もっと〜PROFILE〜詳しく!


このPageは私のかすかな記憶をもとに、
でき得る限り事実に基づいて記載したつもりです。
が、所によっては名称、前後関係など、誤りが有るかもしれません、ご勘弁を。
尚、万が一にもそのような誤りを発見されたお方は、お手数ですがご連絡下さいませ。
すみやかに訂正致したく、思っております。
あしからず。    



〜生まれた頃は〜

1960年 11月23日 東京で生まれました。もちろん明け方だったので、迷わず、思わず?躊躇わず??「暁」と命名されました。暫くは本人ですら自分が何人なのか、はたまた犬なのか?っと疑心案儀な日々を送っていたわけですが(当然初めは目が見えませんので)そのうち、なるほど!日本男児で犬ではなし、然も呼びやすいし覚えやすい。なかなかヤルじゃん、親父!なんてことを思ったりして、わりと呑気に、過しておりました。


〜初めての、ちっちゃい舞台デビュー〜

さて、めでたく幼稚園に通うことになるわけですが、二つ目の幼稚園でのはなし。転校いや転園して間もなくの頃、学芸会がありました。(当時は隣の小学校と一緒にやってたんで学芸会といってたのか、いつかはその隣の渋谷公会堂で演ったこともあったような)。さくら組(だったっけか)の演し物は『こぶとり爺さん』。だれがどうやって決めようとしていたのかは謎なんですが、爺さん役を。恐らく当時も寡黙で、どちらかというと引っ込み思案な子供だったはずなのに、何故なんでしょう、ここも未だに謎なんですが。とにかく、どうしても、なんとしても「こぶとり爺さん」になりたかったらしく、おおかた決まりかけていた主役の座を(この辺はちょいと想像できちゃうんですが、辛抱強く駄々をコネて皆が諦めるまで粘ったんでしょう)奪ってしまったのでした。もちろん私の記憶に残っているシーンはというと、本番で、コブをとられる筈の時にはすでにコブがとれちゃってて、あたふた、オロオロ!ただそれだけなんですが。


〜渋谷区立大向小学校〜

今はたしか神南小学校ということになったようで、ちと寂しい感じですが、、、
そう、この頃からいろいろなことが始まりました。まずは、『サッカー』。当時はもちろん J リーグのようなプロサッカーは存在せず、しかも「巨人、大鵬、卵焼き」?? いやいや、それは行き過ぎ。とにかく、どんな子供もまずバットとグローブを親にねだり、調子に乗ってユニホームやヘルメットまでも。この私も例に違わず、逆らわず、近所の空き地で日が暮れるまで、野球少年やってました。ところが4年生になる頃、渋谷区スポーツ少年団なるものができたのか、すでにあったのか、『野球』『サッカー』たしか『剣道』っといった種目があり、当然の如く、仲良し野球仲間たちはすんなり野球部に入るであろう、というのがおおかたの予想でありました。ところがどっこいすっとこどっこい、巷の少年草野球で大活躍していた、いわゆる運動神経(最近では身体能力なんていってる)のバツグンな、やんちゃな、奴ら、はほとんど(ちょっと言い過ぎ、野球部の方すいません)サッカー部へ。もちろん私も例に違わず、逆らわず。まあおそらく、奴らのひとりの「兄ちゃん」が当時では極小数派のサッカー好きであったことが大いに影響したのでしょう。ここから私のサッカー人生が「三菱ダイヤモンドサッカー」とともに、始まったのです。、、、余談ですが、この時点で「野球」を選択した子供たちはその後も比較的順調に、「サッカー」を選んだ奴らは、いろんな意味でスリリングなその後、だったのが多いんじゃあないかなあ。なんて!
さて、次に始まったのは、そう『トランペット』です。遡れば、姉の影響というかついでにというか、幼稚園の頃からピアノのお稽古に通ってました。とはいうものの、とにかく嫌で嫌で、もちろん譜面は読めないし、練習なんかする暇ないし、でも唯一聴いて覚えるのは得意だったらしく、レッスンの最後に先生がお手本で弾いてくれるのを覚えておいて、次の時に、ただただ「勘」だけを頼りに弾くわけです。もうバクチみたいなもんで、但、その賭けも最初の音が何処だかわかんないともうお手上げです。黙って、じっと、怒られるのを待つのみ。そんな訳で、長続きもせず、諦めてもらいました。暫くして、ちょうどサッカーに出会ったのとほぼ同時期に、これまた渋谷区管楽器教室なるものができて、これまた例に違わず、逆らわず、の精神です。「フルート」「トランペット」「クラリネット」さて、どれがいいかって云われれば、もちろん迷わず、躊躇わず、「トランペット」!! それからは云うまでもなく?学校の吹奏楽部、鼓笛隊と大活躍。なんですが、何故か私の恩師である松崎フミ子先生(後に渋谷区立青少年吹奏楽団を創立された方で、当時、音楽の授業で生徒全員にトランペットを体験させると云うとても熱心で、活動的な先生でした)は、吹奏楽部ではユーホニューム、鼓笛隊ではどういうわけか一番チビな私が大太鼓に半ば強制抜擢されました。学校がNHKに近いということもあってか、リコーダーで教育テレビに出させてもらったり( TV デビュー)、そうです、映画デビューもこの頃です。確か学研の教材としての映画だったかと思います。その名も「トランペットの仲間たち」?何故か代々木公園で夕日に向かって走っちゃうシーンなんかもありました。その頃憧れだった上野の文化会館のステージで演奏したり、マーチングバンドみたいなのにも挑戦しました。今思えば、この時期にいろいろなことを経験させてもらてたんですねえ。そう、これは中学生になってからだったかとは思うんですが、「トランペットの仲間たち」の内のワンパク3人トリオで、ヤマハの才能にあふれた、少女エレクトーン奏者が作曲したトランペットのための曲を演奏するという機会(おそらくコンテストのようなもので、入賞は果たせなかったようでした)があり、どういう経緯か、お昼のワイドショーのような番組で演奏したこともありました。
そういえば、小学校の謝恩会、それぞれ将来の夢を披露するといったコーナーがあったんです。勿論、いやこの時はとびきり、例に違わず、逆らわず、ろくに考えず、まるで、あたかもトランッペト吹きになりたいような、そんなパフォーマンスをしていたそうです。但し、この時はなぜかクラシックの、でした。


〜 つづく 〜



〜渋谷区立外苑中学校〜

そうでした。たしか小学4年生の頃、同じ区内でしたが引っ越しをしました。学校まで徒歩4分のところから、なんどバスで20分。つまり小学校の後半は、そうバス通学だったんだ!ということは?そう、中学校へ入学、もち!例に違わず躊躇わず、近所の学校へ。するとどうしたことか、友達がいない、ひとりも。周りのみんなはなんとなくグループができてて、ひとりぼっち。きっと転校生ってこんな感じかな、いやいや、転校生だったら先生が「どこどこから来たなになに君です。」っとか一応紹介なんかしてくれるけど、そんなのないし。ましてや小学校では毎年学級委員だったし、運動会ではリレーの選手、おまけにラッパなんか吹けちゃったり、かなりの人気者、優等生で、モテモテだった、、(子供の頃の自慢話ほど切ないもんはありませんよね)この俺様のことをだれも、ちっとも知りゃしない。極めつけは、入学式の時。「新入生代表、多田〜君」とか言われて、なんか読んでる奴が!...眼鏡をかけた見るからに頭の良さそうな『もう一人の多田君』がいたんです。いやいやマイッタ。(今思えばどってことないんだけど)みんなが認める秀才『頭の良い多田君』がいて、さて『そうでない方の多田君』の中学生活がスタート、したんです。 もちろん、例によって、迷わず、ためらわず、いつのまにかサッカー部と吹奏楽部に入ってました。決して強いとはいえないサッカー部、しかも当時といえば今では想像もできないくらいマイナーなスポーツで、まあここでも例に違わず学校的には厄介な存在で、よくバレーボールを蹴って怒られてました。おそらくこの頃から次第にサッカーへの思いが強く心を支配しはじめ、徐々にブラバンをさぼってサッカーに明け暮れるしまつ、遂にはなぜかそれがバレて音楽の先生と仲のいい歴史の先生に殴られて。そもそも二足のワラジとか二股とか、浮気とか? 性に合わん、やめてやる!っというわけで、その頃にトランペットとはお別れ。その後4年余りは、トランペットの「ぺ」の字も出てきませんでした。もちろん「ラ」の字も。 苦い経験も一つ。何故なんでしょう、仲良くなった友達の口車に乗って無謀にも生徒会の、なんだろう、書記かなんかに立候補。もちろん最初の頃で知名度もあまりなく、しかも『そうでない方の多田君』だし、今思うとゾッとしちゃう、謎な出来事です。さすがにそのときばかりは思いました。たまには迷って、逆らわないとッてね。他にもいっぱいあったはずなんですが、近々同窓会もあるのでいろいろ確認などしたりして(なにせ二十数年前のことですから)面白いエピソードがあったら追加します。 まあ、はっきり憶えているのは、卒業する時に下級生の女子たちに泣かれちゃったこと、かな。


〜 もちろんつづく 〜



〜国学院久我山高校〜

高校受験という初めての試練?にみごとに失敗、本当だったら仲の良い友人らと近所の都立高校へ行くはずだったのに、何故かひとり不合格!かなりショックだったはずなんですが、あんまり憶えていません、当時のこと。っといいますか、過去のことはアッという間に忘れられる(たまにとんでもない大事なことも、、、)そんな特技の持ち主で、良いのか悪いのか?とにかく、さしたるビジョンもなく、例によって迷わず躊躇わず(でた!)高校にいかなければ!みたいな。当時はいわゆる『偏差値』っという奴が幅を利かせていた時代で、何故かそいつが高校を選ぶ基準の中心的な存在となり、まんまと、よく知りもしない、しかもよりによって男子校!(現在は共学のようですが)。その後、我が人生における『七不思議』のひとつとして数えられた、超不思議! まあ当時の私立校は共学のところが少なかったんでしょうが、それにしてもねえ。少々品の無い表現ですが、後で思うになんか「〜ッもったいないっ!」って感じで。つまりな〜んにも考えていなかったんですね、きっと。 さて、そんな純粋無垢?無知?な少年は、考えました。いやいや考えるより先に、当然のようにサッカー部に入りました。何故ってサッカーが好きだったんで。ところがどっこい、おや?あれ??なんか様子が変??? 何がって、その、とにかくスゴイ!っつうかコワイ! ヤッベ〜ッ!って感じ。これじゃあなにがなんだかさっぱりわかんないッ? 『説明しよう!』 知らなかったんです、全然。ここのサッカー部は東京都の中では常にベスト4くらいの、強〜いとこだったんです。(ラグビー部は日本一だったり)そんな高校だったんです。当然一年生部員は最初は70人くらいいて、しかもその大半は東京周辺(主に多摩地区)の上手い奴らがこぞって集まって来ていて、とてもじゃないけど弱小中学の名も無いオレなんか、出る幕なし!おまけに頭は坊主で、しかも毎日先輩の「説教」は聞かなきゃなんないし。とにかく朝学校に向かう電車の中から、先輩がいたらデッカイ声であいさつしなきゃあいけないし、しないと後で説教だし、昼休みはグランド整備、練習といっても、ひたすら走ってるか球拾い。たっま〜にボールを蹴らしてくれても、周りはみんな上手い奴ばっかで畏縮しちゃうし。踏んだり蹴ったりって、いやいや蹴れないの! さすがのクラゲばりのこのオレも、考えちゃった。でもね、やっぱりあんまり上手くないけどガンバッテる友達とかいたり、意地みたいなのもあったし、とにかくサッカーが好きだし、絶対レギュラーになって、全国大会にでるんだッ! なんてね。いや〜、今思うと『青春?』照れくさいんですがねえ。まあ、女っ気のまるでない、ちょっと汗臭〜い『青春』なのがちょと、、、そんなこんなどんな?一年が過ぎ、徐々にサッカーらしきこともたまにできるようになり、その頃になると、サッカーはスッゲエ上手いんだけど『根性』のない?やつはやめちゃったりして、ちょっとだけレギュラーへの道が近づいて、そして(飛びます)ついに天下の三年生となりました。っとはいえ、まあ時代もあったでしょうが、(ゲータレードという飲み物もこの頃登場...)とにかく一番大きかったのは同学年の友達に恵まれていたというか、それまでの意味不明な不条理な下級生への仕打ちもせず、というかそんな暇なく、やっとサッカーができる!打ち込める!なんてね、またまた『青春』ですよ『青春』、それでもまだもちろん15〜6人くらいはいて、しかも上手い下級生もいるし、熾烈なレギュラー争いは続いてますが。大袈裟なことをさらに強引に言うなら、今までの人生の中で、一番『努力』ッつうやつをした時期だったかも(いやいやこれからもっとしなきゃあダメダメッ!はい!わかってます。)おっといけねえ。え〜とっ、そうそう、『説明しよう!』当時、サッカーのフォーメーションで左ウィングというポジションがあり、大概の場合、左利きの選手がやるんですが、(最近で言うと攻めるだけで良いときの三都主みたいな)まわりに左利きのやつがいませんでした。よし!選択の余地はありません。誰よりも左足が上手く使えれば、試合にでれるかも!とにかくやりましたよ、ひたすら左足を。黙々とひとりぼっちの猛特訓。まるで巨人の星の飛雄馬のように!ッケ〜『青春』だっ! その甲斐あってかなくってか、ついにギリギリ11番目の選手として、なんとか試合に出れるようになって、(ここからはちょっと自慢)関東大会やインターハイとかに東京代表として出場!そして遂に正月のいわゆる『高校サッカー』っていわれている大会の東京都の決勝! なんとテレビで生中継 ときたもんだ。燃えないはずがありません。しかし、勝負は勝負。90分と延長戦で勝負はつかず、ついにPK戦。サッカーにおいてPKというのはキッカーにとってはあまりに過酷な瞬間です。この瞬間はテクニック云々という次元とはまったく別の、度胸、精神力、とにかくとてつもないプレッシャーとの戦いなんです。案の定、いつもは絶対外さないような奴が、失敗してしまい、負けました。泣きました。呑みました。吐きました。汗臭い『青春』は終わりました。
まさにサッカー漬けな高校生活、もちろん所謂「体育会系」的なものは今でも好みではありませんが、なによりも、最後まで試合に出れなくても腐らず、いつも一緒に戦っていたチームメートの存在があったことが 誇りであり、感謝、尊敬、とにかく有り難かった、そんなことが実感できた、貴重な体験でした。正直、今でも思い出すと何故だか涙が出てきそうになっちゃうくらい。。。
いや〜〜〜あ!ちょっとっつうか、かなりクサイ文章になってしまいましたが、当時はそんなクッサイ奴だったんでしょう。きっと。 音楽の話しはまったく出てきませんでした。なぜなら、音楽とは無縁だったからでした。


〜 きっと つづく 〜




>profile>>