取り憑かれた僕なのだ。銭湯の前に路駐している車に追突したというので大喧嘩になったあのオッサンとこのオッサンも、掛け声を合わせて神輿を担いでいる。生意気ざかりの子どもが神輿の飾りを触ろうとすると、マジで怒る。普段、こんな勢いで近所の子どもを怒る大人がいれば、もっとマトモな世の中になるのに、と思うほど、ガツンと怒る。ダイガクのセンセーなんてのは、こういうところでは一番下っ端で、田植えを終えた農家のオッサンや地元のヤクザの方がはるかに格が高い。なんといっても、元来、彼らのための鎮守の祭りなのだから。

哲学が、自分の力の及ぶかぎりの領域を、この秘密と逆説とから取り戻すことを目ざしているのだとすれば、いまだに、哲学が取り戻した領域は微々たるものに過ぎないのかもしれない。現代日本の古都のかたすみに営まれるこの秘密と逆説から哲学がそれなりのものを取り戻すためには、それこそ宇宙論的規模での思弁が要求される。そこを手際よく宗教社会学的手法を用いて説明しようとすれば、それは、蓋の外れた世界に、きれいな透明のガラスの蓋をもう一度かぶせるようなもので、ダイガクの教室なら話はそれできれいに片付くが、農家のオッサンの一喝でガツンとやられたら粉々になってしまうだけのものに過ぎない。

普段は蓋をしているが、いざそれを開ければ、気安く触れたらガツンとやられるほど真剣に大事なものが、日常生活のなかにある。いや、かろうじて残っている。ホワイトヘッドは、直接に経験される世界には、「重要性(importance)の概念、重要性の感覚、重要性という前提」と、重要性の基礎としてのむきだしでなまの「事実の事柄(matter-of-fact)という概念」があると言っている(『思考の諸様態』第一講)。触ったらただじゃおかねえぞ、当たり前だあ、理由なんざ知りゃしねえ、ということだ。普段は蓋をしているが、それは、切実に重要で、しかも頑固な事実なのだ。重要性と事実性。その二つがいっしょくたになって、この現実世界をまさに僕らの生死の世界、出会いと別離と喪失と創造の情感に満ちた価値ある世界たらめている。

きれいな理論を求める理論的理性は、そういう直接経験の世界を説明しようとして、わざわざ蓋を外しておいて、そこにお手製のきれいな理論というガラス製の蓋をして、それで、見事に説明したようにみせかけている。確かに、その手法は鮮やかである。現実の世界はそうやって理論的に説明され、啓蒙の光が隅々まで行き届くことになる。そして、そういう理論的理性が浸透していった啓蒙化された世界は、やがて、ガラスの蓋ばかりでできた世界になって、触れられたらガツンと怒るほどの重要性の感覚もなまの事実性の感覚も失っていく。現実の世界、生命の躍動する生死の世界の切実さが感じられなくなっていく。

そんなガラス張りの世界のなかで、なぜ人を殺しちゃいけないの(いいじゃん)、といった問いが問われ、誰も咄嗟に答えられなかったと言って思想家や知識人たちがこぞって議論をはじめる。普段は触れないように蓋をしておくのが、日常世界のあり方だったのだが、無感覚な理性は、その蓋を外してみようとする。そして、いざ外したあとでは、その秘密と逆説を自らの領域のうちに取り戻そうとするような思弁的で冒険的な理性に欠ける講壇的理性は、外した蓋をガラス張りの理論に代えて、それで全部が明晰に説明できたと思い込んでいる。山道で足を踏み外しただけで、神輿の飾りにふざけて触ろうとしただけで、子どもがあっさりと人を殺しただけで、そのガラスは粉々になる。だから、みんな、さらに壊れにくい強化ガラスの精製に励むけれど、理性の本来の抱負はそんなところにあるのではない。どれだけ強力な社会理論も、ガラス製の擬似的な蓋なのだ。

現実世界の生死の切実さを感じられなくなった啓蒙化された文明社会に、今、もっとも必要なのは、生々しい実在のどろどろした部分、その秘密や逆説をも孕んだ脈動する生命の息吹きに、それを表現する論理を与えることだ。そのとき大事なのは、その不可触の部分が僕らの現実世界のなかでかけがえのない切実さと頑固な事実性をもって息づいていると感じる感性をもって、言葉では語れない〈それ〉が自己を表現する形式としての論理を見出すことだ。制度理論や社会理論などといった理論と、実在の自己表現の形式としての論理とは違う。理論は、見えなかったもの、蓋をされてきたものを可視的にするガラス製の蓋だ。論理は、蓋をされて封じられてきた秘密や逆説に、それ自身を表現する形式を与えることで、暴力的な力を少しずつ説得的な作用者へと変えていく。価値自由な科学的な理論と、思弁哲学の論理とは、違うのだ。

蓋もガラスも取り払ったところに現れるどろどろした秘密と逆説の重要性と事実性の直中に入っていくというのは、文字通り、観念の冒険だ。ボコボコにやられる。異邦人のごとく強烈に排除しようという現実世界の力に曝される。今どき、宗教とか信仰なんてたわごとだ、と言っていると、そのたわごとが現実の力をもって迫ってくる世界には入れないし、入ったら死をもって報いられかねない。だから、冒険する思弁的理性は、そこに、重要性と事実性という切実さの感覚をもって、決死の覚悟で分け入っていく。決死の冒険のなかでいつの日か、そこに、実在の自己表現の形式としての論理を何とか見出し、自分の領域を何とか取り戻そうと努めるのが、センス・オブ・ワンダーに突き動かされて思弁する冒険的理性の抱負である。

マックス・ウェーバーほどの人が、なぜ、鬱に苦しんだのか、独断的・偏見的に、分かる気がする。彼こそ、神学的思弁とかリチュアルな手続きとかとはちがったやり方で、つまり、理論という仕方で、あの蓋を外してみた人だったのだ。彼の前にはニーチェがいて、西欧世界の禁断の蓋をある意味で粉々にして、中身を暴き出していた。だけど、ウェーバーは、ニーチェのもっていたハンマーはもたずに、開けられた蓋のなかの、粉砕された「大事なもの」を見た。そのひとつひとつが、どうやってあの蓋を背面から支え、その蓋の上に築かれた近代社会を底のところで支えていたかを、ウェーバーは見た。自らの「重要性」と「事実性」をもばらばらに粉砕された近代世界のなかで、価値自由な理論によって、その重要で事実だった前近代的なものにガラスの蓋をした。そして、それが、明晰で透徹したガラスの理論であればあるほど、彼自身が、ボコボコにうちのめされたのだ。そして彼は、オリエントや東洋の、あるいは古代の、まだ近代化によって破壊されることのなかった社会に残る不可触のものを封じた蓋を大事に大事にそっと外して、自ら精製したガラスの理論が、クリスタルの硬度をもってそれらをも覆うことを確認しつつ、さらに鬱になっていったのだと思う。蓋が蓋としてちゃんと機能しているところでは、理論は、それを上手く説明して、それで済む。だけど、振り返って、近代化した自分たちの世界では、普段は明けちゃいけない蓋が、至るところで取り払われて、中はむちゃくちゃに荒らされながら、かろうじて重要性と事実性とを保ちつつも息も絶え絶えである。それが、近代西欧世界だった。

ウェーバーがかろうじて見出したのは、蓋を外して、そこに秘められていたものを白日のもとに曝け出したとすれば、社会的秩序の側でなんとか破壊されずに残されているのは「エートス」でしかなかったということだった。神秘も逆説も、粉々にされて、残ったのはそれだけだった。それなら、理論でガラス張りにできる。算盤で計算できる。

ホワイトヘッドは何と言っているか。「力から説得へ」と文明社会は前進してきた、と、この観念の冒険者は言う。神秘主義的・オカルト的・狂気的なものをも封じ込めている文明社会の蓋を取る、という点で、ホワイトヘッドはジェイムズやニーチェやウェーバーと変わらない。そのとき、ホワイトヘッドはウェーバーのように、無残に破壊されたものをそこに見て、前近代的なものへと溯ったりはしなかったし、ジェイムズのようにそこに知性を超えた真実を見て情緒的な理解に再び目覚めるよう呼びかけたりもしなかった。ニーチェのように、ハンマーをもって蓋も中身も破壊し、いっさいを解放しようとしたのでもなかった。蓋を外したとき、ホワイトヘッドはジェイムズのように、そこに生きた重要性と事実性を見出し、しかも、その神秘と逆説を自然科学に匹敵する鋼鉄の論理によって表現しようとしたのだ。そこに、論理では語りえないものを論理によって表現するという、思弁的理性の課題を見出したのである。

なぜそんな危険なことを敢えてしたのか。ホワイトヘッドは、荒ぶる力に代えて、自己を表現する論理を不可触の〈それ〉に与えることで、説得的に文明社会に働きかける作用者として、僕らが蓋をしていたその中身を現代社会にもう一度復権させようとしている。ガツンとやり、ボコボコにする有無を言わせない荒々しい力としてではなく、みずからの神秘と逆説を論理的な自覚でもって表現しうるような形式をそこに与えようとしたのだ。そこには、「重要性」と「事実性」の感覚がある。そのような感覚に根ざし、それを自らの宇宙論的論理として抱懐した社会を目指すことこそが、文明化であるとホワイトヘッドは確信していた。

有機体の哲学が目ざすのは、決してガラス張りの理論的明晰さではない。有無を言わせぬ力として作用してきて、それゆえに普段は蓋をされていたものに、論理的形式を与えることで、それを説得的で対話的な、文明社会の作用者にしようとしているのだ。そのためには、新しい宇宙論的な視座が必要だった。ホワイトヘッドが生涯をかけて取り組んだのは、そんな宇宙論であり、文明論だった。生命の躍動する宇宙論である。荒ぶる魂が説得的な作用者に転換するための論理的形式と想像的飛躍を追究した思弁である。

ということで、今回、きわめて切れ味は悪いが、三ヶ月近くのひきこもり的沈黙をへて、放談復活。

ホワイトヘッドへの道からも転落したが、また戻りたいと思う。



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Sun, Apr. 1, 2007

脈動するパターン


前回の放談は、いきなり形而上学的世界へと飛躍的に転換してしまったけれど、その前から辿りはじめたホワイトヘッドへの道を踏み外したわけじゃない。今日は、またその道に戻ろうと思う。

ホワイトヘッド連峰への登山口として、僕らは、「生きている自然」というメタファーを選んだ。自然は生きている。自然は、その細部に至るまで幾層にも展開されていく生命の大きな大きな活動なのだ。それは、小林道憲さんが言うように、新しい生命論的宇宙観へのパラダイム転換の言挙である。

あ、また転換だね。

でも、マントラのように「生きている自然」と唱えているばかりじゃ、瞑想はできても、哲学にはならない。いきなり飛躍的に転換しても、近代世界の常識はついてこない。近代科学の機械論的世界図式と整合性をもちつつ、「生きている自然」を語るような、忍耐強くて説得的な論理的思考が必要だ。ホワイトヘッドが粘り強く取り組んだのは、そんな形而上学的宇宙論の試みだ。

はじめのうちは、ホワイトヘッドも「生きている自然」というメタファーをいきなり使って生命の血潮に満ちた自然を論じていたわけではない。第一次世界大戦直後の中期ホワイトヘッド自然哲学では、「自然は生命を含んでいる(nature includes life)」(PNK.195: 松籟社著作集第3巻193)という、比較的穏やかな表現が採られていた。確かに、この自然のうちに生物を見出すことができるという自然理解は、僕らの近代的常識にも適っている。しかし、この時点ですでに、ホワイトヘッドは、僕らの常識が「生物」と理解している範疇を超えて、「生きている客体(living objects)」という概念をこの宇宙の出来事全般にまで拡大させるような論理を展開している。それが、生命のリズム論である。

生命のリズム論、というのは、ホワイトヘッド自身が十分に展開したとは言えない論理だ。というか、明示的にはほとんど展開されていない。中期自然哲学の最初の本『自然認識の諸原理』のなかで、一番最後に、唐突にリズム論があらわれ、しかもほんの数ページで終わっている。むしろ、リズム論は、僕らの知性が情緒的な源泉から発して一般的諸観念の論理体系へと育っていくプロセスを論じた「教育論」のなかで踏み込んで論じられている。ロマンス、精緻化、一般化のリズムだ。でも、今、僕らがホワイトヘッドへの道行きのなかでまず見ておきたいのは、教育のリズム論に応用される以前の、生命のリズム論だ。そもそも生命のリズム論が根底にあってこそ、そこから教育のリズム論も論じ起こされるはずなのだ。教育論だって、人格的な生命の成長と自己実現のプロセスを論じるという意味では、より大きな生命論のなかの一分野だといえるじゃないか。

生命のリズム論において、ホワイトヘッドは、まず、「生きている客体」という概念をこの宇宙全体まで拡大させる。しかし、宇宙全体が生きていると理解するような視座を得るには、「生きている客体」とか「生物」という表現はあまりに不十分で、誤解を招くとホワイトヘッドは注意している。僕らの主体的認識とは独立に、この宇宙に認識の対象となるような客体があって、その客体的対象が生きていると考えるのでは、生命も自然も理解できない。僕らは思考の方向を逆転させて、認識の対象となっている世界のうちに生きている個物が見出されると理解するのではなく、この宇宙全体のプロセスが生きるという活動性なんだと理解すべきであり、その生命の活動性が個物において個別的かつ具体的な形態で表現されていると理解するべきだろう。「われわれはより正確に、『生命を表現している諸客体』(objects expressing life)あるいは『生命を担っている諸客体』(life-bearing objects)と言うべきである。つまり、個々の生命は、単なる客体を超えて、存在する。」(PNK.195-6: 松籟社第3巻193-4、太字は原文でイタリック)。

この生命理解は、まだ後期の形而上学的宇宙論を展開する以前のものであるだけに、特に注目に値する。ものが生きているのではなく、ものを超えた生命のアクチュアルな活動があって、それがもののうちに表現されている。この拡大された生命理解こそ、プロセス論の登山口である。言葉を変えて言えば、多くの生物学者や物理学者や化学者が期待しているように物理化学的な認識を突き詰めていった先に生きたものが見えてくるのではなく、むしろ、ベルクソンが言ったように、持続する精神の集中と緊張を弛緩させて生命の活動を後退させていった先に物理化学的な物質の世界が開けていくのである。知性はそうした物質の世界を認識し思考するようにできているけれど、ホワイトヘッドが言いたかったのは、生命を理解するには、そうした物質的な対象を超えて、この宇宙に満ちているリズムを自己自身のうちに感じることが必要だということだ。

「リズムがあるところにはどこでも生命がある。このことは、その類比が十分密になされるときにのみ、われわれに知覚されうるものとなる。それゆえ、リズムは自然のうちに含まれていると言うことができるという意味で、リズムは生命である。」(PNK.197: 松籟社第3巻195)

生命は、客観的な認識対象を超えて、この宇宙のどこにでもリズムとして存在する。大小強弱さまざまなリズムが生じては消え、それらは互いに響きあい引き込みあい干渉しあってひとつの大きな交響詩を奏でていく。そのつどの交響的な調和は、谺を残しつつ消え去り、新たに生じるリズムが次の調和の主導音や倍音を奏でる。それが自然であり、この全宇宙なのだ。リズムは生命であり、宇宙は生命に満ちている。そこに調和と創造性が実現されていく。

「生きている自然」という表現は近代的な自然理解を超え出て新しい生命論的自然観へと僕らの視座を転換させていくメタファーだと僕は言ったが、ホワイトヘッドはここでは、リズムが生命だというのは、十分密になされた「類比」(analogies)において明らかになると言っている。僕らの生命理解を拡大していく思考のダイナミズムをここでホワイトヘッドは「類比」と言っているが、のちには、想像的飛躍により積極的に訴える言葉として「メタファー」という語を使用するようになる。とにかく、「リズム」とは、生命の脈動だといっていい。その脈動がこの僕らの個別的な身体だけでなく、この宇宙全体に満ちているという認識の拡大が、類比であり、メタファー的な理解なのだ。

のちに、『理性の機能』のなかで、ホワイトヘッドはほんの少し、生命のリズム論を論述している。この本は、あまりにも短いので、日本語著作集では『象徴作用』と抱き合わせで刊行されていて、訳文もイマイチだけど、内容はスゴイ。「理性」をキーワードに、ベルクソンの『創造的進化』に応えるような進化論哲学を展開しているのだ。そのなかに、生命リズム論が登場する。こんな具合だ。

「〈リズムのあり方〉(Way of Rhythm)は、すべての生命、そして実際にはすべての物的存在に浸透している。」(FR 21: 松籟社第8巻24)

一切の物的存在に、生命のリズムが浸透している。この宇宙の一切の事物に、反復や同じものへの回帰と同時に、揺り動き揺り戻りつつ新しいパターンを実現していくという生命の躍動がみなぎっている。「生きている自然」は、同一の秩序に回帰しつつも、同一性に回収されえない生命の躍動に満ちた宇宙であり、リズミックに揺れながら前進していく創造的な世界である。 「生きている自然」のリズム論は、絶えず新しさを作り出しながら、作り出されたもののうちに留まることなく次の創造へと移り行くという、世界の流動性・前進性と、そのような流動のなかで一定の秩序を維持する反復・回帰とのコントラストを示している。

プロセス神学者のマクフェイグは、「身体」(body)という語を宇宙全般にまで拡大して理解している。僕らの身体が生きている有機体の一形態であるのと類比的に、相互関係と相互依存の全体からなる全宇宙のプロセスも、生きている有機体の生命活動と見なされるのだ。マクフェイグは、ホワイトヘッドの忠実な解釈者ではないが、自然の全体を生きている大きな身体と捉える拡大された生命理解をもって、次のように述べている。

「身体(body)のもっとも正確な意味は、生きている有機体(living organism)ということであり、この用語は、どのような個物に対しても類比的に用いられうる。・・・・・・自然(nature)とは、すべてのもの(matter)のすべての状態における総計であり、宇宙を形成する種々の固体、気体、液体であると同時に、宇宙のプロセスを統制する法則をも含む」(McFague, Sallie, The Body of God: An Echological Theology, Minneapolis: Fortress Press, 1993, p.215)


最後の「法則」という語にはひっかかりを感じるが、それは措くとして、自然という宇宙全体のプロセスが類比的に大きな身体、生きている有機体と理解されている点は、ホワイトヘッドの有機体の哲学に通じる。この宇宙は、生命の脈動する血潮に満ちている。それが、生きている自然の生成と消滅のプロセスなのだ。コリングウッドは、ホワイトヘッドの有機体の哲学の核心部分を次のように説明している。

「ホワイトヘッドが、実在は有機体である(reality is organism)と絶えず主張するとき、彼は全実在を生物学的条件に帰そうと考えていたわけではない。ただ、すべて存在する事物は、その本質が構成要素にのみ依拠するのではなくて、その要素がそこにおいて組織されるようなパターンないしは構造に依拠しているという事実に照らして、生きている有機体の類比として理解できるということを言おうとしているのだ。」(コリングウッド『自然の概念』平林康之・大沼忠弘訳、みすず書房、257ページ(一部改訳))

「パターン」と言われているのは、生命のリズムが描き出す同形性(sameness)と新しさ(novelty)のコントラストのなかで、反復されていくリズムの「型」のことだ。朝になると開花し、夜になると花弁を閉じるアサガオのうちには、日々、ひとつのパターンが反復されている。しかし、昨日咲いていたアサガオと今朝ふたたび開花したアサガオのあいだには、細部の全体にわたって違いがある。去年の桜と今年の桜のあいだには、反復される同形性とともに絶えず刷新される新しさがある。生命は常に自己を同形に保持すると同時に、常に新しい自己を実現していく。自然の全体が、そのような同形性と新しさのコントラストのうちにあり、自然は同じものの反復という傾向を示すとともに、その細部の一切が常に新しさを実現するという傾向をも示す。そこに、パターンにおいて同形性を反復しつつ常に新しさを生み出していくという生命のリズムがある。いわば宇宙のホメオスタシスである。生命の宇宙的なリズムが、個々の有機体において表現されているのだ。リズムとパターンについて、ホワイトヘッドは次のように言っていた。

「リズムはパターンを含み、その範囲では常に自己同一的である。しかし、リズムは単なるパターンではありえない。・・・・・・リズムの本質は同形性と新しさの融合(the fusion of sameness and novelty)にある。したがって、全体はパターンの本質的な統一性をけっして失わないが、諸部分はその細部の新しさから生じるコントラストを表す。」(PNK.198: 松籟社第3巻196)

リズムは、反復的であるという意味では同形のものを産み出す傾向をもつが、同時に、予測を超えて新しさを産み出すという意味では、創造的なプロセスでもある。つまり、同じ秩序を反復する結晶のような静的で閉じたパターンの世界は、生命の世界ではない。定着した秩序がパターンとして反復されながら、その反復のなかで細部のいっさいが新しさを実現していくところに、生命の活動的な世界が開ける。反復されるパターンのなかで絶えず新たなトーンを産み出す創造性こそ、生命の本質なのだ。生命とは、既存の秩序のひたすらな反復を超えて新しい自己を実現していくプロセスである。だから、コリングウッドも、実在が有機体だと言ったすぐあとに、「ホワイトヘッドにとっては、自然は有機体であるばかりか、プロセスでもある」(同書、258ページ)と言い足す。でも、僕らは、少し言い回しを変えて、自然は有機体であるがゆえに、プロセスであると言うべきだろう。リアリティとは、新しい出来事が生成し、その個体性を獲得し、そして消滅して次の出来事の生成へと移行していくプロセスである。プロセスのなかで生起する出来事は個体性を獲得していくプロセスであるとはいえ、それは他と孤立した事象ではない。

一切が、一切と関わりあって、生起してくる。そういう「関係性の具体的事実」を論じたのが、ホワイトヘッドの有機体の哲学だ。この関わりは、空間的・構造的なパターンばかりではなく、むしろ、全体から個へ、個から全体へとリズミックに躍動する前進的で創造的な脈動である。

現実世界はプロセスであり、プロセスとは、おのおのの個別性の確立をめざして生起してくるアクチュアルなものたちの生成なのだ。プロセス論には、公的な全体と私的な個との「二重の連関(dual reference)」(PR.289)という観点が必要である。この二重性は、繰り返すが、静的な構造ではなく、同じパターンの反復のなかで細部の一切が新しさを実現していく脈動であり「リズム」である。ホワイトヘッドの言葉をまた引いておこう。大事な箇所だ。

「創造のプロセスはリズミックである。それは、多くの事物の公共性から個物的私性へと揺れ、私的個物から客体化された個物の公共性へと揺れ戻る。」(PR.151)

全体と個、一般者と個物、公と私との関係は、こうして、反復のなかに新しさを実現していくリズミックな脈動である。この「揺れ」は、円環を描いて同一物に回帰するような単なる反復的なパターンの再帰ではなく、また単にリニアに進むような機械的な運動でもない。それは、多を一へと統合するという仕方で複線的・複合的であり、多が一によって増し加えられるという仕方で、創造的・前進的である。すなわち、全体と個との関係性は、揺れ動き、揺れ戻りながら、螺旋的にリズミックに脈動しつつ創造的に前進していくものなのだ。

生命のリズムは、同じものの反復のなかで、コントラストを生み出し、新しさを実現していく。リズムの振幅のひとつひとつが、生命の鼓動であり呼吸であり、その一周期のサイクルが、次のサイクルのための反復的なパターンと新しさのための与件を用意する。

「〈リズムのあり方〉においては、一周期の経験が、一定の方法のうちで得られるような決定的な系列をなす諸コントラストを形成しつつ、そのサイクルの終わりがいまひとつのそうしたサイクルの始まりにとって固有の先行段階であるように、そこでコード化される。」(FR 21)

ひゃー、ホワイトヘッドはすごい。あまりに凝縮された表現なので、もうそのまま読んで、受けいれて、そこから考えていくしかない。

さて、ここからが、いよいよ本論なのだが、なにしろ新学期。

もうだめ。時間が足りない。やらなきゃならないことが多すぎる。世界は、世界自身が止めることのできない運動に巻き込まれている。僕も、僕自身が止めることのできない諸事雑務に巻き込まれている。いやいや、それもこれもみんな、大事なことなんですよね、分かってますよ。思弁哲学の散策なんぞ、この時期には、しちゃいけないんですよね、分かってますよ。しくしく。

今日は、ここまで。ホワイトヘッドへの道、まだまだ続きます。



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Tue, Mar. 6, 2007

形而上学的世界転換


ときどき、僕らの生活していた平凡な時空が、突然に、形而上学的世界に転換してしまうことがある。
形而上学的世界への転換?
それは、突然に、僕らを見舞う。気がつけば、僕らは、うんざりするほどに馴染んだいつもの生活世界とは一切が違って見える形而上学的な世界にいる。

いくら放談だからって、こんな話し方はひどい。でも、僕には、言葉にして表現したい、ある根源的な経験がある。それは、転換とか、超越とか、開けとか、あるいは天啓とか、そんなふうにしか呼べないような経験なのだ。その経験が、僕を、いつも、哲学的な思弁へと誘うのだし、哲学するという不思議な作業を始動させる。それは、僕の考究の出立点になっている経験なのだ。だから、僕は、それを言葉にして表現したいと、時折、強く、思う。
うまく出来るかどうか分からないけれど、順を追って話をしよう。

形而上学的世界への転換は、気づいたら起こっている。
それは、バックハウスの弾くベートーベンのピアノ・ソナタを聴いているとき、夕食後しばらくして、夜の京都の東山沿いの道を散歩しているとき、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいるうちに僕の想念が活字を離れてひとり勝手にさまよい出しているようなとき、ムーミンの絵柄のアラビアのマグカップで一杯のコーヒーを飲みながら、煙草を吸い終えて消す直前に目を閉じて瞑目する一瞬。そして、全身に汗をにじませながら、ひとりの愛しい人のために痛みつつ祈っているとき。そんなときに、その転換というか開けというか、それは起こる。
僕は気づいたら、形而上学的世界にいる。現実の世界には、何の破綻も破局もなく、目に見える光景の一切は厳密に、それまでとまったく変わらない普段の事物の連なりだ。だけど、世界は、変容してしまっている。
そういう経験を、順を追って分かりやすく説明するのは難しい。でも、たとえば哲学者の仕事というのは、理路整然と明晰に説明することじゃないだろうか。ブルー・アイズ・ブルーズ・シンガーなら、その経験とそれを引き起こした引き金となった人や本や音楽や景色を歌って、You are my soul and my inspiration! と叫べばいい。だけど、僕はブルーズ・シンガーではない。

形而上学的世界への転換?

ベルクソンが、実にうまく、物質的なこの世界に、ひとつの知性的な生命として生きていることと、そんな知性的生命が遭遇する困難と障害とを語っている。彼は、味わいのある、しなやかで、幾重にも奥行きのある文体で、知性的生命がこの世界で遭遇する障害について、語ってくれる。
あとで、そのなかから一節を引用しよう。
まず、最初に覚えておきたいのは、僕ら自身が「今、ここ」にいるということのうちに、生命が知性的な線に沿って進化してきたという悠久の歴史が息づいているということだ。生命であるということは、大きな大きな流れのひとつであるということ、この宇宙に満ちる勢いのひとつ、この宇宙というプロセスのひとつであるということだ。その流れは幾つもの支流に分かれつつ、そのひとつの流れが、知性的生命の出現という歴史的出来事となり、そして、「今、ここ」の僕らのところまで届いているのだ。この今の僕ら自身が、ひとりひとりみんな、生命の躍動する大きな流れの最前線なのだ。
その知性的生命の躍動する流れを阻み、制約し、条件づける障害がある。それが、物質だ。僕らの生きているこの自然の世界が物質的であること、僕ら自身が身体的であることが、知性的生命の躍動を阻む障害となっている。躍動する生命のはじけ散り突き進んでいく諸傾向は、物質を用いて、あるかたちを、ひとつの形式を、一連の有機的な組織を、形成することによって、それ自身をこの現実の世界に実現する。僕らが身体的な存在であるということは、知性の線に沿って邁進してきた生命の大潮流の一筋が、その最先端のところで物質に阻まれて、物質によって構成されたひとつのかたちをとってそこに収まっていくということなのだ。
ベルクソンは、ある箇所で、宇宙を貫流するこの生命の巨大な流れと物質との対比を、「意識の流れ」という語によって説明している。

あたかも、或る大きな意識の流れが、物質の中に浸透し、あらゆる意識がそうであるように、相互に透入しあう潜勢力の巨大な多様性を担っているかのごとくである。この流れは、物質を引き込んで有機的組織にまで導いたが、その流れの運動は物質によって無限に遅らせられながら、無限に分岐された。(『創造的進化』第二章「生命進化の分岐した諸方向」「生命と意識」)

ここでベルクソンは、「生命を意識そのものに、、あるいは何か意識に類似したものに、結びつけるという考え」(同所)に立って、その「大きな流れ」「物質」にぶつかり物質に浸透しながら多様に分岐しつつ、物質を有機的組織へと形成していくという生命の営みについて語っている。しかし、「われわれは生きた流れそのものではない」(『創造的進化』第三章「生命の意義について」「創造と進化」)とベルクソンは言う。「われわれはその流れのすでに物質を担ったもの、すなわち流れの実質のうち凝結して流れに乗って運ばれている部分なのだ。」(同所)宇宙的なプロセスで滔々と流れる生命の「大きな流れ」「物質」にぶつかり阻まれてそこに浸透していき、凝結してひとつのかたちをとったもの、そのようにして「大きな流れ」の凝結して出来た「部分」が、僕らのこの身体的にして知性的な個別的な生命なのだ。この「流れ」「物質」とのコントラストを取り出したベルクソンの手際は、見事というほかない。僕らは、このコントラストのなかに、このはざまに、今、生起してきて、今、消滅していくのだ。

この身体があるから僕がいる、というよりも、僕という知性的生命の一支流がこの現実の世界に流れているから、それが物質に遭遇してこの身体というかたちをとっていくのだ。脳があるから知性が働くのではなく、知性的な働きというひとつの強い傾向がこの生命の世界にあるから、その傾向が物質と遭遇して、脳という機能性のあるかたちをとっていくのだ。物質があったから生命が生まれたのではない。生命への傾向があったから、その傾向がこの宇宙で物質という障害とぶつかって、その物質を用いてその活動性を実現し、生命体というかたちをとって出現した。
森羅万象が生きている自然というのは、そのように、生命の血潮に満ち満ちた大潮流が、物質という障害に遭遇して、そこにかりそめのひとつのかたちを作って現出していくという巨大な活動なのだ。

今、僕が形而上学的世界への転換を説明するために、順を追って、まず説得的に説明したいのは、この点だ。
物質とプロセスとのコントラスト、固定と流動のコントラストのなかで、生命はそのつどのかたちを実現していく。それが、現実世界の生命活動だという、この点を、まず、踏まえてほしい。
僕の言っていることが難しければ、ベルクソンやホワイトヘッドを読んでみてほしい。

またしてもコントラストだ。
説明のために、僕らは、いつも、何らかのコントラストに頼る。
最初に踏まえておきたいコントラストは、世界が自然的であり、自然的であるというのは物質的であり身体的であるというのとほとんど同義であるということと、現実世界が生命の躍動する大潮流であり、創造的に前進するプロセスであるということとのあいだのコントラストだ。

一呼吸して、次の説明にいこう。
次の説明まで、今回は、かなり大きなジャンプをする。途中に面白い議論がたくさんあるけれども、全部、省く。

僕らは、知性的生命として身体的な個別的自己を生きている。このとき、そのつどそのつど、僕の身体とその物的活動は、僕の知性的生命の躍動し流動する無形の潮流の、固定化されひとつの形式をとった表現となっている。
僕のせきばらい、僕が花粉症で悩みながら鼻をかむそのしぐさ、本の活字を目で追うその動作、目を閉じて考え込んでいるときの脳内のいろいろな神経伝達物質のふるまい、口元に火のついた煙草を運ぶその腕の筋肉と関節の動き、若い女性のしなやかな体の線を見てその美を表現したいと努力するラフスケッチ。それらは全部、物質的な事象であり、かつ、僕の知性的生命の活動の表現なのだ。
悲しいことに、生命は、そういう物質的な表現をとってしか、この現実の世界にその充溢し満ちあふれそうになっている自己自身の衝動的な流れを実現できないのだ。

僕が、物質と生命のコントラストといったのは、このことだ。そこには、ベルクソンの記憶論とかイマージュ論とか創造的進化論とか、ホワイトヘッドのアクチュアル・エンティティの二極性とか抱握理論とかプロセス論とか、いろいろと複雑に面白い議論がたくさんつまっているのだが、今回は、全部、省いちゃう。

僕ら自身が、そのつどそのつど、知性的生命の線に沿って躍動し創造的に進化してきた大潮流の最先端に位置する物質的な形式をとった生命の自己実現のかたちであり表現のかたちなのだということを、とにかく、全身で実感してほしい。
この大潮流を、このプロセスを、この現実の世界に表現するのに、もっとずっといい形式がありえたかもしれない。だけど、現に実現されているのは、この僕ら自身という物質的にして知性的な活動の形式なのだ。明らかに、ここでは、知性的な生命の躍動は、僕らの物質的・身体的条件によって制約されている。しかしそれは、言葉を返せば、僕らの物質的・身体的な有機体組織の形式こそ、この地上にありえた無数の可能性のうちで現に実現された個別的で唯一のリアルな知性的生命の活動形式だということだ。

だから、この身体的な僕らの自己には、身体的自己を超え出ようとする勢いというか、生命の余剰がいつも満ちている。ときに、いや、しばしば、そのたわめられ鋳型に押し込められた奔流は、その物質的な形式の限界に障害されて萎え衰え、諦めと鬱の淵に沈んで行ったりもする。知性的生命の躍動は、眠りこけそうになる。イエスは、眠るな、目覚めていよ、と繰り返し語ったが、本当に、僕らの知性的生命の活動は、油断していると、寄生的になり、日々の繰り返される自動的な動作のなかで眠りこけてしまう。

バックハウスでもルビンシュタインでも何でもいい。その音の世界に目覚めたとき、僕らの半覚醒状態か昏睡状態だった日々の知性的な躍動は、突然、その活動を回復するのだ。それは、現にあるこの僕らの身体の物質的条件を超えて、その躍動し充溢する自己実現活動を最大限まで発揮しようとしはじめる。要するに、僕らは、感動し、ああ!と思ったそのとき、突然、物質的世界の制約のなかで、その制約する形式から前にはみ出していき、物質的・身体的自己から一歩、先に進んでしまっているのだ。

それが、形而上学的世界への転換をひきおこす。

形而上学的世界というか、それは、思弁の世界だ。知性へと向かう傾向のなかで躍動し創造的に前進していく生命が「純粋に」知性の線だけに沿って、物質の障害を超えて進んでいくところに開けていく冒険的な精神の世界だ。
そして、これが大事なことなのだが、僕らは有限の物質的・身体的な存在でしかないから、この無限の思弁的宇宙の開けへと一挙に開けていくということは、ありえないのだ。この形而上学的世界が明晰判明に完全に僕らに開けるということはありえない。僕らは常にすでに同時に、生命の情動的なほとばしりから発動した知性への傾向であると同時に、また物質としての身体的で生理的なプロセスでもあって、物質であるがゆえの有限の活動形式によって制約されてもいるからだ。
それでも、この世界は、僕らの日常生活の自動化された行動の半覚醒状態を破って、いきなりその無辺の深淵を垣間見せる。僕らは、この世界が幾重にも幾重にも多重的に開けていくのを経験する。それは、思弁哲学の、観念の冒険であり、知性の線に沿って創造的に進化してきた生命の、躍動する奔流のほとばしりだ。
思弁哲学は、物質的・身体的な制約を一歩超え出ていくその踏み出しを、言葉によって可能にしている。僕らは、言葉によって、知覚された物質や自己自身である物質から他の知覚へと移っていく。そして、そればかりではなく、言葉によって、僕らは、知覚されたものから、知覚されえたはずのものへ、知覚されえないものへと移っていく。
ベルクソンにちょうどうまい表現があった。ちょっと長いけど、引用しよう。この知性が物質を超え出ていく移り行きを説明するために、彼は、実に見事な文章を綴っている。

実際、言葉はあるものからから他のものへと移れるように出来ていて、その本質から言って転移しうる自由なものである。したがって、言葉は、ある知覚されたものから他の知覚されたものへと拡がりうるばかりでない。それはさらに知覚されたものからそのものの記憶へ、その正確な記憶からもっと淡い心象へ、淡いながらも表象されている心象から心象を表象する働きそのものの表象、すなわち観念へと、拡がりゆくことができるだろう。こうして、それまでは外に向いていた知性の目に、内的な世界の全体が、言い換えれば知性自身の操作の光景が開けてこよう。知性はもとよりこの機会をこそ、ひたすら待ちかまえていたのだ。(『創造的進化』第二章「生命進化の分岐した諸方向」「知性の原初的機能」)

知性は、この僕らの馴染みの、駅の雑踏ですれちがったり地下鉄が動いたり事務机の電話が鳴ったりエレベーターが昇降したり雨が降ったりする、この日常生活の世界を超え出ていく。知性自身が、日常世界を超えて拡がっていくその瞬間を、ひたすら待っていたとベルクソンは言う。その瞬間こそ、知性的方向にはじけて突き進んできた生命のエランが、物質の障害を超えて、まさに知性的生命の融通無碍の世界へと開かれていく瞬間だからだ。それこそが、知性的生命のもっとも生き生きと躍動する瞬間なのだ。
それは、思弁する知性であり、そして、日常世界の安全でほとんど自動的な秩序がぱたりと無機的なものに転化し、いわば物質が物象化していく瞬間でもある。

僕らが物質の世界の光景を超えて僕らの心象風景に見入るとき、僕らは物質的世界を一歩、前へ超え出ていく。
心象は、それを表象する働きである「観念」へと一般化し、拡がっていく。
その心象風景を言葉に写しとる心象スケッチこそが、詩作であり、その観念世界を言葉に写しとる観念の冒険が、哲学である。
そのとき、半覚醒の知性が自動的に活動する日常世界から、思弁する知性の見開かれた目に映る形而上学的世界への転換が起こる。心象のはいいろはがねから、僕という現象が、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明となって、心象風景を照らし出していく。心象風景は、その活動自体を表現する表象の世界、つまり観念の世界へと拡がっていく。世界は、多層的で、多重的に開けていく。その深くて、こわいような、底なしのさびしさと面白さのなかで、普段は青ざめて冷たく明滅していた半覚醒だった知性は、確かに、青ざめた明滅する照明であることをやめて、本来の生命の躍動する姿に戻り、満ち溢れ、この観念の世界に冒険していく。

それが、形而上学的世界への転換だ。

僕らが、音楽を聴いて魂の震えを感じたり自然の営みや光景に感動したり芸術の美に触れて我を忘れたり、祈りのうちに一切を燃やし尽くしたり、散策や瞑想の途中で、ああ!と気づいたりしたとき、そんなとき、僕らは、事物の知覚から心象の風景を感じるフィーリングへと、この物質的世界を超え出ていっているのだし、心象風景のフィーリングから観念の冒険する思弁哲学の世界へと拡がっていっているのだ。言葉を媒介にして、僕らはそれらの光景や構図や活動をスケッチする。それが、詩作であり、思索である。

詩作と思索は、ハイデッガーがいうように、同じ精神のなす、ちがった表現のかたちなのだ。ホワイトヘッドはこう言っていた。

哲学は詩作に似ている。両者とも、われわれが文明と呼んでいる究極的なよきセンスの表現を探し求めている。そのいずれにも、言葉の直接的な意味を超えて形式をかたちづくることへの指示がある。詩作は韻律に、哲学は数学的パターンに、結びついている。(『思考の諸様態』第四部第九講「エピローグ」)

詩作する詩人の言葉にも、思弁する哲学者の言葉にも、言葉の直接の意味を超えた形式への指示が、すなわち、形而上学的世界への転換のうながしが、ある。僕には、日常世界のなかに突然に割り込んでくるそういう転換が、哲学の出立点だと思える。




わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

      
『春と修羅』「序」  宮沢賢治




心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)

      
『春と修羅』「春と修羅」   宮沢賢治





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Wed, Feb. 28, 2007

自由と限定性


ホワイトヘッド連峰をゆるゆると散策する「ホワイトヘッドへの道」は、早くも、最初の難路にさしかかっている。
秋に続いて春が来てしまったような異常な暖冬のせいか、山の辺の散策路のかがやく気圏いっぱいにスギ花粉が舞っている。思弁哲学大山脈の視界が黄色くかすむほどの春の生命の息吹きだ。この道を辿りはじめた僕らの行く手には、思いがけない難所が待ち受けていた。
いや、これは京都北山の山路の光景か。

前回、ホワイトヘッド連峰登頂への最初の道行で、この手が僕のものであり、この目が僕のものであるように、この現実の世界も僕のものなんだ、という言葉を紹介した。僕が僕であるというのは、僕自身に固有の生成のプロセスである、というのが、有機体の哲学の基本的な立場だ。だけど、そのような自己の固有性は、この現実世界ぜんたいからの関わりと、他者からの関係性のなかで生起してくる。僕自身であるというこのプロセスは、この現実世界に満ち満ちているさまざまな契機の流れを受けて、その流れの合する統一的契機として生起してくるひとつの出来事だと、ホワイトヘッドは言っていた。
その言葉をもう一度、『過程と実在』と『思考の諸様態』(「自然と生命」)から、続けて引用してみよう。

「デカルトは『この身体はわたしのものである』と言ったのと同様に、『この現実世界はわたしのものである』と言うべきだったろう。『わたし自身である』というわたしのプロセスは、わたしが世界を所有することにもとづくわたしの生起なのだ。」(PR.81)

「リアルな諸事実が起こってきている。今この瞬間に、わたしは、これらすべての契機を体現している完全な人格である。それらはわたしのものである。」(MT.163)

こうして見ると、「この現実世界はわたしのものである」という言葉は、デカルトを批判しつつ述べられていることが分かる。批判の的となっているのは、デカルトの二元論、つまり「思惟するわたし」(ego cogito)とその認識の対象となる客体的世界との分離である。いわゆる主体-客体の二元論的な分離による認識論的図式が、ここで批判されているのだ。ホワイトヘッドはそれを「デカルトによって西欧思想に定立された心身の破壊的な分離(disastrous separation of body and mind)」(MT.154)と呼んでいる。
リアリティは、その破壊的な心身二元分裂論の認識論的枠組みが成立する以前のところにある。現実の世界と自己とは、不可同にして不可分のものであり、諸契機の多なる流れが「ひとつの、ひとつのここ(SMW.69)へと合していくプロセスとして生起する具体的事実である。
この現実の世界は僕のものであり、僕自身は、そこに満ちている生きた諸契機の流れを受けて、それらをひとつに体現している。それらの契機は、リアルに、そこに生起している。僕は、僕自身となるプロセスの中で、それらの契機の流れを受け、それを自らの血肉としている。ホワイトヘッドの言葉で言うと、それらの契機は、僕の主体的形式に沿って「我有化」されて僕自身を構成する「リアルで内的な構成要素」となっていく。

だから、「この現実世界はわたしのものである」とか、「それらはわたしのものである」という洞察は、独我論を意味しているのではない。この洞察は、ある重要なコントラストのなかに位置づけながら考察されなければならない。それは、「自由と限定性」というコントラストだ。
このコントラストの中で、「今、ここ」での僕というプロセスの生起がある。それは、この現実の世界を所与的条件として受けるという「限定性」と、そのなかで、予測も比較もできない新しい出来事が創発するという「自由」とのコントラストの中での、出来事なのだ。だから、この現実の世界は僕のものだ、という表現は、この世界は僕だけのものだ、だから勝手にしてよい、とか、他者など存在しない、という独我論の主張ではない。

僕の目や僕の手が、まさに僕のものであるがゆえに、僕にとって唯一のもの、かけがえのない価値を有するものであるのと同様に、この現実の世界は、まさに僕のものであるがゆえに、僕にとって唯一でかけがえのないものなのだ。僕の身体が現実にそのようなかけがえのないものであるがゆえに、僕はそれを配慮し、ケアし、それによって生きている。いや、僕はそのような身体的自己によって生かされている。それと同様に、この現実世界に生起しているすべての契機も、そのそれぞれが、唯一の価値を実現しているのであり、そのひとつひとつによって、僕はケアされ生かされているのだ。

この現実の世界は、僕自身のものであるが、それは、僕の恣意によっていかように扱ってもよいものだという意味ではない。この現実世界が僕自身のものになっていくという「我有化」のプロセスにおいて、僕自身は、この現実世界に生起する一切のものによって効果づけられ、この現実世界によって限定されつつ僕自身になっていく。自己は、その世界によって限定され、その世界のうちに見出される他者によって限定されつつ自己自身を実現する、と言ってもよい。そこに、「自由と限定性」というコントラストがあるのだ。

眼前に、他者が現前しているこの現実の世界では、まさにそれが僕自身の世界であるがゆえに、僕はそこに現前する他者を自己自身のうちに現前してくるものとして、「今、ここ」での僕の主体的経験をリアルに内的に構成する要素として受け止めるのである。僕にとって、その他者は、そのとき、唯一にして一度かぎりの価値を実現しているものなのだ。

しかし、現実の世界とそこに生起する僕自身とのあいだにあるのは、因果論的な原因と結果の関係だけではない。僕は、この現実の世界を僕の全身全霊を広げておのれのうちに迎え容れ、「我有化」する。僕は、この現実世界にリアルに生起した諸契機を、僕自身の「リアルで内的な構成要素」となりうる与件として与えられている。そのことによって、僕自身が、ひとつの経験の契機として、決定され限定される。

肝要なのは、「自由と限定性」とのコントラストにおいてこそ、新しいものの生成があるということだ。哲学者たちは、デカルトに端を発する近代西洋の自我哲学の隆盛ののち、あるとき、突然、このコントラストを見落とすと大変なことになる、と気づいた。
デカルト的な破壊的に分離された自我の定立する独我論的世界像が、近代の帰結として、恐るべき事態を引き起こしていったのだ。
近代の競争社会であり、植民地支配であり、そして世界戦争である。
また一方で、近代哲学は、自由な近代的自我に対するものとして、自然を必然のものとみなした。自然の世界は、数学的法則に支配された機械とみなされ、文明化された近代人たちは、F.ベーコンがいみじくも言ったように、自然に従うことによって自然を支配し、我が物とした。そこには、破壊と簒奪ばかりが横行した。
近代西洋の帰結は、文明社会のあるべき姿からははるかに遠い、修羅の世界だったのだ。
人々は、「自由」を孤立した近代的自我の自己利益の追求と理解し、「自由」な社会をそのような自己利益の野放図な追求によって互いにしのぎを削る自我どうしの熾烈な競争の世界だと勘違いし、世界を競争と戦争とテロの修羅の世界にしてしまった。しかし、「自由」とは、そんなもんじゃない。そして、社会契約とか、あるいは自由に対する「限定性」というものも、そんな万人の万人に対する闘争という修羅の世界をなんとか緩和するための方便などではない。
そのことに、哲学者たちは、やっと気づいた。
ベンサムやコントやミルやスペンサーやシェリングやショーペンハウアーやニーチェの世代では、まだ、はっきりそれとは気がついていなかった。「自由」は彼らにとって危急の課題であったが、「自由」が、「限定性」とのコントラストのなかではじめて創造的で秩序的な世界の原理となると気づいたのは、その次の世代だった。そのためには、世界が、そして生命と文明が、「プロセス」として、「持続」として、「流れ」として見られるような新しい観点が必要だった。そんな新しい観点に立ってデカルトの破壊的な二元分裂論的世界像に代わる哲学を打ち立てたのが、ウィリアム・ジェイムズであり、ベルクソンであり、西田幾多郎であり、我らがホワイトヘッドだった。

「自由と限定性」とは、互いにあいまって、新しさへと創造的に前進する世界の秩序と前進性をなしていく。このコントラストは、生命の必然をなすと同時に生命の創造的躍動をもたらし、文明の秩序をなすと同時に文明の創造的活力をもたらす。 「自由と限定性」のコントラストこそ、生命の原理であり、文明の原理であるのだ。
この両者のコントラストの中で、現実の世界の創造的プロセスが発動するのであり、そのプロセスの焦点として、僕らひとりひとりが生起してくる。このことをしっかりと自覚し、論理として語らなければならない。近代世界の限界を超えるには、そのような宇宙論的・文明論的・生命論的な論理が、必要だ。それが、ベルクソンが持続の時間論とともに自由を論じた理由であり、ジェイムズが根源的経験論から宗教経験を論じていった理由であり、西田幾多郎が純粋経験論とともに苦心惨憺して「善」を論じた理由であり、そしてホワイトヘッドが「現実世界はプロセスであり、プロセスとはアクチュアル・エンティティの生成である」という宇宙論から冒険と平和と愛の文明論を論じていった理由である。
現代思想が身体論や他者論や環境倫理において論じようとしていることを、彼らは、より深い洞察から徹底した論理として思弁していったのだ。彼らは、現代の僕らが心に留めておかなければならないもっとも大事なことを思索した先達だった。この現実の世界は生死の世界であり、生命の世界である。この生きた世界に満ちる血潮は、僕ら自身の血潮なのだ。そして、僕らは、その世界によって「限定」されながら、自己自身を実現していくという「自由」のなかで、世界の森羅万象と出会い、多なるものと邂逅し、そして、それらの出会いが僕らの血肉となっていく。この個別的な出会いと生成のプロセスのなかに、個々の出来事の生成を通じて自己を実現していく実在の、より大いなる創造的プロセスが、「生命の躍動」が、新しさを目ざして既存のものを引き受けつつ既存のものを超え出ていく世界の血潮の流れが、あるのだ。

今回の熱弁は、前回の補足のようなものだ。花粉症のせいで、長時間、目を凝らしてパソコンに向かっているのがつらい。だから、今回は、あまり面白みはないかもしれない。だけど、「自由と限定性」のコントラストのなかで、新しいものの創造を思弁するというのは、とても大事なポイントだと思う。
僕らは、みんな、この現実の世界に歴史的・運命的に生まれ、この現実の世界において歴史的・運命的に他者と出会い、この現実の世界によって受動的に所与的に「限定」されながら、自己自身を能動的に「自由」に限定していく。そうやって、僕らは、この既存の世界を自己自身のうちに不可避の条件として、産土の大地として引き受けつつ、この既存の世界を超え出て新らしい自己の創造と表現をめざす。僕らは、この現実の世界によって「限定」されながら、自分たちの住まう世界を「自由」に創造的に拓いていくのだ。その営みこそ、生命の営みであり、文明の営みである。

このスギ花粉だって、この現実の世界に満ちているエラン・ヴィタールのひとつなのだ。奴らが撒き散らすこのモノスゴイ量の生命の種子は、まさに「生命の勢い」「生命の躍動」だ。都市に降り注ぐこの超大量の花粉を、「生命の勢い」「エラン・ヴィタール」と呼ばずして何と呼ぶ。今年は少ないけど早いとかなんとか、人はいろいろ言うけれど、これこそまさに、春の「生命の勢い」だ。モノスゴイ生命の勢いが、僕らの生活世界の気圏に満ち満ちているではないか。僕らの呼吸する大気が、「生命の息吹き」に満ち満ちて、「生命の血潮」に涌きかえっているではないか。

この生命の息吹きに満ち満ちた思弁哲学連峰の山路を、ホワイトヘッドへの道を、僕らはそれでも辿る。逍遙すること、歩くこと、そして端坐して瞑目することが、思弁哲学の方法なのだ。ペリパトスだ。散策だ。ともに歩き、語り合い、またひとり坐して、この現実の世界の実在の深みへと分け入っていくことが、思弁哲学なんだ。この血潮が、この気圏に満ちる生命の息吹きと触れ合い、そのエランによって創造的に前進するひとつの秩序となっていくことが、思弁するということなのだ。この山路を明恵のように逍遙し、路傍のちょうどよい根元や石を見つけたら端坐し、生命の息吹きをおのれのうちに迎え容れて、この現実世界のぜんたいが僕ら自身というひとつのプロセスとなっていく持続の経験を満喫しよう。

しかし、胸いっぱいに吸い込んだこの大気には、なんと大量のスギ花粉が満ちていることか。

おかげで、目が痒くて、涙と鼻水が止まらないぞ、チクショウ。



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Fri, Jan. 26, 2007

自然には血が通っている


ホワイトヘッドの宇宙論への道を切り拓く。そういう試みを、宿題としてある方からいただいた。
ホワイトヘッドへの道。
それは険しく、孤独な、けれどもあるとき一挙に開ける眺望は圧巻というほかない、冒険の道である。
どうやったら、あの難解な思弁哲学の高い峰々を登頂することができるのだろう。論理の迷宮のなかで迷子になったり、自分が何を探求していたのかすら忘れて訓詁注釈に夢中になったりすることなく、ホワイトヘッド哲学の輝きとその深い暈の広がりを、どうやって見ていったらいいのだろう。

最初の取りかかりとして、僕は、自然科学的な世界観とは異なる、「生きている自然」という有機体の哲学の根本洞察から始めたらいいんじゃないかと思う。いきなり、アイガー北壁に取りつくよりも、もっとなだらかで、散策にも向いているルートが、ホワイトヘッド連峰にはある。それが、この根本洞察だ。
ホワイトヘッド研究者のクリスチャンの言葉を使うなら、僕らはまず、ホワイトヘッドへの道を、「体系以前の言葉」から「体系の言葉」へと向かって歩むのがいい。
テキストでいえば、『思考の諸様態』の、組になった二つの章「生命なき自然」(Nature Lifeless)と「生ける自然」(Nature Alive)を読むのが、いいんじゃないだろうか。この二つの章は、もともと、『自然と生命』という三つの章からなる本の最初の二章だったものだ。ホワイトヘッドのものにしては、とても読みやすい。

そこでは、まず、近代の理性が見渡して理解している世界が、理性の枠に当てはまるように抽象化された自然であることが指摘される。つまり、理性によるものの見方は、機械論的な自然観に基づいているというのだ。僕らが、自然科学の知見に基づいて理解している世界は、無感覚で、無価値で、無目的な、ただ数式によって表現される因果法則にしたがって無限の真空空間のなかを盲目的に運動しているだけの非情な物的要素から成り立っている世界だ。そんな世界は、要するに「生命なき自然」だとホワイトヘッドは言う。
だけど、彼は、そんな世界観は間違っている、とは言わない。そうした世界の見方は、ある意味でとても便利だ。それは、僕らの世界理解にも、日常生活にも、組織運営にも、僕らが判断し予想し行為するときにも、立派に役に立つ。つまり、そういう近代自然科学的な世界観は、プラグマティックな価値をもっている。僕らは、自然科学的なものの見方なしでは、日々の生活を送ることもできないのだ。何よりも、それは、明晰判明な精緻な理論によって記述されている。そのことは、ホワイトヘッドもしっかりと認めている。
問題は、そういう便利な世界観も、この僕らの生きている現実の世界を理性の鋳型にあわせて抽象化して取り出したものにすぎない、ということを、僕らが忘れがちだということだ。僕らは、自然数学的な方程式によって記述可能な、可塑的で均質な世界という理論的認識こそ、真の認識であり、具体的な世界だと思いこみがちだ。
そういう思いこみのことを、ホワイトヘッドは、「具体性を置き違える誤謬」と呼んで非難した。自然科学的な知見に基づく世界理解や自己理解は、僕らの生活にある意味でとても役に立つ便利な図式だけれど、それは、この現実の世界を人間的理性という特殊な観点から合理的に抽象化してきただけの、ただの理論にすぎない。それは、僕らがそこに生まれ、そこに生き、そこに働き、そこに死にゆく現実の世界そのものではない。

対になった二つの章「生命なき自然」と「生ける自然」のなかで、ホワイトヘッドは、近代自然科学の提示する抽象化された合理的な世界図式を評価しつつ、一方で、具体的な僕らの生死の現実世界はどのように理解されるべきかを問う。
「現実の世界は、プロセスである」(PR.22)というのが、リアリティの具体性を探求するホワイトヘッド宇宙論のカナメとなる洞察だ。その根本洞察に基づいて、この二つの章では、現実世界のプロセスをどのように理解すべきかをやさしく丁寧に(ホワイトヘッドの書いたもののうちではおそらく一番やさしく丁寧に)説いている。
その丁寧な考察のなかで、具体的な現実の世界を「生ける自然」という見方で論究していくときの、最初の問いを見てみよう。
自然科学的世界観に対する評価と批判を一通り述べたあとで、ホワイトヘッドは 「まだ議論されていない根本的な問いが最後に残っている」と言って、その問いについて、次のように語りだす。

「それは、それによって宇宙のプロセスが理解されるような事物の根本的なタイプとはどういうものか、という問いである。」(MT.144)

この具体的な現実の世界のプロセスを理解するための根本的な認識の仕方をホワイトヘッドは問うている。「現実世界はプロセスである」というとき、それを機械論的に抽象化せずに理解するために、僕らはどんな風に、この宇宙のプロセスを見て、どんな風にそれを語ればよいのだろうか。
さしあたって、ホワイトヘッドは、自然科学が抽象的な図式によってこの現実世界のアクチュアルなプロセスを機械論的に記述していることの理論的価値と有用性を認める。しかし、それは、肝心のそのアクチュアリティを捨象した図式なのだ。
ホワイトヘッドは、次のように続ける。

「われわれは、自然が、科学的精査のために単に諸活動とプロセスを開示しているのだ、ということには同意しているとしよう。このことは何を意味しているのか。そういう諸活動は、衰えて互いのうちへと消えてゆくということである。それらは、生起しては過ぎ去ってゆくのだ。そこに成し遂げられつつあるのは何か。そのように効果づけられてもたらされたのは何か。そういった問いは、単に掛け算の九九表の定式化のごときものにすぎず、偉大な哲学者の言葉を借りると、血の通っていない諸範疇の舞い踊りにすぎないものである。」(MT.144)

自然科学が精査し図式化する自然など、抽象的で、「血の通っていない諸範疇の舞い踊り(a bloodless dance of categories)」のようなものでしかないと、ホワイトヘッドは言う。ここで言及されている「偉大な哲学者」とは、多分、ブラッドリーのことだろう。孫引きだが、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』に、次のようなブラッドリーの言葉が引かれている(正確には、曾孫引きになるけれども)。「血の通っていない諸範疇のこの世のものとも思われぬバレエ(unearthly ballet of bloodless categories)」(The Varieties of Religious Experience, The Woriks of William James, Cambridge; Harvard Univ. Press, 1985, p.87)
そんな血の通わない自然科学の認識に対して、ホワイトヘッドは、力強く、次のようなメタファーを提示する。

「自然には血が通っている。リアルな諸事実が起こってきているのである。」(MT.144)

さあ、この言葉をじっくり、考えてみよう。

「自然には血が通っている(Nature is full-blooded)」だって?
あるいは、これは、「自然は血潮に満ちている(full-blooded)」と訳すべきか。
これは、ひとつのメタファーだ。しかし、それは、僕らの生きている現実の世界のプロセスを具体的に語ろうとするメタファーなのだ。

じっくりと、このメタファーについて、考えてみよう。
この箇所の前後は、自然が、生命ある諸活動のプロセスなのだということ、生きている有機体なのだということを論じ起こしていくところだ。そこでホワイトヘッドは、近代科学の機械論的図式を全面的に否定することなく、より具体的な世界理解のなかに位置づけ直していく。

ホワイトヘッドへの道の最初の一歩として、まず、このメタファーから、始めたらどうだろうか。
「生命なき自然」という近代自然科学の機械論的自然観から、より具体的な、生きて働くプロセスとしての自然という理解へと進んでいく道を、この一組の章を通読しながら、辿ってみようじゃないか。
ホワイトヘッドが謂わんとしている要点は、「生ける自然」という理解だ。この理解を、できるだけ精緻な理論にして示そうとするのが、彼の有機体の哲学の仕事なのだ。その理論は、精緻であればあるほど、難しいけれども、でも、こうやってやさしく語ってくれる章もあるのだから、そこから、ゆっくりと、ホワイトヘッド宇宙論・文明論・生命論・宗教論の広大な世界に、踏みいってみよう。

そうだな。
ひとまず、僕らは、サミュエル・マルシャークの名作『森は生きている』の標題にならって、「自然は生きている」と、言挙げしようか。
僕らの生きているこの現実の世界は、生きて働くさまざまなものたちの出会いと関わりのなかに展開していく、ひとつの大きな生命のプロセスなのだ。それは、血の通った「生きている自然」なのだということを、その詳細な理論的理解はさておいて、ひとまず、受け容れてみよう。
今、この瞬間に直接に経験されるこの世界の全体が、多様な契機が相俟ってひとつの全体を構成しつつある生のプロセスなのだと、実感しよう。
この瞬間の僕らの経験のうちに、この宇宙のいっさいが内在してきて、僕ら自身という経験の主体的契機を構成しつつあるのだということを、実感しよう。

ホワイトヘッドは、大胆に、こう言った。

「今この瞬間に、わたしは、これらすべての契機を体現している完全な人格である。それらはわたしのものである。」(MT.163)

この手が僕のものであり、この目が僕のものであるように、この現実世界も僕のものである。この現実世界に満ち満ちている「血潮」は、僕の「血潮」なのだ。この身体が僕の身体であるように、この現実世界は僕のものだと、ホワイトヘッドは、主著『過程と実在』のなかで、はっきりと言ってのける。

「デカルトは『この身体はわたしのものである』と言ったのと同様に、『この現実世界はわたしのものである』と言うべきだったろう。『わたし自身である』というわたしのプロセスは、わたしが世界を所有することにもとづくわたしの生起なのだ。」(PR.81)

僕の身体に通っている「血」は、この「生きている自然」に満ちる「血潮」から流れてきているのだ。それが、自然のうちに満ちている「いのち」であり、今、ここでこの僕らに迫ってきて僕らを押し動かしている「ちから」なのだ。僕ら一人ひとりの「いのち」は、「血の通っている自然」の、その「血潮」から流れてきている血の通った身体の「いのち」なのだ。この宇宙の森羅万象が、「生きている自然」「血潮」をみずからのうちに受けて、それをみずからの「血潮」として生きている。そのような「我有化(appropriation)」(PR.219)のプロセスこそ、「今、ここ」での僕らが生起してくる生成のプロセスなのだ。

あれ? いきなり、難しいか。

要するに、「自然は生きている」ということ、そして、その生命活動の焦点となっているのは、そのつどの経験の契機、つまり、「今、ここ」での僕ら自身だ、ということだ。

ホワイトヘッドは、この「血潮」の通った自然のすべての契機を僕ら一人ひとりが「今、ここ」に体現しているというのだ。僕らの生命に満ちている「血潮」は自然のすべてから流れてきている。この身体に満ちている生きた「血潮」は、この「生きている自然」に満ちあふれ流れている「血潮」の、その多様な流れが一点に集まりひとつの「いのち」を成していくほとばしりなのだ。
対になった二つの章の、先ほど引用した言葉にすぐに続けて、ホワイトヘッドはこう言っている。

「他方、現在の瞬間において、わたしの経験の直接的契機は、わたしの魂を構成している諸契機の流れのなかのひとつにすぎない。」(MT.163)

宇宙全体が、ひとつの生きた持続として、現時点での僕ら自身の直接的な経験の契機へと凝集してくる。そして、そのように僕らが直接に経験しているものは、僕らの経験を構成する多様な「諸契機の流れ(stream of occasions)」のうちのひとつなのである。その背後には、杳として縁暈のように広がってゆく広大な宇宙の深みが開けている。その全体が、その生きた「血潮」の流れを、僕らが「今、ここ」で直接に経験している「諸契機の流れ」を通して、僕らの身体的な生命のうちに流し込んできている。そうやって、僕らは、僕ら自身というひとつのプロセスとして生起するのだ。
そして、ホワイトヘッドは続ける。

「また、わたしにとっての世界は、わたしの身体のさまざまに機能している働きが、わたしの経験に対して世界をいかに現前させているかということ以外の何ものでもない。・・・われわれは、身体的社会の観点から世界を解釈しなければならず、また、世界の一般的な働きという観点から身体的社会を解釈しなければならない。」(MT163-164)

ここには、実にいろいろな含意がある。
だけど、まず掴まえておかなければならないのは、宇宙全体が「生きている自然」という、多様な流れというか持続というか、「血潮」に満ちたアクチュアルな活動なのだということである。そして、その流れがひとつに凝集してくるところに、僕らの経験する現実の世界が開かれていくのだ。「現実の世界はプロセスである」という根本洞察が示そうとしているのは、そのようにして多なる流れが一つに統合されていくプロセスこそが、僕ら自身の直接の経験そのものだということである。

いや、やっぱり、難しいかねぇ。

少し、時間をかけて、僕自身また、この二つの章を読み直してみようか。
思弁哲学の森や野原を散策しながらゆっくりと登っていくためのテキストとしては、他に、『科学と近代世界』の「浪漫主義的反動」(The Romantic Reaction)の章もいい。ホワイトヘッドが少年時代から愛唱していた英詩の文学散歩を楽しみながら、「生きている自然」という詩人のヴィジョンをやさしく描き出して、次第にホワイトヘッド連峰の高みへと僕らを導いてくれる章だ。
ホワイトヘッドの形而上学的著作のなかで、最初に日本語に訳されたのも、この章だったし、とりつきやすい道だと思う。
遥か向こうに冠雪を頂く思弁哲学連峰の雄大で美しい景色を愛でながら、なだらかな丘をいくつも越えて、野辺の散策を楽しみつつ、一緒に、ホワイトヘッドへの道を、ゆっくりと、辿ろうじゃないか。その道は、僕らの眼前に、「血潮」の満ちた、生き生きと息づく自然の、どこまでも幾重に広がってゆく雄大な光景を開いてみせてくれるだろう。



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Fri, Jan. 19, 2007

冒険と孤独


僕の大好きな、冒険と音楽と煙草を愛するあの男はこう言っていた。

「『これじゃあ、あんまりだ。どうして家もないまずしい植物学者が、しずかに平和な一生をおくることができなんだろ。』
 こういって、ヘムレンさんはなげきました。
『生きるってことは、平和なものじゃないんですよ。』
と、スナフキンは、満足そうにいいました。」
(トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』第四章)
生きるってことは、平和なものじゃない。生きるってことの壮絶さ、切実さがある。
そして、そこには、スナフキンの愛した冒険もある。
この世界のただなかで、ひとつの生命であるということは、切実な抵抗運動でもあり、冒険でもあるのだ。

ホワイトヘッドを読んでいると、冒険のモティーフが繰り返し現れる。
想像的に飛躍する精神の冒険というモティーフであり、より広大な一般性を目ざしての航海というモティーフであり、想像的な一般化という薄い気圏を飛行する想像力というモティーフである。

そこにはまた、孤独のモティーフも影を落としている。
一切のものは、この宇宙において互いに関係づけられていて、したがって、絶対の孤独性はない、とホワイトヘッドは言うが、しかし、「今、ここ」に生起する僕らの主体的な経験の契機は、この既存の宇宙全体を超え出る新しさの創出であり、その意味で、僕らは単独で、宇宙に対しているといえるのだ。
「われわれは、道徳的個別性を発達させてきた。そして、その点で、われわれは――単独で――宇宙に対している(we face the univerise―alone)。」(ESP.65)

「同時に、これらのアクチュアル・エンティティは、それら自身としては個別的かつ分離可能な、それら自身の価値である。それらは、共通の財に貢献しており、しかもそれらは、単独で耐えている(they suffer alone)。世界とは、共同体における孤独性というひとつの情景なのだ。」(RM.88)
相依性(relativity)とか関係性(relatedness)とか、調和(harmony)とか秩序(order)とか、宇宙の連帯性(solidarity)とか、友愛(friend)とか、ともにあること(togetherness)とか、ホワイトヘッドの宇宙論の基本概念はどれも、共同性を強調している。
万有が互いに関係づけられてあるという洞察のなかで、宇宙の創造的前進が語られる。
だけど、その創造の先端では、僕らは一切と関係づけられつつ、世界ぜんたいと単独で対峙している、とホワイトヘッドは言う。

僕らがひとりひとり、単独で対峙しているこの世界は、単なる事実の世界でも、機械論的因果性の世界でもない。西田幾多郎は「現実の世界とは単に我々に対して立つのみならず、我々が之に於て生れ之に於て働き之に於て死にゆく世界でなければならない」と述べている(旧版西田全集第七巻217頁)。西田が探求しようとしたこの生々しい生死の世界こそ、僕らが僕ら自身として単独で生きている世界だ。現実の世界とは、単なる客観的な対象の世界ではない。それは、僕らがそこに生まれ、そこに生き、そこで出会い、そこで別れ、そこに死にゆく孤独と出会いの冒険の世界なんだと思う。
だからこそ、この宇宙の直中での僕らの孤独と出会いと別離の生を洞察するとき、西田はそこに「悲哀」を見出したのだし、ホワイトヘッドは、そこに「道徳」や「価値」をも見出したのだ。共同体のなかで、個々の出来事のかけがえのなさを実感するとき、僕らはこの世界に生きることの切実さを知る。世界は、そのとき、情緒的な価値に満ちた場所として、僕らの産土うぶすなの大地として、開けていく。
ジェイムズは、こんな風に言っていた。
「いずれにしても、僕らひとりひとりにとって実際に存在している世界、すなわち個人の現実的な世界は、物質的事実と感情的価値とが区別できないように結合している複合的な世界である。」(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)
感情豊かな、彩りと気配に満ち満ちた直接経験の世界のなかで、僕らは、単独で、この肌身に感じる世界の情緒的な質感にかられて、一歩一歩、冒険の旅に出る。それは、単なる物質的事実だけの世界じゃない。そこに、情緒的価値が重ねられ、融合されて、そうやって僕らの生きる現実の世界が開けていくのだ。ジェイムズが言うこの「結合」こそ、ホワイトヘッドが象徴的指示(symbolic reference)という言葉で理論化した、経験の原初相だ。
僕らのあゆみの一歩一歩は、そんな経験の直接性のなかで、情緒的な意味に満ちた世界が新たに開けていく旅程なのだ。
その足下に開ける関係性と友愛の宇宙をエンジョイしながら、僕らは、顔を上げて、未踏未航の世界へ踏み出していく。スナフキンのように、嬉しくて仕方ないように横笛を吹きながら、未知の世界へと旅立っていく。
そんな一歩一歩が開いてみせる世界は、驚きと不思議に満ちている。

冒険と孤独という影のモティーフが、調和と創造性という第一のモティーフの背後にある。
だからこそ、ホワイトヘッド宇宙論には、深みもあるのだと思う。トーベ・ヤンソンの「ムーミン」の世界に、孤独と友愛、冒険と平和のコントラストが、えもいわれぬ深みをもって描かれているように。

だから僕は、ときに、プロセス哲学は、まるでムーミン童話や賢治の童話、トールキンの物語のように、ひとつの物語として読まれたっていいんじゃないかと思っている。
ときに、冒険と孤独の物語として、創造と友愛を語る物語として、読まれたっていいと思っている。

モーリス・センダックの名作絵本One Was Jonny: A Counting Book(ジョニーのかぞえうた)の締めくくりは、ひとつずつカウント・ダウンしていって最後にひとり、ジョニーが残る。こんな歌詞だ。1 was Jonny who lives by himself, and liked it like that. キャロル・キングが素敵なメロディをつけて、歌にしている。神宮輝夫の工夫を凝らした訳もいい。「1にんまえのジョニーくん、ひとりぐらしにもどって、やっぱり、ひとりが、いちばんだあい!」

そういうときって、確かに、ある。やっぱり、ひとりが、いちばん、というとき。
とても、とても、大事なときだ。
ひとりでいて、それがいちばんいい、という孤独のとき。
対話の哲学において、「はじめに関係がある」という宗教的実存のもっとも深い深みを開いたマルティン・ブーバーも、関係と交わりのときとともに、孤独のときも、とても大事にしていた。彼もまた、こんな風に言っていた。
「この上なく静かに独りでいると、その孤独のうちに時として思いがけぬ観想が開かれはしないだろうか。自己自身との孤独における関わりは、秘密に満ちた仕方で、存在の秘密との交わりに変化しうるのではないか。」(『我と汝』)
この静かな秘密の交わりが、観念の飛翔する冒険の気圏を開いていく。
それは、ひとつの、物語だ。
思弁哲学の冒険する孤独な精神が描く物語だ。
それは、大地と海と気圏の光と闇の、出会いと別離の、英雄的行為と愛と悲劇と平安の、壮大なひとつの物語だ。そこで、ぼくらは、ひそかに、存在の秘密との交わりをもつ。

静かな冬の夜、プロセス哲学の描く物語に沈潜するひとときがあっていいと思う。
コーヒーをわかして、スナフキンやホビットたちやセロひきのゴーシュが愛した煙草を吸いながら、宇宙のただなかで孤独に冒険する物語が描く調和と創造の世界を読むというのは、なかなかいい時間じゃないか。



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Fri, Jan. 12, 2007

こわれもの


最近、ベルクソンやウィリアム・ジェイムズが、心に沁みる。哀しいほどに沁みいってくる。
彼らの哲学は、互いに影響し合いながら、20世紀初頭に「生命の哲学」とか「生の哲学」と呼ばれる思想潮流を作った。そこに語られているのは、いのちの営みの力強さばかりではない。生きることの淋しさやはかなさ、弱さもまた、目をそらさずに洞察されている。
生命は、物的な固体の存続とはちがって、ある種のもろさをもっている。そこには、病があり、老いがあり、すれ違い、あるいはぶつかりあって、傷つくものがあり、滅びゆくものがある。枯れてゆく生命のあいだに、新しい芽吹きもある。

いのちとは、いわば、こわれものなのだ。

腰痛が復活した鬱の朝、起き上がることもできずに開いた枕もとの本のページで、たとえば、ベルクソンは、こんなことを言ったりする。

ひとつの世界の創造は、ひとつの自由な行為であり、生命も物質的世界の内部にありながら、この自由にあずかる。そこで、むしろ腕を持ち上げる動作を思い浮かべてみよう。腕は放っておけば、また垂れてしまうが、それでも、腕のなかにはそれに生き生きした活力を与えた意欲の幾分かがまだ存続していて、持ち上げようと努めているとしてみよう。こわれていく創造的動作というこのイマージュだけで、僕らはすでに物質についてのいっそう精密な表象をもつことだろう。そのとき、僕らは、生命活動のうちに、逆向きの運動のなかに残存しているもとの順向きの運動を、すなわち、こわれていく実在をとおして出来ていくひとつの実在を見るだろう。(『創造的進化』第三章「生命の意義について」「生命の起源」)
こわれていく創造的動作。
不可避的に永劫に過ぎ去っていく今のこの活動の瞬間。
腕を上げていても、やがてそれはしびれ、疲れて、垂れてくるように、日々の生活に努めようとしても、やがて、その運動は疲れを生じて、萎え衰えていく。そのなかで、痕跡のように、生きようと努める意欲が残存している。
まだ、腕を上げようと努める意欲が、垂れたその腕に残存しているように、まだ、日々の仕事にのりだそうと努める意欲が、鉛のように重い全身に残っている。

それが、鬱の朝の情景だ。

こわれていくもの。

そこに、こわれていく実在をつらぬいて出来上がっていくひとつの実在を見るベルクソンのまなざしは、少し鬱っぽくて、優しい。

吉本ばななが『キッチン』でこんな場面を描いているのを、松岡正剛が『フラジャイル』で取りあげていた。
最後の肉親だったおばあちゃんが亡くなったとき、桜井みかげは「こんなに世界がぐんと広くて、闇はこんなにも暗くて、その果てしないおもしろさと淋しさに、私は最近はじめてこの手でこの目で触れたのだ」と感じる。

この移ろいゆく世界のただなかに、ひとり、ただひとりの自分でいるということの弱さと淋しさ。
そこに残存しているいのちが、こわれゆくもののなかで実現していく、ひとつの世界の開け。
生きてゆくということは、ときに、そういうこわれゆくもののなかで、何か途轍もない深まりがぐんと果てしなく開けてゆくという、おもしろさと淋しさのことではないか。

世界は、こわれてゆく運動に満ちている。

生きるということ、生命であるということは、そのこわれゆく運動そのものでもあり、またこわれゆくもののあいだに、思いもかけない価値を実現していく営みでもある。生命は、そのとき、思いもかけない深く暗く広い開けへと開かれていく。
もっと細かく、僕らが住んでいる世界を考えてみるなら分かると思うが、見事な結びつきをもつこの全体の、厳密に規定された自動的な進化は、こわれてゆく行動に属するものであり、生命がそこに切りとる思いがけない形態、さらにそれ自体が発展して思いがけない運動となりうる形態は、出来ていく行動を表すものである。(ベルクソン、同所)
こわれゆくものと、こわれゆく運動を通じてやっと実現される価値とのコントラストのうちに、僕らの実存が、僕らの生命活動が、ある。そしてもちろん、僕らの創造の喜びや、出会いの恵みとともに、また僕らの鬱も、そのコントラストのなかにあるのだ。

人生のうちでも、もっとも孤立無援で、自分をもっとも弱いものと感じる瞬間こそ、この宇宙のリアリティのもっとも深い深みを開いて見せるときである。
外観はどう見えようとも「宇宙よ万歳! ――神は天にしろしめし、世のことはすべてよし」などと単純に大声で叫ぶのは止めようじゃないか。むしろ、哀れみと苦痛と恐怖、そして寄る辺なき人間の頼りなさの感覚が、いっそう深いものの見方を開きはしないか、それらの感覚が事態の意味を解くべきより精密な鍵を僕らに手渡してくれはしないか、考えてみようじゃないか。(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)
僕らが何の助けもなく、ひとりこの宇宙のただなかで、もっとも弱くされ小さくされたと感じられたときこそ、この「いっそう深いものの見方」が開かれるときかもしれない。弱さのなかにこそ、そうした、深い次元の開示があるのかもしれない。「力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ12.9)と言われているじゃないか。もっとも弱いときにこそ、その人生の、その生命の、真の強さと深みが現れる。「一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのだ。」(ジェイムズ、同所)

この宇宙に実現された生命ある一切が、物的で自動的なものの運動としては、こわれゆくプロセスのなかにある。だけど、そのようにこわれゆくなかに、かすかに、だけどしみじみと深く、精神的な、いやスピリチュアルなと言えるような価値の実現がきらめいているんじゃないだろうか。

こわれてゆくもののうちで出来てゆくものがある。「宇宙そのものにも、相反する二つの運動が区別されなくてはならない。ひとつは『下り』、もうひとつは『上り』である。」(ベルクソン、同書第一章「生命の進化について」「無機的物体」)この両者の微妙なコントラストを直観できないなら、システム論だろうがプロセス論だろうが、児戯に等しい。生命とは、この宇宙のこわれゆく「下り」の趨勢のなかで、その解体運動に抵抗してみずからを保ち、新たにみずからを形成する「上り」の勢いのうちで活動する出来事だ。それは、圧倒的な流動と解体のとりつくしまもない自動的運動のただなかで、こわれゆく趨勢に抗して自己を何とか実現しようとする寄る辺なき出来事の切実さだ。その寄る辺のなさのなかで、生命は、寄り添い、与え合い、奪い合いながら、健気にそれ自身を実現していく。そして、生命は、それ自身こわれゆくなかですら、その活力の残存を示し、物的には消滅していったのちも、その谺は宇宙に残響していくのだ。
こわれゆく物的な世界のなかに、その残響が交響しあうのを聴きとることができない感性には、生命の哲学など語れはしない。過ぎ去ったものの痕跡をみずからのうちに感じることのない知性には、生命の情動も意欲も、そしてこわれやすいその繊細微妙な営みも、見てとることなどできない。物的世界のただなかに展開する生命の営みの繊細と大胆とのコントラストを差しわたすような感性に立脚してはじめて、この世界のシステムもプロセスも、真に論じることができる。

ベルクソンやジェイムズが、ときに優しく哀しく、僕らの鬱をなぐさめてくれるように、ホワイトヘッドも、この切ない生命の世界のコントラストを語って、僕らのこわれやすい魂をなぐさめ抱きしめてくれる。

ホワイトヘッドは、『形成途上の宗教』の末尾で、こわれゆく「下り」の世界と、そのこわれゆく運動を通じて実現される「上り」の運動とのコントラストを描いている。
宇宙は、僕らに二つの相を示している。一方では、宇宙は、物的に消耗しつつあり、他方では、宇宙は、スピリチュアルに上昇しつつある。(ホワイトヘッド『形成途上の宗教』第四講「真理と批判」第五節「結語」)
嵐のなかでの不倫の密会から帰宅した晩に、この箇所を夫に読み聞かされたチャタレイ夫人は、その先があるだろうと待っていた。だが、この書はここで終わっていた。「それで、もしスピリチュアルに上昇しているなら、上昇したそのあと、もとのところには何が残るの?」当然、夫は答えられやしない。D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の一節だ。彼女は、たたみかけるように言う。「物的には消耗してゆくっていうの? ええ、あなたはだんだん太ってきたし、私だって体重が減ってきたってわけじゃないわ。」チャタレイ夫人コニーにとって、物的(physical)とは、身体的ということで、それは、消耗などしていない。今、彼女の身体は、充実し、熟れきって、満ち満ちている。「その著者は、この世では物的な失敗者で、全宇宙も物的な失敗者にしたいだけのことでしょう。堅苦しい、つまらない、生意気な説ね。・・・ずっと高く、スピリチュアルに上昇していけばいいわ。私はずっと下の方で、物的に、しごく安全にしっかりと住んでいるわ。」自分の着衣の下に充実した健康で熟れきった身体を誇るように、コニーは、そう言って夫を見下す。

「この世では物的な失敗者」と呼ばれた「その著者」こそ、わがA.N.ホワイトヘッドだ。物的に消耗しつつ、創造的に前進する宇宙を抱きとめて思索した、創造的飛躍の冒険へと飛び立った思弁哲学者だ。
コニーと夫のクリフォード卿との会話は、埋めがたい溝で隔てられて、修復不可能なまでに、ずれていく。

彼女が一笑に付した言葉は、でも、哀しいくらい、彼女の充溢する生命のはかなさを言い当ててもいる。
彼女は、その安全にしっかりと住んでいるはずの物的世界が、不可避的にこわれてゆく世界でもあることを、エントロピーは不可逆的に増大していくのだということを、はちきれんばかりの生命の充溢と身体の豊満のなかで、まだ感じてはいないのだ。彼女の周囲にも、その気配が、いたるところに描かれているのに。

こわれてゆく実在をとおして出来ていく一つの実在の気配を、僕らはこの世界に感じる。
残り火のように、それは、はかなく消え去りつつあり、それでいて切実で、生命のある種の壮絶さを具現している。人生のもっとも弱い鎖の環の、弱さのなかにこそ働く深い深い力を感じさせる。そこにひそかにきらめくものがあるとすれば、それはとてもとても繊細で敏感で、しかも、逆説的に聞こえるけれど、それは永遠である。

そんなことを考えながら、ゆっくりと床から起き上がり、そして、本を閉じて、今日のいちにちがはじまる。

こんな日には、ロレンスじゃなくて、フィッツジェラルドの哀しいほど美しい短編を読むのがいいのかもしれない。

これは、「鬱のプロセス哲学序論」かな。そんな感じだ。
試みに、今回の放談は☆★☆ 観念の冒険 ☆★☆と並行して公開してみた。



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Sat, Jan. 6, 2007

一にして多なる神


後期ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論は、「リアリティはプロセスである」(SMW.72)という洞察を出立点として、創造的に前進しつつそのつどの調和を実現する宇宙のあり方を丹念に論究していく。リアリティがプロセスであることを諸範疇の図式化によって示した「説明の範疇」というのがあって、その第一に挙げられているのが、「現実世界はプロセスであり、プロセスとはアクチュアルなものの生成であるということ」(PR.22)である。

彼はこの「リアリティはプロセスである」という根本的な認識を飽くことなく、さまざまな「系」で理論化させている。

その代表的な「系」だけ列挙してみても、思弁哲学論、範疇的構図、命題論、象徴作用論、抱握理論、延長理論、科学史・科学論、文明論、平和論、教育論、詩論、理性論、宗教論、生ける自然論、神論、不死性論などなど、ひとつひとつが白頭を戴く巨峰である。その登攀は困難を極める。実は、どれも処女峰である。誰もそれを究めたものはいない、と僕は思う。各理論は、ホワイトヘッドの博学を示していて、極めて専門的かつ多彩な当時の最先端の学識を用いており、そのほとんどは現代的観点からいっても決して古びてはいない。それゆえ、各理論の読解は生半可な態度では不可能だといえる。けれど、体系的思索の常として、その難解な論理体系の連峰を一挙に見通す展望台のような論点がある。つまり、彼の論理体系を読み解く鍵は、いくつかのポイントに絞ることができるのだ。そこさえ押さえておけば、あの壮大な宇宙論体系全体を見通すことができるはずだ。

そのポイントのひとつが、ホワイトヘッド連峰のアイガー北壁と僕が勝手に呼んでいる論点である。それは、「多と一」というコントラストをなす対概念だ。ここからアタックする登攀ルートは、累々と屍の重なる最も困難なルートであるが、その途上で出会う諸観念はいずれも重要極まりないものである。

そのルートは「全体と個」、あるいは「普遍と特殊」、「超越と内在」、「創造性と調和的秩序」、「情緒と知性」、「価値と事実」といった諸コントラストからの登攀ルートと交錯し、合流し、数々のオーヴァーハングや雪渓、クレバスに阻まれながら未踏峰の頂点を目指している。その頂上付近には、古代ギリシア哲学のさまざまな化石が発見されたりもする。まさにこの「多と一」という登攀ルートこそ、ホワイトヘッド哲学を学ぶうえで最も勉強になる試練の道である。

「多と一」というコントラストは、ホワイトヘッド哲学の中心的な問題系だ。そこをアタックしていく登攀ルートは、「恒常性と流動」というもう一つのコントラストとならんで、白頭峰登頂をめざす多くの登山家たちが再三試みている重要ルートである。だから、読者諸氏には新鮮味がないかもしれない。でも、この論点からのアプローチは、いくら強調してもしすぎることはないと思う。このコントラストからは、いくらでも、魅力的で深みのあるホワイトヘッドの思弁哲学の直観と思索を引き出すことができるのだ。

「多と一」は、パルメニデスやエレアのゼノンをはじめ、古代ギリシア最高の哲学者たちが思索した形而上学的宇宙論の中心的論題だった(山川偉也『ゼノン4つの逆理』参照)。ホワイトヘッドの思弁哲学は、西洋形而上学の屋台骨ともいえるこの伝統的な論題を現代に継承する形而上学的宇宙論の試みである。その意味で、それは、思弁哲学の正統な流れに属する。

主著『過程と実在』の主題的な思索は、「リアリティはプロセスである」という根本洞察に基づいて、「多と一」というコントラストをなす問題圏のうちで「創造性」を理論化する思弁である。思えば、「多と一」というコントラストは、宇宙を貫く「創造性」というホワイトヘッド哲学の究極の範疇を読み解くために、あまたの研究者が解釈を加えてきた論題だった。このアイガー北壁ルートは、まさに死のルートである。何と言ってもそれは、ベルクソンが、生命の活動を語るにはふさわしからぬスタティックで空間的な概念だと述べているものなのだ。

「われわれの思考の範疇、たとえば一とか、多とか、機械的因果性とか、知的合目的性などは、どれひとつとして、生命の事柄にはぴったりとあてはまりはしない。・・・生命は一なのか、多なのか・・・そんなことを誰が言えようか。」(ベルクソン『創造的進化』「序論」)。

生命は、「一」であるかと思えば「多」「多」であるかと見れば「一」、ひらりひらりと身をひるがえしながら、僕ら一切を巻き込んで滔々と流れていく。そのひるがえり、さざめき流れていく大奔流こそ、この宇宙の創造的プロセスなのだ。そのめくるめく流れとさざめきは、「知性」の範疇からはるかにはみ出す縁暈としてどこまでも広がりながら、ある気配として僕らを取り巻き、圧倒的な情動として僕らを巻き込み、衝動的な意欲として僕らを見舞う。

「多と一」は、こうして、「情緒と知性」というコントラストとも交錯する。だからこそ、「多と一」のコントラストは、その動的で情緒的なひるがえりにおいて、つまり機械的な因果性によってではなく「創造性」というまったく別の存在論的原理によってこそ、直観され考察されなければならない。これを安易に解釈しようとしても、「知性」の狭隘な迷宮にはまるばかりだ。二千年以上の伝統を負ったこの形而上学的概念をめぐる複雑な議論の殿堂も、その全貌を「情緒と知性」というコントラストのうちに置いて、生命の躍動する世界の「創造性」という新しい存在論的観点から見直すことによって、はじめて現代的な意味をもってくる。この観点に立ってこそ、「多と一」のコントラストがもつ宇宙論的で存在論的な意味が、僕らのうちに喚起されてくるだろう。だから、思弁哲学の冒険者たちは、何度でもこの難路に挑むのである。そこに山があるのだから。

独立した多元の邂逅という出来事のうちにこそ、「創造性」の躍動があり、その躍動のなかで個物として生成してきた統一的連続体のうちにこそ、多なるものの多重多層な多元性が折りたたまれ織り合わされて共存している。多なるものが邂逅し、ひとつの統一体へと生成するところに、新しさを生み出す「創造性」の無限の働きがあり、生成した一なるものの内包する多彩なものどもの息吹きが多なる世界に新しい一点を加えるところにもまた、一切を呑みこみ一切を受け止めつつ流れていく「創造性」の奔流がある。

『過程と実在』の「究極的なものの範疇」と題する重要な一節で、ホワイトヘッドは、「『創造性』、『多』、『一』は、『事物(thing)』、『存在(being)』、『もの(entity)』といった同意義語の意味のうちに含意されている、究極の概念である」(PR.21)と述べている。「多と一」を考察するということは、形而上学の根幹をなす存在論を「創造性」という究極の範疇に基づいて考察するということなのだ。 「創造性」は、存在論的原理として「普遍的なもののうちの普遍的なもの」(ibid.)であり、しかもそれをホワイトヘッドは新しさの原理(the principle of novelty)」(ibid.)と呼ぶ。つまり彼は、恒常不変の存在を思索する伝統的形而上学の転換を図っている。「リアリティはプロセスである」という最初の直観に基づいて、存在論を「創造性」の論理として新たに定式化するということは、モノスゴイことなのである。それは、西洋形而上学の伝統に革新をもたらすこと、ひいては西洋文明のあり方そのものの変革をもたらすことなのだ。いまや、西洋文明を転換するということは、世界文明を転換することへとグローバル化されつつある。「リアリティはプロセスである」というプロセス論的視座は、恒常不変の存在に対して「創造性」を宇宙論的原理とする新たな世界観の定式化をめざしているのである。

思いっきり大風呂敷を広げるのが、この放談の常だが、実際、ホワイトヘッドがやろうとしたことは、来るべき地球時代のための包括的な形而上学的宇宙論の試みであったということは、その有効性とともに、声を大にして叫びたいことなのだ。ホワイトヘッドは、すごいぞ!

そんなモノスゴイ展望をもったホワイトヘッド哲学の真髄を学ぼうとするとき、「多と一」というコントラストは、「恒常性と流動」というコントラストと並んで、もっとも重要なアタック・ポイントである。最初のベースキャンプを張るべきポイントは、「多は一となり、一つ増し加えられる」(The many become one, and are increased by one)(PR.21)という言葉だ。ここから、熟考と洞察の道が始まる。そして、この登攀ルート上でも、特に重要だと思えるのに、あまり多くの人が言及していない難所がある。それは、実在の「最終的解釈」において、〈神〉〈世界〉とのコントラストとして取り上げられる「多と一」である。ホワイトヘッドはこう言っていた。

〈神〉が一であり〈世界〉が多であるというのは、〈世界〉が一であり〈神〉が多であるのと同様に真である。
(It is as true to say that
God is one and the World many, as that the World is one and God many.)(PR.348)

解釈者や研究者のなかには、小手先の理論づけでホワイトヘッドの〈神〉を解釈しようという安易な輩も見受けられるけど、そんな態度じゃ歯が立たないことは、上の引用からも明らかだろう。この箇所には、途轍もない洞察の深みが蔵されている。それを読むには、論理をしっかりと辿る思索を、つまりハイデッガーの言うNachadenken(熟考:追思索:思索のあとを辿る思索)をしながら、かつ、その思索の出立点となっている最初の直観をみずからのうちに抱懐するよう努めなければならない。早い話が、ただ読んで理屈をこねるだけじゃホワイトヘッドは分からないということだ。

この引用で呈示されているのは、〈神〉〈世界〉という対比のなかで、「多と一」を思索するということだ。これが、最大の難所であることは分かるだろう。

〈世界〉とのコントラストにおいて、ただ一者としての〈神〉を思索するゴリゴリの一神教的な教条主義は、ホワイトヘッドのみならず現代のいかなる思索に対しても、一番ダメな態度である。といって、アニミスティックな多神論をそのまま是とするのでもない。〈神〉「一」とする思索も、〈神〉「多」とする思索も、もう二千年以上試みられてきて、現代ではその限界を露呈しているのだ。いずれの立場でも、宗教を理解することや宗教間の対話や和解を試みることもできないのは、今日、明らかである。

ホワイトヘッドの神論は、こうした現代的状況のなかで、光り輝いている。過ぎ去った神々はもはやなく、来るべき神々はいまだない、というはざまの時代にあって、ホワイトヘッドの神論は、「一」にして「多」なる〈神〉の現前せざる実在を論じる。〈神〉は、〈世界〉「超越」しつつ〈世界〉「内在」し、〈世界〉「内在」しつつ〈世界〉「超越」する。「一」かと思えば「多」「多」かと思えば「一」と、ひらりひらりとひるがえりながら、〈世界〉とのコントラストにおいて万有をしろしめす〈神〉と、〈神〉とのコントラストにおいてそれ自身をどこまでも多様に重層的に、かつ統一的、連帯的に開いていく〈世界〉の、その「多」「一」とのひるがえり、言い換えると創造のさざめき飛躍するコントラストの転換を捉えるような、原初的な直観こそ、僕ら読者がホワイトヘッドを読む際の心構えである。

放談だけど、難しいことを言うぞ、いいかい。

〈世界〉は、〈神〉とのコントラストにおいて、「一」が、「多」のアクチュアルな表現であり、「多」が、「一」の母胎的なリアリティであるような、創造的プロセスである。そして〈神〉は、〈世界〉とのコントラストにおいて、「一」が、「多」の衝動となり誘因となるような母胎的なリアリティであるとともに、「多」が、「一」のアクチュアルな自己実現を受容し救済するような、自己創造的被造物である。

分かるかい。難しいね。僕だってよく分からないんだけどね、大事なことだからね。

ほぼ同時期に、ドイツの神学者エルンスト・トレルチは、没後に出版されたその最晩年の著作『歴史主義とその克服』(1924年)で、「一」にして「多」なる〈神〉の現前せざる実在について、ホワイトヘッドとは違ったアプローチからではあるが、互いに通じ合う洞察を示している。
同書の第二講「諸世界宗教におけるキリスト教の位置」をトレルチは、次のような言葉で結んでいる。

〈神〉の生命は、われわれ地上の人間の経験では『一なるもの』ではなく『多なるもの』である。そして、『多なるもの』のうちにひそむ『一なるもの』を予感すること、これこそが愛というものの本質なのだ。」

ここには、〈神〉と地上の人間の〈世界〉との逆対応ともいうべきコントラストのなかで、「多」にして「一」「一」にして「多」とひるがえりつつ互いを引き立てあって展開する動的な実在の経験が語られている。トレルチは、自らが生涯をかけて樹立した歴史主義神学の最後の到達点として、歴史主義が洞察し切れなかったキリスト者の「個人的確信」に踏み込んでゆき、〈神〉〈世界〉との逆対応的なコントラストにおける「多」「一」との相即的で動的なひるがえりを洞察し、それを最後の言葉として語り出す。それは、トレルチによる、トレルチ自身の歴史主義神学の克服の言葉なのだ。しかしまだ、それは、「予感」としてしか、経験されない。その曖昧さをぎりぎりの洞察のなかで払拭し徹底して、論理として語り出す時間が、彼にはもう残されていなかった。しかしその「予感」的な洞察は、ホワイトヘッドが『過程と実在』(1929年)の最終章で辿り着いた実在の論理に通じると僕は思う。
カール・バルトとの対比のなかで、現代神学の文脈からは、すでに過去の神学者と見なされがちなトレルチであるが、僕は、その最晩年の思想のうちに「予感」されている洞察こそ、今日、僕らが求めている実在のもっとも深い深みを語る論理へとつながっていくものではないかと思うのだ。そして、その論理を、トレルチとはまったく独立に、ひとつの体系的思弁のうちで語ったのが、ホワイトヘッドだったのだと思う。

「全体と個」のコントラストでいえば、〈世界〉において、「個」「全体」をアクチュアルに表現する価値実現であり、「全体」「個」がそこから生起してそこへと帰属していく受容的な場所であるということである。そして、この「全体」から「個」へ、「個」から「全体」へと創造的にダイナミックに律動する〈世界〉の交互的なプロセスに対して、〈神〉は、原初的な全体として超越しつつ個へと内在し、世界全体に内在しつつ結果的な個として超越する。大事なのは、ホワイトヘッドの宇宙論では、個々の経験の契機が、〈全宇宙〉の価値を具体的かつ特殊に表現する〈創造的焦点〉だと考えられているということだ。ひるがえって、〈全宇宙〉は、個々の経験において実現した個別的価値を受け取り、その多様性をさらに増し加えていく。そうやって〈全宇宙〉は創造的に前進し、どこまでも多様多彩に、かつ調和的で統一的に、幾重にも重層的に開けゆく。さらに大事なことは、この「全体」「個」とのダイナミックでリズミックな交互的連関は、根源的かつ究極的には、〈神〉〈世界〉との超越即内在内在即超越のコントラスト的でリズミックな交互的連関において成立していくということである。大丈夫だろうか。本当に難しい。ここまで、ついて来れるだろうか。

さあ、大変だ。僕らは、一瞬一瞬、このあまりに圧倒的な〈神〉〈世界〉との創造的なコントラストの直中で、そのひるがえりさざめく創造的な飛躍の焦点として生起していくひとつの生成のプロセスだというのだ。感じるだろうか、その興趣と畏敬にみちた創造的飛躍を。固定された不変の内容とか実体といったものをもってしては、こうしたホワイトヘッドの思索を追思索することはできない。言い換えると、実体的な思索では、この創造的に開けゆく宇宙を理解することはできない。「一」にして「多」「多」にして「一」なる〈神〉の、ご自身を現しつつ隠し、隠しつつ現しながら、ひるがえりつつ万有をしろしめすリアリティの最も深い深みを感じることはできない。

この議論は、途轍もなく難しい。だけど、たとえばシカゴ学派の社会学者にしてプラグマティズムの哲学者として知られるジョージ・ハーバート・ミードにも、同様の問題意識が見られて、とても参考になる。

ミードは、初期の書評で、個人宇宙の本質的表現である」と言っているのだが、これと同じことが、ホワイトヘッドにおいてより深く広く考察されていることに、後に気づくのだ。初期のミードは、ヘーゲルの弁証法に飽き足らず、「ヘーゲルにとって、存在はプロセスのなかの諸契機のひとつであるとともに、啓示されるべき全内容である」が、このような「存在」、すなわち「固定された内容または実体は、特殊と普遍の問題をけっして解決できない」と述べている。

実際、初期から中期にかけてのミードの思索は、固定的で実体的な「存在」の思索から「プロセス」の思索へと向かう活路を見出そうとした悪戦苦闘のドキュメントである。ミードの思索の道は、まことに残念なことにその途上で断たれたが、そこには、「多と一」という形而上学的存在論の中心論題をはじめ、「全体と個」「普遍と特殊」「創造性と調和的秩序」といったコントラストに対する深い問題意識が明確である。そして、ミードは、後期の思索のなかで、ホワイトヘッド哲学に出会い、これらのコントラストをなす形而上学的な諸問題の解決の道を、実に、有機体の哲学のうちに見出していくのだ。この間のミード哲学の展開は、加藤一己氏の篤実な翻訳・研究によって知られるようになった(加藤一己「G.H.ミードの思想形成過程」、『初期シカゴ学派の世界』恒星社厚生閣、2004年所収『G.H.ミード プラグマティズムの展開』加藤一己・宝月誠編訳、ミネルヴァ書房、2004年)。

僕は、「多」「一」とのひるがえりの中で〈世界〉をしろしめしつつ隠れる〈神〉と、〈神〉の促し誘う「創造性」のエロス的衝動を受けて自己を実現していく個物の「多」から「一」へ、「一」から「多」へと律動するさざめきに満ちた〈世界〉、という読みでアイガー北壁に取り掛かっている。この「ひるがえり」、「さざめき」という軽い語感と、〈神〉の「万有をしろしめす」という畏敬のこもった語感は、どちらもなかなか悪くないと思う。もちろん、概念としてもっと煮詰め、きちんと理論化しなければならない。でも、決して忘れてはならないのは、あの最初の直観への共感と想像力の冒険だ。それを見失ってしまっては、元も子もない。取り掛かりに、まずは、多即一一即多創造的世界における創造的焦点という西田哲学的なアプローチ、および創造的世界とのコントラストにおいてみずからをしろしめしつつ隠れる超越即内在・内在即超越的〈神〉という読みは、いい筋ではないだろうか。

難しくなったね。今日の放談は、加藤氏の論文と翻訳を紹介したということで、めでたしめでたし、終了としましょう。



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