散文

 

 

 

 

 

 

ご連絡は(メール)・ ページtopへ

 「武士に二言はない」が私には何言もある

 

 

 

 

私の書斎は”廊下の片隅

 

  さして広くも無い我家に、増築をくわえて一部屋増やし、私の病気が全快したら、そこを根城にやっていた設計事務所を再興する筈、だった。しかし、私の病気は回復しなかった。それどころか、もっと重くなって人工透析も受ける羽目になリ、それまでの半身不随、麻痺に加わって車椅子になり、設計事務所どころでは無くなった。半身不随が十五年、人工透析が三年、暗い性格の上に落ち込んだ生活が続き、それは人間の役目を何にもしていないに等しい。

 

 そんな私が"O型"である事を思い出し、子供のオダテに乗りパソコンをいじり始めたのが運の憑き、世間が、世界が広がった。昔アマチュア無線をやって日本国中交信していた事を思い出した。今は免許も無しにパソコン一つの小さな世界で世界中と話ができる。

 

 それから私の居場所、書斎は増築した部屋ではなくて、廊下の隅っこになった。

 

 日が差し込んで明るいし、テレビも居間も、台所もすぐ近くだし、毎日の生活のトイレも近く(ウチの狭さも分かるもの)障子を取り外すと夏のクーラーの守備範囲にもなる。幸い寝たきりにはならず、ソ〜ロリソロリ、物に掴まりながらならトイレにも行ける。

 

 ただ、椅子に座ったきりの、ほとんど動けない毎日は続いている。だから、パソコンは私の生活必需品になってしまった。前にパソコン、後ろにプリンター、廊下の片隅は私の居心地のよい書斎である。

 

 もちろん、家族には見守られて、感謝の毎日である。

 

 

 

 

 

電気料の集金

 

 幸ちゃん へっつい屋 竹ちゃん 英雄さん 敬之介さん 力やん 直やん作ちゃん 粂蔵さん 順番に伝票を並べて、あれは中学に上がったばっかりの頃だったかなぁ。少しでも家計の足しになれば…と始めた電気料の集金のアルバイト、あの時の東電の人は広木さんといったっけ、親切に教えてくれた。 こちらも真面目に聞いた。アルバイトでもカネがかかわっていたから…。貧乏だったので金が大事なものである事は分かっていた。集金が出来たんだから不良ではなかった。

 

 毎月一回、学校から帰ってきてから家々を回った。でもその当時みんな百姓で、昼間の明るいうちは田んぼや畑に出ていて、あいているのに留守の家が多く、節約のため電灯も点いていない薄暗い土間で、大きな声を張り上げるしかなかった。一度では用が済まず、毎月一回の筈が何回も足を運び、色々言われてやっと用が足りるような事が一年くらい続いたと思う。

  

 どこの家も貧乏だったから電気料は払わなければいけないのは解っていても、お金を掻き集めるのが大変だったみたいで良く待たされた。夕方、暗くなってからでないと畑や田んぼから上がってこない家も多く、その度に決して近くは無いその家に、夜訪ねる事も多かった。それでも余り辛い気はしなかった。

 学校の勉強は余りしなかったし、不思議に勉強しなくても成績はそこそこついて行けた。それに頭の単純さは今でも変わりは無いけどアルバイトしているのを褒めてくれる人がいて、それが嬉しかった。悲壮感は無かった。

 

  今、そこそこの小さな中学生に集金なんてアルバイトをさせる親がいたら、それこそ非難されるだろうが、当時は褒める人はいても後指を指す人はいなかった。いや、見えなかったのかも知れないが…。

 それよりいまと比べてみると、戸締りしなくても物騒では無かったなぁ。

 

  当時でも、と言うか当時は電気料に「定額制」と「従量制」とがあって比較的裕福な家は従量制だった。農家でも大きな農家は従量制が多かった。そんな家にはきまって勉強の出来の悪いお嬢さんがいて、私は何となくさげすまれる様な気がして、恥ずかしかった思い出がある。

 

  そんな経験をしている内にこんな事もあった。

 それはやはり学校から帰ってきて集金に出かけたがひどい夕立にあい、途中の家で雨宿りさせて貰い、雨が上がってきたので次の家へ大急ぎで向かった時、その家へ雷が落ちた。急に「バリバリバリ」と大きな音が響き周りが明るくなった気がした。

  雨宿りしていたのは土地の名家「檜山」、雷が落ちたのはその檜山の離れ、「山下おせん」ちゃんが一人で住んでいた家。幸い雷が落ちた時おせんちゃんは大家の檜山の畑へ手伝いに行っていて留守だった。この離れの上の電柱には「釜」がある。トランスだ。雷はこの「釜」に落ち大きな音を出して勢い余り、それは転がり大家の人達を離れへ走らせた。

私はそれを見て震え上がった。

  四寸角の柱が粉々になり細い竹串が何十本と出来、畳へ突き刺さっているのは紛れも無い細い竹串状の柱の木材だ。

 私は集金が少し遅れて雷の直撃を逃れた。それまでは少し位の雷では驚かず外に濡れても平気だったのが、それを見て以降私は雷を怖がるようになってしまった。これは今も同じである。家の中にいて外へは出ない。

 

  雷が怖くなったのは付録として、このアルバイトでは人の都合と物事が一筋縄では行かない事を学んだ。地域の人から可愛がられて褒められて、嬉しくなる事を学んだ。そして何より尽力すれば報酬を得られる事を学んだ。そして少しでも、役に立つことを学んだ。

 ついでだから「おせんちゃん」(下のおばちゃんといっていた)が出たのでいうが、独身のおばちゃんはその頃先鋭的だった。そのおばちゃんが「檜山」の長女みッちゃんの嫁入りご祝儀で、先鋭的なお料理「ウドの海苔巻き」、「茗荷の海苔巻き」を作り私達はそれをご馳走になった。はいいけれど、それがあまりというより全く口に合わなかったのだ。

 それから私はウドと茗荷が嫌いになった思い出がある。ウドは中身が空っぽでミョウガは忘れっぽくなる。余計な、古い事だけど…。

 

 そんなこんなで、電気料の集金で私は地域の部落のみんなに知らずのうちに知られる事になった。なまじ名前が悟郎、ごっちゃんなんて犬のような名前なので、すぐみんなに覚えられ、それに悲壮感が一つも無いものだから人気者になった。

 

 始めの頃は冒頭の○○ちゃんは家の父に教えて貰い伝票を並べていたのだが、段々部落内の事は私の方が詳しくなっていったっけ。そうすると面白くもなってきたのだが、何でか十ヵ月か一年位でそのアルバイトはやめてしまった。

 だが、あの当時暗い土間の片隅から金をかき集めて電気料を払っていた人達の事が瞼に焼き付いている。何かとる所があったに違いない…。