フジゲン創成期(エレキギター生産の始まり)

1959年 夏、農家を営んでいた横内祐一郎氏のもとへ、松本中学時代の親友から一通の電報が届き

翌日、送り主である中学校時代の親友の渡辺氏とともに、三村豊氏が訪れた。(渡辺氏は毛布販売の大阪屋商事で、三村氏はそこの社長であった。)
用件は、三村氏が買収する木曾鈴木バイオリン社の関連会社を買収することになり、そこの支配人をやってほしいという申し入れだった。  教員を辞め、新時代の農業経営のリーダーとして頭角を現していた横内氏の手腕を見込んでのことだった。 二人の熱心な誘いに参画を決めたものの、12月に銀行から破談の申し入れがあり、当の三村氏はやる気をなくしてしまった。 しかし横内氏の企業経営への情熱は消えることがなく、「楽器作りは木曽でなくても、松本でだってやれる」と説き伏せ、場所と人材探しが始まる。
 市内のどこを飛び回っても高すぎたりボロ家だったり・・いい場所が見つからない。結局、30坪ある自宅の牛小屋を改装工事して使うことに決めた。

当時から松本では鈴木メソッドというヴァイオリンによる才能教育があり、創立者の鈴木慎一氏の弟、士郎氏が旭町でヴァイオリンを製作していたことを聞きつけ、交渉の末、鈴木慎一の弟子である、ヴァイオリン職人の横山氏を工場長として招聘し、3月頃には、職人として上条氏、石黒氏、杉本さんが横山氏の指導のもとヴァイオリンの治具作りを始めた。

社名は、当初三村氏が横内家の屋号を使って「かたや楽器株式会社」でいこうと提案したが、横内氏はがんとしてそれを拒否。日本を代表する「富士山」からとって「富士弦楽器製造株式会社」とすることに決めた。資本金は100万円、出資比率73により、三村氏が社長、横内氏が専務となる。
196054日こうして富士弦楽器は取締役3名、従業員6名でスタートした。

三村氏は、「新しい事業を始めるなら、市場調査が必要」と説き、渡辺氏が毛布販売のかたわら全国で調査を始める。市場調査の結果は「ヴァイオリンの市場規模はきわめて小さく商売にならない。対してギターは潜在需要が多いが供給はきわめて少ない」との結論を得る。
この調査の結果をうけてヴァイオリンの製造計画は破棄され、諏訪の全音のクラシックギターを楽器店で2500円で購入し分解・研究するところから始めた。 8月頃にはさらに25人の従業員が入社した。

 

そして神田商会、カマノ楽器を相手にクラシックギターの製造を始める。ヴァイオリンと木工の専門家によって造られたギターは、高度な技術により、展覧会で一等になってしまうほどの出来ではあったが、三村氏の「ブリッジがここら辺の方が格好がいい」の一言でブリッジが下にずらされたギターは「フレット音痴」という楽器としては致命的な欠陥により全1000本返品の事態となってしまう。

牛小屋を改装した最初の富士弦楽器

存続か廃業か・・岐路に立たされた横内氏は、音程についての教えを乞うために、まずは同じ筑摩にある松本工業高校を訪ね、紹介を受けた東京工大の教授から音階理論を学ぶ。努力の末に理論をマスターし、そして翌1961年、富士弦楽器のクラシックギターは、着実に楽器業界での地位を築いていった。
また文献によると、1961年頃に全音ギターが製造の技術指導をしたとも言われている。



1961年、軌道に乗っていたクラシックギターの生産であったが、ある日、東京の一流旅館から1本の電話が入る。「宿泊しているアメリカ人のギター・バイヤーが、ギター製造工場を探している。工場見学を受け入れて欲しい」というのだ。 翌日松本駅に降り立ったのがNY在住の楽器商ジョージだった。工場を熱心に見学した彼は「アメリカ向けギターの製造方法を教えてあげましょう。こちらの望みどおりの製品が出来上がればそっくり買い上げましょう」と申し出た。このときは彼の言うギターはクラッシックギターのことだった。それから3ヶ月間、彼は富士弦楽器が借り上げた井川城のアパートに滞在し品質向上のために技術指導をしました。つまりそれは彼の商売の発展のためでもありましたが、同時に富士弦楽器の発展、言い換えれば後の松本の電気ギター・・いや、日本のエレキギター発展の父であったのです。 そのことを知る人は現在ではほとんどいなくなってしまいました。

製品が見違えるように洗練されてきた頃、彼は「同業者に紹介して売りたい」と言い残し帰国。そしてジョージは一定量のクラシックギターの注文を出して一旦帰国する。
その中には彼のオリジナル・ブランドとして当時の富士弦楽器社長、三村氏が考案したブランド『Demian』が含まれていた。(因みにDemianとは、当時三村氏が読んだHERMANN HESSEの“DEMIAN”という小説の名前から引用されたとのこと。意外にも適当につけられたそうである。)因みにこのDemianギターであるが、アメリカにて複数のモデルが現存している。当事者の話から、最初はクラシックギター、後にエレキギターが作られるが、今ではそれらの詳細な記録は無く、どれだけのモデルが存在しているのかは今になっては不明ですが、当時を知る1965年入社の牛丸氏のお話だと、Demianはその年まで富士弦楽器で製造していた記憶があるそうです。

時に当時は、チャック・ベリーなどエレキを使ったダンス・ミュージック的なサウンドや、まだエルヴィス・プレスリー全盛の時代。 THE VENTUERS1959年デビュー)のブームがまだ到達する前(後の日本で一大ムーブメントを起こしたことは周知のとおり)。 ビートルズが誕生する以前のことだ。

創業間もない頃の富士弦楽器

創業時から1968年まで在籍した杉本さん(1969〜杉本木工)のお話によると、創業間もないころは、社長、専務の他は工場長、木工職人経験者が3名、松本工業高校の定時制の学生3名、そして杉本さんの10名でギター作りをしていたそうです。
社員はギター作りが初めての人ばかりで、治具作り、ギター材料を揃えることにも大変な苦労をしていた。合板がなく、無垢の楓、松をお湯で煮て石油コンロのプレス機で成型。 胴組まではなんとかなったが寸法が伸び天板と合わないため、三村社長が縄で縛ったら治るかもと言うので縛ってみたり、鉢巻(セル)はセルロイドを建具屋の毛引を使って1本1本作ったり。埋込み(インレイ)は横内専務が戦時中使ったうどん切りの機械で切ったらどうかと言うので、家から持ってきて切ったが、すぐ刃が切れなくなってしまった。セル貼りの接着剤が分からずとりあえずニカワで学生と板の間で胡坐をかいて二人で貼ったら、翌朝には全部剥がれて落ちていた。そして鍋林の方にセメダイン321を教えてもらって接着。それでも1日に3本が精一杯だったそうです。
ある日、神田商会の近藤社長から「あなた方の作っているギターはギターではありません。早く立派なギター作ってください」と励まされ涙したこともあったそうです。




1962年、製品に自信を持った富士弦楽器は、当時のクラシックギターの第一人者である“全音”に売り込みを図り、下請けとしてクラッシックギター製造の規模を拡大していった。5月には道を挟んだ向かいに新工場が完成。6月には工場長として丸山氏が入社する。 ほどなくジョージは再来日し、リバプールで人気が出て英国を席巻しつつあったビートルズを引き合いに出し「これからは電気ギターの時代。いいものが出来れば1000本注文する」と再び申し出る。そしてジョージの熱心な指導のもと、横内氏は、近くの松本工業高校の電気科の生駒先生、中沢先生の指導を受けながら電気ギターの仕組みを研究し、東京でピックアップの材料や、電気パーツを調達し、ついに試作品が完成した。 「音色はすばらしい。これならアメリカでも商品になる」とジョージのお墨付きをもらう。 彼は同時に富士弦楽器のボディ下請けを担当したマツモク工業も技術指導した。(当時の富士弦楽器では、乾燥設備が不十分で2000本のクラックによる不良品を出した経緯から、ソリッド・ギターのボディに関してはマツモクに下請けに出していたらしい)ジョージの注文していった電気ギター1000本は“RODEO”ブランドでした。おそらくここに電気ギター版“Demian”も含まれていたのは間違いないでしょう。

ほどなくして、ジョージの紹介でNYの楽器商“J&Bが現れ、ジョージと共に作った試作品の品質の高さを知った彼から、かなりの量の電気ギターの受注に成功した。こうして松本で初の“量産電気ギター・メーカー”が誕生したのである。

但し、当時アメリカではすでにGIBSONFENDERがレスポール、ストラトキャスターで地位を確立しており、日本製電気ギターの品質とは、特に電気回路面においては格段の差があった。ジョージのお墨付きの言葉は、商社が持つラインナップの中でローエンドにあたる価格帯の品質なら問題ない、といったレベルのもので、ハイエンドを形成するアメリカ製ギターとは比較できる音質のものでなかったと、後に富士弦楽器の電気回路技術者となる牛丸氏が語っている。 それは技術的なものというよりは、当時の日本で手配できるヴォリューム・ポット,、コンデンサー、抵抗などの電気部品やピックアップの材料であるフェライト・マグネット、コイルの材質がアメリカのものと比べ品質面で劣っていたのであった。

量産にあたり、社内にはまだ電気エンジニアがいなかったため、横内家に昔から出入りしていた、電気屋さんの(大工仕事も水道工事もなんでもこなす職人さんで、富士弦楽器立ち上げの際、牛小屋を改装した工場に蛍光灯を取り付けた)手塚氏がピックアップの製造に抜擢される。
面白い逸話があります。 ある日のこと、三村社長と横内専務に呼ばれた手塚氏。また蛍光灯かなにかの取り付け仕事で呼ばれたのだろうと思って行ってみると、そこにはバラバラに解体されたギブソン製で1P.U.のフルアコのギターがあったそうです。(バーマグネットだったことからおそらくES120TES150あたりだったと推測される) これがとても高いギターであることと、それらの仕組みを聞かれた手塚氏は、初めてみるものにも関わらず、磁石とコイル、ヴォリューム、アンプに至る音の増幅について説明ができました。 即働くことになったのは言うまでもありません。 1962年当時すでにギブソン、フェンダーのギターをバラして、ピックアップも細かく分解し、巻き数や磁石の質を調べ、どうやれば高音がもっと出るか、磁石のタイプや数量を変えてみたり、時には6本の各ポールピースにボビンをはめ、それぞれにワイヤリングしたものまで考案。 とにかく最初の頃はギブソンのピックアップを真似てギブソン風な音がしたが、後に磁石の組み合わせを変えたりして音質を追求したと手塚氏は語っています。 そして、まだまともな電子部品が入手できないことで、(当時のギターには音量を上げるために抵抗が付けられていたが、安定した品質のものがなくとても歩留まりが悪かった。)手塚氏は、洗濯機のモーターとベルト、治具の組み合わせた手作りの工作機械で、カーボンを焼き付けたセラミックを計測器を見ながら希望の抵抗値になるように削り、それをギター用の抵抗としていた。それの方が品質面・コスト面において遥かに効率的だったのです。

また信州大学工学部の人も来て音の解析をしていたそうです。まさにこの時期からすでに“富士弦楽器オリジナルの音”だったわけです。立派な研究開発がおこなわれていたことにも驚きます。また、横内氏はドイツのギター専門書を入手していて、信州大学の学生を使ってそれらを翻訳し、組合を通じてそれらを配布するなどしていたそうです。 金属部品は最初、梓橋近くの共立プレスで製造し、後に近くの筑摩小学校の東入口にあった“小松製作所”に部品を外注に出しました。それはクロームメッキのピックアップカバーのプレス品だったそうです。(後に新関製作所が製造を行う)ゴールドメッキの部分は、現在も小学校北にある“宮本工業所”でした。小松製作所とはその後も取引が続きましたが現在はその会社はもうありません。そうして出来あがったピックアップで、最初の電気ギターが完成したとのこと。それが先述するジョージや、J&Bのギター用だったと推測されます。 
因みに、ブリッジやテイルピースなどは、名古屋の会社から調達。糸巻きと元はセットで名古屋の日本製絃社から仕入れていたと横内氏は語る。尚、後にパーツ類は信越鋲螺からも納入が始まる。



余談ですが、手塚氏は、U電気という電気製品販売の店から独立して自営業。助手でU電気時代の後輩S氏(現、日伸音波の社長)は籍を置きながらのアルバイトで、当時二人で時々徹夜までしてコイルを巻いていたそうです。 最初期はなんと手巻きで、ほどなくしてワインダー(巻線機)を導入。それは62年から64年頃まで行っていたそうです。 また、抵抗やコンデンサーなどの部品も自作していたそうです。


Demianが終息し手塚氏は本業に集中するためピックアップ事業からは離れ、その時のノウハウを生かしS氏はピックアップ専業メーカーを起業したと推測される。(MAXONのピックアップをご存じの方もいるでしょう。創業まもない1966年には全音モラレス用にもピックアップを提供していた) その日伸音波と取引が始まるようになって、急速にピックアップの品質が向上したと言います。
それがU氏、神田商会のN氏、ひいては成毛滋氏と繋がって、第二期富士弦楽器の隆盛に繋がっていくことになります。 それはまた先の話です・・・。

このように1962年から本格的なエレキギター(当時は電気ギターと言っていた)生産を行うようになるのだが、そのきっかけになったと思われる人物“ジョージ”氏(ANTHONY GEORGE)についていくつかのエピソードを紹介します。

当時の日本は、今でこそ先進国の仲間入りを果たしているが、当時の先進国からみれば、安い賃金で製品を作ってくれる国の一つであったと思われる。特にエレキギターにおいては発展途上にすらなっていない国であった。 すでにアメリカではエレキギターのマーケットは確立されており、さらにビートルズのデビュー・大ヒットとかさなり1962年には巨大マーケットになろうとしていた。 それをすでに予見したアメリカのホールセーラー(問屋)のジョージ氏は、ギターを安く生産できる国を求めて世界地図上では一番外れの国、日本の富士弦楽器に目をつけて直接交渉をしてきたそうです。そして彼のクライアントである複数のブランドの契約を結ぶことになったのです。(ひとつはSt. Georgeであったという情報をいただいております。もうひとつはMARVELというブランフォがあったことも判明しました)その先見性には驚かされるものがあります。その時、すでにジョージ氏は老人であったといいます。

アンソニー・ジョージは1960年代、NY、ハリウッド、カリフォルニアなどに5つの楽器店をもっており、アルバニーにオフィスを構えていました。兄弟と息子で経営していたようで、親子共に優れたミュージシャンだったようです。
アルバニーはマンハッタンから200kmくらい北にあり、まだレンタカーが気安く借りられない時代だったため、横内親子は飛行機でオフィスまで行ったそうです。 そこで、ジョージから“George’s music store”と書かれたボールペンを沢山もらったとのこと。
横内(照)氏は、NY郊外の彼の事務所を親父と訪ねたことがあったと懐かしそうに語ってくれました。 時にそれは第二次エレキブームが終焉も近い1968年のことでした。

1962年頃の朝礼の様子

商社経由の輸出が順調に拡大し、次々に注文が入るようになると、大量の木材調達と乾燥が必要になってきた。 ところが注文を急かされるため、無理をして乾燥させたボディが塗装後に動き、パーツを組みつける段になって、割れていく音がするくらいの塗装クラックが次々と発生してしまった。 それら山のような不良品ギターは土蔵の前にまた積み上げられることになる。 改善を余儀なくされた横内氏は、南松本駅の南隣にある松本木工株式会社(後のマツモク工業)で知り合いの百瀬氏を訪ね、木材乾燥のノウハウを教わりに行く。当時、松本木工はシンガーミシンの子会社で。ミシンテーブルなどを製作しており、最新の設備による乾燥、加工の技術も持ち合わせていたのである。 塚田常務(後の社長)に木材乾燥を願い出た結果、ボディとネック、木材に関する全てを松本木工で引き受けてくれることとなった。(実際の所、マツモク1961年入社で、後の工場長、現フジゲン副社長のF氏のお話によると、当時シンガーミシンのミシンテーブルの下請け仕事がフィリピンに移行してしまい、早急に何か仕事を探さなければいけない状況にあったマツモクとしては、願ってもない仕事であったとのこと)それは1963年のことであった。供給は500本、1000本、2000本と倍々に増えていったが、注文は日毎に増え、さらなる増産を三村社長が要請したが、マツモクの早川重役から3000本以上は作るなとたしなめられたそうだ。

当時のギターはJ1, J2, EB−1, VN2, VN4などがメインだった。工場出荷価格は1ピックアップのモデルで10ドル(3600円)、2ピックアップのモデルで14ドル(5000円)、最高グレードのもので16ドルくらいであった。
後に40数社のバイヤーと取引をし、それら全てにそれぞれのバイヤーズ・ブランドがつけられた。



1962年〜1963年 ジョージの2度目の帰国後、富士弦楽器独自に国内マーケットの調査を開始し、当時の電気ギターの第一人者「東京テスコ」にコンタクトを取る。その結果、下請けとしてテスコのOEM製品EB1製造が始まる。

1965年終わり頃、神田商会の近藤専務がカール・ヘフナーのヴァイオリンベースを持って来社し、同型のデッドコピー製作がはじまる。また、ジョージの紹介でNYのGOYAから彼らの第二ブランドであるGrecoの注文が入ったが、手違いから数百本と言う大量のキャンセルが発生し、国内のエレキギター市場が活況になりはじめ品不足になっていた背景から、神田商会に在庫分を全数引き取ってもらうことになる。しかしすぐ追加注文が入る状況で、富士弦楽器が国内に商標登録したことが日本有数のブランド“GRECO”の始まりとなる。ここに第一期 富士弦楽器の快進撃が始まったのであった。(これについては後述) 

1963年 松本城にて 右が三村社長 左が横内専務(当時)

ここで、テスコ(Teisco)について少し触れてみます。以前から松本テスコ(テスコ弦楽器)なる存在は耳にしていましたが、どこにあったのか不明でした。 横内会長の記憶では南豊科駅から西に500m程度入ったところにテスコはあったそうです。 1962年、ジョージ氏が1000本の注文をして帰国した後、富士弦楽器では独自の国内マーケット調査を開始しました。 当時、エレキの第一人者であったテスコとコンタクトをとったところ試作を依頼され(エレキベースとエレキギターだったそうです。)そこからテスコの下請けとしての取引が始まった。ある日、納めた製品のネックの乾燥不足によるフレット飛び出しのクレームで、テスコ本社に当時の工場長である丸山氏が出向きましたが、あろうことか、松田童龍社長と意気投合した丸山氏は「それならこの手直しは富士弦楽器ではなく私がやる」と、先方に勝手に約束をして、おそらくテスコ本社の出資まで受けた彼は、富士弦楽器から何名かの技術者を引き抜いて南豊科にテスコ弦楽器を設立してしまいました。(ここが後のハニーになると思われる) 横内氏はすぐに怒鳴りこんだと、ご本人からお話いただきました

1969年に倒産したハニー株式会社の名称について、面白い逸話があります。
横内氏がおっしゃるには、「ハニーは俺が考えたブランド名だった記憶がある」と。
三村社長が読んだ小説のヒロインの名前がDemianだったことは先に述べましたが、その時いくつもの候補が出て、横内氏が考えたのがHoneyだったというのです。
豊科のテスコはその当時、富士弦楽器から移った人間が主体だったこともあり、推測ですが、ハニーという名前がそのうちの誰かの記憶に残っていた可能性もゼロではないかもしれません・・・。

KAZY Firstman氏の文献によると、テスコ崩壊後、テスコ弦楽器にあったの半製品をFirstmanHoney2つのブランドで販売・競合していた時期があったとのこと。結局Honeyは二年で消滅)



同時期、横内氏は楽器の輸出商社である南洋貿易にコンタクトをとり、そこに試作品を持って行ったところ、河合の電気ギターを見せられ「これと同じものを作って」という話になったそうです。(ブランドはTele-Star。)Teiscoも同様にメーカー間の取引ではなく、商社主導で国内の別メーカーのOEM生産が富士弦楽器でおこなわれたことが分かります。今なら随分荒っぽい話ですが、当時の商モラルでは別段マナー違反ではありませんでした。その仕事を受けることで南洋貿易とはかなりの商取引が始まったそうです。輸出先はNYのジンマーマンでした。(Gar-Zim Musical Instrument Corporation. Larry Zimmerman氏。ブランドはZim-Garとの情報をいただきました) それは、恩義のあるジョージよりもかなり規模が大きな商売敵でもありました。モラル欠如の極まり、といった話ですが、野心に満ちた面白い時代でもありました。

1964年 利益の高い直接貿易のパートナーを求めるべく横内氏が単身渡米。英語が一切話せなかったところからのサクセストーリーは有名なところです。

河合楽器との関係: 河合楽器もまた南洋貿易などの商社を通じてアメリカ向けのギターを輸出していたメーカーの一つだった。 相手先の一つにNYのブロードウェイに設立されたTele-Star Trading Corporationがあった。ブランドはTele-Star。 (主に河合製品を扱っていたようだ)その当時、南洋貿易の仕事を請け負っていた富士弦楽器は、南洋貿易よりTele-Starの製造を依頼されて作っていた時期があった。それは横内家の蔵から数枚のロゴ・プレートが見つかったことから分かった。河合楽器から依頼があったわけではなく、商社からの依頼で受けた仕事だったようだ。  因みに富士弦楽器もNY5th Avenueに駐在所があり、河合楽器とは商売敵であり、また同士でもあった。 1964年オハイオ州クリーブランドのホールセーラーで、横内氏は河合楽器の担当者(佐藤氏?)とバッタリ会ってしまうが、ライバルではあったが、遠く離れた地で同じ仕事を生業としている日本人と会ったことで、どこか仲間意識もあったようです。 またその後もNYで会った河合楽器の専務とは仲良くなり、仕事は関係なく良い関係を築き、自宅にもよく来ていたそうです。

そしてLAでジョージと再会。その後NYに半年間滞在し、NYの商社、ソーキンミュージック、B&J、USミュージック、GOYA、アイデアル、AA、マンハッタンノベルティーから大量の注文を取り付ける。
おりしも、ビートルズアメリカ初上陸の年で、強烈な追い風を受けてのものであったが、そのタイミングで渡米したことは運命としか言いようがない。


1964年ミュージックトレード11月の広告。Demianとしての富士弦楽器初めてのアメリカ向け広告。

24歳で横内専務にスカウトされ1964年から1967年までの3年間、富士弦楽器の研究開発室に在籍した牛山氏(セコニックの露出計製造工場の八陽工学工業でドイツ製カメラの研究や映写機、露出計関連の仕事に従事していた)の話では、手塚氏は牛山氏の指示で、抵抗やコンデンサーなどの部品を自作していたそうです。つまり汎用品ではなく富士弦楽器特注品でした。 それ以外のボリューム・ポット、スライドSW、ジャックなどの電子部品は、牛山氏が部品商社の小森電機に発注していました。 また、牛山氏がフジゲンで初めてギターの設計図を描いたそうです。 それまではちゃんとした設計図面がありませんでした。 特に覚えているのは横内専務が用意したフレットの音階理論を図面化したことだそうです。
そのあとに同じ松高卒、八陽工学の後輩で図面を製作する仕事をしていた牛丸氏が牛山氏の熱心な誘いで19659月に入社。(当時20歳)当時の富士弦楽器では、ギターを設計できる人材が不足しており、牛丸氏がまさに適任だったのです。二人は、八陽工学時代に運動部を通じて知り合ったとのこと。
牛丸氏は国体選手に選ばれるほどの俊足の持ち主でもありました。

 入社当時の研究開発室は、ギブソン、フェンダーを分解して研究するのが主な仕事でGibson, Fender, Goya, Kayなどが分解されていたそう。 後に中古と思われる黒のGibson Les Paul Custom3ピックアップで白のSG Custom、L−5などが分解・解析用にあったそうです。(しかし、これらのギターは後に不運な運命を辿ります・・。

当時、試作品を作るためにホールセーラーの社長と(通訳は三村社長の縁戚の三村女史)、素人の横内専務がデザインを描いて、それを牛山氏、牛丸氏が図面におこして試作していました
また、当時の試作品はすべて地元の写真家の塩ノ崎氏により写真に撮られていましたが、残念ながら火事により全てのギター・ベースのネガを焼失してしまったらしい。 しかし、牛山氏撮影の3冊の6×6のネガが約半世紀ぶりに見つかりました。

1960年代中期〜後期と思われるプロトタイプ(牛山氏贈)




ほどなくして牛山氏は後に小森電機に移籍し(フジゲンの他、マツモク、中信楽器などに部品を卸した)牛丸氏が研究開発室を引き継ぎ、数多くの名品を生み出していきます。

このような人脈で、今日の会社がある・・・と横内会長は語ります。


新しもの好きの三村社長は、ギター以外にも商売の可能性があるものには積極的だった。
あまり語られていないが、当時横内氏が渡米した際、アメリカで購入した卓上計算機もそのひとつ。
初めて見るその機械に大いに興味が湧いた三村社長は、横内氏に、すぐこれとおなじものを作るよう指示した。 他社の部長だった高嶋氏をスカウトするために、横内氏が提示した給料の倍の金額+役員として引き抜くよう三村氏は言った。 しかし、当時の電子部品の性能は先述のとおりで、当時の技術では完成させることが出来ずに終わってしまった。



1965年には、国内でもエレキブームが最高潮の時期を迎える。楽器商社の他、家電メーカー、レコード会社など、いろいろな業種からのエレキギター参入が相次いだ。 それらは参入とはいっても、自社で製造に乗り出すわけではなく既存のギター・メーカーに製造を委託して作られたものが殆どだった。
三村社長はこの熱狂的なエレキブームには冷静で、あくまでも富士弦楽器の生きる道は海外市場にあるとの信念を持っていた。ただ、ギター以外にもドラムも製造していた時期があり、ブランドはDemianだったと牛丸氏が語ってくれました。

1965年 三才工場 出荷待ちのギター。

牛丸氏はまた、当時のことをこのようにも語ってくれました。ギターのこともわからない入社2週間で、まず三村社長の命により、ネックの下請けだった林木工にネックの作り方を覚えてくるように言われる。しかしそれは林木工が別のメーカーの下請けを受けだしたことに憤慨した三村氏による引き上げ工作でした。いきなり過酷な仕事を背負わされた牛丸氏は毎晩遅くまでかかって製造方法をを覚え、みかねた横内氏が自分のブルーバードで自宅まで送ってくれたそうです。
またこんなこともありました。 まだ入社1カ月にも満たなかった牛丸氏に、三村社長が今度は額縁製造から富士弦楽器の下請けになっていた井口木工の仕事引き上げを命ぜられる。(業務の内製化によるもの)マツモクから業務を引き揚げた際のネック製作先でもあり、当時設備投資中だった井口木工の社長からは相当恨まれ、会社の前で首を吊ってやる・・とまで言われたそう。


三村社長はかなり自己中心的な性格で、従業員に大声を張り上げることは日常茶飯事。インク瓶を投げて一面インクだらけになったこともあった。それに耐えられずに辞めていく従業員もいた。時には取引業者にも酷い仕打ちをしたこともあった。 しかしそれらは横内氏の人柄でカバーされていた。
それでも横内氏は、「今の私があるのは三村さんのおかげです。大変だったけれど、鍛えてくれてとても感謝している。今でも毎年お墓参りを欠かしません」と言います。
戦後をしたたかに生き抜いてきた当時の経営者には、三村社長のような一癖も二癖もある人が多かったようです。

当時の富士弦楽器の三才工場の製造部門は大きく3つに分かれており、木取り・塗装、ネック・本体、組立て。そして研究室。
組立には上條欽用工場長(後の社長)、サンダーは小原氏、塗装は山崎氏と滝沢氏。
ドラム部門には大家氏。  研究室には高嶋氏が遅れて入社した。
経理には 望月氏、貿易部には三村さん、小沢さん。 事務に成合さん。
杉原氏同じ松高出身で後にローランドに移籍した杉原氏、 堀内氏などがいた。(牛山氏記憶)



1960年代年当時の輸出相手先ブランドは現在も継続調査中ですが、牛丸氏から6465年頃は以下のブランドを製造していたとの証言をいただきました。少なくとも40数社との取引があった。

Demian(すでに終息寸前)、Goya、Greco、KAY、カナダのGreat West、そしてUSダビドフ(ダビデが語源)とは、かなり大きな商いがあったようで、相当な数の注文をこなしていたにだそう。また当時、美人の通訳を連れてきたダビドフの社長から「これからはソリッド・エレキを主にやっていった方がいい」とのアドバイスをもらったそうです。


ダビドフ夫妻(1964年)


(追記)調査の結果。富士弦楽器で当時作っていたブランド、バイヤーが判明しました。引き続き調査します。
(ブランド)Dominoは確実。 CREST WOOD, Ideal, MARQUIS,

(バイヤー)FK MUSICバリアント, マンハッタン, ユーエス, リプスキー, ソーキン, ジムガー ,K&K
セントルイス・ミュージック, ウェクスラー・ミュージック, ワイス ミュージック, パシフィック・ミュージック
B&J, eastan music, goya guitar, hershiman music, Kleinman ben, K&K musical, maurio lipsky,  us musical, ger-zim, sorkin music, ideal music, world wide music, united guitar corp, long island music co., Levines Department Stores, Efkay Musical Instruments Ltd, EFKAY MUSICAL INSTRUMENTS LTD., Ideal Instrument Co. Inc., Veneman Music Co.








(1960年代のギター・メーカー・ブランドについて)

第一次エレギブームに便乗して、数多くのメーカーから多くのブランドが生まれた。 実際には家電会社、楽器商社、販売店などが、既存のメーカーに自社ブランドを作らせている場合が多かったのも事実。名前は違っても、作っている工場は同じだったりするわけです。 さらに輸出用まで含めると凄い数になりそう。
全て把握はできませんが、とりあえず1960年代に絞ると、いわゆるビザール・ギターの時代のメーカーと工場、ブランドは資料その他から拾い出してみると以下のとおり。

富士弦楽器:松本市(St. George, Demian, Greco, Teisco,Domino, Tele-star, Ideal他輸出ブランド多数)
マツモク工業:松本市(Victor、Colombia, Minister, Apolo 富士弦楽器下請け品)
ハニー:豊科(HONEY)元テスコ弦楽器
テスコ弦楽器:豊科(KENT, Burns, Firstman, Libety, CROWN, Minister
モリダイラ楽器:松本(モール)
林木工所:松本(Flash
新興楽器:辰野町(Pleasant)
日進工業:諏訪(レイク)
全音ギター製作所:諏訪(ZEN-ON, MORALES, VICTORIA
Firstman(Firstman, Mosrite) 豊科テスコ弦楽器 大町の黒雲製作所に製造委託
木曾鈴木バイオリン社:木曽(Barcray)
日本コロムビア(Colombia)マツモクにて製造委託
日本ビクター(VICTOR, NIVICO)マツモクにて製造委託
東芝(Tomy)
トンボ楽器(ノーマ)
日本音波:三田(Idol
星野楽器販売(Ibanez,TAMA,)50年代はGuyatone70年より富士弦楽器に製造委託 
東海楽器:浜松市(Hummingbird
春日楽器:愛知県
原楽器店:東京(Burns
宮地商事:名古屋(Libety
名東電気:名古屋
坂井木工:名古屋
富士音響電気:名古屋
マルハ楽器:九州(モニカ)
プリマ楽器:東京(モニカ)マルハに製造委託

新興楽器は、当時辰野にあった会社で、「社長の矢島さんとはとても気が合って、当時から富士弦楽器にはよく遊びにきていた」と横内会長は語っています。 ご自宅には矢島社長直筆の書と額が今でも飾られているそうです。当時はシンコーのオルガンもあったそうです。




三村社長の考えにより、今まで取引のあった貿易会社とは手を切り、海外の楽器専門商社との直接貿易に乗り出すことになる。 “一国一社”のエージェント確立に向けて、横内氏は世界中を飛び回り、45社の直接取引先と契約を結んだ。 そして、海外に駐在員を置いて取引の強化を図った。

1966年 マツモクでも、富士弦楽器以外の仕事もするようになっており、ビクター、コロムビア、その他を生産、また輸出もするようになっていた。 そうなると、徐々に下請けの仕事を制限し始め、納品が月5000本から4000本、さらに3000本と減らされてきた。前工程をマツモクに依存していた富士弦楽器にとって、エレキ・ブームの注文残を大量に抱えているが納品が出来ない状態が続いた。必要に駆られ、乾燥から加工まで全工程を自社で生産可能な新工場の建設を始め、19677月、平田に新しい工場が完成した。
これでマツモクに頼らなくとも十分な加工クオリティと生産能力を得たのであった。

因みに、マツモクとの取引は終わったが、お互いに近い土地柄でもあり、その後も生産委託の関係は続いていたのは周知の事実。(70年代 グレコのSEなどのデタッチャブル・タイプのプレートにMATSUMOKUの刻印があるものをご存じの方も多いでしょう)

1966年〜1967年 第一次エレキブームの終焉で徐々に国内エレキブームの冷え込みも厳しくなった。
富士弦楽器も、電子音楽部門を設置し、電子オルガン、リズムボックス、ファズなどにも活路を見出そうとする。
しかし、リズムボックスやファズなどは、当時の電子部品の品質の悪さもあって三才の工場で50台ほどの試作品を作ったままお蔵入りになったと元
信大工学部出身で、泉精器製作所の開発からフジゲンに移籍した当時の技術部長Tさんが証言しています。 尚、それら金属プレス部品は小松製作所、宮本工業所などによって製作されたとのこと。

1967年入社の高山氏は当時のことをこのように語ります。

「私は、入社してまもなく研究開発室に入りました。三才工場にて、ディストーション/ファズ/リズムBOX等のコピーの設計また製品製作を行っていました。中でも未だに忘れない事は、リズムBOXを輸出した際、リズムが合わないとのクレームが発生し、全て返品になった記憶が有ります。その時知った事は、輸出は船の為赤道を通過する際、船倉の中は70℃程度温度が上がる様です。リズムBOXのリズムを刻むパーツにダイオードを使用するわけですが、安いパーツ(当時の品質はこの程度だったかも知れません)を使用した為高温度により破壊された為と分かり、以降発泡スチロールとベニヤで簡易エージング室を作り24時間エージングして良品のみ出荷しましたが、その時既に遅し受注は有りませんでした。」

高山氏が、入社して最初の仕事は、三才工場にてギターのボディ(フルアコやセミアコのトップ、サイドの曲げ・合板接着)の接着時間確認用のタイマー製作だった。 その接着工程は、湿気の多い季節には接着剤が強烈に臭って大変だったそうだ。
次の仕事はネック曲がりクレームの原因調査及び試験。それを持ち前の几帳面さで、レポートを製作し提出。その緻密な考察と仕事ぶりに厚い信頼を得たそうだ。そしてリズムボックス、ファズの開発。以降、製造技術の分野の基礎を作り、数々の名器の数々の開発に携わることになる。

 高山氏の生産技術としての功績を少し紹介すると、“フレット溝の改善”がある。それまでは同じ幅でフレットの溝を切っていたが(当時は現在のように全てを一度に切ることはできず、手作業で1本1本切っていたらしい)音階に合わせて1フレットから最終フレットに近くなるほど溝の間隔が狭くなる。そこにフレットを押し込むことによって木部が広げられることになり、最終フレット側にいくほど応力が強くかかるため、エボニーなどの硬い素材では均一でない歪な反りが発生していた。それを最終フレット側の溝をμ単位(0.62など)で微妙に広げて応力を減少させることを考案しネックの反りを克服したそうだ。
もう一つは、エボニーなど硬い材質の指板のやせによるフレット飛び出しを防ぐために、指板のタテ方向に2本の溝を切ることを考案。 これにより指板全体が収縮する力を内部の溝に逃がすことでフレット飛び出しが改善され、その技術は現在でも引き継がれている。


とにかくメインのギターも含めてのコストダウンが急務になっていた。 合理化を進め、ベルトコンベアー導入により1本あたりのコストを下げることができた。 得意の海外向け輸出を増やすため、富士弦楽器はアメリカ東海岸をマーケットとするNY駐在所をマンハッタンの5番街に開設した(駐在員は桑田氏)。西海岸をマーケットにLA駐在所も開設した(駐在員は小林氏)

松本の木工産業も試練の時期だったのかもしれない。 現在の松本市 渚にある渚ライフサイト一帯はその昔マルシメという大きな製糸工場がありました。(木工以前にも、長野県は大きな製糸工場がたくさんあり、祖母、叔母の何人もが女工として働いていました)製糸業が衰退していく中で、マルシメは当時盛んだった木工産業に乗り出し、同じ敷地内に信州木工を創業。松本木工同様にミシンテーブルなどの製造を行っておりました。 しかしそれも衰退していくことになります。 そこから富士弦楽器へ移籍した職人さんが何人もおりました。(私の母方の叔父も若いころ信州木工におりました) 木工の専門家である倉橋氏、T氏、元々マルシメの経営者の一族であった加藤氏もその一人です。加藤氏は木工仕入の責任者として、世界中を飛び回って良い木材を集め、ギターの基本である木材の分野で当時のフジゲンを下から支える立役者でありました。 T氏は人懐っこい性格で、皆から愛される人だったそうです。横内氏からも可愛がられておりました。 倉橋氏は、木工組立の長となりました。ドイツのマイスター制度のような徒弟制度の名残がまだあった時代です。 当時の富士弦楽器は、おおよそ木工関係は倉橋氏を長とする信州木工組、塗装は山崎氏を長とする塚田製作所組、電子回路関係は社外の手塚氏、社内の牛山氏、牛丸氏が担っていました。(その後の主要関係者は後述)

1968年 いよいよ国内向けグレコの販売が本格化する。
最初のカタログである『Greco & Arai Diamond electric guitars』の表紙を飾ったのは、“グレコ印ソリアコ型電気ギター” KF190(定価\19,000)であった。 誰が考えたのかソリッド・アコースティックというイカしたネーミングのテレキャスター(と言うには微妙な)タイプのギターだった。 おそらくは現物を入手せず写真か何かでそのまま設計してしまったのだろう。ヘッドは3:3で、おそらくリッケンバッカー・タイプのをそのまま流用したデザインだった(フェンダーのテレキャスター・プロトタイプは偶然3:3だが知っていたとは思えず)。 ES335コピーと思しきEG135も同様セミアコ風なフルアコでした。 リッケンバッカーコピーのER180もかなりのコピー度でしたが神田商会の近藤専務が持ち込んでいたカール・ヘフナーのヴァイオリンベースのコピー、VB200VB300は、どのメーカーよりも先んじていたこと、完成度も群を抜いており、富士弦楽器最大のヒット商品となるのである。  

グループ・サウンズ・ブームなどがあったものの業界不況は収まらず、ついには日本のエレキ産業の先駆けのメーカーの一つだったグヤトーンが倒産する。 もちろん富士弦楽器もさらなる自動化によるコストダウンに迫られたが、資金繰りの目途がたたず思うように設備投資ができない。 三村社長は、ジュークボックス、ラック、イス、ベッドの製造に乗り出したが慣れない業種故、失敗の連続でさらに損失を出してしまった。 三村氏は1969年に単身渡米し穴を埋めようと試みたが、ギター不況は同じだった。何の成果もあられないまま帰国した。

時に1969年は、ベトナム戦争に端を発する反戦運動や、学生運動など盛り上がりの中、エレキギターと入れ替わるようにフォークギターが流行しはじめた。 さっそくフォークギターの製造に力を入れるも、エレキギターのメーカーとして名を馳せていたために、思うような取引に繋がらない。商社を尋ねても直接貿易をしてきた富士弦楽器は門前払いの日々だった。 そして急速に資金繰りが悪化すると三村社長は覇気を無くし、ついには仕事を放棄してしまうようになる。

資金繰りに奔走していた横内氏は、懇意であった新興楽器の矢島社長を通じて諏訪の三協精機、精工舎との合併を模索。秘密裏のうちに話を進めていたが、先方もあまり乗り気ではなかったことと、他の役員の大反対を受けて中止さざるをえなくなった。しかし、もしこの時合併吸収されていたら今のフジゲンはなかったのである。

196912月 横内氏は正式に社長就任。 横内氏は、自宅周辺に持っていた土地を売却し、三村氏から三村氏所有の株式を数千万円で買い取りオーナーとなった。(後に三村氏は、その資金でアメリカに移住。 日本からギターなどを輸入して販売するYutaka Tradingを設立した。 それらギターをアメリカで検品する仕事に、後にフジゲン開発部(現Sugi Guitars代表)の杉本氏、そのままアメリカに残り1976Performance Guitarを設立した須貝氏がアルバイトとして仕事をしていたそうである。

横内氏が社長に就任すると、横内氏の人柄もあり、今まで融資を断られた銀行からも融資がおりることになった。 激しい性格の三村氏と合わずに辞めていった職人も戻ってきた。 しかし、赤字を解消する道のりは容易なものではなかった。 

横内氏は、さっそく赤字解消の計画を立てるが、1年で赤字解消という計画は社員の負担が大きく、同調する社員はおらず早速暗礁に乗り上げた。 悩んだ横内氏は、自らが社員に好かれ、尊敬される人間“世界一の社長になろう”と決意し本を読み漁った。 そして、一冊の本から“社長の会社”ではなく“自分たちの会社”作りが必要だったことに気づく。 またその時、社員達も真夜中までかけ改善に向けた計画書を作っていたのだった。 “自分たちの会社を作る”という思いが一つになった瞬間だった。





(松本市の発展と富士弦楽器の役割)

今でこそ、楽都・松本市と宣言をするようになりましたが、戦前戦後の松本市は何も文化的なものはなかったそうです。 その当時、松本市の有力者である、中劇の藤本氏(後に数々の映画監督を輩出させる)老舗喫茶“まるも”の新田氏、ノセメガネの能勢氏、飲食店“蔵”の渡辺氏の「松本にもっと誇れる文化的なものを」という4人の志が現在の松本市の文化発展の礎になっています。
戦中の疎開で木曾にできた木曾鈴木バイオリン社。 彼らはそこの工場長であった
鈴木慎一氏のパトロンになって当時廃止令の出た下横田町の遊廓の空き家に住まわせて、彼が市民にヴァイオリンを教えることから鈴木メソッドが始まったようです。 (まだ農業をしていた頃の横内祐一郎氏は、そこにヴァイオリンを持って通う子供たちを見て「ウチの子にも習わせたいなあ」と思ったことがヴァイオリン製造の富士弦楽器を立ち上げるきっかけとなりました)

富士弦楽器がアメリカ輸出を始めるようになった理由として、国内の楽器商社の支払いが悪く、長期の手形、(共和商会などは半年で、それでは困ると言うと二階で割り引いて支払いだったそう)これではたまらない。 そこで海外を取引先にしたのです。 当時LC貿易といって船積みした時点で輸出信用状が発行され、即現金化が可能でした。しかし当時は貿易赤字の時代。 松本どころか日本でもメーカーが直接貿易しているところはまれで、SONYのトランジスタラジオくらいだったようです。(あのトヨタですら、初期コロナの輸出が性能の悪さで失敗。海に沈めたというエピソードも。)
そんな時代ですから、松本にも輸出信用状を現金化してくれる銀行はありませんでした。 八十二銀行に持っていっても、資本関係のある「東京の三菱銀行に聞いてみるのでしばらく待って下さい」と最初は対応できないくらいでした。 この地方で外貨を稼ぐ企業が出てきたことは珍しいことで、三井銀行がそれを目当てに市内に支店を作ったくらいです。 さらに今では考えられないことですが、そこへ日銀が直接の取引を申し出てきたのです。 それほど松本、いえ日本の経済にとっては重要なことだったことがわかります。 因みにこの時の支店長が後に日銀総裁となる(故)三重野康氏です。そのすぐ後、日本は高度経済成長の波に乗り貿易黒字に転換します。










(グレコの始まり)

1962年の輸出向けで南洋貿易のクライアントの一つに、ニューヨークのゴヤ・ギター(Goya Guitars, Inc.)があった。 ゴヤはスペインの画家からつけられたブランド名で、古くは1950年代からあった。 最初はHershman Musical Instrument. co. Inc.が製造していたようだが、いくつも変わっていった遍歴があるようだ。 (1954-1963 Hershman Musical Instrument. co. Inc./ 1963-1967 Goya Guitars, Inc./ 1967-1970 Avent, Inc./ など)富士弦楽器はゴヤ・ギター時代に、“Goya”の第二ブランドである“Greco”のギターのOEM生産を行っていたが、ヘッド形状の細さから折れてしまう輸送事故が発生。 最初は保険でカバーするも、すでに製品となってしまった500600本が不良在庫となってしまう。 それを三村社長が国内で売ってしまえと日本国内で商標登録をして、品不足だった神田商会に引き受けてもらった。それが好評で追加注文が入り、神田商会が宣伝を始めてしまった。
その数ヶ月後、横内氏はNYのゴヤの担当者から、「神田商会というところからグレコが出ている」と追及されることになる。 しかしその場で、使ってもいいが金をよこせと言われた横内氏は、ポケットマネーのたった100ドルで、日本国内のグレコのブランドを買い取ることができた(当時1ドル360円としても36000円と破格)。今にして思えば、口約束だけで何の契約書のとりかわしもしておらず、担当者のポケットにそのままはいってしまったのではないか?と横内会長は言います。
(この金額について:リットーから出ていたムックに記載されている1000ドルというのは間違いです。当時、500ドル以上の現金は外為法により持ち込めませんでしたし、横内氏のポケットにそれほどの大金は入っていなかったと当人が語られています。)

晴れて(?)正式にグレコ・ブランドのギターを製造できるようになった富士弦楽器は、しばらくの間、本家のグレコと日本向けグレコを並行して生産(おそらくモデルは違っていたと思われる)。現時点で確認できるのは1977年の“THE GRECO MANUAL“内にMRと一緒に写っているDemianと同型の赤いグレコ。他にどんなモデルがあったのか不明。 また、ゴヤとは何年まで取引があったのかも不明です。




ここまでの話  横内祐一郎氏 著『運を掴む』『グレコの仲間たち』に、ご子息の横内照治氏の回想をご厚意により追記してまとめたものです。 2012 / 3/26
(追記 2012 / 3/29)アメリカのフランク氏からもご協力いただきました。
(追記 2012 / 4/3)横内照治氏加筆。
(追記 2012 / 5/20)

 

2012年4月1日 横内会長、杉本さん、山崎氏
横内会長とDemianの再会。

1960年7月 長男と二男

これは大変な発見です。日本のギターの歴史
が紐解かれるでしょう・・・。

初期フジゲンの型や、部品などが50年ぶりに
表に出てきました。

ガラクタギター博物館
THE JUNK GUITAR MUSEUM MATSUMOTO

1966年当時の富士弦楽器 研究開発室
右が牛山氏、左が牛丸氏
松本工業高校卒業生コンビ。

2012年4月 最初の解体されたGibsonピックアップについて語る手塚氏。そして横内氏。

作りかけのボディとネック。これは上の写真で
横内氏が手に持っているEB-1と壁にかかっている一番左のギターと同じですね。

Demianと 杉本親子 山崎氏 横内氏

当時を懐かしそうに語る牛山氏。
とても几帳面で、優しい方でした。
富士弦楽器の研究開発の第一人者。

1960年代の貴重な帳簿類が発掘されました。

写真は2007年7月7日 横内会長宅にて。 会長と館長。

横内家に今も現存する1960年ヴァイオリンの型ここから富士弦楽器が始まった・・

1963年 横内社長とEB-1

1965年 後ろに見えるのは・・Teiscoなどの
コピーと思われる。

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入社当時のことを語る牛丸氏。静かだがフジゲンを初期から支えた素晴らしい技術者。
牛丸氏の手から生まれた名器は数知れず。
その功績は計り知れない。

高山氏もフジゲンを支えてきた生粋の技術者
頭の回転も早く非凡なアイデアマンだった。
すべてノートに記録し、多くの人がその几帳面な仕事ぶりに感嘆する。
あらゆる仕様決めに関わった。

2012年 3月 横内照治氏と館長。

2012.4.21 横内家の蔵を大捜索。
た、大量のホコリがあ〜〜〜〜っ!

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GUITARS
松本

1966年 横内社長 故 上條専務(当時)

1966年 平田の新工場 事務所

1966年 NYアルバーニーのGeorge's music storeにて ジョージと塗装職人の山崎氏。
山崎氏は塗装の神様との異名を持つ凄腕。