いの町波川玄蕃菩提寺・本願寺と墓

波川玄蕃清宗の墓の入り口にあった丸い石の墓(同じ物が才谷の別所屋敷にあった)
波川玄蕃と直接関わりないかも・・時代も違うかも・・・

波川玄蕃の菩提寺 本願寺(昔は住職の住む寺だったと思うが、檀家の関係で、伊野街中の寺へ移る)

土佐物語 江戸時代宝永5年(1708)土佐の吉田孝世によって書かれた軍記物語。
軍記も物語は歴史的事実と共にフィクションを含んでいる。歴史をもとにした文学作品です。(「土佐物語」岩原信守 校注 著10000円明石書店による)

土佐物語 巻第11 (13)波川合戦の事
(略)腹掻ききって失せにけり。天正8年(1580年)5月28日波川一族絶え果てぬ。 千味は幼ければ母抱いて成山へ落ち行きけるが、幾程なく早世す。
母は尼になり慶寿養甫と号し、元親より百石の知行を与え置かれり。玄蕃が遺骨をば波川地下人共阿州より迎え取りて、本願寺の山に葬り印をたて、月をば替えて毎年7月28日に玄蕃施餓鬼とて、郷民共手向けをなして祭る事今に絶えずと聞こえし。(略)

元親記 著者 高島孫右衛門正重 長宗我部氏の滅亡後、1602年無役衆として山内氏に召し出され、60石を拝領。かって長宗我部氏の栄光の時代に、元親近くに仕えていた者が、今は山内氏のもとで俸禄をはんでいるという暗い影を背負いながら30年間を生きてきた高島孫右衛門正重が、元親の33回忌にその栄光の一代記をしるして元親の影前に捧げたのがこの元親記である。
(高知大学 岡林清水氏による)

元親記  
 当国波川謀反の事 この波川には幡多山路の城を預け置かれしが、不届きの子細ありて、召し上げられ、又波川へ帰住す。
その不足にて、謀反を存じ立つるか、方々廻文を廻らすといえども、同心致す者これなしといへり。大津の城にお入り候ふ一条殿、連判にお入り候ふ由までなり。とかくこの仕合わせなれば、謀反も整はず露見せしむ。
波川首を剃り、高野へ入り候ふとて阿州海部まで越ししを、親泰へ言い越され、海部にて腹を切らするなり。
波川兄弟3人、次男次郎兵衛、三男五郎太夫事は元親馬廻りにありし故、身上赦免と有る処、とかく一類の者相果たさるべく候ふ条、唯一所に罷り成るべしと申し請けて、鎌田の城へ取り籠もる。
波川嫡子弥次郎、その外家来のものども一所に籠もり居り候ひつるが、天正8年5月中旬に押し寄せ、残らず果たされしなり。 


波川げんば頭蘇我清宗のお墓の入り口

戦国の秘録
著者 岡田明治 平成21年現在は、既に故人となられているらしい。街中のクリーニング店
昭和49年7月30日発行 吾川郡伊野町3630
発行社  仁淀新報社

以下「戦国の秘録」からのメモ
波川葛木城祉
天正3年の末に始めた四国征討は、4か年を過ぎようとする天正7年の暮れになって、休止状態になって、約3年続いた。
天正10年6月織田信長が京都本能時で明智光秀殺されると、同年10月に第2次四国征討を開始。
波川げんばの頭蘇我清宗の謀反事件
波川氏の先祖は鎌倉時代の初期に幕府の任命でこの地方を支配。
長宗我部元親の妹を妻にし、波川地方に名将の伝説を残した清宗一族が、長宗我部元親の四国征伐の途中謀反の汚名の元に滅亡したのはなぜか?
四国討伐戦が困難になり非常に大事な時期に、準同族の義兄弟を死に追いやった原因の不届きな子細とは?(元親記)
真実を探るには、元親の四国征討戦を阻み、休戦状態を続けた実状を解明することで、「当国波川謀反の事」の中の「ふとどき子細」や、謀反事件に関係したと言われて破滅させられた一条内政や紀親安と、謀反事件との結びつきも、自然に明らかになるであろう。
家の子郎党の小者達には、無益の死を諭して逃げることを進めている。この時お家の一大事と集まった家臣や領民の数は257名もいたと伝えている。380余年貧しさに耐えた家風に育つ主従の結びつきが、最後の場所に現われたのであって、若とのやじろうから去ることを命じられても、誰ひとり動かなかった。3000あまりの大軍にむかって、午前から午後にまたがる死闘をくりかえし、全員討ち死にの悲運。
29ページ
当時、戦国時代といっても理由なき戦いは避けたようである。長宗我部氏も本山氏安芸氏の攻略には、それぞれ口実をつくっている。一条氏との戦いは前期の理由で口実を作れる状態ではなかった。
2年間元親は弁解しつつ、高岡郡の一条氏の支配地を徐々に侵食した。これは口実無き戦いであった。一条家老臣間 の撹乱を策した。

波川玄蕃のお墓(お堂) 歴史家とかお寺の住職(昔は住んでいた)に案内してもらっていないので何とも・・・・・今は住んでいない。

五輪塔は鎌倉時代と似ている

一族郎党のお墓では

杉の木は生長が早いが、樹齢は古そうでした。