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小串鉱山の廃墟<20.10.19記/21.7.4追記>

プロローグ
 長野県と群馬県の県境に毛無峠(1,823m)がある。この峠までは上信スカイラインが延びていて、小型自動車であれば快適なドライブが楽しめる。近くには破風岳(はふだけ1,999m)があって、標高の数字から20世紀最後の年として、メモリアル登山で賑わったことがある。かくいう僕たち夫婦もその口で、破風岳に上って長野県乳山牧場の五味池を目指したことがあった。しかし手術後、完全には癒えていない妻が、深い笹道を歩くのは無理とみて引き返したのだった。
 毛無峠は、天候に恵まれさえすれば、眺めのいい峠として人気がある。登山者は勿論だが、アマチュア無線の愛好家が車にアンテナを立てたり、ラジコンマニアが飛行機を飛ばしたりしている。行き止まりの道路であるから喧騒には縁がなく、のんびりと過ごせる別天地である。
 その毛無峠から群馬県側に下ったところに、”小串硫黄鉱山”という廃墟がある。その訪問記をご紹介する。

<廃墟への道>
 毛無峠は、緩やかに丸みを帯びた火山性の裸地で、ガンコウラン・コケモモ・クロマメノキなどが、織りなすように張り付いている。訪れた人は、展望の利く峠に立って、周囲の景色をぐるりと一回り眺めるのが常である。そして、東側の毛無山(1,941m)稜線に、スキーリフトを思わせる構造物を見てびっくりする。長野・群馬両県をまたぐ格好で、何基か連続している。ワイヤーロープはすでになく、構造物も錆びているので、使われなくなってから久しいことがわかる。
 県境尾根は大きな鞍部で、笹におおわれた緑に輝く破風岳は見応えがある。長野県側の下り斜面を見下ろすと、豊かな森林が広がり、遥か西方に北アルプス北部連峰が望める。
 さて南面の群馬県側を見下ろすと、荒れた火山性の山肌に目を奪われる。よく見ると自然地形の山肌ではなく、平坦な段丘になっている。先ほどの構造物は、どうやらそこへ向かっているらしい。一方、毛無峠には車道のゲートが設けられ、転がり落ちるような谷底を覗くと、急斜面につづら折りの車道が見える。どうやらこれも段丘への道らしい。この段丘こそ、硫黄の鉱石を採掘し、それを製煉していた小串硫黄鉱山跡である。スキーリフトを思わせる構造物は、硫黄を長野県側に運搬した索道であった。
 峠の車道入口はゲートによって閉鎖され、立ち入り禁止の札が掛けてある。しかしバイクや人の通行は可能である。現にときどきライダーがゲートをすり抜けて、ダートを下って行く。僕たちは登山姿でその車道を歩いて下った。この日は群馬県側から強風が吹き上がり、長野県側へと駆け下りていた。吹き飛ばされそうな勢いだが、高気圧に覆われているため雲の発生はない。


 県境を越える索道
左側ー長野県・右側ー群馬県


 つづら折りの最初のカーブのところに、国土交通省の小串雨量観測所が設置されている。その直下に鉱山への歩道が導かれている。あたりは火山帯の高山植物が多い。この季節はクロマメノキの紅葉が華やかである。全体的には背の低い笹が礫地を隠している。左手の斜面に、ワイヤーロープが残された索道の鉄柱も見える。

 見通しのよい笹原の緩斜面まで下ると、いつの間にか風が治まっていた。ハイキングとしては誠に気分が良い。目的とする鉱山の製煉工場の段丘が見えてきた。

小串硫黄鉱山
樹林の向こうに製煉台地


 なおも下ると、廃墟の残骸がかしこに認められた。コンクリートの構造物・錆びたアングルや鋼管などが散在する。全体の形をなしていない物が多く、どういう役目のものだったのか想像するのも難しい。さらに下ると建ててから割と新しい小屋が見えた。周囲には記念碑や石仏などが配置されている。それが何なのかは、予習していたのですぐにわかった。

<廃墟の最上部>
 小屋に見えたのは、石造の地蔵尊を安置した二つの御堂であった。一つは創業以来の死者を供養する地蔵堂だ。4kmほど下の斎場に安置されていた地蔵尊で、鉱山が閉鎖された後ここに移設したとある。もう一つは、昭和12年(1937)の地すべりによって殉難した、245名の霊を供養する地蔵堂である。


地蔵堂

 
 地蔵堂の前には、いくつかの石碑が配されている。そのうちの一つに、小串硫黄鉱山跡の概略図を刻んだ碑があり、地すべりが発生した地点は、地蔵堂の後方だと分かる。
 緩やかな歩道を登ると、小さな鐘と鎚がぶら下がっていた。その近くには、地中から導水パイプが覗いていて、清水が流れ出ている。飲めそうな気もしたが、何の説明板もないので用心して飲まなかった。ここが地すべり発生源の山を見上げる場所らしい。上方を見上げると、それらしい崩壊の山肌が見える。今は穏やかな草原になっているこの丘からは、当時の地獄絵は想像もできない。


後方の斜面が崩壊



 慰霊の鐘


地すべり隆起の丘


 地蔵堂の近くにコンクリート造りの変電所がある。側壁の配電線引出し口に、碍子が残っているので、それと分かる。ディーゼル発電機と、トランスが設置されていたと思われる。


変電所

<坑道>
 坑道は地中のことゆえ、今はそれを見学することは不可能である。閉山時に安全措置として坑口を塞いだのである。僅かに残された坑口から、内部の様子を想像するしかない。

小串硫黄鉱山
坑口の一つ


鉱車軌道の残骸

<選鉱所>
 採掘された鉱石は、鉱車によって運ばれ、選鉱所の上から落とされる。クラッシャーによって砕かれて、粉・粒・塊の3種類に分けて貯えられる。工程の合理性を考えると、山の斜面に造るのが道理であろう。


選鉱所


<製煉所>
 地上で見ることの出来る工程は製煉所の筈だが、残念ながら解体されていて面影を推し量ることは困難である。工場跡地は上下二段の段丘になっている。地蔵堂に近い段丘に、植生試験地があって、なるほど育っているが、酸性土壌を改良してのことであろうから、全ての荒地を再生することは難しいと思われる。


上段の植生試験地


 段丘は年数を重ねるごとに、鉱滓(sulag)を敷き詰めて拡張していったものであろう。木造建屋の中に、耐火レンガで造築した平型製煉窯が目に浮かぶ。
 製煉とは、鉱石中に含まれる硫黄分を抽出する工程をいう。簡単にいえば、鉱石に熱を加え、硫黄分を蒸留気化させる。それを配管で誘導し、冷却液化させ、型缶に汲み取って自然冷却させれば凝結して精製硫黄となる。熱源は重油で、煙突から黒煙を発し、漏洩した硫黄ガスとともに大気を汚染する。


下段の製煉所  

小串硫黄鉱山
上段製煉所


 段丘の法面には降雨時の流水溝が幾筋もあるが、そうかといってザラザラと崩れることはない。鉱滓の粒には粘着性があって、法面を上り下りできる。荒涼とした風景は、酸性度が強くて草木が生えないからであろう。


下段の製錬所に残された⇒

小串鉱業所
配電盤

 残された配電盤もすっかり錆びている。ハンドルを上に回して遮断機を投入する形式が、時代を想わせる。


美濃窯業(株)の耐火レンガ


製煉所の鉱滓

 製煉所の下方斜面に見える円形のコンクリート製構造物は、廃水処理のシックナーと思われる。


シックナー

<居住区-鉱山街>
 開山当初、生活区域は最上部の地蔵堂東側にあったらしい。地蔵堂の東側あたりである。地すべり後の復旧工事によって、製煉段丘の西側に移された。不動沢川の上流域で、”小串沢”と名付けている低地である。下段製煉台地から真下にその面影が窺える。
 平坦地の向うに、画面を水平に横切るように見える辺りに鉱山街があった。現在はダケカンバなどが植生回復しているようだ。


右上に鉱山街が展開


植生回復した鉱山街

 学校敷地跡にはコンクリートや木材などの廃材が散乱している。そうかと思うとノボリフジや、除虫菊などが清らかに咲いており、回旋塔などとともに、何となく生活臭の名残が感じられる。


学校敷地跡に⇒


回旋塔がある

 鉱山街の道路と小串沢が交差している西側斜面に、山神社がある筈だが、深い笹に遮られて探すのは困難である。たまたま出合ったカモシカに導かれるように、後をつけて籔を漕いで行った先に鳥居があった。そして一対の灯篭の正面奥に祠があった。灯篭の一基は雪のためであろうか倒壊していた。


カモシカの出迎え


山神社の鳥居



石灯篭


山神社の祠


<三井物産の戦略>
 昭和時代の中ごろまで、燃料に薪を使う家庭では、硫黄は必需品だった。囲炉裏などに残った熾(おき)から再び薪を燃やすのに、火付け役として硫黄を木っ端(こっぱ)に溶着させた”付け木”を常備していた。
 さて、小串鉱山に関係する三井物産(株)であるが、明治初期から硫黄鉱業に熱心で、北海道でいくつかの鉱山開発を手掛けていた。大正3年に第一次世界大戦が勃発し、世界的に硫黄の需要が増すと、三井物産は国内の硫黄業者から集荷し、海外輸出に専念した。
 大正7年に世界大戦が終結し、硫黄の需要と価格が暴落した。硫黄の価格は戦争に左右されやすかったのである。そこで三井物産は、市況の不安定な鉱業部門を切り離し、販売部門だけを受け持つことで、社業本体の安全を保つことにした。切り離した部門は、大正9年に”北海道硫黄株式会社”として独立させ、北海道での操業を継続した。
 その後、大正12年の関東大震災や、浜口内閣時代の経済大恐慌などを乗り越え、時代は昭和へと移行する。
 三井物産は貿易商社として常に世界情勢を分析し、将来展望に基づいた事業展開を模索していた。これからの産業の主流は、化学繊維や製紙などの化学工業であろうと分析した。その一つとして、東洋レーヨンの設立を企画した。初期の製品はスフ(staple fiber)である。製造過程でアルカリと硫酸を使うが、その硫酸は硫黄が原料である。当時、硫黄のほとんどは北海道の幌別が生産地であった。増産体制が必然の成り行きで、目をつけたのが上信国境の火山帯である。鉱物資源が豊富に眠る未開発地として有望視された。そのころ長野県側で、硫黄の採掘をすでに先行している会社があった。三井物産はその会社を買収する戦略を立てたのである。

<小串鉱山の沿革>
 長野県と群馬県とが接する県境の北部には、上信の火山帯が横たわっている。山麓には湯量豊富な温泉が数多く、2,000m級の山々が火山性の山岳美を競って、観光資源にもなっている。この火山帯で、1970年代の初頭まで、硫黄・ろう石・褐鉄鉱・ダイアスポーア等の鉱石資源を採掘あるいは製煉してきた。
 小串鉱山の前身は、大正5年(1916)長野県上高井郡高井村に始まる。同村大字牧湯沢滝沢地籍に硫黄の露頭が発見された。大日本硫黄(株)が設立され”高井鉱山”として事業が開始されたが、翌年に”東洋硫黄(株)”に経営移譲された。大正9年(1920)には、高井鉱山から、高山村の樋沢集落まで索道を架設している。しかし大正10年には硫黄資源が減ってきた。
大正12年(1923)東洋硫黄(株)は、県境を越えた群馬県側に硫黄鉱床を発見し、そこに鉱区を移した。採鉱地は、「群馬県吾妻郡嬬恋村大字干俣字熊四郎山2401番地」、標高1,650mの位置、これが”小串鉱山”の始まりである。
大正14年(1925)高井鉱山から小串鉱山まで索道を延長し、硫黄の採掘を本格化する。鉱山が群馬県にありながら、硫黄製品の運搬は長野県という事業形態は、このときに出来あがった。前身の会社が、長野電鉄の須坂駅を市場への出荷駅としてインフラ整備されていたからである。このことには重大な意味があり、鉱山に人が住むようになると、生活の利便は須坂市に求め、学校等の行政については、長野県という変則が生ずる。例えば郵便物が群馬県と長野県を行ったり来たり、笑い話では済まされないことがあったという。
昭和4年(1929)7月三井物産(株)が、東洋硫黄(株)から小串鉱山を買収。事業は北海道硫黄(株)に移譲され、”小串鉱業所”として操業を受け継いだ。三井物産は勢いを得て、昭和7年、群馬県嬬恋村の”石津鉱山”をも買収している。
 この年、鉱業所に私塾を設け、社員が教師となって子供達の授業を開始した。このことは何を意味するかというと、この地に家族が住み付いたことにほかならない。生活圏は長野県、行政は群馬県、しかも1,650mの高地に、小串鉱山街が誕生したのである。
昭和5年(1930)石油発電機が設置され、電灯が灯った。6月、校舎16坪を新築し、在籍12名の単級編成で教えたが、私塾のままでは卒業証書を与えることができないことから、群馬県に学校の資格申請をした。
昭和 9年(1934)11月、嬬恋村立西尋常高等小学校-小串分教場として認可を得た。
昭和12年(1937)11月11日15:30ごろ、大規模な地すべりが二度にわたって発生した。崩落規模は、幅30m・長さ700m、製煉所・事務所・社宅・学校などが押し流された。建物は土砂に埋まり、あるいは谷へと運ばれ、火薬庫の爆発も起った。死者245名・負傷者32名・埋没35棟・焼失15棟という大惨事であった。
 この夜、嬬恋村では、日中戦争における中国山西省の省都-太原市の陥落を祝賀する提灯行列が行われていた。そこへ突然、地すべりの惨事が報らされたのである。
 翌日から、直ちに救出活動が開始された。先ずは嬬恋村と
高山村から消防団が駆けつけた。13日に報道された新聞の航空写真によって、惨状の激しさを実感したのか、近隣町村の消防団・青年団・炊き出しチームが、大挙救出に向かった。ついで両県から、日赤を主力とした医師・看護婦の医療チームが派遣された。救出は遅々として進まず、瓦礫と化した一帯には、硫黄の青い火が幾晩も燃えつづけた。
 被災直後、「小串鉱山は、もはやこれまで」と、再起不能が伝えられた。しかし三井物産は、幌別・神岡・三池・釜石など系列の鉱業所から復旧班を派遣し、付近の同業各社からも応援を得て、昼夜兼行で施設の復旧作業を開始した。その甲斐あって12月、埋没をまぬがれた社宅を改造し、臨時校舎を整備することができた。犠牲者245名の中には、先生ご夫妻と31名の児童が含まれるが、新たに先生を迎えて、授業が再開された。
 地すべりの原因について、ある専門家は、「製煉の排気ガスによって樹木が枯れ、山地の保水能力が失われたためであろう。」と指摘している。
昭和13年(1938)遺体の発掘は2月まで続けられたが、3月7日に再建された製煉窯から再び黒煙が立ち昇った。このころ北海道硫黄(株)に、重役の古川俊雄がいた。古川が地すべり事故の際、どのような役割を果たしたのか不明であるが、災害復旧と補償に対して、かなり努力したことが窺える。というのは、閉山10年後に発刊された「小串鉱山史」には、鉱山の買収から閉山にいたるまで、一貫して係っていることが記されているからである。たぶん操業再開後に社長になったものと思われる。いずれにしても、殉難者を供養するため地蔵尊を建立し、関係者一同とともに犠牲者の冥福を祈っている。分教場も別の場所に新築移転した。
昭和15年(1940)アメリカとの戦争の気運が高まり、硫黄が統制品となり生産が制限されて25年まで続いた。
昭和16年(1941)太平洋戦争勃発。
昭和18年(1943)軍需産業が活況を呈する一方、化学工業は未成熟時代にあり、硫黄の消費は低下し、燃料の石炭と人手も大幅に減らされた。戦地に赴く従業員もいて、これを補うために朝鮮人46名を入所させた。燃料が不足したので、かねて特許を取っていた”北硫式自然炉”に切り換えて急場を凌いだ。この炉は石炭を使わずに、鉱石自体を焼いて、その熱で製煉する技術である。
昭和19年(1944)戦況は激しくなり、「鉱山整備令」が布かれ、規模の縮小あるいは鉱山数を減らされた。加えて、戦争資材の補強のため、鉱山施設の鉄類を供出させられた。
昭和20年(1945)8月15日終戦。戦後の民主化に伴い、全国的に労働組合が結成されて赤旗を掲げ、労使紛争が行われるようになった。
昭和21年(1946)小串鉱業所労働組合設立、会社側へは労働条件の改善を、行政に対しては嬬恋村議会へ村会議員を送り出し、小串住民としての生活環境の改善を要求した。
昭和25年(1950)硫黄の用途が、パルプ・化学繊維などの分野に広がり、しかも朝鮮動乱の勃発による特需景気が幸いして硫黄ブームに湧いた。昭和15年(1940)から続いていた、硫黄の価格統制が撤廃された。
昭和27年(1952)須坂―万座線が開通し、バスが運行開始された。23年頃から進めていた鉱業所の増設や機械化が進み、増産体制に入った。
昭和28年(1953)昭和26年から手がけていた、”毛無隧道”が完成した。毛無峠の地下300mの深さに、長さ1,332mの規模である。そもそも毛無峠は、鍋底形の大きな鞍部であるがゆえに、冬期は日本海からの烈風の通り道であり、厳寒期の作業は過酷を極めていた。隧道の開削は、長年の悲願であった。隧道掘削の初期段階で、思わぬ幸運を得たのは、毛無峠の長野県側に予想を超える大鉱床を掘り当てたことである。この鉱床を”根石沢鉱床”と名付けて、採掘することにした。このとき問題視されたのは、根石沢鉱床の坑内水によって、樋沢川が鉱毒汚染されることであった。
 ここで信州人の賢さが発揮された。隧道を通して坑内水を群馬県側に流そうというのである。そのため隧道を群馬県側に下り勾配とした。隧道内にはレールが敷かれ、鉱車が通り、その脇を人が通行した。
 坑内水を群馬県に流す行為を不正とみるかどうかであるが、当時は水質汚濁に関する法律は未整備だった。昭和34年(1959)に漸く「工場排水規制法」が施行され、その後、昭和46年(1971)に「水質汚濁防止法」の施行へと発展した。設置年度は不明であるが、工場廃水を処理するために、「スライム沈殿池」を製煉所の下部に設置している。
 同年、須坂-万座間の定期バスも運行開始。鉱業所においても従業員倶楽部が落成した。これにより、労働環境と福利厚生施設が飛躍的に整備された。
 ところが皮肉なことに、全国的に機械化が進み、生産過剰になったせいか、硫黄価格はじり安になってきた。そこへ持ってきて、追い討ちとなったのは、朝鮮停戦協定が成立し、特需景気の恩恵がなくなったことである。
昭和29年(1954)硫黄の需要が減少し、在庫も増えて価格は26年に比べて30%を割ってしまった。
同年、小串小・中学校が独立。
昭和30年(1955)高度経済成長期の幕開け。日本は貿易立国を目指し、工業化を進める。海浜の工業地帯は、黒煙のため青空が見られなくなった。燃料が石炭から、しだいに石化燃料へと移行していく。
 北海道硫黄(株)においては、コストを下げる為には機械化を進めなくては成らず、さりとて生産過剰になれば在庫が増えるというジレンマを抱えながら、コスト低減の道を選び、増産体制に転じた。運良く硫黄の需要も上向き、在庫もはけたので、さらなる機械化を計った。
昭和31年(1956)化繊・パルプ・農薬等の需要が急増。硫黄の需要に供給が追い付かず、アメリカから価格の安い硫黄を輸入。このことが、やがて国内生産を脅かすことになる。燃料は石炭から石化燃料にかわっていく。家庭には冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビの三種の神器が夢ではなくなった。経済白書に「もはや戦後ではない」と記される。
昭和32年(1957)神武以来の好景気を示す。
昭和33年(1958)一転して生産過剰となり、希望退職者を募集、小串鉱業所も61名の人員整理を行なう結果となった。このころ繊維産業はじめ他産業においても、人員整理の傾向が広がった。
昭和34年(1959)台風により索道の支柱が倒れ、ワイヤーロープの張力バランスが崩れたため、一見、将棋倒しのごとく連鎖倒壊が発生した。製煉所の建物も被害を受ける。
 県道-万座線から分岐して、小串鉱山までの車道8kmが開通。
昭和35年(1960)このころ、大気汚染の公害問題が国会で議論され始めた。石化燃料の脱硫が大きな課題となった。すなわち原油に含まれる硫黄分を除去し、回収することが焦眉の急となったのである。除去された硫黄は副産物である。言ってみればただ同然である。このことがやがて、硫黄生産会社を脅かすことになる。
昭和37年(1962)12月31日の小串鉱山に在籍する、子供から大人までの総人数は、1,517名を数える。
昭和38年(1963)時勢は刻々と暗雲が漂ってきた。コストの安い回収硫黄の影響を受け、硫黄価格が下落。国内の硫黄鉱山が22から15に整理された。小串鉱山も徹底的な設備の合理化と、人員の配置転換を行なった(図-1、2参照)。
昭和39年(1964)東京オリンピック開催。大気汚染による”四日市ぜんそく”が表面化。
昭和40年(1965)村立小串幼稚園新築開園、園児84名。ちなみに小学生195名・中学生74名・先生14名・従業員418名・職員37名・家族約800名。診療所・歯科医・売店などで、合計1,300名。
昭和41年(1966)全国規模で石化燃料の回収硫黄が増産される。
昭和42年(1967)長野県側の高山村両沢鉱床を開発。回収硫黄に圧されながらも、鉱山硫黄を増産。8月、公害対策基本法公布。
昭和43年(1968)鉱山の経営が困難となる。会社の浮沈を掛けた合理化案を労使協議。悲壮感が漂う。6月、大気汚染防止法公布。
 このころマイカーが普及し、小串への通勤も可能となった。前年から造成していた高山村の集団移住地-緑ヶ丘が完成、希望者は逐次ここへ転居した。
昭和44年(1969)小串小・中学校体育館完成。
昭和45年(1970)化学工業が活発になり、硫黄の需要が急増した。カナダから緊急輸入する状況になって市況が回復するも、それも束の間、紙パルプ・化学繊維業界の硫黄調達は、コストの安い回収硫黄に移っていく。
昭和46年(1971)硫黄の販売が止まり、出荷できず在庫の山となる。労使の対決を繰り返しつつ、「もはや、これまで」と、6月、42年間の事業を終えて閉山し、ついに「ヤマ」の灯が消えた。地すべり災害のときに心骨を削った古川俊雄氏も、12月77歳で忽然とこの世を去った。
昭和48年(1973)11月29日、北海道硫黄鰍ヘ解散した。

<小串鉱山-図表>
 下図は、小串鉱業所の施設配置を示す。昭和12年の地すべり事故については、資料が乏しく、嬬恋村が昭和49年になって、あらためて現地聞き取り調査を行なった資料が唯一のものである。聞き取った結果を製図し、建物等をプロットして検討した上、被災規模は幅500m・長さ1kmであったと報告している。

小串鉱業所
小串鉱業所-概念図
国土地理院地図閲覧サービスにて作成

 小串鉱山史に、「年度ごとの生産量」が記載されている。昭和43年が、30,057tで一番多い。硫黄の生産量は、岩手県の松尾鉱山に次ぐものであった。


図-1 小串鉱山史による

 小串鉱山史に、「年度末の従業者数」が記載されている。昭和32年が、595人で一番多い。34年頃からの生産量と従業者数の関係を見てみると、機械化を進めた過程が読み取れる。


図-2 小串鉱山史による

 嬬恋村誌には、小串小中学校の「児童・生徒数の消長」として表が記載されている。昭和38年が、296名で一番多い。


図-3 嬬恋村誌による

 群馬県嬬恋村が平成18年にまとめた統計資料がある。その中から小串鉱山の人口データを抜粋して次表に示す。国勢調査が5年ごとに行なわれたが、どういうわけか10年はデータがない。46年に閉山されたが、50年においても1名在籍している。残務整理のためであろうか。

小串鉱山-国勢調査人口別表
嬬恋村-平成18年統計調査結果に拠る

昭和

総数

世帯数

 開山4年

-

-

-

-

 5年

312

224

88

51

10年

-

-

-

-

15年

864

522

342

172

20年

802

465

337

162

25年

1188

724

464

217

30年

1365

788

577

279

35年

1481

827

654

336

40年

1246

678

568

304

45年

799

460

339

196

50年

1 1 0 1



図-4 小串鉱山-国勢調査人口別グラフ


小串メモ

  1. ”小串”という名称であるが、この辺りの地図を丹念に調べてみても、どこにもその地名は見当たらない。よくよく調べてみたところ、あったのである。「元禄上野国絵図-元禄9年(1696)」がそれだ。”おくしが嶽”という山名である。古くは万治2年(1659)の古文書に”うくし嶽”も登場している。この範囲は、現在の毛無山-万座山あたりまでの広い範囲を指している。そもそも昔は人跡未踏の山域は大ざっぱに呼ぶしかなかった。いい例が、屋久島の”奥岳”や、信濃の”木曾山”がそうである。その後しだいに個別の山名がつけられ、やがて大ざっぱな山名は用済みとなって消えていった。”小串鉱業所”の名称は、その古名に因んだものと思われる。閉山までに採掘した坑道の総延長は70kmに達し、その範囲は土鍋山から万座山にまでおよんで、図らずも”おくしが嶽”と一致するのである。

  2. 毛無峠の地名は、周辺に高木がないところから付いた名であるという。「毛」の古語には樹木の意味もあった。破風岳と御飯岳の間に大きな鞍部を形成している。ここは強風が通り抜けることで有名だ。火山活動が停止したあと、裸地の状態が続き、せいぜいガンコウラン・コケモモ・クロマメノキなどが張り付くように顕著な植生を示している。稜線から群馬県側にくだると一面の笹原になるが、これは昔からの自然植生ではなく、小串鉱山の硫黄製煉による煙害で高木が立ち枯れし、現在の姿になったものだという。

  3. 閉山は、小串鉱業所の従業員にとって、まさに青天の霹靂であった。昭和46年4月30日、労働組合代表が上京し、「賃上げ交渉」の団体交渉に臨んだ。ところが緊急動議で会社側から提示された話は、「小串鉱業所の操業停止」であった。翌日、メーデーに参集した組合員に、執行部から「鉱山落城」が報らされた。メーデーは奈落に落とされて、紛糾のルツボと化した。しかし挽回難しとさとるや日をおかずして、生活保障の条件闘争に転じ、労使双方の努力と、自治体の協力によって、再就職の道が開けた。高度経済成長の時代で、鉱山部門は不要になったものの、他産業分野に活気があったことも不幸中の幸いであった。


エピローグ
 天候さえよければ、現地はあまりにものどかだ。しかし文献を調べれば調べるほど、当時のイメージが沸々と湧いてくる。厳しく過酷な作業と、隔絶された高地の不安な暮らしを強いられた。昭和12年の地すべり災害は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものだったに違いない。そのときの経営責任者のことについて、元法務大臣-森山真弓氏は、著書「この日この時」の中で、次のように回想している。『私の父古川俊雄は・・・ある鉱山会社の重役をしていたが、昭和十二年秋、その山に事故があって大きな損害を出し、鉱業所を縮小整理しなければならなくなった。・・・』と、小学4年生の真弓に切々と語って聞かせたという。その際、ある従業員の奥さんから、自分の夫を解雇しないで欲しいと、子沢山の家庭の窮状を訴える陳情の手紙があった。父はそれを私に見せて、『真弓ならどうする?』ときいた。わたしは切々と訴える手紙の文章に同情して『かわいそうだから、この人一人くらい助けてあげたら』と言うと、父は静かに、『この人はたしかにかわいそうだけど、会社全体のことを考えると、この人だけ例外にするわけにはいかないんだよ。人員整理は公平な基準でしなければならない。その上でこの家族が実際に大変に困るようなら、別に相談にのってあげるという方がいいんだ』という。その年の大晦日、父は『これから明治神宮にお参りしよう。』と言った。『あれ、まだお正月じゃないのに』というと、『いや、この一年つらいことばかりで、一生懸命真面目に働いてきたのに、何故こんな思いをしなければならないのか。神様なぜですか?と心の中でくり返す毎日だった。そしてふと思いついたのさ。初詣でで大勢の人にもまれながら手をあわせても神様にはわかるまい。第一、銀貨一枚のおさい銭で、一年間の無病息災、家内安全、商売繁盛などと欲張るのは虫がよすぎる。だからばちが当たって事故なんかが起きたんだ。お参りは、一年間を元気で過ごさせていただいたお礼を申し上げるのがもっともなんじゃないかとね』と言った。それ以来、父は毎年お参りは大晦日と決めているというのである。古川親子の会話は、小串分教場の小中学生が大勢亡くなった痛ましさからきたものであろう。森山真弓氏も青春期に現地に参拝したという。
 今尚、毎年7月、現地において慰霊の例祭が執り行われている。いまだ小串鉱山は、廃墟にして廃墟ではないのである。


<参考>

  1. 米子・小串 鉱山歴史シンポジウム記録集-米子・小串鉱山歴史保存活用実行委員会/事務局:須坂市教育委員会 生涯学習課 文化財係/発行-平成18年3月
  2. 米子・小串 鉱山歴史記録集-米子・小串鉱山歴史保存活用実行委員会/事務局:須坂市教育委員会 生涯学習課 文化財係/発行-平成20年3月
  3. 小串鉱山史/小串鉱山退山者同盟会(小串会) 1981年7月25日
  4. 嬬恋村誌/嬬恋村役場 上巻 1977.3、下巻 1977.6
  5. 嬬恋村資料http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/syoukai/data/H18toukeisyo.pdf
  6. 近世硫黄史の研究/著者:小林文瑞 昭和43年2月1日/発行者:嬬恋村 

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