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■瞽女とは

瞽女資料館

 

 

―瞽女とは― 

 

 

七十一番職人歌合 女盲

江戸時代から昭和の初めごろまで、三味線を手に有縁の村々を流し歩く目の不自由な女性たちの姿が全国のいたるところで見られました。瞽女と呼ばれる、芸を支えに生きた人々です。現代のように福祉制度がままならず、医療も未発達であった時代、眼病を患った女性たちが自活する道は極めて限られていました。そんな彼女たちの多くが三味線と唄を習い覚え、米などの農産物と引き換えに身を削るような芸を披露していったのです。娯楽に乏しい時世にあって、瞽女の底抜けに明るく、ときに哀切の極みをゆく弾きうたいは、彼女たちを迎え入れる側である庶民にとっても一服の清涼剤でした。

 

瞽女の存在は、古くは室町時代末期の「七十一番職人歌合」という文献に「女盲」として登場しています。ここでは鼓を打ち鳴らしながら「曽我物語」を語る様子が取り上げられていますが、三味線の普及とともに江戸時代には街道を往来しながら門付けする芸態が一般のものとなり、こうした瞽女の旅姿は歌川広重の浮世絵などにも描かれています。また、鼓や三味線だけでなく、箏や胡弓などの楽器を奏する瞽女もなかには見られました。地方によっては武士や町人に音曲を教授して生計を立てるなど、その活動はかなり広範だった様子が伺えます。

二川(猿ヶ馬場)保永堂版

二川宿(愛知県豊橋市)を往く、三味線を抱えた3人の瞽女。東海道五十三次の宿場を題材にした歌川広重の錦絵で、天保年間(18301843)の作と伝えられている。

 

 

―越後瞽女の暮らしと巡業―

 

 

瞽女の活動は日本各地にその足跡を留めていますが、なかでも一大拠点としての規模を誇ったのが現在の新潟県でした。冬の長い期間を大雪に閉ざされ、幼時に麻疹などの病気をこじらせて弱視や失明にいたるケースが多くみられたことも理由のひとつでしょう。

 

越後の瞽女組織を大まかに分けると、上越地方の「高田」と中越地方の「長岡」の系統があったことはよく知られています。両者は弟子の取り方や修業年限などの点で細かい違いはあるものの、1年のほとんどを過酷ともいえる巡業の旅に費やした点で同じ境遇を分かち合っていました。また瞽女の社会では、師弟序列から服装の身だしなみ、食事等にいたるまで、厳格なしきたりのもとで生活を送るのが常でした。特に男性との交流においては厳しい制限が課せられたようで、違背するとさまざまな罰則が待ち受けていたと言われています。かくも封建的な性格を映し出していた瞽女仲間の組織と規律は、障碍(しょうがい)を抱える女性たちが地歩を踏みしめて結束し、生きていくのに必要な利益を守るための、最も合理的な手段だったのかもしれません。

新潟の豪雪風景

戦前の郵便はがき「雪中ノ小千谷町屋上雪おろし」。新潟県をはじめとする北陸地方では、300センチを超える積雪を記録することもしばしばだった。

 

越後瞽女の旅はあらかじめ決められた日程と順路に従い、計画的かつ周到に行われました。巡業の規模は数人から十数人までと、時代により地方により異なっていたようです。通常は師弟によって結ばれた組ごとにいくつかのグループが集まり、晴眼者(=視力のある者)の手引きを先頭として他の瞽女たちが縦に連なるような形で歩きました。巡業の範囲は極めて広く、富山、長野、群馬、福島、山形の隣県はもとより、遠く宮城や秋田まで赴いたというから驚きです。もちろんすべての越後瞽女がそうだったわけではありませんが、彼女たちの唄と三味線が各地の芸能に与えた影響力は決して小さいものではなかったでしょう。

 

門付け

こうした門付けの長旅をこなすためには、泊まりつけの定宿の存在が欠かせませんでした。毎年のように同じ土地を巡歴する瞽女たちの行く先々には、その唄を待ちわびる多くの村人がいます。なかでも地主などの比較的裕福な者が、彼女たちが寄留するために必要な家を提供しました。これを「瞽女宿」と呼びます。瞽女たちは宿に到着すると、荷物を置いて近在の家々を門付けして回り、夜になると宿に集まってきた村人たちを相手に段物や口説を心ゆくまで披露しました。祝儀には現金のほか、米や果物などの農産物、土地によっては真綿や和紙をもらうこともあったようです。

 

「妙音講」についても簡単に触れておかなければなりません。瞽女は他の芸能者と同じく弁財天を守り本尊として厚く信仰していました。自身が所属する瞽女仲間の由来書を朗読し、弁財天を供養する場として設けられた妙音講は、年1回春頃の決まった日時に行われます。たとえば上越を拠点とする高田瞽女は、寺町にある曹洞宗天林寺で毎年513日に催すのが慣わしでした。彼女たちはこの日に合わせて巡業の日程を調整し、必ず全員が集まって段物などの唄を奉納し、酒を酌み交わしたといいます。瞽女を歓待する庶民の多くが眼の見えない瞽女に対して一種の神性を感じていたように、瞽女たちもまた、弁天様への信仰を暮らしの糧に生きてきました。ときに繊細で、身につまされるような感情の機微をえがく瞽女の物語唄がこれほどまでに人心を揺さぶるのは、両者のあいだに神仏の教えが息づいていたことの証に他ならないでしょう。

 

長きにわたる歴史のなかで独自の暮らしと巡業の形を守り続けてきた越後瞽女でしたが、大正から昭和にかけてその生活ぶりは大きく変質せざるを得ませんでした。村には活動写真などの新たな娯楽が誕生し、JOAKが開局すると家々のラジオからは最新の流行歌が流れてくるようになりました。あれほど喜ばれた瞽女の唄も、もはや色褪せていくのに時間はかかりませんでした。明治20年代には400人以上を擁した長岡瞽女でさえ、第二次世界大戦による壊滅的な被害から、多くが転廃業を余儀なくされたと言われています。また高田瞽女にいたっても、およそ100人を数えた明治30年代の隆盛は見る影もなく、戦後は杉本キクエと杉本シズ、手引きの難波コトミの3人を残すのみとなってしまいました。

高田瞽女の旅姿

 

衰退の原因をいくつか挙げることはできますが、あまりにも大きな時代の波が瞽女たちの培ってきた伝統のすべてを地盤ごと飲み込んでしまったという印象を禁じ得ません。ただでさえ困難を伴ってきた旅回りも、戦後の農地改革という地殻変動がさらなる追い打ちをかけます。土地と財産を失ったかつての地主たちに、もはや瞽女宿を提供する余力はありませんでした。そして戦後民主主義時代の到来は、社会的弱者たる彼女たちが危険な環境に身を置かねばならなかった時代からの脱却をも意味していました。

 

昭和39年、長岡瞽女最後の大親方を務めた中静マスが死去。同年、高田瞽女の杉本キクエら3人が最後の旅回りを終え、苦難の歴史に刻まれた越後瞽女の伝統は静かに幕を下ろそうとしていました。

 

 

―瞽女の「その後」と「いま」―

 

 

終戦後の混乱をくぐり抜け、人々がようやく生活に落ち着きを取り戻しはじめたころ、主に民俗学のフィールドから瞽女の文化を見直す気運が高まってきました。滅びゆくその姿を記録に留めようと、昭和20年代には地元篤志家による高田瞽女唄のレコーディングも行われています。しかし時すでに遅く、古式さながらの門付けで生計を立てる者はほとんどいませんでした。多くが瞽女の稼業に見切りをつけ、按摩業をはじめとする他の仕事に転向していきました。唄うこと以外に生きる術なく途方に暮れる者、結婚して家庭に入る者もいたことでしょう。あれほど多く活躍した“元瞽女”たちの消息など、今では知る由もありません。

 

斎藤真一の個展パンフレット

昭和49年に東京・文京区の羽黒洞主催で開催された斎藤真一の絵画展パンフレット。津軽のじょんがら節をモチーフにしたものや高田瞽女の旅姿を描いた作品などが展示された。瀬戸内寂聴、松永伍一、水上勉ら12人の著名人がコメントを寄せている。

画家であり、津軽三味線に対する興味から瞽女へのあこがれを深めた斎藤真一が新潟の町を訪れたのは、昭和39年の冬。奇しくも高田に残る3人の瞽女たちが長い旅の歴史に終止符を打ったのと、ほぼ同じ時期のことでした。斎藤はその後も足繁く新潟の村々に瞽女の面影をたずね、雁木の連なる高田の町でひっそりと暮らす杉本キクエらと親交を温め合ってきました。昭和40年代に入ると各地の民俗芸能に対する見直しが図られてか、これまでほとんど語られることのなかった瞽女の存在がにわかにクローズアップされはじめます。杉本キクエ・杉本シズ・難波コトミの高田瞽女は、しばしば国立劇場のような大きなホールに招かれ、盛時と変わらぬ瞽女唄の真髄を聞かせました。そして昭和47年、折から高田瞽女を題材に抒情的なタッチの絵を発表してきた斎藤が、自らのペンで新潟の風土と瞽女の暮らしを綴ったエッセイ「瞽女−盲目の旅芸人」を出版。同書がたちまちベストセラーとなるにおよび、その峻厳な旅の人生が驚きをもって世間の知られるところとなりました。

 

俳優の小沢昭一による労作「日本の放浪芸」、あるいは津軽三味線や沖縄民謡が大いに注目を集めたのと同じく、この時期になると瞽女のレコードや書籍も続々と発売されています。先に挙げた高田瞽女の杉本キクエらを筆頭に、新潟県刈羽地方を拠点に明治時代から活躍していた伊平タケ、板三味線のゴッタンで力強い弾き語りを聞かせた鹿児島の荒武タミといった瞽女たちが、さまざまなメディアを通じて表舞台に引き上げられました。さらに昭和52年、水上勉の原作「はなれ瞽女おりん」が篠田正浩監督によって映画化されると、瞽女への関心と知名度はいよいよ決定的なものとなります。このころには最新のサブカルチャーを取り上げる若者向けの雑誌でさえ、瞽女の大特集を組んだほどでした。また研究方面でも、新潟県を中心とする北信越、東京、山梨、静岡など各地を拠点としていた瞽女の実態調査が史資料をもとに進められ、断片的ながらその成果がまとめられています。

小林ハル(右)、杉本シズ(中央)

19963月・新潟県『胎内やすらぎの家』にて

 

平成174月、新潟の長岡から諸国を巡歴した“最後の瞽女”、小林ハルが105年にわたる波乱の生涯を終えました。長く厳しい旅回りを経験した本当の瞽女は、おそらくハルを最後としてこの世にはいないでしょう。しかし、今はなき瞽女たちの忘れ形見を未来へと歌い継ごうとする演奏家の姿も少ないながら見ることができます。数えきれないほど多くの庶民の心を突き動かしてきた瞽女の唄と三味線が、これからもいきいきと歌い継がれ、聞き継がれていくことを願って止みません。

 

 

文章協力/伏見奏(邦楽ジャーナル) 写真協力/市川信夫(高田瞽女研究家)