共生とは

藤田紘一郎 「共生の意味論」講談社ブルーバックス より


生物種間の相互関係

 ヒトは自分一人では生きていけない。地球上の生物はすべてそうなのだ。生物は相互に影響し合いながら生きている。
 相互に影響し合う二種の生物の個体群間に生じる種々な関係については、今までに数多く論じられてきた。生態学の教科書によると、二種の生物は、捕食関係、寄生関係、競争関係、共生関係の四つに分類されている。
 捕食関係というのは、たとえばAとBという二種類の生物がいたとする。「AはBを殺し、消費する」といった関係で、これはよくわかる。また、競争関係も互いに阻害する関係であって、これも比較的理解できる。
 しかし、寄生関係と共生関係については定義があいまいであることは、すでに本書の前半を読んで感じられたことと思う。
 寄生関係とは、「AはBを利用し、Bに悪影響を与える」と定義されている。共生関係には二種あって、片利共生は「Aは利益を得るがBには影響なし」、相利共生は「双方が利益を得る」関係と、それぞれ定義されている。
 ところが、僕たちの目には、一見「利益」に見えるものが、実はその生物にとって「不利益」であったり、またその逆だったりすることはよくある。
 僕の専門とする寄生虫だが、名前に「寄生」とあるように、「寄生虫はヒトを利用し、ヒトに悪影響を与える」ものだと長い間信じられてきた。しかし、寄生虫のなかにはヒトにほとんど悪影響を与えずに、花粉症などのアレルギー反応を抑えたり、マラリアで死なないようにしたりして、結構よいことをしているものがいることがわかってきた。
 すなわち、今までいわれてきたように、寄生虫はヒトに害ばかりを与えているわけではなかったのだ。だから寄生虫のうち、いくつかの種類は「共生虫」という名前に変えなくてはならないだろう。



「共生」とは何か

 このように、「共生」という言葉は生物学的にはきわめてあいまいな定義がされてきているが、現在の日本社会をはじめ、世界各国で「共生」という言葉が、ヒトや生物が生存するための重要な「キーワード」になっているようだ。
 共生は英語では「symbiosis(シンバイオシス)」という。「共に(シン)生きる(バイオシス)」という意味だ。つまり、地球上にヒトを含むさまざまな生物が、さまざまな関係をもちながら、互いに絶滅することなく調和を保って共存するということだろう。
 このように「共生」という言葉には、二つの意味合いが含まれていることに気づく。一つは、異種の個体が「一所に棲む」ということ。要するに生物間どうしの接近度、あるいは結びつきの強さに関するもの。
 もう一つは、一方の種の個体の存在が他方の種の個体にとって「利益を及ぼすのか損害を与えているのか」というような、個体間の「質」に関するもの、の二つの意味をもっているように思われる。
 それでは、二種の生物がどれくらい近くに棲んでいて、どのような結びつきがあれば「共生」といえるのだろうか。
 最近、「地球共生系」という言葉がよく使われている。これなど「共生」をとても広い意味で使っている。地球上に棲んでいる生物は、すべて互いに影響し合って生きているので、確かに「共生」しているといえるだろう。
 それから、もっと地域を限定した、たとえば一つの湖とか森とかいうように、一つの生態系として区別できる領域で生物が相互に影響し合って生きている場合も「共生」しているといえる。これを「地域生態系」という。これまでの生態学は、この地域生態系における捕食関係や競争関係について主に研究してきた。
 異種の個体が物理的には離れているが、お互いが他方の役に立っている例でよく使われるのが「掃除共生」だ。
 小魚を食べる魚食魚であるクエの仲間と、沖縄などのサンゴ礁に棲む小魚であるホンソメワケベラという掃除魚との関係が典型的な例だ。掃除魚は、大きな魚の体表や口やえらのなかに付いた寄生虫を食べる。そのかわり、大きな魚は、たとえ掃除魚が口のなかにいてもそれを食べることはしない。掃除魚には安定した食料(寄生虫)と、安全な場所が提供されるのだ。
 このような掃除共生は、水牛などの大型草食哺乳類と、その皮膚の上についている寄生虫を食べる小鳥の間にも成立している。
 さらに、種間が接近すると、異種の個体が体表面で接着している「外部共生」と呼ばれる状態となる。
 よくある例が、ヤドカリとイソギンチャクとの関係だ。この場合、ヤドカリの殻の上にイソギンチャクが物理的にはしっかりと固定しているが、両者の間には接触部を通じての物質的なやりとりがあるわけではない。
 また、永久に個体どうし接着している場合と、時々離れる場合まで、いろいろな段階があるようだ。
 イソギンチャクとクマノミという関係の場合も、この「共生」の部類に入るだろう。イソギンチャクは棘に毒をもっている。そして、魚の体表を覆う粘液を感知して魚を攻撃する。しかし、クマノミにはその粘液がない。だからイソギンチャクは、クマノミにとって絶好の隠れ家となる。
 一方、クマノミはイソギンチャクに共生している褐藻類の光合成を促進したりして、イソギンチャクに役立っているのだ。



ヒトと寄生虫の関係も「共生」

 「共生」のなかに含まれる第二の意味あいは、二種の生物が互いに助け合い、一方の生物の存在が「良い影響」や「利益」をもたらすかどうかであると前に述べた。
 この場合の「利益」とは、生物が自ら大きくなれたり、子孫を多く残したりできるということである。そして、「良い影響」については、大変あいまいな言葉であることを何度も述べてきた。
 両方ともが利益を得る「相利共生」のみが「共生」だという人もいる。一方に利益があって他方に損失がある「寄生関係」や、一方に利益があるが、他方には損でも得でもない「片利共生関係」は「共生」に入れないというのだ。
 しかし、実際の個々の種間関係では、その時の条件によって得になったり、損になったりしている。研究が進んで、思わぬところに「良い影響」が見つかる場合だってあるかもしれない。
 山口大学の藤島政博教授は、ゾウリムシの大核のなかに入り込んでいる、ホロスポラという細菌について研究している。この細菌は、常温では宿主にとって迷惑な存在らしい。しかし、高温や低温では、このホロスポラは宿主を守っているという。すなわち、あまり良くない温度環境の時には、この菌はゾウリムシにとって「得」な存在なのだ。
 「良い」「悪い」は、このように環境の条件などで左右され、確かに流動的だが、二つの生物が相手なしでは生きていけなくなってしまった関係については、絶対的に「良い」影響を及ぼしているといえるだろう。これを「必須共生」という。
 アブラムシの共生細菌は、アブラムシの菌細胞のなかだけでしか生きていけない。一方この共生細菌を抗生物質で除くと、アブラムシは繁殖能力を失うのだ。この場合は、はっきりした「必須共生」ということになる。
 しかし、ヤドカリとイソギンチャクの関係のように、相手がいてもいなくても生きていけるような「共生」もある。このような場合を「任意共生」と呼んでいる。
 このように、「共生」という言葉は、いろいろな人によってさまざまに使われてきた。確かに「共生」とは、二つの生物の単なる「接近度」をいうのか、「損得関係」をいうのか、理論的に「共生」を解析する際には、はっきり区別しなければならない場合が出てくるであろう。
 ここで、僕のいう「共生」の意味をはっきりさせたい。本書を第一章から読まれた読者はもう気づかれたことと思うが、必須か任意かを含めて「共生」という言葉から利益に関する意味あいをすべて除きたい。つまり、「共に棲むこと」の意味で「共生」を用いたいのだ。
 ヒトと寄生虫や細菌、ウイルスとの「共生」は、それらの微生物がヒトに「利益」を与えているのか、「害」を与えているのか、実は不明な点が多い。確かに、ヒトに「有害」であることが絶対的である微生物もあることはある。しかし、研究が進めばその点もゆらいでくるのだ。また、ヒトの棲む環境条件によって、共生体が宿主にとって「良い」場合も「悪くなる」場合もある。
 広節裂頭条虫というサナダムシは、アメリカや日本などの飽食の国では、肥満を防ぐという意味で良い「共生体」となるが、インドネシアなど発展途上国では、ヒトに栄養失調をまねく「寄生体」となるといったぐあいだ。
 しかし、先の僕の定義によれば、「ヒトとその体内に棲む寄生虫との関係は「共生」である」ということになる。
 したがって、双方に利益のある種どうしの関係について特に強調するには、僕は「共生」という言葉を使わない。「相利関係」という言葉を使いたいのである。



寄生体による病害性の変化

 僕たちは、病原体が有害なものと決めつけてはいないだろうか。病原体は僕たちにとって安全な「敵」であり、必ず闘わなければならない相手と決めつけてはいないだろうか。
 病原体側からすれば、宿主に大きな打撃を与えるような生き方を望んでいるわけではない。病原体とすれば、自らの子孫をなるべく増やすような方法を考えているのだ。できれば自分が感染した宿主は全く元気で、病原体はそのなかでひそかに繁殖できれば一番よい。
 しかし、宿主もそんなことをそう簡単には許さないであろう。
 したがって、ほとんどの病原体は、ほどほどに宿主をいじめながら繁殖し、宿主が生きているうちに新たな感染の機会を、なるべく増加させようと考えているようだ。
 病原体が宿主の体内で繁殖するためには、宿主からより多くの栄養分を搾取する必要がある。しかし、栄養分を奪いすぎると宿主がだめになる。病原体は、次の宿主に感染する機会を失うことになるからだ。だから病原体は、宿主を「生かさぬよう殺さぬよう」にしているのだ。
 しかし、その程度は病原体によってまちまちだ。最も強い病原性を発揮する病原体の場合は、宿主を死に追いやるが、その場合であっても、感染直後に宿主を危篤状態に陥れるものではない。はじめはゆっくり増殖して、宿主に特にひどい害を与えない時期がある。これを潜伏期という。
 それから次第に宿主に病害性を発現するようになるが、もし宿主が弱って死期が近づいたりすると、病原体は急に活発となって宿主体内で増殖し、ほかの宿主に感染する態勢をつくってから宿主を死なすのだ。
 一方、宿主に全く病害性を及ぼさない病原体もある。宿主と完全に「共生」している病原体だ。しかし、このような病原体も宿主が弱ってくると、病害性を発揮する場合がある。これを「日和見感染」という。別のいい方をすれば、「平素は無害の病原体による感染」といえるであろう。
 宿主の免疫能が低下すると、病原体と宿主との間の「共生」が崩れるのだ。共生が崩れた時に日和見感染ははじまるというわけだ。
 たとえば、AIDSウイルスに感染した宿主は、自分の免疫力を低下させる。そうすると、通常は無害な、ニューモシスチス・カリニといった病原体が肺で増殖をはじめる。そして、最後には肺炎を起こして宿主を死に追いやるのだ。


 藤田紘一郎「共生の意味論」講談社ブルーバックス より




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