沢村栄治
(1917〜1944)
 
 1917
年(大正6年)、三重県に生まれる。野球が好きな父の影響で野球をはじめ、当時強豪だった京都商業に進学。この頃から1試合23奪三振を記録するなど、並々ならぬ才能を見せる。17歳のとき、日米野球の全日本選抜に選ばれたのをきっかけに京都商業を中退。当時、日本の野球とアメリカの野球との格差はかなりなもので、日米野球では20点差ゲームがほとんどであった。この年の日米野球も日本の全敗で終わったのだが、この対戦の最後の試合に登板したのが若干17歳の沢村栄治であった。
 彼はベーブ・ルース、ルー・ゲーリックといった大リーグ黄金打線から自慢の剛速球とカーブを武器に9つの三振を奪取。この意外な試合展開に驚いたアメリカチームは沢村がカーブを投げるときのクセを調べ、ルー・ゲーリックのホームランにより試合は10のアメリカチームの勝利に終わった。しかしこの時の沢村の投球は日米双方に大きな驚きを与え、ベーブ・ルースは「ぜひ沢村を大リーグに連れて帰りたい。」と話したという。
 この日米野球がきっかけになり、日本で初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(現・巨人)が発足。これに沢村も参加、そこでも沢村は目ざましい活躍を見せる。1937年のチーム全試合数56に対して、沢村は24勝。堂々のMVPである。また1936年、1937年の2度にわたってノーヒット・ノーランを記録。彼の活躍は人々に驚きとともに感動を与えた。
 そんな時、戦争が彼の前に暗い影を落とした。日本は戦争に突入。ついに彼にも召集令状が来た。そしてこの一度目の従軍で肩を壊し、彼の自慢の速球もその威力は激減した。しかし彼は変化球を主体とした巧みなピッチングを披露、そしてこの年3度目のノーヒット・ノーランを達成し、見事な復活を遂げる。
 しかし時代はもはや野球どころではなかった。1942年、彼は再び招集を受けた。今回の召集は1年で終わったものの、彼の肩はもはやボロボロであった。しかし、彼はあきらめず、ピッチングスタイルを肩に負担の少ないアンダースローに変えて三度マウンドに立つ。
 1944年、彼は最後の召集を受け、戦地に赴いた。そして彼は再びマウンドに立つことはなかった。召集を受けた年の122日、彼を乗せた輸送船が台湾沖でアメリカの潜水艦に撃墜されたのだ。享年27歳。あまりにも無念な大投手の最期であった。

 生涯成績6322敗。奪三振554、防御率1.74
これだけでも素晴らしい成績だが彼の前に戦争が影を落とさなかったら、と考えずにはいられない。実際に彼の投球を見た世代の証言や、最近見つかった彼の投球フォームを解析した結果、彼の剛速球は160キロに近いことが明らかになった。現在の一流の速球投手で150キロそこそこであることを考えれば(松坂の最高が156キロ)である。それに当時の練習設備のことを考えれば彼の投球がいかに並外れたものであったかがわかる。
 1947年、生前の彼のピッチングをしのんで、一流の速球投手に与えられる沢村賞が設置された。そして1959年、野球殿堂入りを果たした。沢村のピッチングは伝説となった。
 沢村の剛速球について、京都商業の捕手として沢村とバッテリーを組んでいた山口千万石氏(84)は言う。

「栄ちゃんの直球は打者のひざ元で球二つ分ほどホップする。打つ方は怖いでしょうな。受けてた私が怖いんやから」。
 
 振りかぶるなり、天高く足を上げ、そこから一気に腕を投げ下ろすという豪快なフォーム、沢村を偲ばせる数少ないフィルムがそれを物語っていた。




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