(フジゲン1970年代の軌跡)

1970年代 高度経済成長は終焉を迎え、景気は低迷していた。 音楽シーンもビートルズが解散し、新たなロック・ミュージックが台頭しはじめる。 それらミュージシャン達が続々と来日したことが、ギター産業にも大きな影響を与えることになる。 良くも悪くも、強い個性を持った人々によって進化し続けた富士弦楽器製ギターは、後世に語り継がれる名作が数多く生まれた。
ここでは、フジゲンと神田商会、星野楽器の代表的なギターにまつわるエピソードなど纏めていきます。


1969年〜1970年(1960年代はフジゲン創成期を参照)
横内社長と、従業員の努力により活気が戻った富士弦楽器であったが、ふとアメリカのフェンダー社とドイツのカール・ヘフナー社、そして韓国製のギターの値段が、なぜこんなに違うのか?疑問に思ったそうです。
(因みに、当時ギブソン製は300ドル、フェンダー製は100ドル、カール・ヘフナー製は150ドル、富士弦楽器製は30ドル、韓国製は10ドルで売られていた)
答えを見つけるべく、横内社長はフェンダー、カール・ヘフナー、韓国のメーカーを訪問して目にしたものから、富士弦楽器が進むべき方向を発見することになる。
フェンダー社で働く職人達は、自由で明るく楽しい雰囲気の中で働いている。 カール・ヘフナー社で働く職人達は、自信に充ち溢れ、誇りを持って仕事をしている。 一方、韓国のメーカーは、厳しい監視の下、職人は皆生活のために真剣に働いているが、誰ひとり笑顔で働く人はいなかった。 そこに150ドルと10ドルのギターの価値の差をみたのである。
「富士弦楽器を世界一のギター会社にしよう」 「皆が喜びと誇りに充ち溢れ、楽しく働けるような世界一の会社で、世界一のギターをつくろう」という思いに、全社員が奮起した。ここから、利益中心の会社ではない、人間中心の会社づくりが始まったのである。 ひとりひとりが世界一の社員になるために、挨拶にはじまり、掃除、整理整頓・・あたりまえのような日常的なことから見直した。(余談ですが、現在のフジゲンに何度か工場見学行っていますが、整理整頓されて掃除の行き届いた工場は、とてもギターを作っているとは思えないほどで感心します。その社風が今でも受け継がれているのを感じます)

1970年 大きな転機が訪れる。 直接貿易を廃止し、販売は商社と資本提携をし、自社ブランド中心としたメーカーに徹することにしたのである。 国内の企画販売は神田商会に、輸出向けの企画販売は星野楽器に委託された。(私の調べでは1968-1969のIbanezブランドで、Grecoと同じギターがカタログに掲載されているので、提携の少し前から星野楽器との取引は始まっていたと推測される)

そして赤字解消のため経営コンサルタントに相談し、製品の品質グレードを5段階評定の490%、最高の510%に設定。 売上にはあまり貢献しない最高級品を数%作ることで、残りの製品の牽引力にしようという考えである。 すでに富士弦楽器にはそれを作る技術力を持つ会社に成長していたのである。

そんな矢先、第一塗装工場から出火、工場の半分以上を焼失してしまうという災難に見舞われた。
可燃物を多く扱う工場のため、ギター工場の火災は大きな損失につながってしまう。
それでも社長以下、後ろ向きにはならなかった。復興に向けて全社員の心が一つになり、皆が必死で今まで以上に製造に励んだ。 そしてついに4千万円の赤字を目標どおりの1年で返済してしまったのである。
時に、日本経済は不況の真っただ中。 多くの楽器メーカーが消えていったが、富士弦楽器だけは業績を伸ばしていった。
そして神田商会と星野楽器の企画力と販売網、そして富士弦楽器の技術力と人間力が見事に噛み合って、1970年代の黄金時代を築くことになる。
特に、成毛氏とグレコEG360で爆発的な人気を得たエピソードは有名なところでしょう。

1960年代から関係の深かった神田商会は、1948年に設立された楽器専門の商社で、ルーツは江戸時代の地回りで、岡っ引きの手伝いをする自警団のようなものだったらしい。火消しなども同類。 創始者の近藤氏は、全国道具商組合の会長も併せて務めるなど、香具師や道具商の世界では顔ききだったらしい。そんな強面の一面、おもしろいことに、創業期に最初に取り扱ったオリジナル商品が保育園や幼稚園などで誰もが使う、鈴が付いた「ハンドベル」で、これはGreco最盛期の70年代でも変わることなく一定量が取り扱われ、Grecoと同じキャラバンで納品されていたものだと、当時を知る横内(照)氏は語る。

因みに、江戸城の北東半径1km以内にはそのような道具商などがたくさんあり、現在の古書街もその名残。
お茶の水など神田界隈に楽器店が多いのもそんなところにルーツがあります。

1970年入社で資材課長、製造部部長、生産管理兼・営業責任者、後に取締役、1996年に勇退された中田氏によると、当時は神田・星野・荒井の3社で強固な関係を築いていた。 神田とは双方株を持ち合い、グレコブランドを共に育てた関係であったという。
荒井貿易とは、主にアコースティック(一部エレキ)をOEM生産していたが70年代中頃から荒井はマツモクとの関係が深まったことと、フジゲン内製化に伴い関係が終了。

余談ですが、在籍していた当時、アメリカでギブソン、フェンダー、アレンビック、リッケンバッカー、(古くはカル・ヘフナー)のギター、ベースを分析するために購入して分解、カットしていたそうです。1957年製ストラトキャスターを1500ドルで購入して、同様にカットしてしまったそう。(今なら数百万円のギターだ)

70年代初頭、グレコの発展に大きな役割を果たした一人、椎野秀聰氏は、20代前半、1970年代初めに日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)に入社、そこの銀座店などで、後のポプコンなど立ち上げたり様々な音楽関係の仕事を経た後20代半ばでヤマハを退社し、神田商会の鈴木営業部長(後の小嶋会長)の引き抜きで神田商会に入社する。そこで富士弦楽器のグレコの新企画の設計、プロデュースを任されることになる。話によると当時、椎野氏は横内家にもよく訪れていたそうで、3年くらい富士弦楽器のコンサルタントをしていたとのこと。
設計にあたり、TICという音楽サークル時代から付き合いがあり、当時日本のロックバンドとしては先駆けで人気実力ともに一番だった成毛滋氏を富士弦楽器に招いて、神田商会の長沢氏(現レオミュージック社長)、職人と共に、グレコのギターの生演奏と、改良点を聞き、それをすぐさまフィードバックして成毛氏がまた鳴らすということを繰り返し、そうしてあっと言う間にグレコEGシリーズが完成する。EG420の開発で中田氏も成毛氏の地下スタジオに行ったことがあるそう。ネックを2mmくらい細くし、ピックアップをオープンにしたり・・牛丸氏が密接にかかわっていました。
さらに完成度が増し、成毛氏のお墨付きを得たEG420の発売に当たって、鈴木部長と椎野氏、成毛氏の発案によるソノシートが付録で付けられたギターは爆発的な売上げを実現した。(MCは後述する奈良氏が担当。成毛氏によると、レスポール・モデルならアンプだけでも十分いい音がすることを説明したかったのだそうだ。あまりの反響にソノシートは最終的に教則本付くのカセットになった) それにより、一気にグレコが国内トップのブランドに躍り出たのであった。 尚、1970年〜71年のグレコのカタログも椎野氏が手掛けたもの。

椎野氏はEG480までプロデュースした後もA Rockというアマチュア・ロック音楽祭などを発案。1972年頃にはすでに神田商会を離れ独立(その後、アリア、フェルナンデス、モーリスその他でのプロデュース、ESPの起業、ベスタクス設立など多岐にわたる活動を行い、現在は椎野正兵衛商店店主)。

(アマチュアロック祭)
197252日 東京日本青年会館にて第一回アマチュア・ロック祭(A Rock)が行われた。
毎月行われたA Rockの出演バンドの平均年齢は1415歳ではなかろうかという若者が多く、当時の洋楽ロックの流行、ミュージシャンの来日と相まって、かなりの熱気を帯びていた。 また、ほとんどのバンドがグレコのギターを使っていたというから、その人気ぶりは相当なものだった。
富士弦楽器からは横内社長、牛丸主任、中田主任、小坂部主任、平林(高山)主任が、ギター部品の販売と修理などを目的に出向いた。 第二回の612日には牛丸主任が、『はっぴいえんど』からオーダーされたテレキャスターとプレシジョン・ベースを持参。実際に演奏してもらい意見を得たそうだ。



もう一人、1970年代を語るキーマンとして外せない人物“奈良史樹”氏がいます。
1971年に、椎野氏とヤマハ銀座店で出会ったのをきっかけに、椎野氏のスカウトで同店のL.M企画室の嘱託として入社。まだ19歳だった。 椎野氏を中心にアマチュア・ミュージシャンを銀座に集めて、それらのバックアップをしながらプロデュースを行う、今でいうレーベル、音楽事務所の先駆けの事業を試みたGYMという団体に所属。その活動が後のポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)につながる。ヤマハ銀座店での自費出版2枚組レコード「創刊号」製作に自身も参加、作曲も手掛けるなど多彩な才能を持っていました。このアルバムがヤマハの川上源一会長の目にとまり、脚光を浴びます。(一連の輝かしい功績は別途ご紹介する場を設けます。(現在進行中))

奈良氏とGrecoとの出会いは、ヤマハ銀座店に椎野氏という凄腕がいて、その下で彼の手足になって活動しているデカイ男(奈良氏)がいる・・・という鈴木政行(小嶋氏の実弟で当時神田商会・銀座エリア担当)の話に興味を持った当時の鈴木部長(後年の小嶋社長)から、グレコの広告を頼まれたのがきっかけだった。
ギャラをいくら請求してよいか分からなかった奈良氏は、冗談半分で当時の高卒初任給の額の4万円を請求したら即決で成立。 そのままアルバイトでギターの広告を製作した。
何回かグレコの広告をこなした後、(高すぎるギャラに)鈴木部長から正社員になるよう説得されるが、サラリーマンに成る気がなかった奈良氏は、金を貯めてアメリカに行くつもり・・・と夢物語を語って逃れる。しかし、鈴木部長は奈良氏の才能が優れているのを見抜いたのだろう。それすらもなんとかすると約束され(普通に考えて一部長がそこまでの権限を持っているというのも凄いが)、椎野氏に続くように19727月、神田商会に嘱託で入社。荒井貿易のルートでシカゴの楽器問屋 デビッド・ウェクスラー社(David Wexler Co.)に行けることになった。奈良氏は、急遽、富士弦楽器で1か月のギターの修理の研修を受ける。 David Wexler Co.で約1年間修理の仕事をしながらアメリカの音楽・楽器事情をつぶさに見聞きして1973年帰国。“お礼奉公”のつもりで3年は勤めようと思ったそうだが、ずるずると7年在籍し、神田商会取扱いブランドの殆どの広告制作、さまざまなイベントの発案、エンドース、小売店バックアップ(Rock House Ikebeに代表される)、輸入業務、製品開発、Player Magazineの創刊など、神田商会社員という枠を越え、多岐にわたり音楽・楽器事業と関わることになる。
1972年奈良氏がウェクスラーで毎日眺めていたというWEXLERカタログは→こちら



初期の偉業?として数々のエピソードがあるが、まずは“ギター言語、用語を確立”したこと。奈良氏が名付けた用語は数多い。“マイク”を“ピックアップ”としたり、楽器の部位の名称変更は枚挙にいとまがない。
グレコで言えば当時、P.U.には生産側だけが分かるような記号的なものしかなく、そこにU-1000ULTRA1000)と名付け、固有のキャラクター、存在感、メーカーのプライドを持たせたのも奈良氏。

初期のCANDA GRECOのアコースティック・カタログは、Y(黄色)版カブリのものにでき上ってしまったという逸話もある。そのカタログで、番号定価(モデル名に必ず価格の分かる番号がふられる)を廃止させたらいくらか分からんと営業から不評をかう。 以降1972年のカタログから奈良氏がデザインを担当する。 あと、グレコと読めないグネコロゴの廃止、75年からのシリアルナンバー刻印も奈良氏と高山氏の偉業である。(私の記憶では初期MRには入っておらず途中からシリアルが入った)
奈良氏曰く 「高山さんは最高にいかした、最高にノリのいい、信州の奈良でした!」

椎野氏プロデュースのA Rockをサポートし、成毛滋をバックアップ。日本のロックバンドの総取り込み作戦など大忙しだった。

1972年 神田商会の(小嶋社長)のアイデアで、オーダーメイド・システムが始まる。グレコ・スペシャルエージェントという特約店に申し込む方法で、ある程度の基本パターンの中から、ユーザーが好きな仕様を組み合わせたり、選択できるこの画期的なシステムは、国内のみならず、海外からも注文が入るなど、イメージアップに貢献した。 (最初期のオーダーメード・カタログによると、謳い文句は「君の若いエネルギーがバク発する、君だけの音を追求する、音楽性、機能性、ファッション性に富んだNOWなGUITAR」GRECO ORDER MADE GUITARS)。

1号機ブライアン・ジョーズ・モデル\100,0002号機レコーディング・モデル\150,0003号機フェンダー・モデル\160,0004号機フライングV・モデル\90,0005号機ジミーページ・モデル\150,000というものだった。勝手にジミー・ページ・モデルって付けちゃっています。 これら先走りがRED ZEPPELIN2度目の来日をした際、手渡したEGが後にとんでもない事態に発展する。

当時すでにギブソンとのエンドース契約をしていたと思われるジミーに、ラジオ番組収録中、神田商会の大阪の担当者が用意したグレコのEG(型番不明)を手渡して写真を撮ったことが、ジミー側から精神的苦痛を受けたと訴えられそうになる。慌てた神田商会は、100万円の和解金で解決する。


1972年、富士弦楽器創立12周年目の年、昨年秋より着工していた鉄筋三階建ての新たな厚生棟が増築された。 617日、楽器業界その他約240名を招待し、三階の食堂にてその祝賀パーティーが盛大に行われた。 (主な来賓にはトンボ楽器社長・全国楽器製造協会会長の真野市太郎氏、当時の神田商会社長・近藤取締役など) 長年、富士弦楽器を象徴する建物で、現在も本社事務所として現存し、貸しスタジオなども併設されています。

完成した厚生棟                    横内社長あいさつ
成毛滋の演奏とヤングメイツのパフォーマンス。

また、この頃より従業員の国内外のメーカーへの派遣、視察、研修を積極的に行い、自社製品を広い視野から見つめ、また比較することで、自社の優れているところを再認識した他、他社に劣っているところは着実に見直され製品にフィードバックされていった。

また星野楽器の星野義裕氏と上條社長は3か月に1回は海外に出向いて市場調査をすることでいち早く世界の楽器市場を把握していた。


富士弦楽器では70年代前半、ブレコ・ブランドの他にELKのギターも製造していたようです。 
元カントリー歌手で、ELK社員、神田商会を経てフェンダージャパン取締役になった斉藤任弘氏。 
ELK時代に、日本で初めてトラスロットを伝承。神田時代には日本人で初めてフェンダーUSA、ギブソンでエレキギターの製造技術を習得した人物とされる)
斉藤氏はELK時代にマツモクに製造を委託しており、神田商会に移籍してからも、その関係で、フジゲンもELKSGタイプ(ファンタム:PTシリーズと思われる)の製造をしばらくしていたことがあるそうだ。
また当時、ほとんどのギター部品はトキワ商会で製造していたとのことです。

1973年当時の合板工場               1974年当時の工場内

1974年 田川からみた富士弦楽器



(U−1000ピックアップについて)
先の『フジゲン創成期』で述べたように、MAXSONがピックアップを製造するようになり、著しく性能が向上したことは関係者の証言でもわかった。そしてULTRA-1000ピックアップ(の前身:高性能〜と謳ったモデル)の登場によって、グレコのギターのサウンドがさらに向上したことは周知の事実でしょう。おそらくこの頃に’59年製Gibson P.A.F.を解析しており、アルニコ・マグネットを採用していたこのピックアップは長きにわたり採用された名器と言えるでしょう。因みに奈良氏が言った10002000は中身は同じというのは少し違い、マグネットと巻き数に違いがありました。3000以降はアレンビック社のフェライト・マグネットが組み込まれた。
1974年にはピックアップが表紙のカタログまで登場する「グレコはピックアップだけでも大変な価値があります。ましてそれが唸り出した日には・・・・・・」がキャッチコピーだった。

1973年 シカゴのデビット・ウェクスラー社から帰ってきた奈良氏は神田商会企画室を開設。

画期的だった、アフター・サービス/リペア・ルーム部門も小嶋氏の発案で開設された。1974年当時、沢田氏、小幡氏(後の企画室長)、鈴木氏(電気専門)などがいた。
当時、来日ミュージシャンは音楽プロモーターであるUDOの接待の一環で、神田商会もルートに入っていることが殆どで(ミュージシャンは楽器を作ってもらえたり、神田商会は最先端を行く大物ミュージシャンの生の意見・アイデアを吸収することができたのだ)奈良氏の話によると70年代に来日したミュージシャンは殆ど会っているそうです。そんな関係で、数々の大物がここを訪れており、オリジナル・モデルや諸々の打ち合わせがここで行われていた。
1978年当時の神田商会リペアルーム

また、12階にある展示室には、試作品の数々が陳列されており、時にはここからミュージシャンに直接プレゼントされたりもした(スージー・クアトロが来日時のライブで使ったベースがそれ)。 余談ですが、そこにあったギターや楽器フェアで展示されたプロトタイプなどがなどは、時々市場に流通していたことが分かっている。おそらく決算などの時に放出されたのだと思われる。雑誌等に載ったモデルもありました。 それらが売られる時には指板エンドに★★などの刻印が打たれたようです。(私も現物確認済み)  中にはヘッド裏に固定資産税のマークが入っているものもあるかもしれないとのこと



初期の広告にも使われたフェイセズの山内テツのベースは、当時の小嶋社長の実弟で、後年社長に就任する鈴木政行氏のPBとJBを合体させるアイデアで、ローランドのピックアップを取り付けて出来上がったものを持っていったそうだ。 同じくロン・ウッドがギターをオーダーしていった(RWモデル)これらがグレコ初のミュージシャン・モデルとなった。


(フェイセズの話)
当時、ロックバンドといえばイギリス。 その来日ミュージシャンの一つにフェイセズがあった。
1974年の来日では215日の大阪公演、17日の大阪公演(中止)、19日の東京公演。
15日の公演には牛丸氏がオリジナル・ギターを見てもらうために持参していったようだ。
彼らのライブは常に酔っぱらい状態だったのは有名だったようですが、 ロッドの奇行・暴れっぷりはZepに次ぐものだったそうで、日本でもホテルに数百万円の弁償などザラだった様子(支払いはUDOでしょう)。 
こんなまことしやかな噂話もあります。 某、ギターメーカーがロッドの部屋を訪ね、ギターを見てもらおうと渡したところ、そのギターを目の前でグッチャグチャに叩き壊されたとか・・・




初のオリジナル・ギター MR800/MR1000について
奈良氏が一番情熱を注いだギターの名器“MR” 名前から分かるとおりミック・ラルフス氏のために企画・デザインされたこのギターは、クリエイターとしてコピー・モデルを作っていることへのアンチテーゼでもあった。なんとしてもオリジナル路線で行きたいという奈良氏の思いが具現化した、といっても過言ではないギターなのだ。

1975年 3月 バッド・カンパニーが1日限りの公演のために初来日する。 スケジュールの合間にUDOの案内で神田商会に来たギタリストのミック・ラルフス氏。そこで奈良氏はミックと会い、彼の人柄に感銘を受けた奈良氏は、彼のためのギターを作ってそれを弾いてもらいたいと思う。そこからMR構想が始まった。(開発秘話については現在別途作成中)

申し入れを快く受けた彼と、仕様について大まかな打ち合わせをしたそうです。また、その時、ショウルームにあったIbanezまたはグレコのダブルネックに感銘を受けた彼は、そこでダブルネックなどのカスタム・モデルの打ち合わせもしたとのこと。

「作るならGibson系でセットネックのちゃんとしたギターを作りたい」という強い思いがあり、全て奈良氏のよるプロデュースで、デザインからパーツ、材質の組み合わせなど、好きなだけの要望を上げ、富士弦楽器の高山氏と打ち合わせした。デザインは奈良氏が手書きしたラフデザインから、開発で実寸の設計図面におこされた(当時は製図)。

初めて採用されたバダスタイプ・ブリッジ(BR2020)は、バダスの欠点である前傾姿勢を改良するために、中央P.U.側にイモネジを配置したのが特徴。当時、富士弦楽器で考案し信越鋲螺で製造させた新しいもので、高山氏の勧めでそれが採用されることになった。 そうしてMRのプロトタイプは出来上がった。 最初の打ち合わせではミックとは細かな打ち合わせなどはしておらず、手書きのラフイメージ確認、24フレット、レスポールの音・・程度だけを話し合い、仕様はほとんどこちらで先行して決めて作ったそうだ。
そうして出来上がったプロトタイプは、奈良氏曰く「非常にバランスが悪い(ヘッド落ち)。これはダメだと思った」そうだ。しかし直している時間がない。そのまま持っていくことになった。
そして奈良氏自身で先方の事務所と連絡を取り、なんとしても出来上ったギターを持って行って渡したいと言ってアメリカまで直接持って行った。ツアー真っ最中で関係者から何も聞かされていなかったミックは、奈良氏がギターまで持って現れたことに凄く驚いたが、そのMRはリハーサルでずっと使っていたそうだ。

MRは市販にあたり、ニックネームを一般公募。“ミスター”に決定し、グレコ初のオリジナル・モデルは、広告やカタログによるPRも大々的になされた。

MRは、その他、ポール・ロジャース氏、ポール・スタンレイ氏、森園勝敏氏なども使用しているのが写真で確認できる。


グレコ・オリジナル・モデルのまさに先駆け、後のオリジナル・モデルの作る上での基礎になったMRは70年代のギター史に残る名器であったと言えるでしょう。
20124月、私は奈良氏から直接お話を聞かせていただく機会を得ました。愛おしそうにMRを手に取りながら、このモデルにかけた熱い思いを語っていただきました。)


バリエーション・モデルであるMR600についての開発秘話

後発モデルのMR600の量産化に関わった牛丸氏、広田氏からこんな話を伺いました。
牛丸氏の持論として、ベストな位置にブリッを置く必要があると言います。 それは形状や質量によっても違うが、ボディのブリッジ付近に相当する部分をコンコンと叩いて、震動の音を聴診器で聴きながら、デッド・ポイントが発生しない場所を捜し出すという。まさに職人技というエピソードだ。

MR600では、24フレットから22フレットにすることにより、ブリッジ位置を理想的な位置にセッティングしているとのこと。 また、この設計理念はMXにも引き継がれているらしい。


1975年当時の富士弦楽器 技術開発 試作室(左は牛丸氏。右は矢口氏)スージー・クアトロ・モデルのベースやオシロスコープ、製図台などが見えます。


1975年のシカゴNAMMショウで、著名な外国人プレイヤーが富士弦楽器の作ったIbanezのギターを使い始めたり、バイヤーはギブソン、フェンダーとの比較をし始めた、日本のメーカーが自社オリジナル商品をコピーし始めたなど、諸々の理由でギブソン、フェンダーに次ぐ三番目のメーカーに位置付けされたことを実感したそうである。歴史的にみても明らかなように、19741975年からのIbanezGrecoの発展は目覚ましかったのであった。



1976年、 Greco オーダーメイド・システムの発展形とも言える、プロジェクト・シリーズを小嶋社長が考案(命名は奈良氏)。

同時期ゴダイゴのバックアップ。広告塔として広く認知されるようになる。


1976年、のサボイショウ、フランクフルトショウに出品する製品に、ギブソン系オールドモデルが3本あった。
1975年から先行していたエクスプローラー(EX-6PS)フライングVFV-6DXS)に加えモダーン(MD-6S)が作られた。このモダーンは1950年代にフライングVとファイヤーバードを実験的に掛け合わせて作られたもので18本のみ製作されたとのことで、しかもその内の1本を神田商会で持っていたそうである。 しかしそこから忠実にコピーされたモダーン・コピー、製品名Ibanez No.2469(国内向けGreco MD900)は発売してすぐギブソンからクレームがつき、100本程度しか生産されなかった。 
それらは、その後アメリカでプレミアがつき店頭で2000ドル以上もの値がついていたので中田氏は驚いたそうです。




1976年 海外でのIbanezの知名度は上がり、トップ・プレイヤーがこぞってIbanezを使い始めた。 国内に至っては、Grecoが市場の65%のシェアを占めるまでのブランドに成長していた。
そんな折、Ibanezの進出に一目置いたギブソンのマネージャー二人が工場見学に訪れる。礼儀正しく、整った工場に感嘆の声を上げた彼らは、横内氏に経営上で一番重点を置いていることについて質問をした。それの問いに横内氏は自信を持って「人づくりです。この工場は人をつくる工場です。立派な人間をつくりながらギターをつくるのです」そう答えたという。
さらに見学者は増え続け、マーチンからも2度目の来社の際に合弁を持ちかけられたが、丁重にお断りした。 

周知の事実だと思いますが、当時すでに後進の日本製ギターの品質の方が優れている上、価格も安く、70年代のアメリカのギター産業は衰えていた。後にそれらの時代背景もあってか、日本のギター作りにも暗雲が立ち込めることになる。


同年、ローランド社の熱いオファーによって、富士弦楽器は2月からギター・シンセサイザーの開発にとりかかる。研究所は九州。そこで富士弦楽器からは牛丸氏が開発に携わった。 平田に合弁の富士ローランドを設立し、 19775月に画期的なGRギター・シンセサイザーは発表された。 (ユニットGR500\210,000、ギターGS500\110,000、ケース\10,000、ペダルコントロールPC50\38,000)後にGR-700GR-300GR-100G-808G-707G-505G-303G-202、ベース版GR-33BG-33G-88に進化。最初、レスポール型で行くことになったのは小嶋社長の意見らしい。ロゴデザインは奈良氏によるもの。本人はあまり好きではないそうだ(笑)
完成したばかりの富士ローランド

鳴り物入りで登場したGRは当時ギブソンからもオファーがあったほどの注目度だったそうだ。しかしセールス的には成功したとはいえなかったようだ。 中田氏によると「音のタイムラグ(100分の3100分の5くらい?)があり、プロ・ミュージシャンにはその時間差がハッキリとわかってしまう」のだそう。 これは牛丸氏も同じことを言っていた。 それはカシオのMIDIギターも同じだった。
しかし、現在もRoland×Fenderのコラボレーション・モデルが発売されるなど、その血統は脈々と受け継がれている。

昭和52年6月4日新聞記事         デルトンカッチャー氏とゴダイゴによるデモ演奏

5月17日NHK スタジオ102             富士弦楽器厚生棟でのデモンストレーション


横内社長・カッチャー氏とご家族 同じく富士弦楽器にて。


浅野氏とGR


ジェフ・ベック来日ステージとバックヤード。横内(照)氏はステージ裏にスタンバイしていたそうだ。
横のストラトは、当時コピーが大流行したのをご記憶の方も多いだろう。





GRの初代デモンストレーター 谷川史郎氏。ゴダイゴ、バレリーナとともに日本各地でデモ演奏を行った。 ご本人から直接頂いた当時の写真です。 GR以外の写真はギターから1975年頃を推測される。試作中のギターや、MRを弾く姿。G

1977年 プロジェクト・シリーズが始まる。
各メーカーのギターがひしめき飽和状態になってくると、販売店の安値競争によって利益が少なくなってきたという背景があったようで、さらに大手販売店などからの特別なオーダーメイドを受けられないかとういう働きも相まって、オーダーメイドで受けたギター・ベースなどから、高利潤で定価販売を基本とした特別仕様のモデルを発売した。勿論、それに相応しい仕様と付属品は購入したユーザーの心を大いにくすぐった。(ハードケースには“FAULTLESS CASE FOR GRECO GUITAR”(グレコギターのための完全無欠ケース)書かれたプレート、ギターをすっぽり覆うシリコンクロス・パウチ(奈良氏が考案)など、憎い演出が施されていた)。  EGシリーズなどは、わざわざ木曾鈴木バイオリンでカシュー仕上げが施されたり、とにかくカタログ・モデルとは違う “特別な”仕様を与えられたそれらのモデルは別格の輝きを放っていました。(EG1500, EG1350, EG1200, SE1200, SE11000, SE800, PMB1000, SA900S, TB900がラインナップされていた)
特に大阪のギタリストが、オーダーメイド・システムを使って作った、ブライアン・メイ自身のハンドメイドのギター”レッド・スペシャル“を模したギターが「楽器の本」に掲載されるや、問い合わせが殺到。限定発売するために広告をうって注文を募集したBM900など、世界に類を見ないものまで商品化され、Queenファンは大いに喜んだ。
このプロジェクト・シリーズは、あえて品薄にして数量をコントロールしていたため、さらに稀少なモデルというイメージが出来上がったようです。

同年、富士弦楽器、いやコピーを作っていた日本のギターメーカーを根底から揺るがす事件が勃発する。


シカゴで行われる世界最大の楽器ショウNAMMで、ギブソンの関係者が横内社長に近寄ってきて「お前たちにもうすぐ訴訟を開始するぞ。コピーの損害賠償は100万ドルだ」 と告げてきたそうです。(当時の100万ドルは3億以上)そしてそのとおりに 19776月、ギブソンからパテント侵害による15億円の損害賠償請求訴訟を起こされたのである。
確かに当時の日本の各メーカーはコピー合戦の真っ最中。 しかし完全なニセモノを作っていたわけではない。輸出向けIbanezではすでにオリジナル・モデルも投入していたし、それまでの努力と改良によって、いつしか本家を超えるまでのモノを作り上げてきたのだ。しかし、これが伝説の?グレコ・オリジナル・モデルの開発に繋がっていくのである。 これをふまえ、グレコのレスポール・モデルは80年頃になるまでヘッド形状が変更され(いわゆるGOヘッド)、ロゴも変更された。他メーカーも同様の動きがあった。


しかし、パテント侵害訴訟は意外な決着をみせることになる。 富士弦楽器が日本国内でGibsonの商標を持っていたために、このまま訴訟を続けても不利益になると判断したギブソン側は、商標放棄との引き換えに訴訟を取り下げたのだった。

そこにはこんなエピソードが隠されていた。 1965年頃のことである。三村社長は牛山氏に指示して、弁理士を使って当時の主要ギターメーカーのほとんどのブランド名の(ギブソン、フェンダー、マーチンなど)日本国内の商標を富士弦楽器で取得していたのである。今の中国のような話ではあるが、これによって富士弦楽器は間一髪の危機を乗り越えることができたという。


1977年星野楽器、神田商会共に起死回生ともいえるモデルが登場する。Ibanezブランドでは、ギターの設計をジョージ・ベンソン氏とポール・スタンレイ氏に依頼、共同開発したモデルGB10,IC1100(PS10)が発売された。
宣伝の広告塔として、ジョージ・ベンソン氏にはホワイトハウスで当時の大統領のカーター氏に白いGB10を手渡すところを撮ってもらい新聞で発表した。 それが功を奏し、好調な売れ行きとイメージアップを図ることができた。(写真参照)

神田商会はグレコ・オリジナル・モデルを発表。 頭文字をとってGOと名付けられたそれらは同年の楽器フェアで大々的に注目を浴びたのだった。



当時、流行していたアレンビックをモチーフとして(70万円以上もした)、スルーネック方式を取り入れたモデルは、木の風合いを生かしたカラーで、大人びていて高級感抜群のモデルに仕上がった。(通称、スピードウェイ・ネックは奈良氏が命名)

手前にはBM900、様々なプロトタイプが見える。  右はランボルギーニ・イオタ型ギター!


ゴダイゴのスティーブ・フォックスが弾くのはポルシェ・ターボ型ベース!勿論市販はされなかった。
同年の楽器フェアでは、まさにオリジナル元年というか、各社からオリジナルモデルの展示があった。



市販されたモデルのラインナップは多岐にわたり、ミドルクラスからハイエンドクラスまで実に多くのバリエーションが同時に発売された。因みに試作品のヘッド・ロゴはインレイではなく金属版が固定された。(ラインナップ:GOシリーズ GO-1400GO-1200GO-1000GO-900GO-700。 GOBシリーズ GOB-1200GOB-900GOB-700。 M(ミラージュ) M-1000M-900M-800M-700M-600。ミラージュは元々Ibanezのアイスマンとして74年(?)に発売されていたもののグレコ版だ。 特に、フラッグシップでブルーのM-1000は、日本で最初にブレイクしたバンドCheap Trickのギタリスト、リック・ニールセン氏に奈良氏からプレゼントされ、気に入った彼は大いに使用した。(写真参照)
 リック氏にM1000を手渡す奈良氏


(リック・ニールセン氏とは、初来日の際、Playerのリック・ニールセン・モデルをデザインして贈ろう!という読者一般公募で、グレコのカスタム・ギターをプレゼントしたのが最初の出会いで、その後も親密な関係となった。)



(リック・ニールセン・モデル)
1977年 アメリカのロックバンド“Cheap Trick”のリック・ニールセン氏のために、Player Magazineと共同企画した「リック・ニールセンにギターをデザインしてあげよう」という企画があり、デザインを一般公募した。1本はリック・ニールセン本人に、もう1本はデザインで1位になった人に渡されるというものだ。
見事グランプリに輝いたのは大木氏(現在はグラフィックデザイナー・イラストレーターとして活躍)で、ミュージックランドKEY経由で行われた。当時の担当はKEYの高野氏。(後の神田商会のブギー高野氏。奈良氏の後任の企画担当。現ビンテージ・ギター代表)
製作には奈良氏と高山氏ですり合わせが行われ、奈良氏も直々に富士弦楽器で陣頭指揮をした。

奈良氏と製作中ギター。  THE GUITAR       広告


今回の歴史を纏めている最中、不思議な縁に導かれたかのように、このギターの現在の持ち主が現れました。しかも、それはPlayer別冊『THE GUITAR』の表紙を飾ったギターでした(しかも上の写真とも同じ)。ご厚意により世界に2本しかないこのギターの写真を提供していただきましたのでご覧いただきましょう。


『リック・ニールセンにギターをデザインしてあげよう』←ギターはこちら

GOシリーズは大体十万本は生産されたと中田氏は言う。レスポール、ストラトに次ぐ数量(月/1000本以上)で当時は生産したようです。但し、販売側ではかなりのストックがあった時期もあって、店頭で安売りされたこともあったとか

神田・星野・フジゲン共同開発モデルについて

ICEMANとミラージュ、2700GOVなど、明らかに共通と認識できるデザインのものがあるのはご存知のとおりですが、 当時は星野/神田/フジゲンの3社で共同開発していましたが、神田商会が主導権を持って開発を進めていたそうです。
共通モデルに見られる傾向として、IbanezのデザインがGreco用にアレンジされたケースが目につきます。
ICEMANについては、星野の加藤氏のデザインによるものだが、量産にあたり、牛丸氏はヘッドの大きさが小さすぎるのはバランスが悪いとして、現在の大きさに変更したとのこと。 これが現在でも続くヘッドデザインの基礎となっています。

また星野にはエルガー(Hoshino USA)にもデザイナーがいたようです。
デザイナーの他、富士弦楽器の社員が出向で検品修理も行っていました。余談ですが、1年交代で富士弦楽器からの出向があり、エルガーでは、日本からの仲間に英語の愛称がつけられる風習があったようです。
当時、星野楽器の企画担当は加藤氏、 神田商会は奈良氏の後任で元KEYのリペアマンだった高野氏(委託)が担当であった。




(その他モデルに関するこぼれ話・秘話)
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1979年入社、約10年間フジゲン技術開発部に在籍した広田氏に当時のことをお聞きしてみた。

入社1年目の研修期間中、塗装のバフがけ部門では慣れない作業のため苦労したとのこと。
塗装部門の後、フレット打ち、組み立て部門、技術開発部 国内オリジナル(試作室には国内と海外があった)に配属され、79年終りから80年代にかけて、名器と呼べる数々の開発に携わられました。

それらの仕事は全部ではありませんが以下のとおり。

Pickups

Greco GOシリーズ、DRY, Double Trick, Groove, Screamin, TL800などSuper Realシリーズ。
Ibanez: Super58, SUPER58 JAZZ,LR SPECIAL,SUPER P5S,SUPER J5S,SUPER J6
Fender: Japan PU for Stratcaster(初期)
Roland: PU for G303, G808, G202, G505
CASIO: Midi Guitar

Guitar Circuits

Heart Field: DR, RR, EX
Yamaha: Preamp
Ibanez: PreampAR500AR550GOBU950MC924の配線(旧回路から新回路に替わったモデル) 
Fender Japan: Preamp
GRECO GO1400, GO1200, GO II-950 配線

Guitar Design

Greco GOII1000 12弦の天神(ヘッドデザイン)
Greco GOB II BASS後期モデル
Greco MX600, MX800
Greco SW-1200 の天神

Guitar Buil

GRECO TL800試作
ブギー試作1
ブギー試作2
GRECO SV-800 試作
GRECO MX600, MX800 試作
Ibanez AR, MC 試作       等々

またこんなエピソードを思い出していただきました。
レスポールのヘッドデザインが試作では弦がポストに当たってしまったため量産の段階で形状が変わる。

GOU950の回路が複雑でユーザーから使い方の問い合わせがあったりした。

GOBUゴダイゴのスティーブ・フォックス氏がフジゲンに来社し、音決め(巻き数)を決めた。

また神田商会の小幡氏の指示で生産が始まっているのに形状変更(ハイフレットの演奏性?)3回も途中で変わっている。特にGOBU750で顕著に確認できる。


GOBU950の設計をした際、サウンドの向上のためブリッジ位置を上げてあったが、全長が長くなり在庫のハードケースに入らないからという理由で短くされた可能性がある。(すでに量産体制に入っていたのだが、少なくともボディ・エンドが最初丸みを帯びていたものから修正されて量産された)また、後継モデルは平林氏がデザインしたが、試作までで量産はされなかった。(1981年カタログVol.13にて諸々のエンドーサーが使用するワンオフ・モデルが確認できる)


 (写真はGOU950プロトタイプ photo広田氏提供)

MXシリーズのデザインは量産の段階で形状が変わった。NCが入る前は量産向きに手直しが入ることはよくあることだそう)MR600が牛丸氏からバランス・サスティーンが良いとアドバイスを受けており、それを意識して図面を描いたそうだ。

グルーヴとダブルトリックは量産の際、名前と仕様を入れ違いにされて発売された。

チャボモデルのピックアップ開発。デザイナーは伊藤氏(現Guitar LAB代表)で、ピックアップは手巻きで巻いた特別仕様だそう。

ブギーのピックアップを神田の“ブギー”高野氏と開発。 その他ピックアップの開発では、高野氏は42番の銅線が良いと主張。しかしインチとミリ規格の違いで国内にはない太さだった。しかし少しでもでもコストを下げるよう言われているため輸入品を使うことはできない。そこで諏訪のメーカーに同規格の銅線を作ってもらう。しかし結局高野氏は輸入品の42番でないと気に入らないようだった。

DRYなど、ピックアップ開発用に作ったテスト用ギターも広田氏が製作(Guitar Graphic Vol.5参照)

Haert Field DR、 RRの回路、プリアンプも最初設計していたが、それはフェンダー採用となったためMQに採用予定だったプリアンプが使われた。

オフコース松尾氏のダブルネックを製作した。(Grecoの他、Ibanezもあった。おそらくバンドがIbanezのエンドーサーになったため)

AR300トライサウンドSWを従来のセンターフェイズから、シングル・シリーズ・パラレルに変更。 またボディが薄かったため、厚くして音の伸びを改良した。

KEYオリジナルAK1400は最初は広田氏か、矢口氏が製作し、後にアメリカから帰ってきた(故)藤本氏が製作。ハカランダのツキ板を貼る際、アイロンを使ったらヤニが沢山出て大変だったそうだ。
同じく8弦ベースは、図面を描き、制作は藤本氏。

ピックアップ内製化。当時の仕入れ先であった日伸音波から広田氏が製造方法教わり、ピックアップ製造部門の『第四製造課』を立ち上げる。 課長に牛丸氏、直属で広田氏が所属。
ピックアップの周波数特性を測るのにFFTアナライザーを導入した。

80年代当時、モニターのミュージシャンは富士弦楽器の食堂で試奏していたそうで、デンスケのカセットで録音。YAMAHAなどは立派なPA機器、部屋があり、設備で劣っていると言われたらしい。

後、1981年 フジゲン研究所(ローランドの場所:現Sugi Guitars建屋)が設立される。
メンバーは 牛丸氏、鈴木氏、北原氏、出井氏、子迫氏
ここには防音室があり、アルフォンソ・ジョンソン氏、ボビー・コクラン氏、スティーブ・フォックス氏などが来る。

GOV 
ゴダイゴの浅野孝己氏が使用したことから一躍脚光を浴びたモデル。ザ・ベストテン出演の翌日に1万本のオーダーが入ったと本人が語っているが、1979年後半の実質3か月程度しか生産されていないため、それほど生産数はなかったと思われる。ギターグラフィック誌を引用して記述しましたが、浅野氏ご本人から他の話と混同していますとのご指摘をいただきました。別のモデル(それが何なのかは不明)をTV出演時に使ったところ、その翌日にそのギターのオーダーが大量に入ったというのが正解。GG誌の記述誤りであったのが真相のようです。/情報提供 wat氏 2013.1)
デザインも浅野氏ということになっているが、おそらく先発のIbanez 2700をベースに、浅野氏が各部の仕様にアレンジを加えたものではないかと思う。
その他、浅野氏はGOシリーズのピックアップの開発のために富士弦楽器を訪れて協力したそうである。
広告にも使われたGOVのプロトタイプは現在海外にあります。 こちら→GOVプロトタイプ

広田氏によると、オーダーメイドで藤本氏が作ったものが元になっているかもしれない。配線はやった記憶があるそう。ロータリースイッチの取り付けに苦労して、取り付けネジを特注したそうです。(ただ「私だったらあんなにVolumeToneを付けた設計はしなかった」そうです)


ゴダイゴについて
グレコの広告塔として、誰でもまず名前が上がるのがゴダイゴだろう。
神田のアフターサービス部門のチーフだった沢田氏と仲が良く、以前から出入りしていたミッキー吉野氏がゴールデンカップスを辞めミッキー吉野グループをやっていた頃、ある日神田商会を尋ねてきて「今度バンド作りたいんでアメリカから一人、スティーブっていうベーシスト呼ぶんだけど・・ビザとるのに身元保証人になってくれ」と申し入れをしてきた。 それで神田商会が身元保証人になってあげ、妻のミミも一緒に雇うカタチで貿易関係とか手伝いをさせていたらしい。 当時売れないソロだったタケカワユキヒデ氏のバックを務めていたミッキー吉野グループが一緒になってゴダイゴになり、それを神田商会でバックアップしていた。(因みに、現在は牧師となっているスティーブ氏の自伝によれば、アメリカのカルト教団からドラマーのトミーと、教団幹部だったミミ逃すために入籍して日本に来たのだそうだ。)

グレコのCM
今では考えられないが、ギターのCMがあった。 スティーブ氏と和田アキラ氏が出演した。 松竹の大船撮影所で撮ったもの。
CMばかりか、神田商会がスポンサーの『ロックおもしロック』という番組まで東京12chで約1年間放送された。


T.S.VIBRATO
元カントリー歌手で、ウエスタン・カーニバル等に出演していた斉藤任弘氏(神田商会。後にフェンダー・ジャパン取締役)が、神田商会時代に考案したビブラート・ユニットで、氏のイニシャルから命名(1979BWGOUが最初で、おそらくストラト系のスタイルに合うトレモロ・ユニットとして開発されたのだろう。GOは後から採用されたがアーチドトップ・ギターにもよく似合っている)

 斉藤氏自身が試作から作り上げたそれは、コピーではない、オリジナルであることにこだわって製作されたそうだ。 ただ、当時すでにフロイド・ローズなどの優れたロック式トレモロ・ユニットが登場しており、Grecoオリジナル・モデルに採用されるにとどまった。(既存のモデルに後付け改造の注文などもあったそうだ)当時の関係者にはやや疑問視する向きもあったが、GOシリーズをはじめとするオリジナル・モデルのデザインにはこれ以上ないほどのフィット感があるユニットである。
余談だが斉藤氏は、楽器、機械いじりも好きな方で、会話の半分は英語が混ざる方だったようです。
1974年当時の斉藤氏

HEART FEALD 
神田商会との取引が終わった後80年代に立ちあがったフジゲン最初の自社ブランド。 フェンダーとの兄弟モデルなども登場。 杉本氏が関わる。


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話を戻します。

1978年 アメリカ向け輸出をしていた企業を、急激な円高が苦しめ始めていた。ギター関連もしかり。そこに韓国、台湾などのアジア圏からの低価格製品が追い打ちをかけてきた。さらに厳しい状況に追い込まれる日本のギターメーカーは、人員整理を余儀なくされ、倒産も相次いだ。しかし富士弦楽器は、コピー以外のオリジナル・モデルの開発をさらに進め、ヨーロッパ市場を開拓し、高級品で勝負したことにおより影響は少なかった。

1979年 やはりギター産業は、一時のブームに左右されやすい業界である。国内向けのグレコもみるみる受注が減り、神田商会の在庫が2倍に膨れ上がっていた。(ただ、ここには神田商会の発注権限をもつ小嶋社長のワンマンぶりに起因するところもある。話によると、天性の勘を持つ氏は、発注は殆ど勘で、どんぶり勘定。アレを100本コレを200本といった具合にバンバン富士弦楽器に発注していたそうだ。 このあたりで、富士弦楽器側と神田商会側で若干の売れ行きに対する温度差があったのだとか。

そんなわけで、倉庫に山積みのギターがあれば、当然生産するギターも減っていく。やむなく富士弦楽器では30%の減産体制を敷き、 主任以上は神田商会への出向を行った。 9月にはついにレイオフで半月の一時帰休を行わざるを得なくなる。(当時を知る杉本眞氏(現Sugi Guitars代表)は、神田商会に眠っていた大量の在庫も、次のバンドブームが来たら、あっという間にさばけてしまったと語っている)

1981年 生産効率アップとさらなるコスト削減のためNCルーターを導入(NC導入にはデザイナーでもあった平林氏が関わる)。 組織を明確化し、外注へ独立する希望者も募った。 同時期ピックアップも内製化を図り、当時の仕入れ先であった日伸音波に開発技術資料、製造資料。そして巻線機、着磁機など全ての製造設備の譲渡を申し入れる。そしてから広田氏が製造方法教わり、ピックアップ製造部門の『第四製造課』を立ち上げる。 課長に牛丸氏、直属で広田氏が所属。これで1960年代から続いた日伸音波のピックアップ製造の歴史は終わることになる。

そして徐々に利益は改善されていった。

同年、USAフェンダーのロジャー・バルマー氏から神田商会側に直接MADE IN JAPAN FENDERのアイデアの打診があったそうだ。

1980年 ギブソン、フェンダーのモデルを徹底的に研究して作られたスーパーリアル・シリーズが発売となる。

リアルさを出す工夫の一例だが、牛丸氏は試作でパーツ類の経年変化を出すために、ピックガードやノブなどをコーヒーで煮詰めて着色したそうで、それを本番でもやろうと思ったそうです。 スーパーリアル・シリーズは当時としては高めの価格設定で7万〜1415万のラインナップだった。

同時期、USAフェンダーのロジャー・バルマー氏と小嶋社長でフェンダー・ジャパンを設立する構想が進んでおり小嶋社長と斉藤氏が、フジゲンの上條社長に話をもちかけたが、上條社長は自信作のスーパーリアル・シリーズを選択し、その話は一旦は断ったのだった。

その話はそのまま数百mのところにあるマツモクに持ちかけられそうになったが、小嶋社長は、やはりやるならフジゲンしかないと説得した。そしてフジゲン製フェンダー・ジャパンが誕生することになった。 

そしてスーパーリアル・シリーズとして製作されたギターは、急遽グレコのブランドが剥がされ、Fenderのロゴが貼られてそのままNAMMショウに出展されたのだった。そしてその見事な出来栄えに大反響を得ることになった。 それはもうコピー品のギターではなくなった瞬間だった。

フェンダー・ジャパン設立にあたり、CBS シュルツ氏とロジャー氏で権力争い。シュルツ氏が社長となる。

1982年 神田商会の小嶋社長の手腕により、他の楽器メーカーとフェンダーの副社長で進めていた提携の話を、神田商会・富士弦楽器の方に引き寄せてしまった。ギブソンと並んで世界トップのメーカーの一つであり、かつてフェンダーの工場見学から学んだ、経営の根底にある思い。 その会社のギターを製造するという嬉しい話だった。  特に富士弦楽器は前年よりNCルーターなど、自動化を進めさらに精度の上がったコピーが作れていたこと、相反してアメリカのフェンダーの品質はどうにもならないくらい低下しており、日本のメーカーの技術力が必要だったのだ。 推測するに、フェンダー側からすれば、日本の精度の高いコピー品を敵対視するよりも、そのままフェンダーの権限を与えてしまった方が収益の面、コピー品を抑止する意味でも得策だったのかもしれない。 (現に、正式にフェンダー・ジャパンを製造するようになって、開発の杉本氏がフェンダーに技術指導に行き、それが後のカスタムショップ設立に繋がるなど、フェンダーの再興に一役買ったのである。) 

そして1982311日、グランドパレスにて記者会見が行われ、4月 正式な契約が結ばれる。東京・神田に日本法人フェンダー・ジャパンが設立された。 社長は小嶋氏が就任し、その立ち上げの広報は小嶋氏の“鶴の一声”でデザイン事務所を独立開業中の奈良氏が呼び戻され担当した。 そして同年、富士弦楽器はギターの“生産量世界一”を達成する。

Fender MEXICOがフジゲン4800万、Fender4800万の出資で設立される。フジゲンからは技術協力で技術者を出向させた。ただ、最初は従業員のモラルでかなり苦労したらしい。

そして1987年、景気低迷から、山野・神田・フジゲンの共同出資だったフェンダー・ジャパン株を手放したことで、フジゲンによるフェンダー・ジャパンはダイナ及び寺田などにその生産拠点を移すことになった。 





つづく

つづく

1970年代 ピックアップ組み立て

1970年代 最終検品工程。 輸出用Ibanez ARを検査しているのが分かる。

「創刊号」奈良氏の他、数々の有名人も名を連ねる。松任谷氏など。 もとまろのサルビアの花もヒット。デザインも奈良氏。

フジゲン大町工場(2012)

丁寧な工場見学の様子。

奈良氏も『恋唄』を作曲(第4回ポプコン入賞曲)

現在はここがギター生産の拠点。

1980年代の研究開発室

Y版カブリのカタログはこれ。

オーダーメイド・システム最初のカタログ。

プロジェクト・シリーズ

問題のEG写真(この他にも成毛氏が渡している写真もある)

良く見るとBR202となっている1977年カタログ。

3回もデザインが変わったGOBU750  どちらも同じモデルとは言い難い。

ヘッドデザインは広田氏 GOU1000

GOBU950 ボディエンドの形状が試作と違う

プロジェクトシリーズ

業界から出されたコピー自粛の広告。

1975年3月初来日で初MRを手にするミック。
(奈良氏提供)

GR広告。1978ミュージック・トレード誌より。

GB10 GB20最初の広告

PS10広告

ガラクタギター博物館
THE JUNK GUITAR MUSEUM MATSUMOTO
Library
Museum
Matsumoto
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BBS
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GUITARS
松本

1972年 平田工場

MR600とMXは全長が短く、ブリッジも下になる。

1972年平田工場 塗装部門

名器DRYなどが自社開発された。 名前と仕様の入れ違いがあったとは(笑)

Ibanez2700 GOVは殆ど同じシェイプ

IC1100 (PS-10) 

ELKのカタログ。SGモデルをOEM生産

カーター大統領に渡された時の写真(横内家蔵)

MRの愛称を一般公募した広告。(ML誌)

ピックアップがフューチャーされた表紙。