「俳句スクエア集」平成29年 7月号鑑賞 I

                   

                       朝吹英和



 夏神楽星の瞬き止まりけり         湧雲文月


 神楽は12月に行われる宮中の神事に由来する所から冬の季語であるが、掲句は夏に奉納される里神楽がモチーフである。神楽のクライマックスで星が瞬きを止めたという古代ロマンの世界を彷彿とさせる幻想性。

 


 水音を水が持ち去る薄暑かな        石母田星人


 5月は6月に次いで紫外線が強く、また湿度が比較的低いので梅雨入り前の日射しは結構厳しいものがある。聞えて来たのは流れの早い水の音であろうか、謎めいた上五中七の措辞は「薄暑」の輝きを一層増幅させる効果を担っている。

 


 空蝉の半身すでに空の星              松本龍子


 蝉の抜け殻には何とも言えぬ哀愁を感じる。永い間ずっと地下でその時を待っていた蝉が脱皮していよいよ成虫として地上世界にデビューする。抜け殻とは言え、永年に亘って生命を育くんで来たその姿を慈しむ心根が空の星と呼応している。



 傾く日の統べたる蓮の蕾かな        五島高資


 夕日を浴びた蓮の花の蕾を描写している景であるが、大ぶりの蓮の花が開花するには太陽の恵みが不可欠である。太陽へのオマージュが静謐な時空に輝きを与えている。





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  「俳句スクエア集」平成29年 7月号鑑賞 Ⅱ


                                              松本龍子



 千の眼の蛇の衣にそそぐかな       阪野基道


 一読、発想の意外性を感じる。「千の眼」は、慈悲の広大さと、救う手段の豊富さを表すらしいがそんな「千の眼」が蛇の抜け殻に注がれているという句意だろうか。実景として解釈すると多くの通りすがりの眼が蛇の抜け殻に注がれているとなる。そういわれてよく観察すると抜け殻の模様が「千の眼」の集合体に見えなくもない。重層的な解釈が可能な面白い句だ。

  

 

 黒猫と水鉄砲の狭間かな          朝吹英和


 一読、不思議な詩情を感じる。「黒猫」は夜でも目が見える理由から「福猫」として、魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされる。「水鉄砲」は水を射出するように作られた遊戯銃である。「狭間」とはおそらく文脈からはすきま、「黒猫」と「水鉄砲」の狭い間のことだろう。実景と解釈すると背中を丸めて威嚇する「黒猫の眼」と「水鉄砲」との間には、異様な「緊張関係」と抽象的な「空間」を感じる。

  

 

 水音を水が持ち去る薄暑かな        石母田星人


 一読、詩情を感じる。水音を水が持ち去っている暑さを感じる気候であるという句意。こう言われると、読者は流れる「水音」がすぐさま次の水に消されてゆく映像を思い浮かべる。水の存在は「水音」として時空に浮かんでいる。その存在を「水が持ち去る」とはなんと意表を突く発見だろう。俳句はこういう遊びもできるのだ。



 指先にきえてはひかる蛍かな         加藤直克


 一読、詩情を感じる。今の時期は日が暮れると、犬との散歩道の芦屋川公園にヒメボタルが舞っている。ゲンジボタルより小型のヒメボタルは体長が8ミリ程度。だから指先に乗せると1秒間に2回の間隔で点滅する。翅が退化して飛べない雌は点滅発光を繰り返しながら求愛を繰り返すのである。何のことはない写生句に見えるのは言葉のリズムの「流れの良さ」に起因するが、何度読み返しても飽きがこない焦点の当て方は非凡である。



 舟虫を散らせし人の影となる          五島高資


 一読、詩情を感じる。舟虫がさっと逃げた空間に虚を突かれたように、自分の影を見たという句意だろうか。この句の面白さは「舟虫の黒」と「人の影の黒」がオーバーラップする瞬間の作者の驚きが巧みに表現されている。それによって対比的に「夏の光」を強く感じるのだ。



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  「俳句スクエア集」平成29年 7月号鑑賞 Ⅲ


                                              石母田星人


 夏蝶のよぎり火と水、木の話      阪野基道


 「火と水、木の話」は、大型の夏の蝶がいなくなってからの思い。どんな内容の話なのか。飛び抜けて面白い想世界に違いない。実物・実景から生まれた言葉より、その不在やその残像から生まれた言葉の方が鮮やかに響いてくるように思う。蕪村の<橋なくて日暮れんとする春の水>や寮个痢祿段が無くて海鼠の日暮かな>などが浮かんだ。

 

 

 黒猫と水鉄砲の狭間かな        朝吹英和


 眩しい日差しの中で飼い猫と戯れる。夏の黒猫は毛が抜けてかわいそうな姿になる。だが、この猫はすこぶる元気そう。楽しげな空間の句になった。猫の存在を抑えて読むと下五に目がいく。水遊びの鉄砲だって狙撃の構えをする。ゆえに「狭間かな」には少々緊張感を覚える。その思いの先に本物の銃が横たわる。戦争は知らない。そんなことはただの偶然。もっと先に生まれていたら確実に銃を持っていた。津波は知らない。それだってただの偶然だ。戦争も津波も誰だって嫌だ。だが相手は何も聞き入れてはくれない。「狭間かな」の中に潜む問いかけは深い。

 

 

 空蝉の半身すでに空の星        松本龍子


 蝉は死んでも空蝉は残った、という句意だろう。目の前には蝉の殻。その飴色の艶の中に、飛んで行った半身の動きを見たのだ。蝉のあわれを知る人ならではの慈悲を湛えている。<蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる 蝉が鳴いてゐるほかになんにもない!>という中也の「蝉」を思った。




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