信徒研修会
 
「宣教」

2011年7月3日

 

宣教(伝道)の4つの目標

  1)全ての人が神を礼拝するため。  

  2)すべての人の救いのため。      

  3)宣教は悪魔との戦い。          

  4)宣教はキリストの再臨まで続く。

 

1) 全ての人が神を礼拝するため。

    神様が世界を創造し、人は神と共に生き、神をほめたたえること。世界中の      人々が神を礼拝する民となること。

2) すべての人の救いのため。

    人は罪によって神の裁きのもとにある。罪、病気、災害、死、永遠の裁き。

    あらゆる悩みと苦しみの中にある人々をすくうため。

3) 宣教は悪魔との戦いである。

    聖霊によらなければ悪魔との戦いに勝利することはできない。イエス様は

    すべてのキリスト者に聖霊を注がれた。

4) 宣教はキリストの再臨まで続く。

    キリストが再臨されるのは全世界に福音が述べ伝えられてからである。また

    キリストは福音をまだ聞いたことがない人々のために忍耐しておられ、再臨

    される時を待っておられる

 

教会の使命

 1) 福音の宣教・証し(ケリグマ)    

 2) キリストにある交わり(コイノニヤ)

 3) 奉仕(ディアコニア)             

            

1) 福音の宣教・証し(ケリグマ)

   日曜ごとに礼拝することによって、神の前に犯した罪を告白し、聖餐の恵みを受け

      一週間の重荷をキリストのもとに下ろすこと。神様の恵みを受けて、聖霊と共に

      家庭に、職場に遣わされていく。そこで、宣教・証しをする。一週間後にはまた、

      礼拝で恵を充電する。

2) キリストにある交わり(コイノニヤ)

   キリスト者は孤独ではない。キリストの体の一部である。身体全体がキリストの

      愛によってしっかりと結ばれている。一人一人はそれぞれ個性が違っています。

      しかし、一つの交わりです。キリストの教会を立てあげるためにお互いが必要と

      されているのです。恵を分かちあい、一緒に祈ることができます。(祈祷会・合心

      祈祷)また、家庭集会に集まることができます。

3) 奉仕(ディアコニア)

   家庭、社会、教会においての活動に参加する。神と人とに仕えること。キリストが

      その手本を見せてくださった。(ヨハネ13:14〜15)悩む人の隣人となり、

      病気の人を見舞い、高齢者を訪ね、悩みを抱えている人の話を聞く。教会活動に賜

      物を生かして参加する。(英会話教室、こども伝道、愛老会、聖歌隊、コンサー

   ト  、クリスマス・プログラム、伝道集会、家庭集会、モルック大会、会堂掃除、

   ボランティア活動、礼拝や教会のプログラムに未信者を誘う等。教会はキリストの

   弟子の集まりイエスの弟子たちは三年間キリストと共に生活し活動した。教えを 

   聞き、生活を学び、共に働き、遣わされた。キリストが天に挙げられてから宣教

   の使命を受け継いだ。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。

   そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果て

   に至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録 18節)

   海外宣教:ノルウェー?日本?インドネシア・香港

 

私たちが弟子として今できることは・・・

 

1 デボーションによって神との交わりをする。     

2 信徒の交わり。                  

3 証しする。                    

4 賜物を生かす。                  

5 礼拝に未信者を迎える雰囲気を作る。        

6 未信者を迎えるプログラムを用意する     。  

7 海外宣教を担う。宣教師の派遣、祈りと経済的な支援

 

 

2010.02.21 赦し赦される喜び

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。                        マタイ26章26〜28節

 

創世記37章からヤコブの11番目の子、ヨセフが兄弟たちの妬みから奴隷としてエジプトに売られ、さらに冤罪により投獄され、苦難に苦難の道をたどりましたが、後にエジプトの宰相となった物語が描かれています。ヨセフは理不尽な苦しみの中でも神に信頼し、境遇にめげず、神と主人とに仕える生活を続けていました。エジプト王が世界的飢饉を暗示する夢を見、その夢をヨセフが解き明かしたことから、ヨセフの知恵に満ちた才覚がエジプト王ファラオの目にとまり、飢饉からエジプトを救済するために宰相に任命されることになったのです。世界を襲った大飢饉は当時のヤコブ一族をも襲い、ヤコブの命令により、ヨセフの兄弟たちはエジプトへと食料の調達に出かけました。兄弟たちは、エジプトの宰相となっているヨセフに気がつきません。しかしヨセフは兄弟たちに気付き、彼らを赦すために一計を図ります。そして、その後に兄弟たちに自分の身を明かします。

この場面が創世記45章に書かれています。事実を知った兄弟たちはただ茫然として言葉も出ません。ヨセフは涙を流しながら兄たちに、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きていますか。」「どうかお兄さんたち、もっと近寄ってください。」「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」と語りかけています。赦しを宣言しているのです。

ヨセフを奴隷として売った当時、兄たちは罪を隠し続けられるとしらを切っていました。親に偽り続けることにも成功しました。しかし、神はすべてを見ておられたのです。隠された罪もいつかは判明するのです。その罪が万人の目に明らかとなる日が来るのです。

ヨセフはどうして兄弟を赦すことが出来たのでしょうか。すべての苦しみを主が知っておられると信じていました。そして、すぐに理解できなくても、神には計画があることを信じていましたので、すべてを任せることができたのです。人の悪さえも用いて計画を実現される神を信じ感謝することができたのです。この神のみ業を見た時に兄弟の悪を赦すことができたのです。一方ヨセフの兄たちは赦される恵みを経験しました。それは父なる神の愛の経験です。犯した悪を完全に忘れ、捨て去られる恵みです。

父なる神は、私たちが犯したすべての罪を裁くために、キリストを十字架につけて裁かれました。キリストの流された血によって私たちの罪が赦されたのです。教会では聖餐式において、パンと葡萄酒をいただきます。これは、キリストによる罪の赦しのしるしです。

 

2010.01.03 古きから新しきへ

 

心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

                                  エフェソ4章23〜24節

クリスマスを祝い、新しい年を迎えました。太陽の日差しも日ごとに強くなってくるのを感じます。神が天と地を創造された時、最初に造られたのが光です。そして、ご自身の性質について 神は光であり、神には闇が全くない’と言われています。神は私たちを光へと招いてくださるのです。光を求める生き方とはどのような生き方でしょうか。

エフェソ書の中では、あなたの古い生き方を捨てる事だと言われています。あなたの古い生き方はとは何でしょうか。きっと思い当たる事が次々と出てくるでしょう。その古い生き方に別れを告げ、新しい生き方を身につけるように勧められています。エフェソ4章17〜20節を読んでみましょう。

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」

これまでの古い生活を後ろにすてて、新しい人のイメージを持たなければなりません。その新しいイメージはキリストによって造られていくものです。神は創造者です。私たちを新しく造り上げてくださるのです。まず、イエス・キリストを救い主、わたしの新しい創造主と信じなければそれは始まりません。神が私たちを新しく造り上げてくださるのは、神の生ける言葉によるのです。続いてエフェソ4章21〜23節に勧められている次のことばを読んでみましょう

「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

新しい年を迎えて、古い人から、キリストにある新しい人へと変えていただきましょう。キリストに在って共に変えられていきましょう。教会の交わりがその助けとなっていきますように。

 

 

2009.10.18 神を第一にする

 

ある日、裕福な資産家の青年がイエスのところにやってきました。そして「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とたずねました。イエスの答えは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と十戒を守るように語られます。すると彼は「子供の時からそれらの律法はすべて守っています」と答えます。非常に立派な人だったようです。そこでイエスは言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」イエスはこの人に深く関心を寄せ、彼が永遠の命を得るように招かれたのです。しかし、彼は自分に自信を持っていたことと、財産への執着がありました。自分の力で永遠の命を得ようとしたのです。彼はがっかりし、悲しみながらイエスの前から去って行きました。

永遠の命は自分の力で得られるものではありません。イエスを信じる者が永遠の命を与えられるのです。財産を持っていることが罪なのではありませんが、財産はしばしば永遠の命を得るための妨げになってしまうのです。それは、人間は欲に目がくらんでしまい、財産が神に取って代わってしまうからです。そして、神が最も大切な戒めと言われた神を愛すること、隣人を愛すること、自分自身を愛することをないがしろにしてしまうからです。  

この人と対照的に金持ちのザアカイはイエスを自分の家に迎え入れたときに心が変えられました。その結果、自分の財産を貧しい人々に分け与えたのです。永遠の命であるイエスを受け入れた時に、ザアカイの価値観、生活が変えられたのです。イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」と言われました。

資産家の青年は財産が大事だったようです。そのために永遠の命よりも現世の富という価値を求めました。財産は人の心を虜にするのです。

  イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」この言葉を聞いて弟子たちは驚きました。しかし、イエスは人間には出来ないが、神には何でも出来ないことはないからだと言い、救いは全く神の恵みの業であることを教えられたのです。

 

 

 

2009.10.04 神の国を求めて生きる

 

モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」  民数記11章29節

 

イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から、約束のカナンへと主に導かれていく中で、神の救いを受けながら、感謝よりも文句ばかり言っていました。これに対して神は怒られ、主の火が民を焼き尽くそうとしました。モーセは民のためにとりなしをしますが、民があまりにも度々不満を言い出したため、すっかり疲れ果ててしまいます。感謝と喜びがあれば、心も軽く疲れも癒されますが、不平と不満が満ちてくると、気力を失い、体まで弱ってしまいます。モーセはもう何もかも投げ出してしまいたいと言う気持ちになってしまったのです。

しかし、神はモーセの祈りを聞いて、モーセ一人が責任を負うのではなくて、民の中から70人のリーダーを集め、そのリーダー達に聖霊を授ける事を約束されました。神の国の働きのために、同労者を起こされたのです。そして70人の長老を選び、聖霊が注がれ、モーセと同じように預言を始めたのです。幕屋に集まっていなかった二人の長老が宿営に残っていましたが、彼らにも聖霊が注がれ預言を始めました。これを伝え知らされたヨシュアは、彼らは無許可で預言しているから「やめさせて下さい」とモーセに言い出しました。しかしモーセは、預言は神から自分にだけに与えられた特権ではない、神がご自身の権威において与えられるもので、イスラエルの民全体が預言者になるならこれほど素晴らしい事はないと答えます。モーセは自分の名誉を考えたのではなく、神の働きに注目していたのです。私たちは、其々に自分に与えられた賜物を持って主に仕えるように召されているのです。 

ノルウェーでは信徒の伝道によってリバイバルが起こりました。1796年に信仰覚醒を受けたハンス・ニールセン・ハウゲは一人の農夫でしたが、クリスチャンとして生きる恵みと祝福を経験し、家族から始まって、次に自分の村の人々に証を始めました。そしてさらに信徒としてノルウェーの国中をほとんど徒歩で歩きながら説教をして行ったのです。そのために国の役人、牧師等から迫害を受けることになりました。当時のノルウェーでは牧師の許可なく説教することが禁止されていたからです。しかし、ハウゲの説教を聞くために多くの人々が集まり、悔い改め、生活に変化が起こっていきました。ハウゲは何度も投獄されましたが、み言葉を伝えることは神からの召しであることを確信していたのでやめることはありませんでした。彼の働きを通してノルウェー全体に新しく生まれたクリスチャンの集会が生まれ、信徒説教者が生まれていきました。そのような信徒の運動の中からNLMも生まれてきたのです。

  神はすべての人が聖霊を受け神の言葉を語ることを望んでおられるのです。神はあなたにも聖霊を注ぎ、神の御言葉を証しする力を与えて下さったのです。あなたも神の国の働きに召されているのです。

 

2009.08.30あなたを守る神の言葉

 今日のわたし達の世界は危機が迫っている時代であると言えるかも知れません。今年も各地で洪水の大きな被害が出ました。地球環境が危機に直面しています。経済成長、開発が強力に推し進められてきましたが、地球規模で危機が襲ってきているのです。新型インフルエンザも不気味に世界を脅かしています。また、家庭の人間関係が大きく崩れ、毎日のように家庭内の殺人や、親しい人間関係の中に悲惨な事件が繰り広げられ、あらゆる犯罪は津波のようにわたし達の世界を襲ってきています。

わたし達の住む自然界には法則があります。この法則を無視して開発を進めるととんでもないしっぺ返しがやってくるのです。自然界のルールを無視することは危険です。その原因はどこにあるのでしょうか。聖書は人が生きていく上での正しいルールをわたし達に教えています。

預言者モーセはエジプトで奴隷同様に扱われ民族存亡の危機に直面していたイスラエルの民を、神の導きに従ってエジプトから救い出しました。しかし救出される過程に於いてさえ、イスラエルの民は神の律法(十戒)に違反したため脱出の途中で多くの人が滅ぼされてしまいます。律法は私たちを守るために神が与えられたものですが、これを無視し神の言葉を退ける時に破滅が待っているのです。

イスラエルの民は神の律法を軽んじたために、民族的な滅亡の危機を何度も経験してきました。その結果後世の宗教指導者たちは、今度は律法を過剰に重視するようになり、モーセの律法にさらに多くの規定を設けていったため、世代を経るごとに細かい規定が積み重なって膨大なものとなっていたのです。それはイスラエルの民全体の上に重荷となってのしかかり、民を束縛するものとなってしまったのです。律法はその真意が大切です。 

では、今日私たちは何によって生きるべきでしょうか。私たちの世界を悪が支配しているように見えます。目に見えないサタンの力が働いていることは事実です。このような中にあって、悪の力に打ち勝つために強力な武装が私たちにも必要なのです。と言っても最新鋭の武器や、核弾頭を持つということではありません。パウロはエフェソ人への手紙をローマの獄中で書きました。そこで武装した兵士たちを見ました。兵士はしっかりと腰に帯を締め、胸当てをつけ、いつでも戦闘できるように、靴をはき、頑丈な盾を持ち、頭には立派な兜をかぶり、剣を腰に収めていたのです。悪魔との霊的な戦いを戦い抜くためには、神のくださる武器で武装しなければなりません。

「 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:14-18)

悪魔は人間が苦しむことを喜びとしています。罪によって、病によって、あらゆる問題によって人々を苦しめるのです。しかし、主イエスは私たちを罪から、サタンの力から開放するために来てくださいました。そのキリストの言葉、それは私たちを滅びから守る神の武具です。神の言葉が私たちを癒し救うのです。神の言葉を聞き、信じるとき、このみ言葉があなたを守るのです。

 

2009.07.12 備えられている真の安息

 

主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃墟を築き直し あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の敗れを直す者」と呼び「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。 

イザヤ書 58章11節

 

神は創造の神であり、癒し主、イスラエルをエジプトから救い出し、バビロン捕囚から帰還させられた解放の神です。イザヤ53章においては私たちを罪から解放して下さる救い主のことが預言されています。イザヤ58章11〜12節において主がどんなに素晴らしい解放者、救い主であるかが述べられています。だからあなたに永遠に安息を与えてくださるのです。それで安息日、すなわち現代では日曜日に、主に感謝し主を喜び賛美するのです。また主と交わり主のみ言葉を聞くのです。聖霊は安息日に確かに会衆の中におられて祝福して下さるのです。神を礼拝しその言葉を聞く時に、神の言葉は聞く者の内に生きて働き、魂を潤し、癒し、回復し、骨に力を与えてくださるのです。ですから今も安息日を神との交わりの回復の日として守ることは大切なのです。

イスラエル民族が滅ぼされたのは、神を忘れ、礼拝を軽んじたからでした。今、日本の国家はどこかで大きく崩れてきているのではないでしょうか。私たちはイザヤの預言の言葉に耳を傾けなければなりません。神との関係が壊れる時、人と人との関係も壊れ、国民の倫理観が激しく失われてしまいます。その結果、国が衰退してしまう事を警告しているのです。ですから聖日を尊び、神を礼拝し、神との交わりを深めることは大切です。主に立ち返り、主をあなたの喜びとするなら、主はあなたを試練の中でも導き、聖霊があなたに内住して力を与えて下さるのです。主があなたとの交わりを回復して下さるのです。本当の安息の日が与えられるのです。主を礼拝するということは自分中心の生活から、神の御心を中心とする生き方へ変更することです。その結果、主の祝福を受けるのです。安息日は主を喜ぶ日です。私達はこのように神との交わりを新たにする日として聖日を過ごすように求めていきたいのです。それは日曜日だけに限ったものではなく、週日も神と共に生きる基盤となっていくのです。

 

 2009.07.05 聖なる神の住まいとし

 

使徒パウロはコリントのクリスチャンに対して、私たちは土の器で、その中に宝を納めていると語っています。私たちの心と体を壊れやすい土の器に譬えています。

しかし神のみ言葉に従って生きて行く時、古い肉の弱さをもった私が死に渡され、キリストの命が私たちに現われ始めるのです。私たちの古い人が死んで、新しい人が生きるなら、そこには神の栄光が現れるのです。私たちの毎日の生活はいつもこの戦いの連続です。古い肉の弱さを持った人がみ言葉を聞いて生きようとする時、古い人は苦しむのです。しかし古い人の生き方が死に渡される時、その人の内に神の力が働くのです。毎日の生活でこれが繰り返されることによって、内なる霊の人は日々新たにされて行くのです。

キリスト者Aさんがいました。彼は農業を営んでいました。隣にBさんが住んでいました。二人の間はうまくいっていませんでした。Aさんの田圃は棚田の上の方にあり、隣人の田圃はその下にありました。田植えの季節がやってきました。Aさんが田植えを終えて、田に水を張っていると、Bさんは夜、こっそりと畔を切って、田の水を下の自分の田に流し込むのです。Aさんは腹立たしくなり、また悩みました。文句を言いに行っても解決できる相手ではありません。Aさんは悩んでいる中で聖書を読みました。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:17〜21)

Aさんは神の語られることを行ってみることにしました。まず、Bさんの田圃に先に水を入れることにしたのです。「怒り」と言う自分の感情に対して死んだのです。するとその時、心に平安が訪れました。彼は喜んで行う力が与えられたのです。それから何日してBさんがやってきました。「私を赦して下さい。あなたが私の田圃に、歌を歌いながら水を入れているのを見て、驚きました。あなたはどうしてそんなことが出来るのですか。」そこでAさんは事の次第を話しました。「正直言って私はあなたに腹を立てていました。聖書を読んだ時に、神があなたの田圃に水を入れなさいと言われたのです。そこでそれを実行した時に喜びが湧いてきたのです。あなたへの怒りが消え、祈りと賛美が生まれたのです。」やがてBさんはAさんに導かれて教会に行くようになりました。Aさんが肉の自分を捨ててキリストに従った時に、神はBさんにも働かれたのです。

パウロがイエスの言われることに従った時に、コリントの教会の信徒の内に神の命が働いたのです。イエス・キリストを主と信じる時に、あなたも神の住まいとなるのです。聖書はイエスの言葉です。その言葉に従って生きる時、古いものは過ぎ去って、神はあなたを日々新しくしてくださるのです。

 

2009.06.21 恵みによって新しくされる

 

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(競灰螢鵐硲魁В )

 

コリント教会には、パウロがイエス・キリストの使徒であることに疑問を持ち、攻撃する人たちがいました。それはこの地方に偽の教師達が巡回し、そのように言いふらしていたからです。それに対してパウロは自己弁明していません。なぜならコリント教会はパウロの伝道によって生まれた教会であり、パウロがキリストの使徒であるという推薦状は神の言葉を信じているコリントの信徒一人一人だと信じていたからです。

コリント教会はパウロの伝道によって生れた教会でしたが、この世の影響が入り道徳的に悪い影響を受けていました。またユダヤ人の律法主義者等も入って、教会内に分裂が起こり、様々な問題を持った教会となっていました。パウロは教会が誤った教え、古い習慣から回復されていくことを願ってこの手紙を書いているのです。

 クリスチャンもこの社会の中で生きていますから、世の中の悪い影響を受けることがあります。教会の中に罪の習慣や悪い教えが入り込んでくることがあるのです。またキリストではなく、律法主義が頭をもたげることもあります。そこでパウロは最初にのべ伝えた福音をあらためて思い起こさせようと語っているのです。出エジプトの時代を思い起こしてください。神はモーセにシナイ山に上るように命じました。そして神は石の板に律法、すなわち神の義の基準として十戒を与えられました。これを守るように命じました。これは神の義の基準ですがイスラエルの民はこれを守ることが出来ませんでした。また、誰もこれを完全に守ることは出来ません。これを完全に守り人の罪を取り除かれたのがイエス・キリストです。イエス・キリストを信じる人の内には聖霊が働いて助けて下さるのです。そこでキリスト者は、「キリストが私たちを用いてお書きになった手紙」とされるのです。

先日の毎日新聞に、元日銀副総裁:藤原作弥氏が、元日銀総裁速水優さんについて記事を書いていました。ここにキリスト者としての証しを見ます。

 速水優氏はバブル崩壊後のデフレ不況の中で、不良債権問題、機能不全に陥った金融システムの再構築に取り組んだのですが、それは日本の経済にとってこれまで経験した事の無かった大変な課題でした。藤原氏はキリスト者としての速水氏について、

72歳で総裁に就任した速水氏にとっては、ストレスにさいなまれた過酷な5年間であり、はたで見ていても痛々しかった。その速水氏を常に支えたのがクリスチャンとしての信仰。……橋本龍太郎首相から就任要請があった時、東京・阿佐ヶ谷教会の大宮溥牧師に相談し、神に祈った。速水氏は、日銀総裁職こそ、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にある「コーリング(神のおぼしめし)」と考え、受諾の返事をしたのだった。総裁室の隣室を祈りの間とし、壁に掲げた「恐れるなわたしはあなたと共にいる」という聖書の言葉を反すうしながら仕事をしたキリスト者だった。≫と述べています。

 

 

2009.06.07 最も素晴らしい贈り物

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒2:1〜4)

先週は教会の誕生日であるペンテコステでした。この日に、神はあらかじめ約束されていた聖霊をこどもから老人に至るまで注いでくださったのです。

神は私たちに素晴らしい贈り物を与えてくださいました。神が与えてくださったものを考えてみましょう。

  先日、国際宇宙ステーションから青く輝いている美しい地球の画像を送られてきました。私たちは神が創造されたこの素晴らしい地球環境の中で生かされています。この世界は神が創造され私たちに与えてくださったものです。

  次に、神は両親を通して命を与えて下さいました。この地上に生を受けて生まれてきたのです。今日まで生かされている事を神の恵みとして感謝いたしましょう。そして神に与えられた命を互いに大切に致しましょう。

  私たちの体は実に精巧に造られています。病気や怪我によって傷ついても、体の中に治癒機能が備わっています。今はロボット技術が格段に進歩していますが、人間と同じ機能を持ったロボットを作ることは人間には出来ません。日々健康に過すことが出来ることは何という恵みでしょうか。体の弱さを覚える人もあると思いますが、その弱さの中にも神は恵みを与え続けてくださる方です。それゆえに、弱さも受け入れていきましょう。

  最後に、神から聖書が与えられていることを感謝いたしましょう。この中には、最もすばらしい贈り物、イエス・キリストによる救いが書きつづられているのです。

  約2000年前にキリストが十字架上で死なれた時、弟子たちはすっかり力を失い、生きていく気力さえ失っていました。しかし、三日後にキリストは復活し、弟子たちの前にご自分を現されたのです。そして素晴らしいプレゼントを贈ることを約束されました。それは命の水とも言われている聖霊です。この聖霊を一人一人に与えると約束されたのです。実際ペンテコステに聖霊が弟子たちの心の中に送られ住まわれるという出来事が起こったのです。この出来事に人々は驚きました。そこでペトロはこれは神が約束を果たして下さった特別な恵であると証言したのです。その日には三千人ほどがイエス・キリストを信じ聖霊を受けました。聖霊を受けていることは、私たちが神の子であることの保障です。このように最も素晴らしい賜物を与えてくださった神に感謝をささげ、聖霊とその賜物を豊かにいただきましょう。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

(汽謄汽蹈縫5:16〜18)

 

 

2009.04.26 復活の主に出会う

 

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 

                                     ヨハネ 2112

 

十字架上のイエスの死によって、弟子たちの心はすっかり沈み込んでいました。絶望の淵にありました。自分の生涯をかけてイエスに従っていこうと決心していたにもかかわらず、人生設計がすっかり狂ってしまったのです。主イエスの言葉はすべて、彼らの心から失われてしまったかのようでした。イースターの朝にマグダラのマリアが復活の主に出会ったと報告しても、弟子たちはその事実を信じることが出来ませんでした。

ペトロ、ヨハネをはじめ七人の弟子達は郷里のガリラヤ湖に帰って漁に出かけました。主が裁判を受けている間に三度もイエスを知らないと否んだペトロ、皆同じように逃げ去った仲間でした。挫折感を味わっていたのです。その夜は全くの不漁でした。がっかりして帰って来たそんな弟子たちを、復活のイエスが待っておられ、彼らに再びイエスとの交わりが始まったのです。

イエス・キリストを信じる人は、洗礼を受けます。次第に復活のイエスが共におられることを経験し始めます。目で見えなくても恵みによって共におられる方を経験するのです。しかし、信仰を得たにもかかわらず時には挫折を経験します。そのような時は、私たちも弟子たちと同じように、もう一度復活の主に出会うことが必要なのです。自分のありのままの姿を素直に主イエスに告白いたしましょう。

I姉妹は長い間教会から離れていました。しかし、彼女のために祈っていたO姉妹は交流を続けていました。そしてある日、教会に誘ったのです。その日のみ言葉の一つがI姉妹の心に入ってきました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ 11:28)自分に語られている神様からの言葉であることがわかりました。その日からイエスとの交わりが回復したのです。I姉妹は教会でも奉仕に励み、教会から離れていたH姉妹のために祈りました。やがてこの姉妹も主のもとに帰ることができたのです。

あなたの心にあることを主に打ち明けましょう。今も、イエス・キリストを主と信じる人は復活の主に出会う事が出来るのです。恵みによって私たちは、私たちの祈りと御言葉を聞く生活の中で、復活された主に出会うのです。試練の中にある時もイエスに近づいて祈りましょう。苦しんでいること、悩んでいることをそのまま告白すればいいのです。 

 

2009.04.12【復活祭】 罪の赦しと永遠の命

 

死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 

              コリント15章21〜22節

 

キリストは十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。罪の結果として、神から見捨てられる苦しみ、死の苦しみをこのような叫びの中で表されたのです。死は不気味な出来事です。誰もが死に対して、恐れと不安があるのではないでしょうか。旧約聖書は人間の死について、4つのことを示しています。

1. 人生には限りがあり、死はすべての人に臨むもの

 であること。

2.死はこの世の共同体からの断絶であること。

3.死は罪の結果襲ってきたものであること。

4.死は神との断絶であること。

 

 イースターの出来事は、キリストによって、私たちを罪と死から解放する出来事でした。イエスが十字架にかけられた時、多くの弟子たちは絶望し逃げ去りました。イエスの母マリア、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが十字架の近くにたたずんでいました。彼女たちは悲しみの中で日曜日の朝を迎えました。そして、イエスの納められた墓へやってきたのです。しかし、墓は空で遺体はどこにも見当たりませんでした。女たちの知らせによって墓に駆けつけた二人の弟子たちも空の墓を確かめました。

 泣きながら墓に戻ってきたマグダラのマリアは復活のイエスに最初に出会います。死の悲しみに打ちのめされていた弟子たちは、イースターの朝に希望と喜びの光へと移されたのです。

私たちは人生において、たくさんの悲しみと苦しみを経験します。誰もが家族の死の悲しみを経験したことがあるでしょう。そしてやがて、私たち自身も死を迎えなければなりません。しかしこの死に対して、イエスは勝利されたのです。

死は罪の結果であると書かれています。キリストは十字架にかかって命を捨てら

れたことによって、私たちの罪を取り除いて下さいました。そして三日目に復活し、私たちに新しい命と復活を約束して下さいました。

今年のイースターにはひとりの兄弟が洗礼を受けられました。人はキリスト・イエスを信じ告白し、洗礼によって救い主と一つにされます。キリストの死と復活の恵みを受けるのです。罪の赦しと永遠の命が与えられていることを感謝いたしましょう。

 

2009.04.05 十字架上の七つの言葉

 

第一言 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

人間が自分の罪深さに気付かず重大な過ちを犯している様子を見られたイエスが、大祭司として彼らのために取り成しておられます。私たちも気付かずに大きな罪を犯しているものです。しかし神はキリストにおいてその罪を既に裁いておられます。

第二言 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に

        楽園にいる」(ルカ23:43)

自分の罪を告白した十字架上の強盗はイエスに恵みを求めました。イエスを信じる人は、過去にどんな罪を犯していても、人生において何の功績がなくても、「あなたはわたしと一緒に天の楽園にいる」と約束されているのです。いつの日か私たちも人生の終末を迎えることでしょう。その時、同じように主に向かって叫ぶ以外にありません。「主よ、どうぞわたしを覚えてください」と。

第三言 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。……(ヨハネ19:26〜27)

誰でも家族を失う時がきます。それがどれほどの痛みであり苦しみであるかわかりません。まして愛する者を十字架刑によって失うことは母マリアにとってどんなに深い苦しみであったことでしょうか。イエスはマリアを孤独にはされませんでした。マリアとヨハネを神の家族として結び付けられたのです。キリストを信じる者を、神は兄弟姉妹、家族として一つに結び付けてくださるのです。私たち肉親の交わりがどんなに強固でも限界があります。しかし、神の家族はキリストの故に永遠に一つとされているのです。

第四言 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのです          か」(マタイ27:46)

人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっています。私たちはこの恐るべき裁きを受けなければならないとしたら、どうして自分一人で神の前に立つことができるでしょうか。イエスのこの叫びは、私たちの罪の裁きに対する悲痛な叫びなのです。イエスは私たちの罪をその身に負い、代わって神の裁きを受けて下さいました。私たちはイエスのこの叫びのゆえに、永遠の裁きを逃れるのです。

第五言 …すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」

         と言われた。(ヨハネ19:28)

私たちは霊的な渇きを覚える時に、イエスのゆえに、命の水を一杯飲むことができます。死に対する不安の中にいた姉妹は、主の祈りをし、主に信頼していく中で、キリストによる救いの希望をもつことができました。信仰は恐れと不安から私たちを解放してくれます。

第六言 イエスは…「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引        き取られた。(ヨハネ19:30)

イエスが十字架上で受けられた懲らしめによって、私たち罪人に神との和解の道が備えられたのです。イエスは十字架上において、神の大祭司としてのすべての贖いの業を完成され、今も私たちのために、父なる神にとりなしてくださっているのです。

第七言 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

イエスはすべてを父の御手にゆだねられました。私たちは本当に無力なものです。最後に父なる神にすべてをゆだねるほかありません。誰もが通らなければならない道です。主に自分の霊をゆだねることができる人こそが幸いです。すべてのことを働かせて益としてくださる神がいつも私たちの傍にいてくださるのですから。

 

御言葉による新しい創造

 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。             競灰螢鵐5:17〜19

 

歴史は神の創造の業によって始められました。「初めに、神は天地を創造された」。(創世記1:1)神が造られた世界はすべてが美しく、調和がとれており、それは極めてよかったのです。私たちは山や海、湖など自然の美しさに感動させられます。しかし、開発と共に、水、・空気が汚染され、自然が破壊されていくのを見ると心が痛みます。人類は新しいものを作り、自然の開発をするという素晴らしい能力を持っていますが、それは一歩間違えれば破壊をもたらすことがあるのです。人類は科学技術を発展させ、驚くべき成果を上げてきました。しかし、神を置き去りにして開発を進め、欲望に支配されることによって、世界に破壊と混乱をもたらしてきた側面を持っています。今も、神は言葉によって世界を支配しておられます。しかし、神とその言葉に逆らう者には死と滅びが終末に待っているのです。

イスラエルが神に背を向けた時に、バビロン捕囚という厳しい結果を招きました。そこで民は神を呼び求めました。それから70年後にエルサレムへの帰還が神の導きによってなされたのです。今、世界は金融危機による不況の波に襲われています。このような世界の状況の中で、悔い改めが起こり、神の御心への復帰、回復がなされ、世界の混乱が回復されることを求めましょう。

神との関係が断絶され、死と滅びに向かっていた私たちのためにイエス・キリストはこの世に来られました。そして十字架の血によって私たちと神とを和解させて下ったのです。イエス・キリストを信じる人は誰でも罪の赦しを受け、新しい命が与えられるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

明治9年(1876年)、当時の日本政府がキリスト教禁教を解いた三年後のこと、北海道開拓使長官、黒田清隆は札幌農学校(北海道大学の前身)を設立し、国家に有用な人材を育てようとしました。そのためにアメリカから招いたのがウイリアム・スミス・クラーク博士でした。当時はまだキリスト教信仰に対して偏見のある時代でしたが、クラークがまず第一にしたことは、学内で聖書を教えることでした。黒田清隆は「そんなことをしてもらっては困る」とこれをやめさせようとしましたが、クラークは「私の知る限り、聖書に基づいて神を敬い、正義を行う人物をつくる以外に、真に人格があり、理想がある国家に役立つ人材を養成することはできない。」と言って断固として所信を貫きました。

クラークが札幌に滞在したのはわずか8カ月でしたが、その感化は多くの青年に及び、一期生から北海道大学の初代総長、佐藤昌介、一期生の影響を受けた二期生から、新渡戸稲造、内村鑑三など、日本の発展に大きな影響を与えた指導者が排出されたのです。クラークは人を恐れず神を畏れ、聖書に基づいた教育を行い、神を敬い、正義を行う有用な人材を育てることとなったのです。クラークは有名な言葉を残して日本を去りました。“Boys be ambitious.”(少年よ、大志を抱け)

神の言葉を聞いて、これを信じる時に新しい創造が始まるのです。新しい年を迎えて、心を新たに神の言葉を待ち望みましょう。そして神の言葉を心に蓄えて力を受けましょう。

 

新しい第一歩 

 わたしは自分の道を思い返し立ち         

 帰ってあなたの定めに足を向けます。  詩編 119:59

 

聖書の中で、イスラエルの民がバビロンに捕囚となっていた頃に、ネヘミヤという人物が登場してきます。彼はペルシヤ王アルタシャスタ1世(BC465424)のもとで重んじられ献酌官となっていました。

 ある日彼はエルサレムの荒廃した様子と民の悲惨な状態について知らされた時、「これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。」と聖書に書かれているように、本当に大きな衝撃を受けました。神への不従順がこの荒廃をまねいたと知ったからです。ネヘミヤは涙を流して、自分自身と同胞であるイスラエルの民の過ちを告白しました。そうせざるを得ないほどの痛みを心に感じたからです。

人は誰でも過ちを犯します。しかし大切なことは、それがどんなことであっても、正直にあやまちを認め告白することです。そこから新しい第一歩が始まるのです。あなたには、改めるべきことはありませんか。

 わたし達は困難に直面して、初めて真剣に祈り始めます。弱さ、苦難は私たちの祈りの原点となります。あなたはこれまでネヘミヤのように、切実に神に祈り、その答えを受けたことがありますか。わたし達は祈る時、厳しいことですが、今経験している現実をしっかりと見つめなければなりません。その厳しい現実の中で、神の導きと約束の言葉を聞くのです。

 

祈り:私は自分の犯してきた過ちを認めます。どうか私の過ちをお赦しください。 私を正しい道へ導いて下さい。