スサノオ
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 古事記によるとスサノオは父神の鼻から生れたという。風を象徴するのに鼻息を用いたこの着想は、最初にこの神を創作した民族の幼い、素直な心を思わせる。海原を治めよ、と命じられた、というのも、さざ浪を微風の足跡と観る美しい連想かも知れない。しかしこの神が長じると恐ろしい力を発揮する。「八拳須(ヤツカヒゲ)、胸前(ナナサキ)に至るまで啼きいさちき。その泣きたもうさまは青山を枯山(カラヤマ)なす泣き枯らし、海河はことごとく泣き乾しき。」。台風という自然現象、その理由の無い兇暴。手足をバタつかせて泣きわめく赤児を無限大に拡大したら、かくもあろうか。「ここをもち・・・・万物の妖(ワザワイ)ことごとくおこりき。」不吉の神。悪心は持たないが諸人に災する神。 

 「死んだ母の国。根の堅洲国に行きたいので泣くのです。」何故、泣くのか? と父神に問われた時、彼はこう答える。この答はふしぎに現代的である。父一人の手で育てられた非行少年が母を慕うテレビドラマのセリフとまったく同じなのはおもしろい。太古にもそんな悩みがあったのだろうか。「ここにイザナギの大神いたく忿怒(イカリ)して」じゃあ勝手にせい、と追い出す。「すなはち、神やらいにやらい給いき。」スサノオはひとりの姉をたずねて高天原にのぼる。 

 だいたい、イザナギ・イザナミは神話でも最初の夫婦で、日本国のすべての国土(ただし海の底から釣り上げたオノコロ島は別だ、とことわってある。)と神々の生産者であるからスサノオの兄弟姉妹も八百万とあるわけなのだが、神話で兄弟らしい交渉をあらわすのはアマテラス−−ツキヨミ。アマテラス−−スサノオだけである。つまり名前だけの神々が多過ぎるのである。これをギリシャ神話とくらべて見るが良い。あちらでは美しい男女の形をした神々の性格と運命の綾なすロマンスが無数に語られる。ここでは、まるで博多人形の店でこどもが遊んでいるのを見ている気分だ。こうなった原因はいろいろあるだろうが、記紀の編纂者たちが意識して、天皇家関係以外の伝承を間引いた、と云うこともありそうだ。 

 暴風雨の神スサノオの歩みは大地を震動させた。「山川ことごとく動(ドヨ)み国土みな揺りき。」アマテラスは驚いて「まあ、あの弟が来るなんてロクなことでは無いわ! きっと、わたしの国を奪いに来たんだ。」彼女は一国の女王として武装する。古事記の、ここの叙述は美しい。それは男装である。髪形をミズラに結び、頭にも左右の手にもヤサカニのマガタマのイホツミスマルの玉を巻き、背には千入五百入の靭(ユギ)を負い、イツの竹鞆を佩び、弓を振り立屎て土煙を蹴立て足踏みして、イツの雄叫びをあげた、という。記紀成立の数十年以前に壬申の乱があった。天智・天武兄弟の両統が流血して皇位を争ったのである。その記憶がこの場面に反映しないはずは無い。つまり皇位の不可侵性を強調するのが目的であったろう。 

 和解の方法として、姉弟は、子供の産みくらべという奇妙なスポーツを選ぶ。ここで列挙される神々の名が奈良時代の貴族どもの遠祖ばかりなのが気にかかる。とにかく、女を生ませたから、自分は潔白、とスサノオは宣言する。そして勝利に浮かれて乱暴を働く。 

 その悪事とは田の畦を崩し、用水路を埋め、食堂に糞をひり、反吐をつくことであった。前の二つ、畦離(アハナチ)、溝埋、は農作業上のタブーであろう。「大嘗(オオニエ)きこしめす殿に屎(クソ)まり散らす」 のは穢れを忌んだ古代人には、現代のわれわれが感じる以上のショックであったろう。しかし、アマテラスは弟を弁護する。溝を埋めたのは土地がもったいないから。床をよごしたのはお酒を飲みすぎたから。ここでもホームドラマの姉の役をする。  甘やかされた弟の非行は頂点に達する。彼は天斑駒(アメノブチゴマ)を逆剥ぎにして、姉が仕事をしている機織室(忌服屋(イミハタヤ)の屋根をぶち破って、死体を投げこんだのである。 

 大祓の祝詞に天ツ罪と国ツ罪とある。その天ツ罪というのが農事上のタブーを並べたものと思われる。「畦放(アナハチ)・溝埋(ミゾウメ)・樋放(ヒハナチ)・頻蒔(シキマキ)・串刺(クシサシ)・生剥(イキハギ)・逆剥(サカハギ)・屎戸(クソヘ)」である。読めばわかることばかりだが、逆剥ぎだけは、まだうまい説明を聞いたことが無い。兎などの小動物を剥皮するには、一方の後足を縛って吊り下げ、上の方、つまり動物の尾元から両足にかけて刀を入れ、毛皮を肉から引き放して引き下げる。毛を内面にした筒形に剥ける。ちょうど、こどものシャツを脱がせるような形だが、これを袋剥ぎという。逆さにし剥ぐのだから逆剥ぎにちがいない、と思うのだがこれがどうして罪の一つに数えられるのかわからない。ただし、この方法で牛馬を処理できる人物がいたとしたら、それは恐るべき巨人であろう。わたしは、むしろスサノオの暴行によって、逆剥ぎが天ツ罪に数えこまれたのではないか、と思う。 

 脅やかされたアマテラスは天岩戸に隠れ、世界は暗黒になる。ここで初めてアマテラスが天照大神であることが明らかになる。古事記の記す彼女の行動は必ずしも「神」のそれではない。生れた時に父神から高天原の統治を命ぜられた。「汝(イマシ)が命(ミコト)は高天原を治(シラ)せと事よさせ賜いき。」 

 男装してスサノオに立向かった時は王者の態度であった。スサノオの乱暴に驚かされた時には神の御衣を織っていた。これは神のすることでない。神に仕える巫女の神聖な業務である。彼女はシャーマンであった。

  しかし、今度こそは太陽である神であった。天地が暗黒になっては、それを疑うことはできない。だが太陽という最高神であると同時に神に奉仕するシャーマンである、という矛盾が在り得るだろうか。 

 スサノオの性格もまた、変転する。追放されて地上の人となった彼はヤマタノオロチを殺して、その犠牲にされようとしたクシイナダヒメと結婚する。天上の秩序の破壊者は一変して農民の保護者になるのである。かつての暴風雨の主神は慈雨の神となる。八雲立つ出雲とは水分の多い豊かな国のことであった。奇稲田媛(クシイナダヒメ)を祭る神は諸国に多い。それはことごとくスサノオの功績を崇めているのである。  岩見重大郎狒狒退治式説話は、わが国にも数限りなくある。荒ぶる神の要求によって、年々の生贅が捧げられる。ある日、フラリと流れて来た放浪者が迷信を打ち破って、救われた美女と結ばれる。彼は古き恐るべき信仰からの解放者の役を勤めている。もちろん、「彼」は一人ではなかった。各地で反抗運動が起って、最後にシャーマンによる政治形態が崩れたのてあろう。わたしは「神武天皇」もそのひとりだったろうと思っている。

  やがてスサノオも年老い、娘一人と根の堅洲国に移り住んでいる。そこへ麗しい青年、オオナムチが訪ねて来る。彼はスサノオの六代の孫となっているのだが、それには大した意味はない。ただ時間の経過を示しただけであろう。娘スセリヒメと、この青年の恋愛を知ったスサノオは、次つぎと難題を課し、オオナムチはスセリヒメの援助によって、ことごとく及第する。有触れた筋書どおり事件は進行し、最後は宝物を盗んで出奔する、若いカップルに、老いた祖父としての祝福の言葉が送られて終る。ここでは彼は成年式の行事を掌る神である。彼のテストに耐え切って、初めて男は一人前となり、妻をめとる資格が与えられる。実際には、彼の職掌は村落または氏族の長老によって行われたのであろう。

  わたしは古事記に現われたスサノオを、以上のように解している。しかし生の国へ立ち帰る若い二人を追ったスサノオは死の世界の境であるヨモツヒラサカを越えなかった、という。だから彼は、今でも黄泉(ヨミ)の国をしろしめしているはずである。  ここに、変身を重ねたスサノオの、最後の性格がある。彼は死者の国の王−−アマテラスに対比されるべき、太陽の無い国の統治者になったのである。

 

 

       疣  石 

  相原廃寺の跡に近く(中津市下永添)念仏寺の境内に、イボ石という大きな丸石がある。直径は約二メートル。高さはそれをわずかに押し潰したほど。このあたりでは見掛けない石質で、黒灰色の表面に黒色の結晶が、全面にザラザラと突き出している。だからイボ石というのだろう。頂上に三〇センチ径の丸い穴が掘られて雨水が溜まっている。この水を塗ると疣が落ちるという。説明の立札によると、これは相原廃寺の塔の心柱の礎石である。 とすれば、この汚い穴の底にも、美しい舎利壷が納められた時もあったのであろう。元あった場所が開田されたので散逸を恐れて、ここに集め保存した。と自慢げに書いてある。

 そのおかげで、今では、どこにその塔が立っていたのかもわからなくなった。 一五〇〇年という年月が、いかに人の心を退化させるかを示す好い例である。 

  附記−−この石は礫石。多分、角轢石というのだと思う。きのう、(九月十二日)、耶馬渓の洞門の近くの山道で、沢山見た。

 

 

       安 心 院 

 安心院と書いてアジムと読む。他国者には意地の悪い地名である。駅館川上流の小さい町。天然記念物のサンショウウオが居て、鯉とスッポン料理が名物。それだけの予備知識を携えて出掛けたのは、たしか昭和四十年の、明るい秋の日だった。  バスは円座という、古風な名の集落から、分れ路を左に急な勾配を攣じ登ってゆく。やがて谷間が行きつまって、小さいトンネルを抜けて出たところがアジムの盆地であった。 

 古い、便所くさいバスターミナルの前で下ろされて見廻したが、古めいた田舎町はヒッソリと人影ひとつ無く、戸を開けている店もない。秋にしては暑過ぎる陽がカンカンと照っているばかり。白けた気持で鼻先きの食堂と看板を出した店で、稲荷鮨をつまみながら、これも昼食に入って来た車掌たちに、「見物に来たのだが」とたずねたら「サァ、何があるかしらん。」と心細い返事が返って来た。それでも三、四人が額を寄せた末、仙人岩が良い、という。福貴野(フキノ)行のバスがすぐ出る。ただし見物の時間は二十分はどしかない。乗って行ったバスが終点で折り返して帰って来るのを外すと、もう夕方まで車の便が無いから、と云うことであった。 

 何か突き放されたような気持ちで、人気の無い挨りっぼい町並をゴトゴ卜行くバスに身を任せていると」、町を出外れて五分のとこるで下ろされた。大きな岸壁の根元に、小さい祠(ホコラ)と小広い空地がある。ふくらんだ岩肌が頭の上の秋空をさえぎっている。岩が張り出Lているのと、あまり近過ぎるので高さのほどはわからない。岩のところどころに取りついて木が残っている。明るい秋日に風が死んで、ジットリ汗がにじんで来る。人はこういう状態の時、恐怖を感じる。何万年か前に大地変があって、ここにこの岸壁ができ、それから何万年かの間じっと立ち尽して来たのだ。これからも恐らく何千年かは、このままだろうと自分に説明して聞かせるのだが、やはり心の底では、今この瞬間に、この岩壁の命脈が尽きて、自分の頭の上に崩れて来るかも知れない。いや、きっと崩れて来る。いったい、おれは何だって、こんなつまらないものを見に、わざわざやって来たのかしら、と後悔さえしはじめるのである。

  おさえつけられたような気持の二十分が、やっと過ぎてバスが戻って来た。途中の橋のたもとで降りる。地図で調べて置いたのだが、このあたりの小高い崖の上に妻垣(ツマガキ)神社があるはずである。あそこだ、石段が五、六十段。病後だったので少し疲れていた。左手の坂路へまわる。神社の境内に連なって一集落、古めかしい農家が竹藪などを透して見える。

  お宮の前は広庭、秋祭も済んだあとか、割合、奇麗であった。社殿の裏は崖ぷちの、スカッとした青空の下に安心院盆地が隠れなく見晴らせた。 

 気取っていうなら勾玉形の平地が、満作の稲穂を敷きつめて、小高い−−低い丘陵に囲まれている。谷川の瀬が三方から流れこみ、アジムの町並は平地の隅、丘の縁取りのように、くすんだ色を並べている。黄ろい勾玉の中心点に小学校か中学か、運動場はゴチャゴチャと旗と人がかたまって、ときどき歓声がここまで響いて来る。なるほど今日は運動会だったのか、とやっと町に人気が無かったわけが悟れた。

  ここは昔、きっと湖だったに相違ない。それが自然にか、人の手でか、切って落されて谷地になり、やがて水田になった。その湖だった時代を考えれば、この今、自分が立っている崖のあたり、ひたひたと澄んだ波が立って、妻垣神社が影を浮かべ、妻垣の集落が水 際に立ち並んでいた、としても不思議はない。はるかかなたの岸べから、丸木船が敬虔な信仰者を運び、この宮にしろしめすシャーマン王−−その名をハナタラシヒコと申し上げる−−に敬意と貢物と、近ごろヤマトから攻め寄せた軍勢−−その長はオオタラシヒコ−−の動勢報告を奉ったかも知れない。

  谷地の時代には、稲苗を携えた農民たちが、沼地のへりの日当りの良いところを選んで水田を開きはじめた。わずかな田の外は深い葦原であった。その、人の歩けないほど密生した葦のなかにはへビやイノシシや人を見ても逃げない、時としては角を振りかざして攻撃して来る鹿がいた。人は獣を恐れて、水の上に高床の家を建て、小さい村を作った。ゴミや、食いあました魚骨や貝や、死者の遺体まで、葦の中に捨てた。夜になると、一晩中、高い声で泣き叫ぶ鬼もいた。それが夜鳥であることを知らないで、ただ恐れた。

  怖ろしいものは妻垣の宮にもいた。その神は毎年、生贅の肉を召上がらないと満足されないのであった。妻垣の集落から武器を持った男たらも降りて来た。彼らはお初穂を要求するのだった。その高みに住む連中は、葦原の人たちとは言葉がよく通じなかった。鼻も高く、手足が長く、身体も良く、毛皮を着ている者が多かった。ふだんは威張って人を見下げる風、があったが、時どきは鹿や猪の肉な持って来た。それを食塩と交換するためだった。その時だけは農民の方がうわ手だった。塩がめを上手に隠して置いて、少しずつ渡して、もっと肉を持って来い、と要求するのだった。その時なら、着ている毛皮を脱いで、 置いてゆかせることさえできた。  わたしたちはこんな風な空想をつづけた。それから石段を下りて、橋の畔にもどり別府行のバスを待った。   

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