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聞こえぬ音

以下は、2000年6月25日神田パンセホールで開催された「辺見庸講演会」(「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」主催)における同氏の講演を文章化したもので、フォーラム90の機関紙「FORUM90」7月27日号に掲載されたものの全文です。長文ですので、プリントアウトしてじっくりお読みになることをお奨めします。
辺見氏は1944年宮城県生まれ。70年共同通信社入社、北京特派員・ハノイ支局長・外信部次長などを経て96年退社。作家。 日本新聞協会賞、芥川賞、講談社ノンフィクション賞など受賞。「自動起床装置」「もの食う人びと」「反逆する風景」「屈せざる者たち」など著書多数。
フォーラム90は、死刑廃止国際条約の批准を求めて運動している市民団体です。国会議員、弁護士、マスコミ関係者、宗教関係者などを含む約5000人が参加し、死刑制度廃止をめざして活動しています。
連絡先は:東京都港区赤坂2-14-13 港合同法律事務所気付
死刑廃止運動については死刑廃止ネットワークセンター(アムネスティ死刑廃止チーム)に情報があります。
転載を禁じます。この講演録を「俳句の森」に転載することについては、辺見氏の了解のもとフォーラム90より許諾を受けています。それ以上のことについては私にはいかなる権限もありません。再配布や商業目的の利用などについては、必ず事前に著作権者にご相談下さい。
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講演「聞こえぬ音」  辺見 庸

 私の話はあまり面白くありません。私が、いつも胸のかなり奥のほうに貯めている話を今日初めてするわけなので、自分でもいささか重苦しい感じを持っています。一生懸命話しますのでしばらく付き合っていただきたいと思います。
 私は一九七〇年に共同通信社に就職しました。最初の赴任先が横浜支局でしたが、いま有名になった神奈川県警の記者クラブにほぼ五年間所属し、特ダネ競争に夢中になりました。いま振り返ると、いささか堕落しいろいろ悪い事もしてきた気がいたします。
 そのとき私がよく通っていた中華街で新聞を発行していた中国人の古老に「私も記者になったのですが、どのようなことを注意したらいいのだろうか?」と問うたわけです。私は人生論とか格言のようなものは生理的に受けつけないほうなので、口にするのもちよっと恥ずかしいのですが、「見えない像を見なさい、聞こえない音を聞きなさい」彼はこう言ったわけです。
 しかし私はその話を聞いて、多少は気になりながらも、しばらくして忘れてしまったのです。いつも功を焦り、二〇年くらい特ダネ競争の世界から抜け出せずに生きてきたと思います。
 私は何かに気づくのがとても遅いほうで一九九六年末に会社を辞めたのですが、そのころに初めてこのおじいちゃんの言葉を思い出すようになったのです。
 マスコミという特殊な言語圏から脱出して初めてほんとうに大事なこと、書きたいこと、表現したいことを真剣に考えるようになりました。大事なことというのは派手派手しい現象の、むしろ陰にあるということ、聞きたい声、聞きたい話というのは凄いボりュームで語られるその音の陰に、幽けき声としてあると考えるようになりました。
 今の時代は大雑把に言って、自分の思いを原寸大に伝えていくことが非常に難しい時代であると感じています。言い得ない風景、語ろうとして語り得ないことがたくさんあります。ああ、これは大事だなと直感としては分かるのですが、適切に表現出来ない。なかなか伝わらない。それを苦しんだりもがいたりしながら、なんとか言おうとしなければいけない、そういう時代だと強く感じています。
 私の好きな思想家でヴァルター・ベンヤミンという人が、「言い得ないもの、語り得ないものを言葉として純粋な結晶として抽出すること」、これが言語の尊厳だ、言葉の尊厳だと指摘しています。語り得ないもの、沈黙の核のところ、奥底の沈黙の核に言葉を集中的に向けていくことが大切である、と。何かの手段となった言葉はだめなのだ、と彼は言うのです。すべてのこと、右につけ左につけあらゆる思想が、言葉がすぐに行動に直結するようなことに対して、彼は疑りをさしはさんだのだと私は思っています。

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 そこでこれから具体的なことをお話したいと思います。これも、語ろうとして語り得ない大切なことです。どのように言葉を抽出していいのかよく分からないですがやってみたいと思います。
 最近なのですが、物書きとしての自分のキャリアの中でも非常に衝撃的な経験をしています。それは人を殺したことのある人物と会ったことから始まりました。彼は被告人ですから、私は会う前に入手可能な公判資料、マスコミの記事などあらゆる資料を読んで行きました。息を詰めながら読みました。本当に息が詰まるような思いがしたわけです。
 それは行間から生臭い血のにおいがするような、そういう文章です。極端に具体的、具象的です。陳腐な表現に満ち満ちているわけです。使い古された紋切り型の言葉の羅列です。ただ、行間からたっぷりと血のにおいがする。
 「けだもの」「冷酷」「狂暴」「非道」「人間のすることと思えない」「反社会的」「甘ったれ」「同情に値しない」「語道断」「短絡的」「自己中心的」「卑劣」「人の命や尊厳に対するいささかの畏敬の念も見出すことが出来ない」「天人ともに許しがたい」「鬼畜」「血も涙もない」……という言葉に満ち満ちています。
 救いようのない言葉の羅列でした。それでも、ま、想像可能な文章であったわけで、私はその資料を半信半疑ながらも、かなりイメージを膨らませながら、面会室のあの透明板の向うに座った生身の彼と話しました。
 まったく別なのです。
 顔の輪郭から眼差し、語り口も、資料が描いたものとまったく別であります。彼と会えば会うほどそうなのです。超具体的な具象的な言葉で語られた、その分だけ虚構だらけの、まったくのフィクションがマスコミの報道であったし、法廷資料だったと今では考えています。それらの文章は悲しいことに彼の外形的な特徴さえも言い得ていない。おそらく百万言も費やしていながら、二、三行ほども彼の真の人間像について語っていない。なぜなら、人間的な細部のいっさいをこそげ落としているからなのです。
 司法の言葉、あるいは報道の紋切り型で語られたことというのがいかに実像と違うものかと私は思いましたし、そのことをとくと知らされたことで、私は奥のところで傷ついたと思っています。我々は簡単に事実あるいは真実と言いますが、そのときに思いましたのは事実ということの頼りなさであります。

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 私はこの言葉を思い出したのです。これは一九七一年に埴谷雄高が書いた文章ですが、「そこに『事実』があると受け取ってしまえば、そこはある種の想像力の墓場となる」(「事実と真実についての断片」)と言うわけです。埴谷はさらに次のように記しています。「主題が人間である限り、『事実』とはつねに永劫に掘り起こせない過誤を含んだ何物かであるといわねばならない。即ち、事実でないことをつねにそこに保ちもつこと、それが『事実』の保ちもつべき恐ろしい逆説である」。事実というのは必ず人間的な過誤を含んでいる、事実という言葉は悲しいかな”非事実”ということを保ち持つ。それが事実といわれていることの逆説なのだ、と言っています。
 被告人の実像と、それから法廷が彼を表現した数々の言葉、あるいは警察によって取られた調書との気が遠くなるほどの幅、食い違い、これは一体何によって生まれてくるのでしようか。
 私はこう思うのです。表現者、書き手がまったく自分は無謬である”善”の実践者であるという前提からものを書いてしまう。内省というものを一切省いた文章になっていることが、実像と彼を非難する文章とのとてつもない乖離を作っていると思うのです。
 内省をしない、自分の心の中の深い井戸のようなところ、その底のほうに漂っている闇のようなもの、あるいは腐った水の臭いのようなものを嗅ごうとしない。自分という井戸の底を覗こうとしない。つまり冒頭で申し上げた、見えない像を一切見ない、聞こえない音は聞こうとしない、そのような態度で文章を書いていたと思うのです。
 たしかに彼は人を殺しました。殺したことを認めてもいます。
 あの透明板の向うに座っている彼に私が何を感じているかといいますと、恣意的に彼のなかから善を抽出しようとしているのではありません。彼をいい人だといいたいのではないのです。悪い人だといいたいのでもない。そのような善悪の二分法は私にありません。なかなかうまい言葉が探せず悶々と悩んでいたのですが、ある言葉が思い浮かびました。これは方言だと思うのですが、「もごい」という言葉です。恐らく「むごい」という言葉から来ていると思うのですが、惨状、惨殺の惨であります。あるいは過酷の酷という字をあてることもあります。意昧は惨いというのはもちろんですが、惨たらしい、残酷である、それから不思議なことに可哀想だ、痛ましい、あるいは愛しいという意味もあります。「もごい」という語感の中には標準語の「むごい」以上のかなり相反する、矛盾する意味が隠されているわけです。
 それは不条理なものを運命的に持たされた存在、それを背負わされてしまった存在、有機体として一個でありながら複雑に矛盾する存在です。人間だけではなく、物でも動物でもそうだと思うのです。ジャン・グル二エのように言うならば、存在自体の哀しさ、不幸のようなもの。罪をかかえて生きている、そのことの哀切さ、そういうふうにあることの愛しさみたいなものではないかと思うのです。
 私はいろいろなところに旅してきて、戦場取材も何度か経験しております。戦場に転がっている人間の断片のようなものも私は見たことがあります。五体がバラバラになった人間、黒焦げの兵士。被弾して薔薇の花弁のようになった肉片…、そういうのを見るたびに単純な惨さではない、存在としての哀切さというのでしょうか、そういう思いをしたことがあります。
 それは被害者でもなければ加害者でもない、生まれ、生き、苦しみもがく存在であることのいとおしさであります。これはなかなかうまく言えないのですが、「もごい」としか言いようのない、そのような思いを、私が付き合つている彼にも感じたわけであります。これが私の発想の基本になっているといっても過言ではないと思います。
 先ほど、司法の言葉やマスコミ報道の文言では彼の実像がさっぱりたちあがってこなかったのだということを私は言いました。とりわけ、内面的実像に迫ろうとしたら、検察やマスコミの文章表現力、あるいは人間に対する読解力は、三流ホラー小説並みであり、とても惨憺たるものだと言わなくてはなりません。

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 次のことを語るのを私は何だか畏れ多いことのように感じています。果たして言っていいことなのかどうかわかりません。禁を犯すような心持ちもしますが、敢えて申し上げます。あるとき、私はその被告人に問いました。「若いころにいちばん感動したことって何だったっ?」と。彼は答えました。「チャップリンの『ライムライ卜』を観たときです。涙が出ました」と。『街の灯』にも大変感動したというのです。彼はたくさんの言葉を費やして、いかに胸打たれたかを語ったのです。私としては、彼がそれらに感動したということに感動しました。なぜかと言えば彼と同世代の人間は、一般に、チャップリンの名前をよしんば知っていても、作品を観てはいないからです。また、私の世代でも、多くの者は、チャップリンのこれらの作品に感動する力といいますか、そのような感性の共鳴板をすでに失っているからであります。私はこのことだけをもって、彼は善人なのである、死刑にすべきではないと言っているのではありません。むしろ、こうなのです。被告人は、事実、『ライムライ卜』や『街の灯』に涙を流すような内面を持った人間なのだけれども、仮にまったくそうではなくても、彼を死刑にはすべきでないと申し上げたいのです。なぜなら、存在が「もごい」からなのです。
 裁判官、検事、マスコミは、しばしば、人間の特定の行為だけでなく、勢いあまって、その存在、人間存在自体までをも、低劣な言葉を用いて指弾することがあります。存在自体の否定をやらかすのです。私は、やはりジャン・グル二エの「悪意は暗殺者の手にする武器であって、暗殺者そのものではない。ユダはその行為によって有罪なのであって、その存在によって有罪であるわけではない」という言葉を想起するのです。
 まさに存在によって有罪なのではない。存在によって有罪というのなら、人間存在は、より深く省察するなら、私もあなた方も裁判官も検事も、皆、全体として有罪というべきです。存在によって有罪ではない。ということは極刑というのはありえないのです。あってはならない。それを国家の制度にしてはならないのです。

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 人間を国家が抹殺する死刑の制度というのは、じつに計画的に隠蔽され、周到に抽象化されております。先ほどの法廷資料、報道の言葉の具象性、具体性とはまったく裏腹に、事実が希釈され、具象性、具体性をまったく剥奪され隠蔽されています。それがまずもって我々の死刑制度に対する考え方を曇らせてしまう原因であろうと考えています。極端に抽象化してしまう。殺す主体を巧妙に隠し、殺人の経緯と方法を隠蔽してしまうわけです。
 これを別の観点から言うのは皆さんの怒りを買うかもしれませんが、敢えて私は描写したいと思います。ペッ卜です。私はあるとき、犬が殺される風景、システムをたまたま見る機会がありました。この社会は、いたいけなかわいい動物たちへの愛と慈しみに満ち満ちているかのような幻想を与えているわけですが、私には市場原理に基づいて愛とか慈しみ、癒しみたいな言葉と思いが単に一山いくらで売り買いされているに過ぎないと思えるのです。
 ペツ卜たちもまた大量消費され、また再生産されていく。年間六〇万匹くらいの犬、猫が日本では行政機関により殺処分されております。つまり、ガスで殺され、焼かれているわけです。捨て犬、人を噛んだりする犬、買主が飽きてしまったり、それからブリーディングの失敗による犬もいます。バブル期にはペツ卜をみんなが欲しがって、業者がどんどん近親相姦させていくわけです。そこで障害を持つ犬が生まれてくる、それは商品化出来ないから片っ端から自治体にある犬、猫の処分場に持っていく。これは公的機関がやっているわけです。話には聞いていました。けれども私はそれを実際に見て本当に愕然としたわけです。
 私が見学したのは、犬の処分場でした。犬たちは最初は大部屋に入れられているのですが、仕切りの鉄柵がスライド式に移動して金属ボックスに犬を入れて閉じ込めてしまう。そしてガス室に送っていく。すべて中央制御室にいる人がボタンで操作しているのです。ガスが注入され一酸化炭素が金属ボックスに注がれる。安楽死だというけれど冗談じゃない。モ二ターテレビで見ていますと、犬たちは痙攣するし、口を苦しみのあまりカーっと一八〇度くらい開けるのです。私は犬がこんなふうに苦悶するのを見たことがない。
 で、私はそれを見てレポー卜を書き、それからテレビの映像向けの文章を書き、工ッセーも書きました。驚いたことに、これに対する反響が凄まじいわけです。感動したという手紙をたくさんもらいました。いろんな動物愛護団体から講演をしてくれと言われました。私は死刑制度に反対する文章を何度か発表したことがあります。こちらにはさっぱり反響がないのに、ペッ卜の殺処分には皆が涙を流すのです。実に不思議な国だなあと私は思います。
 ジャン・グル二エという人は「社会というものは、全体的にみれば、各人が死刑執行人であると同じに犠牲者であるように作られている」と言っております。皆さんは死刑執行人じゃない、と言うかもしれない。でもたぶん末端で犬を焼いている人、あるいは末端で死刑囚の首に麻縄をかけている人物よりも、手を汚していないという点で、我々はとても罪深いのだと思います。我々は手のきれいな、無意識の死刑執行人ではないかと思ったりすることもあります。

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 犬、猫の殺処分の現場も、実際には一般の社会から隔離され、隠蔽されております。私はあくまで特殊なルー卜で見せてもらったのです。これが、人間に対する国家によるシステマティックな殺人=死刑執行となると、隔離、隠蔽の度合いは、まさに半端ではない、文字どおり完全犯罪並みになります。紛うかたない殺人であるにもかかわらず、すべてを無人格化してしまう。たくさんの人間がかかわっているにもかかわらず、無人称化してしまうのですから。それこそが、国家による殺人の本質ではないかと私は考えております。無人称化するだけではありません。色も音もにおいも消してしまう。人が想像するあらゆるきっかけを消し去る。誰でもない者が、音も色もにおいもなしに、消しゴムで字を消すように人を殺す。ノーバディが人を殺す……。そのようなことがあり得るのか、許されていいのか、と私は言いたいのです。
 犬、猫の殺処分には十分すぎるほどの想像力を働かせ、しきりに悲しみ、涙を流すけれども、人間の殺処分には、国家の思惑どおりに、想像力を停止させてしまい、反対するどころか、一滴の涙も流さない。見えない像は見ない。聞こえない音は聞かない。これこそこの国の消費資本主義の、一見慈愛に満ちた、その実、無慈悲な循環であり、システムではないかと思います。
 人が人を殺すということは、音つき、においつき、色つきの具象的行為であり、非常に具体的な動作でもあります。凄絶なる存在破壊なのですから。同じように、国家が人を、生身の人間を殺しても、音つき、においつき、色つきの、これ以上ないほどの具象的行為であるはずなのです。にもかかわらず、具体性をすベて薄め、痕跡を消し去り、殺人を単なる抽象概念に変えてしまう……このことをどう考えればいいのでしょうか。
 さきほど、私は死刑制度の不合理を語るのに、ペッ卜の殺処分を引き合いに出しましたが、やはり、引き合いに出すことすら、心の奥のところで、罪深いと感じています。こうした下手なアナ口ジーは私の憤りの表れ、憤りの果ての逸脱としてご寛恕いただきたいのですが、なおかつ、私としてはなんだか名状の難しい罪、すなわちスィン(sin)を感じます。この罪、スィンについて少し私は話してみたいと思います。なぜなら、昨今、世間やマスコミは、スィンとクライムを同義のものとして、ごっちゃにして語っているからです。マスメディアは後者をさかんにあげつらいつつ、前者(スィン)を絶えず生成し、それにまみれていると私は思います。クライムとは、むろん、犯罪のことです。クライムとは法律という相対的社会規範によって、その軽重が、時代により、場所により、文化領域により変わるものです。スィンはそれに対し、法には直接触れないかもしれないけれども、見えないところに伏在している、深くて重い罪業のようなものです。法の領域はクライムには及ぶのですが、スィンにはしばしば無力どころか、法自らが原罪を負うているといってもいいかもしれません。死刑制度はまさにそれです。
 例えば、死刑執行命令書に判子を押した歴代の法務大臣たち、後藤田さん、臼井さん、あるいは松浦さんはたしかに犯罪はしていないかもしれない。しかしながら、彼らには十分なスィンがある、と私は考えております。ここで、ひとつのイメージを思い浮かベてほしいのです。見えない像を見てほしいのです。死刑判決が下されてから、それが確定し、「死刑執行起案書」が法相に提出され、法相が「死刑執行命令書」に押印し、この命令書が拘置所に届けられ、執行担当刑務官らが決まり、所長が該当死刑囚に「言い渡し」を行い、執行の手順が確認され、死刑囚に目隠しと手錠が施され、執行官が首に麻縄をかけ、両膝を縛り、絞首装置のハンドルを引くか、ボタンを押すかして、鉄の踏み板が二つに割れて、死刑囚が地下に落下し、張りつめた口ープが首に深く食い込み、平均十四分ほどで絶命する……この気が遠くなるほど長いプ口セスを想像していただきたいのです。
 この長いプ口セスは下部に近づくにつれて事態が具象化し、逆に上部に遡れば遡るほど、ことがらが抽象化していくわけです。法務省のキャリア官僚たち、法務大臣はおそらくさほどの痛みを感じていないでしょう。いや、想像上の痛みなら多少はあるかもしれない。でも、彼らの想像力はきわめて貧困なのではないでしようか。それはまさしく、先ほど申し上げたような、「想像力の墓場」なのではないかと思うのです。〈法を厳正に執行しているだけだ。私がやっているのではなく、システムがやっているだけだ。私がやっているのではなく、システムがやっているのであり、制度に基づいているだけなのだ〉。そう正当化しているのにちがいありません。生身の人間を絞め殺すのに、全体像を概念化して逃げるのです。殺人という行動を無人格化し、無人称化して、我関せずの態度をきめこむのです。

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 私は、いまのこの国には「鵺(ぬえ)のような全体主義」があると何度も言ったことがあります。死刑制度に対する態度もまさに「鵺のような全体主義」です。皆で顔を隠す。主体を消し去る。責任主体がどこにもない。ですから、この社会では、私もあなたも皆が、死刑執行官なのだと言いたくなるのです。ともあれ、死刑執行に至る長いプ口セスを遡っていけばいくほど、人間的主体が薄まり、「私」が消え、ことがらが無機化し、単なる口ジックになってしまう。じつはここにも、死刑制度存置論のまやかしがあるのです。存置論は、「想像力の墓場」にしか成り立ち得ない、責任主体なき発想なのです。
 さて、死刑執行に至るプ口セスの順路を行ってみる。つまり、法廷から刑場までの長い道のりをそのままたどっていけば行くほど、死というものが切迫した風景として立ち上がってくる。人間の死が具象化する。声もにおいも音も感情も激しく交差し、渦巻いてくるわけであります。死を前にした死刑囚が、恐怖し、鳴咽し、涙にまみれ、精一杯、人間のにおいを放っているはずであります、このプ口セスを遡行すれば、上級機関に上がれば上がるほど、そこには工アコンのきいたこぎれいなオフィスがあり、紙のにおい、インクのにおいがするのみです。いや、それだけでしようか。何かが濃くにおっているのです。それは、スィン、罪業のにおいです。濃厚なスィンのにおいです。それは、刑場から上級機関に遡るほどに、濃く漂っているはずです。私はそう信じます。
 罪業が底の暗部に沈殿したあとの、上澄みの風景を日常というならば、スィンはその質が深ければ深いほど、平素は目に見えず、におわないものです。それはまた、構造が大きく、システマティクであればあるぼど、つまり国家的規模であればあるほど、スィン本来の様態を隠し、背理の痛みを薄めるものです。

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 スィンの在りかが語られなくなり、そのかわりに犯罪ばかりがじつに力ラフルに、劇的に描かれるようになったのはいつからでしょうか。しかし、犯罪を報じ、語ることが、あたかも罪業を論じていることのように勘違いしてはならないと私は思います。見えないスィンの所在を見つける、なかなかにおわないスィンのにおいを嗅ぎ分けることが、いまほど必要になっている時代はありません。深い眼差しと鋭敏な嗅覚をもたなくてはなりません。クライムとスィンを混同してはなりません。深い省察を通じて、その区別と関連性を探っていかなくてはならないと思います。
 許しを請うている者を殺すな。深く詫び、更生しつつある者を殺すな。そのように、人は言います。そのとおりです。でも、私はさらに言いたいのです。許しを請うてなくても、殺すな。いまだに更生していなくても殺すな、と。改俊してようと、していまいと、存在そのものが、「もごい」からであります。無価値なもの、不要なものなど、この世に存在しません。仮に全的に無価値なもの、不要なものがあるとしたら、それこそ、こよなく「もごい」のであります。再び、殺される犬のことを引き合いに出すことをお許しください。人を噛み、けがさせた犬、老いて役立たずになった猟犬、野犬……。これらを無価値なもの、不要なものとして殺処分することを残虐と非難する前に、我々は人間のほうに深い視線を注がなくてはならないと思います。人を「殺処分」するシステムこそが憤りの対象であるべきではないでしようか。

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 私にはときどき死刑制度というものが思考の試薬のように思えることがあります。あるいは試験紙のようです。死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。人間観の中心部分も照らし出されます。法律の分野だけでなく、文学、芸術、教育……すべての領域で、死刑制度をどう考えるか、問い直さなければなりません。この制度を肯定するのか、否定するのか。なぜ肯定するのか、なぜ否定するのか。これにしっかりと答えることは、私たちの生き方そのものに関わるのではないかと私は思います。
 一九九七年八月一日、永山則夫氏に対する死刑の執行が行われました。この問題について、著名な文学者が記者の質問に答えました。「とくに感想はございません。法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績です」。これが作家の言葉でしようか。法律は法律で、文学は文学なのでしようか。新聞でのコメン卜を読み、私はわが眼を疑いました。この、いわゆる文壇の大御所は、国家が応報主義の声を背景に一人の人間をくびり殺したことに、かくも平然と答えたのです。
 そういえば、九〇年でしたか、永山氏が編集者からの勧めで日本文芸家協会に入会を申請したことがありました。しかし、協会は結局、決定を保留し、永山氏は申請を取り下げるということがありました。最大級の軽蔑をこめて、この程度の文化、この程度の文壇、この程度の協会なのだと言わなくてはなりません。私は永山氏が獄中で作家となり、注目すベき作品を書いたということをもって、他の確定死刑囚と区別すべきだという考え方にはくみしません。九七年八月一日には、永山氏の他に三人が密かに処刑されています。四人への死刑執行を同等に許し難いと私は考えております。その意昧で、永山氏の死刑後、彼の文学の業績を紹介し、小説の未完を惜しむ文章が新聞に掲載されたとき、私は何かインチキくさいものを感じたのであります。この文章は死刑の是非にはまったく触れてはいないからです。いや、あえて言及しないことをもって、この制度を間接的に肯定しているのです。
 〈ああ、試薬のようだ。表面はもっともらしく、人間的に装っていたって、この試薬にかかると、内面の酷薄が浮かび出てくるのだから〉。私はそう思いました。文学が最も深く考察しなければならないクライムとスィンの区別を、作家たちの多くが放棄しているとも思いました。そして、死刑というテーマで、試薬が我々に見せてくれたものは、多くの表現者が内面に隠し持つスィンであった気もするのです。
 いま、死刑制度と地続きの問題として、たくさんのことが言えると思います。昨年来、国会が通した多くの悪法について語るのは、今日はひかえようと思います。しかし、周辺事態法も、国旗・国歌法も、盗聴法も、改正住民基本台帳法も、そしてまた、第二破防法とでも言うべき団体規制法も、死刑制度と同様、この国の悪性の土壌から生まれていると私は考えております。人間が自由にものを考える、無制限に内面の自由を求めていく、ありったけの思いを表現しようとする……そうしたことを「国」や「公」が問題視しつつあります。重罪を犯した人さえも「もごい」とみるような考えを、排除しようとする空気があります。この空気は全体として非常に情緒的で、野蛮なものであります。このことに私たちは最大限の注意を払う必要があります。
 あなたは加害者に肩入れするばかりではないか、と言われそうです。そうではありません。私は犯罪被害者および遺族の方々の限りない悲しみ、苦しみを軽視するつもりなど毫もないのです。ただ、それを死刑制度存置に直結させていく発想は完全な間違いであると言いたいのです。
 野蛮な死刑制度は、厳然としてこの国に存在します。私は明らかな憲法違反だと考えるのですが、この制度はしっかりと運用されている。ただ、それは制度が存在するから円滑に運用されているということを、必ずしも意昧しはしないのではないでしょうか。制度は何かに支えられているのです。それは、被害者感情のみを極大化し、応報主義、厳罰主義を唱える一部マスコミ、そして、それに踊らされている世間に後押しされていると私は思います。鵺のような世間、鵺のような全体主義が、死刑制度を実質的に支えていると私は考えます。「やつを死刑にせよ」という世間の声はこのところ高まるばかりです。グルニエのいうように、哲学的には、各人が無意識の死刑執行人になりつつあるのではないでしょうか。
 では、どうすればいいのか。私にはわかりません。ただ、私としては冒頭の言葉に戻るしかないのです。見えない像を、目を凝らして、何としても見なければならない。聞こえない音を、声を、耳そばだてて聞かなくてはならない。想像力の射程をもっともっと伸ばさなくてはならない。

 具体的にはどうするのか。例えば、私はこんなことをやりました。九七年夏、永山さんの死刑執行後、私はあの東京拘置所の周りをぐるぐる歩きました。その後も、死刑執行の報を聞いて、拘置所に行ったことがあります。あの壁の外をぐるぐる歩くのです。音が、壁や立木に染み込んでいないか、耳を澄ますわけです。聞こえない音が、どこかに染みついていないか、探すのです。
 それはどういう音でしょうか。死刑囚が立つ、刑場の一メー卜ル四方の鉄の踏み板が、二つに「バーン」と割れる音です。そして、死刑囚が地下に落下し、麻縄が首に食い込んで、「ゴキッ」と頸骨を砕く音であります。これらを聞く努力がなければならないのだと私は思います。壁の向こうの、見えない風景を見ようとする強い意志が必要だと思います。



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