日本民藝館をたずねて


目黒区駒場4−3−33

大谷石で出来た門柱
民藝館門前


民藝館内
柳宗悦 Muneyoshi Yanagi
1889年03月21日〜1961年05月03日

濱田庄司、柳宗悦、河井寛次郎

日本の思想家で、民芸運動の提唱者。
1889年東京に生まれる。
父柳楢悦は海軍少将で、母勝子は講道館柔道創始者の嘉納治五郎の姉。
柳宗悦は工業デザイナー柳宗理(3代館長)の父としても知られる。

学習院高等科在学中に志賀直哉、武者小路実篤らと雑誌「白樺」の創刊に参加し、
宗教と美術を担当した。
また、陶芸家バーナード・リーチとの出会いからウィリアム・ブレイクに傾倒した。
1913年東京帝国大学哲学科を卒業。

その後、朝鮮白磁との出会いから、民衆の日常品に「用の美」を見出し、
浜田庄司(2代館長)、富本憲吉、河井寛次郎らと「民芸運動」を展開する。
1924年ソウルに朝鮮民族美術館を設立。
1931年に雑誌「工藝」を創刊。
1936年東京に日本民藝館を設立、初代館長となった。

柳宗悦の提唱した民芸運動は、従来にない美意識を提示し、
多くの賛同者を得て日本の近代工芸に大きな影響を与えた。
質素で品のある展示

 気になっていたことが今日やっと解決した。
10年近くたつであろうか、
岡山の大原美術館を訪ねたときに知った柳宗悦氏の業績をこの目で確めたかったことである。
冬ばれの中、民藝館を訪れた。
落ち着いた品のある建物、更に、館内に入って驚きとときめきを感じた。
『陳列はそれ自身一つの技藝であり創作であって、出来うるなら民藝館全体が一つの作物となるように育てたい・・・』と言われた初代館長の言葉通りであったからだ。
ただただ、感激であった。

柳宗悦と日本民藝館

日本民藝館の創設者である柳宗悦は、日本各地の焼き物染織漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な骨董品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努め、「民芸運動」を創始したことでも知られている。(柳が収集活動を行っていた時代の日本では「李朝」という用語が一般的で、柳自身ももっぱら「李朝」を用いているが、本項では「朝鮮王朝時代」の表記を用いる)

柳は1889年(明治22年)、東京に生まれた。青年期には武者小路実篤志賀直哉らとともに雑誌『白樺』の同人となり、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することに尽力した。また、イギリスの詩人で画家でもあるウィリアム・ブレークに傾倒し、ブレークに関するいくつかの著作もある。

柳は、1914年(大正3年)、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教(あさかわのりたか)との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになる。浅川は当時柳が所有していたロダンの彫刻を見せてもらうため、それまで面識のなかった柳を千葉県我孫子の自宅に訪問した。その際、浅川が土産に持参した朝鮮の白磁に魅せられた柳は、以後朝鮮半島、特に朝鮮王朝時代の美術に傾倒し、1916年(大正5年)以降、たびたび訪朝するようになる。朝鮮半島は1910年(明治43年)以来日本の支配下にあったが、柳は朝鮮独自の文化を無視しようとする日本政府の政策に反発し、当時の美術史家や収集家がほとんどかえりみなかった朝鮮王朝時代の白磁、民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努めた。1921年(大正10年)には東京・神田にて日本初の朝鮮美術展を開催、1924年(大正13年)には、浅川伯教と弟の浅川巧の援助を得て、ソウル景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開設するに至った。

柳は日本各地に個性的な仏像を残した江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年(大正12年)以来、木喰の事績を求めて佐渡をはじめ日本各地に調査旅行をしている。同じ1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、実作者である濱田庄司河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる「民芸運動」を展開した。「民芸品売り場」「民芸調の家具」など、現代日本語の表現として定着している「民芸」という言葉自体が、この時期柳らによって使い始められた造語である。柳、濱田、河井らは、当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した。運動の中心であった柳は、当時ほとんど研究が進んでおらず、美術品としての評価も定まっていなかった日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。柳は、こうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ大原美術館大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきた


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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