只只日日20161116
稽古場でやってみたい、とても重要な新しいアイデアがある。




公演の為にユニットを組む、そうしたこととは別に、僕には稽古場が必要だ。

「太った」の稽古場には充実があったし、役者はそれぞれ頑張っていたし、目論見を越えた表現の片鱗さえあった。今僕の中にある新しいアイデアも、「太った」なしには発想できなかったものである。だけど、今回の公演は、なんだか限界を見たな。今と同じ体制でやってても、もうこれ以上の表現は、きっと難しい。





役者が役の感情や説明以外のものを引き合いにだして、コンセプトを身体化し演技を作っていく、それって大変なことだ。でも現代演劇する集団は、そこで戦っているのだし、今のままじゃ灰ホトラは相手にもしてもらえないだろう。今より先に進む為には、役者が灰ホトラの為の、身体表現を作っていかなきゃだめだ。


これまでの時間の使い方や意識の持ち方では、全然手が届かない場所だ。公演の為にユニットを組むことは今後も必要になるだろうけど、灰ホトラの稽古場を持ち続けて、そこでアイデアを検証し、訓練し、ものにしていかなきゃならない。





と、いうわけで、人集めをしていこうと思っている。


来年頭から秋くらいまで期間、小公演を繰り返しながら手法を確立する過程で、灰ホトラのコアメンバー数名を決定していきたい。以降の公演は、このコアメンバーを基準にして企画、スケジューリングしていく。


有り体に言って、灰ホトラ所属の役者を作るってことだ。本当にもう、どうにもならんよこれをしないと。


小公演の中で見出した手法を元に、現代演劇の評価対象となるサイズの作品を制作、これを地元で公演した後には、東京や海外での活動を視野していくことになる。ここまでを2年くらいで目処が立つようにするのが目標だ。意欲のある役者がいれば、それが、叶う。



中心となる役者は多分2、3人でいい。もし見つかれば、灰ホトラの表現は、その人達のものになるだろう。






20161116・現代演劇の攻撃。





灰ホトラの第10回公演、観客について思ったことが3つある。




ひとつめは、動員について。


今回、僕が思ったより、観客が来た。重ね重ね、ご来場頂いた皆様ありがとうございました。


「僕が思ったより観客が来た」という事態は僕にとって、理想的なことで、繋がりが自然に広がっていくポジティブなイメージが、今は必要だ。浮かれない程度の。


公演の成功を捏造する為に客席を埋めようとする、僕等はついそうしてしまうのであって、しかしそんなことより、「観客とは何か」ということをもっと考えなきゃいけない。観客、他者なるものへのイメージこそが、作品の種類や質を決定するのだから。




ふたつめは、感想や批評について。


僕の作品は、いつもなんだか宙に浮いている。ちっとも地に足がついていない。だが、時々作品に重りがついて、「あ、実際のものになった」と感じることがある。素晴らしい感想や批評を貰った時がそうで、流石に痛感するが、観客の創造性が、灰ホトラの作品を完成させているのだ。


勝手に名前を出してしまうが、これまでの公演におけるすっぴーさんの感想だったり、今回共愛の荒井先生から頂いた感想だったり、高校生の仲間から貰った感想だったり、エコーの井上さんだったり、もちろん他にも沢山いるのだけれど、創造的な感想に出会い、作った側が感動をおぼえる、そういうことって多い。


テキストが、演技が、観客に対して、特定の感想を誘導する。現代演劇を指向する集団が、そんなことやっててもしょうがないんだろう。いや、僕には言いたいことがあるし、貰いたい気持ちがあるし、かっこつけてみたところで、作品に忍び込んだ下心の、はみだした尻はむしろ露わであろう。


それでも、作り手と観客の関係に眼差しを持って、互いの関係がより豊かなものになるように、考え続けていかなきゃならない。




みっつめは、僕が個人的に大事に思う人のことだ。


今回無茶苦茶に久しぶりに、初期メンバーの芙美ちゃんが観に来てくれた。彼女は6年近く、灰ホトラの作品に触れていない。だが、ブースから見えた彼女の横顔に、現れていた幾つかの反応を見ながら僕はその時、不思議な程、自分のしていることが、間違っていないのだと信じられた。


彼女がそうであるように、僕には助けとなる存在がある。ちからを付けていこう。





20161110・10回の後その2。





灰ホトラは前橋市芸術文化れんが蔵での公演を終了した。





沢山の観客に立ち会ってもらった。席が足りなくなる状況は、一欠片も想定していなかった。ありがとうございました。これまでの公演に引き続いて来てくれた人がいた。興味を持って初めて来てくれた人がいた。他の現場で繋がりを得た演劇人もいて、灰ホトラにおいてそれは貴重だ。高校生達が来てくれたのは最高に最高に嬉しかったな。先生方、本当に感謝します。






さて、僕は腐れナイーブなので、今どうしても、書いておきたいことがある。



僕は稽古期間中に、一度集団に絶望した。もう僕は終わりだろうなと思いながら、稽古場にいた。この数年は引き際のことばかり考えてきたのだし、覚悟は出来ているんだけど。



だが、本番一週間前を切った稽古場で、信じられないような、反則みたいな方法で、突然表現のレベルが上がるという経験を持った。行き止まりの先は暗闇な上、十中八九崖だった。その先に、これまでの全部を伏線にした、道が突然、現れた瞬間は、何がもたらしたものだったのだろう。まだ良くわからないけど、一つ思うのは、これはプロの人には多分、発想できないアイデアだろうなということだな。



僕は稽古場から目を逸らさなかったし、食い下がってやりたいことを通した。そして、稽古時間の集積が作品を作るのだという、その責任から逃げなかった役者がそれを支えた。役者が果たした責任はそれぞれにあっただろうが、その中の誠意を疑っていない。


みんなありがとう。誰が欠けても成立しえない表現を僕等は作った。こんなことはもしかしたら、もうないかも知れないよ。





公演が終わっても、僕の中には無数の、新しいタスクが出現している。それはもう、具体的な姿形にまで成長を終えている。ここで辞めるのは変だな、と先に進もうとする手に、杖が欲しいな、と感じる。素晴らしい日は過ぎていく。残していけるものはあるか。




20161107・10回の後その1。





俳優の山縣太一さん、音楽家の桜井圭介さん、大谷能生さんと、飲み会の席に同席させてもらうという幸運を得る。



身に余っちゃってしょうがないわけだが、随分、焚き付けてもらったと思う。縁の力で、人の視界を多少なりとも借りることができる、その自分の感覚に驚く。海の向こうすらフィールドの人達が、昨日今日出会ったばかりの僕に、届く言葉を選んでは、与えてくれたのであって、それは率直に、感謝しなきゃいけない。正直、感動している。



本番前の灰ホトラを眺めれば、えげつない現実が横たわっているのだし、躁的な気分に身を任せてばかりはいられない。でもしかし随分、役者の頑張りに救われている。僕等は、戦闘値が低い。でも今ある足がかりは、中長期的に見込みがあると信じている。育つしかないんだろう今からでも。その気がないなら、去っていかなきゃらない。



ただ自分達の状況を停滞させていることだけで、周囲にネガティブな影響を与えていく。演劇は変わっていくのだし、僕等はもう中堅だ。でももしかしたら灰ホトラは、役割を担うことができるかも知れない。その為にはこの先に、こんなもんじゃない無茶苦茶にしんどい局面を迎えることになるだろう。





僕はもう、そこに向かうか、辞めるかでいいや。なんだかんだ演劇にエネルギーを注いで生きてきた。僕は今までも今も、全然自分に自信がない。だから多分だめだって、思ってる。思ってるけど、進むことにする。





20161031・躁カタパルト。





うーん、大変だ。



本番一週間前にして、なかなかの難しい状況にある劇団灰ホトラ第10回公演「わたしは最近太った」である。非常にスリリングである。死んじゃいそう。


「お前は無力だ」という言葉を、耳なし芳一ばりに全身に書きまくられている気分だが、どんな状況にあっても、僕は自由を奪われたわけでも、考えることをやめなきゃいけないわけでも、できることがなくなったわけでもないのであって、諦めたらだめである。きっと良い方法がある。


作品を救わなきゃならない。作品を救わなきゃ、役者が不幸になってしまう。それは、避けないといけない。大切な仲間である。ちとみっともない展開になっているが、その実際を受け入れ、勝負しないと。


視野を広く持って、アイデアを持って、自由に向かうようにして、本番を迎えたい。必ず、甲斐のあるものにしてみせる。




20161029・ロキソニンが足らない。





灰ホトラで久しぶりに、相当ハードなストレスを抱える。



なにもかもが破綻して全て失った10年以上前のことが思い切り全力で蘇る。その残骸から「ゾウロ」や「スーハー」を掘り起こして何とか今に繋いでるってのに。


深呼吸するように、ここに少し言葉を並べておきたい。



まず絶対、本番を、失敗や後悔の体験にするべきではない。僕等は生きるために働き、多くもない余暇を演劇する時間に注いだ。個々人の充実がそこに保証されてなきゃ、だって、趣味でやってんだもの。「みんなであんまり無理のない範囲で楽しいことをやりましょう」というキャッチフレーズは、表現の現場に掲げると、時には情けなくさえ見えるが、だけどそれって普通に、灰ホトラの現実だろう。



だからみんなの、そういう思いに力を借りて、僕は自分のやりたいことを通していけばいい。周到に、器用に、抜け目なく。集団性は気楽さを維持して、作演出は欲を持って。10回公演の為の人集めは、そもそもその辺りを狙って、行われていたんだと思うし。





そうして今、灰ホトラは矛盾している。僕の欲は集団に変化を求めてしまった。その矛盾が招き寄せた、ゴジラばりに巨大な「潮時」の二文字が、広瀬川をのぼってくるのを感じている。怖いなあ集団て。今はそれがせめて少なくとも、本番の日より前に、上陸するのをなんとか避けようと、それぐらいはできるんじゃないか、っていう種類の頑張りを続けている。




なんつってまあ結局、全部ひっくるめて前向きに考えなきゃならない。前向きの義務。前向きって偉いんだなあ。僕の前向きは「潮時」より足が早いだろうか。来年以降のことも考えてかなきゃいけない。




20161025・前向きロボトミー。





書いておきたいことを書いておきたい。



山縣太一さんのワークショップに二日間、お邪魔させてもらった。リスペクトできる人がいるって、素敵なことだなと思った。僕あんまり、そういう人がいなかったんだな、と気づいたりしている。



山縣さんの技術やロジックについて、僕が何か特別、理解できてるとは思わないし、僕が何か語ったところで、おこがましいことのような気がする。するけど、でも、そこで見聞きしたことは全て腑に落ちることだったし、稽古場の状況を作る様子まで含めて、感じることの多い時間だった。



何をするか決めた人の言葉には、力がある。それがプロになるということなんだろうと思うが、それは本当に憧れる部分だな。



灰ホトラの公演も差し迫っているし、少し具体的に、特に、考えたことについて書いておきたい。


僕は稽古場で、「言葉の意味に向かわない」ということを、繰り返し口にしてきた。僕等は複数の気持ちを同時に動かして、言葉を扱っているんだと思うから。その曖昧さを、「自然に」とか「おさえて」とか「いつもみたいに」とか「なにもしないで」とか、消極的でほとんど意味を持たないような、認識すると呼ぶに値しないような言葉でしか、捉えることが出来ていないのが、灰ホトラの現実だ。



物語や感情は、他者が添付すれば良いのだと、山縣さんは言っていた。身体も声も、もっと別の発想を持つことができる。その自由さは、普通、怖いよ。だけどさ、方法を知って共有すれば、そうして例えば共愛の高校生達が実現したように、それは「アマチュアだからできない」なんてことはないんで、むずかしいことだけど、物語や感情と、身体や声の関係を、探し、アイデアし、見つけていくことは、きっとできる。




灰ホトラの持っている仮説は、まだ幼くて弱いものだけど、誰かの真似をすることをやめて、自分達の居場所を作っていこうと思うなら、信じていかなきゃならない。




20161019・はぐれメタルを遠目に。





役者との関係のことについて考えている。だらだら書いてみる。



どういう表現がしたいのか、より、どういう集団にしたいのか、が今、問題だ。戯曲も演出も音楽も作る僕は、作品世界を考えることを本分としがちだが、それが役者との関係づくりに貢献するのかと言えば、たいして貢献しなかったりする。


今回、基本コンセプトなどを現した演出ノートを役者と共有するなどしてきたが、同様に、僕が役者とどういう関係を持ち、灰ホトラをどういう集団にしたいのかを、はっきり示しておくべきだったかも知れない。




今回は、「雑談する時の言葉や態度」を切り口にして、演技を組み立てている。更に、コミュニティーの外への意識を持たせた、「周囲からの視線を気にする動き」を加えて、基本形とした。


物語の為に役割を担ったり、感情的になってみせたり、状況を説明したりするといった演技は、頑張って稽古してたどり着く目的地としては、共有しやすいものだ。一方、雑談する時の言葉や態度は、油断や脱力からしかやってこない。前者が「結んで作る」後者が「ほどいて作る」イメージで、僕は捉えているんだけど、そうして「ほどいて作る」稽古場で、なんだろう、役者のすることが、なかなか積み上がっていかない。



稽古の繰り返しの中で、油断や脱力からやってくるものを掴まえ、扱う為に必要なことの具体性を、上げていく必要があった。だけどなかなか難しかったな。






そうなんだ。「雑談する態度や言葉」は、とても複雑な人の様子の中にある。僕等は日頃その複雑なことを、こともなくやっていて、灰ホトラの役者達は舞台上でもそれを、行為することが出来る。それはとても達者なことだと僕は思う。



だけどさ、今日実は、山縣太一さんのワークショップを見学させてもらったんだけど、何が凄いって、人や身体を「みる」力が尋常じゃないんだ。みて、観察して、考えて、解釈して。「みる」より「やる」が肝心な人間には、どうにも太刀打ちできないレベルを目の当たりにする羽目になったんだけど、僕等はもっと、まず「みる」ということを訓練しないといけないし、それを「やる」に繋げる方法論を、見つけ出していかなきゃならない。




僕が役者とどういう関係を築き、どういう集団を作りたいのか。やりたいことを伝え、役者に預け、責任を負わせること。僕はまだその組立てが甘く、集団を有機的で豊かなものにする機会を、活かせていない。



だからほらなんだ、もう眠いしつまりあの、もっと頑張ります。



20161018・明日もお邪魔します。





佳境である。





まあ本番一ヶ月前なので。少し無理をしている10回公演であるが、正直、てんぱっていると言えるだろう。なんだか20代の頃を思い出す。僕って、あんまり成長してないんだなあ。


一体、何をてんぱっているのだろうか。何に焦っているのだろう。どうあっても、僕等はただ、出来ることをそこに現すしかないのだし、出来ないことに未練を残しても仕方がない段階に来ている。出来ていることを喜び、課題には優先順位を付け、後はただ本番まで、じりじり調整を続けていくしかないんだよそんなもんなんだよ。



この時期の通し稽古を観て、絶望を抱く演出。そんなもんは大したことのない、演出あるあるに過ぎない。どうにかするんだ。役者のパフォーマンスは充分で、だけど、もうひと頑張りだ。やってもらうしかない。大腕を振って次々と、明らかになっていく戯曲のアラは、演出の暴力的裁量と、音楽による編集でねじ伏せて、大丈夫、なんとでもなる。



いや、嘘だ。ああ、嫌だな。不安だ。逃げ出したい。やらなきゃ良かった。リスクしかない。あと3ヶ月ください。




なんて思いながら、同時に、芝居作りって、なんだか滑稽だな、とも思っている。好きでやっていることである。まして灰ホトラに、公演の成功を担保するものなんか、何にも、何一つない。だけどそれでもやると決めて、やっている。


だからまあ少しでも、にじにじにじって、前に進もう。何か一欠片のことでも、届いたらそれだけで、僕等には立派なことなんだ。



20161010・雲の臍に肺を繋げる。





現場での稽古である。


2年前のこけら落とし以来、この「前橋市芸術文化れんが蔵」で、演劇の公演は何回か行わていて、僕はそれらに多少ではあれど、関わってきた。たちあげ当初から誰の目にも問題のある施設なのは明らかであったし、だけど、設備は幾らか改善も進んで、そうして実際、灰ホトラはこの場所をこそ、本番の会場に設定している。今や、施設のだめなとこも含めて「勝手がわかる」ことの利点を感じさえする。


ここを会場にした事情は色々あるんだけど、灰ホトラのこれまでの公演、前橋市街地でアーティストの協力を得て、小スペースで表現を行う、その中にある出会いや発見を力にしていきたい、というコンセプトと、次の10回公演を、少しでも連絡しておきたい、れんが蔵は市街地からいやな感じに離れてはいるけど、そういう思いもあったりする。





さて、稽古のことを書いておきたい。


稽古場で「思った以上のこと」が出現する時間は楽しい。稽古場の充実は全て役者の手柄であると言っていいだろう。役者はみんな頑張っているし、僕は彼女達を信頼している。問題があるとすれば、僕の稽古の進め方にあるのであって、というのも、もう少し、「優先順位と積み重ね」について、上手くやらないといけない。これ、毎公演問題になるんだよな。


手法を第一とし、その狙いを共有し試作を重ねながら、全体に作用させていく、というのが理想なんだけど、つい、戯曲の言葉やグルーブ、セッションの方に気が行ってしまう。演技体をもうちょっと、統一すべきなんだ。ユニットだからそれが出来ないというのはおかしいんで、これは僕の稽古の進め方が悪い。


でもね、灰ホトラの演技って、ある種の油断からしか生まれてこないというか、抽象的な物言いだけども、「向かっていく」んではなくて「見つけていく」方がいいんじゃないかって、僕は思っているようだ。舞台上で自分をほったらかしに出来るかどうかが、まず大事だ。


それぞれの役者の中の、そうした態度の中からしか、やってこない言葉や身体を、僕は待っていて、でもそれはもう、役者は理解してるんじゃないかな。そうして次の段階に進めたいわけだけど、この時に、「ああ、もっと最初の内からこのことを示しておくべきだったな」と、それは矛盾のようで、だけどまあ、反省点でもある。



20161001・稽古には期限がある。





共愛の演劇を観た感想をメモしときたい。



機会があったら先生に聞いてみたいんだけど、テキストが凄すぎる。あれ生徒が書いたのかな。「言いたいこと」が冗長する、滞留する時の、言葉の並べ方が、ものすごく良く出来ている。チェルフィッチュの中の人が、録音した語りを文字起こしする、という作業経験を、戯曲のことばに反映させていたとかなんとか、聞いた記憶があるけど、まさに超リアルと言いたくなるほどの、語りの掴まえ方が、そこにあった。



身体もそうした語りと一体となって、無意識のゆらぎを反復させながら、どこかに向かうことが出来ない。空間の中、自らの足幅を定め、ゆらゆらと漂う胴や手や足の動き、演劇の身体が突然、非言語的なものを拠り所に動き出すのは怖いんだけど、でもあれは日常性っていうか、上に挙げた言語の感覚とリンクしたものであって、必然性を失わない。この極めて微妙な感覚を、この世に姿あるものとして、認識できるものとして出現させた、現代演劇の現場は心底凄いと思うし、またそれを高校演劇でかくもハイレベルに再構成した、生徒も先生も素晴らしいと思う。生半可なことじゃない。



「くるくる」の男子とか、テキストも語りも動きも良かったなー。全体に言える話だけど、だらしなさ情けなさうざったさ恥ずかしさ、それらは普通に考えて、「人前に晒すべきじゃない」ものであるけれど、それこそが「人前に晒す演劇」の表現の核になるのだという認識を、生徒が共通して持つことが出来ている、それが立派だと思うんだ。演出の眼差しを役者が知ることが、現代演劇には必要なのだろうし、これ程までに微妙なものを高校演劇において共有したという、このチームワークは、最大限評価すべきものだと、僕は思う。内容も凄いと思うが、それ以上のことなんじゃないのか。





現代人の繋がりの感覚、震災とジェンダーとメディアの問題、選択したシンプルで奥深い手法を元に、それら僕等の周辺に寄り添う問題を扱っていく。演劇的な知と行為の実践が、高校の時代にあったことを、彼彼女達はいつか、誇りに思う日が、必ず来るだろう。




20160925・朝から全部観れば良かった。





ちょっとばたばたしてきたかな。





ようやくチラシが仕上がった。発注から5日ぐらいだから、配布は結局来週だな。今回は、アート関係者向けのチラシを別に作ってみたりしている。4面デザインしたことになるんだけど、もうちょっと良くなったかもとか、言ってみたところで、期限というものがあるのだし、まあこんなもんだろ。



舞台セットとか大袈裟なものはないものの、用意すべき道具が幾つかあり、そのへんの準備も進めているのだし、会場も稽古場も押さえて、スタッフに声がけして打ち合わせして、稽古のプラン考えて、そしてなにより、音楽まだ、全然作ってないよ。


そうして、ちょっとばたばたしてきたかな、と思わないでもないが、まあ、仲間や人の手を借りて頑張ろう。


こういう時、最近特に思うんだけど、演劇の公演を一回で終わりにすることをやめたらいいんだと思う。何度も繰り返してやったらいいんだよな。戯曲も演出も音楽もデザインも、一から全部やりつつ、集団のグルーブを維持する為にコンスタントに公演を、それをアマチュアが行うとか、至難なんだろうな。


作品に自信があるなら、観客を求めてどこへでも行って、繰り返しやればいいんだ。7回公演はそうしたし、それは今後も、考えていかなきゃならない。




いや、今そんな話しても仕方がないだろうか。そうだよ、稽古に集中して楽しんでやって、音楽作りも効率良く進めて、沢山の人に観てもらえるように努力して、とにかく、良い時間にするんだ、本番も、そこに至るまでも。



20160922・スタンバイ長袖。





稽古は続く。





本番予定の日まで極めてタイトなスケジュールであると言ってよく、正直それは、僕の致命的な判断ミスであるかも知れないが、しかし一方で、もう僕は、さっさと全部放り出したいというか、みんなでこんくらいで出来ることをこんくらいの感じでやったらいい的な、そういうほとんど暴挙に近いような、だけどさ、「守るように行為する」演劇をいつまでも続けていても、到達出来ない地点が、出会いがきっとあって、それはこの2年半で、学んできたことかも知れない。



思ったより役者の出席率が悪い時に、あーじゃあ出番とか、こう変えちまえばいいやとか、そういうことは今まで絶対やらなかったけど、今回は多分やるだろうと思う。使える時間もモチベーションも、それぞれ違うのは仕方がないことだ。僕等にはそれぞれ生活があり、仕事があり、趣味があり、挙げ句の果てに、好きな演劇が違う。それら全部を含めて、愛すべきアマチュア劇団灰ホトラの稽古場である。



僕が皆の魅力を最大限引き出して、期限内に創出できる最もよいものを作る、そのことを頑張ればいいんで、けれどもやはり、若手には頑張ってもらわねばならない。いや寧ろ僕が、彼女達の為にいくらでも、頑張らなければならないだろう。20代が2人いるが、素晴らしい魅力や可能性を持っていると思うし、それに適うことばや身体の振る舞いを、見出していく責任が、中年の僕にはあるだろう。



そうして今灰ホトラは、20年来の付き合いのある役者をはじめ、その手練で2年半で6回もの本番を実現した役者達から、その本番を見続けてきた眼差しの確かな者、そして、その向こう見ずのせいでなんかの間違いで参加する羽目になってる愛おしき若手達まで、いる、贅沢極まりない状態に至っていると言えよう。なんとかなるだろう。頑張ります。



20160912・秋がくる。





あ、具体的な目標を立てよう、と、不意に思ったので、そうすることにした。



劇団灰ホトラの活動は、2019年春までにしよう。活動の軸を2つ設ける。


一つは、1時間以下の作品の反復公演だ。コンテンツはとりあえず、「ゾウロ」「逆走スーハー」「ぎんいろ」にする。朗読劇だな。これまでやってきたように、10分以下の小品と組み合わせてもいいかも知れない。場所は、劇場以外の空間に限定しよう。


もう一つは、劇場で行う90分程度の作品の上演だ。「発熱する家」ともう一つ、「太った」の発展系のものになるだろうか。


上に挙げたものは、既に上演経験があったり、そうでなくても、青写真が出来ているものだ。反復上演は、2、3ヶ月に一回、90分の作品は、半年に一回とすると、だからまあ、一回やれば終わりだな。


90分の作品を作っていく中で、メソッドを確立する。それはもう見つかっていて、「家」の中にあった「死角への振り向き」を基準としたものになるだろう。多分これが、灰ホトラの身体表現として、他に代えがたい独創性と表現力を持った、最も可能性のあるものになるだろう。多分これじゃないかなと思ってたけど、やっぱり、これしかない。腹を決めてやろう。ていうか、多分これ以外にもう見つかんないだろう。


手法を検証し、理論付け、現代演劇の評価軸の中に位置づけたい。これにはドラマトゥルグを始め、批評眼のある協力者が必要で、恐らく僕自身には出来ないだろう。僕は自分の欲求の為にしか表現していないから。勉強会でも設けようかな。



評価を求めて来た灰ホトラである。戯曲賞の受賞、フェスへの招致、現代演劇もしくはアートシーンで一定の認知を得ること。期間中にこの3つのいずれも達成できなかった場合は、集団を解体し、演劇を辞めよう。ひとつのアマチュア劇団が終わるとしてもそれは、あまりにもありふれた、なんてことないことである。ただそこに向かうだけだ。



役者は、自分の甲斐性で見つけていくしかない。でも僕はもう、何をどうやるか決めたし、迷いはないな。きっと一緒にやってくれる人がいるだろう。10回公演には、心強い仲間がいて、本当に嬉しい。灰ホトラは少し変わっているのだし、それは途方も無くありがたいことだ。僕には仲間がいない時期があった。それは人生で最低の時期だった。まずは、今出来ることを一生懸命やって、次に繋げていきたい。



20160907・延長戦決定。





知人の公演の手伝いが終わる。


スタッフワークを手伝う僕が、スタッフの人達の様子を見ていて、ふと、思ったことがある。それはまるで、「スタッフワーク」という演劇作品みたいだなと。


この作品の最高にいいところは、観客がいないことだ。いや1人いて、それは僕で、だから僕は体験型の演劇作品を1人で楽しんでいるということになるだろうか。好きな身体を見て好きなことを思い、好きな声を拾ってそれを考え、好きな場所からその舞台を楽しむことが出来るし、程よく山が谷があって、もしかしたら、苦手な人なんかいると作品がより奥深いものになるかも知れない。最後には疲労と充実を味わって、その場を後にするのだろう。



なんてことを思ったのにはきっかけがある。

これまでに何度か目にしたことがある、1人のスタッフの女性は、精悍な顔立ちの人であって、とても姿勢が良く、所作も落ち着いているが要領を得て、妙に所在の確かな人だなと感じていた。上手く言えないんだが、まあろくに話もしていない人なのだし。そうしてはたと気付くのは、僕はその人を、稽古場で役者を見るように、見ていたのだということだ。



そうして僕はよく考えれば、舞台監督のことを見る時に、いつも舞台監督の身体のことを考えていたり、その声がどうでどこまでどのくらい届いているなとか、或いは照明オペの人の体の大きさとか使い方とか、言葉がまっすぐである様子は知っている現場の数を物語っているなとか、またいつも笑顔でいる会場係の人の、幸多そうなんだかいや意外にそうでもなかったりしてなんて、勝手に想像するのが面白かったりする時に、それらの僕の眼差しとこころの動きは、舞台を観る時のそれと、あまり違うところがないのだと、気付くのだ。





それは幸福な時間であっただろうか。そうだったかも知れない。一方で僕は灰ホトラで、演劇の観客なるものは、作り手にとって他人であると定義している。してみれば、僕はその現場で恐らく、自分を他人だと定義していた筈だ。演劇をはじめた時から今日この瞬間まで、ずっと感じていることなんだけど、僕は恐らく、演劇する現場に没入できない。そういう人間である。



それはやはり悲しい。皆良い人達だった。それに、演劇作品「スタッフワーク」は良い作品だったと思う。途中、舞台監督がおもむろにシャツを脱いで、思ったよりだらしない裸を晒した瞬間とか、個人的には見せ場だったんじゃないかと思う。魅力的な身体と声と振る舞いのある場所だった。お疲れ様でした。



20160904・演出のいない作品の中で。





超風邪をひいている。


夏風邪ですかこれは。うーん弱った。ヘロヘロだ。週末に公演の手伝いでスタッフをやるため、これから忙しいのだが。



そういえば、宮沢章夫さんの芝居を観に行く予定で、しかしそれが行けなくなったんだが、女性ばかり出てくるお芝居らしく、もし観てたら、どうせ感化されていたんだろうな。


さらにそういえば、柴幸男さんの戯曲がネットに上がってるのを知って、読んでいたら、次回公演に書いた台詞とおんなじ台詞があって、慌てて書きなおしたりした。柴さんの芝居は、共愛がやった「あゆみ」で初めて出会って、それ以外のものは知らないんだけど。


僕は灰ホトラで1999年に、戯曲の記述を、作品の音楽性に適う様に変則的にする方法を考え、「ゾウロ」という作品を作った。柴さんの戯曲にもそうした眼差しがあるらしく、なんだか居心地が悪い。一同鼻で笑うだろうが、僕の作るものと似てると感じる。もうあんまり見ないようにしよう。だって、僕はすぐ感化される。



感化されると言えば、チェルフィッチュの元役者さんが行うワークショップに、灰ホトラの役者を送り込んだりしたわけだけど、僕は行かないんだが、その理由もやはり、感化されるからであろう。チェルフィッチュの作品は観に行ったことがないどころか、映像で、のべ30分くらいしか観てない。それなのに、絶大な影響を受けていると感じる。



いやそもそも、僕は演劇自体、ろくに観てない人間であるから、言い出したら、誰の作品だって、観てない、ゼロではないくらいの量しか、観てないんだけど。




なんていうか、オリジナルを標榜して活動する集団な以上、そうしてその代表が40歳になろうかという以上は、現時点で「これがわたしたちの表現です」と言っていいものがなければ、辞めた方がいいんだろうし、そんな簡単に人に感化される様な芯なら、捨てちまえばいいんだろうけど、そうして何が言いたいかって、次の「太った」という作品に、灰ホトラの芯というか核というかやりくちというか手法というか、それを美しくまっすぐに、出現させないといけないのだ。



今は、それが出来るんじゃないかという気がしていて、正直「家」でもう、やりたいことは全部やった気がしていたんだが、新しい役者と出会い、まだまだやれることがある、ほんとうの方法に向かって、進むことが出来るんだと感じている。参加者はそれぞれに、思いは違うだろうが、灰ホトラはやはり、アマチュアの最終的な局面にあると思う。進むか終わるか、「太った」の公演が終われば、明らかになるだろう。





20160831・喉がビグザム。





初めて稽古場に全員が揃う。





役者がちょっと増えるだけで、全然未知の領域に踏み込んだ気がする。7人の芝居、そんなもん普通であろう。だが僕には経験がないんだ。例えば、状況を音で管理する感覚が僕にはあるんだが、それが僕の中で4人かそれ以下でチューニングされていて、軽くどうしていいか分からなくなったりした。




序盤からややこしいことをやっている。稽古の進行を、もうちょっと丁寧に組み立てたら良かったと反省した一方で、いつまでも二の足踏んでてもしょうがないのも確かで、なにせ結局、抽象的なことを灰ホトラはやっている。一旦かたちを与えてしまうしかないんじゃないか。もちろん、「腑に落ちること」の小さな積み重ねを大事にしながら。



所帯のサイズ感には慣れていくしかないっていうか、その程度のことは僕の器量でさっさと解決せねばならない。或いは役者それぞれに、参加できる割合、灰ホトラの為に使える時間は違うわけだが、それを大切にし、何が実現できるのか判断していくことが必要だ。いずれも、呑気にかまえていてもいいことはないだろう。




今、課題を並べれば数は多くもなる。新しい人達がそこにいるのだ。だがどうだろう、新しい人は新しいアイデアを持っている。身体が声がそれらの振る舞いが、稽古場に発想と機会を与えていくのを見る時、出会いに怠けてきたことを省みずにはいられない。良い時間を作ろう。




20160823・集合する。





書きたいことがあるが、まとまらないなー。


よくあるが。そういう時は、普通何も書かないのだが、今ちょっとなんとなく、無理矢理書いてみようかと思ったので、書いておく。




「人を集めて普段とは違う自分を見せたい」という役者の思いは多分、まっすぐで純粋で原理的で率直なものなのだろう。それが作品に力をもたらし、魅力あるものにすることだって少なくない。まして、アマチュア演劇の公演においては、そのこと自体が主題になり得る。なぜなら、「普段とは違う、役者のその人」を楽しみに来る知人の観客が、そこにいるのだから。



灰ホトラの役者がもし、「人を集めて普段とは違う自分を見せたい」とか、「普段とは違う自分を見せないと観客に申し訳ない」とか言い出したら追い出すだろうが、それは僕の考え方である。表現したいことの為に考え、訓練することが必要なのは当然だし、演劇の公演は、スペシャルなものでなければならないと、僕も思うけど。




ひとつ思うのは、少なくとも、「普段とは違う自分を見せる」ことを目的にした演劇は、とても怖いものになる、ということだ。

物語はシンプルで分かりやすい、振る舞いは過剰で説明的、音楽や照明が、観客を扇動する為に何でもする、だって、「普段とは違う自分を見せる」ことが目的なのだから。そういう演劇は怖い。特に、音響照明の洗脳力って、ひどいもんだと心底思う。それは時として、観る者に「考えるな」と言わんばかりの暴力性を発揮する。演劇と扇動、洗脳の問題は、ついオウムの事件を思い出してしまい、無自覚ではいられない。


いや、それは考えすぎなのかも知れない。演劇の公演は、2時間もすれば終わり、観客はそれを忘れるのだから。コンテンツと広告がフラットに並ぶことに慣れているように、僕等の没入はいつでもどこかに抜けている。だから今述べていることはきっと、大したことない考え方の違いにすぎないだろう。



20160821・おととひかり。





宮崎夏次系の漫画面白いなあ。最高だ。この人の才能に心底嫉妬する。


この人と市川春子のことを書こうか、とかって風に、どんどんシン・ゴジラのことを忘れていくので、早いこと書いとかないといけない。




ウルトラマンが街を壊しながら敵を倒すということが、どうして許容されていたのか、もう思い出せない。何度かの大きな地震があったり、高いビルが崩れたりした後には、家屋の倒壊に死の匂いは、強すぎてもう嫌だった。戦争がふんだんに映像にのるようになった後には、敵が死ぬことを娯楽として楽しむことも難しくなった。


でも昔は、そういうテレビや映画や漫画アニメが沢山あった。スターウォーズだって基本的にはそうだった。



そうして、それら単純娯楽に対するナイーブさの様なものを、テレビエヴァの後半が拾い上げる様にして、個人の内省と世界全体を同一にしちゃって、堂々と出現した時、庵野は時代の寵児になったんだろうし、20年経ってもエヴァはまだ現役である。ガイナックスのメンバーが周辺のクリエイターに与えた影響は計り知れないだろう。



個人の内省と世界全体を同一にする。「巨神兵あらわる」でも庵野はそうしていた。でも、シン・ゴジラは違っていた。やはり、ゴジラを描くことは、日本を描くことで、それはなんてか、大人にならなきゃできないことだ。フィクションから現実を見るか、現実からフィクションを見出すかは、単なる順番の違いじゃないだろう。



これは、成熟というやつなんだろうか。一つ思ったのは、音楽全部鷺巣に任せても良かったんじゃないかなー。ゴジラのテーマはともかく、時々、伊福部音楽で「娯楽ゴジラ」に引き戻そうとしてたのは、何故なんだろう、それ本当に必要かな。「やっぱ遊びで作ってます」的な態度見せられても困る。わざわざ観客の没入を遠ざけるものとして、いちいち出てくる字幕ってのもあったけど、あれは作品全体に「作戦モノ」の効果をもたせる為には良かったかも知らんが。




色々書いても結局まとまらないし、いいかげんにしとこうと思うが、結局何が言いたいかって、すごく面白かった。ゴジラという存在の「うまみ」ったらなかった。上陸のシーンも、街を歩くとこも、熱線吐くとことか特筆すべき超名シーンだったんじゃないか。ゴジラが下向きに放射能(?)のゲロを吐くなんて誰が想像するだろう。凄かったなーあれ。



2016012・夏次系ゴジラ2。





シン・ゴジラの感想を書く為に、魔女の宅急便の冒頭の部分を引用しようと思い、久々に観てみたらつい最後まで観ちゃって、今や魔女の宅急便のことで頭がいっぱいっていう。


最早、魔女の宅急便の何を引用しようとしたのかすら忘れかけている。本末転倒である。




いや、観る度に思うんだけど、飛行船の元に駆けつける為に、キキが老婦人の家を飛び出す時、訪れた時には無かった、突風のせいで落ちている落ち葉に足を滑らせるシーンがすごい好きで、宮崎駿ってすげーなと思うんだけど、あれ?この話はゴジラと関係ないんじゃないか?


でも続けるが、キキが最初にここを訪れる時は、箒で飛びながらドアの所まで行くし、出る時も、箒に乗って大急ぎで飛んで行く。二度目に訪れる時は、空を飛べなくなっているから、車とバスを乗り継いで行く、その対比が老婦人のやさしさを強調したりするんだろうけど、そしてまた今度も、大急ぎで出て行くキキはでも、走っていかなきゃならない。その時に、落ち葉で足を滑らせるんだ。



アニメの画面はその全てが、作り手のイマジネーションに依存する。突風が吹くと、街路樹の葉が歩道に落ちるというディティールを作ることって、簡単なようで、すごい難しいことなんじゃないだろうか。あの、風のせいで落ちる葉って生だし滑るし、大きさも、女の子の足より大きいよなって感じとか。この歩道は、一度目の訪問の時にも描かれていて、事態の違いを現してもいる。そこに、人物のアニメーションを対応させ、感情と行動と環境を、一つのシークエンスの中に落とし込んでいく。



シン・ゴジラの庵野もアニメの人であるわけだが、アニメの人って、そういうことを常にやっている。特に宮撫xは、コンテで全部1人で作っちゃう人なのだし、本当に異常な人だなと思う。


魔女の宅急便の冒頭で、少女の旅立ちの気持ちを表現する為に、作り手は何を必要とするだろう。まず舞台の国の気候を知ることだと思う。だって、草を寄りで描かなきゃならないのだから。小さい蜂が飛んでくる。どういう蜂なのかも、何の草を描くかで決まってくる。世界を描くということが、少女の気持ちを描くこととそこで、同じだ。作り手は、気持ちの表現の為に、草の種類を知らなければならなかった。



シン・ゴジラは、ゴジラ(一作目)が比喩したものと同じことを扱っているから、ゴジラを描く為には、日本という国を描くことが必要だ。特に有事の日本というものを。庵野は僕等と同じように、戦争を知らない。ゴジラから逃げる人々はかつて、空襲から逃げる人々であっただろう。今ゴジラから逃げる人々は、津波から逃げる人々だ。その読み替えに、作り手の覚悟を感じる。



とかなんとか書いてっても、全然話がまとまらないっていうか、魔女の宅急便は別に引用しなくても良かったんじゃねーのか。つづく。



20160808・ゴジラの宅急便1。





知人に音楽制作及び音響を依頼され、この公演が終了した。


他劇団に音楽提供を行ったのは、これで9回目になるようだ、今数えたら。いやまあ、20年で9回なんだけど。今回は、戯曲内で扱われているビートルズの「イエスタデイ」冒頭の、特徴的なコード進行を利用してメインテーマを作り、他の曲は全てこの、テーマ曲の要素を利用して作曲した。


毎回毎回毎回そうなんだが、最初のテーマが作れるまでは、何も見えないわけで、本当に途方に暮れる。しかしまあ終わってみれば、自分の引き出しを確認しながら、対応力を試験する、そういう今現在の僕の個人的な課題にとって、成果あるものとなった、と思う。お世話になりました。




さて、灰ホトラの稽古場である。


この数週間に、色々な人が稽古場を訪れてくれた。僕は、次回公演の役者を募る為に、新しい人と出会いたいわけだが、実際稽古場に人を招いてみると、そんなこと言ってる場合じゃないなと思うのだった。


まず灰ホトラが、「自分は何者なのか」ということを、説明できないことにははじまらない。それが簡単じゃないんだが、なにせ僕はいつでも、作りながら考えてきた。「太った」は相当、演出意図や方法を客観化する意識を持って望んでいるんだけども。


40歳手前になってようやくそれが可能になりつつあるわけだが、7回公演以降の経験値は相当大きい。これは多分、色々な場所で公演する中で、作品を言語化する訓練を繰り返して来たお陰かと思う。


実際役者と出会ってみると、出会う前にあった下心、「役者を使う」という意識は、なくなってしまう。その人のかたちや声や振る舞いを知っていく、そのことの方がはるかに面白いからだ。だから、色々と教えてもらえる。



次回公演はどうなるだろう。どうも希望が膨らんでいるらしい。



20160801・はじめてすること。





働いて、脚本を書いて、音楽を作って、稽古場に行って、働いて。




って、ずっとやっている。ブランク後、この2年半は、ずっとそうだ。今も、ふたつの作品に関わっていることになるのだし、普段あまり意識しないが、僕の生活は常に、演劇との関わりの中にある。



自分の為に繰り返して書いていることだが、しかし演劇する集団灰ホトラはそのうち、解体されると思う。

今やっていることも、これまでやってきたことも、僕は、自分のやりたいことを、一定の質で実現している。にも関わらず、ほぼ評価を得られないのが現状なら、もう続けてもしょうがないと、そう、素朴に思うのだった。


だがしかし、もうちょっと続けたいのであって、今そうしているわけだけど、役者が集まるか不透明なままで、どうなんだか。まあ、あと3本くらいでやめようかな。

3本っつっても、「ぎんいろ」はきっとやるだろうし、「発熱する家」は、もうちょっと完成に近いものにしたいし、「太った」も、脚本また少し直してみて、稽古場で化ければ、人を呼べるものになるかも知れないし、なんて考えていくと、灰ホトラのコンテンツは、「太った」でもう、最後なのかも分からんな。そうなのかー。まあいいか。



評価を求めるなら、賞レースに参加するでも、フェスに応募するでも、東京でも海外でもいい、もっと自分を放り出していかなきゃだめだろう。そういうことも、最近ふいに、考える。



差し当たって、大きな課題がふたつある。ひとつめは、役者とのコンセプトの共有だ。僕が何をやりたいのかを、役者ときちんと共有するプロセスが、弱い。役者がコンセプトに主体的に関わって、適うアイデアを見つけ出すことがなければ、灰ホトラは本当に、どうにもならない。


ふたつめは、なんていうか、「晒す」ちからが足りない。灰ホトラを検証できるのは、無論、観客だけだ。より多様な、より大勢の、目の前に晒すことが必要で、地元でだめなら、どこへだって行けばいいのだ。どうすれば未熟ではなくなるのか。外へ出て恥でもなんでも、かいていくしかないだろう。




なんて書いてみて、これは多分、僕が演劇に抱く、最後の目標となるんだろうな。これから、敗戦濃厚の戦が続く。もし、その先があれば、僕は演劇と一生を添い遂げることになるだろう。まあ、もうっちょっと頑張ろう。




20160724・秒読みがはじまる。





境に知人の公演を観に行く。


灰ホトラで一緒にやってくれていた役者が、他の現場で一緒に芝居作りをしたことのある人達が、そこにた。よく考えたら、役者の半分がそうなんだな。少し感想を書いておきたい。



まずは、楽しかった。次に、長い期間稽古し、その成果がかくも沢山の観客に喜ばれて、立派な公演を成していたことに、敬意をあらわしたい。


僕は、みんな演技が上手いなあ、と思って、でも演技が上手いって、何のことだったっけ。

身体も声も生い立ちも経験も、僕等はそれらを、他の人と交換できない。役者は、全方位無尽蔵の「できないこと」の中から、どうやって「できること」を見つけるだろう。それを見つけることの出来る、真摯でのびやかな、方法が、上手い役者さん達の経験の中に、あったんだろう。僕もそれをもっと、学んでいかないといけない。



もう一つ、ものすごく、思ったことがある。みんな、真面目である。


本当に、驚異的に、徹底的に、とんでもなく、真面目だ。すごいと思う。例えば、「面白くするより、分かりやすくする」ことを優先した、場面が幾つか、なかっただろうか。僕はそれに驚く。いや、「面白くする、分かりやすくする」は、優先順位の付かない、同時にあることだと、それがコメディを成立させる要件なんだと、言うだろうけど、でも、思ったのだ。


誰も笑ってなかったが、僕は、中盤やよさんがプーさんの腹を、ほぼ無意味に、さりげなく円を描くように、触っていたのがすごく面白くて、「ああこの人は、恋人の腹をこうやって触るのが好きなんだ」と思って、「恋人の腹が好き」な人って、沢山いないと思うんだけど、説明を超えて急に伝わる、あれ良かったなあ。



演劇人の積み重ねていく、誠意の塔が、また一段と高くなる。正確に観客との間を行き来する、役者の思いは益々、仲間を増やしていくだろう。僕は塔を遠く眺めながら、自分の出来ることを続けるしかないんだけど、まあ、努力しないといけないな、と、そう思った。




20160717・愛する人の腹を触る。





灰ホトラ以外の現場で、今、音楽制作をやっている。


色々思うことがある。1から100まである。書くことができることについては、書いておきたい。


役者さん達が、それぞれの演劇経験で培ったものは、本読みのようなものであっても、確かに表出していて、素晴らしいと思う。「本番の舞台を引き受ける」責任の元に、積み重ねてきたものには、やはり力がある。


集団には、それぞれ、大切にしていることがある。本当に残念なことだけど、僕は他の演劇する人と、考え方が違う。「考え方が違う」というのは、普通に、絶望的なことだ。だって、一緒にやれないのだ。なにせ、「考え方が違う」んだもの。



だが、僕はそこにいるし、これからも、機会があれば、他の集団と関わっていきたいと考えている。どうにかして、なんとかして、良い付き合い方を探すのだ。そうやって、折衷し、調整し、自分を試験していかなきゃ、それも、表現するということの、大切な側面だ。苦手だが。やらねばならない。



それはだから、灰ホトラもこれからは、色々な人と関わらせていかなければならないからで、出会いを、喜びにする、それは僕に必要な、能力だ。もっとそれが、できなきゃいけない。



「共有」のプロセスとしての、演劇というもの。演劇の現場が、その本番が、積み重ねていく「共有」の作法が、自由で、多様で、排他的ものにならないように、耳を傾け、必要なことは主張して、お互いに、やっていければいい。




20160716・イエスタデイのコード進行を使って。





女性の役者さんを募集してます。



フェイスブック、ツイッターにあげたが、年齢、経験不問で、複数名の女役者の募集である。脚本はこのサイトにあがってます。数篇の、10分程度のモノローグを回し読みする、そういう戯曲なんで、何人でも参加できるのだ。新しい人と出会えたらと思うとわくわくするが、どうだろう、来てくれたら嬉しい。連絡下さい。


灰ホトラは明らかに、周辺の演劇する状況と隔たっており、まあそれは、僕の所為である。今度の戯曲は相当、表層にこだわった。役者や観客との、出会いの機会になるようにと、それは下心なのに違いないが、一方で、最近の作品傾向の延長戦上に、綺麗にのっかってもいて、灰ホトラの次回作としては、間違っていないんじゃないだろうか。



今日も稽古で、参加者は少ないし、稽古時間も充分とは言えなかったが、でも、面白かったな。灰ホトラには、これまで続けてきた方法が成果として稽古場に反映されているし、そこから新しいアイデアをどんどん見つけながら、想定外の、想像以上のことを、見つけていく、そういう時間があって、なんとまあ、幸せなことだ。僕等の選んでいる方法は、なんか多分、他の人と全然違うんだと思うが、それでいいんじゃねーかなやっぱり。あともうちょっと、腕力というか、実現力というか、足りないところもあって、人を誘いたいのも、そのへんと関係があるんだろう。



まあ大体、期待と不安はセットになってるもんで、第一、次公演もまだそんな具体性が上がってないのだし、脚本出来たってだけで。ぼちぼちと頑張っていきたい。



20160712・役者さん募集。





稽古が進行してくると、書いておきたくなることも増える。



大概のことは勘でやってるんで、今自分がなにをやってるのか、言葉にして確認しておきたくなるんだろう。「わたしは最近太った」というタイトルの、女のモノローグの連なりによって成る、演劇作品を作っている。


自分の書いた言葉を女に読ませたい。恐らくそれが、僕の稽古場に於ける、最も原理的な欲求だろうけども、今回はそれを、いっぱい書いて、好きなだけやろう、というのが、極めて個人的な、コンセプトだ。だから、テキスト量は今までより多い。これは、今の灰ホトラでは、リーディング公演にならざるをえないだろうし、それでいいとも、考えている。


狙いをきちんと、身体表現に落とし込んでいく、やっぱり稽古場では、頑張る、ということが必要だ。リーディング公演は目的地にはならないけど、でもまあ、やれることをやるよ。仲間が1人でもいて、時間が少しでもある、灰ホトラみたいな集団には、もったいないことだ。実現できることは、かたちにしていきたい。




来週までには、脚本が出来上がるだろう。ただただ、やりたいことを続けていく。繋げていく。





20160629・アイコスが買いたい。





10回公演「わたしは最近太った」の脚本を書いている。


多分、最初から最後まで、ひとつのモノローグをしゃべり続けるというものになるだろう。複数の人間で、会話的に、非朗読劇的に、読んでいく。


女のモノローグを書くことが好きだし、あんまり難しく考えないで、字に起こせたものを繋げて作品にすればいいか、その程度の気負いである。


とはいえ、家以降繰り返している、「分かり合えなさの表現の為に、慣れ合う人々の様子を描く」という方向に、次も向かうだろうと思う。


今、すごい悩んでいて、灰ホトラはきっともっと、シンプルで力強く、インパクトのあるものを作るべきだ、という問題についてであって、動的で強度のある表現の必要性を、感じていて、それはばかみたいに身も蓋もない言い草になるけど、集団を持続し活動を継続する為の集客や話題性を得るためにも、必要なことなんじゃないのか。


もちろんそれだけの為に、事情を本意にものづくりを考えたりしないが、だけど考え方によっては、僕はいつでも、自分や役者の能力や時間、つまり「集団の事情」を作品に反映させているよな普通に。戯曲はしばしば、集団の事情に都合されて、書かれている。



主宰には責任がある。当たり前のことだが。複数の事情と欲求を、合致させる、デザインする、ただ書きたいことを書いていても、悲しいけど、何にもならない。もう少し頑張らないといけない。




20160619・どんぐり共和国でフラップター指人形を買う。





全然日記書いてないな。


スターウォーズ7面白かった。ものっそいよく出来た二次創作だなって思った。賛否両論あるみたいだけど、ファンがキャーキャー言いながら観る映画としては、充分じゃないのか。ただ、4のルークには存在した「俺のリビドーは田舎じゃ満たせない」的な行動動機が、レイに見いだせず、多少戸惑ったけども。今後描かれるんかな。



MOZU劇場版は、映像は相変わらず凄かったしかっこ良かったけど、あんま面白くなかった。今思うと、最初のテレビシリーズはシンプルで良かったなあ。次回予告大好きだった。


と、上のふたつは、劇場で観たかったもののDVDで観たものであって、そうして今「傷物語」のDVD化を首を長くして待っている。いや本当、東京に観に行けば良かったんだ。




灰ホトラは、ぼつぼつ稽古を続けている。脚本書く前の、アイデアを元にした適当な稽古であるが、面白い。一番好きな時間かも知んない。関係と言葉を循環させながら、或状況を作る、そんなことを今やっている。なにかおもしろいことが出来るんじゃないかという気がしている。


20160522・スーウォー。





公演が終わると流石にだれる。写真をもらったので加工して残してみる。





翌週に参加した白井屋ホテルの演劇。





灰ホトラは、先日反省会をもうけ、振り返りや今後のことを話したりした。僕にも役者にも、叶えたこととそうでないことがあっただろう。ともあれ、集団に前進をもたらしているものがあるとすれば、それは明らかに活動の継続性に由来している。そうなのである。続けないといけない。


20160501・5月にも稽古場はある。





好きな漫画の話でも書こうかな。


一番影響を受けた漫画家は誰だろうとか、たまに考えるが、なんか多分、桜玉吉さんだろうと思う。


玉吉さんに遊んでもらった。ファミ通巻末の「しあわせのかたち」を読んだ時間は、そんな風に思い出される。10代後半の記憶だ。ジャンプ全盛期の時代に、左綴じフルカラー五段コマ割りの中びっしり詰まった、絵や手書きゼリフや不思議センスなギャグは、異質で、なにか特別なものだった。



「そねみ」以降の作品を待つまでもなく、初期の絵作りや線そのものを見ても、繊細で神経質な人だろうとは想像されたが、というか、でなければギャグ漫画なんか書けないだろうけど、それにつけても、最近の動向が心配ではある。とにかく僕は、桜玉吉が大好きだ。だから時々にでも、のんびり元気な氏の漫画が読めたら嬉しい。





江口寿史も古谷実もながいけんも榎本俊二もいがらしみきおも、ギャグ漫画家は、やっぱりどこか少しおかしい。ストーリー漫画の何倍ものエネルギーが必要な、ギャグ漫画家の寡作ぶりは必然だろうが、玉吉さんについては、より生々しい心配がつきまとう。玉吉さんの漫画の絵や内容の「肉筆感」が多分、そうさせる。



なんつって実は、これだけ書いといて僕は、買ってない本が何冊かある。だって、全然本屋に置いてないんだもの。ネットで買い物をあまりしない僕であるが、いい加減購入せねばなるまい。だって僕は、玉吉さんが大好きなんだもの。応援したい。きっとそういう人は世の中に、沢山いるんだろうけど。




20160425・増田こうすけは大丈夫な気がする。





灰ホトラはMaebashiworksでの公演を終了した。





正直、席が足らなくなるとは思っていなかった。予想の倍近い来場者数である。ありがとうございました。ワークス関係者の方々にも随分お世話になりました。感謝しております。


灰ホトラは未熟者であり、なかなか力が及ばないところがある。しかし役者は頑張ったし、成果と呼べるものはあった。更新し、次に繋げるのだ。



自分達の表現をお披露目できた。観客との出会いの中で学ぶことができた。あたらしい環境が推進力をもたらして、あたらしいアイデアの予感もある。ナイーブになったりうぬぼれたりせずに、その上で、歩みを止めないことが大事だろう。



演劇の本番は、作品に対する僕の思い入れや思い込みを散り散りに破いて、しかし確かに互いに有用に作用した証拠のようなものを、きっと残している。本番直後にわかることも、まだはっきりそれとわからないこともある。今後の稽古場で、探し、活かしていこう。



20160417・本番終了。





本番直前になっちゃった。





フェイスブックに参加表明を頂いたり、僕や役者に直接来場の意思を伝えてくれたりした方々、変わりもんの灰ホトラに付き合ってくれるのは本当に嬉しい。ありがとうございます。よろしくおねがいいたします。


灰ホトラは僕によるオリジナル作品を上演することを目的とする集団で、公演数はとても少ないが、年はもう18歳になる。僕は灰ホトラで、少しづつやりたいことを形にしつつ、やがて朗読劇の中に見出した手法を雛形にして、今回の公演に見られるような世界を作るに至った。



震災をきっかけにして、自分の作品と世の中を繋げる方法を考えるようになった。「発熱する家」で、世の中を評価付けし、解釈することの出来ない人々の内的世界を、具体的な4人のコミュニケーションに落とし込んで、作品にした。



伝えたいことは何か。どういう作品か。いつも答えに窮するが、最近ようやくはっきりと言える言葉が見つかった。「家」や「甕」で、僕の伝えたいことはこうだ。「最初にそこに4人いて、途中にそこに4人いて、最後にそこに4人いる」そういう作品を僕は作っている。




僕等は共に生きなければいけない。それがどんなに絶望的で、無意味で、下らなくて、面倒でも。彼女達は舞台上で、共に生きるために役に立つことを、共に生きることの素晴らしさを、何ひとつ伝えないだろう。そうじゃない。ただただ、僕等は一緒に生きている。



20160412・自己紹介。





気分転換に、前作った芝居の客入れ音楽を動画にする。




さて、既に何度か書いているが、灰ホトラは今年の末を一応、活動の期限としている。

作、演出、音楽を僕が行うアマチュア劇団、手法を明確に打ち出し、独創性のある作品を、一人の作り手がきちんとコントロールして作る、そういう集まりだったわけだけど、もうこの辺が限界かと思う。



僕はただただ自分のできることを続けてきた。90年代演劇の影響は明らかだが、基本的には現代演劇の潮流や流行とはほぼ無縁なところで、粛々と欲望に従って行為した。



僕の作品には明らかな傾向があり、「発熱する家」では、その本質が手法と一体化する形で現れている。 これに限らず、音楽だの動画だの作っていてもよく分かるんだが、明らかにもう僕はこの辺で、頭打ちである。自分の年齢など鑑みて、今後、今やってる以上のものを作れるとは信じれないのだし、そう、僕はやりたいことをもう或る程度、形にした。




よりスキルが向上し、より周到になり、より豊富なバリエーションを持って、より上手くやる。僕も役者も、続けていけば、そうなっていくだろうと思う。だけどそれも、今やっていることへの、一定の評価がなければ叶わないことだ。


評価。評判。人気。話題にのぼる。無視できない。なんでもいいけど、なんかないともう無理です。僕ひとりならいくらでも続けられるが、演劇は集団作業なので。




希望はあるし、そこへ向けて具体的な努力を続けている現在なわけである。届かないのは単に、ちから不足なのだろう。頑張らねばならない。わっしょい。




20160406・新年度。





少し今の職場のことを書いておきたい。




僕は高校を卒業した後34歳まで、漫画家のアシスタントやバイト、長時間パートで生活してきた。今も臨時職員であるからつまり、僕は定職についたことがないわけである。


僕はあなたが想像できる、最低の社会不適合の軟弱人間だと思ってもらって、ほぼ間違いがない。ひどい過ちを犯してきている。僕は恐らく一生、社会にコミット出来ないだろう。なぜ僕が演劇を続けているのかは明白である。何かを表現することで最低限の自己肯定感を維持しないと、生存を続けられないからだ。




などと、突然勢い並ぶ自虐的な文言は、まー鬱陶しい。だけども、必要な前置きだ。職場のこと、というか人のことを書こうとしている。頑張ってなるべくシンプルに書きたい。




優しくしてもらった、労ってもらった、気を使ってもらった、認めてもらった、付き合ってもらった。みんな多分いつでも、普通にそうして、そうされている。生きることは無論、関係することである。だが僕はその、関係する感覚が、壊れている。


優しく、労り、配慮し、認め、隣で、互いにただ単に、大丈夫な存在として、席を同じくした。僕の人生に決定的に欠けていたその経験を、与えた人達がいる。いや勿論、その人達にとって僕は風景に過ぎなかっただろう。そうでなければおかしいし、それでいいに決まってるが、だが僕にとってはそれが、一大事なんだよ。ありがとう。大事にしなきゃいけない。




この仕事に就く少し前、僕は本当にひどい時期だった。その頃の僕を救ったのは、こころの中で、僕の名前を呼ぶ声だったし、その人達の笑顔だった。いつかもう一度辛い時には、今度は君達の声が僕を救うだろう。お元気で。





20160330・年度末。





もうすぐ本番である。


なんつってあと3週間はあるが。だのにもうすぐだと感じるのは、日時の確定が遅かったり、音楽の出来が遅かったり、衣裳の出来が遅かったりしているからだろうか。稽古の内容は特に問題ない(多分)。


2014年頭から稽古場を維持し、小公演を続けてきた。灰ホトラにはこの、継続性こそが必要なことだったんだと本当に思う。でなければ、僕のアイデアは稽古場で実体を持つことができなかっただろう。「家」は明らかな成果だと考えている。みんなありがとう。



世界は曖昧なんだと、きっと僕は考えている。僕はそれを描きたいのだろう。人はあんまり虚構に曖昧さを求めないから、灰ホトラは人気者になったりできないだろうが、でも、少しでも多くの人に観てもらいたいという欲望は捨てられない。もっと頑張らねばならない。



年度末の職場には別れもあり、不意に何か、節目の予感がある。いや、そんなもんないかも知れない、だって世界は曖昧である。節目とか後になって気づいたりするし。




20160324・本当に公演日時決定。





公演の準備は進む。


今しがた、期限に追われてチラシを作りなおしていた。理由は「演劇の公演を劇場外へ持ち込む」ことより、「劇場外の状況を演劇に持ち込む」ことの方が大事だと思って、まあやったことは、会場のロゴをきちんと入れ、そこを中心にデザインをやり直したというただそれだけのことなんだけど、10割自分の作ったものをちくちくいじっているよりも、納得のいくバランスになったりして、面白い。



或いは衣装についてアイデアをもらい、公演全体の演出について視野が広がったりしている。稽古場が公演を作るのだと、いつの間にか信じているが、恐ろしいことに、そうでもないのだ。僕はそのことを知っている筈で、例えば僕が、他集団に楽曲の提供を行う時、僕の楽曲は稽古場で作られていない。稽古場が大事にしていることだけで、作品が出来上がるというのなら、僕はそもそも演劇に関わってすらいなかっただろう。



どちらも、作演出の思い入れを一定後退させることで、自分の表現を再解釈するということについての話であろうか。或いはもっと、単に関係ということについての話だと言った方がいいかも知れない。稽古場は大概、密室である。ただそれだけのことが存外、現場の外との関係に溝を深めていく。演劇って怖い。演劇に対する思い入れを可能な限り捨てたい。大して捨てられないかも分からないが、今は多分、そうすることでしか前に進むことが出来ない。




20160316・外の場数を踏んで行け。





本番は、4月16日の夜になりました。どうぞ宜しく。




「発熱する甕」は、現代社会の選択の問題を扱った発熱シリーズ第2弾てことになるんだかならないんだか。「弥生か平成、どちらを生きるか」について話す女達。客席への指向性を持たない演技体が、雑談という会話形式の持つ共有感によって、選択の問題を超越する様子を描いている。


稽古場ではその、「雑談の持つ共有感」を表現する為に、膨大な時間を費やしてきた。かつて僕等が口にした言葉の内、一体何割が雑談に属しただろう。それが10割のまま人生を終えた人がいたとしても僕は驚かない。少なくとも、人生が知的な言語の営みで出来ているとは思っていない。


口語イコール雑談というのは無論行き過ぎている。だが自らの表現をそこに出現させたいなら、会話をどう捉えるか、明確な解釈が必要だ。会話によって世界を表現する、演劇作品を作ろうというのだから、まあ当然だけども。




だが雑談する様子を、雑談の為のテキストではないもので描いているわけで、役者は厄介な思いもしただろう。いまいちシンプルじゃねーなと思うが、もうなんていうか、それが僕の世界ってことなのかも知れない。



稽古の進行状況は大分厳しい。だけども、「家」からの継続的な活動は、流石に一定の、コンセプトの共有をメンバーにもたらしているし、みんな度胸があるし、なんとかなるだろう。「甕」の音楽制作が未進行なことには軽い目眩を覚えるが、「はれのひ」以上の壁ではあるまい。そろそろお客さんを呼ぶこともしっかり考えなきゃいけない。




20160309・その日は春になっている。





音楽を作っている。




「はれのひのつかいみち」という詩を拍子に乗せて朗読し、ひとつの楽曲にしたい。劇伴を作るより、のびのび気楽にやれるだろうと思っていたが、問題がもりもり山積してきて膝が震えている。





20時間以上かけて作った音楽をまるまる没にするなど、なかなかの能力の低さを露呈している。肉声との兼ね合いなどの問題から音色が定まらず、楽曲全体のデザインが全然上手くいかない。


「なんかいまいちだけどなんとかなるか」と思って進めてたのが、全て裏目に出る。迷った挙句アナログシンセのすっぴん基本波をリズム音のメインに決め、半分以上をこの音で構成したらなんとか形になってきて、死ぬほど安堵している。


BPMどうするかっていうのも大きくて、ゆっくりしたスピードで読んで「詩のことばを留めながら進む」ようにしたかったが、この発想も駄目だった。ゆっくりしたリズムを役者が取りやすいようにと、隙間を埋めた音が余計だったり、そうして全体に過剰に修飾的になってしまったり、展開が間延びしてグルーブ感を作りづらかったりで。



ラップに寄せたくないってのもあったが諦めて、120くらいに上げて作ったら急に楽になった。詩の朗読よりも、もっと居直って音楽にするべきだったって話なんだろうな。腹が座らないせいで埒があかなくなる典型、みたいな時間だった。




20160301・どんどん晴れ間。





9回公演の稽古は続く。




役者は自分以外の誰かになったり、今日まで経験したことのない状況を生きることは出来ないんじゃないだろうか。という普通の疑問を、ずっと真面目に考えてきた。その出来ないだろうことを可能にするらしい演劇の作法を、規定事項にしないで、なるべく疑ったり忘れたり知らないふりをしたりしながら、なんとかして自分達の表現を探している。





でも演劇の規定事項って、具体的には何のことだろう。

指向性が明確で説明的な振る舞いで作られた関係。特定の地点に向けて過不足なく用意される展開。世界をフレームの内と外に分けたら、役者は記号化された演技の力を借りて、自分以外の誰かになり、経験のない状況を生きるふりをしてみせる。これらのことを守らないのは不誠実であるとされているから、恐らく規定事項に違いないだろう。第一それに演劇って、なんていうか、自動的にそうなっていくし。


いやしかしなんだかおかしい。考えてみると普通に異様である。少なくとも、実際の僕の生きる世界はそうじゃない。いや誰もそんな世界に生きてなどいない筈だ。






ではなぜ、演劇はそうするだろう。もちろん僕だって、演劇が虚構を媒介にするコミュニケーションであることぐらいは知っている。言葉や関係が、真実を描くために合目的に集まったところ。虚構なるものは、僕等の実人生と隔たっているからこそ、欲望されるのだ。



それに演劇では、その虚構を観客と効率良く共有することが大切だ。お金を払って時間を作ってわざわざ集まってくれる人達に、限られた時間で満足を与える責任がある。「それ、お客さんに伝わらないよ」を合言葉に、要素は単純化され、伝達性の優れたものが選択されていく。演劇は興行なのである。






またその「伝わる」にこそ、役者の快楽はあるだろう。自分の言葉が他人に届いていく。他人が自分の言葉を待っている。その関係が、その自意識が、現実の日常的なコミュニケーション感覚と比較してどれだけ不自然で異様なことかは、少しも問題じゃない。演劇なんだもの。いやでもそれは本当のことか。欲求と発散の吊り合わないアマチュア劇団など存在できないとは分かっちゃいるが、だから灰ホトラはだめなんだろうが、なんとかならんのか。




役者は自分以外の誰かになったり、今日まで経験したことのない状況を生きることは出来ないのかも知れない。ただそれだけの疑いが、やがて僕等を致命的に隔てていく。どうしても、演劇することを目的にすることが出来ない。というより、まあ単に、僕は普通に演劇に向いてないのだ。




20160208・長い愚痴。





動画のリンク貼っとこうかな。








全体に音量が小さいので大きくして聞いて下さいすいません。




サイト内に動画のページを作るべきで、じゃーついでにサイトを全面的に作りなおそう、なんて思いつつ、手が付かない。オール手打ちHTMLの当サイトであるが、サイト作りを勉強したのも10年以上前のことで、色々忘れてしまっている。


youtubeにあげている動画は、全てmac付属のimovieで相当適当に作っているが、正直、動画作りって面白くて、いつかちゃんと頑張ってみたい。大変だろうし先の話だろうが。


強固に作りこんで隙のないものを作ることと同様に、伝わればいい、予感があればいい、面白がれればいい、そうしたことにも意味があるんじゃないかと、今は「ちゃんとしてなくても、とりあえず放流する」感じでやっている。





まあなんとかして、もうちょっと世間に相手にしてもらうことを目標にしたい。まさに蟷螂の斧というか、身内にすら相手にしてもらえてない気すらするし、なんていうか多分無理だろうとも思うが、まあアレだ、これは所詮、期限付きのキャンペーンである。やれることを粛々とやろう。



20160124・ロンダルキアへ向かえ。





歌を作ってみたい。


サイト内にあげてあるが、昔書いて没にした「はれのひのつかいみち」という詩がある。最近頻繁に、これを楽曲にする妄想をしている。


拍に合わせた朗読、と言ったらいいか、ラップみたいなもんになるだろうか。なんか維新派みたいだなと、思わないではないが、詩と音楽と演劇を一つの姿に収めた作品を作りたい、という欲求は、僕の中にずっとある。




「はれのひ」を書いたのは、10年近く前になる。ほとほと思うが、僕は多分、やりたいこと、やるべきことが、既に一定の形を成している。このへんが評価されないなら、きっと、表現を続けても意味がないってことになるんだろう。


そうしてつまり、評価のない現状は、現実が僕へ与えた回答に違いなく、最後通告すら既に終わってるんだろうが、まあ、今年の末までは、演劇集団灰ホトラの活動を継続することに決めている。その後は、恐らく解体されるだろう。評価の伴わない公演をいつまでも続けていていいわけがない。だって演劇って、役者の人生を巻き込んでいくんだもの。




それまでは、自分のやりたいことを、可能な限り明らかに、具体的にし、悔いのないようにしたい。楽曲「はれのひのつかいみち」は、できれば9回公演にオムニバスのひとつとして入れ込みたいが、この場合は、新規に役者を募ることになるだろう。参加に興味のある人はいるだろうか。まあぼちぼちやっていきたい。



201601012・取得時講習を終えて。





あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。



初詣の列に並び、出店のじゃがバターを買って、帰りに福袋を見てまわりながら、ああ正月って、自分で正月に参加しないとやってこないのかもしれない、なんだかハロウィンみたいだ、などと思う。


母の実家に行けば従姉妹が離婚していたり、自分の実家に帰れば突然両親に「一緒に暮らさないか」などと言われ、いつも通りの正月だったか怪しい。だが、甥や姪の成長に驚いたり、酒飲みの叔父の話を聞いたり、あかべこ体型な犬をからかったり、概ね新年の景色はこの頃の天気に習って、陰りなかった。



正月休みの最後の晩に、夕飯を作りたくないと嫁が言うのでうどん屋へ、出た先で僕は、死ぬほどの頭痛と吐き気に襲われた。休日の頭痛は珍しくもない。だけどそれは特に酷くて、帰って薬を飲んで一休みしても、こめかみに痛みはしつこく、こんなことなら初詣の時、財布の中のロキソニンを小銭と一緒に投げたら良かった、神様も頭痛の時には助かるだろうから。



節目は人生を律するだろう。淀みは払って、悪寒は木に結んで、人々の良い思い出は新年という時に吹き溜まって、来年もそこに人出を作る。列に並んで参加すれば、授かった正月気分は案外頑丈だったかも知れない。僕等はきっといつでも、ただ次の日へと向かわない。





20160103・仁王の上にとんびは回る。





何時間も掛けて書いた日記を消してを、5回繰り返している。


気を抜くと、ひどい自己言及が始まって、読むに耐えない。こういう時は、精神状態が良くない時だ。大体いつも良くはないけども。


ちょっと本気で精神科にかかろうかと悩む。「ぼくはもうずっとまともじゃない」と、トップページのコメントは6年前の日記のものだけど、いやそれどころじゃなくて、10代後半から続く、躁鬱と依存の病は深い。



灰ホトラの表現から、虚勢を排除したい。ただやりたいことを、ただできることを、そこに現したい。僕にはやり残した宿題が多すぎるから、何かやろうとすると、虚勢が傍らにいて、邪魔である。



今少ししんどい。多分誰だって、生きることは大変である。僕だけじゃない。前向きになれる材料だって少なくない。ばかになって進もう。



年の瀬にろくなことが書けない。本当は、今年お世話になった人達のことでもきちんと書けたら良かったが。灰ホトラには少ないけど協力者や理解者がいた。感謝しています。



20151227・深呼吸して咳を逃がした。





何本かまとまって映画を観たので書いておきたい。感想というか印象のメモである。



テリーギリアムの「ゼロの世界」である。「ブラジル」的なへんてこ未来をもう一度観れるのは嬉しい。へんてこと言えば「ゴジラ」の日本もへんてこだった。いやゴジラ自体もへんてこだったが。


それに比べれば「ベイマックス」の日本は百倍マシであろう。材料として正しく機能している。前半は本当に凄かった。引き気味で隙間の多いレイアウト良かったなあ。後半ヒーローモノに移行してからは何もない。なぜこれだけの才能が集まって、パロディしか描けないという居直りに向かうのだろう。欲はないのか。


「ハンガーゲーム」「メイズランナー」「ウェイワードパインズ」と、全て「隔離もの」である。流行りなのか。進撃の巨人もそうである。「パインズ」の主役の顔がよかった。「ゼロ」の人もそうだが、その人の無表情が、作品の不条理性を担保していると感じる。




それから、「キューポラのある街」をようやく観る。啓蒙的な映画で驚く。


工場と街、土手と橋、下町的日本家屋、高度経済成長の途中にある昭和の景色が、非常に美しいモノクロ画面で映しだされる。全てのカットが密に詰まって、感動的だ。大好きなシーンがいっぱいあったし、第一さゆりんがかわいい。「おもいでぽろぽろ」的な左向きな脱線は、なんていうか、僕には冗談の一種にしか見えず、いや脱線じゃないのは分かってるけど、でも歌声運動とか、笑っちゃうのだ。


そうした冗談めいた要素は、収録されてる劇場予告の中にすっぽり収まっていて、笑いなしには観られない。だからほら、笑いと感動の映画ってことなんだろう。



ひとつ、くっきり残った不思議な感覚があって、さゆりんがちっともエロくないことだ。虚構の中心にあって、思春期ぶりも確かに描かれている、確かに可愛く撮られている。が、エロくない。まるで劇中の近代化された工場のようである。




20151208・さゆりんをキューポラしたい。





第9回公演の準備をしている。


脚本はとりあえず仕上がった。仮チラシも来週にはできるだろう。ページも作ろう。稽古を続けよう。


公演は小規模なものになるだろう。目標客数10人、それが灰ホトラである。40分くらいかな。調子に乗れそうなら何回か場所を変えてやりたい。


「発熱する家」での気負いが、もうちょっとなんとかなんないかなと、そんな思いで「発熱する瓶」を作った気がする。脚本を書きながら、稽古しながら、最近良く思う。僕は大体、このくらいである。このくらいの僕を、ただただ真面目に普通に、形にしていくことが、今の僕が思う、「表現すること」のイメージだ。



内容は、「ゾウロ」「スーハー」「発熱する家」の続きというか、これまでやってきたことの繰り返しである。2層のことばの組を渾然一体に、音楽性を軸に描き出す。今回は直接対話を基本に、「雨とピアノ」「ユビニケ」で模索した、選択的なあいのてが、会話の付属物を超えて、会話の有り様そのものを作る様子を、出現させたいと考えている。



「瓶」のテキストは相当、口語から離れた形容を意識した。劇の台詞としてしか成立しないようなテキストなわけだけど、「不自然で形式的なことば」をバランスにして、微妙で内省的で事象的な関係の様子に向かう算段だ。


とはいえなんというか、大体がひどく下らないやりとりである。面白いんじゃないかなこれ。頑張っていきたい。




20151204・多分来週運転免許交付。





公演の手伝いである。


音楽の関係で協力する弾みで、スタッフワークにも関わった。何をしても何を見ても、灰ホトラの次の公演との関係でしか、ものを考えられない。まあ大体いつもそうなんだけど。




別役実の「この道はいつか来た道」である。とても面白い戯曲だった。思ったことを書いておく。少し長くなるだろう。


まず、僕は演劇のことをよく知らないので、別役実のことだって知らない。「舞台を遊ぶ」という本をかつて読んだことがあるぐらいだ。繰り返すようだが、これは僕が自分の表現の為に書く、それだけのものに過ぎない。





僕はこの戯曲を読んで、ことばの身体性、というものを考えた。

ことばは、意味のしがらみから自由になれないが、一方で、運動や響きへ向かって放たれてもいる。灰ホトラでは、会話のことばが、その意味に囚われるより早く、関係や環境の中に消えていく、そんな様子を描くことが多い。


「この道」に登場する二人は狂っている。なぜ狂っているんだろう。記憶の混濁したような、辻褄の合わない会話。ことばが意味に捻れて、開放されない様子は本当に不気味だ。僕等は今、少なくとも作中の男女よりは、ことばをしがらみから逃がすことが出来る。例えば、端末の向こう側へと。


だが、二人のことばは捻れたままだ。僕はどうしても、「愛」と「結婚」ということばの扱われていることが、気にかかる。


この戯曲では、「愛」も「結婚」と同じく、契約以上の意味を持たされない。契約こそが大事な世界。世界というか社会だろうか。二人が終始敬語なのも、そのことと無関係ではないだろう。死を賭して願うものが、契約としての「愛」や「結婚」だとは、よくもまあこんな風に、誠実と呪いを同一のものとして描けるもんだなと思う。




僕は、二人は別に、狂わなくてもいいのだと思うのだ。世界が不条理なのは話の前提だ。淀んだことばは電柱から空へ、死を与える雪を降らせた。まあそんなもんかも知れない。だが問題はその後のことだ。今日のことばは響き運動し、生き続ける身体と共に、どうしようもないそのへんの世界を踊っている。



二人が死のうが、あんまり関係ない、身も蓋もなくだらしなく、繋がった世界に電柱は、数えきれない程、立っている。僕の生きている世界にあの電柱が立っているか怪しい。あるとしても多分、割と遠い場所だろう。





20151115・雪を降らせない電柱の下で。





灰ホトラは稽古を、ちまちまねちねち続けている。



そうして最近、第9回公演「発熱する瓶(かめ)」は、予定された。予定されたっつっても、来年頭辺りかなぐらいの感じで、脚本もまだ終わってないし、誰がやるのかすら決まってない。が、多分やるんじゃないかな。


昨日、チラシのイラストが思い浮かんで、僕はチラシのイラストが思い浮かんだ時が、次の公演に実感がわく時かしんない。近日中にアップすると思う。



僕は「発熱する家」の中に、自分のやりたいことはほとんど出現させた。次回公演は、その中の一部を拡大して小作品にしたものになるだろう。会話と関係の様相、それ自体を描くことが目的である。


内容というか設定は、どんなものかといえば、「弥生の神と平成の神の会話」だ。ばかみたいな設定である。きっとばかなものになるだろう。「スーハー」もそうだったが、伝えたいことなんか大してないのだ。どう描くかを問題にしている。


とはいえ、僕は筆を進めれば、家族や関係不全の周辺にある感傷にばかり行き着いてしまう。伝えたいことなんかない、いやそれは欺瞞だろう。作ることのままならさを含めて作品にしていくしかない。




発語の不順やあいのてを軸に、会話や関係を考えている。新しい発想で新しい景色が見える。盛んな稽古場ではないが、しばしば充実を感じる。良い公演を準備したい。




20151111・発熱する瓶。





引き続き、参加したイベントのことを書いておきたい。




それぞれのパフォーマンスはいずれも素晴らしかった。楽しかったし、贅沢だった。自分のすることが他人にポジティブに作用をするのだと、確かめてきた人達は、やっぱり強い。自らのスタイルを知り、行為に迷いがない。


僕は特に、根岸さんのダンスの中の或動作に、衝撃を覚えた。それは背中を両手でぐりぐりと弄る動きだったんだけど、うまく書けないのを承知で勇気を出して書いてみたい。



生命力が背中側に反転する様子は、戯画としてまずコミカルに描かれ、次に身体全体にそれを及ぼしていく形で現れた。両手で背中を弄り貪る動きは途中にあって、あの感覚を僕は忘れない。自分達が脊椎動物であるのだと、呼び覚ますあかるい声を聞くようだった。その声は普段遠い筈だが、いや違って、こんな風に認識を背後に回すようにすると、そもそも自分自身の中にある。


ダンサーの技術や訓練については、思うことすらおこがましく、尊敬や敬意を抱くばかりだけど、そうして到達した個人の方法によって、抽象表現を対話的に営み続ける人の仕業は、例えば昨日や今日のあの場所で、確かに人を感動させた。



僕も出来るなら、まっすぐにやりたいことを続けて、本当の自分の方法によって、他者との幸福な関係の中にありたいと願う。その時が遠くとも近くとも、別にいい。続けるのだ。




20151026・窓に女、女には風。





広瀬川ラビリンスにお手伝いとして参加している。


色々面白いので、何回かに分けて書いておきたい。思ったことは書いておこう。多分意味はある。イベントの詳細は、こちらなどで。ダンスと演劇の催しである。



演劇は言葉だ、ダンスは身体だ、などと言っても仕方がないのだ。具象を拠り所に間接的に観客と関係する演劇と、抽象を拠り所に直接的に観客と関係するダンスの、違いを指摘しても仕方がないのだ。そこでは、僕の中の「演劇とそれ以外」というフィルターが、邪魔だった。



そうはいっても、僕の希望は灰ホトラの次にあり、感じることは演劇に還元される。演劇の集団性や建築的な要素が、物語を旗印に身体的な直感や反応を禁じようとする時、そこからこぼれ落ちたことは、なんだかダンスの中にある。ダンスもアートも、無意識が味方だ。それが演劇人には、容易くは理解できない。



イベントの一部、演劇作品「コード・ガドルフ」では、言葉は捉えようとすることの周辺にしか存在できないのだと、予め提示されている。そうした眼差しが演劇作品の前提にあることは、とても励みになる。それが、灰ホトラの次に希望するものと同じだからだ。演技が言葉を愛でて意識の上、感情や説明に終始する、そんなことには耐えられない。



僕はきっと今楽しい。色んな人と出会い、認識を新たにし、希望を強化する。肩の力を抜いて、自然にそうしていることは、楽しい、ということなんだろう。



20151025・興奮とのんびりの川。





へとへとだが、今思うことは特に、今書いておいたほうがいい気がする。



青春ベルボトムの公演に、音楽制作として参加し、またスタッフとしても関わった。僕はあまり、他の団体と関わることが得意でないので、貴重な経験となった。


今思うと、良く飛び込んだもんだなと思う。音楽は本当に、芝居を台無しにすることができる。すり合わせは限定的なものだったし、リスクは大きかったけど、僕は役割を果たした。この関わり方で、これ以上のことが出来たとは思わない。



非常に実行力のある集団で、とりわけハードワークにおける手際の良さには舌を巻いた。設計も搬入も組み立てもバラシも、面食らうレベルの量と難度でも、作業に淀みないのは本当に凄いよ。もちろん、有鄰館スタッフの手厚い協力があってこそのものだけど。

ソフトにおいても、軸を合わせたパフォーマンスは、観客への立場を明確にしつつ、戯曲世界に奉仕し、公演を成功に導いたんではないだろうか。





バラシを終えて打ち上げから帰り、僕はふと思う。演劇する人は、とても正しい。真面目で誠実で前向きで仲間を大切にする。それは本当に素敵なことだし、だから演劇はやめられないのだ。



適合を永遠に遠ざけるように、ひたすらに自分を掘り下げてきた僕の演劇経験は、もっと無残なものだった。そしてそれはこらからも普通に続くだろう。願わくば他の集団と理解が深まればとは思うものの、だけどまあ、それは甘えに過ぎないな。



さあ、灰ホトラの稽古場のことを考えなきゃ。新しいアイデアがある。きっと誰もみたことがない、とても面白いものになるだろう。




20151019・撤去の日。





依頼されてた音楽制作が終了した。



灰ホトラのことをまっすぐに考えるより、こうして他劇団の活動に参加する時に、なにか自分が更新されている。判然としてるわけじゃないが。

音楽作りで朦朧としてた感覚が少しはっきりしてきたんで、考えてみることにする。





アニメキャラに対する「なんでこんなに目がでかいのか」という疑問は、アニメ文化の本質を考える時に重要でも、アニメ好きにはなにか、難癖に聞こえる。記号の共有は、文化を楽しむ上で話の前提なのであって、野暮なのである。


演劇の現場で、「なぜ演技するのか」なんて話を始めようものなら、みんな途方に暮れるだろう。そんなこと言う奴は排除した方がいい。「なぜ演技するのか」に対する答えは「演劇だから」で終わりにすべきだ。


演劇が好きで、そこにいる。演劇が好きじゃない奴の意見が如何にうざいか、前述のアニメの話と同じであろう。


自らの身体と向き合い、他者と響きあわせる経験の中に培った、役者の力をリスペクトしている。舞台は期待に満ちて、観客の納得は最優先だ。肉体を晒してそれを引き受ける者の、感覚や認識は、魅力ある舞台作りに主体として存在し続けるだろう。




そうして灰ホトラは、やはりどうもイレギュラーである。まあ少なくとも、地元のアマチュア演劇の中ではそうであろう。だが今、確かに何か更新されている。判然とはしないが多分、ぶっちゃけてこうだ。僕は以前より、演劇が好きな人を好きになっている。



20151014・さじ加減の鉄人。





日記でも書けば、音楽作りで満タンの脳味噌を気分転換できるだろうか。



たまたま誘われた劇の中に「君が代」が扱われていて、「発熱する家」でもそれは登場するわけで、縁というのは面白いものだ。いや、とんでもない偶然なんじゃないのかそれは。


同じ時間を生きて感じることが、舞台に繋がっていれば、そこで僕等は出会うことができる。灰ホトラの表現とは著しく隔たった現場でも、学ぶべきことが沢山あったのだと知ることができる。ありがたいことである。





さて、今後書く気が起きるか分からないので、「悪魔の唄」の脚本について思うことを書いておく。


もっとも、僕は公演用に編集したものしか知らんが。とても面白い脚本だった。差し当たり、冒頭の手っ取り早さである。始まって数分で、複雑な人間関係を一定提示し終えてしまう。この掴みを実現するノリというか、脚本の持っている体感というか、すごいなと思う。


それから、人間、幽霊、ゾンビと、一つの場所に3層の世界が絡み合っていく構造だ。全員が抱える心の空隙は結局埋まらないが、だからこそそこに、劇中の唄は作用するだろう。唄は、時代だの風俗だの情景だの感傷だの、多様な情報を宿しつつ、共有されているものだ。


脚本を読んだ時には腑に落ちなかったことが、稽古場を観ると、唄の中に回収されていることが分かる。手法としては珍しくもないんだろうが、上手いこと出来てるなと思う。



音楽では、劇の持つ情念を下支えしつつ、展開を押していく、というようなことをやっている。しんどいが、目処が立つまでもうひと頑張りである。




20151005・斉唱。





劇団「青春ベルボトム」に、音楽制作として参加している。



ほぼ完全なる1見様である。僕みたいにさして演劇が好きでもない人間は、他所の現場なんか怖くて怖くてしょうがないわけだが、しかしまあ稽古場を訪れてみれば、結局杞憂に過ぎなかったりもする。


人のアイデアに懐を深く、自らのからだと反応を信じる、役者のユニット的な活動経験も加わってか、そこはとてもオープンな稽古場だった。僕も出来る限りのことをしないといけない。




音響全体を担当せずに作品に参加した経験が僕にはない。今回は楽曲のみの提供という形であるし、考え方を変えないと多分だめだろう。


しばしば芝居の音楽は、暗転を補佐するものとして存在する。それは音楽を作る立場からはほとんど意味不明なことだが、まあそんなもんであろう。そこをなんとか抜け出す為に、幕前後に有機的に作用するよう楽曲に変化を与えることをはじめ、作品を編集していく役割を意識することが、僕が芝居の音楽を作る時に大事にしていることだ。


だがそれは存外、集団全体のコンセンサスを必要とする。灰ホトラではやり放題だが、他所の現場ではまた違うのに決まっているのであって、だからつまり、考え方を変えないとだめなんである。



これは単に、僕の甲斐性の問題である。「こなす」は漢字で「熟す」と書くが、例え細やかであれ、自らの成熟をそこに賭して、能力を証明していくしかないんだろう。うんざりする程毎回思うことだが、気楽に済ませることのできる表現なんかない。




20150928・参加が遅くてごめんなさい。





全力で風邪を引いたり、マックが壊れたり、そうして知人に頼まれた音楽作りが全然進まなかったり、灰ホトラの脚本が全然進まなかったり、ネットに全然繋がらない生活を送ったりしている。



まあ言い訳である。知人に頼まれた音楽は一応曲調がわかるくらいにはなったので、ついでにyoutubeにあげておく。





音楽作りの時間の半分以上は、VSTiとサウンドフォント探しに消えた。音色が決まるまでに恐ろしく時間がかかる。あと、SFZ使ってると頻繁に鳴る殺人的爆音ノイズはなんとかなんねーのか。普通に難聴になるっつーか、音楽作りがトラウマになるレベルである。


まだ、参加劇団に聞かせてないが、没食らったら死ねる。素材は使っていけると思うが、どうだろうか。


一つ一つ片付けないと、ちょっと大変である。灰ホトラの稽古も継続している。がんばらないといけない。



20150921・トローチ三昧。





「東のエデン」「ブラックラグーン」「アナザー」などのアニメを観る。


いや観るって、言うのは一言だけど、テレビシリーズを全部観るのって労力なんであって、つい何か書いておきたくもなろうと言うものだ。





「東のエデン」の絵力には空いた口が塞がらなかったっていうか、コンテレイアウト作画、テレビアニメでこれ以上のクオリティってあり得るんだろうか。すごいなあこれ。面白いかどうかがどうでも良くなるレベルである。あと、なぜか川井憲次の音楽は政治的な作品と相性がいい。



「アナザー」は、昔読んだ綾辻作品を思い起こしながら、或種の感慨と共に観た。叙述トリック大好きだったなあ。無論僕はにわかであるが、ミステリのノリを踏まえないと楽しめないものだろうとは思う。「お約束」の共有である。ああ、だからアニメと相性がいいのかな。アニメも「お約束」の共有なしには成立しないメディアであろう。


あとは、「ハルヒ」から思ってるんだけど、のいぢ目って言ったらいいのか、すごい記号だよなこれ。良くこんな目の描き方が考えつくなというか、おっさんには想像もつかない造形である。




後で調べて分かるんだけど、「エデン」も「ブラクラ」も、宮崎押井組の監督であった。どちらを観ていた時も感じたことだが、面白さはシナリオではなく演出力に由来していた。「アナザー」は逆だったが。



作品を演出するということについて考える。のんびりうたたねしている僕の左脳を、叩いて椅子に座らせた、アニメについての話である。




20150907・日記の更新を怠らない救世主たらんことを。





本の話を少し続けてみる。


いつどこで買ったか覚えていないが、世田谷パブリックシアター発行「PT」の最終刊(2001年12月)がある。地方の書店でも売ってたんだっけかこれは。手に入るなら全刊欲しいなと今更思う。


この中に掲載されている、劇場が行っていた「舞台芸術のクリティック」参加者、増田敦子さんの最優秀論文が、大好きだった。





「私はなぜ演劇を見に行くのだろう?それは暇だからだ。ーー私は余暇の慰めに芸術を求め、わけても演劇を求めた」

「現在芝居には面白い面白くない、優れているかそうでないかはあっても、成功したか失敗したかは存在しないように見える。ーー成功した音楽ライブを見る時、実に優しい相互関係に感動を覚える時がある」

「私がシェイクスピア作品を見に行くたびに期待しているのは、その過剰さと激烈さ、そしてスピードである。ーーこれらはNYLRON100℃のように外見の笑いのみにこだわって無愛想であっても、ダムタイプのようにセリフがなくても、確実に備わるものだと思う」

「演劇は心に残る必要などなくていいと私は思う。ーー演劇的快楽の最高のもの、究極的な楽しみとは、そこで表現されるテーマや物語や感情、形態などにはなく、見る人間の内に生じる、わかった、という感覚なのだからーー我々が知った時、我々の精神は高くあがるように感じられる」

「わたしが選んだのは演劇だった。ーー応えられないようならば、それは演劇の終わりでよいと、そう思うのだ」





これは僕の乱暴な引用に過ぎないものの、観劇の生の興奮を論考に映していく感じが、とても好きだ。今気付いたが、僕は自分の芝居の観客のひとりに、この人を無意識に想定していたかも知れない。


うまく説明できないんだけど、この論文は「作り手」では書くことができない種類のものだと思う。「観客」のことばって、「作り手」からは手が届かないんじゃないだろうか。批評という行為の凄みを思う。「観客」のことばこそが、演劇の世界を開いていくのかも知れない。




20150824・PT第12号。





僕が随分影響を受けた、斎藤環さんの「戦闘美少女の精神分析」という本がある。


僕は全然本を読まないんだけど、10年くらい前、「オタク男子が少女に変身して戦う」という一人芝居の脚本を考えていた時に、勉強になるかと思って買った本だったと記憶している。




虚構を所有するプロセスとしての同人誌やコスプレ、多重見当識的な文脈の読み替え、複数のコードをユニゾン的に速読する漫画の読み方など、いちいち腑に落ちる分析で、漫画アニメについての客観的な視点を教わった本である。


また、メディアは人間を変えることができないといったメディア論や、虚構が現実を担保にしないリアリティーを持つことを可能にしたのは、アニメ美少女のセクシュアリティーであるといった指摘も、僕には新しい認識だった。


とりわけ、宮崎駿を例に挙げた、外傷の反復が萌えの再生産を産むという話が面白かった。宮崎駿が白蛇伝の少女に恋をした話は有名であろう。僕はデビルマンのことをつい考える。それは外傷となって後に反復されていったに違いなく、ベルセルクみたいなあからさまなものをはじめ、或いは進撃の巨人さえ、元を辿ればあそこに行き着くんじゃないだろうか。




さて、なんでこんな話をしているのかと言えば、この本にもあるように、複数のメディアは、複数の虚構を担うべく存在するということについて考えたいからだ。まあ、演劇の話である。


僕の想像力は、明らかに漫画アニメを源泉としてきた。灰ホトラが生まれたのは、漫画アニメと演劇との文脈の違いに魅せられたからだ。


だが僕は演劇を、欲求の坩堝を受け止めてくれるものとして、あまり分析や勉強をしてこなかった。演劇固有の時間性、運動性について、どこまで自覚的であったか怪しい。「発熱」で自分の型なるものが出力され、僕は今、作品を客観的に考える機会を得ている。例えば漫画アニメに対して持っているくらいには、演劇の知識を学ぶべきである。



それは(必ずしも)評価を得る為の下心ではない。この本を読んだ時のように、知識のもたらす新しい認識が、きっと作品をよりよくするだろうと信じられるからだ。




20150821・戦闘美少女の精神分析。





「発熱する家」境公演の動画をアップしました。



「発熱する家」プレビュー公演(youtube灰ホトラチャンネル)


脚本の改稿と演技の見直しが終わり、この作品が完成すればそこが、灰ホトラの最後の目的地になるだろう。

大きな評価が得られればいいが、まあ、得られないかも知れない。いや、不安は尽きないのだし、本音を言えば、目標に対して胸に宿るのは恐怖以外ないが、これが評価してもらえなければ、自分達の表現を実現するという灰ホトラの存在を、維持することは不可能になるだろう。



灰ホトラの表現を形成したのは、過去メンバーをはじめ、前世紀から僕の世話を焼いてくれていた演劇人や漫画家、或いは今参加している役者達を育てた地元の劇団の力なのであって、僕の手柄がいくばくのものか、いやしかしとりあえず、今稽古場を訪れるメンバーに由来するものが大きいのだと、それは明らかに思うところである。



これから、参加する役者と稽古場で、どれだけいい時間が作れるか、課題はそこに集中している。


手法がもたらす演技の縮みから解放する為に、もう一段、深い共有が必要だ。自分達の表現の中に、きちんと自由を獲得すること。それがもし実現すれば、この表現は、現状とは比べ物にならないくらい、飛躍すると思う。


来年末を、最終的な提出期限と想定しているが、普通にそこまで集団を維持できないかも知れない。それならそれでいい。それも僕の能力の限界ということだ。特に悔いはない。




灰ホトラは「発熱する家」をエンジンにして、最後の旅に向かう。後1年半はある。できることはなんでもやろう。




20150813・本公演に向けて。





ちょっと思い立ったので、役者用のメモとして書いておく。(僕が日記に「メモ」っつって書くと、超長くなる)




まず、脚本の記述に顕著なように、僕は演劇を、音楽を作る感覚と繋げて作ってる。


テーマとなる主旋律を提示し、それを分解して、また集合させて、主旋律を再提示して、という流れがあるんだけど、

・主旋律は、1幕「いちいち」で提示する2組の台詞。
・分解、集合、再提示が、2幕「誰かがわたしを呼んでいる」前まで。

そんで、3幕では、そこまでの流れを、意味の中に落とし込んで、作品として終わらせていく。というのが、「発熱」の構造。



言葉を主旋律として扱ったのは「スーハー」では、「何処だろ誰だろ」「見たよな見てた」で、同じフレーズが、劇の中盤、後半で、回帰してくる。

それ以外、「ゾウロ」でも「雨とピアノ」でもそうだけど、一つの事象の周辺を、複数の層に分けて並走させるのがそもそも、音楽の感覚から来ているものだから、今更殊更に言うことじゃないかも知らんが。



そうして灰ホトラは「一つの事象の周辺を、複数の層に分け、その分離と集合を描く」ことを一つの特徴としていて、「発熱」の最後に、集合が手拍子で行われたことに象徴されるように、作品全体に音楽的な眼差しが影響している。



ここまでが前置きで、以下が本題。



劇が物語から離れて、音楽的な抽象に向かえば、そこに立つ役者は、役を捉える根拠を失いがちになるだろう。まして僕は、「与えられた言葉の意味に向かうな」だの、「作品に登場しない人間の視線に振り返れ」だの、しまいには「演技するな」とまで言っている。


役が持つ情報や、物語の中の役割を頼りに、演じることが出来ない作品が、役者にとってどれだけ不自由なものか。「発熱」の稽古では、根拠の提示が曖昧で、役者の潜在能力を頼るが如く、無責任なものだったかも知れない。


アマチュア劇団が物語から離れたら、そりゃもう、危険だ。僕が今後に抱く恐怖は、そこに集中している。


脚本を離して、身体表現に向かえば、そこに現れる課題は、役者の快楽や発散と離れていくんじゃないか。僕等はアマチュアだから、原理的な合意が必要だ。ここは、僕等の分かれ目かも知れない。書いてて泣きそうだが。



僕は、自由に表現できる現場を持つという、死ぬ程贅沢な思いをした。そこで僕は、自分の表現欲求は、世界に破壊されるまでは終わんないだなという、どうしょもない結論を再確認したんだけども、それはあくまで、僕個人の問題だ。



もうくそ長くなってるし、簡単に言うと、灰ホトラはそろそろ、めんどくさくなるみたい。一緒にやれる人は頑張ろう。



20150803・灰ホトラの今後。





灰ホトラは、第8回公演「発熱する家」プレビュー公演を終了した。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。





僕は好き放題やっている。無茶苦茶な作品である。だけど、人前に出すことが出来て良かった。希望は繋がっていく。


灰ホトラはこんな感じなのであって、来てくれた人々に、それを知る人は少なくない。だから、貴重な存在だ。これに付き合える役者もまた、希少な存在と言っていいだろうが、1年半続いた綱渡りの中、随分彼女達から学んだ。「発熱」の舞台に出現した全てのことは、7回公演以前には想像も付かなかった表現である。何もかもを伏線にして、灰ホトラはその先に向かうことができた。



「自分達の表現」を志向する以上は、その先へ向かわなければ仕方がない。「発熱」の本公演の話に止まらない。戯曲賞か、県外のアートフェスか、海外か、今後は評価を求めて具体的な目標を設定していくことになる。分かっていたことだが、ぞっとする。後には引けないところに立っている。




20150802・境公演終了しました。