知久氏由来書(摘録)

1. 系 図
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   信貞 ―敦幸 ―敦信 ―敦平 ―敦貞 ―頼昭 ―為行 ―頼矯  

   9    10    11    12   13    14   15   16
  ―頼季 ―頼尚 ―頼爲 ―頼元 ―頼康 ―頼氏 ―順直 ―直政

  ―(以下省略)

2. 信濃清和源氏 中津川頼継の男 信貞 伊奈郡知久の郡に住せしより
   この姓を称す。紋所は車輪に桔梗、梶の紋。
   信貞は弓の名手で正嘉2年正月の御的始に全国から選ばれた13人の
   中の最優秀者としての名技を頼朝の御前で演じ名を謳われた。(吾妻鏡)

3. 2代敦幸は神ノ峯(カンノミネ)に城を築き代々城主として伊奈郡に善政を
   施し徳が高く、附近に南原山(ミナバラサン)文永寺を建立した。同寺の
   2世定成は敦幸の弟でありその後も同寺の住職は知久氏の正統から出て
   いる人が多い。

4. 9代頼季の弟宗詢(文永寺第6世)は幼名を宮壽丸と言い(嘉吉元年生)
   京都の醍醐理性院へ登り稚児となった。特に和歌が上手で後花園天皇の
   ご寵愛を受け参内もした。
   「眺めやる心ぞ澄める夜もすがら更け行く月の影にまかせて」(15歳の作)
   この他にも秀作が多数伝わっている。

5. 天文23年武田信玄が信州に攻め入り諸将は大方が降伏したが12代頼元
   は神ノ嶺城で最後まで力戦し遂に大敗落城し、文永寺も兵火にかかって
   全焼した。

6. 武田氏のために甲州河口湖中之島に幽閉されていた頼氏は番人の隙を
   窺い天正19年の暮に脱出して、京都理性院に入りその後家康に願って
   文永寺(現存)の再建を許され、同11年8月普請に着手して再興した。

備考

 A 文永寺は飯田線駄科(ダシナ)駅より徒歩5分にあり。神ノ城跡は更に徒歩
   30分の要害峻険の地にある。飯田市に知久町現存す。

 B 文永寺は勅願所で格式が高く、五輪等(国宝)のほか、歴代天皇の御宸筆
   や彫刻・文書(百点)・記録(三十点)など多数あり。

 C 現在文永寺の住職は第23世新井弘道師(昭和25年現在)である。

 D 土地の人々は城主であった故人に対し、その徳を慕いて現在も「知久さま」
   と敬称している。知久平に知久姓の家3戸現存す。

 E 落城後知久一族は天竜川に沿って南下四散するか、東に栃木・茨城・千葉
   の利根川沿岸まで落ち延びたらしい。
                                           以 上

 この由来書は昭和25年に当時静岡県榛原郡川崎町細江在住の知久駒吉氏
 が調査記述し、当時東京都港区芝白金志田町在住の知久清之助氏に郵送さ
 れてきたものを清之助氏四男の明が記録したものである。