竹田の子守唄

 

『竹田の子守唄』原曲

 

『竹田の子守唄』赤い鳥

 

守もいやがる盆から先にゃ

雪もちらつくし 子も泣くし

 

この子よう泣く 守をばいじる

守も一日 痩せるやら

 

来いよ来いよと 小間物売りに

来たら見もするし 買いもする

 

久世の大根飯 吉祥の菜飯

またも竹田の もんば飯

 

早よも行きたや あの在所越えて

向こうに見えるは 親の家

向こうに見えるは 親の家

 

 

守もいやがる盆から先にゃ

雪もちらつくし 子も泣くし

 

盆が来たとて なにうれしかろ

かたびらはなし 帯はなし

 

この子よう泣く 守をばいじる

守も一日 痩せるやら

 

早よも行きたや この在所越えて

向こうに見えるは 親の家

 

 

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毎日新聞夕刊すとーりー:H18.8.21

デビュー以前から、「竹田の子守唄」を大切に歌ってきたフォークグループ「赤い鳥」が、あるコンサートに一人の女性を招いた。京都市伏見区で唄を伝承してきた人だ。時はフォークソング全盛、1972年1月、底冷えの京都でのことだった。

 

「楽屋でこの曲への思いを伝えましたが、彼女は『歌ってくれるな』って。かなくなでした。部落問題の根深さを知りましたね」。「赤い鳥」のリーダーで、今は「紙ふうせん」で活躍する後藤悦治郎は、その時の記憶を語る。

 

子守唄は、19世紀後半、京都市伏見区の被差別部落でかたちづくられたとされる。歌い継いだのは、年端も行かぬうちから子守をさせられた少女たちだ。哀愁に満ちた旋律には、貧困と差別のなか、遊ぶこともかなわない少女らの怒りや恨みが込められている。

 

60年代に入ると、唄は音楽家の注目を集める。その一人が後藤だった。メジャーデビュー後の71年、「赤い鳥」の3曲目としてリリース。B面は、後に代表曲となる「翼をください」だった。思い入れのある曲だけに後藤は、著作権協会へ作者を届けたい、という強いこだわりがあった。

 

「民謡だからといって『作者不詳』はおかしいし、もっと唄のことを正しく理解したかったんです」。調べて見つけたのが、女性の歌を録音したテープだった。楽屋に招き、思いを伝えた。

 

だが、女性は「竹田のもんばめし」など、ムラの貧しさを象徴する歌詞を気にして後藤らの提案を拒んだ。「もんばめし」は、おからのこと。雑穀に混ぜて量を増やす。かつてのそんな暮らしぶりが唄に乗せて知られてしまう。女性は「ムラの恥をさらした」と悩んでいたという。

 

歌うか否か、迷いながらも歌うと決めた。後藤は女性の息子たちに「自分なりに部落の問題を勉強し、歌い続けていきたい」と伝えた。だが、唄はその後、表舞台から姿を消す。作家、森達也の「放送禁止歌」によると、歌詞の「在所」が京都では時として部落を指すことが「理由」だった。

 

七瀬川と高瀬川の合流地域である地に作られた集落が竹田部落の発祥と伝えられている。二つの川の合流地域であるため、竹田はたびたび水害におそわれ、少し雨が続けば、住居の床下まで水に浸かり、当然ながら農業は発達せず、「竹田の子守唄」が唄われていた昭和初期、男たちの主な職業は下駄直しや土工などの職工や不定期な日雇いで、女たちのほとんどは、わらじ作り鹿の子絞りなどの労働に従事し、少女たちは家計を助けるため、10歳前後になると守り子として遠く離れた家に奉公にだされた。

 

遊びたい盛りだというのに友達と遊ぶこともかなわず、もちろん学校に通うようなことなどもなく、奉公先の子どもを一日中背負い続けながら、洗濯や掃除などの労働をこなさなければならなかった。

 

親が子どもを寝かしつけるために唄うのは「子守唄」で、「竹田の子守唄」や「五木の子守唄」などは、労働唄「守り子唄」といわれている。つらい日々を送る少女たちの自らの境遇への悲憤と恨みや心情が原曲には込められている。

 

       

 

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